『星が滅ぶまで』は約束の期限として使わない方がいい - ████████████
評価: +63+x
blank.png

堪忍なあ、と最初に呟いたのはどちらからだったろう。身に余る罪悪感は一度声になってしまえば、もう止められなかった。

堪忍な、堪忍なあ。

二人の声と二人の足音。それだけが暗い山を這って静寂に飲み込まれていく。声は暗く、足取りは重い。一人は布に包まれた荷物を腕一杯に抱えて。もう一人はそれを導くように、足元を照らしながら先を歩く。ほかに光といえば、双子星の冷たい輝きが厚い雲の隙間から顔を覗かせるくらいであった。

堪忍なあ、大河たいが

荷物を抱えた方の男が、許しを乞うように呟く。腕の中には、意識を失った一人の子供が抱かれている。父の腕の中でひどく静かに寝息をたてるばかりの子供は、その声に答えるはずもない。

先導する男が、足を止めた。この辺りまで来ればいいだろう、と告げる。山道が切り立った崖に面したところまで来たのだ。男たちは顔を見合わせ、一つ頷きあう。もう、許しを乞うような言葉は出てこない。沈黙の中に布を剥ぎ取って、子供を投げ捨てる。意識を失った体が二度三度と岩肌に叩きつけられて、暗闇の中に消えていく。それを見届けて、男たちは無言のままに踵を返す。

その時。ひどく低い地響きが唸り、彼らの頭上から土が、砂が、岩が降り注いだ。儚い人の身では逃げられるはずもないほどの勢い。

静寂が山に戻る。後に残るのは死体だけ。見下ろしていた双子星も、その片方はすでに黒い雲の向こうに姿を消していた。

1999年、2月。地上に星芒は届かない。追星村おっぽしむらの夜はどこまでも暗かった。

2017年8月、濃灰色の雲が立ち込める昼。粘りつくような霧雨が、曲がりくねった山道の視界を曇らせていた。限りある生命を謳歌するように草木が濃緑を生い茂らせる中に、ひときわ目立つ黄色と黒がある。土砂崩れによる通行止めを示す看板である。有毒な生物の体表によくみられる組み合わせであり、生命としての人間の本能に訴えかけるための配色。それは足元の花々を押しのけるような存在感を放っていた。

とはいえ、看板というのは人間が眼にして初めて意味をなすものだ。そして、この山道に人の気配は絶えて久しかった。この道の先に続くものなど小規模な村くらいのもので、そしてこの先にある村──追星村の住民たちはとうに別の道を使って生活している。つまるところ、外部から来たよほどの物好きでもなければ用のない道であった。故にその看板はただ褪せた表面を雨に洗われ、 山雀やまがら蜉蝣かげろう が身を隠すのに使われるだけの置物と化していた。

雨雲は風に移ろい、雨は次第に勢いを増していく。ふいに地面が震えて、エンジン音が人間の接近を告げた。山雀は飛び立ち、雨に翅を濡らした蜉蝣は草木の陰に身を潜める。少しして振動の主が姿を現した。バイクに乗っていた雨合羽の青年は塞がれた道路を認め、路肩に停車する。濃灰のフルフェイスヘルメットに覆われた顔はまだ幼さを遺した面立ちをしている。いかにも免許を取得したばかりの大学生といういで立ちだ。

バイクから降りたった青年は警戒色の看板には目もくれず、進路を遮るように張られたロープをしげしげと眺めた。そうしてからようやく看板の文字に目を留める。そうして看板に数歩歩み寄って、何気ない様子で看板の裏側を覗き込んだ。何も書かれていない裏側を眺め、彼はふと振り向いて頭上を見上げる。

視線の先には烏が一羽。雨の中、雨粒を避けるでもなくただ枝に止って青年を見下ろしている。どことなく無機的な視線。青年はしばらくそれを見上げ、そして何事もなかったかのようにバイクに乗って引き返していった。降り注ぐ雨を蹴散らして引き返していくバイクの荒々しさとは対照的に、跨った青年の表情はひどく静かだった。そうして一帯に、雨音に満たされた静寂が戻ってくる。奇妙な来訪者の一連の行動を見ていたものは誰もない。ただ、烏がそれを見送るばかりだ。

青年はその名を天野あまの 恵祐けいすけという。纏わりつく水気への煩わしさも、ここまで来た道を引き返す羽目になったことへの煩わしさも、その眼には全く浮かんでいない。彼が考えているのは、あれは本物の烏なのだろうか、それとも自分のように何かを模倣する存在なのだろうか、というようなことだけだった。

普通の家庭に産声を上げてから18年にわたり、天野が財団をはじめとするいかなる超常的存在とも接触したことはない。しかし、産声を上げる前には超常と関わったことも、何なら財団で研究者をしていたこともあった。人間が言うところの輪廻転生という概念が近いのだろうか。かれ──もちろん男性だったことも女性だったこともあるが、少なくとも今のかれ自身はそういった呼ばれ方を好んでいる──は自分が生まれてくる前に何者であったか、そしてどう死んだのかを全て記憶している。そしていくつかの過去の人生における経験が、この封鎖は本当に土砂崩れによるものだろうか、何かのカバーストーリーではないのかという疑問を告げていたのだ。

カーブを切って、山を下りていく。日本の山道は急な曲がり道や勾配が多くて見通しが悪い。この雨では猶更だ。向こうから近づいてくるバイクの存在に天野が気づいたのは随分と接近してからのことだった。相手も同じだったらしく、慌ててハンドルを切って衝突を寸前で避ける。こんな山道で他に誰もいないだろうと双方が思っていたのが明白な動きだった。

急停車したバイクが2台対峙する。白い稲妻模様の走るバイクに跨った相手の女性は、その模様に似合いの鋭い視線をこちらに向けていた。ヘルメット越しの視線がぶつかりあって、何か言うべきだろうかと天野は思案する。なるべく他者には友好的に接しようと思っているが、何を言えばいいのかいまいちわからない。以前に対向車と接触事故を起こした時の事を思い返してみたが、その時は自分が生身で即死していたから何の参考にもならなかった。

「お怪我はありませんか」

結局、先に口火を切ったのは相手の女性であった。なるほど、と思いながら「はい、そちらは」と尋ね返す。お互いどこにも問題はなく、それを確認して女性は「では」と走り出そうとする。気づけばその背に向かって「 追星おっぽしへは行かれませんよ」と声をかけていた。

「はい?」

エンジンをかけ直そうとしていた手を止めて、女性は怪訝そうに問い返す。村の名前を出したのは早計だったろうか。

「いや……通行止めなんですよ、土砂崩れがあるとかで。この先にあるものなんてその村くらいだと思ったのですが」
「ああ……なるほど。それで引き返してきたんですね。……ご親切にどうも」

女性は天野とこの先に続く道を交互に見比べてなにか思案しているようだった。それから端末を取り出して何か操作すると、天野に向かって会釈して来た道を引き返し始めた。少し遅れて天野もそれに倣う。この先に進めないと告げた以上、それ以外に自然な行動はなかった。

一本道で法定速度というものがある以上、自分は一定の距離を保って彼女の背を視界に捉え続ける事になる。彼女もこちらの事は走行音で認識しているだろう。追走の形をとりながら、彼女はいったいこの道に何の用があったのだろうと天野は考えていた。向こうもきっと同じことを考えているだろう。変に思われていないだろうか。大丈夫、財団に不審に思われるほどの行動はしていないはずだ。天野は自分に言い聞かせる。少なくとも、この肉体は異常性のない地球人類のものでしかない。

多くの人間がそうであるように、かれもまた自分のはじまりがどこであったかを覚えていない。ただ、自分はもともとこのような形ではなかったという事だけははっきりと覚えている。彼はかつて、この地球とは違う星でいくつもの生涯を生きてきた。ここからはもう見る事の叶わない空の彼方、とうの昔に滅んだ過去の星だ。その星にいたころは自分が生まれ変わって生を繰り返しているという事には気づいていなかった。その星の民は個体という概念を強固に有してはおらず、引き継いだ記憶はひどく曖昧だったからだ。自分の自我が生命を超えて連続している事を自覚したのは、この星に生まれ落ちてからのことだ。どうしてそうなったのかはわからない。ただ、滅びゆく母星と運命を共にするつもりであったが、滅びたのは肉体だけであった。魂だけが残り、気づけばこの地球の「ヒト」として生まれ落ちていた。地球人類風に表現するならば、宇宙人が地球人として生まれ変わった、とでもいうのだろう。

最初に人間の新生児として誕生したときの混乱は凄まじいものであった。なんせ、それまでの肉体には聴覚という概念がなかったのだ。周囲の空気の振動が情報の固まりとして流れ込み続けるという状況に、新生児となったかれはパニックを起こしてめちゃくちゃに自分の肉体を動かそうとした。そして自分に四本の突起物が生えていること、それが自分の意思に呼応して動くということに気づくと、すぐさま自分を取り囲む異形の生命たちから逃れようと試みた。

その赤子の動きは、傍らの人間から見れば酷く不気味なものであった。赤子が産声も上げずに海老反りのような体制で手足を不格好に振り回し、それでいて確固たる逃走の意志だけを示しているのだ。当然の結果として、そこにいた産婆はその子が何か異質なもの、「悪いもの」にとり憑かれていると判断してその命をそっと絶った。今となっては考え難いことだが、当時はそういう時代であった。

自分の身に何が起きたのかということ、自分はこれから全く異なる環境で異なる種族として生きていかなければならないということ、そのためにはこの種族がどう生まれどう育つかを独力で学んで真似なければならないということ。誕生と死を幾度か繰り返して、かれはそれを否応なしに理解した。異常な挙動は排斥を招き、排斥は死に直結する。脆弱な幼体の身では異常の嫌疑と死の距離は非常に短い。死はかれにとって一時的な容器の破綻に過ぎなかったが、それでも新生児からやり直すというのはなるべく避けたい事だった。それに、死を避けるというのはこの種族共通の傾向だから真似ておいて損はない。それらを理解するのに、どれだけの時間と命を費やしたのか彼は覚えていない。

そして。理解したあともそれを実行できるようになるには多大なる時間と命を費やした。全く未知の種族の成長過程をゼロから学ばなくてはならないのだ。寝返りをうてるようになってから成体のように歩行できるようになる前に四つん這いで移動する時期があるなんて、見た事もないのに推測など出来るはずもない。ある時双子として生まれ落ちて、目の前にいる片割れの行動をひたすら真似ればいいのだと気づくまではずっとそんな調子で死を繰り返していた。

