本田アヤメは酷く思案していた。3分程前、偶々立ち寄ってしまった商店街の並びにある惣菜屋の前にて、それはそれは見目麗しい唐揚げの詰め合わせを見つけてしまったからだ。
しかし今の彼女には、仕事柄あまりカロリーの高いものを多く摂ってはいけないという制約がある。それでもなお、生き物に備わっている生存本能と言う物は甘美なまでにその者を誘惑し、それに比例した唾液腺の活動を決して止めはしないのだ。
その間も無意味な時間だけが過ぎていき、明らかに彼女が店頭を独占している状態が続く。彼女の中の葛藤が自身の行動を抑制し、未だにどっちつかずの右往左往を演出している。
それを見かねたのか店の奥から中年の男性が出てきた。彼の表情から察するに、決して彼女の一連の行動を肯定している風ではないのだろう。あからさまな不満と、訝し気な視線を彼女に向けている。
「ねえ、お客さん。買うの?買わないの?」
「あ……え、えっと……。ど、どうしよっかなあ~!なんてっ……。」
「……あんましさ、客商売する身としては言いたくは無いんだけどさ。買うなら兎も角ねぇ、何も手に取らないでずっと店の前をうろうろされるとこっちも迷惑なのよ。他のお客さんも寄りづらくなるし、それにあんた、えらいでかいでしょ?」
「え……、そ、その……。でかいってのは……どういう……。」
「背だよ、背。タッパ!うち、ショーウィンドウに品物を置いてやってる店だからさ。お客さんがずっと前にいると全部隠れちゃって参るの!正直営業妨害なのよ!」
「あ!ご、ごめんなさい……!」
「良いけどさあ。で?買うの?その唐揚げ。」
「……はい。買います。」
「はいはい、まいどー。」
本田は胴に巻いたポーチの中から財布を取り出し、突発的に発生した出費を終えた。店主の男性は慣れた手つきでタッパーに入っている唐揚げをビニール袋の入れ、彼女に渡す。
「あ、ありがとうございます。」
「良いから。早くどいて。」
店主は本田をその場から払う様に手の平を振った後、直後にも彼女の事などもう忘れてしまった様子でいつもの接客態度に切り替えた。
内心、あんな良い笑顔でかつ快活な声が出せたのか、と男性を一瞥しながら本田は思った。
帰路につきながら、本田は文字通りとぼとぼと言う音が似合うであろう様子で歩道を進んでいた。意識自体ははっきりしてるが、きっと自宅に置いてある安いベッドに倒れ込んだ瞬間、そのまま睡魔に勝てず沈んでいく姿が容易に想像できる。身体の疲れが目立っている来ている証拠だろうか。それとも今の時間帯がそうさせるのか、真相は定かでない。日も落ち掛け、何処から子供に帰宅を促す放送が聞こえてくる。今は、その様な時分なのだ。
いつもなら19時ごろには仕事から解放される筈だったのだが、撮影が長引いてしまった事もあり予定が1時間以上押してしまった。
勿論、監督やADからの謝罪もあり、あからさまな憤り等は一切抱いていない。正直、今いる業界における人間関係で困っている事など、そもそもあまり無いのだ。それよか、実家から長距離の移動を余儀なくされる母校へと毎日通学していた時代の自分よりも、活動的でかつ都会の生活にも多少は馴染めていると自負してさえいる。
その筈なのだが、先程の様な所謂「大人」からの叱咤を受けるというのは、齢が幾つになろうとも耐えがたい羞恥と挫折的感情を抱かずにはいられない物なのだろう。
「あんなに言わなくても良いじゃない。あれは人を見て接客の仕方を変えているだけ。悪いのはあの店主の方よ。」
等と言う、『自己肯定を利用した自尊心の保全』という心情の機微を感じると同時に、ああ、それ程までにさっき言われた事がショックだったのか、と改めて自覚するのである。
要は酷く傷つき、落ち込んでしまった。
久方ぶりの挫折感。恐らく、タイミングも悪かったのだろう。
彼女が抱える最近の悩みと言えば、自身が出演した作品の売り上げが芳しくないことに尽きる。それ即ち、彼女自身の魅力が低減している事に直結するからだ。
