無限の愛への追悼を
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淹れたての紅茶からやわらかい湯気がゆっくりとのぼり、霧散して消えていく。 それを辿って顔を上げれば、青い絵の具に水をぶちまけ薄く透き通らせたような雲ひとつない空が目にしみた。今晩は空一面に星が見えそうだ。木々をざわめかせる風が、名も知らぬ鳥のさえずりを運ぶ。先程までの緊張が嘘のような穏やかな午後だ。

「で?奥さんとはどうなんだ」

正面に座っている先輩の手の中にも、金の模様で縁取られた白いカップがある。香りが良いのはやっぱり茶葉が良いからだろうか。

「えっと、まあ…式の準備は進めてて…」
「へえ。子供もいるんだろう?」

先輩の問いかけに対し少し照れ笑いを浮かべると、後ろから同期が声をかけてきた。

「やるこたやってるわけだ」
「やめろよ」
「事実だろ?で、いつ招待状が貰えるんだ?」
「まだそこまで決まったわけじゃないさ。ドレスも見に行きたいし、式場も…でも時間がな」
「まあこんな仕事だからな。仕方ないか」

同期との話を聞いていた先輩が苦笑しながらそう言った。まだニヤついたままの同期をちょっと小突いてから恥ずかしさを誤魔化す様に口を開く。

「ねえ先輩、異次元行った事あるんですよね?話してくださいよ」
「だから、それは追々な」
「いいじゃないですか、少しくらい」

ちょっと粘ってみると、それに加勢するように同期が「俺も聞いた事ないですね、教えてくださいよ」と続く。実際興味はあるのだ。俺も同期もまだまだしがない新人で、命の危険がある任務どころか目に見えて大きな異常性のあるオブジェクトにでさえ全く当たったことがない。異次元なんてそれこそ、話で聞く程度のものだ。それでも、なんとかって隊は全滅して後からオブジェクトの内部探査に関する手記が発見されたとか、異次元から隊長1人だけが生還し音声記録にはおかしなものが残っていたとか、そういった話だけは流れてきている。恐ろしいものへの好奇心というのは人間の性だろう。自分だってそんな経験をした人を前にして、その経緯や顛末が気にならないはずがなかった。その様子を察したのか少しため息をついた先輩は、渋々と言った風に口を開く。

「仕方ないな…あれは一年くらいまえだったか…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「失礼します」

がちゃり、というドアノブが捻られる音と共に唐突に背後から聞こえた声に咄嗟に振り返ると、そこには三年ほど前にこのサイトへ来た新人の青年がいた。私の元で働いている研究員補佐だ。洞察力もあり、努力家でもあり、評価も悪くない。所謂、優秀な人材というやつである。しかし彼が例え優秀でなかったとしても、ここで働いており尚且つこの部屋を知っている人間ならば状況を察することが出来ただろう。

「…すいません、ノックはしたんですが……あの、また見ていらっしゃったんですか」
「…ごめんなさい」
「そんな…謝られるようなことじゃ………すいません」

人差し指で停止ボタンを押してから黙って立ち上がる。背中が痛い。どれくらいの時間これを見ていただろうか。時計を見ると、もうそろそろ退勤しなくてはならない時間帯だ。明日の業務に差し支えるようなことがあってはいけない。それがこれを見る際の「決まり」なのだ。しかしどうにも名残惜しくて停止した画面をぼんやり見つめていると、手にしていた書類を棚に戻した青年が口を開いた。

「…まだ待っているんですか」

穏やかな声だった。別に私を責めているのでも、詰っているのでも、嘲っているのでもない。しかしそれが分かっていても、ほんの少しだけ呼吸が詰まった。目の前の止められた空間が酷く遠いものだと思い知らされるような、嘘だとぶち壊したくなるような、一瞬の逡巡。それから少しだけ息を吐いて、なんでもないように言う。

「前にも言ったけど、もう12年よ?とっくに諦めたわ」

停止した画面に映った情景から視線を逸らし、静かに目を閉じる。そう、とっくの昔に諦めたのだ。とっくの、昔に。
 
 
 
 
 
さて、例えばの話。この世界に永遠があるとして、永遠の愛は美しいものだろうか。
 
 
 
 
 
機動部隊-た-18。あの人の、本来私の夫になるはずだった人の在籍していた機動部隊だ。隊長のことも、他の隊員のことも知っていた。皆良い人たちだった。気さくで、真面目で、少し感情表現が下手だったり口が悪い人もいたけれど、良い部隊だった。財団の記録上では全員行方不明扱いとなっているが、彼らはこの一枚の薄っぺらいCDロムの中で今も確かに生きている。いや、生きているのだと私は思い続けている。現在このCDロムは再生と停止の操作以外を受け付けないが、再生しようが停止してようが私にとっては同じことだ。