そして、どうにか歩けるようになったとしても、その頃には言葉を発するという壁がある。何か出来るようになったころには次の課題が立ちはだかっているのだ。どうにか殺されるような挙動は避けられるようになったとはいえ、他者に何の疑いもかけられることなく生きられるようになるにはあとどれだけの時間と命を費やせばいいのか、かれには見当がつかなかった。思考のやり方から異なる種族の行動を模倣するのには大変な手間がかかる。

今なお、自分がうまく模倣出来ているという自信はない。突然川に飛び込んだりするなど、人間の行動には不可解な点が多すぎる。普通の人間はこういう風に動くのでよかったのだろうかと考え、あるいは「普通の人間」も同じように自問するのだろうかと考える。そんな事をずっと繰り返しながら生きている。今もそうだ。自問しながら、前を行く人間の背を見ながら一本道を走り続ける。そういう生き方をしていた。

山道を抜けて比較的開けた街に出る頃には、雨の勢いも弱まっていた。

ホテルの朝食を摂りながら、天野はスマートフォンを操作して何度となく見返しているその写真を眺めていた。映っているのは古い雑誌の一ページ、ありふれたパワースポット特集だ。それなりの紙面を割いて、追星村とそこに根差した隕石信仰の説明が載せられている。天野が視線を向けているのは、「パワースポットかどうかはよくわからないのですが、昔から大事にされてきた”おひかり様”に興味を持ってもらえるのなら嬉しいです(星守・白鳥光河さん)」というありきたりなコメントと、昔の自分によく似た顔立ちをした男の写真だった。

「追星村の記事ですか。やはりあなたもそこが目的地だったんですね?」

背後からの声に振り向けば、昨日の女性が朝食を載せたトレイを手に立っていた。「おはようございます。お向かい、いいですか」と告げるやいなやこちらの返事も聞かずに向かいの席に腰を下ろしている。あまりにも堂々とした振る舞いに呆気に取られてしまって、声を取り戻すころには彼女はマーマレードをクロワッサンに塗り始めていた。

「……ご用件は?」
「先日はどうも。見覚えのある姿を見かけたもので、つい」

悪びれない調子で女性はパンを口に運ぶ。淀みなく食事を続けながらも、その視線は絶えずこちらに向けられていた。どう考えたって探られている。視線から目を逸らすように、天野は箸をつけた銀鮭を口に運んだ。味がよくわからない。咀嚼していると、さらに言葉が投げかけられた。放っておいてはもらえないらしい。

「パワースポットに興味があるようにも見えませんが。どういった理由であの村へ?」
「……流星信仰ですよ。大学でそのあたりに興味を持ちましてね」

大学の名を告げると、納得したように頷いた。ずっと前から用意していた答えだ。今回の命をこのために使うと最初からわかっていれば、そのために不自然ではない身分と口実を手にするのはさほど難しくない。

「なるほど、それで夏休みに免許を取って。熱心ですねえ」
「大学生ってのは暇なものですから。それで、あなたは?」
「私ですか? 申し遅れました、私はこういう者で」

渡された名刺には 西村にしむら 椿つばきという名前。フリーのライターらしく、いくつかの雑誌やポータルサイトの名前が記されている。見覚えのある名前もそうでないものもあった。中にはオカルティックな響きのものもあったが、それがどれほどコアなものであるのか、財団のフロント企業があるかどうかは、自分には判断がつかない。ひとまず脇に置いて、味噌汁に口をつける。

「ライターさんですか」
「ええ。パワースポットの再発見という事で色々調べておりましてね。それで、目的地が同じ方がいらっしゃったので声をかけさせていただいた次第です」
「特にインタビューで答えられるようなことは何もないですよ」
「ああ、取材じゃないですよ」

何がおかしかったのか、西村は軽く笑った。そうしてコーヒーを口に運んでから、「塞がってない道、知りたくないですか?」と尋ねた。思わず食事から顔を上げて、彼女の顔をまじまじと見る。天野の動きを予測していたようで、彼女はじっとこちらの反応を観察していた。

「……へえ。そりゃあ、あるなら知りたいものですね。グーグルマップには何も出てこなかったし」

18年前には住んでいた村なのだから、侵入経路に心当たりがないわけではない。しかしそれがまだ使えるかどうかは怪しかったし、何よりそんな事をここで言えるはずもない。今の天野は土地勘のない余所から来た大学生である。大人しく傾聴の姿勢を示すと、彼女はどこか満足そうに笑った。

「記事を書く上でも、視点が多い方が色々調べられそうなのでね。ご都合がよければご一緒しませんか、とお誘いに来たわけです。無理にとは言いませんが」

それ以上語る気はないのか、彼女は食事の続きに戻った。彼女の皿にベーコンが積みあがっている事に気づく。かなりの健啖家だ。しばらく互いに黙々と食事をとって、先に口を開いたのは天野のほうだった。

「昨日のあの塞がった道なんですがね。なんというか、奇妙な視線を感じましてね。その正体まではつかめなかったんですが」

西村の手が止まる。無言で視線が向けられる。

想定された中では最も静かなリアクション。

困惑してリアクションが取れないか、あるいは全てを既に知っている──天野がその視線に気づいていたということも含めて──か。彼はさらに追撃を仕掛ける。

「確信は持てませんが、何らかの事情があるのかもしれない。心当たりとか、ありますか?」
「……いえ。一体何なんでしょうね」
「そうですか。……そういうのはそちらの領分かなと思ったんですが」

社会の裏で暗躍する組織とか陰謀とか、そういうのはここらの雑誌で扱ってそうですけど。受け取った名刺を視線で示せば、視界の端で西村がわずかに口の端をひくつかせていた。笑おうとしたのかもしれない。少しして彼女は「そうですね」と席を立った。

「続きの話、良かったら移動しながらにしませんか。まだ来る気があるなら、ですけど」
「了解です。むしろそちらはいいんですか? 変な事情のある村かもしれませんが」

彼女は「望むところですよ」と据わった目で笑った。頷きあい、ロビーで落ち合うと約束して荷物を取りに戻る。いつの間にか、朝食会場には誰もいなくなっていた。

昨日走ったのとは違う、それでいて昨日と似たような山道を一つの自家用車が走っている。運転席には西村、助手席には天野。そして後部座席には何らかの演算装置が積み上げられていた。彼女が提示したルートは隣町を経由して別の山道を使うものだった。そして隣町に到着すれば、そこにこの車が装置ごと用意されていたのだ。ここまでの下準備があってなぜあの山道を走っていたのかという疑問にこそ答えてはもらえなかったが、彼女はどうやら自分の背後に何らかの組織──十中八九「財団」だろう──が存在するという事を隠すのをやめたようだった。朝の会話と道中のやり取りで、もうある程度露見していると踏んだのだろう。

2人とも、「ただの大学生」と「ただの記者」の仮面の裏に何かを背負っているという事。お互いそこには踏み込まないという事。そういう暗黙の了解が出来るのに、さして時間はかからなかった。天野にとっても有難いことであった。完全に普通の人間のふりをしながら相手の事情を探るのは骨が折れるし、普通の人間が知らない人間と同行して知らない村に行くという設定を続けるのがそもそも苦しい。

曲がりくねった道を進んでいくなかで、ふと背後の装置が短い電子音を鳴らした。ソナー音に似た響きで、天野にはそれがどこか懐かしく思えた。あれは何かと問うと、「地盤の振動やその相互作用の何やかやを解析しています」と返される。相互作用の何やかやが本命で、そしてそれについて詳しく説明する気はないのだろう。結果の見えている質問の代わりに「随分大きいですね」と返す。どう見ても気軽に持ち歩ける大きさではない。

「ああ。子機はもっと小さいですよ。ただ、本体が地盤のあれこれを丸ごと演算しているので。どうしてもこのサイズになってしまうらしいですね」
「丸ごと?」
「ええ。内部の機構、外力に対する応答、それらを全て。だからエミュレータと呼んでくれ、ただのシミュレータじゃないんだぞと開発者からは散々に言われましてね。もう耳タコですよ。協力は要らないって言ったのになあ」

コウモリや潜水艦と似た原理だけどそもそも打ち出す信号が三次元であることで高度なマッピングを可能にしたとか、システム・ノヴァを転用した反応機構を仮想構築してどうのこうのとか、云々。うんざりした調子で彼女は言う。随分と聞かされてきたらしい。それを尻目に天野は考える。確か、シミュレーションが外側のインターフェースを模倣して結果を出力する行為で、エミュレーションが論理体系を真似ることそのものだったか。さほど厳密に使い分けられている訳ではなかった気がするが、開発者の拘りなのだろう。そして天野にはそれよりも気にするべきことがある。

「そんな大掛かりな装置を持ち込むほどのものがあの村にあると思うのですか」
「ええ、まあ。通行止め、見たんでしょう? あの辺りは妙に地滑りだの土砂崩れだの、ニュースにならない程度の事故が多いんですよ。少し前には死者も出ているくらいで。そして近年は微妙に活発になっていて」
「……」
「本業ではないんですがね。隕石信仰の記事を書くって言ったらその辺も調べて来いと言われまして、これを押し付けられてるってわけです。ま、隕石自体はそこまで珍しくなくてもその裏になんかあるかもって事でね。そういう訳で、何か気づいたら教えてくださいよ。こちらも協力できることがあればなんとかしてみますので」

どことなくとってつけたような説明を聞きながら天野は考える。実際のところ、「おひかり様」の信仰は100年以上前からあって、そして蒐集院などにもさほど目をつけられたという記録はなかった。先達が興味を示さなかったものを改めて調べなおすよりは、現在のことに興味があるのだろう。

少し前の死者。

18年前に死んだ子供のことを、かれは覚えている。死んだ子供の名は白鳥光河。その名前と顔をもった人物は、この村で「星守」として生きている。その理由が知りたくて、天野は村を目指していたのだ。

夕暮れの傾いた日差しが障子越しに射し込んで、お堂の広間の中を赤く染め上げている。この追星村で最も大きく立派な建物がこの村の外れ、森の傍らに位置するお堂であった。建築様式としては神社に近いが、神道の神ではなく「おひかり様」を祀るための建物である。「おひかり様」は今、部屋の中央で夕陽を受けながら一人の和装の男に磨かれている。柔らかな紫色の布が、「おひかり様」の黒く滑らかな表面を磨き上げていく。簡単だが丁寧に結われた長い黒髪が、機械的に腕が動くたびにわずかに夕陽の中で揺れている。

