アイデンティティ・クライシス
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 折り畳みのデスクが並ぶありふれたレイアウトの部屋に、エージェント・太郎は呼び出されていた。
 端末に送信された資料にサングラス越しに目を通す。頭にそれを読み込ませながら、こうやってデジタルで送るんなら対面しなくても良くねえかな、と別部署の上司をちらりと見やる。相変わらず何を考えているのか解らない表情をしているが、資料中のプロジェクトを試行させるにあたっての最終確認をされているんだな、と共感能力エンパスを使えば察しがついた。

 資料を読む限り、一先ずこれは財団内での実験的な試みだ。これで上手く機能すればこの小さな計画は汎用性の高いものに練り直され、広く試行されることになるらしい。
 けれどその辺りの検討は、それこそ立案担当がすることである。資料を読み終わって視線を上げ、エージェント・太郎は口を開いた。


あなたがこれを読んでいるということは、私はもう死んでいるのでしょう。

……いわゆる遺書というものを書く時には、絶対にこういう書き出しにしたいと思ったものでした。
けれどいざ死というものを目前とすると、こんな陳腐な言葉ですら恐ろしく感じるものですね。

きっと帰ってこれないだろう任務に就いたことに後悔はありません。
私達は財団の職員です。陽の差さない闇の中に、灯りを点していくのが仕事です。過程に暗がりで誰にも気づかれず死んだとして、何の問題があるでしょうか。
寧ろ自分に死が訪れることをわかっていて、こうして遺書を認めてから死にゆける私は幸せだとすら思うのです。

けれどもやはり、遺していくあなたのことは少し気がかりです。
こうして手紙を書くと約束した日、私はもうちょっと明るい遺言を残すつもりだったのですが、……上手くいかないなあ。

██ ██くん。

私はあなたが、共に育った親しい人の、あるいは顔も知らない誰かの助けになろうとして、自分の身も省みずに職務に打ち込む姿が大好きでした。
勿論いつも心配にはなってましたよ。……でも結局、こうして心配していた私の方が先に死ぬのですから、人生とは不思議なものですね。

私がこうして、勇気を持って死に向かえるのはあなたのおかげです。
愛していました。


 財団に勤めて十数年、N博士は極めて優秀な人物だった。
 元々有能な人材の集まる ― というよりかは集めなければならない財団の中でも、突出して研究能力の高い、と評価できるような傑物が彼である。
 しかし惜しい事には彼も人間であった。彼がとても親密にしていた同期のエージェント・Iがある収容違反にあたって行方不明となった時、その優れた頭脳は確かに鈍ってしまっていた。

 無論のこと、N博士はそれぞれが肩に多くの命と世界を背負った財団職員の一人である。その職務に明確な支障が出るほどに腕が落ちたわけではない。
 けれども彼の類稀なる頭脳によってもうすぐ全く新しい解決の糸口が見えようとしていたプロジェクトは、残念ながらその進行が滞ってしまっている状態であった。

 カウンセリングに行く程でもない ― けれどもスランプなんだ、とN博士は言った。
 こうなってしまっては、百戦錬磨の財団職員と言えどもどうしようもない。特効薬が無いのだ。やや陳腐な言葉で言えば、その心の傷が思い出に変わり、彼の背中を押すようになるのを待つほかないのである ― と、その背中に多くの同僚が踵を返し、彼がひとり自室で昼食を摂っている時のことだった。

「N博士!」

 と、場違いなまでに明るい声が上がった。N博士は顔を上げ、よもや幻聴でも聴こえるまでに自分は病んでいたか、とまずカウンセリング室の存在を思い浮かべる。
 けれども ― ああ、けれども! 果たしてエージェント・Iは、確かにそこに立っていた。部屋それぞれに備え付けられた財団の異常感知システムが反応することもなく、彼のよく見慣れた姿で、親しみのある笑顔でもって。
 N博士は一度涙腺がひどく痛んだのを誤魔化すように瞬きをし、自分の目を疑いながら口を開いた。

