もういいかい?
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エリアパトロールは午前中に全て完了。
情報部の非常呼び出しも、最近はめったにかかってこない。

暇だ。

仕事が暇な分、気持ちだけが焦っていく。
あんなに忙しかった夏がまるで嘘のようだ。
だが考えてみれば運動会や食欲の秋等、怪しげなイメージと縁の薄い秋という季節は世間一般のオカルトとは食い合わせが悪いのだ。
桜木は昼食後の眠気と戦いながら、そう勝手に解釈した。
落ち着け、焦るな。きっと俺の実力を認めてもらえる機会がある。

財団日本支部サイト81-KA、エリアB、エリアオフィス02。
桜木はフィールドエージェントとして、小企業のオフィスに偽造されたこの小さな職場で先輩と二人、担当する地域で日々発生するささやかな異常に対処する仕事をしている。

夏の初めに当たった「金魚」1の案件は、我ながら良くやったと思う。でも、その後やった仕事と言えば、「幽霊を見た!」というTwitterの無数の書き込みに律義に反応したSNS異常投稿検知システム2の言うとおり、担当エリアの肝試しスポットにテントを張って、「何もなかった」事を丁寧に説明する書類を数十枚提出することだけだった。
大学を卒業したばかりの新米エージェントに任されるレベルの仕事だとしても、やはり物足りない。あれだけ駆けずり回ったのに、今にも消えそうな霊的実体、つまりオバケの痕跡が2件しか見つからなかったのだ。
これでは正式な報告書にもならない。せいぜいがAnomalousクラスリスト行きだ。

桜木の先輩であるエージェント千代巳は、8つしか年が離れていないにも関わらず、Keterクラスのオブジェクトに一人で対応・収容したことがあると噂に聞いていた。
そもそも彼女は採用の経緯からしても特例だった。異常の引き起こした事故に巻き込まれたにも関わらず、その場で対処し生還したのだ。そしてその場で財団にスカウトされた。まだ高校生の時だったらしい。
それに対して桜木は、財団が運営に関わっていた大学に偶然入学し、凡庸に大学生活を送る中で秘密裏に調査された身体能力や素行調査、性格テストその他で知らない間に好成績を修め、採用面接のオファーが来た…つまり、普通の採用経緯だった。
身体能力が高いのは当然だ。千代巳が一人で異常に対応していた高校生の頃、桜木は世界の裏側など全く知らずに甲子園で汗を流していたのだから。

あこがれの先輩と同じエリアの担当になったのは願ってもない事だった。
いつかは彼女と肩を並べられるようなエージェントになりたい。
だから、桜木としてはあの夏の異常検知祭りの間にEuclidクラス、最低でもSafeクラスの異常に当たりたかったのだ。

そういう訳で、桜木は仕事が暇な現状に焦っていた。幽霊の痕跡など、相手にしてる場合じゃなかったのである。
そうはいっても、異常はポンポン見つかるものではない。待ってる間は知識を詰め込め、死なないコツだ…それが千代巳のありがたい教えだった。
だから桜木はぶすっとした顔で財団の発行する月次報告書に目を通していたのだった。

月報には財団の様々な情報が記載されている。
異常に巻き込まれた職員の訃報連絡。
事故の報告と対応、事後の評価。
今月見つかった異常の簡易な説明のリスト。
丁度桜木が担当したつまらないAnomalousクラスオブジェクトの説明を読んでいるところで、眠そうな目をこすりながら千代巳が仮眠室から顔を出した。
午前のパトロールが終わってから、ずっと寝ていたらしい。

「おはよー。結構寝ちゃったわー。ごめんね。何してるとこ?」

「お疲れ様っす。今月分の月報読んでます、今読んでるのは新規のAnomalousのリストですね。」

「あー。ウチの案件ちゃんと載ってた?」

「問題なしっす。霊的オブジェクトの欄に2件。ちょびっとですけど」

「オーケーオーケー。それでも大事な成果だからな。Anomalousであろうとナメてかかると痛い目みるから、しっかり読んどきな。異常のパターンとか可能性がどんだけ頭に入ってるかが、生きるか死ぬかになったときに割と大事だったりする」

