空白
空白
雨が降っている。窓の外を呆、と眺めて、息を深く深く吐き出す。冬場の雨は冷たくて嫌い。室内は暖かくても、外はこれなんだもの。少しくらいナーバスにもなる。テンションの低さはそのままに、曇ったガラスへ猫の顔を描く。描き上げたそばから猫はずるずると結露の涙を流し、無言のまま窓の上に居ることを抗議して見せた。
にゃあん、と窓の猫の代わりみたいに一声。シロだ。振り返ろうとして、急激に左肩に重さを感じる。飛び乗られた。直後に、顔いっぱいに毛のもふもふ感。口の中にも。
「わぶっ!? シロ! こら降りて!」
にゃあん。少しだけご機嫌な調子の鳴き声を上げて、顔中に体当たりを喰らわせてくる。シロに外の天気など関係ないらしい。そういえば、この子は外が雨だろうが日本晴れだろうが外には出たがらない。まあ、私の猫達で表に出たがるのは、一番やんちゃ坊主のココくらいなのだけれど。
「ほぉら、おりてっ」
にゃあん。放り投げるようにシロを下ろすと、空中で一回転して事も無げに着地した。運動なんてほとんどしないくせに、猫特有のモーションは綺麗に取れるのだ。そうして、今さっきまで甘えてくっ付いてきたことなんか忘れたみたいに、ごろごろと喉を鳴らしながら去って行く。入れ替わりでミケが入ってきて、兄の座るソファの隣に飛び乗ると、ぼすんと音を立てて座り込んだ。でぶちんめ。
口の中に入ったり顔にまとわり付いたシロの抜け毛を払ったり口の中からつまみ取りながら、改めて窓の外に顔を向けた。相変わらず雨は降っていて、窓に描いた猫なんかはもう形を失ってデロデロだ。ますます気分が上向かない。洗濯一つ出来やしない。
「幸子」
不意に、読書していた兄から声が掛かる。
「なに?」
「いや」
薄い紙のめくれる小さな音。言葉は続かない。
「……なによ。用が無いなら話しかけてこないでよ」
「……」
不機嫌をそのままぶつけてやったけど、兄は特別何の反応も見せなかった。
その内不意に、兄が無言で立ち上がる。すると窓際に立って、私がしていたみたいに呆と外を眺め始めた。
「……なに、なんかあった?」
「いや」
兄はしばらくそのまま突っ立っていたけれど、唐突に、窓に描かれていたもう既にグズグズの猫の絵を手で擦って消してしまった。やってることの意味が分からなくて、私は目を瞬いた。
「……何してんの?」
「いや」
兄はそのまま踵を返し、ミケみたいにどすんとソファに座りこんで一言。
「これで良いんだ」
「……はぁ」
やっぱりよくわからなくて、私は、消えた猫の居た窓を眺めていた。
「あっ、兄貴コラァ!! 濡れた手をズボンで拭くなあ!」
「……」
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ざあざあと雨が降る。この音色を聴くのは心地がいい。けれど、時と場合によっては憂鬱になる。そして今日はたぶん、そういう日だった。出来れば一人が良かったと、仄暗いカフェエリアを所在無く眺めながら心の中で呟く。そんな私の目の前へ、痩せぎすで白い手と、何かよくわからないオレンジ色が急に突き出された。
「蜜柑、食べます?」
「……いや、ええと。今はいいです」
諸知博士の差し出したそれを、曖昧に手と頭を雑に振って断った。オレンジ色は蜜柑だったらしい。
「お疲れの時は頭に良いんですよ、甘いもの。小振りだから良く熟れてて甘いですよ」
「あー、私酸っぱい方が好きなんです。それに、今は別に疲れているというわけでも」
「あら」
美味しいのに、という呟きを聞き流しながら、私は窓の外を見る。定期カウンセリング。なんてものも名ばかりで、最近は殆ど雑談だ。"こう"なってからしばらく経つ。蜜柑を頬張る諸知博士には、私が変わってしまった当初はよく世話になったけれど、今はただただ話相手をさせられているような、むしろ自分がこの人の世話をさせられているような、そんな気にすらなっている。世話されたいのは私だというのに。
「ねえ、西塔さん。最近はどうなんです? まだ夢に見たりとか?」
「いえ……最近は、見てないです」
「そうですかあ」
残念そうな声音。人を実験台かなんかみたいに見るのはやめてほしい。まあ、この人は誰に対してもそうかもしれないけど。時々、雰囲気が違う時もあった気がするが、そんな時は本当に稀だ。