現代の日本人男性では珍しいいでたちが示唆する通り、彼は村では少々特殊な役目を担っていた。役の名を星守といって、字の通り流星たる「おひかり様」とそれを祀るお堂を管理する勤めである。村では光栄な役割ということになっていたが、彼の表情には誇らしさも畏怖の情も浮かんではいない。この男にとって、信仰の中心に触れるというこの時間は日常の勤めという以上の意味を持たなかった。

御身拭を終えた星守は「おひかり様」を台座に戻し、近くの壁にある据え付けられた袋棚の戸に手をかけた。身を屈めて腕を差し入れて、その奥には巧妙に隠された扉を開く。双子の弟とだけ共有した秘密の通路だ。幼い頃はこの扉を潜り抜けて外にこっそり抜け出したものだが、今となってはそんな事を考えることもなくなっている。そもそも成長した大人の身では潜り抜けることはもう出来ないだろう。今はただ、いくつかの私物を隠し持つのに使うばかりであった。彼は手探りで暗闇から目当てのものを取り出す。その手に握られているのは何も記されていない小さな位牌だ。細かな傷が無数についたそれを、男はそっと袖で拭った。溜息と共に、先程よりも丁寧な手つきでその位牌の埃を払い落とす。何度となく手を止めて、文字が刻まれている筈の場所を指先が辿る。しばらくそうして時を過ごしていた男は、ふいに近づく足音に顔を上げた。

ふいに肩を小さく跳ねさせた。急いで元の場所に位牌を押し込み、手早く扉を閉める。廊下の向こうから足音が近づいてきていた。

「せんせい、お客様がお見えです。前に連絡頂いていた記者の西村さんと、それからもう一人、天野という方です」
「わかりました。すぐに行きます」

男は立ち上がり、裾を払って来訪者と共に部屋を出ていく。後には、急に強い力で閉じられたせいでわずかに跳ね返って隙間の空いた隠し扉と、そして本当にかすかに低い唸りのような音を上げる「おひかり様」が残るばかりである。そのどちらに対しても、注意を向ける人間は誰もいなかった。

貴いものの名を直接呼ぶことを避けるというのは、さして珍しい風習ではない。だから、貴いものに仕える役を背負った彼には多くの呼び名があった。星守、堂守、管理人、そして「せんせい」。何を教えているという訳でもないのに、村人たちは彼をそのように呼ぶ。それでも、人として現代を生きる以上、人としての名を使うこともある。

男は促されて扉を開く。応接室には二人の来客。

「白鳥と申します。ようこそお越しくださいました」
「白鳥光河さんですね。西村椿と申します、どうぞよろしく」

白鳥光河。それが彼の、今の名前である。

生まれた時の名前は白鳥大河という。だがその名で彼を呼ぶ者は、この村にはもう誰もいない。双子の弟と父親を同時に喪って以来、彼はずっと死んだ弟の代わりを担わされている。突然家族を喪った10歳の子供にそれに逆らう力などあるはずもない。村人はみな、死んだのは兄の大河の方だと信じている。大人になった時には、反抗する気力などもう残ってはいなかった。ただ名前も何も刻まれていない位牌を隠し持ち続けるということだけが、彼に出来た唯一の抵抗だった。

「白鳥と申します。ようこそお越しくださいました」

通された応接室に「星守」がやってきた時、天野が最初に思ったのは「自分が生きていたらこんな顔と声でこう名乗っていたのだろうか」だった。黒を基調とした和装に、流星を模したのだろう白い筋のような文様。先代の星守が纏っていた服を纏い、薄い微笑を顔に貼り付けた姿。ひとつに纏められた髪を背中に垂らしているさまは、浮世離れした印象を意図的に与えているようにも見えた。双子の兄が自分の名を名乗っているのだろうという事前の予測を思い出すのには、数秒を要した。目の前に立っている男は、むしろかつての自分がそのまま成長したらこうなっただろうという想像に近い。自分で言うのも何だが、どちらかといえば浮世離れしていると思われがちなのは自分の方だった。それに、数世紀ほど前に生前の記憶があると知られて教祖の真似事をする羽目になった時にも似たような風体をさせられていたことがある。だからそういう恰好をするとしたら自分の方だろうという感覚があった。かつての兄と今の姿はどうにもうまく結びつかない。

18年前の兄は屈託なくよく笑う子供だった。顔の全部どころか全身を使って笑ったり泣いたり怒ったり拗ねたりしていて、よくここまで感情と挙動が連動するものだと思ったものだ。双子として生まれたときは片割れを真似る事にしていたから自分もそれを見習ったのだが、どうにもうまくいかなくて身振り手振りばかりが身体に馴染んでしまったのをよく覚えている。

もちろん、人間は年をとると多少は挙動が大人しくなるものだ。それでも、この歳を重ねた「白鳥光河」は、同年代の日本人男性と比べても表情と抑揚に乏しいように見えた。それでいて、ジェスチャーだけは奇妙に大きい。他人として見ているからか、身に覚えがあるからなのかはわからないが、それはいっそわざとらしくさえ見えた。

「それで、そちらのあなたは?」
「しら……いえ、天野と申します。よろしく」

不思議そうに向けられた視線に慌てて応える。不自然極まりない名乗りにも、彼はそうですかと微笑むだけだった。かつての自分に似すぎていて、いっそ不気味にすら思う。

「ようこそ追星へ。若い方にも興味を持って頂けて嬉しいですよ」

どうやら、自分の事は完全に普通の「学生さん」だと思っているらしい。自分の顔と声がはるか年下の人間を諭すような声色で自分に向かって話しかけてくるというのは、何とも奇妙な気分だった。自分の顔が話しかけてくるということ自体は何度も一卵性双生児をやってきたからさほど珍しい体験ではなかったが、年齢差があるのは初めてだ。天野の困惑をよそに、星守はいくつかの挨拶を交わして、「さて」と彼は立ち上がる。

「本堂はこちらです、ついてきてください。写真を撮ったりお手を触れたりしてもかまいませんが、丁重にお願いしますね」

そう言って通された広間の光景は、18年前の記憶とあまり変わっていなかった。仰々しい台座の上に、一つの隕石が乗っているだけの部屋。長くにわたりどの正常性維持機関も興味を示さなかった、ただの素朴な隕石信仰。それでも西村は噛り付くようにしてあらゆる方向から写真を撮っていた。

目新しくもない光景とはいえ、「天野恵祐」としてここに来るのは初めてだ。来ておいて興味を示さないのも変なので、そっと彼女の背後から「おひかり様」を覗き込む。黒い艶を帯びた表面は、変わらず鈍い光を放っている。

その時、何故だか「目があった」と思った。

息が詰まる。目の前に白い光が飛ぶ。体が傾いている。

ぐらぐらと揺れる視界に何度も瞬きをして、目の前に広がる畳の目を見つめる。距離が近くて、息が苦しい。

何度か咳込んで、ようやく自分の身体に何か異常が起きたらしいと理解する。気づけばこの体は畳の上にうつぶせに横たわっていて、白鳥と西村がこちらを覗き込んでいる。床にぶつけたらしい額がそれなりに痛みを告げていて、どうやら受け身を取る前に倒れたらしいと理解する。何が起きたかは理解したが、どうしてそうなったかは全くわからなかった。前の人生でも散々「おひかり様」は目にしていたが、こんな事にはならなかった。

「大丈夫ですか?」

白鳥に助け起こされるようにして上体を起こす。気遣わしげな表情に、ありがとう、と応えた声は奇妙に掠れていた。長時間の移動が堪えたのかもしれない、などという会話が頭上で交わされている。その全てが遠く聞こえる。

「えっと、お水でよければ取って来ましょうか」
「すみません、お願いします」

白鳥は慌ただしく扉を出ていく。その背が消えて足音が遠ざかるなり、「大丈夫ですか。何があったんですか」と西村が潜めた声で尋ねた。わからない、と首を横に振る。

「先程、検知器が一番強い反応を示しました。本当に一瞬のことでしたけれど」

受けた感覚を思い起こす。古い何かを無理やりに呼び起こされるような、奇妙な気持ちの悪さ。長らく自分には備わっていないはずの内臓を掴まれるような。いくつもの体を渡り歩くなかで、ちょっとした”現実改変能力”を持つ個体だった時のことを思い出す。あれは、そういう器官だったのではないか。今の自分にはない器官に、何かの情報を流し込まれたような感覚。だとしたら、彼女の検知器は何を検出したのだろう。

星守が戻ってくる気配はない。気づまりな沈黙。

ふと思い立って、天野は壁の袋戸に手をかけた。わずかに隙間が空いているのが気になっていたのだ。18年前によく使っていた隠し扉のことは双子の兄も知っている筈だが、今の彼が使うには狭すぎる筈だ。今になってまだ使われているのが不可解だった。そうして扉を開ければ、探るよりも前に何かが転がり出た。雑に押し込まれたから安定していなかったのだろう。

「ちょっと、何を……位牌?」

それを拾いかけた天野を手で制して、西村は手袋を嵌めた手で位牌をひっくり返す。そうしてしばらくしてから、彼女は何もなかったように位牌を元の場所に戻した。

「何も書かれてないですね。やっぱり表に名前が出せない死人があるってことか。あの3人とは別なのかな」
「3人? ……やっぱり? 何か心当たりがあるのですか」

彼女は何か言葉を探しているようだった。しかし、何か言うよりも先にペットボトルを手にした星守が戻ってくる。結局彼女は「また後で」と言うだけだった。

急にやってきて急に体調を悪くした変な余所者に対して、星守は驚くほど親切だった。食事を共にし、車中泊するくらいなら空き部屋を貸そうとまで申し出てきたのだ。食料は持参していたが、村を探るという目的を考えればこれ以上にありがたい申し出はない。西村も天野も、ありがたくその好意を受け取る事にした。父母を子供の頃になくして独り暮らしが長いから人が来ることが嬉しいのだ、と彼は笑った。兄弟がいたという事については、彼は一言も触れなかった。

兄弟の母は幼い頃に病気で命を落としていた。それは自分も覚えている。しかし、父もまた自分の死後に死んでいたとは知らなかった。天野は少しだけ自分が安堵している事に気づいた。前の自分の父であり、かつ死因でもある男と接した時に通常の人間がどうすればいいのか、自分にはまるで想像がつかなかったから。

食事中は主に白鳥と西村が話し込んでいた。おそらくは作り置かれていたのだろう常備菜をつつきながら、「おひかり様」の伝承やどのように扱われていたのかについてあれこれと尋ねている。かつて攻め込んできた軍勢の櫓を、そのとき落ちてきた「おひかり様」が撃ちぬいたという伝承。かつて散々聞いた話だ。