そんなことを言いながら、千代巳はお気に入りのマグカップになみなみと牛乳を注ぎ、自分のデスクに持っていった。
千代巳は根本的にデスクワークが苦手なようで、エリアオフィスの中では割とやる気が無い態度で過ごしている。が、桜木のあこがれはそんなことでは揺らがなかった。
自分の中でもう一度気合いを入れて、Anomalousリストを読み進める。大抵はなんだそれ、と力が抜けてしまうような異常ばかりだ。

自撮りするカメラ。
飛び降りの光景が映る窓ガラス。
何もつかめない箸。
必ず悪夢を見る絵本。

調査後は特に研究されず、無造作にロッカーに放り込まれたであろうAnomalousクラスの「ただ異常な」アイテム達。
その発見経緯と調査方法、収容経緯を根気よく頭に入れていく。

 
1
 

 

一定のペースで月報のページをめくっていた手がふと止まった。
違和感。何だ、これは。

Anomalousクラスリストはその収容に関わった責任者の名前も一緒に掲載される。
その名前が、文字化けしているのだ。いや、文字化けというより、読めない。
文字がそこから剥ぎ取られたように、意味を成す形をしていない。

こんなことってあるのか?

とりあえず、そのAnomalousアイテムの説明を読む。

 

概要: Anomalous-9128は    である。N区M町、K公園で発見、その場で    が収容した。
説明: 5メートル程度の範囲内にいる人間に、「もういいかい?」と声が聞こえ続ける。音の発信源は不明。
「まだだよ」と答えると、声は止まる。

 

以上。
シンプルな異常だ。文字化けの件がなければ、読んでも違和感に気付かなかったかもしれない。
だが、この説明は明らかにおかしい。そう、「もういいよ」はどうなった?

「もういいかい?」と声が聞こえるなら。
もういいよ」と答えた時にどうなるかも調べるのが財団じゃないのか。
何故、「まだだよ」の場合しか記載されていない?

桜木の頭の中で見えない警報が鳴り響いた。

「チョミさん、すみません、月報に妙な記載が」

「何、月報…?ちょっと見せてみ」

千代巳は投げ出された手足を蜘蛛のように折りたたんで近づき、素早く月報をのぞき込む。

「ここの文字化けもおかしいんですけど、説明にも違和感があります。もういいかい、と聞かれる異常なら、まだだよ、以外に『もういいよ』と答えた場合の調査もするべきです。でも、それが記載されていない。」

ふぅん、と千代巳は目を覆っていた髪をかき分けながら何度か資料を読み返す。

「確かにおかしい。月報のAnomalousリストは確か、管理者権限を持つ職員が全部目を通してるはずだ。Anomalous管理部門の部長か、副部長。ちょっと確認してもらおうか」

千代巳は端末を弄ってサテライトオフィス3に通話を繋げる。

「はい、こちらサイト81-KA、エリアBサテライト、オペレータ黒木です。何か?」

「クロちゃん、こちら千代巳。今月分の月報のAnomalousリスト部分におかしな記載があった。悪いがそっちの権限で、リストの承認者を確認してくれないか」

「承知しました。えーっと、あれ。おかしいな」

「どうした?」

「すみません、確かにAnomalous管理部門の承認の痕跡はあるんですが、担当者名が文字化けしてるんですよ」

「なんだって!?」

どこか、遠いところで歯車がかみ合う感覚があった。
桜木は予感していた。これは、リストの文字化けと繋がっている。
現に、桜木は思い出せなかった。サイトでも顔を合わせたことがあるはずだ。良く知っているはずの――