5年前も、10年前も、彼はここにいた。そしてきっと、5年後も、10年後も、彼はここにいる。ここで、この中で、あの穏やかな任務後の昼下がりが永遠だなんて思いもせずに生きている。尽きることのない時間の中、尽きることのない紅茶を飲みながら、「そろそろ撤退するか」と誰かが声を上げるのを待ち続ける。私が今よりもっと老いさらばえていつの日か暗い土の中へ還っても、穏やかに笑いながら生き続ける。しかし「彼は私を一人置いていったのだ」というには語弊があるだろう。彼は死んでいない。むしろ私を心の底から余すところなく愛した誠実で真っ直ぐな彼のままだ。

置いていくのは、私のほうだ。老いていくのは、私だけだ。

あの人の時間は止まったまま、私は一人老いていく。しかしそれは、彼が今後歩むはずだった財団の機動部隊員としての人生より遥かに穏やかなものであることは間違いない。今を誤魔化すための言い訳だ?そうかもしれない。それでは生きている意味がない?ああ、そうなのかも。あまりに無意味な詭弁だ?その可能性もある。気が狂っている?

…ああ、好きに言えばいい。笑えばいい。哀れめばいい。だってどうせ、どうにもならないのだから。

この時が永遠に続けばいいのに。
そんな少女の戯言がどれほど醜いのかなんて、私は知らなかった。

あの人は永遠に私を愛し続ける。
それがこんなにも残酷なことだなんて、私は思っても見なかった。

閉じられた世界の幸せを年老いた眼で眺め続けている私は、さぞや滑稽だろう。好きに笑うがいい。好きに笑って欲しい。浅はかで、粘着質だと言ってくれて構わない。それこそが、私の想いの証となるのだから。彼は私を愛し続ける。語弊などなく、実際に。それに報いるような愛を持ち続けることは、私にはきっと出来ない。なぜなら私は彼と同じ時間を生きられないからだ。今はまだ彼を…愛している。それでも10年後も20年後もそうかと問われたら保証なんか出来ない。もっと先になったらそれこそこの肉体は滅びているかもしれない。私は半永久的に変わることがないであろうあの世界で彼と一緒に生きる何にも敵わないのだ。あのCDロムに刻み込まれた木の葉の一枚にでさえ、私は敵わない。だったら、笑われても構わないから惨めに彼を想い続けている私を誰かに認めて欲しかった。

あの人を待つことは私には出来ない。あの人と共に生きることは私には出来ない。永遠に、絶対に。

じっと黙ったまま所定の位置にCDロムを戻す。今から帰ったら、家に着くのは何時ごろだろう。やはり上司に勧められた様に財団の寮に越した方が良いのだろうか。けれど私にはまだ、彼の部屋があったあの家を引き払う勇気はない。

研究室を出ると、青年が廊下の壁際に立っていた。

「…いたのね」
「ええ。今日の施錠、僕なんです」
「…ごめんなさい。出るわ」

荷物を両手に持って早足に部屋を出る。どうも、今日は調子が出ない。いつもはこんなに気分が落ち込むことなんていないのに。でも分かっているのだ。年に何回か、こういう日がある。どうしても全てが納得できなくて、そのくせに平穏に生きている振りをしている自分を惨めだと思ってしまう日だ。

「持ちます」
「別に……ありがとう」

重い方の手提げを数個、私の手から取った青年は数歩前を黙って歩く。本当に気の利く子だ。きっといずれ、素敵な伴侶を見つけることだろう。ふと先を見る。廊下には誰もいない。微かに薄暗い通路は、なんだか心を不安定にさせた。

「………私は」
「え?」

ぽろ、と言葉が漏れる。それに直ぐ気づいた青年が振り返った。言ってはいけない。黙って。お願いだから消えて。私を愚かにしないで。脳内に響く声に従ったほうが良いことは誰よりよく分かっていた。けれどなぜだか廊下の奥の暗闇にさえ息苦しくなって、呼吸をしようとした口は開き、気づけば勝手に動いていた。

「…私、紅茶が冷めるまでの間も生きられないの」

じっと前を見たまま吐き出した声は、自分でも驚くほど冷たかった。あのCDロムの中で彼が毎回毎回美味しそうに飲んでいる紅茶は、彼がいなくなったあの日から12年経った今も冷めていない。当然だろう、あの紅茶は彼と永久を生きるのだから。たった紅茶一杯が冷めるまでの間でさえ、私は生きていられないのだ。そう思う度、息苦しくて声が出なくなる。この世界にどうしようもない事が腐るほどあるのは知っている。私は財団の研究員だ。一研究者としての熱意と財団職員としてのプライドを持って職務に当たっている。泣いて喚いて涙が尽きて、例え干からびてしまっても変えられない現実が無数にあることくらい分かっている。それでも、この世界を守るためには膝を折ることなど許されない。いずれなにかの実験中にでもこの膝が砕かれて粉々になってしまえば床にうずくまることくらい許されるだろうが、それでもその目を世界から逸らして冷たい地上に全てを投げ出してはいけない。確保・収容・保護。世界を、人類を、守るために。分かっている。分かっている。そんなことは、分かっている。でも、それでも、わかっていたってどうしようもなく、生き苦しくて眩暈が止まらないのだ。