年齢、流行り、業界の低迷、様々な要因が挙げられるが、女と言う生き物として生まれてしまった以上、己の肉体や見目の関わる「美」と言う物の興味が無くなるなど、絶対に有りはしない。それが時に悩ましく、時に誇りにすらなり得るからこそ女の自負と言う物は難しいく、今現在、それを彼女はひしひしと痛感していたのだ。
嘗てはその赤みを帯びた黒が最大の魅力であると評価され、大型新人と持て囃された物である。この時になって思えば、それは本当に意味のある総評だったのだろうか。と、本田は甚だ疑問に感じた。
「……もっと自分は、強い存在だと思ってた。」
こんな単純な心のあり様を何故、生き物は成長していくと同時に認識しにくくなっていくのだろうか。成長した社会的地位が邪魔をするのか、蓄積された人生経験と言う足枷が自らの過ちを拒絶するのか。そんな回りくどい思考を、本田は巡らせていた。
今の彼女は単に反省しなければならない自分自身を受け入れられない、尚且つそんな自分の身勝手さにも嫌気がさしている。そんな状態だったのだ。自身を肯定しながら自らを否定するという自己分純である。生半可な齢を重ね、大人になっていけばこんな幼稚な心持などしなくなるかと思っていたが、実際はその逆だったようだ。
「はぁ……。現実、嫌だなあ。」
今年で結婚適齢期を迎える本田である。彼女自身、未だに自身がその段階に到った現状を信じられないでいた。時の流れの速さと自分自身の子供染みた感性とのギャップという二要素。これが、彼女が抱くに足る不信感を誘発させたのだ。
それでも彼女の歩みは止まる事無く、それに合わせて時間も容赦なく過ぎ去っていった。
空もそろそろ紫掛かり、日光は地表の影に身を潜めている。
中心都市から離れ、電車で1時間ほど揺られながらやっとの思いで到達する郊外に彼女の自宅はあった。この住宅街に区分される区画と撮影場所を行き来するだけでも一つの労働と言えるのではないか。そんな事を考えている途中で、電柱に設置されてる街灯が数度点滅しながら灯されるのを本田は認識したのだ。
もうそんな時間か。自身の年齢と帰宅時に費やした時間の両方。それらを含んだ上で、彼女は皮肉っぽく思った。
それからしばらくの間、本田はブロック塀沿いの道を進みつつ、次第に黒い色へと変わっていく空を眺めていた。
単純に帰るだけの路である筈なのに、どうしてここまでアンニュイな気持ちに陥らなければいけないのだろうかと、声には出さない物の様々な悪態が彼女の脳内で反芻される。吐き出したかと思えばまたそれに落ち込み、また怒っては吐き出すを繰り返すのだ。
そんな折、ふと本田は自分から見て右側に位置している公園の方に意識を向けた。仕事に行く際も、帰りの際ですらもいつも通り過ぎるだけで気にも留めない公園だったのにだ。要は彼女にとってはあまり価値の無い物、いや、敢えて価値を見出さぬようにしている場所ではあるが、どういう訳かこの時はそちら側が無性に気になる。
「……ちょっとだけ、寄って行こうかな。」
そこから本田は、自宅であるアパートの方へと向かっていた足を急遽切り替え、公園の入り口へ舵を切りなおした。設置されている遊具なども無視して、園内のベンチを目指してただ歩みを進める。自宅からの距離も近いし、別段逸れた所で到着時間に変わりはない。そういう逆算を行った結果からの帰結だ。
ここに入ったからと言って何かが変わるわけではないが、取り合えず今は何処かで休みたい。と言うよりは、この落ち込んだ気持ちを自宅にまで持ち込みたくないという理由の方が、今の彼女にはとってはとても大きい要素だったのだ。
深めに全身を預け、既に夜空へと変わってしまった上空を改めて見上げる。星が瞬き始めてはいるが、それを素直に綺麗だなどと口走る無邪気さはもう持ち合わせていない。
何せ今の彼女は無邪気と言う界隈からは大きくかけ離れており、その所為もあって、日頃から子供には近づかない様にしていたからだ。
「……静か。まあ、当たり前か。いつもは、子供の声で溢れてるけど、皆はもう帰る時間だもんね。」