「チョミさん、Anomalous管理部門の副部長。副部長の名前、思い出せますか?」

「あ?副部長なら、確か――」

千代巳もすぐに気付く。副部長が顔なじみだという記憶はある。だが、その名前も顔も思い出せない。

「マジか。思い出せない。部長は解る、柏木サンだ。でも、副部長が消えてる、記憶から。」

通話の向こうで息を呑む音が聞こえた。黒木オペレータが緊張した声で返す。

「すみません、私も思い出せません。絶対に知っているはずなのに」

「クロちゃん、サイトの感圧センサー4から、ここ数日で人の出入りがなくなった部屋や、副部長権限の使用状況を調べてくれないか」

「しょ、承知しました」

「ウチらも紙の資料とかを当たってみる。何か解れば教えてくれ」

通話が切れ、千代巳はやれやれと首を振りながら笑った。

「桜木、お手柄だな。こいつはただのAnomalousじゃないかもしれない」

「ありがとうございます、関わった人がどうなったかが気がかりっすけど」

「そればっかりはな。この仕事してりゃ皆覚悟の上だ。ウチらも地雷を踏まないように、気を付けて調べるぞ」

「っすね」

 


 

調査を始めて10分程度たった時、再度黒木オペレータから連絡があった。

「ここ一週間の感圧センサーログを確認しました、月報承認後から人の出入りの無くなった部屋が最低2つありました。内一つは部長室の隣なので、副部長はこの部屋で執務していたと考えられます」

「ナイス。もう一つの部屋は?」

「位置的に、研究室がまるまる一つ。一応この期間に解散された研究室と照合しましたが、該当はありませんでした。そしてもう一つ、部長の残業時間、及びサイト81-KAのいくつかの研究チームの残業時間が月報承認後から跳ね上がっていました。恐らく、消えた副部長と研究室の持っていた作業が何らかの改変によって『自然に』該当の職員に引き継がれたと考えられます」

「記憶改変と現実操作か、手ごわいな。良く調べてくれた」

「いえ。副部長達は月報の承認に伴って消失したんでしょうか」

「かもしれないな。桜木はどう思う」

「このAnomalousオブジェクトが関係していると思います」

千代巳は満足げに笑って続きを促す。
桜木は背筋を伸ばして、考えていた説明を話し始めた。

「Anomalous-9128は、関係した用語や担当者の情報、そして何より財団として確認すべき実験が欠落しています。月報にAnomalousを掲載する場合はAnomalous管理部門の最高権限が必要で、恐らく消えた副部長が承認したと思います。本来なら情報の欠落は副部長によって指摘された筈ですが、指摘されずこのオブジェクトはそのまま掲載された。つまり、副部長は情報の欠落を知りながらAnomalousの掲載を承認したことになります。」

「なるほど」

黒木オペレータのメモを取る音に、少し緊張しながら桜木は続ける。

「不十分な報告の掲載を許可したということは、副部長は自分が消失することを解っていたと考えます。研究室がまるまる一つ消えている事から、このオブジェクトを担当した研究員が実験の過程でこのオブジェクトによって消失し、このオブジェクトが危険な事が解った。でも研究室の全員が消失する条件を満たしてしまった為に、ありえないAnomalousとして月報に掲載して、何とか情報を残そうとしたんじゃないでしょうか」

「消えちまったら危険なオブジェクトであることを知る職員もいなくなっちまうからな。月報に情報を残すために、副部長は自ら巻き込まれたってことかもな」

「はい、そう考えます」

「うーん。推測も多いですが、納得出来ます。案件として、チームを立ち上げた方がよさそうですね。桜木君、その消失する理由…条件みたいなものは目星がついていますか?」

「説明文には『もういいかい?』と聞いてくるとありました。恐らく、その問いかけに対して記載されていない答え方…『もういいよ』と答える事、だと思います」

「ウチもそう思う。月報を見る限り、オブジェクトはまだサイト81-KAに保管されてるはずだ。十分に気を付けて調査してくれ」

「了解です。お二人もサイトに戻って調査されますか?それとも――」

「待て、クロ!」

黒木オペレータの言葉を千代巳が遮った。静寂の中に、小さな、それでも確かにピタピタという軽い足音が聞こえた。
ザァっと両腕に鳥肌が立つ。
この感覚は良く覚えている。夏に本物の霊的実体――『異常』に出会ったときの感覚。
それを数十倍に煮詰めたような悪寒がする。