「でも、落ちてきた後、特に何も要求せずに眠りについた、というのはちょっと変わってますね」
「落ちてくる段階で大半の力を使い果たしたとされています。だからこそわれらはその犠牲に感謝しなければならないのだ、と」
「なんだか火の中に飛び込んだ兎みたいですね」
「そうかもしれません」

火の中に飛び込む兎。たしか仏教のエピソードだったな、と思い出す。炎の中に飛び込んで、自分の身を食料として差し出そうとしたのだったか。生命の自己保存傾向を考えればかなり歪な挙動だと思うのだが、どういう訳か人間はこれを説話として語り継ぎ、あまつさえ似たような行為を実行に移しさえする。地球で過ごす中で、人間が自分の身を擲つような真似をするのは何度か目の当たりにしていた。そのうちに、人間に対する自分の理解には何か不足があるのではないかと、そしてそれを知りたいと思うようになったのだ。

「ま、おれとしては他に何かあっただろって思うんですけどね」

ぼそりと呟かれた声に、天野は顔を上げてかつての兄の顔を見た。手元の皿に落とされた視線はどこか遠い。思わず天野は問い返す。

「……意外ですね。星守の方がそういう風に言うなんて」
「でも、他人のために命を捨てるなんてどうかしてますよ」
「では、他人でない……例えば身内相手だったら?」
「なおさらですよ。勝手に死なれてどうしろと言うのか」

言い捨てるように呟いて、白鳥は箸で鶏肉を突き刺した、正直に言うとかなり意外な返答だったが、人間の思考にさほど一貫性がないのは既に知っていた事だ。天野はそれ以上白鳥に問わず、代わりに西村に水を向けてみる事にした。

「西村さんもそう思います?」
「まあ、そういう局面になってみないとわかんないですけどね。でも、やるにしても本当に最後に最後の手段だと思いますよ」
「そうですか」
「ええ。他にやれることが残ってるうちから考える事じゃないって言うか」

正常性維持機関の人間なんて、どこかしらその人生を犠牲にしているものだ。その彼女がそう言うのなら、やはりあれは生来の人間にとても変な挙動だというのか。考えながら食事を続ける。二人の顔を交互に見ながら何度考えても、やはり答えは出なかった。

貸し出された部屋の壁を眺めていると、ふいにノックの音が響いた。扉を開ければそこに西村が立っている。あの位牌に関する心当たりについて話してくれると言っていたから、その話だろう。招き入れると、彼女は堂々と部屋にあった唯一の椅子に腰かけて「この村は18年前に土砂崩れで3人の死者を出しました」と開口一番に告げた。

「3人も? 同時に?」

ベッドに腰を下ろしながら問いかける。自分が知っている死者は1人だけだ。あの後に2人も死んだというのか。

「ええ。長良政義さん、白鳥雄大さん、そして白鳥大河くん」

何の相槌も打てなかった。長良政義と白鳥雄大はそれぞれ18年前に自分を殺した男たちの名だ。彼らはあの後に死んだというのか。そして、やはり死んだのは兄という事になったのか。天野の沈黙をどうとったのか、西村は言葉を続ける。

「白鳥雄大さんと大河くんはそれぞれ先程の光河さんの父と双子の兄弟ですね。父親と兄弟を同時になくして大変ショックを受けたとかで、しばらくは自分を死んだ片割れと思い込んでいるような挙動をしていたそうです」

天野は思わず口元を手で覆った。残された子供の哀れさに心が動いたからではなく、「違う」と口走りそうになったからだ。思い込んでいたのではない、それが事実なのだと。そして、ある時から彼は諦めて弟として生きる事を選んだのだろう。

「まあ、そういう訳なんでね。聞かなきゃいけないことではあるんですが……あの人の前であんまり身内の死に関する話をしないほうがいいですよ。当事者ではないのだから」

おれは当事者そのものだぞ、その日死んでるんだから、とは流石に言えない。天野は神妙な顔をして頷いて、彼女の言葉に耳を傾け続ける。

「それだけの死者が出たので勿論あれこれ捜査は入ったんですが、結局何事もなくただの事故という事になりました、それでも……何かがある筈なんです。そしてその繰り返しが近づいている。私はそれを見つけないといけない。……手段は選んでいられない」

自分に言い聞かせる様な口調には、明らかに焦りが滲んでいた。思い返せば、どうにかして何かを掴まなくてはならないという強迫観念のようなものはずっと言動の端々に滲んでいる。よほど望みの薄いところで何かを探す事を繰り返すような変な部署にでも配属させられたのだろうか、という邪推が胸をよぎる。

「それを見つけ出すのが目的なのですか。だから、何か知っているかもしれないおれを車に乗せて、追星まで連れて来た」
「ええ」
「どうしておれを連れて来たんです。調べたのなら、おれが普通の人間でしかないとわかっただろうに」

少し考え、彼女は意を決したように「あなたが見た烏は我々のカメラを内包していました」と告げた。

「道理で。瞬きもしなければ雨も避けないと思った」
「軽度の認識阻害に対する耐性あるいは対策を有していたら、きっとドローンに見えていたはずです。あれは、それを見抜ける者を見分けるための装置でもあったから。あなたはそれを烏と認識し、そしてその上で違和感を覚えているようだった」
「……なるほど。だから、あなたがたの脅威ではないと考えて接触した」
「そうです。この検知器の応答はここ最近で急に上昇したから、直接私が調べに行くまでの間に、誰かがここに近づかないかと探りを入れていたのです。そしてあなたが現れた。最初に通行止めの看板を見た時に裏側を確認したでしょう。我々がカバーストーリーとして災害を示す掲示を使う時、かつては看板の裏側に符牒をつけていたから。違いますか?」

そうか、何もなかったのは符牒が変わっていたからか。流石に100年も同じ符牒を使いはしないということか。

「だから、財団に関する何らかの情報を握りはしているが、クリティカルなところまでは知らない存在だと思った。それなら泳がせておいて後を追えば情報収集に使えるかもしれないと思った、ですか」
「そうです。でも、それだけではない。『おひかり様』は明らかにあなたに反応を示している。……あなたは何者なのですか」

静かな部屋で視線が衝突する。ここまで来てしらを切り続けることはもう出来ないだろう。あの隕石は明らかに自分を見ていた。もう、普通の人間として、ただの「大学生の天野恵祐」として在り続ける事は出来ない。天野は静かに息を吸った。どうしても先に確認しておかなければならない事がある。

「死者を出すような何かを探していると言いましたね。その『何か』の証拠が、今から誰かが死ぬことによって見つかるという状況になったとして。それを止めますか?」
「何を言ってるんですか?」
「確証はないが、放っておけば誰が死に、それを待ちさえすれば必ず動かぬ物証が見つかる。そういう時に静観するかどうかと聞いています」
「静観……いや、なに、止めるに決まってるじゃないですか! 人が死ぬんですよ!? 何言ってるんですか!」

本気の困惑。怒っているというよりは、本当に想定外の事を言われたという反応だった。そもそもそういった発想がないらしい。短期的に見て焦りを覚える立場に何故立っているのか、なんとなく分かるような気がした。

「失礼しました、手段を選ばないというので気になって……でもよかったです、これなら安心して協力できる」
「そうですか。それで、あなたは何をご存じなんですか? 何者なんですか? 話せる範囲で構いませんが」

しばらくの沈黙。

「まず、一つ。生き残った子供はきっと、錯乱していたんじゃありません。あの日死んだのは白鳥光河、双子の弟の筈です。何が起きたかはわからないけれど……どこかで入れ替わりが起きている」
「……わかりました。覚えておきましょう」
「疑わないのですね」
「私は兄弟としか言いませんでしたから」

なるほど、と答えて少し考える。静観を選ばないのなら、頼みたい事がある。

「信じて頂けるのなら、一つ頼みたい事があります」
「何でしょう」
「先程あの広間で調子を崩した時なんですが。意識の中に、何というか、イメージとか思念というか、そういったものが捻じ込まれるような感覚があったんです」

予期していないところに大量に流し込まれたから最初は何もわからなかったが、少し時を置いて落ち着いた今ならわかる。何より、今なお微弱なイメージの流入は続いている。

無窮の暗闇。消えゆく星々。どこか懐かしい光。どこまでも寒々しい虚空の中に放り出されるような、地の果てを彷徨うような、吹き荒ぶような寂寞。そしてその中に響く、ただ一つの命令。

「人間が皆寝静まったら自分のもとに来いと。その命令を植え込まれました」
「人間が寝静まったら」
「ええ。少ししたら行くつもりですが、行ってどうなるかはわからない。だから、身を隠しながらでも見ていてもらえるとありがたくて」

どういう訳か、「おひかり様」は自分の中身が生粋の人間ではないと認識しているらしい。どこまで悟られているかはわからないが、保険は欲しかった。なんせこの身はただの人間と変わりなく、たやすく潰えてしまうのだ。ここまで来てまた18年かそれ以上待つのは避けたい。

「わかりました。ただ、ひとついいですか」
「何です」
「あなたは……何者なんですか? 本当に人間なんですか?」
「この身は紛れもなく人間のものですよ。人間のもとに、人間として生まれてきた。……少しばかり、普通の人よりは過去の記憶が多いけれど」
「……身体以外は?」
「そう在れたらいいなと思っていますよ。それを決めるのは、おれではないのでしょうけれど」

西村はしばらく考え込む。そうして、やがて「では準備をしてきます」と言って部屋を出て行った。人間が寝静まると言える時間になるにはもう少し必要だろう。考えながら、窓の外を眺める。自分を呼ぶ信号はまだ頭の中に響いていた。どこか懐かしいと思ったが、どうしてだかは思い出せなかった。

《ようやく来たか》

広間に足を踏み入れるなり、その信号が知覚に流し込まれる。剥き出しの感情でも情景でもない、はっきりと指向を持った思念。人間で言うところの言葉というものに近いが、それは地球人類の歴史に現れたことのあるどの言語にも似ていなかった。それでもかれは容易くその意味を理解することが出来た。

何故ならば。

《我らが母星が消えてから、同胞と再び相見える時をどれほど待ったことか》

虚空の彼方に消えた星、はるか昔に滅んだ故郷。あの星の民の意思疎通手段。

人間としてこの星に生まれ落ちる前に、かつて自分たちが使っていたものだったから。

《全く。星よりも永い魂を有しておきながら露火の器を使い、あまつさえ同じ露火に吹き消されるとは。酔狂もここまで来れば一種の狂気だな》

記憶を辿る。そうだ、かつての故郷はどこも風が強かった。だから覆いもなく露わに風にさらされる炎とは儚いもの、一瞬で消えてしまうものの象徴だった。この地の文字を借りて表現するのなら露火(つゆび・ろか)という表現になるだろう。そうか、こいつは人間の身を 「つかの間の灯火brief candle」と認識しているのか。かつて見た劇にもそんな表現があったな、と思い出す。

