ヒーロー永久欠格

本作はフィクションです。現実の事件・人物・団体との関連は一切ありません。


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ヒーローになりたかった。


日曜の朝になると、真っ先にテレビにかじりついた。

ヒーローは弱きを守り、悪しきを打ち砕いた。

その姿がとても格好良くて、いつでもその真似をしていた。

幼稚園では、友達と一緒にその「ごっこ」をして遊んだ。

いつか本当のヒーローになって皆を守るのだと、それが当然だと息巻いていた。


でも、違った。

自分に、人を守れるほどの強さなどなかった。

予想外に直面すると、何もできなくて、パニックになって。

自分は、弱い側の人間だった。


最初から、ヒーローの資格などなかった。

ヒーローになりたかった。


借りてきたDVDの映像に、毎日釘付けになった。

ヒーローは人を助け、みんなに褒められた。

その姿がとても立派に見えて、いつでも人助けを惜しまなかった。

いい子だ、偉い子だと、たくさんの褒め言葉を受け取った。

いつか本当のヒーローになって皆を助けるのだと、それが当然だと意気込んでいた。


でも、違った。

自分は、ただひたすらに承認されたかったのだ。

そのためだったら、感覚がマヒして、どんな手でも使って。

自分は、傷つける側の人間だった。


最初から、ヒーローの資格などなかった。



無骨な白と灰色の空間を、冬梅ふゆめみさごは足元から鳴るコツコツというある種心地良い音を聞きながら、歩いていた。

財団に入って早1ヶ月、このサイト──サイト-81HZ──に配属されて早3週間。彼女にとって、ここの風景は未だに新鮮に見えた。白衣を纏ったいかにもという見た目の研究員たちに、なんだかよくわからないごつごつとした機械、番号以外わからないが、何か異常なものが保管されている収容室、そして…… オレンジ色のつなぎを着た人々。このような空間に自分がいるという事実が、未だに信じられなかった。1年が経ってもまだ違和感を覚えていそうな、そんな予感がした。

とはいえ、サイト-81HZはそこまで大きくはない。収容されているオブジェクトもほとんどがSafeかAnomalous、それとEuclidが多少──といっても知性があるからEuclidというだけで別段危険なものはないらしい──といった具合で、Keterは一つもなく、比較的に安全で平穏なサイトだった。……あくまで「比較的に」であって、実験等での死者はそれなりに出ているらしいが。この辺りの倫理観については、まだあまり整理も納得もできていないところはある。

とにかく、このサイトは安全性が高い。財団の初期配属がどういう仕組みなのかなどといったことは当然知る由もないが、最初に安全な場所に送るというのは自然な判断であるし、みさごでもそうするだろう。更に場所が安全なら、任務も安全なもの、オブジェクトと直接関わりすらしないものだった。正直なところ不満はなくもなかったが、置かれた場所で全力を尽くそうと決心した。

もちろん独りでは何もできない。そこで、先輩が付いてその下で諸々の業務に携わることになる。先輩の名は餅月もちづき 桐葉きりは、みさごの4つ歳上の女性である。それで今は、次の業務を行うためにみさごが餅月のオフィスに向かっているところだ。ある程度長く勤めていると個人用オフィスが割り当てられるらしい。なかなか贅沢だと、みさごは感じた。

角を曲がって少し進んだ先、右手に目的のオフィスを見る。扉にはインターホンと、その隣にキーパッドが付いている。インターホンを押し、「入りますよー」と、ひと声かける。予想通り答えはないので、教えられたコードを迷わず入力する。

ガチャリ、と音がして解錠を知らせる。不在時は二重ロックをかけているためにこれだけでは開かないので、やはり中にいるということだ。

「しっつれいしまーす」申し訳程度の挨拶をして、中に足を踏み入れる。そこでみさごが目にした先では、















部屋の中央で餅月桐葉が、ロープで首をくくっていた。














「……勝手に死なないでください。外しますよー」

もはや慣れた手つきで、その首からみさごは縄を取り外す。見れば、ロープの向こう側は結ばれることなくデスクの上に乗っかっているし、餅月の足も思いっきり床についている。財団自体によりも先に、この異常な事態に馴染んでしまった。