足音はオフィスの真ん中まで入ってきていた。
何もないのに、確かに目の前に濃密な『異常』があった。
そして、その異常が口を開いた。

〈サクラギクゥン。モウイイカイ?〉

 
2
 

何十人もの子供の声を歪にまとめたような音だった。
聞いているだけで膝から力が抜けていく。
何で俺。何で名指しで?あのオブジェクトの異常性なのか、これは。

〈サクラギクゥン。モウイイカイ?〉

問われている。目に見えない、無数の視線を感じる。何か、何か答えなきゃ。

「桜木、『まだ』だ。まだ。落ち着いて答えろ」

千代巳が押し殺した声でそう言った。
緊張して声が上手く出ない。それでも、絞り出した。

「ま、まだだよ!まぁだだよ!」

一瞬の沈黙の後、またぺたぺたと足音がして、気が付けば異常はそこから去っていた。
兎に角、今は助かったのだろうか。
足に力が入らず、桜木は椅子に寄り掛かった。千代巳が慌てて駆け寄って体を支える。

「桜木、大丈夫か!」

「すみません、チョミさん、ありがとうございます。あれ、Anomalous-9128の異常性ですかね。俺、オブジェクトには近づいてないのに」

「きっと異常の発生する条件が違ったんだ。オブジェクトに近づくことの他に、恐らく…オブジェクトを知った状態であの言葉を言う事も条件に含まれていた。ウチは思ってても口に出しては言ってなかったからな、桜木が狙われた」

あの言葉…『もういいよ』。あの声の主は、桜木を狙ってやってきたのだ。異常なかくれんぼを始めるために。もういいよ、と言わせるために。きっと、また来る。

「桜木、次いつあの問いかけが来るか解らない。なるべく会話を避けて、聞かれたら『まだだよ』。これを徹底しろ。出来るな?」

「はい、何とか」

「クロちゃん、聞いてたか?桜木が目をつけられた。恐らくあの言葉を言うだけでオブジェクトの問いかけの対象になるみたいだ。そっちのチームに注意を徹底してくれ」

「…了解です。桜木君は大丈夫ですか?」

「すんません、黒木さん。大丈夫っす、とりあえずあの言葉を言わないように気を付けてれば良いと思うんで」

「桜木は解決法が解るまで今後もあの異常に狙われる可能性がある。ウチと桜木は独立して調査して、必要な事をする。クロちゃんはチームで解決法を探ってくれ」

「解りました。ところで通信は『モウイイカイ?』」

突然通話音声にノイズが混じって、黒木オペレータの声が子供の金切り声のように捻じれた。
問われている。

「まぁだだよ!」

「は、桜木君?まだ、とは」

「通話にも干渉してくんのか!クロちゃん、今通話が、ってかクロちゃんの音声が異常に乗っ取られた!この通信は切る、何か解ったら連絡してくれ。」

「は、はい。切りますね」

 


 

「厄介だな」

通話を終えた千代巳が呟く。声が上手く出ず、桜木は頷いた。

「こっちはこっちで考えをまとめよう。もういいかい、に対してあの返事をすると、恐らく実体が消える。記憶からも消されるから消えたことに周りが気付きづらくなる。」

「はい。あの言葉は、本来かくれんぼ開始の意図があります。ずるいのは、相手はこっちを見つけた状態で聞いてきている事です。なので、答えた瞬間に見つかって、ゲームに負けて…消える」

「ゲームの負けが消失に繋がる、という考え方だな。ウチもそう思う。Anomalous含め、異常な物体には何らかのルールを課すものも多い。ゲームに誘う言葉を聞いてくるってことは、きっとそうなんだろうな」

「そもそもかくれんぼは鬼が諦めるまでゲームが続きます。勝ち筋が無いから、ゲームの攻略という方向だとジリ貧かもっすね」

自分で説明しながら、心は折れかけていた。口が自分のものじゃないように回る。一見冷静に喋れているが、桜木の本心は絶望感でいっぱいだった。一方的に仕掛けられた勝ち筋の無いゲーム。俺が消えずに何とかなる方法は、本当にあるのだろうか。消えるのだろうか。まだ、何もしていないのに。

