「いぎ……ッ!?」
耳元からその音を聞いた瞬間、私の意識は帰ってきた。
全てが戻ってきた途端、体中から、聴いたことのない音がした。動物の肉を無理矢理引き切ったような、料理の時に動物の骨を柔らかくするような、この上それらをもっと歪めた、醜い醜い音。
「ぃ……っ、ぎ、げェ……は」
視界が流転する。何が見えたかも頭からは一瞬で遠のいた。自分が地面を転がる痛みよりも、「意識を戻された瞬間に受けた痛み」が遥かに勝っている。痛い。痛い。痛い。私は、何でここに居る。何で、私はこんなことになったんだ。
立ち上がろうとして、首の据わらない子供のように視界がガクンと落ちた。震える指先の何本かが折れて、爪なんかは吹っ飛んでしまって、骨がはみ出しているのが見える。それでもなお起き上がろうとすると物凄い吐き気がして、私は手をついたまま思い切り吐いた。
「っ、げっ……ご、ぁ……」
びしゃびしゃびしゃ、びしゃびしゃびしゃびしゃびしゃ。断続する湿った音。こんな有様だというのに、健在な両眼には涙が滲み、視界がぼやける。自然と目はきつく閉められていた。それでもなお、吐き続ける。胃の中の全部を吐き出したんじゃないかというくらい、延々と。延々と。きっと、他人から見て一瞬かもしれない長さでも。
「は……ぁ……」
目を開けたら、涙が「それ」に落ちた。涙が一滴落ちたところで、目の前の有様は変わるわけもない。私は酷く既視感を覚えて、既視感と一緒に自分の体からこんなに「それ」が出てくるのが信じられなくて、自嘲のこもった笑みが浮かぶのさえ感じた。
――出て来た「それ」は、全て血だった。辺り一面血まみれ、血みどろだった。
「何回か」で見慣れてしまったそれが滾々と溢れてくる。喉の奥から止め処なく流れ出すそれは、吐き出せば吐き出すほど体内から私の命を根こそぎ奪いながら、温もりの尽くを冷え切らせながら、苦痛だけはしっかりと、どこまでも丁寧に連れてくる。息が出来ない。苦しい。嗚咽が止まらない。流れ出す血は、どれだけ胸中で止まってくれと懇願しようと止まらない。
手が震える。勝手に力が抜ける。その内に私は私を支えていられなくなって、両の手から地面にくずおれた。自分の広げた血の海に横になったまま、ゆっくりと目を動かす。目に見える景色さえ、像がブレてよくわからない。そのまま視線を動かして空を見上げると、青い色だけがやけに鮮明に見えた。
――今度は何をしたんだろう。ぼう、と回らない頭で考える。この間は高すぎる所から飛んだらしかった。その前は何だっけ。潰されていたような気がする。その前は、何を思ったか自分で自分を刺していた。あんまり覚えてないし、覚えていたくもなかった。一番最初は――。
物凄く巨大な何かが、近くに居る。だが、それはあっと言う間に遠ざかっていった。辺りでたくさんの人の切羽詰まった声や、痛みに満ちた叫び声がしている。それがぼんやりとした頭のなかに強く強く反響するのを聴きながら、たった一言その言葉だけが克明に、あまりにも鮮烈に聴こえた。
「――そいつは『死なない』から大丈夫だ! 今はいい!」
近くに寄って来ていた人が遠ざかる。今のはたぶん、隊長の声だと思った。私は、手を伸ばした。力は抜けかけで。指先は折れ曲がっていて。それでもなお、ほんの少しでも、動いてしまった。
「…………ま、……っ……て…………」
でも、届かない。私の手を握ってくれる人は、誰もいない。
「………………っ、て……」
ぱしゃん。呆気無い音がした。私の手が落ちる音だ。もう遠くから見ているみたいだった。力が入らない。声も出ない。動けない。でもまだ私、生きてる。生きてるんだよ。死ななくなんかない――死にたくない。
大きなブーツから大きな振動を私に伝えながら、それでもその大きさは次第に遠ざかっていく。離れていく。小さくなっていく。待って。待ってください。お願い、私は、私もう苦しみたくないのに。助けて。ううん、助けてくれなくたっていい。殺して。お願いだから、殺して。殺してください。我儘言わない、我儘なんて言いませんから、殺さなくたっていい。お願いだから、お願いだからせめて私を――楽にして。
不意に、視界の隅に影が掛かる。時間が止まったかのように、全ての感覚が冷たくなっていく。遠のいていく。暗くなっていく。終りが近付いて凍り始めた世界の中に、まだ動く私の目に、白い背景を背にした2つの青いお月様が映っている。
「…………きみは、」
満月みたいな2つの青い月は、2つ分の太陽に齧られて月食みたいに、すぅっ、と綺麗に細くなった。空の切れ間みたいな青い月が、私を見下ろしている。
ごろごろと、猫が喉を鳴らしているような音がした。それを聴いたら私はもうとても眠たくなって、もういいかと思ってしまって、眠ってしまってもいいかと思った。きっとまた誰かが起こしてくれる。誰かが目覚めさせてくれる。その時はきっと、こんな風になったりしないから。そう信じてるから。今度こそ、そうであってほしいと願っているから。
もう決して忘れたりはしないと、信じて。
――おやすみ。新しい君の名前は――「シロ」
空白
空白
空白
空白
空白
空白
空白
空白
空白
空白
空白
空白
「こちら負傷者七名、死亡者二名……いや、悪い。一名だ」
連絡を入れ終え、惨劇の静まった現場を眺める。凄惨なものだ。まさか、ここまで被害が拡大するとは。だが、身を挺して役に立ってくれた――血溜まりの中から起き上がる彼女。彼女のお陰で、ある程度は被害を小さくすることが出来たと言えるだろう。
……本当に、傷一つ無い。便利なものだ。死ぬことがないなど、そんな楽な話などあってたまるものか。そう思っていた。だが、こうして――
「……すみません、隊長。お役に立てなかったでしょうか。っていうか、何があったんでしょう……?」
「いや……良いんだ。少なくとも、牽制にはなったからな。君の行動は」
「……それなら――良かったです。あんまり、覚えてませんけど。へへ」
――こうして無垢に笑う彼女が、本当に死なずの怪物だとは。
空白
空白
空白
空白
空白
空白
――エージェント・猫宮は、財団が把握している範囲でプライベートにおいて一度、作戦行動中に二度、合わせて三度の死亡が確認されています。にも関わらず、どんな死因であろうと即座に復活し、それに伴い彼女の記憶において前後状況の補完が行われています。これらの原因、理由は未だはっきりしていませんが、この件について言及し、死亡時の映像及び記録を見せようとも彼女はそれを一切信じず――
エージェント・猫宮の旧人事ファイルより。