別に彼女自身が罪悪感を感じる理由など何処にも無いが、どうしても自分が純真無垢なままの存在に接近するという行為が許せない。勿論、自分が汚れているなど露程も思ってはいないが、そのような葛藤など今の仕事に真剣に取り組みだした時に忘れてしまった。
だが、それでも特に「親子」という存在がこの公園で遊んでいる様子を見るのは、どこか心を締め付けられる様な感覚に襲われるのもまた事実であった。恐らく、「母親」という存在の方に思うところがあるのだろう。
別段、恋愛などした事も無かったのにだ。
「……本当は、役者になりたかったのに。」
ふと、彼女は心の中でそんな感情を吐露した。
片田舎から上京してきて数年の月日が流れた今である。ひょんな事が切っ掛けで自身のこれまでを振り返ってしまうのは人生の妙技だろうか。それとも、これから続いていくのかも定かではないこれからの事を思案してしまうのは知性を獲得してしまった生物の悪癖であり欠陥か。正直そんな物はどうでもいいのだが、今の沈んでしまった心中ではどうしても想起されてしまう課題だ。だが、それは事の本質を捉えてなどいない。
問題は今の彼女が心の中で漏らしてしまった言の葉その物の方である。
決して言うまい言うまいと必死に勤めていた彼女自身の心が、あんな些細なやり取りが切っ掛けで決壊してしまったのだ。彼女も驚いているぐらいであり、現実に起きるダムの決壊も小さな石ぐらいの亀裂から生まれたりするのが世の常だろう。これもそれと同じなのだとすれば、やはりの人の心は押し込められた水であるという結論に到る。
私達が一生押し込めていようとしても何れはその濁流が我々を翻弄していき、それが何時溜まったのか、何時決壊したのかで、恐らく暴走の度合いが変わってしまうのだ。
自分は将来『女優』になる。そう息巻いて家を飛び出したのが過去の自分だ。が、その意気込みとは裏腹に決して結果は伴わない現状がここにある。夢と言う物は一概にしてそういう物であり、ある意味それが夢を夢足らしめている重要な要素だ。
今の彼女は故郷にすら顔向けできないと確信している。勘当を受けたわけでもないし、帰ろうと思えばいつだって下れる。しかし、己のプライドか、恐らく羞恥の方が正しいのだろうが、それが邪魔をする事で未だに両親とは疎遠なまま、と言うよりは一方的に避けてるのが実状なのである。
「……これ、どうしようかな。」
思案の海から我に返り、未だに暖かさの残る惣菜の方に目をやる。そして、それに対して彼女はこうも思うのだ。今も暴れ川のごとく濁流に翻弄され、その感情自体がそう成り果ててしまったのに、お前はどう責任を取ってくれるのか。貴様など一時の空腹を満たすだけの存在でしか無いのに。彼女自身の心の戸惑いを、この衝動買いしてしまった唐揚げごときに何ができるというのか。何もできる訳がない。そうだ。そうに決まっている。全ての原因はお前だ。お前が悪いのだ。と。
いっそ地面に叩きつけてしまおうか。言ってしまえば単純な八つ当たりであるが、それで気が晴れるのならば十分だ。
そう思い立ち、本田は徐に袋からそれを取り出した。
だが、腹は減るのである。最近は撮影の為にと体の艶出しに取り組んでいたが、今日の事でそれらもどうでもよくなってしまった。肉体自体が油を欲してしまっていたのだ。
気が付けば彼女はその唐揚げに噛り付き、衣の中から溢れ出てくる肉汁さえも惜しみなく口内へと運んでいた。どんなに心が荒んでいようとも、口の中に広がる卵と油、そして芯まで火の通りかつさっぱりとした味わいの鶏肉との組み合わせは何物にも代えがたい旨さである。抗えない空腹感がが満たされていくことの多幸感に、彼女の体は支配されていった。
旨い。確かに旨い。旨い事が、ある意味救いになっている。いや、なってしまっている。
それがとても悔しい。悔しくて悔しくて仕方がない。
「……美味しい。……美味しいよぅ。くそう……。」
この唐揚げが旨過ぎるが為に、今の彼女にとってはそれが酷く口惜しいかった。同時に彼女の瞳はぽろぽろと零れ落ちる雫で溢れ、尚も食を続けようとする体とそれを否定したい気持ちから来る感情の爆発が入り交じる事でこの弊害が生じた。