チョミさんに、追いつくことすら出来ずに、俺は。

「桜木」

ゆっくり、千代巳が名前を呼んだ。舌のピアスを歯に当てる音がする。彼女の癖だ。

「大丈夫だ。絶対にどこかに手段がある。諦めずに探そう」

目が熱くなって、顔を伏せた。そうだ。こんなところで消えるわけには行かない。

「…っすね。すんません」

「良いィよ。とにかく、ジリ貧になっちまうと厳しいから、こっちから打てる手を打とう。次の問いかけの時に、例えば『一抜けた』って言ってみるとかな」

「ゲームから抜ける言葉、っすね」

そこからは、二人で次の問いかけに対する返答を夢中でメモに書き連ねた。桜木にとって、自分に迫っている消失という危機を忘れるのにも、それが一番効果的だった。

一抜けた。
先に帰るね。
今日はおしまい。
また明日。
遊びは終わり。

次に試す言葉を一通り書き終わったところで、千代巳がそういえば、と口を開いた。

「なんで、あのタイミングだったんだろうな」

「タイミング?」

意図が解らず、桜木は聞き返す。

「桜木が狙われたのは、あの言葉を口に出したからだ、と仮定しただろ。そしたら、桜木があの言葉を言った瞬間に『もういいかい』を聞かれててもおかしくないじゃないか。」

「はぁ、確かに」

「実際には、それからある程度時間がたった後で、足音がして、あの声が来た。あの足音…」

「そうか、アレは歩いて来た…?」

言いたいことが解ってきた。

「オフィスの映像ログを確認してみるか。桜木がAnomalousの異常性に気付いて、あの言葉を口に出したのが…」

13時52分。桜木が『もういいよ』という言葉を使って、異常性を説明する映像。

「で、あの異常がやってきたのが…」

14時10分。桜木が恐る恐る、『まぁだだよ』と答える映像。

「タイムラグ、ありますね。18分も…」

「あのオブジェクト自体は、サイト81-KAのAnomalous管理棟にまだあるはずだろ。サイトからこのオフィスまで、10キロメートルも無いよな。あの異常性は、問いかけをする本体みたいなのが、実際に移動する必要があるんじゃないか?」

「そうか、18分で10キロとしたら…時速33キロぐらいっすね!もしかして、これ以上の速さで動き続ければ、異常性が追い付けないんじゃ…」

「それだ!やってみる価値はある!桜木、車に乗るぞ、環状線を走り続ければ時間稼ぎぐらいには…」

だが、一歩遅かった。
桜木の第六感は既に近づきつつある異常に気付いていた。
ぺたぺた。足音がする。
何十もの、未熟な素足が歩き回る足音がする。

〈サクラギクン、モウイイカイ?〉

問いかけが来た。寒気のする、人間の真似事のような声。
千代巳が急いで車に乗れ、とジェスチャーで伝える。
桜木はさっき考えた返答を思い出して答えた。

「一抜けた!」

〈サクラギクン、モウイイカイ?〉

駄目だ。それでも試す価値はある。
車のある駐車場への階段を駆け下りながら、桜木は叫ぶ。

「先に帰る!」

〈サクラギクン、モウイイカイ?〉

「今日はおしまい!」

〈サクラギ〈サクラギクン、〈サクラギクン、モウイイカイ?〉モウイイカイ?〉クン、モウイイカイ?〉

「くっそ、また明日!遊びは終わり!まだだよ!何回聞いてくんだよ!」

車の助手席に飛び乗る。
窓ガラスがバン、と大きく震えた。誰かに掌で叩かれたように。
加速する車が全方位からたたかれている。
一緒に、ずっと子供の甲高い捻じれた声が聞こえ続ける。

〈サクラギクン、モウイイカイ?〉
〈モウイイカイ?〉
〈モウイイカイ?〉
〈モウイイ?〉
〈モウイイヨネ?〉
〈モウイイダロ〉
〈モウイイ?モウイイ?〉

恐怖に固まりそうになった桜木を、千代巳の叫び声が現実に戻す。

「まだだ!桜木、やめんな!まだだっ!」

そう、まだだ。逃げなきゃ。俺はまだだ、まだだ!