あの時見た夢は、たまに今も見る。頻度は段々減ってきているが。
「西塔さん。もう何度も言ったかもしれないけれど」
「はい」
「忘れてしまう、というのは悪いことじゃあないんだよ」
「はぁ」
雨降りの窓辺に腰かけて、諸知博士は嬉しそうに言う。その背の窓に、雨粒が滴っては流れていく。
「まだ忘れられないあなたが居て、自分が自分だと信じきれないあなたが居ます。この場合、忘れられた方が良いのはどちらでしょう?」
「……忘れる、という解決策が根本的な解決にならない場合もあります。一概にどちらが良いとは言い切れないのでは」
「いやいや。忘れるって良いものですよ。身軽で、気楽になれて。仕事もスムーズになります。記憶処理されて職務に戻る方、何人も居るの知ってるでしょう?」
「貴方も含めて、ですか」
諸知博士は肩を竦めて、身振り手振り交えながら言葉を続ける。
「私は、仕事柄忘れないといけないことの方が多いから、こうして常に身軽で居るの。望んだことじゃありません」
「……何も持たないのは、私には少し不安が過ぎますから。諸知博士は不安になったりしないのですか?」
諸知博士は、再び肩を竦めて、蜜柑を口に放り込む。よくよく見れば、テーブルに置き晒された蜜柑は筋まで丁寧に剥かれている。一粒ごと。神経質なほどに。
「どうなのでしょうね。ただ、私は私に出来ることをしているだけで。自意識があり、"これ"が私だとわかっていれば、不安になる理由もありません」
とんとん、と自分の蟀谷を人差し指で叩く諸知博士。私は頬杖をついたまま混ぜっ返す。
「それも要らないものだと言われたら?」
きょとん。その言葉に、諸知博士は呆気に取られたように蜜柑の粒を手にしたまま目を瞬いていた。
「そんなの誰にもわかりませんよ。わかりません。誰にも言われたこともないですし」
「どうでしょう。一番偉い人に聞いてみたらわかるかもしれませんよ。それに――言われたことすら忘れているのかも」
「…………もしそうだとしても、私は、私に出来ることをするだけですから」
諸知博士は少々ぎこちない笑みを浮かべた後、私の向かいの席につき、再び蜜柑を剥き始めた。やはり神経質に、徹底的に"無駄"を省くように、筋の全てを剥き散らかしながら。意外とこの人も、弱いところは弱いのかもしれない。私はため息をつきながら、諸知博士に引き剥がされた蜜柑の筋を指さした。
「その白いの、体に良いんですよ」
「苦手なんですよ」
まあ、大体予想通りの答えが返ってくる。もったいない。
「じゃあ、折角だし半分ください。私も食べます」
「あら、甘いですよ?」
「大丈夫です」
剥きかけの蜜柑をかっさらうと、私は何粒かを口に放り込む。
――記憶もこれも、捨てるかどうかは私が判断するのだ。筋だらけの甘い蜜柑を頬張りながら、私は飲み下した鬱屈を舌や胃の腑で味わった。気持ち悪い甘み。おまけに筋が歯に挟まる。舌で取れない。気持ち悪い。
「……筋が歯に挟まった。あと甘ったるい」
「何やってるんですか。ホントにわかんない人ですねえ、西塔さんは」
「わかりませんよ……はあ、私にだってわかんないんだから」
やっぱり、カウンセリングなんて断って寝てりゃ良かった。
「今度は賀茂川さんにでも当たろうかなあ」
「え?」
「いいえ、なんでも。さて――」
残りの蜜柑を頬張って顔をしかめながら、私はのんびりと席を立った。
「次は晴れの日にでも呼んでください」
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雨降りが続いている。窓の外を見れば、サイト-81██の運動場に転がった沢山のバスケットボールが、雨に濡れたまま転がっている。薄暗がりな窓際の近くに置かれた簡易なソファには、一枚の皿と唐揚げが、湯気も立てずに置き晒しになっていた。
「随分急に降り出したものですねえ」
「おや」
"唐揚げが振り返れば"、そこにはバスケットボールを頭に載せた――否、頭がバスケットボールの白衣――宇喜田博士が居た。
「失礼、誰もいないと思って"外して"ました」
「ははは。窓辺に湿気った唐揚げが置いてあっても、薄気味悪くて誰も手を付けたりしませんよ」