《まあ、お前の火を消した露火どもはこちらで消しておいたが。いやはや、それで器だけ似せた贋物を連れてこられた時はどうしてくれようかと思ったよ。贋物から引き離せば元の姿を思い出すかと思っていたのだが、とんだ回り道だった。永遠を餌にすれば簡単に動くとはいえ、露火を操るのは難しいものだな》

言葉は完全に理解できるのに、人間よりもよほど本来の自分に近い存在であるはずなのに、目の前にいる岩石が何を言っているのかまるで理解が出来ない。

「──おまえが」

お前が仕組んだのか。父たちがおかしくなったのは。自分たち兄弟に奇妙な眼を向けるようになったのは。兄を殺そうとしたのは。そして兄を死んだ弟になり替わらせたのは。お前が命じた事なのか。

問いたい事は山ほどあったが、声にはならなかった。

《どうした。何故何も答えない》

故郷の星は自転が速く、常に強い風が吹いていた。生半可な空気の震えは吹き荒ぶ風にかき消されるから、自分たちにとって聴覚という概念はあってないようなものだった。だから自分たちは音声ではなく信号を使うようになったのだ。この人間の声は、声帯の震えは、目の前の同胞にとってなんの意味も持っていない。成体に限るとはいえ、露火に届くような信号の発し方を同胞が身に着けているだけでも驚異的なことなのだ。

《やはり露火の器は不便なものだな。声は発せず、中身は器に流れる血の情報に引きずられている。やはり解き放ってやるべきか?》

頭上で何かが軋む音。同時に、肉体の奥底に宿っている何かを鷲掴みにされるような、ぞっとする感覚。今殺されたら次に生まれる時は人間ではなくなっているかもしれない。空気が不穏に震えて、咄嗟に床に伏せる。頭上を轟音が矢のように奔って、背後の壁に穴を開けた。二撃目を横に転がって躱す。ばちばちという音が高まって、三撃目の準備が備わりつつあることを告げていた。急いで起き上がろうとするが、間に合いそうにない。

急に、胸のポケットが熱くなった。西村から事前にお守りとして渡されていた小袋だ。天野はそれを取り出して眼前に掲げた。光がふわりと広がって、第三撃が頭上に逸れる。頭上の梁がべきりと嫌な音をたてた。守れるのは一人が限度ということだろうが、それでも御の字だ。おそらくは仕込まれていた現実錨だか何だかを彼女が遠くから起動させたのだろう。

小袋を盾のように構えながら立ち上がる。今や同胞の身体は赤く昏い光を帯びていた。かなり怒っているということだ。どうすればいいのかもどうしたいのかもわからないまま、彼は同胞と対峙していた。こんな時、生来の人間はどうするのだろう。かつて住んでいた星の生き残りが激怒しながら不可視の衝撃波を放ってきた時、普通の人間は何をするべきなのだろう。下手な動きをすれば殺されてよくわからない肉体に宿らされるだろうという確信が、足を縫い留めている。

張り詰めた空気の中で、壁の外で鳴きかわす虫の声だけがやけに響いている。この生命の喧騒は何一つ同胞には届かないのだな、と思った。それはどれほど寒々しい日々なのだろう。

緊迫は、廊下の向こうの足音によって途切れた。勢いよく開かれた襖の向こうには白鳥が立っている。就寝中だったところから物音に目を覚まして駆けつけたのだろう、暗い色の浴衣に身を包んだまま息を切らせている。目の前の光景が理解できない、という顔をしていた。当然だろう。自分の祀っていた御神体と来訪者が壁に穴を開けながら火花を散らして睨みあっている情景など、事前に想像がつくはずもない。

《確か。前回はそいつの身代わりになり、そしてそいつを身代わりにしたのだったな?》

人間たちが何かを言うよりも先に、不可視の力が動いた。立ち尽くしていた白鳥の足がふわりと浮かび上がって、次の瞬間広間の中心に身体を叩きつけられる。一瞬にして部屋の中心に連れてこられたかつての兄と同胞の間に、天野は自分の身を滑り込ませる。振り返れば、衝撃に息を詰まらせて、信じられないものを見る目でこちらを見上げている。少なくとも大怪我はしていない。

「すまない。おれの後ろから出ないでいてほしい。逃がしたいが、危険だ」

小袋を盾として掲げながら、足元に向かって語り掛ける。それの何が気に障ったのか、同胞はさらにその身を赤く輝かせた。空気が震え、建物全体が嫌な揺れ方をする。第四撃を上に逸らした直後、ついに梁のどれかが折れる音がした。

電気が切れ、あたりが暗闇に閉ざされる。これからの崩落を告げるように、ぱらぱらと何か破片のようなものが降ってくる。どうしよう。どこか安全な場所は。この背後の人間をどう守ればいいのだろう。人間はこういう時にどう動いていたか。こんなことは経験していない。

思考だけが先走って、身体がうまく動かない。なかば無意識のうちに背後に視線を向ければ、星守ははっきりとこちらを見て手を伸ばしていた。

「伏せろ!」

咄嗟に伸ばした腕を引かれる。バランスを崩したが、どこにも体をぶつけることはなかった。自分の頭が抱え込まれている。覆い被さられて、降り注ぐ瓦礫から守られている。

大丈夫だから、と言い聞かせるように呟く声が何度も頭上から降ってくる。不安と困惑に満ちてなお暖かい声だった。

この男は自分よりも10歳は歳上なのだ、と今更になって認識した。自分の知らない18年の歳月。時を経て、自分をゆうに越している背丈。かつての自分がなっていたかもしれない未来の姿ではない。自分とは違う。この男は確かに信仰の管理人で、村の指導者として生きていて、そして紛れもなくかつて自分の兄であった存在なのだ、と。

崩落。瓦礫が降り注ぐ。

小さな呻き声がして、そのまま自分に被さっていた身体から力が抜けた。人間一人ぶんの重みが一度にのしかかり、小声で呼びかけても返事はない。頭でも打ったのか、完全に気を失っている。

静寂。誰も声をあげない。何も動かない。

自分に覆いかぶさった人間の心臓の鼓動だけが感じられる全て。

崩落はいつの間にか終わっていた。少なくとも、二人とも生き埋めや下敷きになる事は免れたらしい。星守の下から這い出て周囲を探る。目立つ怪我はないようだった。暗闇に目が慣れてくれば、二階の床が一部破れて垂れさがり、同胞と自分達を遮っていた。遮蔽があるから追撃が来ないのかもしれないな、と思う。思い返せば広間に入るまで自分に話しかけては来なかった。

とにかくこの場から離れたかったが、同胞の視界には入りたくない。少し考え、入ってきたところ以外から出ていく事にする。視線を向ければ壁には穴が開いていて、生暖かい風が吹き込んでいた。この先に少しだけ開けた空間があることを自分たちは知っている。

ぐったりとした身体の下に腕を回して、頭が揺れないように体で支える。意識を失った身体はひどく重い。そういえば、以前にもこんなことがあったな、と思い出した。自分が白鳥光河として生きていた、最期の日もこうしていたっけ。

父の様子がいつからおかしくなったのかはわからない。思い返せば、母を失った時にはその兆候は表れていたのかもしれない。あるいは、世界が滅ぶという予言の噂が世の中を騒がせ始めた頃からだっただろうか。それでも、自分たちの前では優しい父だった。ただ、気づけばそれは始まっていて、父が村の重鎮と話し込むことが、そして自分たちに奇妙な視線を向ける頻度が増えていった。

何を話し込んでいるか探ってみるのは簡単だった。子供の身体はどこかに潜り込むのに便利で、そして子供が自分たちの話を全て記憶し理解出来るかもしれないだなんて大人たちは誰も思っていなかったから。

夢におひかり様の告げがあった、と誰かが言った。自分も聞いた、と父が応えた。

あの双子の弟、光河は永遠に愛されているらしい、と言った。あの子は死の克服を可能にする、世界が滅んだとしてもなお、と。

とてもそうは見えない、普通の子供だと父は言った。

あれは双子の片割れの、大河の真似をしているだけだ、と誰かが答えた。引き離せば自分の正体を思い出すはずだ、と。

本当は、人ではないものが人の模倣などしようと思ってはいけなかったのかもしれない。

少なくとも彼らはそう思ったようだった。人の真似などをやめさせよう、人のように死んでしまいかねないからと。悪い影響を与えているものを絶って、元の「有るべき姿」に返さなくてはならない、と。

兄を始末して弟を祀り上げたらいいのではないかという発想は、いつのまにか計画になり、そして実行されようとしていた。わずか10歳の子供にはどうする事もできなかった。それでも、夕餉に自分たちの好物ばかりが並べられているのを見た時、その意味を理解する程度のことは容易く出来てしまった。子殺しは人類史においてさほど珍しいものではない。

本当は、人ではないものが人の真似などしようと思ってはいけなかったのかもしれない。

それでも、白鳥光河は白鳥大河の模倣をして生きる以外の道を知らなかった。だから、兄がそうしたように、自分の兄弟を守ろうとして、最後のデザートの皿を兄のものとすり替えた。後ろめたさからか父はずっとこちらを見なかったから、とても簡単なことだった。

一体何の毒を盛られたのだろうとか、思ったよりも体に変化がないなとか、ずっとそんな事を考えていたように思う。そうして食事を終えて部屋に戻って、倒れていたのは兄のほうだった。ひどく静かで深い眠り。自分を眠らせてその間に始末するつもりだったのだな、と冷えた頭が告げていて。それで、服を取り換えて兄を引きずってベッドに運んだのだ。その後は、大人たちに家から連れ出されて、何か言うよりも先にひょいと抱き上げられて首元に腕が回って。気づけば自分は別のところで産声を上げていて、それで白鳥光河はあの夜死んだのだなと理解した。

兄を引きずってベッドに運んだあの日よりも、今の自分は強く大きくなった筈だ。それでも向こうも同じように日を重ねていて、体格の差はあの日よりも開いている。一歩一歩が、酷く重い。それでも、今動けるのは自分だけだ。どうにか壁に開いた穴を押し広げて潜り抜けて、兄をそこから引きずり出す。そうして外に出て兄の身体を横たえた瞬間、夏の風が頬を撫でて一瞬で全身の力が抜けるのを感じた。二人ともまだ生きている。生きてあの場から逃れたのだ。かつての双子にとってここは安全地帯だった。小さな扉の向こう側に開けた場所があることを、大人たちは誰も知らなかったから。