客に対しての態度は悪かったが、腕だけは確かだったのである。彼女は嘗ての店主にそんな総評を与えながら、あっという間に買ったばかりのおかずを平らげてしまった。
もうすっかり周囲は夜の時間に移行し、周囲の家々の窓から漏れた光が溢れ丁度晩飯時であるが為の団欒の声も混ざり始めている。
「……でも、あっちは今が明るいのか。」
丁度本田が見た方向は駅のある場所であり、その上空は明るみを増して繁華街や飲み屋街の電飾が織りなす夜の目覚めを謳歌している。
あの区画にあるビデオのレンタルショップや、個室DVDの店にも彼女の出演作品が置いてあるのだろう。ある意味、低迷している業界とはいえ需要が完全に無くなる事などは無いのだ。生物、とりわけ雄という存在自体に性欲という三大欲求の一端が無くなるその時までは、彼女が就いている類の仕事に価値が無くなる、そんな事あり得ない。だからこそ、彼女は最低限の生活費が稼げるこの仕事を選んだのである。己の演技力には相当な自信があったし、その点も売り上げの中で評価されている要素の一つだ。
誇りと自負はある。本田自身も、それは強く認識していた。だが、逆を言えばそれしかない。後に残る物と言えば、肉体を酷使する事の疲労感と、ある意味出来高制の給料だけ。
これが嘗て私が憧れた業界と言う物の姿なのだろうか。テレビの画面越しに写る世界はもっと華やかな舞台だった筈であり、それが今では裏側を知り、この仕事に就いているからこそ流れてくる芸能人の裏の顔やアンダーグラウンドで展開される表には出てこない社会の暗躍も噂程度で耳に入ってくる。
特に先日のニュース番組で報道されていた「人気俳優の薬物所持」に関して言えば、本田は情報が世間一般に周知される約一週間前に把握はしていた。と言うよりは、その件の人物との飲み会に参加していた同期の女の子の証言から、二次会で怪しい粉を吸っていたという生の知見を得ていたのだ。
その娘に関しては事の重大さを察して即座に離脱したが、結果が違法薬物所持による集団逮捕。煌びやかな舞台の姿など見る影もない。憧れなど、当の昔に現実に押しつぶされてしまった。
「……もう良いや。帰ろ。」
一通り悩み、泣き、さっきまでの自分は全て清算した。そう見切りをつけ、彼女はすくっと立ち上がった。
「……でも、コンビニには寄ってこうかな。」
誰もいない場所で一人そう呟き、再び彼女は帰路に向かって歩き出した。
「ただいま、帰りました~。」
アパート一階の角部屋に位置する彼女の自宅。その扉を開けた本田自身は既に酔っていた。途中で立ち寄ったコンビニエンスストアにて、度数の高い缶酎ハイを二袋程買い込んだのだ。
持ち前の背の高さと力強さもあり、それを運ぶこと自体は何ら苦ではなかった。だが、ただそれを運ぶだけと言うのも芸がないと言う意味の分からない分析を行った後に、道中で何本かを引っ掛ける結論に至ったのだ。
歩きながらの飲酒であったためか、取分けアルコール成分の巡りが早い。恐らく三本目に手を出した辺りで相当に出来上がっていた筈である。
幸いにも明日は何の予定もなく、通常通りの休日だ。撮影の無い日は当たり前に暇であり、その部分だけをピックアップするのであればこれ程自由度の高い仕事もないだろう。だが、己の体自体が商品である以上無理な事は出来ず、絶対に傷など付けてはならない。時折ハードなフェチ層向けの撮影も行う時はあるが、そういう場合は現場自体も最善の注意を心掛けて撮影に当たってはくれる。
正直、本田自身はこの業界に来るまで界隈に対してある一定の誤解を抱いていたのだ。よくある暴力団に売り飛ばされると言った過酷な環境や行きつく所まで落ちた女の末路、と捉えれば端的だろう。勿論、そう言った話が何処にもないという訳ではないが、それでも嘗ての彼女が想像していた劣悪さは感じられなかった。
一部の厳しい監督や男優の存在はあるが、それも彼らにとって「より良い物を造るのだ」という「情熱」によるものだと認識したならば、そう言った『本気で取り組んでいる人間』達との取り組みと言う行為自体も、存外悪い物では無いのだ。