「まだだ!まあだだよ!まだだ、まだだよ!まだ、まだだ!まだ、まだだっつってんだろ!」

ガラスが震える程叫んだ後、ピタリと声は聞こえなくなった。
速度メーターを見る。40キロ、50キロ、60キロ。
千代巳がアクセルを踏み込む。

「やっぱり時速33キロ説は正しかったかもな。子供の足じゃ車にゃ追い付けないだろ」

時間稼ぎということは解っている。本質的な解決にはなっていない、それでも逃げる方法が解った。
そのことが、桜木の限界まで緊張していた体と心を弛緩させた。

【目的地までの案内を終了します】

カーナビの音声。目的地案内を設定していたままにしていたのだろうか。
桜木は反射的に、いつも助手席でやっているようにカーナビのポップアップを消そうと手を伸ばした。

「桜木、待て、それ!」

桜木は、緩んでいた。だから、気付けなかった。
ポップアップに書かれていた文言、それは。

【目的地までの案内は、もういいかい?
はい
いいえ

気付いた時には、桜木の指は「はい」を押してしまっていた。
バン!と車のガラスが叩かれた。

〈ミィツケタ!〉

たくさんの子供の声が聞こえた。

3
 

 

「桜木、おい、桜木!」

チョミさんの声が聞こえる。桜木は目を開けた。まだ、消えていなかった。
車はいつの間にか路肩に止まっていた。
チョミさんの細くて白い指が、痛いほど肩に食い込んでいた。

「チョミさん」

「お前、アレ押した後、すぐ倒れたんだ。まだ5分も経ってないけど…カーナビに干渉されてたんだ。お前、何を押した」

やっぱりか。夢じゃなかった。俺は、ミスった。

「すんません、チョミさん。案内は、もういいかい、って出てました。俺、反射で、はいって押して」

「クソッ!!!」

チョミさんは拳をハンドルに叩きつけた。
いつも自信満々のチョミさんの顔が青い。あのチョミさんが、俺のせいで。

「いや、直接答えたわけじゃねぇ。それに、消えるって決まった訳じゃねぇ、そうだろ」

チョミさんが無理やり元気づけようとしているのが痛いほど解った。目に涙が浮かんでいた。
俺は、チョミさんの初めての後輩だ。ごめんなさい、俺のせいで。

「すみません、チョミさん。見つけた、って言われました。多分俺は」

「消えねぇって!まだ大丈夫じゃんか。とにかく、一旦サイトに戻ろう、クロちゃんと合流して」

「いや、副部長も承認してから消えてたんです。俺も多分もうすぐ。チョミさん、家族に伝えてください、俺は――」

「まだ消えてねぇだろ!!!!」

ほとんど殴るような強さだった。
チョミさんが肩を掴んだのだ、とぼんやり解った。
肩が熱い。チョミさんの熱が伝わってきて、少し腕に力が戻った。

「諦めんな!桜木、諦めんなよ!何か、まだ出来ることがあるかもしれねぇだろ!」

そうか。
そうだ。
まだだ。俺は、まだ何もしてない。
情けない。
やることをやろう。財団職員として、やれることをやろう。
鼻水をすすって、袖で目頭を拭う。泣いてる場合じゃないんだ。

「すんません、チョミさん。そうっすね、まだ消えて無い、俺は」

「…よし」

桜木の肩から千代巳の手が離れた。
それでも、桜木の体は熱と力を取り戻していた。

「とりあえず、サイトまで戻る。それと、クロちゃんと合流して、出来ることを考えよう。」

消えるまでのタイムラグ。そのおかげでまだやれることがある。
そういえば異常がやって来た時にもタイムラグがあった。
そして、見つかった後もタイムラグがある。
この時間差は、何だ。