ひとまず西村に連絡を取れば、彼女は彼女で脱出して車の中まで戻っているようだった。屋敷の外に影響は及ぼせないようにしたし、通報はしたから朝まで持ちこたえれば後はどうにかする、という。通報先が自分の思う相手であるなら、翌朝には誰も何も覚えていない事になるだろう。全ては財団が思うように片付くはずだ。

静寂の中、独りで考える。同胞はどれほどの抵抗をするだろうか。自分ひとりを狙うだけでお堂を半壊させ、自分が殺されたときは2名の死者を出した存在だ。それが周囲全てを敵と見做した時、どれほどの被害が出るだろう。そして被害を出したとしても、あるいは出したからこそ、彼らは対処を終えるまで止まらない。それが自分の知る財団であり、ひいては人間たちである。それを自分はよく知っている。財団は同胞をどう扱うだろう。物言わぬ岩石と同じ状態まで抑え込んでどこかにしまい込んでしまうのだろうか。

天野はそこまで考えて、頭を振って思考を断ち切った。自分があれこれ考えたところで意味はない。儚い人間の身で干渉できる結末ではないのだ。今だって一人ぶんの身を守るのに精一杯で、そしてそらすらも守りきれていない。自分が無傷でこうして考え込んでいるのは、目の前で気を失っているこの男に守られたからに過ぎない。

"おひかり様"は死後の何らかを保証する存在ではない。この男はきっと、この年代に生きる日本人の多くがそうであるように、復活や生まれ変わりといった概念を本気で信じているわけではないのだろう。だから、この男の価値観に照らし合わせたとしても、死んでもそれまでの記憶を保持してまた生まれてくると知っている自分の命のほうがはるかに"替えがきく"軽いものであるはずだ。そうでなくても、基本的に人間にとって自分の命と赤の他人の命なら前者のほうが重いものだろう。だというのに、この男は今日知り合った赤の他人に過ぎない存在を命がけで守ろうとした。自分の身を犠牲にするような行動を否定したその日のうちにだ。まったく矛盾している。

自分は人間を模倣して生きてきた。特に双子がいるときはその片割れを模倣の対象にしてきた。その模倣対象がかつて自身が選んだ行動を否定しながらその行動をとっている時、自分はどうすればいいのだろう。幾度となく答えを求めてかつての兄の顔を見るが、眠っている人間を見たところで何も思い浮かぶものなどない。

夜明けには財団の増援が来る。以前と同じように兄弟を守るかどうか、それまでに決めなくてはならない。そのためにも、あるいは安全な場所に連れていくためにも、まずは起きてもらう必要があった。

小川のせせらぎが耳に届く。あの日あれほど広く深く感じられた小川は、今見ると拍子抜けするほどに浅い。その川のほうへと白鳥を引きずっていく。軽く頬を叩いても目を覚ます気配はないし、こういう時に揺らしてはいけないと聞いている。呼びかけるには、適切な呼称を持っていない。それで天野はポケットに入れ放しにしていた空のペットボトルに川の水を汲んだ。そうして気絶したかつての兄の顔の上でペットボトルを逆向きにして中身をぶちまけた。

硬く閉ざされていた眼が見開かれる。咳込みながら周囲を見回して、その眼がペットボトルを手に彼自身を見下ろす人影を捉える。その瞬間、彼は飛び起きて後ずさった。怯えた表情で腕を上げて身構える。その動きはあまりにも、頭部を庇う子供の動作によく似ていた。

言葉を失って立ち尽くす天野の前で、星守にされた男は「もう二度と大河だなんて言いませんから」というような事を不明瞭に口走っている。どうしてかれが光河を名乗っているのかは火を見るよりも明らかだった。その怯えた様子を目の当たりにして思い出す。この10歳年上の双子の兄が人間として生きてきた時間は自分のそれの1%にも満たないのだ。18年の迫害は、子供にとっては酷く長く昏い影になろう。

「落ち着いてくれ。ここでは誰も手をあげたりはしない」

怯えた目がこちらを見上げる。膝をついて、目の高さをあわせる。

「水なんかかけて悪かった。もうしない」

水に濡れた瞳がこちらを伺って、少しずつ落ち着きを取り戻していく。そこに映る姿は彼とは似ても似つかない余所者の姿だ。まったくの部外者にしか見えないことだろう。それでも天野は言葉を続ける。

「良かったら、何があったか教えてくれませんか。絶対に誰にも言いませんから。……特に、村の人々には」

沈黙。伏せた顔に張り付いた髪を伝って、水の滴が零れ落ちていく。その水滴の数が10を超えようというところで、彼は呟くように「双子の兄弟がいたんです」と言った。

「うん」
「光河は……弟は。永遠に愛されていたから、死ぬのはおれになるべきだった。そうなれば全部収まってたんだ」
「……」
「だというのに、全てが逆になった。光河はおれの代わりに死んで、おれが光河の代わりを生きている」
「誰が。誰がそんなことをさせたんだ」
「もう全員死にましたよ。おれだけがここで過去に怯えている。それだけです」

自嘲しているのか、水滴の伝う頬に微笑の残骸のようなものを浮かべる。かつての自分にも、そしてかつての兄にも似ていない顔。「光河」の模倣をやめた先に残っている「大河」の表情。

「悪いけれど、おれが言えるのはその程度。いつだって蚊帳の外で、わからないことばかりなんですよ。永遠とは何なのか、あいつがなんでそんな馬鹿なことをしでかしたのか、何も言わずに死んでしまったのか、どうしておれだけがここで生きているのか。……ずっと諦めていたけれど。それでも、もし知りたいと思う事が許されるなら、おれはそれを知りたい」

双子の兄の目がこちらを見据える。ひどく暗く、諦めに染まり、それでもなおその奥に意志を宿した目。

「知らないことばかりだ。あなたが何者で、何を知っているのかも。何かを調べに来たのだろうとは思っていたけれど……『おひかり様』があんな風になるのなんて知らなかった。あなたは何をしたんだ。それで……どうしてこの場所をあなたが知っているのか」

何を言えばいいのか。どこから話せばいいのか。わからない事ばかりで、それでもこれは今言わなくてはならないことだと思った。一つ、息を吸う。

「最初から遡って話すとかなり長くなるのですが」
「構いませんよ」
「星に寿命があるのは知っていますか。星々には終わりがあり、そしてその終わりから次の星が生まれてくる」
「流石に遡りすぎです」
「では最近の……最後の疑問から。この場所をおれが知っているのは、おれが以前白鳥光河だった事があるからです。人が言う所の生まれ変わりというのが一番わかりやすいかな」
「……そんな事があるはずがない。今更、そんなことが」

彼はそう呟き、こちらの顔を見つめている。かつての弟の面影を探しているのだろう。外見において、天野恵祐は白鳥光河には全く似ていない。面影を探すなら、そこの川を覗き込んで水面に映る影を見た方がよほど似たものが見つかるはずだ。それでも、探さずにはいられないのだろうなと思った。

「20年ほど前、いつものようにあなたと弟……白鳥大河と白鳥光河はここに遊びに来ていた。そうして、ザリガニをとるかちぎるかして遊んでいて、弟が足を滑らせて川に落ちた事があったでしょう」

今のような夏の夜だったのを覚えている。川面に視線を向ければ、あの日のように一等星の光が水に映ってちらちらと光っていた。確かベガは20光年かいくらかの距離に位置しているのだったか。あの日放たれた輝きが今、この川面に映っている。それを見ながら記憶を辿り、かつての白鳥光河──現在の天野恵祐は言葉を続けた。

「本当はね。川に流された人間を助けようと思ったら飛び込んじゃいけないんですよ。助ける側も危ないから、まずは誰かを呼ぶべきだった」

そもそも、自分とてなす術なく溺れていた訳ではなかった。川に落ちて流されたときはまず流れに逆らわないのが鉄則である。だから流れに逆らわず、下流に足を向けて川岸に流れ着こうとしていたのだ。それをこいつは何も考えずに飛び込んできて、そして二人揃って溺れそうになった。何ならこいつの方が危なかったくらいだ。だから自分は尋ねたのだ。

「それで、自分も溺れたらどうするんだと聞いたんですよ。死が怖くないのかと。それであんた、自分がなんて言ったか覚えてるか」

恐る恐るといった調子で首を横に振られる。そんな事だろうと思った。

「兄弟なら当たり前だろって言ったんだ。それで、助かったんだからもっと嬉しそうにしろと言った。だからそういうものなのかと考えた。だからそうしたんだ」

なぜ命を惜しまない行動をする事があるのか。積年の疑問の答えをこの兄は持っているのかもしれないと、その時思ったのだ。だから、白鳥光河はことさらに白鳥大河の後を追い、その行動を、言葉を模倣しようとした。そうすれば、何かがわかるかもしれないと思ったのだ。結局、命を捨ててなおその理由はわからなかったのだけれど。

「それで。この事は誰にも言わないでおこう、って言ったんだ。だからこの事を知っているのはおれと兄ちゃんだけの筈だ。違う?」

首を傾けて問いかければ、違わないよ、と兄は呟いた。消え入りそうな声で続ける。

「実を言うとさ。お前がここに来ておれを見た時に、思ったんだ。あいつが生きてたらこんな風だったんじゃないかって。おかしいと思うか」
「思わない。おれもあなたを見て同じことを思ったよ。前の自分が生きてたらそうなってただろうと」
「違う気がする。それは単に双子だからだろう」
「そうか」
「お前、死んでもそういうとこは変わんないんだな」

そう言って兄は笑った。ひどく疲れ切った表情だったが、それでも昔の大河と呼ばれていたころの笑い方に似ていて、かつての光河に向けていた眼差しをしていた。だからこそ、痛々しい表情だと思った。自分はこんな顔をさせるために死んだのではなかった筈だ、と今更になって思う。何のために死んだのかはわからないが、少なくともこれではない。

「自分の代役をやらせるような事になっているとは思わなかった。おれが、光河が死んでしまえば、永遠とか不死とかそんなものじゃないとわかって諦めるだろうと思ってたんだ。悪かったよ」

兄は何も言わない。川の水音と、遠くで鳴いているほととぎすの声だけが相槌のように響いている。

「そうしておれは死んで、次に天野恵祐として生まれた。この村がどうしているか気になって、それで雑誌の特集を見つけた。白鳥光河が生きている事になっていたから、何が起きたか知りたかった。だからここに来たんだ。そして、『おひかり様』を見たら、あれが話しかけてきた。あれはおれの同郷……滅んだ星の生き残りだ。そして──」
「待て、ちょっと待て」
「どうした」