アルコールによって気分が高揚しているのだろうか。気が付けばさっきまでの暗い感情など霧散しまっていた。これが一種の現実逃避ではない事を祈るばかりだが、これで彼女自身の気が晴れるのならば問題ないのだろう。
本田はそのまま玄関を抜け、壁にあるスイッチを押した。暗い室内であろうとも日常の中で培われた空間把握など例え視界が遮られたとしても問題は無い。光あれ、と言わんばかりに部屋の中は灯され、全貌があらわとなる。
玄関のすぐ傍には小さいながらも機能している浴室、その隣には様式のお手洗い。そして、よくあるアパートの間取りから続く廊下を抜ければ簡易的なキッチンを伴ったリビングがそこにはあった。
室内は基本的には整理整頓がされており、生活自体が荒れている様子は何処にも無い。それよりか、如何にも質素と言った方が良いだろうか。ベランダに出る窓際の横にはベッドが置かれ、大型の薄型テレビにそれを乗せている棚。雑誌や映画などのDVDが収められ、そのすぐ上にそれらを再生するためのプレーヤーが設置されている。
正に、必要最低限の物しかここには置かれていない。
「……はぁ。疲れた~。」
そう漏らしつつ、本田は丸型のカーペットの敷かれた床に腰を下ろした。丁度ベッドの側面を背もたれのようして、既に酔いの回ってしまった頭をふらふらと揺らしながら再度新しい酒に体を伸ばす。
何よりも酔うに限るという事だろうか。本田が更に自身の酩酊を加速させるよう酒に口を付け、喉を鳴らしながら一気に流し込む。
元々規格外の背丈と体系を持って生まれた彼女である。常人が耐えうる飲酒量を超えたとしても、彼女にとっては序の口なのだろう。
一本目、二本目、三本目と、確実に空き缶の本数を重ねていくが、これでも恐らく通常の人間が飲んだ際の三杯目程度なのだ。ここに来て、やっと本格的に血流内にアルコールが満たされ始めた頃合いですらある。酔いによる夢心地だ
「……本当に、疲れた……。」
自身の前に置かれた大型の折り畳み式テーブルに頭部を乗せ、文字通り項垂れる。
また、先程までの状態がぶり返したのだろうか。いつの間にか陽気な感情が消えうせ、身の回りに転がっているどうしようもない現実たちを再度認識し始める。
この自宅でさえもある種の檻でしかない。本田は言ってしまえば特異体質であり、常人よりも優れた体格を持っている。その強靭さも、丈夫さも遠い先祖から受け継いだ彼女の資質であり、だからこそ、その身に合わせた家具や住居が必要不可欠なのだ。何故彼女が態々駅から遠く離れた郊外に居を構えたのか。全ての理由がこれに集約される。ここに置かれている物も、大きい、大型の、規格外なのという形容詞が乗っかりはするが、彼女からしたら全てが通常、もとい小型の家具であると認識される。
この都会における自分の家も、彼女自身の規格に合わせられた誰かの所有物でしかない。本当の意味での我が家など、この街には存在しない。本田はそう言った考えの元、何処から来るわけでもない筈の孤独感をまた味わい始めたのだ。
間髪入れずに本田は缶の蓋を開ける。だらしなく体を机に預けながらまた一本を飲み干し、今度はか細い唸り声をあげながら顔を固い板に埋めた。アルコールがここに来て効力を発揮しなくなってきたらしい。忘れたくても、中々に酔いが回らない。
「……私だって頑張ってるよ。最初は、大衆演劇の舞台から入ってさ。下積み下積みって藻掻いてたら、いつの間にかそれ系のバイトも始めちゃって。あれよあれよと言う間に女優デビュー。……そこでも、頑張ってんだよ……こっちは。」
一度吐き出してしまえば最早誰も止められない。感情の流出などそんな物だ。彼女自身が結論を出したように、心など所詮はただの水であり一度決壊すればどう取り繕うともその流れを塞き止めることは出来ない。
「……今まで、何本の作品に出たんだっけ?SMでしょ?人妻でしょ?痴漢に、風俗、パパ活も?……もう私、一通りのシチュエーション経験してるじゃん。」
乾いた笑い声が虚しく部屋に響く。
「何でかなあ。……何で、私……。家を出たんだっけなあ。」
ふと、両親の顔が脳裏に浮かび、消してはまた浮かぶ。