それから餅月は3秒ほど硬直していたが、やがてビクンと全身を震わせると、パチリとその目を開いた。

「おはようございます、みさごさん」
「おはようございます。それより仕事ですよ」

無事に蘇生完了した餅月だが、相変わらずその顔は死んだままだった。その顔が無表情、あるいはほんのりとした笑み以上に変化する光景を、みさごは見たことがなかった。人並みの感情はちゃんとあるらしいのだが、どうにも伝わってきにくい。それ以上に何よりも、目が死んでいた。光が一切差しておらず、その瞳には──人体に対して使うのは明らかに間違っているのだが──黒洞々たる闇が広がっていた。

「ヱルテルがもうあと15分くらいで来るらしいですよ。もう確認してると思いますが」
「ありがとうございます。行きましょうか」
「先輩が教えてくれないとまだ何にもできないんですからね。お願いしますよ」

みさごは手に持っていたロープの輪をデスクの上に放り投げると、一足先にオフィスの扉を開く。業務内容自体は理解してきたつもりだが、餅月の内面についてはまだ理解できないし、理解することもないだろう。

彼女の趣味は「自殺」だった。より正確に言えば、理想の自殺方法の模索、であろうか。ある時は玩具のナイフで割腹もどきをしていたし、またある時はどこで買ったのか練炭のフィギュアを使って中毒死ごっこをしていた。いささか──というか相当に──不謹慎な気がしないでもないが、彼女いわく「本気で向き合っている」とのことらしい。何故こんなことをするのかと問えば、「死ぬことは人生でたった一度しかできないからこそ、理想の死に方がしたいのです。特にこのようないつ死ぬかもわからない場所では」とのことだった。気持ちはわからないでもないが、だからといって実際に何か行動に移す気は知れなかった。

この趣味はサイト全体で周知されているらしく、半ば名物と化していた。別の職員に、いつか本当に自殺するかもしれないが大丈夫なのかと訊いた際の答えは、「既に何年もやってるけど一向に死ぬ気配がないから大丈夫」というものだった。まともなのは自分だけかと思いつつも、すぐに自分も受け入れてしまうのだろうという嫌な予感も漂っていた。ちなみに、定期的に行われる精神健康診断では毎回恐ろしく良好な結果を叩きだしているらしい。

まあ、このように自殺に真剣に関わる人物だからこそ、彼女が普段行っている任務にこれ以上なく適任な人材なのだろうとは思う。

逆にみさごはというと、オブジェクトに直接関われないことを抜きにしても、あまり乗り気ではなかった。



車庫に着いて3分ほど待っていると、やがて黒い護送車が入ってきた。規定のスペースにぴったりと停車すると、助手席から男性が一人降りてくる。彼は餅月と軽く事務手続きを行うと、中を確認した後に、慎重に車のドアを開ける。それから彼が促すとともに、順番にずらずらと数名が降りてきた。

降りてきた彼らは一様に、困惑の表情、あるいは「本物の」、死んだ表情をしている。それも当然だ。彼らは本来なら、既に死んでいるはずの人々なのだから。


プロジェクト・ヱルテル。財団が自殺サイトを運営して、自殺志願者の情報を得たり集めたりして、実行前に回収し、Dクラス職員として用いるというプロジェクト。みさごは、その「渉外員」としての立場を与えられた。

渉外員。そういうと聞こえはいいが、要するにDクラス職員の雇用・管理係だ。少し前まではまとめてエージェントという扱いだったのだが、プロジェクトの拡大に伴って、この業務に携わる職員が分割されて渉外員と呼ばれるようになった。そういう経緯なのでエージェントとは近い立場にあり、いつかそちらに移ることがみさごの当面の目標である。

こうして雇用されたDクラス職員は、その多くがDクラスのまま生涯を終えることになるが、一部は正式な「財団職員」として──Dクラスも一応財団職員ではあるのだが──再雇用される機会を与えられることがある。他ならぬ渉外員の先輩、餅月桐葉もその一員だった。つまり、散々自殺を試している彼女だが、一度は実際に実行しかけたことがあるらしい。本人はその話について特に抵抗はないようだが、みさごはあえて詮索を控えている。


「……っす」か細い消え入るような声で、一人がこちらに挨拶してくる。

「は…… じめまして」こちらも戸惑いがちに挨拶を返す。こればっかりは、どうにもぎこちなさがぬぐえない。


彼らは集団自殺に失敗し、ここに連れてこられたばかりだ。財団について、これからの業務について最低限の説明は受けているはずだが、ほぼまだ何もわかっていないも同然だろう。そもそも、受けた説明自体少しでも頭に入っているかどうか。

