広漠な草原の上に聳え立つ教会より、小さな光が漏れ出ている。日は未だ昇らず、野鳥の声は聞こえず、夜闇がそれらを包む。しかし、教会の灯籠は未だ灯る。彼らの血の供給は絶えず、彼らの信仰は刹那も絶たれることは許されないのである。
「ゼイZey、ラクマウ・ルーサンの健在のため、定期的に貴方の血を捧げよ」
男の低い声が響く。第一南部オルトサン教会には一人の男がいた。司祭グレイ・サントレス。第二ハイトスの正装にして、橙のキャソックを身に纏う。後ろで髪を束ね、彼の両袖は綺麗に捲られていた。
サントレスは身廊を歩く。無人の観衆席を通り去り、彼の精神はドームの中心へ向かった。ここでは宇宙の神秘の全てが知覚することができる。膨大な資料の数々が、第一ハイトスより受け継がれている。そして彼らはその技術を有している、それを知り尽くしていた。故に、教会は広大な図書館でもあるのだ。その傍らに、ただ彼は孤独に歩んでいた。
「ウルUr、遠く、広くオルトサンの宗教を拡散せよ」
彼は石の階段を登る。そうして、サントレスはアプスへと辿り着いた。彼の右手には黒曜石の破片が握られている。予兆はなく、それを左腕の古傷の上に押し当て、尖端を皮膚に食い込ませ内側から開け切った。平生の如く、彼の腕は動いた。骨の削れる音が響く。それは大地の亀裂のように、彼の腕に傷を刻む。痛む。痛みがある。しかしその彼方にはラクマウ・ルーサンの栄光が見える。数本の動脈を断ち、断面は彼に鮮烈な神経の束を見せる。
「イオEo、宇宙と其の先行者の歴史を学べ」
サントレスは跪く。アンテペンディウムの色彩の衝撃が彼を迎える。彼の腕が震える。それを抑圧するように、右手で腕を掴む。彼の傷口は顕となり、神の目前へ捧げられた。痛覚と幻影が衝動となり、月の光が彼の身体を焼く。滴る。滴り落ちる。
「ラクRak、必要のあらば、フォルテウトや我らを害する力と戦え」
血は滴り、石畳の上へ落ちる。それらは蓄積し、一つの塔を造るのだ。サントレスは静かに目を閉じる。数多の赤はラクマウ・ルーサンを敬虔し、司祭の傍を離れる。それは地へと浸透し、原子の間隙を通過し、もはや彼の元へは戻らない。
「神聖なる第四位が永遠であらんことを」
最後の一滴が終わる。サントレスは復唱する。二度、三度。あたかも彼の口はそれを成し遂げるのみにあるがために、言葉を発した。彼のアイマクトは空間に希釈される。そして、その場に消失した。血の徒労は彼の神経を過ぎ去り、後にはラクマウ・ルーサンの確かな栄光を見せた。
サントレスは立ち上がる。全身から汗が噴出していた。しかし、それは痛みによるものではない。そうではないのだ。屈することは許されない。ただそこにあるべきは、第二ハイトスの存続だけだ。彼は深く息を吸い込み、長い安堵に変えて放った。血の付いた破片を祭壇へ置く。再び、彼は精神を落ち着かせるべく──
「ネスNes、」
男の声だ。サントレスは周囲を見渡す。それは教会の壁を跳ね返り、煙のように揮発し不明瞭な音となる。
「親愛なる七角形よ、4ラクの次は5ネスでな。」
彼は次の声を鮮明に捉えた。背後を見る。
大扉は静かに開き、大気の畝りが男の声を運んだ。ナルテックスの片側の塔に凭れ、口に挟まれたパイプからは炎の灯りのない煙を吹かす影が立つ。サントレスは刮目する。剥げかかった男だった。第五信者の司祭。男は酷く場違いに思える。サントレスには教会へ食物を妬む乞食のようにも見えた。
「サントレス兄弟!」
男は大股でバシリカの入口へ踏み込む。さも北欧からの旧友と一献交えるような口調であった。一瞬にして、内部はシンナーの匂いが拡散した。
「やあ、アンタ。アンタはまず何よりも狷介を好むようでね。」
男の足は蹌踉とする。
「クラッカー・ホレス──」
サントレスは静かに唸る。
「此処を去れ、フィフティスト。」
彼は男を一蹴した。しかし男はその言葉をも煙と共に吸引し、再び彼に歩み寄る。たとえ宇宙の真髄であろうが煙の男には通用しないと、ハイトスの司祭は知っている。
「アンタは物騒で不可思議な顔面を私に叩き付けるだろう。しかし、何も3年前みたく戦争たらしいことをしに来たわけじゃない。ヒッピーな集団のケツを拭うのは手に負えないものでね、アンタは今から私が宣言せしことを考えなければならん。」
しかし、サントレスは第二ハイトスの司祭であった。それが何を意味するものであるか、煙の男は知っている。
「我々は、屈しない。」
「そうだとも、アンタは一度たりともその血で穢れた石畳に膝を突いたことはないね。」
彼は声を荒立てた。
「オルトサンへの冒涜だ!ダエーワのように、血や肉と闘争の山のようにあってはならない。」
サントレスはアプスを下りる。彼の怒りの数歩が階段を打ち付けた。しかし男には、ハイトスの鋼の意思がまるで手応えがない。
「冒涜だとか法悦だとか、宗教的な話は止めにしましょうや、私は斯くしてここへ導かれた。ハイトスの存続を称えよう、ローマの人々のように。1」
男は会衆席に腰を下ろす。サントレスは男を睨んだ。