「チョミさん、俺、何で消えてないんですかね」

「解らないけど、消失までは恐らくタイムラグがあるんだ。副部長もAnomalousリストを承認してから消えてるし、何か次に残せるぐらいの時間はあるはずだ」

「かくれんぼって、見つかったらその場でゲームオーバーですよね。遊びのルールと違う…」

「そういえばそうだな、ルールが違う…」

一度諦めたからだろうか。
桜木の頭は冷えて、これまでにないほど回転していた。
気付かなかった事を思い出せる。ハマらなかったピースがどんどんハマっていく。

「Anomalous-9128は、何かである。N区M町、K公園で発見、その場で誰かが収容した。収容している現実の実体がある。公園で見つかっている。公園で、実体がある…」

かくれんぼで道具は使わない。
じゃぁ、Anomalousとして保管された、現実の実体は、何だ?
すぐに桜木は答えを見つけた。

「チョミさん!サイトまで、大至急で!Anomalous-9128を取り出してください、俺がすぐに触れるように!」

千代巳は驚きながらもアクセルを大きく踏む。車が加速して、夕方に差し掛かろうとしている大通りのぬるい空気を切り裂く。

「何か解ったのか?」

「チョミさん、このゲーム、かくれんぼじゃないっす。これ、缶蹴りです!」

消えるまでのタイムラグがあったのは、桜木が実際にはまだ負けていないから。
見つけられて、鬼が缶の場所まで戻って、名前を呼ばれて初めて負けになる。
ならば、名前を呼ばれる前に、こっちが鬼より先に缶を蹴ってしまえば。

「――そうか、タイムラグは鬼が帰ってる時間か…!桜木ナイスだ、缶蹴りならまだ勝てる!」

千代巳は更にアクセルを踏み込んだ。90キロ、100キロ。
時間がない、鬼は先にサイトに向かったのだから。
いつの間にか、車の上にはパトランプが光っていた。
財団の偽装だろう、法定速度を超えても違和感が少ないように。
千代巳は更に大通りを飛ばしながら通信を繋ぐ。

「はい、こちらオペレータ黒木です!」

「クロちゃん、悪いけどウチらの車、これからサイトまでノンストップにしてくれ!クロちゃんの権限でオールグリーン:プロトコルを頼む!」

「緊急事態ですね、了解です!後で報告書を!」

通話越しに、黒木オペレータが何か叫ぶ声が聞こえた。

「今の、何したんです」

「見てりゃ解る。それより桜木、ウチの端末の連絡先、一番下に繋いでくれ。綿森だ。あの人、公式通信を無視するから」

言われるがままに連絡先から登録されている名前をタップする。綿森博士。千代巳がたまに話す、偏屈な老人の名前だ。
コール音が馬鹿に長く感じる。頼む、早く出てくれ。
10コール目でようやく通話が繋がったが、通信先の相手は無言だった。構わず、千代巳は叫ぶ。

「綿森サン!Anomalous-9128の持ち出し許可を頼む!ウチの後輩が生きるか死ぬかなんだ、こっちは運転で忙しい!5分以内で、クリアランスLv1で入れる場所5まで持ってきてくれ!詳細は月報見てくれれば解る!」

たっぷり10秒待った後、低い声が端末から聞こえた。

「了解した」

それだけで通信は切れた。

「Anomalousの持ち出しって、出来るんですか」

「出来なきゃどうすんだよ、桜木、お前Anomalous管理棟の前で権限が無くて立ち往生したいのか?」

「いや、だって説明…」

「大丈夫だ、綿森博士なら。それよりお前はサイトについたら全速力で走る事だけ考えてろ。鬼に勝てなきゃ、どっちにしろお前は消えるんだぞ!」

車は相変わらず100キロ以上で飛ばしている。
ようやく、桜木にもオールグリーン:プロトコルが何を意味するのか解ってきた。
信号が、千代巳の車の前の信号だけが常に青なのだ。
他の車は同じ道をほとんど走っていない。

「これがオールグリーンだ。ここは財団の根付く街だ、緊急事態なら全ての交通が制御できる。この通りに入ってくる車を絞って、ずっと青信号にする。鬼を追い越すぞ!」

 


 

パトランプをつけた車が乱暴にサイト施設前に止まる。
桜木は放り出されたように警備された施設に走っていく。

「走れ、桜木!」

車から、千代巳が叫ぶ。

「ハイ!」

桜木も叫んで、ぶつかるようにセキュリティパネルに職員証を押しあてた。
走れ、走れ。Anomalous管理棟まで、まだ遠い!
サイト内部では緊急音声が流されていた。

『サイト81-KA緊急通達!通路の端に寄って止まってください!桜木エージェントに道を開けてください!Anomalous管理棟までの通路を開けてください!』

黒木オペレータの声だ。誘導してくれているのか、ありがたい。
走れ、走れ。負けるわけには行かない。
誰が諦めるか!