そんな彼らをそれぞれの宿舎へと案内するのが、今回の業務内容だ。彼らはそこで例のオレンジのつなぎに着替えさせられ、部屋に置かれた端末からオリエンテーションを受けることになる。サイト-81HZは彼らの管理に力を入れており、一人一人に小さいが個室が設けられている。数名が相部屋となるサイトも少なくないらしいが、彼らにとって独りの方がいいのか、複数人いた方がいいのか、それはみさごにはわからない。必要とあらば、他のサイトに送り出すこともある。


護送車から出てきた彼らは、まず順番に整列させられることになる。事前に送られてきた情報と、人数や対象が合致しているかの確認を行うためである。そのため、出てきては並べ、出てきては並べ、を繰り返していたのだが。

最後に出てきた一人が、数秒の沈黙の後、声を上げた。




「あんた…… 冬梅か?」




唐突な言葉に、反応が数秒遅れた。そもそもその言葉が自分に向けられているということ自体、しばらく気付かなかった。「……はい?」

「あんただよあんた、そこの職員の」
「えっと…… なんでそれを……?」

困惑と疑問が頭を埋め尽くす。小太りで肌のブツブツとした男性、年齢は一見30代くらいに見える。このような見た目の人物に、心当たりはなかった。

「お知り合いですか?」餅月が訊ねてくるが、みさごは首を横に振る。

「あー、覚えてないかぁ。俺は覚えてやってたってのに」男性は頭を掻き、ケラケラと笑いながらつぶやく。出てきた瞬間は他と同じように死んだ顔をしていたが、少し生気を取り戻したように、今は頬が赤みがかっている。「俺だよ、俺、三堤。三堤みつつみ 作良つくら

三堤作良。その名前を聞いた瞬間、頭に急速に何かの記憶が降りかかってくる。確かに、自分はこの名前を知っている。一時期、散々意識してきた名前。そうだ、確か。

「中学の頃、一年間一緒だったよなぁ。あんなに"仲良く"してたってのに、忘れるなんてひどいなぁ」


嫌な光景がよみがえる。


三堤の醜い顔、破られた教科書、泥まみれにされた上履き、机に詰められたゴミの塊、カバンに書かれた卑猥な文字。


「みさごさん? 大丈夫ですか?」餅月の言葉で、意識が現実に戻る。そこでようやく、今の間にみさごは汗にまみれ、呼吸にも瀕していたことに気付く。

「あ…… あの……」何かを喋ろうとするが、カヒュウ、コヒュウと音を立てるばかりで、意味のある言葉は出てこない。 どうして、あいつがここにいる。どうして、三堤が。終わっていたはずなのに。忘れられていたはずなのに。

「あの後からさぁ、俺の人生はひどいもんでさぁ。みんな俺があんなことしたってさぁ、馬鹿にしやがって、言い訳も聞いちゃくれなくてよぉ。ずいぶんと顔も老けこんじまった。お前はあの時のまんまだったからすぐ気付けたけど」

そこからも三堤は何かしらを喋っていたはずなのだが、まともに入ってきたのはそこまでだった。

思えば、完全に偶然というわけでもない。サイト-81HZは地元に近かったし、三堤の方もそこに近い場所で自殺を敢行したのだろう。だが、それを差し引いても、悪い奇跡としか思えない確率で。