「違いない」
唐揚げ――虎屋は苦笑すると、手元の狐面を放り投げて弄ぶ。宇喜田は手元のコーヒーにバスケットボールから伸びた触手で口(?)を付けると、虎屋の隣に座った。
「大雨なものだから、皆さん慌てて引っ込んでしまって、あんな風にほったらかしに」
「そうなんですか。どうにも"私"が沢山落ちているようで落ち着きませんねえ。こう、ああいう景色を見ると首元の辺りがぞわぞわしてきて」
「そんな事を言い出したら、バスケの試合なんか観れたものではないのでは」
「ええ、それはもう。試合で使われるボールなんかには同情の念を抱かざるを得ません。私は"ここ"で良かったと思ってますよ」
頭部を指さしながら、宇喜田は赤子のような笑い声を上げる。
「――おっと」
背後から聴こえた足音に、宇喜田は白衣のポケットから布切れを取り出し頭部に被せた。その直後、曲がり角から女性職員が一人現われ、怪訝そうな顔で二人を――唐揚げと布切れを被った白衣を一瞥し、通り過ぎて行った。
「……今の、新人さんですかね」
と、虎屋。
「仮に新人さんじゃなくても、布切れ被った白衣の隣に唐揚げがぽつんと置いてあったら誰だって変な顔くらいしますよ」
と、宇喜田。
「……それもそうか」
今更という塩梅で虎屋も狐面を被り、唐揚げは瞬き一つの間も無く狐面を被った白衣の男性へと変ずる。
「いやー、何度見ても変化の瞬間が認識出来ませんねえ」
「これ息子に見せたら喜ばれますかね。変身! ……って」
「そういうのがわかるようになるまで、少なくともあと三年くらいは待たないといけないかもしれませんね」
「三年かあ」
虎屋はぼんやりと、点灯していない蛍光灯を眺めながらぼやく。
「生きてるかなあ、俺」
「なんとも言えませんねえ」
しばらくの沈黙。微かな雨音よりは強く、すず、と宇喜田がコーヒーを啜る音。
「あ、いないいないばあには使えるかも」
「それ、喜ぶんですかね?」
「どうなんだろう。でも、まあ――」
ひらりと布を取り払い、宇喜田は自身の頭部を、触手を器用に使って胴から伸ばしてみせる。うねうねと蠕動させ、微かな光に触手は輝いて冒涜的に映る。その様子はさながら、コズミックホラーの猟奇的ワンシーンと言っても全く過言ではない。少なからず宇喜田を見慣れているはずの虎屋ですら、この暗がりの中では相当の気味悪さを感じる。
「これよりかはマシでしょう」
「う、うん。まあ、確かに。子供に見せたら泣かれるでしょうね。そう考えると、私は唐揚げなだけマシな方かもしれな――」
ばさっ。
何かが落ちる音。二人が振り返ると、視線の先には散らばった書類。
「ひ、ッ」
鋭く短い、引き攣った声。視線を上げれば、怯えきった目を見開きながら、先程通りすがった職員が硬直している。
「あっ」
おまけに。ダメ押しのように。腹に響く、痛烈な雷鳴が、古臭い演出めいてその場を照らし出した。勿論――
「いやあああああァァァアアァアアァァァァァーーーー!?」
――彼女には覿面の効果があった。絹を裂くような悲鳴を上げ、立て続けに全力疾走。極まった動揺に曲がり切れず、職員はヒールを宙に舞わせながら壁に追突、そのままばったりと倒れ込み、動かなくなった。
「……」
虎屋は、腫れ物にでも触れるかのように、そろり、そろりと倒れた職員に歩み寄り、一応呼吸があるかどうかを確認する。
「うん、気絶しちゃってますね」
「…………怒られるかなあ、私」
布を被り直し、宇喜田は深く深くため息をついた。
「……なんか、すみません」
「いえいえ。しかしまあ、これじゃ雨に降られるバスケットボールの方がマシだったかもしれませんねえ。やれやれ」
宇喜田は虎屋と同じく職員に歩み寄ると、自身の見た目よりは軽々とその体を持ち上げた。
「あ、宇喜田さん」
「医務室に連れて行きます。ほとんど私のせいですしね。それでは」
「あー、ええと、はい」
宇喜田はそれだけ告げると、虎屋を置いて足早にその場を去って行った。
「……あの子、途中で起きないといいけど」
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――そしてやはり。そう短くない時間の後、二度目の悲鳴がサイト-81██に木霊するのだった。