ぼくは何を間違ったんだろうか。
香菜とふたりで決めた部屋は、子どものいないぼくらが暮らすには十分だった。前の住人が残していった豪奢な家具を香菜が気に入って、ぼくらは春から新生活をスタートさせた。
はじめはだだ広く感じた部屋も、今ではひたすら窮屈に思う。
きっかけは6月の終わり。ぼくの姉を家に招いた時だった。張り切っておみやげをいっぱいに抱えて来た姉は、リビングに入るなり顔をしかめて「なんか、せまい」と言った。
ぼくはそれを気にもとめなかったが、香菜は目を丸く広げて、
「せまい」
と、姉の言葉を繰り返した。水の中にいるような、くぐもった声だった。
そのあとは別に、香菜は何もなかったように平然と料理をふるまってくれて、その会は夜が深まらないうちにお開きになった。姉を見送った後、ぼくは洗い物をしながら香菜に身内の非礼を詫びたが、彼女はいいのいいのと制す。
「だって、せまいんだもの」
香菜はクスクスと笑いながら、棚の上にあるガラス製の鉢を撫ぜていた。
そこから先のことはあまりよく覚えていない。
とにかく一時間ほどだろうか、ぼくは香菜を強く叱責した。稼ぎが少なくて悪かったなとか、そんな話をした気がする。激しさを増すぼくの言葉に、香菜は「ごめんなさい。ごめんなさい」と謝りどおしだったが、そういう態度も許せなかった。
7月20日(金)
今日から夏休み。だいちゃんと遊んだ。水でっぽう!
7月22日(日)
お祭り。けんじと金魚すくいやった。けんじのはエドで、ぼくのはラリーって名前にした。
7月28日(土)
おばちゃんにきれいなのをもらいました。金魚ばち。エドとラリーをそっちにうつす。
それからなんだか気まずくなって、夫婦の会話もめっきり減った。最近は、トイレのタイミングがかぶるだけで心底嫌な気持ちになる。
夏も盛りを迎えた頃、仕事から帰ると香菜の姿がなかった。買い物にでも出ているのかと思い、気にしないでいたが、いつまでも戻る様子がない。
無性に腹が立って、電話をかけると外から着信音が聞こえてきた。
ベランダの扉を開けると香菜がいた。
その日は真夏日で、西日はまだ容赦なく照りつけていた。香菜の肌は日に焼けて赤くただれていて、「いつからそこにいたんだ」と訊くと、一言「せまい」と言った。
7月30日(月)
エド死んじゃった。お父さんといっしょにうめてあげる。
8月1日(水)
金魚じゃない。
香菜は日に日にやつれていった。痩せていった。赤く荒れた肌がかゆいらしく、長く伸びた爪でいつも傷になった日焼けの痕を掻いている。
仕方がなかった。ちょうど異動になったばかりで、香菜のことを気にかける暇がなかったから。
大きな目は落ち窪んで、血管が太く走っている。眠れていないみたいだった。あまり気にかけてやれず、申し訳なく思っていた気持ちも、いつしか失せていた。
いつからだろう、香菜はぼくに触れるのを極端に嫌がるようになっていた。
かばんを手渡すとき、弁当箱を受け取るとき、とにかくぼくのものを触る時には、神経質そうに手袋をはめる。香菜にはもともと潔癖のきらいがあったが、もうお終いなんだなと思った。
香菜は病院に行ったらしい。病気のことはあまり口にしたがらない。
大声を出してきくと、香菜はぼそぼそと答えた。
食欲が無いのだと。環境が変わったストレスだろうと、医者に言われたそうだ。
何も食べないくせに、薬を大量に飲む姿が不快だった。「お前のせいだ」とでも言いたげな、香菜の赤い目を見るのが嫌だった。
8月3日(金)
今日はおじいちゃんがきた。ラリーは好きじゃないみたい。
8月5日(日)
おじいちゃん帰った。帰ったのに。
8月13日(月)
いっぱいきた。
夕暮れ時。家に帰りたくなくて、商店街をぼうっと歩いていた。祭囃子が遠くに聞こえている。
神社へ向かう人混みの中にふと目をやると、赤い浴衣を着た女性の後ろ姿が見えた。
それを目で追いながらぼくは、学生時代のことを思い出していた。
友達に無理やり連れられて行ったダンスの公演。赤いドレスを着て踊る香菜に一目惚れをした。そこから友人のツテでなんとか食事に誘って、それで、それから。
不意に香菜との思い出が溢れてきて、ぼくはなぜか少し慌てて、いちごのショートケーキを買った。いつもより軽い足取りで家路を急ぐ。
しばらく歩くと、遠巻きにマンションの自室が目に入った。扉から、若いスーツ姿の男が出てくるのが見えた。
帰って、セールスでも来てたのかと香菜にきくと「誰も来ていない」と言う。そんな馬鹿なことがあるかと怒鳴って、その日は初めて香菜を殴った。
香菜は不倫をしているのだろうか。
そんな疑念と不安で頭がいっぱいになる。こんな骨と皮ばかりの女のどこがいいのか、ぼくには分からなかった。
香菜は自室にこもることが多くなった。何も食べられないからと、香菜は部屋から出て来ない。
結婚してから、どれだけ忙しくても夕食は一緒にとっていたが、それもやめた。妄想の中で膨らんだ不倫相手の姿がちらついて、時たま思い出したように香菜を責め立てる。
香菜は何も言わず、顔に手を当てて泣いた。白い、手袋をしていた。
8月23日(木)
お引っこしの日。ぼくもけんじもおっきくなったから、おっきい家にお引っこし。
8月24日(金)
せまい