「みさごさんは先に戻っててください」餅月がみさごの肩に手を当てる。「Dクラス受け入れと案内の練習はまた今度にしましょう」

「すみま…… せん」みさごは慌てて視線を逸らすと、ふらふらと車庫を抜け出す。餅月がすぐに別のDクラス職員たちを整理し始めるのが、横目に見えた。


「俺はこんな自殺しかけたってのによぉ、お前はこんな謎の施設の職員か。実に立派な御身分になったもんだなぁ」

背後から、厭な声が響いた。



幸いにも、しばらくいじめなどとは無縁の学校生活を送っていた。

被害者となりうる因子は既に持っていたのだとは思うが、奇跡的にもそれが発現することは長らくなかった。

中学2年生になるまでは。


きっかけが何だったのかはよくわからない。

恐らくは、些細なことの積み重ねで。明確なこれという出来事があったわけではないのだと思う。

例えば、テストで良い点数が取れたときに過剰に自慢したとか。

例えば、誰かが病気で欠席したときに、悪意なく茶化すような発言をして白けさせたとか。

例えば、日直の仕事を連続で忘れたとか。

例えば、嫌な仕事を頼まれた際に文句を漏らしてしまったとか。


自分に非がなかったわけではないとは思う。

だからといって、

ここまでされる筋合いはなかったはずだ。

幸いにも、しばらくいじめなどとは無縁の学校生活を送っていた。

加害者となりうる因子は既に持っていたのだとは思うが、奇跡的にもそれが発現することは長らくなかった。

中学2年生になるまでは。


きっかけが何だったのかはよくわからない。

恐らくは、相手へのちょっとした違和感が、不快感が累積していった、その結果だと思う。

例えば、テストでが少し良かったからといって威張り散らしたとか。

例えば、誰かが病気だというのに、それを小馬鹿にするような不謹慎なジョークを言ったとか。

例えば、反省せずミスを繰り返すとか。

例えば、みんなやっている仕事なのに露骨に不満を表明するとか。


向こうに最初の原因があったのだとは思う。

だからといって、

ここまでするのはやり過ぎだったと思う。



オフィスには、餅月はいなかった。勤務時間終了後に、彼女が行く場所といえばだいぶ限られてくる。そこで、みさごはオフィスの次に可能性の高い場所へ向かう。


自動ドアが開くと、途端に汗の刺激臭が鼻をつく。サイト併設のジムには、ベンチプレスに、トレッドミルに、サンドバッグに…… その他、見たことはあるが名前はよくわからない機械が並べられている。そこでは5名ほどが、仕事終わりもせっせとトレーニングに勤しんでいる。

その中、トレッドミルの上に、餅月はいた。


「あの、餅月さん」
「あぁ、みさごさんですね」

餅月は走りながらこちらを振り向く。普段は長袖で動いているためにわからないが、こうしてトレーニングウェア姿を見ると、やはり腕や脚に引き締まった筋肉がついているのがわかる。それが死んだような顔と異様に不釣り合いで、ある意味やや不気味ではあるのだが。

「今日は…… ありがとうございました」
「あー。明らかに様子おかしかったので、このままいてもらってもまともに見れないかなと思って。今回やれなかったことはまたどこかで」

まるでその場に静止しているかのように、淡々と餅月は答える。若干息は切らしているのだが、それにしても声と実際の様子の乖離が激しい。

「えっと」みさごはおずおずと口を開く。「彼のことですけど」

「彼…… 三堤作良さん、今でいうD-37284のことですか」
「はい」
「いろいろと調べまして、大体のことはわかりました。過去、あなたと何があったか」

やはり、既に知られていた。しかも、よりによって職場の先輩に。できれば墓まで持っていきたかったのだがと、みさごはため息をつく。

「どう、思いましたか」
「別に、職務に直接は関係しないので。過去のことですから、私がいちいちどうこう言う気はありません」

そう答える餅月の表情は相変わらず読み取れないが、本当にこれについて関心がなく、対応を変えることもないのだろうというある種の信頼感がある。少なくとも、下手に笑顔でごまかされるよりはよっぽどいい。過去を知るのがこの人だったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。

「Dクラス職員が知り合いってのは、財団的にはどうなんですかね」ぽつりと、みさごは問う。

「どうでしょう。実際に見たことはありませんが、家族等であれば一応別のサイトに引き離されることにはなってます。とはいえ今回に関してはたった一年中学時代に同級生だったというだけなので。財団側から特別な対応は取られないでしょう。どうしても精神的に苦痛というのであれば、管理官辺りに相談すれば何か動いてくれるかもしれませんが」

あまり多くの相手に過去を知られたくはない。これ以上誰かに相談するという選択肢は、既にないものとしてみさごの中で扱われていた。

「まあ同じサイトといっても、既にサイトにいるDクラス職員と直接関わるのは研究員や事務員の方々がメインですので、たまたま鉢合わせる程度しか顔を合わせる機会もないでしょう。それに」餅月は言葉を切る。

「それに?」

「大体のDクラスは、」少しためらいがちに口をつぐんでから、また開く。「入ってから3ヶ月以内には、いなくなりますから」

婉曲的な言い方こそしているものの、要するに「Dクラスはしばらくすれば死ぬ」ということであって。職員に採用されることもあるとはいえ、それには相当な運であったり、卓越した成果が必要である。だから、余程のことがない限りはそのまま最期を迎える。