恵まれない環境で育った訳ではない。これまでの人生において、誰かと比べられる程の不幸な道を歩んできたわけでもない。この業界内で「不幸」を盾にして生きる事など彼女にとっては以ての外だ。
両親からの深い愛情を受け、学業もそれなりに熟してきた。友人がいない訳でもなかったし、普遍的ではあるが充実した日常を生きていたのである。
だがそんな中でも、いつかは途轍もない非日常を経験してみたいと言う正直な希望はあった。在り来たりな人生など真っ平御免だと腹に一本抱えていたのだ。
そして、現在。ある意味、非日常を生きてはいる。ならば、夢自体は叶っているではないか。
などと考えている内に、気付けばまた涙が零れていた。
「……私、本気で役者目指してたのかな。」
最後の止めとばかりに、本田は自分自身に問いかけていた。
気が付けば本田はノートパソコンを立ち上げ、検索ツールを用いて自分自身の事を調べていた。先程言い放った出演作品の羅列を書き連ね、己自身がこの社会に置いてどのような評価を受けているのかを確かめたくなったのだ。
先輩の女優や一緒に仕事をした監督達は皆が口をそろえて、「止めておけ。無駄にきつくなるだけだ」と忠告していたが、そんな事は今更どうでも良い。今の彼女は兎に角、自分がこれまで辿ってきた軌跡が一体どれ程のもなのかを確かめたかっただけだ。
自分も何かを残してきた。いや、今だって何かを生み出している側だ。
その様な、概念的ではあるが何かしらの実感を得たかったのである。どんな物でも良い。第三者からのレビューであろうと、動画サイトに掲載されているコメントであろうと、ここまで来たら違法アップロードされた動画だろうと構わない。
プラスな意見もあれば、あからさまに批判をしているコメントもあるだろうが、それらの一つひとつが彼女が存在しているという掛け替えのない証拠になり得るのだ。好意的な評価であればなお良し。否定的であろうとその者の心には何かしらの傷を残せたのだと自慢できる。
今の本田は承認欲求という魔物に半ば憑りつかれていた。唯一の救いは、彼女が既に泥酔していた事だろうか。これを素面の状態でやってしまっていたならば、現時点で酷く傷心している彼女の状況を悪化させたのは想像に難くない。
「……意外と私で溢れてるじゃん。ネット世界。」
本名とは異なる芸名を検索バーに打ち込めば、あれよあれよと本田アヤメ本人の動画や画像が溢れ出てきた。一個一個を見てみれば、相当初期の頃に売り出された絶版物の動画まで出てくる始末だ。
更新順やアップロード日時などで更に絞り込めば、まるで彼女の半生がそこに書き記されている様だろう。
今ここに、彼女の生き様とでも言える物が順に並べられているのだ。
無論、こんな程度のもので自分の歩んできた道が間違いではなかったなどと言う自己肯定の証明にはなり得ない。だが、彼女の存在が一概に虚無では無かった事の要因にはなったのだ。
そこに映し出されているのは彼女のあられの無い姿ではあるが、一つひとつは本田アヤメの全力だ。それを否定することは、彼女自身でさえ許されることではない。
「……頑張ってるんだよね。私。一応は。」
画面をただただ眺めながら、最後の一本となった酎ハイに手を掛けた。気が付けば質素で整頓されていた筈の彼女の部屋も、空き缶の散乱する無遠慮な物へと変貌している。
「……頑張ってる。うん。……無駄にね。……はあ。」
もう、全部がどうでも良い。そんな諦めにも似た気持ちで最後に言葉を漏らし、本田はブラウザーを閉じようとした。
だが、ふと気になるサイトのリンクが目に付いた。
「……何?これ。」
そこには彼女の芸名が掲げられたある動画サイトのURLが添付されており、コメントの投降者は史上最高のアダルトサイトだと触れ込んでいた。
見たことも聞いた事も無いサイトのリンクである。本田が恐る恐るではあるが、その項目をクリックした。
「これ、私?」
それは所謂、動画投稿と配信を目的とした成人向けのサイトであり、会員登録をすることで全動画が視聴可能になるという物だった。だが、本田が一番に驚愕したのはそこにある動画群の中身であり、この世の物とは思えない異形達の姿で埋め尽くされていた。
