ありふれた日常
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少年は欠伸をした。1時間かけて登校し、脳の処理が追いつかない、というより追う気もない授業を受け、1人呆然と座り、また1時間かけて帰る。何の起伏も面白い出来事もない毎日。別にわざわざ口に出す程の不満は無かった。苦悩も努力もしなくていい。ただ、口に出さない程の不満があるとすれば、少しばかり退屈だった。

昼休み、それは多くの者たちにとっては友人との時間を謳歌できる至福のひとときである。そして少年にとってもまた、昼休みは至福のひとときであった。30分という長時間を睡眠に消費できる。彼の学校における唯一の愉しみである。

その日も例に漏れず身を完全に机に委ねていた。だが、甲高いチャイムとクラスのざわめきに強制的に自立させられる。横長の視野に、教室の前黒板とその前に立つ男の姿を入れ込む。

「えー、本来授業をする筈だった山崎先生は、体調不良でお休みです。で、私が山崎先生の代わりに臨時教師として授業を行います。よろしくお願いいたします」
異常な程に目を細め、頬を吊り上げた男はそう告げた。
「今日、私は特別に「教ぬ」を行いたいと思います」
教ぬ。聞き慣れない言葉に、クラスメイト達は困惑し、互いにがやがや話し合っている。だがしかし、少年の中では睡眠欲が「教ぬ」が何なのか知りたい欲を打ち負かしていた。


教室の喧騒に、無理矢理目を開かされる。横長の視野に、今度は何かのパンフレットが入り込む。少年が首を回して音を鳴らしていると、
「民主主義クソだな」
「日本が世界を支配してやんないと」
と、素晴らしく過激な発言が周囲を飛び回っていた。

続いて黒板を見る。そこには、「民主主義は唾棄すべき思想」「奴隷制の推奨理由」と、一方的に意見を押し付けるような、黒板上に存在するのに相応しくない文字列が並んでいる。普段だったら驚愕すべきところだろう、と少年は思った。

だが、少年は政治にも倫理にもすこぶる興味が無かった。誰かを批判したり日本の未来を決定づけられる程自分は偉くないし、倫理など実際のところあってないような物だし。それに、周りは誰も驚愕していないのに、一人浮くのは避けたかった。「なるようになれ」が少年のモットーであった。そういう訳で、少年の脳内は「帰りたい」と「夕飯は何かな」といういつもと何の変化もない事項のみに支配されていた。


翌日、再び例の臨時教師が教室に足を踏み入れた。少年は早速睡眠に移ろうとしたが、教室を包み込む万雷の拍手と黄色い歓声に妨害される。
「また教ぬをしてくださるのですね!先生様!」
「今日は具体的な戦術をお教えくださるのですよね!先生様!」

唐突な臨時教師賛美に少年も多少困惑する。その「先生様」は、暫し黙って拍手と歓声を浴びていたが、やがて貼り付けた笑顔のまま口を開いた。
「皆さん、また会えて幸せです。昨日の追加授業も、任意にも拘わらずこぞって来てくださり、先生は本当に感激です」

少年は追加授業などと言うものがあった事すら知らなかったが、言われればクラスメイトがその話題を出していたような気がしなくもなかった。

「では、早速始めます」
先生様がチョークを手に取り、黒板に何か書こうとしたその瞬間だった。
「あ、あの…」
クラスメイトの藤山がゆっくりと、目線をあちこち彷徨わせながら手を挙げた。
「何ですか?」
先生様が満面の笑みで藤山を見る。藤山は、数秒逡巡していたが、なんとか、か細く震えた声を発した。
「昨日から…侵略だとか…奴隷だとか…おっしゃって、ましたが、ちょっと、それは、良くないんじゃ…」

教室が水を打ったように静まり返る。
「どういう意味ですか?」
先生様が、1ミクロンたりとも感情の篭っていない声で問う。藤山は少し怯むが、それでも辛うじて声を出す。
「日本国憲法に、平和主義って、ありますし…。奴隷の人の、気持ちとか…は…」
クラス中が藤山を見つめる。静寂の時間が流れる3秒間。

「はあああああ!?ふざけてんのかてめええええ!?」
「先生様に反抗する気かあああ!?ぶっ殺す!」
決壊した。怒号で溢れかえる。ほぼ全員が立ち上がり、藤山の下に集う。鈍い音が響く。一瞬悲鳴が聞こえるが怒号に封殺される。先生様は教師としての義務を果たす気がないのか、相変わらず笑顔で突っ立っている。

3分程経っただろうか、各々自席へと戻っていく。藤山は全身から血を垂れ流し、時折思い出した様にピクリと動いていた。

少年は飽くまで傍観者を貫いていた。そこから思考をカタツムリ並の速度でぐるぐると頭を軸に巡らしていたが、20分もかけて、漸くおかしいのは自分だと理解した。皆こうして過激な思想を礼賛しているのに、よりによって自分の思想だけが正常な筈がないのだ。実際、大概の場合は多数派の意見が正しいし、仮に正しくなかったとしても、その意見の持ち主が多数派の時点で、その意見を持つ事が普通なのだ。何もおかしくなどない。少年は合点がいくと、疑問が解消された事に満足して眠りについた。


今日もまた、先生様がやって来た。クラスメイト達は、叫びながら首や手足を180度以上捻っている。隣に座っている女子生徒は口と目から光線を放っている。

なんてことはない、至極普通の正常な風景だ。正直見覚えはないが、皆当然のようにこの互いの頭部を裂き、内臓を貪っている風景を受け入れているのだから、正常なのだろう。少年は、周りに合わせて腕を回してみようとするが、90度が限界であった。皆は最低でも540度ぐらいは余裕で回しているのにも拘わらず、彼はそんな簡単な事も出来なかった。自分が落ちこぼれであることを理解すると、そこから這い上がる気力もないため、大人しく眠りにつこうとする。がしかし、
「みてみてみてみてみてみて」
前方からの声に邪魔される。目を擦りながら、当人に気付かれない程度に声の主を睨みつけながらも従う。

視線の先には、口が顔面の2倍程に肥大化し、上下左右に裂けた男子生徒がいた。
「おー」
少年はいかにも興味無さそうに呟く。ふと瞬くと、いつの間にかその口が少年の頭部を覆っているのに気付いた。唾液が頭に当たり、そこから頭が溶けていくのを感じる。

自分の最期を理解した少年は、普通の人がするように走馬灯を思い浮かべた。普通の家庭に生まれ、保育園に行き、小学校に入学し──
そこまで思い出したところで、途端に面倒になって浮かびかけていた過去を沈め直した。どうせ最後のこの瞬間までほぼ何も変わらないありふれた日常が続くだけなのだから、思い出すだけ無駄だ。

少年は欠伸をした。

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