それで、良いのだろうか。

これで三堤が死んだとして、自分に何が残るのだろうか。


一通り走り終えたのか、餅月はトレッドミルを止める。それから、「とうっ」とつぶやいて跳び上がり、やはり「シュタッ」と口にしながら着地した。

給水所に水を補給しに向かう彼女の背中に、みさごは漠然と気になっていた問いを投げかける。「餅月さんはなんで…… こんな、身体鍛えてるんですか?」

もちろん、日常的に筋トレに励んでいる財団職員は珍しくない。直接オブジェクトと対峙したり、要注意団体と交戦したりするエージェント、機動部隊員はもちろん、研究員でも健康維持のためにとここを活用している者は多い。だが、餅月は直接探査や交戦を行うでもないのに、運動量は明らかに健康維持というレベルを超えている。今後エージェントに移りたがっているという予兆も皆無であった。

「渉外員の割には、ということですか」
「はい」実のところ、筋トレをしている者は自然と朗らかになるものだという偏見があったから、それとは対極に位置する餅月の事情が気になるというのもあったが。もちろん、あえてそれを口に出すことはしないが。

「そうですね」餅月は水をゴキュゴキュと飲むと、一息ついてからまた口を開く。「実際ここまでは求められていないでしょうし、みさごさんが無理に真似する必要はありませんが」
「はい」
「集団自殺に向かっている最中の人って、どのような人だと思います? "自殺する人"や"集団という方法を選んだ人"ではありません」

質問の意味がよく分からず、みさごは目を白黒させる。「えっと、どのような、と言われましても。さっきみたいな、絶望してたり、生きる意味を失ってる人とか」

「確かにそれはそうです」餅月はもう一度水を飲む。「質問がわかりにくかったですね。彼らは自殺に向かっています。つまり、もうすぐ死ぬことが、彼らの中では確定しているわけです。ですから」言葉を切る。

「ですから?」

「言葉を選ばずに言えば、彼らは"無敵の人"です。法の裁きも名誉が損なわれることも、死ぬことすら恐れない、なんでもできる人」ほんの少し、見えるか見えないかくらいに眉にしわを寄せて、餅月は言う。

「無敵の人」
「はい。といってもほとんどの方は大人しくついて行って、その時を待ちますが。何かする気力が残っている人も、ほぼいないでしょうし。しかしごくまれに、何と言うか…… "暴れて"しまう、人がいます」
「なるほど。その制圧のため」
「とはいっても、こちらには十分な装備が与えられているので、無理に鍛える必要もないのですが。しかし」

何かを想起するかのように、餅月は黙り込む。

「何ですか?」みさごは訊ねる。

「私が集団自殺に参加したとき。一度、襲われたことがあるんです」

「えっ」初めて聞く、餅月の当時の話にみさごはたじろぐ。

「その時は財団職員の方に強制的に助けてもらいましたが。襲ってきた人は、とっくに死んでしまったようです。ただ、あれからずっと引っかかっていて」
「何がです?」
「あの人も、本当なら人を襲うような性分の人ではなかったはずなんです。あの時私がもっと強ければ、なすすべにならないだけの力があれば、もっと別の形が…… 無理やりにでも、ちゃんと話し合える状況を作れたのかもしれないって、そう思ってるんです。そうであれば、また何か変わっていたかも」


みさごは黙り込む。やはり、この人は思っていた以上に強い。

過去に向き合い、今でもそれを反省し、努力し続けている。無表情の裏には、相当に濃い思いが隠れている。

それに比べて、私は何なのだろう。過去をごまかして、逃げて、忘れようとしている。

過去がもうどうにもならない餅月と違い、向き合うチャンスがすぐ近くにあるのに。

話を聞いた今でもなお、「三堤はもうすぐ死ぬ」という事実に安住してしまいたがっている、自分がいる。



餅月渉外員: さて、冬梅みさごさんのことですが。

D-37284: あぁ、はい。

餅月渉外員: あなたについては多少調べましたが、中学2年生のとき、同級生だったんですね。

D-37284: そうですね。まあ、仲良くやってましたよ。

餅月渉外員: 仲良く、ですか。しかしこれは。

D-37284: まあちょっとした事件はありましたよ。でもあれも、全部ただの事故みたいなもんです。

餅月渉外員: しかし事故というには、あまりにも。

D-37284: えぇ。ネットに晒されてるでしょ? でもそいつらめっちゃ憶測で適当ほざいてやがって。ホント腹立ちますよね。

餅月渉外員: ……しかしここの、あなたが蹴り飛ばしている映像は、本物ですよね。どういう状況で?