『桜木君、急げ!感圧センサーがもう一人、走っている何かを捉えてる。すぐ後ろだ、急げ!』

後ろにいるのか、鬼が。
追い越したのか、鬼を。
チョミさんの運転に感謝しなきゃ。
オールグリーンプロトコル、あれは気持ちよかった。
走れ、走れ。誰が諦めるか!
俺はまだ、まだだ!

『桜木君、綿森博士がAnomalous-9128を持ち出した!後少しだ!』

後ろから、べたべたと足音が聞こえる。
あいつが、後ろで追いかけてきている。
でも、怖くない。もう怖くない。

「桜木、頑張れ!」
「走れ、桜木!」
「桜木君、右!あとちょっと!」

すれ違う職員の声援が聞こえる。
ありがとう!
あぁ、夏。
異常なんて何も知らなかった甲子園を思い出す。
チョミさんが戦っている間、何も知らずに走っていたあの頃を思い出す。
無駄にしたと思った夏も、きっと意味があるのだ。
走れ、走れ。俺にはそれだけだ!
出来ることをやるんだ!
俺はまだ!

通路の奥に、白衣の小柄な老人が居た。
綿森博士だろうか。
彼は想像通りの、古い錆びた空き缶を持っていた。
あれがAnomalous-9128。

「桜木君、さぁ。」

綿森博士が、そう言って、地面にAnomalous-9128、缶蹴りの空き缶を置いた。

「缶蹴った!!!」

コーンと、缶が宙に高く舞った。
ゆっくりゆっくり、缶は落ちて、カランと転がった。

たくさんの子供達の笑い声が聞こえた。

〈マケチャッタ!〉

そして缶の周りに、良く知ったAnomalous管理部門の和田副部長と研究員達が転がっていた。

 
4
 

 

財団日本支部サイト81-KA、エリアB、エリアオフィス02。
エージェント桜木は小企業のオフィスに偽造されたこの小さな職場で、担当したEuclidオブジェクト――『空き缶』の収容経緯と手順の説明を書いていた。

『もういいよ』がトリガーであったこと。
空き缶から『鬼』が時速33キロ程度でやってくること。
通話やカーナビに干渉出来ること。
見つけられて、缶まで戻られると、世界から消失すること。
『鬼』より先に缶を蹴れば消失を防げること。
消えた人はこれによって戻って来ること。
爆走するパトカーの話題は、情報部の尽力でそれほど広がらずに忘れられた事。

「収容報告書の進捗はどうよ」

千代巳が牛乳を飲みながら報告書をのぞき込む。

「良い感じっすよ。もう二度とああいうのは嫌ですけど」

千代巳はカラカラと笑って、そうだろうな、と呟く。

「ウチだって、いつも怖いよ。桜木も、十分怖さは解っただろ」

「はい。でも、次からは覚悟も出来ます」

「ああ、そうしろ。まぁ、今回はほとんど桜木一人でやっちゃったからな、先輩としても誇らしい」

ほとんど一人だなんて。
あの時、諦めずに声をかけて貰えなければどうなっていたか。
まだまだこの人にはかなわないな、と思う。

「チョミさん」

「ああ?」

「いえ。ありがとうございました」

「なンだよ」

照れたようにチョミさんは笑って、つられて桜木も笑った。

運動の秋。
きっと大運動会の末に捕まえたEuclidを、俺は忘れないだろう。

「今度、缶蹴りしましょうよ」

「ええー、ウチはオフィスでゴロゴロしてたい」

そう言って千代巳は仮眠室にそそくさと戻ったのだった。

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