その中で取分け彼女の目を引いたのは自分自身と同じ芸名で評されている生物の動画である。端的に言えば、そこには不気味な形状をした生き物達の交尾の様子が映し出されていたのだ。
「……でも、これこの前の撮影と同じ現場じゃん。」
本田はただただ嫌悪感に襲われた。映し出される見た事も無い生物の性交渉など、見ていて気持ちの良いものではない。しかし、どういう訳かそこから目を離す事が出来なかった。
映像内での生物が持つ手足と思われる部分はそれぞれ二本ずつしかなく、その先端部分が五本の細っこい形状に枝別れしている。嘗て共演した黒人の男優にも似た姿形ではあるが、その中でも一番の不快的要素は胸部と思われる箇所に垂れ下がった二つの肉塊だろう。中心部にある小さな突起の機能すら分からないその大きな腫物は、ただただ疑問でしかなかった。体表も本田とは違い外骨格で覆われてもおらず、肌色で構成され剥き出しの状態で構成されている。身長も恐らく二メートルも無い。大体160cm前後だろうか。本田の身長の半分も無いのである。
同じ名前である筈なのに、彼女の姿とは似ても似つかない異形の性行為。
本来の彼女に備わってる筈の長い二本の触覚も、複眼も、七メートルある身長も、計百本ある筈の左右の関節肢や複数ある体節も何もない。
大ムカデの末裔である本田アヤメとは似ても似つかないメスの姿がそこには映し出されていたのだ。
通常ならばその酷くグロテスクな映像に思わずパソコン自体を閉じてしまうだろう。だが、本田はずっとそれを見続けた。
「……この子、泣いてる。」
激しい行為が繰り広げられる映像の中で、本田はその様な評価を下した。
何故か彼女はその異形が自分であると認識していた。明確な理由や判断要素などはどこにもないが、どういう訳か、彼女にとってそれが自分自身であるという確信があったのだ。
「……何でよ。何で、泣いてんのよ。」
傍から見れば、映像の生き物が泣いている様には決して見えない。どのような人物が視てもそう評するだろう。いや、評する筈だ。
「……自分で選んだ道でしょ!?何で、泣いてんのよ!」
突然、本田は怒りをあらわにした。
「ふざけんな!あんた、私なんでしょ!?私と同じ人生歩んでるんでしょ!?だったら最後まで責任持ちなさいよ!勝手に自分を不幸みたいにほざいてんじゃねえよ!……そりゃ、色々辛いことはあるよ……!自分が望んでいた今じゃない事ぐらい嫌でも分かってるよ……!でも、だからって……!自分の仕事には誇りを持てよ!!甘えて、今更泣いてんじゃねえよ!!」
大きな体躯を振り回し、散乱していた空き缶の群れをはじき飛ばす。息を荒げ、正に怒髪天を体現した咆哮だ。
「……何やってんだろ。私。」
ふと、我に返る。その途端に力が抜け、酔いの所為か極度の睡魔に襲われる。
「……負けんなよ。私……。」
その一言を最後に、本田は深い眠りについた。
翌朝、本田は酷い頭痛と共に目を覚ました。
朧気になる視界を駆使し、周囲を確認する。辺りには昨晩に飲み干した缶の残骸が転がっており、当たり前の様に過去の行動から来る結果が広がっていた。
そして唐突に例の動画の記憶が蘇り、すぐさまパソコンの画面を確認する。
「……消えてる。」
そこには大きく「Not Found」の文字が映し出されていた。
「……いや、夢じゃない。絶対に違う。」
そこから昨日検索していたワードを使って例の動画サイトの捜索を始めたが、まるで最初から無かったかのようにその痕跡すらも消え失せていた。
あれは一体何だったのだろうか。
「……ははは。訳わかんない。」
本田は一旦立ち上がり、そのまま背中からベットに深く倒れ込んだ。
「……でも、なんかすっごいスッキリしたかも。」
朝日と共に鳥の囀りが彼女の耳に届く。
今日ぐらい、気晴らしに買い物にでも行こうか。そんな事を考え始めたあたりで、再び頭部に痛みが走り始めた。
「……まずは二日酔いを何とかしなきゃね。」
そう自分に言い聞かせ、本田はキッチンへと向かった。