D-37284: 別にやりたくてやった訳じゃないんですよ。あいつらがみんなやれって言ってくるから、しゃあなしやっただけで。最悪ですよ。まさかそれを撮られててネットに上げられるなんて。

餅月渉外員: なるほど。

D-37284: おかげで、「このクラスにいじめがある」って事実は世間に広まった訳ですけど。実態とかけ離れてんですよね。全部俺がやったって、俺のせいだって、リアルでもネットでも。それで? あいつらはのうのうと、関係ない顔して逃げ切った訳ですよ。酷いと思いません?

餅月渉外員: そう…… ですね。酷い話です。

D-37284: でしょ? 話わかる人で良かった。ネットのやつらはほら、叩ける相手を見つけたらとことん徹底的に叩いてくるんで。こっちの話なんか聞いちゃくれませんよね。

餅月渉外員: 先ほど、みさごさんに話しかけたのは。

D-37284: まあ、中学ぶりの再会ですからね。忘れもしませんよ、あの顔は。まあ懐かしいから話しかけたってだけで、あいつには今更恨みなんかありゃしませんよ。

餅月渉外員: なるほど?

D-37284: だから、別に何かする気は全くないです。引っかかるところはないでもないけど、大人しくここの仕事しますよ。

餅月渉外員: そうですか。でしたら…… 安心です。

D-37284: どうも。



今思えば、最初の時点ではいじめの範疇にはなかったのだろう。

単なる「イジリ」だと思われていたのだろうし、客観的に言えばそうだ。

集団移動中にペンで背中を小突いたり、意味もなく荷物をひっくり返して来たり。

ほんの、些細なことだったはずだ。

でも、その視線が。クラス全体でこちらを嘲笑っているような視線が。

その程度でも、とても辛く感じてしまった。

ただ、そこで過剰に反応してしまったのが、間違いだった。


気が付けば、段々とエスカレートしていった。

ペンは、背中を小突いてくるものから、手足に書き込んでくるものになった。

荷物は、ひっくり返されるものから、どこかに隠されるものになった。

いつの間にか、自分は「何をしてもいいもの」に、クラスのサンドバッグになっていた。

理屈ではなく、「そういうもの」という暗黙の了解があった。

サンドバッグといっても、暴力を振るわれたことはない。

恐らく暴力が、奴らにとっての「イジリ」と「いじめ」の境界線だったのだろう。

あるいは、どこまで行けるか、どこまでが「イジリ」で通せるかのチキンレースをしていたのかもしれない。

受ける側からすれば、そもそも「境界線」などを考えている時点で論外なのだが。

とはいっても、最初からいじめが起きたわけではない。

少なくとも、せいぜい「イジリ」の範疇には収まっていたはずだ。

そもそも、最初は様子を遠巻きに見ているだけで、直接何かしたことはなかった。

その様子も、年相応の可愛いものだった。

正直それほど面白いものでもなかったが、みんなが笑っているから。

それに合わせて笑うことは、自然な流れだった。

異常に嫌がるその様子を、皆で笑うことは普通だから。


気付かないうちに、イジリの苛烈さは増していったと思う。

痕の残るようなものはやめておいた方がいいかもとは思ったが、何も言わなかった。

この頃から、内心本当にこれが面白いものだと思い込むようになってきた。

それが悪い行為だという自覚が、罪悪感そのものが、クラス全体で根本的に欠落していた。

傍目には異常だっただろうが、少なくともクラス内では、それが正常だった。

暴力はさすがに駄目だという最低限の良心はあった。

逆に言えば、暴力さえ振るわなければどこまでも許されるという免罪符でもあった。

みんながそう言っているから。みんながやっているから。みんながその行為をもてはやすから。

自分が直接に「やる」側に回るようになるまで、そう時間はかからなかった。



今日はオフィスにもジムにも餅月はいなかった。ということで、3番目にいる可能性の高い場所へみさごは向かう。


自動ドアが開くと、途端にパァン、パァンという鋭い轟音が鼓膜に突き刺さる。サイト併設の射撃訓練場には、各レーンに立つ用の位置表示と拳銃、しばらく先に的、上方にスコア表示用のパネルが用意されていた。どことなく、ボウリング場、あるいはバッティングセンターを思い出す。