兄はしばらく言葉を探してから「おまえはおれの弟の生まれ変わりで、しかも宇宙人だというのか」と絞り出すように言った。

「そうだ。理解が速くて助かるよ。あの星が消えるまではその星の民として、そして消えてからは地球の人間として生まれたり死んだりしていた。一つ前が白鳥光河で、今が天野恵祐だ」
「悪いがまったく理解できない」

掻い摘んで説明する。星が滅んだこと、ずっと人間の模倣をしながら生きてきたこと。兄はずっと頭を抱えていたが、それでもどうにか理解はしてくれたらしい。

「……だから最初から話すと星が滅ぶ云々から始まったのか」
「そうだ。他にどんな理由が考えられる」
「ふざけてるのかと思ったんだよ。……それで、続けてくれ。お前とおひかりが同郷で、それでどうしておれが気絶してうちが半壊することになるんだ」

星守は同胞を様付けで呼ぶことをやめたらしかった。もともとさほど信仰もしていなかったのだろう。それにしても、自分が気絶したところから、というのは奇妙に思えた。ふと頭を打っていたのを思い出して尋ねる。

「覚えていないのか。……というか、どこまで覚えている?」
「襖を開けたらお前が異様な状況でおひかりと向かい合っていたのは覚えている。それ以降の記憶がない」

ならば自分を降り注ぐ瓦礫から守ったことも覚えていないのだろうな、と思う。あの時、彼から見た自分は赤の他人でしかなかった筈だ。兄弟でなくてもそうするものなのかと聞こうと思っていたから、それは少しばかり残念だった。

「どうしてそうなったかというと、正直に言ってよくわからない」
「わからないって何だよ。お前がわからなかったら誰がわかるんだ」
「そうなんだが……何というか、まずおれが人間として生きているのが気に入らないらしかった。それと、おれに人間を捨てさせようと画策したのに人間に殺されたことにも腹を立てていたな。それで、兄ちゃんのことも再び殺そうとしているように見えたから割って入ったあたりから手が付けられなくなって広間が半壊した」

兄は頭を抱えていた。重い溜息とともに、指の間から睨めつける様な目。理由はよくわからないが、自分は同胞に引き続いてまたしても他者を怒らせているらしい。そう珍しいことではないとはいえ、ここに来てからはそんなことばかりだ。

「お前が何の説明もなしにあんなことをしたからって事じゃないのか」
「あんなことって」
「おれの代わりに死ぬことを選んだ」
「それはもう説明したじゃないか。それで、違わないって」

そこまで言って、かれは言葉を止めた。握りしめられた拳が震えているのが目に入ったからだ。余計なことを言わないほうがいいと、星の数ほどある経験が告げていた。

「いいか、おれはお前が光河ってことは納得したが、何でお前があんなことしたのかは全く納得してないからな」

存外静かで、それでいて地を這うように低い声。それ以上何かを言う気もなく、さりとて自分を逃がす気もないらしい。視線だけがこちらを縫い止めていて、言い訳のように口走っていた。まるで10歳の子供に戻ったような気分だ。

「だから兄ちゃんと同じことをしたまでだと言ったじゃないか」
「全然違う。おれは死ぬつもりじゃなかった。お前を助けようとしただけだ」
「おれだってそうだよ。それに、おれは殺されたところで肉体が潰れるだけだ」
「そんなことおれは何も知らなかった。起きたらお前も父さんもいなくなって、それでお前はおれの代わりになったと後から知ったんだぞ。それで。お前はずっと静かな土の下に独りで眠っていて、おれがお前の名前を使っているから誰ももうお前の名前は呼ばないんだなってずっと思ってた。そういう事を少しでも考えたのか」

父親まで死ぬことなどあの時点で想像がつくはずもない。それに、特に事情を考えていないのはお互い様だ。

「それじゃあ、あの夜に何もせずに寝てればよかったというのか。そうしたら死ぬのは兄ちゃんだったんだぞ」
「そうなるべきだった!」
「それで、おれが黙って星守にされていれば良かったというのか。永遠の器として祀りあげられて、兄弟を殺した連中に頭を下げて生きていれば、兄ちゃんはそれでよかったの」
「……それでも」
「他にどんな手段があったって言うんだ。あったなら教えてくれ。生まれつき人間だったやつならどうしたんだ」

生来の人間ならどうしたのだろうか。この星に流れ着いてから幾度となく繰り返した問いだった。かれにとって双子というものはいつだってその答えをくれる存在だった。生育環境と肉体的な成長の程度がほぼ等しい相手は、模倣においてそれらの差を補正する必要がないからだ。白鳥大河と天野恵祐の間にある共通項など、もはや時代と国籍くらいでしかない。過ごした月日も環境も異なっている今となっては、そのアドバンテージはほぼ失われている。この男が何を考え何をしようが、それをそのまま模倣することは出来ない。それでも、この男が何を考えて何を言うのかを知りたいと思った。

「普通の……いや、普通でなくても。お前以外の人間はな」
「うん」
「そもそも宇宙人の知り合いが同郷として話しかけて来たりはしない」
「……」
「おひかりに目をつけられた時点で人間の真似とやらには限界が来ていた」
「だとしても、他の生き方なんか知らなかった。ずっと模倣を続けてきたんだから」
「それならなんで表面しか真似しなかったんだよ」

怒声が森の静寂に響き渡る。鳥が驚いて飛び立つ音。虫の音すら鳴りやんで、残響が尾を引いて消えていく。

「……声を荒げてすまない。でも。おれがあの時川に飛び込んだのは、それ以外の方法を知らなかったからだ。知っていれば、可能であったなら、それがどれほど人間らしくなくてもおれはそうしただろう。あれは最後の手段なんだよ」
「西村も同じことを言っていた」
「大抵はそうだよ。……お前には死を選んでなどほしくはなかった。お前にとって、死がありふれた、取るに足らないものであったとしても。それがおれのためであっても。これがおれの我儘に過ぎなかったとしても」

それ以上兄は何も言わない。少しずつ虫の鳴き声が戻ってくる。それでも耳にはまだ先程の怒声が残っているようだった。

表面だけ、と彼は言った。そして行動は選択肢の制約の結果に過ぎないと言った。

選択肢の制約がなければ自分は何を望むだろう。夜明けには同胞と人間たちが衝突する。それを止める方法が、人ならざる己の中にあるのだとすれば。それを選ばないのは、外側だけの模倣としか言えない行為になるのだろうか。そうではない行動をするべきだとしたら、何をすればいいのだろう。自分は何をしたいのだろう。

表面だけの模倣。それにはとどまらない、内部論理ごとの演算。

ふと、この村に来る前の会話を思い出す。あの車に置いてあった演算装置。ソナーによる三次元での把握を可能として、それに基づいて内部構造を丸ごと計算するエミュレータ。それを思い出して、一つの閃きが脳内に走った。

あの「ソナー」の正体が、自分が考えている通りのものであれば。同胞を包む静寂の膜を破る事が出来るのではないか。永劫の沈黙に終止符を打てば、他者の殺害をもくろむことを辞めさせられるのではないか。あれが自分たちを殺そうとしたのは、その孤独故のことなのだから。

それはおよそ人間らしからぬ思考と行動ではあったが、それでも自分の願いであり、そして自分にだけは可能な行動だった。

「少しだけ思いついたことがある。もしかしたら、同胞と話が出来るかもしれない」
「あいつと話し合いに行くのか」
「そうだよ。……それで。多分ここは安全だから、ここにいてもらっても構わないのだけれど」
「わかった。行こうか」

言うなり兄は立ち上がって歩き出す。それが本堂の方向だったから、天野は慌てて立ち上がりながら呼び止めた。

「いや、まず西村さんのとこに行く。……ついてきてくれるんだ?」
「放っておくわけにもいかないだろう。星守としても……お前の兄だったものとしても」
「そうか」

今となっては兄弟ではないし、そして兄弟であったとしても彼は生まれつきの人間なのだ。何一つそんな事をする義理はない筈だが、天野は何も指摘しなかった。

「……それに、もう二度と会えないと思ってたから。近くにいられるんならそうしたい」

背後で付け加えられた理由は自分も持っていたものだったから。

くらい森を回り込んで本堂前の駐車場まで来れば、西村が車の前で何やら通話しているのが見えた。こちらの姿を認め、通話を切りながら手を振ってくる。

「お疲れ様です。そろそろ来ると思ってましたよ」
「無事で良かった。話は聞いていたのですか?」
「ええ、勿論。とはいえ私達といえど、どこから来たのかもわからない地球外生命体と意思疎通する装備なんか持ってはいませんよ」

西村は当然のように言い放ちながら白鳥にタオルを渡す。そういえば濡れたままだった。

「その心配はありません。ただ……その、そこに積んである地盤のエミュレータに手動操作モードがあるならそれで何とかなる」

他者の神経系に作用して信号を送り込むのも、岩盤など他の物質に作用して動かすのも、自分たちは同じ機構を用いて行っていた。その機構を人間がどう分類しているかは知らないが、自分たちの地盤への干渉と同じ形のソナーを発信できるのなら、自分たちの通信もまた再現できるはずだ。そして、その再現方法をここで確立出来るなら、今後の収容においても、あるいは技術の進展においても有益になるだろう。そう告げると、西村はいくつかの連絡を取り、溜息混じりに頷いた。

「夜明けには増援が来ます。それまでの間は好きにして構いません。どうせこちらは待機時間だし」

通信内容ならびにその機構について全て共有すること、というのが彼女たちの出した条件だった。その承諾と引き換えに、装置とそのマニュアルを閲覧するための端末が貸し与えられる。

「随分と気前がいいんですね」
「開発者がえらく喜んでましてね。あれは要るのかこれは要るのかこれの構造に興味を示すとはどんなやつなんだとえらくやかましいんですよ」

マニュアルを眺める。自分たちの言語は、簡単な意思を伝えるだけならさほど難しくはない。いくつかの指向性と周波数の調整、あとは翻訳さえどうにかすれば何とかなりそうだと踏んでいた。そのためには構造を把握する必要がある。

「ちなみに他に何を送ろうとしてくれてるんです?」
「設計思想に直結する論文4つと、あと界隈のレビュー論文とかで80ページくらいあるやつですね。8時間もないですし、いらないですよね?」
「流石に80ページを今からはきついですね」
「良かった。あれ落とすってなるとこっちも後の手続が大変だしこっちまで記憶処理受けることになるんですよ」

こっちまで、ということはやはり後で自分の記憶を消すつもりではいたのだろう。こちらが記憶を消される前に自殺して情報を持ちだすことは警戒していないらしい。油断と見るべきか、あるいは信頼と受け取るべきか。どちらにしろそんな事をするつもりはないのだが。