盆があけたころ、たまたま午後のアポイントが空いたので急に帰ってやった。香菜が不倫相手と一緒に居やしないかと、そんな不純な思いがあった。
玄関を開けると、トイレから香菜が慌てて飛び出して来るのが見えた。足をもたつかせながら、自室へ吸い込まれるように入って行く。
暑さのせいか頭がぼうっとする。
ぼくが、ふらふらとリビングまで歩いていく。
広くはないが、ぼくたちの生活があふれている部屋。
夫婦で毎日食事を囲んだ、脚の長いアンティーク調の食卓。
机の隅には、香菜の結婚指輪が置かれていた。
頭の中で、ぷつんと糸が切れた感覚があった。
香菜を部屋から引きずり出す。
「せまい、せまい」と泣く。
殴ると、香菜は魚のように手足をばたつかせて暴れた。
「せまい、せまい」と泣く。
不意に、香菜の腹が異常に膨れているのが目に入る。
せまい、せまい。
ちょうどそのあたりから、赤くただれてぼこぼことした左手が泳ぐように、それだけ別の生き物みたいに、香菜の体を這っていった。
せまい、せまい。
手の甲には赤い瘤がいくつもあった。
ほら、あの気味の悪い金魚みたいな。あれの名前は、なんだったっけ。
そういえば。
金魚って、飼ったことないな。
せまい、せまい。
赤い手に隆起した瘤と目が合う。
せまい、せまい。
赤い金魚はそのまま、香菜の口に飲み込まれていった。
香菜は踊るように痙攣する。
せまい、せまい。
せまい、せまい ―
「つぶれる」
嗚咽に混じった低い声が聞こえて、大きく膨れた腹がひしゃげた。
押しつぶされてるみたいだった。
なんで、今日に限って、赤い服。
吐瀉物が大量に吹き出る。
パンとか、肉とかに混じって。
あれは。
魚か。
なんだ。
何も食べられないって言ってたのに。
ああ。
こいつは。
嘘つきだ。
目が覚めると消毒の匂いがして、そこが病院だと分かった。しばらくすると見知らぬ白衣の男が来て、言う。
「少し落ち着きましたか」
「ええ、多少は」
「何があったか、ご自身の言葉で説明できますか。ゆっくりでかまいませんので」
「何があったもなにも、香菜が、妻が突然吐いて、そこからたぶん、救急車を呼んだんだと思います。なんだか暑さでぼうっとしていたので、ひどく曖昧ですが」
「救急隊が駆けつけた時、あなたはとても錯乱していたそうです。何か普段と変わったことがあったのではないですか」
「いえ、特に何も。いや、指輪。机の上に指輪があって、それは香菜の指輪で、それで自分が分からなくなりました。
というか、あいつなんだって、あんなにいっぱい」
「いっぱい?」
「妻は拒食症なんです。だからなんであんなに食べて。いや、なんであんなことになったんだろうって」
「なるほど。そうですか」
白衣の男が神経質そうに、手元のカルテを指でなぞる。きれいな指だった。
「これは、たいへん申し上げづらいのですが」
「……なんでしょうか」
「奥様は過食症です」
言って、男はぼくから視線を逸らした。
「何を、言ってるんですか?過食? だったらどうして、あんなに痩せて」
これは、なんだ。
「過食行動後の、自己嘔吐です。香菜さんは動けなくなるまで物を食べて、吐いてを繰り返していました」
「あいつ、そんなこと一言も」
「あなたに心配をかけたくなかったそうですよ。食べ物を、大事にする人だからと」
言葉は出ない。
そこからの話はあまり入って来なかった。
断片的に記憶に残ったのは、香菜とぼくのこと。
吐きだこを隠すために、手袋をしていたこと。
汚したくないからと、吐くときは指輪を外していたこと。
「先生」
扉が勢いよく開いて、看護師が入ってくる。
「橘 香菜さんが亡くなりました」
8月31日(金)
お父さんに、ラリーに餌やりすぎって怒られた。金魚は、おなかいっぱいに、ならないんだって。
香菜は天国にいった。この時代に、栄養失調だそうだ。
呆けたまま迎えた葬儀の日、ぼくは棺を開けなかった。
香菜はきっと、広々とした自由な世界へ行ったんだと。そう考えるようにしよう。読経が終わるまで、ぼくはあの部屋に初めて行った時のことを思い出していた。
綺麗な壁紙。
高そうな什器。ベランダからの日差し。棚の上の金魚鉢。
あれは、いつの間にか無くなっていたあれは、何処へ消えたんだろう。
「すみません」
声に振り返ると男がいた。
いつか見た、スーツ姿の若い男だった。ぼくの妄想の中の、香菜の不倫相手がそこにいた。
男は何か言いたげだったが、もう本当のことなんてどうでもよかった。ぼくの心はただ、言葉にならない安堵と救いで満ちていた。
「よかった。もういいんです。
もしあなたまでいなかったら、もう、終わってましたから」
たぶん、何かを間違ったわけじゃないんだろう。作法が違ったとか、方角が違ったとか、そういうものじゃないんだろう。
それは初めからそこにいて、ぼくらは来てしまった。
この部屋に巣食うものは、そういう理不尽なものだったんだと思う。
夏ももう終わりという頃、喉が渇いて夜中に目が覚めた。
部屋の暗がりに目をやると香菜が立っている。
それでも、お葬式がちゃんと終わっていたおかげで香菜が本当はどこにいるのかぼくにはわかっていた。
これは夢だ。香菜はもうここにはいない。
なあ、香菜。
「そっちはどうだい?」と、ぼくがきいて、香菜が答えた。
「こっちのほうが せまい」