拳銃といっても本物ではない。撃っても空気が軽く飛び出るのみで、的の方向に当てると自動で「ヒットした」位置を認識、結果を表示してくれる仕組みだ。だから音は本物より多少抑えてあるのだが、これでもみさごの耳にはキンキンと響いた。また、銃は本物ではないとはいえ、重量と反動は本物と変わらない。

そんな訓練場の、奥から3番目のレーンに、餅月はいた。


「こんにちは」

「あぁ、こんにちは」こちらに気付くと、構えていた拳銃を下ろしつつ、みさごは応える。

「今日も頑張ってますね」
「はい、頑張ってます」
「勤務終わりまで何かしらトレーニングしてて。大変じゃないですか」
「そうですね。大変です」

英語の授業のような会話だと、内心苦笑する。これでも一応は、ぎこちなさなどなく普通に会話できているのだが。

「そんなに射撃頑張ってるのも、やっぱり、筋トレと同じ理由ですか」みさごは訊ねる。

「まあそうっちゃそうなんですけど」そう言いつつ、餅月は手元のパネルを操作する。白と黒の同心円の的が、少し奥に下がる。

財団では、エージェントや警備員などにとって、射撃は程度の差こそあれ必須スキルである。入って2年以内にはある程度実用的に扱えるようになることが求められる。とはいっても、みさごはまだここでの試し撃ちを1回しただけで、実銃に関しては触れたこともない。

更に、アノマリーや要注意団体と直接関わらない渉外員がこのようなものを使う機会は滅多にない。だからそれほど高い練度は求められていないのだが、やはり餅月はここにも入り浸っていた。

「遠くの出来事に干渉するには、遠距離武器を使わざるを得ませんし」カチャリという音と共に、餅月は銃を構える。

3秒の沈黙。

パァンパァンパァンと、3発立て続けに発砲する。発砲のたびに、餅月の両腕がかすかに跳ね上がる。

餅月はわざとらしく銃口に軽く息を吹きかけると、これまたわざとらしくクルクルと銃を回し、ホルスターにはめる振りをする。パチパチと、みさごは胸の前で小さく拍手する。まんざらでもないのか、「ふふん」と鼻息交じりに小さく漏らすのが聞こえる。顔は相変わらずだが。

上部のスコアボードが表示される。2人が見上げると、画面にはスコアと、「ヒット」した位置の図が表示される。図を見ると、3発全てが的の真ん中の白い円に命中していた。

「おおっ」みさごは素直に感嘆の声を漏らす。「全部真ん中ですよ」

「んー」餅月は心なしか不満げに──声の調子は普段と一緒なのだが──つぶやく。「結構ぎりぎりですね。2センチ近くずれてます」

「充分じゃないですか」
「駄目です。実際には相手は動いていますし、集団自殺を行うのなんて大抵夜中です。寒暖だってどうかわかりません。こんな条件の整ってる状態で2センチもずれてるようじゃ致命的ですよ」
「そういうもんですかね」
「そういうもんです。『腕狙ったつもりがうっかり心臓当たっちまったぜてへへ』じゃ済みません」
「『てへへ』とは思ってないですが」

「ホルスター」にしまった拳銃を所定の位置に戻しつつ、餅月は口を開く。「私は、最初から決めていることがあります。これだけは絶対として」

「何でしょうか」
「絶対に、人を殺さないこと。たとえどんな緊急の状況であれ、上から何を言われようと、相手がどんな悪人であろうと。故意であれ事故であれ、絶対に人は殺しません」

不殺主義。それ自体はさほど珍しいものではないが、財団との相性は悪い気がする。「どうしてですか」みさごは問う。どうしてもこうしてもない、といった返答を予想していたが、それは外れていた。

「私に…… 人を殺せるような価値はありませんから」

自分を卑下しているような発言。だが、そんな単純な話ではないのだろうと、これまでの彼女との経験からみさごは自然と察する。「餅月さんが、過去に自殺しかけたことと…… 今も自殺したがっていることと、関係ありますか」

「はい」餅月は平然と返す。「私は本来とっくに死んでいたはずの人間ですから──それに、こうして義務を与えられていなければいつ本当に死んでもおかしくない人間ですから──他人を殺すという行為をするには、到底値しない人間です。将来的に殺すとしたら、それは自分自身だけです」