「I君……なぜ? 先日の一件で、君は行方不明になったと……」
「ええ! それがですね、……その、僕もあまり記憶はないし、詳しく説明もできないんですが……」

 という彼の話では、彼はあるオブジェクトの影響で異常空間に転移させられ、一週間近くが経ってようやくこの基底次元に戻ることが叶ったという。その後は暫し財団の調査と聴取が行われ、業務に戻って問題無しと判断されたために、ようやくN博士と会うことが叶ったということだった。
 具体的に説明されていく経緯に、N博士はやっと、エージェント・Iが戻ってきたのだとわかる。自分達が財団へ勤めて十数年、思い返せば無数にある思い出話に何度だって花が咲く。
 悲劇の母数が極めて多い財団では、このような感動的な事象が少なからず存在すると知っている。けれど、とはいえ、奇跡が起こる事になど縋った事は無い ― と自分では思っていた ― N博士は感嘆の息を漏らして、破顔した。


 行方不明のまま死亡したと断定される人間は多い。なので財団では原則、行方不明者の自室は長く残しておかない。
 彼の部屋もその例に漏れなかったようで、エージェント・Iは見慣れない廊下を見回しながら新しい自室を目指しているところだった。それなりに時間をかけて簡素な扉の前に辿り着き、中に入っていく。

 新しい部屋なのだから当然なのだけど、何もない部屋だ。
 どこの部屋にも備え付けられたベッドにデスク、それから書類棚に金庫。職員によってはこの初期配置が改造され尽くして本当の自室のようになっていて、そういう人間が自分のように行方不明者となった場合、部屋を片付ける部署は大変だろうなあ、とエージェント・Iは苦笑を零す。

 ともかく死んだはずの人間が生還するなんていう、財団ではままみられるような現象の当事者に自分がなるとは思ってもいなくて ― つまりは今、エージェント・Iは疲れ切っていた。
 N博士にも先程話した通り、明日からは早くも長期の出張に出るのだ。早く休んでしまおうとベッドに腰掛けた視界に、ひとつ違和感が映る。デスクに貼られた小さな付箋。金庫、と短く書かれたそれ。自分の字ではない。

 首を捻って立ち上がり、初期配置のままの金庫へ向かう。軽い調子で開いたその中には、そこそこの量の書類が収められていた。そのまま文字を目で追い、手袋をした手で取り出してぱらぱらと捲り、― ああ、と、彼は頷いた。

「あー、そうだった」

 端末を引っ張り出して、何か連絡が来ているか確認する。N博士の手掛けていたプロジェクトは無事再開されたようで、なにより、と思う。明日から"長期の出張"に出るエージェント・Iに短く黙祷を捧げて、次の人物情報を表示させた。
 正義感と職務への熱意に満ちた若い男性。同じ財団職員だった恋人を失ってもその意欲を失うことは無く ― 見覚えがあると思えば、前に書いた遺書の宛先だった。こんな早く死んじゃったのね。一度共感エンパスした事のある人間の関係者は、トレースがしやすい。
 また短く黙祷をして、その思考と人生を追っていく。


代家蒐集物覚書帳目録第七八一番

八八三年捕捉。研儀官源直が山城国にて発見。"代家"は神霊が依り憑く御霊代とする為のみに成育せらる血筋であり、神霊との交信を恒常的に安定させるべく継がれている家系である。

一般的な依巫と異なる点としては"代家"はその身に下ろす神霊を選ばず、また必要な情報さえ得れば神霊のみでなく人間や異常存在でさえその身に依らせることが可能である点が上げられる。"代家"の人間は神霊との交信や蒐集物への情報収集にも有用であるとして、一九三八年現在当院の特殊研儀官に登用されている。


「流石に気付く人もいると思いますけど」

 いくら見た目が財団の技術でどうにかなったって、と続けつつ、資料を読み終わって視線を上げる。エージェント・太郎がそう首を傾げるのに、立案担当にあたるアノマリー人事部の男は勿論と頷いた。財団の職員は優秀な人間ばかりだよ、と笑う。

「だからこそ、彼らは気付かないという選択をする。職員としての職務を達成する上では、そちらの方が精神衛生に良いからね」

 例え気付いたとしても、それを正面から認識できるのは同僚の死を克服した人間のみなので、結果としては等しくなる、と、柔らかい口調で説明される。それにふうんと生返事をして、再び端末に視線を落とした。
 些細な心的外傷によって発生する遅滞を解決するための小さな計画 ― と形容してみれば、至極ささやかで聞こえは良い。

「Identity、ねえ」

 読み上げたプロジェクト名がやや皮肉げに感じる。
 財団職員に求められるそれとは何なのだろう。……自分は職務をこなすのみだけれど、と、彼は心中で小さく呟いた。

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