「…嘘をついて、ごめんなさい。いつまでも執着して気持ち悪いでしょう?あんなデータなんか、12年もずっと見て…」

呼吸が震えて、細かい感覚が失せていく。困らせている。顔を見なくても分かった。でも、口からこぼれ出た言葉は戻すことが出来なかった。ため息がもれ出て、やはり今日は休むべきだったかもしれないと目を伏せる。睡眠不足が祟ったか、夕食をまだ食べていないせいかもしれない。おかしなことを言ってごめんなさいと返そうとして顔を上げると、青年はいつの間にか振り向きかけていた体制からこちらに真っ直ぐ向き直り、私を見ていた。

「…紅茶が冷めるまで愛する人を見ていることの、何がおかしいんですか」

別に彼が声を張ったわけではない。けれど、それはいやにはっきりと耳に届いた。

「紅茶が冷めるまでの時間なんてたかが知れてるでしょう。たったそれだけの間、愛する人を見ていたからってなにがおかしいんですか」

彼は特に表情を変えることなく、当然のようにそう言った。暫く口を引き結んで黙り、じっと黙って青年の胸元あたりを見つめる。熱く湿った息が短く漏れて心臓の音がきこえる。指先の感覚がない。視界が僅かに揺らいで、青年の白衣に印字された文字が滲んだ。すると、青年は黙ってくるりと背を向けた。

「ちょっと荷物が重いから、休憩します。お気になさらなくていいですよ」

何を言ってるんだ、と思うと同時に、ふっと瞬きをしてしまった。その瞬間、ぼろ、と涙が一粒こぼれる。前を向いた青年は静かに黙っていた。なるほど、彼はやはり優秀な研究員補佐のようだ。なんだかちょっと情けなくて、でもなぜだか嬉しいような気もして、目を閉じる。瞳に溜まった涙がぼろぼろと零れ落ちた。恥ずかしいから、執着している自分を認めたくないから、研究員として割り切らなければならないから。そう言ってずっとずっと心の底の方に溜めて濁らせていた涙が、後から後から重力に従って落ちた。

ああ、惨めだ。

でも、もうそれでも良い気がした。

一歩足を進めて、とん、と広い背中に額を押し付ける。頭の中のぐちゃぐちゃとした気持ち悪い思いがじわじわと白衣に染みていく。私の中で真っ黒に渦巻く思いが、彼の綺麗な思いやりの中に入り込んで中和されていく。

「……くそったれの、ビデオ。…嫌いよ、全部嫌い……返してよ…」
「…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永遠の愛は、美しいものだろうか?

そんな非科学的な問いなど知ったことではない。愛の美しさなどどんな単位で何を使って測れというのだろう。まあ探せばそんなオブジェクトもあるかもしれないが、永遠なんて曖昧なものに愛なんて不確かなものを加えて測った結果なんて興味はない。

僕が成し遂げるべきは人類の繁栄のための礎となることだ。確保・収容・保護。そこに愛なんてものが必要だとは思えない。どれだけ成果をあげ、どれだけ結果を残すか。解明し、解き明かし、世界を守るため安全な収容を確立する。朝笑って家を出た少女が二度と帰ることなく消えうせ、両親の記憶を改竄せざるを得なくなるようなくそったれな世界を変えるために。その世界を手に入れるために僕に必要なものは冷酷さだけだ。

それだけだ。

それだけ。

ただ、それでも。

いつだってオブジェクトの解明に毅然と挑み続ける彼女が、あの部屋のあの画面の前でだけ見せる表情はいつだって美しかった。僕は勿論会った事はないが、そんな彼女に愛され続けているあの隊員はきっと誰よりも彼女を愛していたのだろう。誰よりも彼女を一番に想っていただろう。いざとなれば何に変えても彼女を守っただろう。会っていなくても、それくらい分かった。僕にしては非科学的な物言いだ。

それでもあのCDロムの中で生き続ける見知らぬ人が、今を共に生きているのに彼女の涙に背中しか向けられない様な自分では太刀打ちできないほど素敵な人だったということくらい、試験管や測定器がなくたって分かるのだ。
 
 
 
 
 
いつの日か、彼女が穏やかな午後の夢を見たまま静かに眠ったら。

交わらないまま続く二人の愛に、せめてもの追悼を捧げよう。

それが、自分に出来る唯一の思慕の表明だ。
 
 

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