「そうだ。論文そのものはいいんですが、良かったらその人に聞いておいてもらえませんか。それらの参考文献、あるいはそのまた参考文献の中にR. Nardiって人間が著者に入ってるものがあるかどうか。機密にひっかかるようなら別にいいんですが」
「聞くだけ聞いてみましょう。で、ナルディ? フルネームのスペルは?」
「"Raffaella Nardi"です。100年ほど前に財団で研究していた理論物理学者で、私の5つ前の命でもあります」

なるほどね、と呟いて彼女はメッセージを送る。30秒もしないうちにその端末がけたたましく通知音を立てつづけに鳴らした。

「うわっ、彼女からこんな即レス来たことないですよ。……えっと、『NOV解析のNの事なら、NOVAシステムの根幹というか大前提』って言ってます。何のことかわかります? 私にはさっぱり」

天野、あるいはかつての白鳥光河、そしてR. Nardiあるいは亡星の漂流者は満足げな微笑を浮かべて答えた。

「ありがとう。それだけわかれば充分です」

人が限られた寿命の中で知りえた情報を書き遺すことも、それを次の人間が受け取っている事も知っていた。永い魂と記憶を持つ自分たちには不要なことだった。それでも、自分はその中に混じる事が出来ていたらしい。Vはわからないが、Oが誰なのかは心当たりがある。かつて机を並べていた彼らも、今となっては誰一人生きてはいないだろう。それでもあの日の己が望郷と感傷混じりに提唱した仮説は理論として、あるいは一つの技術の礎として確かにここに息づいていたのだ。

「ところで、おれは何か手伝えることとかあるんですか」
「あ、それなら村の人への説明とかの準備、手伝ってもらえませんか? 多分星守の協力があったほうがやりやすいので」

彼女の言葉に一つ頷いて、兄は歩いていく。その背に向かって「ついでに工具も借りられたら借りたいです」と声をかけて、それから装置に向き直る。マニュアルを開いて、かつての日々を思い出しながら読み進める。説明は丁寧で、脚注には見覚えのある単語がちらちらと混じっているから、さほど難しい事ではなかった。目を走らせながら、考える。それにしても、NOVA システムか。滅んだ星の日々を想って提案したものが、知らないうちに彼らの言葉で新星を想起させる名を冠しているというのはなんとも不思議な気分だった。

北半球の夏の夜は短い。作業が終わる頃には、細い月と明けの明星が東の空の低くに並んで夜明けの訪れを告げていた。さらに視線をずらせば、双子座の星が涼しい風の中で瞬いている。日の出まではあと30分ほどだ。それまでに決着をつける必要がある。

《聞け、亡星の ともがらよ。私はここに戻ってきた》

半壊したお堂の中心地、広間があった場所に向けて信号を放つ。強度を変えて、方向を探りながら。二つのメッセージを交互に放つ。

《見よ、露火の轍を。私は声を取り戻したぞ》

露火の轍とは故郷の言い回しで、流星のあとに残る光の筋を示す概念である。過去の光を携える者として、あるいはこの星に流れ着いた者として、名乗るにふさわしいものがあるとすればこれだろうと思った。故郷では個体という概念が希薄だったから、個体に結びつく名前というものがなかったのだ。

《どうやってその声を? 肉体を変えたのか?》

しばらく信号を放っていると、やがて返答があった。困惑と驚きをわずかに帯びたその『声』は自分にも、そして手元の装置にもしっかりと受け取られている。それを確認して、かれは返答を放つ。

《違う。人間の持っていた道具を借りて使っている。かつて故郷を想った露火の火種を、人がずっと守って育ててくれていた。だからこの肉体のままでもお前とこうして話す事ができる。なあ、私を、そして他の人間を殺さないでくれ。そんな事をしなくても私はここにいる》
《わかった。元より長旅に疲弊した身だ、無暗に力を振るうことはすまい》
《感謝する》
《かつて何度かその信号に似たものを感じたことがあったな。そうか、あれはお前の周辺にいた露火だったのか》
《届いていたのか》
《それで目を覚ました。同胞がこの星にいると知って、何やらこの星を移り漂っているようだったから呼び寄せようとした》

なるほど、と小さく呟く。ここしばらくは連続して同じ島に生まれ落ちるので珍しいこともあるものだと思っていたが、知らないうちに呼び寄せられていたらしい。そして、理解する。こいつもまた、この星に流れ落ちたのは自分一人だと思って静寂の中で生きてきたのだろう。そして永劫の静寂に倦んだからこそ、こいつは自分を呼ぼうとしたのだ。

《なあ。お前はその躰で岩としてここで眠り続けて。ずっと寂しかったんじゃないのか》
《どうだろうな。お前はどうだったのだ》
《わからない。必死で生きてきたからあまりそういう事を考える余裕がなかった》
《死ぬために生まれてくるような露火の器など選ぶからだ。お前はこれまでに不本意な死を何度迎えた? その分だと露火の短い寿命すら満足に果たせなかった事のほうが多いのではないか?》

繰り返してきた子供としての死を思い起こす。そうだ、自分が大人と見做されるまで育った割合は、死と生誕を繰り返してきた中では決して多いとはいえない。何度となく自分は幼いままに死を迎えてきた。人間として在る事に失敗した事も多かったが、それだけではない。生まれつきの「普通の人間」であったとしても、子供が大人になるまで生きているのが当然という環境は歴史的に見て珍しいのだ。親の腕の中で延命を願われながら息絶えた経験が、家族が嘆く声を聴きながら命を落とした記憶が、自分には数えきれないほどある。

《ああ、確かに自分は何度となく幼体として死んできたよ。でもその頻度も減ってきたんだ。どうしてだかわかるか?》
《知るものか》
《人の技術が進歩し続けているからだ。人が他者の命を望み、他者が死してなおその歩みを繋いで進み続けたからさ。私はそれを見て来たし、少しは携わりもした。それで、死ぬために生まれてきたのではないと思えたよ。露火とお前は言うけれど、消えてなおその輝きを遺せるんだ。むしろ星に近いとは思わないか》
《星とて我らの前には儚く滅んだというのにか》
《それでも我らは覚えていた。それと同じだ》

だから自分たちは今こうして言葉を交わしているのだ。はるか遠くの星で、滅んだ星の話をしている。それはおよそ人間らしからぬ行為であったが、それでも人の姿をして人の助力を得たからこそできた事だ。何度となく硬く踏み締められた地面。人の歩みの築いた路のさなかに、こうして自分は立っている。

《人間として在り続けたいと、そう在れてよかったと思うよ、私は》
《前の死因を忘れたか? 永遠に目が眩めば自分の子すら殺める者たちだぞ》
《次の死因はお前に圧死させられるところだった。そうならなかったのは身を挺してでも私を守ろうとした者がいたからだ。かつての家族だと知らずともそういう事をする者たちでもある》
《結果論だろう、それは。お前は偶然その種族に生まれ落ち、それを肯定するためにそう思うようにしただけだ》
《そうかもしれない。それでも、他の器を、朽ちない器を使いたいとはもう思えない。私はもう決めたんだ。儚いものと生きていくって。それが決して悪い選択肢ではないと、伝えたかった》

東の空は白み始めて、星はもう消えかけている。あと少しで夜明けと共に財団が来て、全てを終わらせるだろう。その前に伝えなくてはならない。

《私にもそれを選べと?》
《今やれとは言わない。それでも、いつか考えてほしい。すぐに人間たちが来て、直接は話せなくなるだろう。そして代わりにあれこれ調べられる機会が増えるだろう》
《調べる?》
《今の人間たちは……これから来る彼らは、我々のような「通常」ではないものを人から遠ざけ、秘匿し、研究するから。それでいいのなら構わないが、いつかそれに倦んだら……あるいは状況が変わったら、気が向く事があったら、いつか思い出してくれ。我々には露火の器で彼らに混じって生きていくという手段があるのだと。それはそう悪いものではなかったと》

沈黙。朝が来て、遠くから大勢の足音が近づいてくる。それがたどり着く前に、一つの信号。

《お前の言う事はわかった。この星が滅ぶまでの間には、一度は考えてみる事にしよう。そうして、そうなればお前を探してみる事にしよう》

《ああ。そうしたらいつかまた、この星で会おう。私も探すから。そして準備しておくから。人として在ろうという時に、参考に出来る情報を。お前がそれにたどり着けるように、作っておくから》

──定命種を模倣して生きていくためのデータベースを。基本原理、やった方がよいこと、やらない方がよいこと、それらを可能な限り網羅しておくから。知りえた情報を書き遺すということ、後から来た誰かがそれを見つけると信じること。それは決して、限りのある命だけの特権ではないはずだ。

その最後の信号が伝わったのかはわからない。送信の完了を確認する前に、財団の人間がやってきて同胞を確保してしまったから。それでも、最後に小さく笑うような気配を感じた。露火の身では、それを信じるほかにない。

財団が対処するのは異常物品だけではない。その周辺の人間もまた彼らの関心の対象である。今は異常物品を最優先で確保しているが、すぐに自分も身柄を抑えられることになるだろう。そしておそらくは星守として異常物品を管理していた兄も。その前にと車まで戻れば、装置を持ち出して空いた後部座席に兄が身を投げ出してぐったりと座っていた。無理もないことだが、相当に疲れた様子だ。そして運転席には西村が待機していた。おそらく彼女の仕事もここでほぼ終わったという事らしい。

「おかえり。しばらくは財団とやらに協力する事になったよ」
「そうなりました。星守の方が今後も協力してくれるのであれば、こちらとしても話が早いし記憶処理は最低限で済むので」

二人が交互に告げる。カバーストーリーを流布する上では星守の立場はあまり雑に扱えるものではないだろう、と踏んでいたのだが、当ては外れなかったらしい。白鳥はわずかに笑って続けた。

「大河に戻れるって言うんならこちらとしても文句はないし。そうなればお前の事も光河と呼べる」
「……そうか。それはよかった」

一つ安堵していると、「それで、おひかりとはどうだったんだ」と尋ねられる。話の内容を掻い摘んで話せば、彼は兄らしい眼差しでそれを聞いていた。

「まあ……大変だったな」
「でも、言えて良かったよ」
「そうか。……まあ、何だ。人として生きていきたくて、そのための何かを作るんならさ。まずは一つ、教えておくよ」
「なんだ」

白鳥は西村と顔を見合わせる。そうして二人の人間は殆ど同時に言った。

「『星が滅ぶまで』は約束の期限として使わない方がいい」


特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。