「止しておけ、お前の宗旨が変わらぬ限り。」
「言っただろう、兄弟。チャペルの入口の枠を通ってしまえば、やることは一つに限るのだ。」
男は唱える。
「七の神がいた時、彼は新たな世界を主張する闇の神を倒した。六の神がいた時、彼は壊れた創造の暴動を制圧し、彼の都市を締め出した──」
サントレスは僅かに沈黙する。ハイトスの神は寛大であり、何よりもハイトスの存続を願うように。しかし男は口を噤ぐ。
「兄弟、アンタらはずっと第四位を見てきた。しかし、酒酌みと血飲みの憶測ほど信用足らないものは他にない。はたして、この詩は完成しているのかな?」
男は軽蔑するようにサントレスを見上げ、奥のアプスを眺める。その目は教会を見透かし、奥に居座る真実にまで及ぼうとする。
「つまり、何が言いたいのだ?」
サントレスは尋ねた。男は立ち上がる。
「要するに兄弟。アンタは、第五位と第七位を知ってはいるのか?」
サントレスは予期していなかった。彼は躊躇う。事実は彼でさえ知られていないのだ。それは宇宙の要素には含有されず、外宇宙に飛び散った不特定な知識の破片、即ち忘却と消失だった。
「御神体は不明瞭だ。しかし、我々が屈することはならないのだ。」
サントレスは強く復唱し、再び彼の立場を強く主張する。そうすることでハイトスの歴史は確実なものへと成ってきたのだ。
「何故分からんと答える?」
しかし、彼の意思が微かに揺らぐ。
「忍耐と臓物の山の上に蔓延る蠅共は何だ?奴らは蜘蛛なのか?私はいつだって事実を垂れ流している。サントレス兄弟、その埃の被ったラジオに手垢を付けなさい。そこに来ればアンタも恵まれる。」
分からないとは何であるのか。彼らの名に残された骸は何処へ消え去ってしまったのか。それらは全てが第一ハイトスより継承された不変の歴史であった。
「彼の名は、ミラン・ルーサン、ネスレン・ルーサン。我々は御神の骸をも崇拝し、この次元は第四位の加護の元に生き永らえた。」
「ミランルーサン?ネスレンルーサン?ハ!アンタらの煙は、アンタみたいなイエスズ会よがりの連中ばかりだった。誰もそれを知っちゃいないのさ。」
男の口角が緩み、立ち上る煙の隙間に不気味な笑みが見える。
「享受するのだよ、兄弟!信じてみたけりゃ、煙を吸い込んでアンタの五番目の脳髄にでも疑ってみるんだ。外宇宙は芸術だとも、ヒッピーやマリファナの匂いやら山羊の胃腸やらが存在しない!」
「ただそこにあるのは、忘却と消失だ。我々はそれを探るべきではない!」
サントレスの声が教会を震わす。
「オルトサン?フォルテウト?そうではない。アンタと血について馬鹿真面目なアンタらはずっと同じモノを見続けていた。まるで蜘蛛がそいつの足を潰すように。そいつはかなりアバンギャルドだ。」
男のパイプから、彼を侮蔑するように煙が立ち上る。
「それが事実であるのならば──」
「その通り、」
男は告げる。
第二ハイトスは、存在しない。
男の声がサントレスの脳裏で交錯する。東から緑の光が指す。煙の男は依然として立っている。彼の内側に、何かの砕ける音が響いた。僅かに、サントレスは自己を疑ったのだ。それは次第に膨張し、彼を内部から飲み込む。宇宙の闇から数多の目が姿を表す。
オルトサンは崩壊した。
信仰は倒錯した。宇宙の釣橋に疑心の亀裂が入り、ハイトスの大聖堂は崩れ去った。外宇宙の知識は瓦解する。それはハイトスの図書館を吹き荒れ、宇宙を薙ぎ倒した。彼に寄生するアイディアは広くオルトサンを伝播する。サントレスは左目を抑えて崩れる。彼の思想はヒトデに侵食されつつあった。
「ラクマウ──」
彼の視界は暗転する。サントレスの左目の眼球を突き破り、触手が現れた。それは彼の信仰心と忍耐の脳髄を寸寸に引き裂いた。サントレスは辛うじて呻き、血を吐出す。しかし、彼の血が捧げられるべき神は既に存在しないのだ。無音の叫びは宇宙へ轟く。そして断続する痛みの中で、サントレスは第二ハイトスの全てがそうなるべきであったのだと悟った。彼は心臓の砕け散るその最後まで、ラクマウ・ルーサンの救済を尊んでいた。しかし、それが彼を狂気の内に殺すのだ。
「手間を掛けさせないでおくれや、兄弟。私は他人の墓を荒らすのが、ダエーワの儀式みたく憎たらしくてね。アンタらだって随にまで流れた血がある、偽りの他神への信念は慰めにもならんのだ。」
男はサントレスに歩み寄り、石畳に落ちた彼の亡骸を掴み寄せた。
「さあ、サントレス兄弟!ようこそ、そして今ここに、邪悪なる信仰の肉壁は死体となった。私たちは上昇することができる!」
退紅の太陽が昇り始める。男は叫ぶ。それは教会の残骸と共にあり、彼を咎める者はいない。
「蝋を注げ!煙を食え!ハイトスの連中は母の作る偉大なるスープと共に運河へと流してしまえ!記憶にハイカラな蓋をしてしまうのだ。そしてここに私達の家を建てよう!──大丈夫。アンタ、アンタもすぐに慣れるだろう───」
男の声に第五へと導かれ、サントレスの魂は彼の元を去った。


