裸の女王
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赤、白、黒。光に照らされた鱗をキラキラと輝かせて泳ぐ金魚たち。まるで子供が遊んだ後のぬり絵のような色合いの彼らは、その大きな尾びれをくねらせて優美に小さい鉢の中を行き来する。その堂々たる態度はどこぞの女王のようにも見えるが、その雑な色合いがあまりにもミスマッチだ。私は彼らのあんまりなサマを見て、静かに吐息を漏らした。

数日前までこの金魚たちは、誰もを魅了する輝きを放っていた。この世のものとは思えない不思議な色合い、見る者の視線を釘づけにして決して離しはしない動き、初めて見た時に"虜にする"とはこういうことなのだろうと私は本能で理解した。

赤、白、黒。世界に自分を脅かすものはいないのだという傲慢さで彼らは泳ぐ。もしも、もしも彼らが、最早言葉で表せるほどに落ちぶれた自分たちの色彩を見ることができたならば、いったいどんな反応をするのだろうか。怒るだろうか、悲しむだろうか。私が彼らだったのなら、死んでしまうかもしれない。透明度の低い鉢のふちを指先で撫で、そんな想像に私はため息をひとつ吐いた。

彼らは私が看護師として勤めている医療センターの治療のせいでその"色"を失った。図画工作、美術共に万年2だったと笑いながら宣う担当医はこの色を見ても何も感じないのだろうか。彼らの色は失っていいものではなかったのに。綺麗で、魅惑的なあの色を、こんなものに貶めていいはずがないのに。


この哀れな金魚たちは数日前に飼い主の友人を名乗る人物から動物医療センターに連れて来られた。曰く、友人と連絡が取れなくなったから家に行ってみたら、件の彼は水槽の前から一歩も動かず、金魚の世話以外の全てを拒否するとのことだった。飼い主は栄養失調で死ぬ寸前だったそうだ。

きっと金魚の虜になってしまったのだろう。担当医は机の上に金魚たちが入った水槽を置き、それを横目に見ながら言った。この3匹はその色合いと動きで回りの生物を洗脳し、自分の世話をさせるのだという。金魚を魅力的に思うほどに洗脳効果は高くなり、自分の寝食すら忘れてしまうのだそうだ。

だから、その洗脳を解いてやるには"色"か"動き"のどちらかを変えてしまうしかない。担当医はそう言うと、治療にあたる前の諸注意などをつらつらと目の前の男に述べていく。そして最終的に"色"を変えてしまおうと結論付け、男は水槽を置いて帰っていった。友人の見舞いに行くらしい。

私は担当医に言われた通りに金魚の入った水槽を運んだ。幸い私にはちょっとした精神汚染への耐性がある。だから洗脳なんてかかりはしない。担当医はそれを把握していたからこそ、私に頼んだのだ。


そしてその時、私は、彼らと目が合った。


あれほどまでに美しい生き物を私は知らない。優美で気高く傲慢なその姿に目を奪われた。彼らにだったら私の人生全てを捧げてもいいと思った。この傲慢な女王に消費される人生を想像するだけで絶頂にも昇る心持ちだった。この色を消していいはずがない。だから私は抗議した。


その結果が——これだ。

受け入れてもらえなかった。それどころかあの男は、私を担当から外し、一人で治療を行った。
許せるはずがない、許されるはずがない。私は精神汚染に耐性がある。だから、彼らに抱いた思いは、本物だった!

赤、白、黒。彼らは相も変わらず優雅だ。ここには彼らの美しさを損ねるものはいない。今の穢れ切った色だって、いつか私が治してみせる。

赤、赤、赤。彼らを汚したあの男の赤は、なるほど芸術性の欠片もない下品な色合いだった。報いはどんなことにも必要だ。だって、あんなことをするなんてヤブに決まっているんだ。あの蠱惑的な色を、私の心を掴んだあの色を"治療"と称して奪ったあの男は生きていてはいけない。心はちっとも痛まない。だって、私は、彼らのために生きているのだから。

ねぇ、そうでしょ? 金魚さん。

微笑みを湛えて特注した水槽を見れば、綺麗な尾びれが広がって、彼らが私の方を見ていた。ああ、きっと彼らも私を受け入れてくれたんだ。だって、ほら、あんなにも鮮やかな色合いに——


「ああ、あー。やっちゃってますねぇ、これ」

牛山はため息を吐いて目の前の女の死体を眺めた。彼は先日久斯動物医療センターから「アノマリーを持って逃走した女がいるから何とかしてほしい」という旨の通報を受け、派遣された財団のエージェントだ。近場の監視カメラと数日睨めっこをしてようやく突き止めた新宿区のマンションに転がっていたのは、全身を様々な絵の具でぐちゃぐちゃに塗装されて倒れている女の死体と、そのわきに転がるカピカピに乾いた金魚3匹だった。

牛山は慎重に金魚の死骸を拾い上げる。何故死んでいるのだろうかと辺りを見渡すと、きれいに磨かれた高そうな水槽が目に入った。透明度の高いそれを覗きこめば、ガラスに自分が反射して映った。それを見て、彼は久斯から送られてきたカルテの内容を思い出す。

「たしか、『プライドが高く、自分の姿を確認すると半狂乱になり自殺する恐れがあるため、水槽はスモークガラスに』だったか。こんなに綺麗な水槽じゃあ反射するわな」

牛山はつまらなさそうに溜息を吐く。そうなると、この転がっているエイリアンみたいな肌をした女は自分たちの姿を自覚させた敵のような存在だとアノマリーに認識されたということになる。恐らくは絵の具で塗られているのはアノマリーによる報復なのだろう。

持ち逃げしたアノマリーに殺されるんじゃ世話ないなと彼は肩を竦め、上司への報告しようと携帯を取り出した。

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