ここまで聞けば、本人に言われずとも射撃を訓練している理由はわかる。餅月は、人を殺さなくてもいいようにトレーニングしているのだろう。致命的な部位に万が一にも当ててしまわないように。人を、一人でも多く守るために。

「前線で戦ってらっしゃる方々は、大変立派です。誰かを傷つけるには、殺すには、強くなければなりません」そう言いながら、餅月は再びタッチパネルを操作する。「しかし、人を守るには、もっと強くなければならないのだと、私は思います。彼らのほとんどはDクラスになって死ぬ運命ですが、せめて、自分にできる少しでも良い形で」

受け取った言葉とは裏腹に、みさごは気分を暗くする。自分なんかに、人を守れるのだろうか。

「まあ、じゃあ誰なら人を殺すに値するのかって話になるわけですが。財団の職務でやむを得ずそうせざるを得なくなっている方のことを否定するつもりもありません」餅月は付け加える。「人の生き方を他者が勝手に規定するなんてことは、あってはならないんです」吐き捨てるように、そうつぶやいた。

「……もし、万が一、人を殺してしまったときは」みさごは口を開く。「どうするんですか」

「その時は、迷わず銃で自殺します。これまでいろいろな方法を模索していましたが、理想の形とか全てを無視して、即座に」餅月は右手で銃を拾いつつ、左手を銃の形にして、こめかみに当てる。

5秒、沈黙。

「そう言えば拳銃自殺というとこうやってこめかみをぶち抜くのと、」餅月は左手を口の前に突き出す。「口の中に突っ込んでそのまま撃つのがありますけど、どっちがいいんでしょう。正直こめかみの方が即死できそうだしパッとやりやすそうではありますが。なかなか口にいれようとはなりませんよねぇ。ハハハ」

正直何も笑い事ではないが、みさごも一応、乾いた笑いを漏らしておく。


「そう言えば、そもそも何しに私のもとに来たんですか?」餅月は両腕を突き出して銃を構える。

「あっ、そうでした。このサイト…… そんなに規模は大きくないので、いろんな人と何度かすれ違うんですけど。それでみつ…… D-37284とも偶然遭遇することが稀にあるんですが。そのたびに、何と言うか、こっちを見てにやりと笑ってくるんですよね」ため息交じりに声を漏らす。

「はあ」
「それで…… 私はあんまり関わりたくないんですけど。餅月さんは彼の様子について、何か知ってないかなと。怪しい動きとかそういうのはないかって、一応確認しておきたくて」

「なるほど」餅月は片目を閉じて照準を合わせる。「今のところは、特に何もないですね。財団の指示にはしっかり従いますし、むしろ模範的なくらいです」

「それなら、いいんですが」
「とはいっても、なんとなくの勘ですが。彼、恐らくみさごさんに穏当ならぬ感情を持っていそうです。過去のことを考えれば当然かもしれませんが」

「そう…… ですか」みさごはたじろぐ。

「ちょっと失礼」そう言うと、餅月は1発、パァンと発砲した。今度は特に格好つけることもなく、銃を所定の位置に戻す。それからみさごの方に向き直り、訊ねる。

「それでも…… やっぱり、他の人に話してほしくはないんですよね?」

「はい。でも、不安材料は伝えておいた方がいいんでしょうか」手を揉みながら、みさごは問う。

「わかりません。このまま何も起きなければそれでいいと思いますが、もし仮に」
「あぁいえ、大丈夫です。はい。ありがとうございました」

それ以上先を聞きたくなく、考えたくなく、思わず拒絶してしまう。やはり自分は、あの時から変われていない。8年も経っても。子供の頃なりたがった姿は、こんなものだったのだろうか。

「お邪魔しました」逃げるように言い残すと、みさごは振り向いて、足早に自動ドアへと向かう。今の状態が間違っているかはともかく、少なくとも正しくないことはわかっているのに、それでも脚は止まらない。

「それでしたら、いいんですけど」その背を見送りつつ、餅月はつぶやいてくる。

みさごがふと振り向くと、スコアボードに結果が表示されていた。「弾」は、的のほぼ完全な中心に命中していた。



【速報】中学校のいじめ現場映像と加害者の顔&氏名公開

3: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


はえーブッサ
こりゃいじめしそうな顔してるわ

10: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


まーたネットのおもちゃが増えるのか

28: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


てかこの動画誰が撮影したん?

35: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


»28
そりゃいじめられてるこの子やろ
モザイクかけられてるけど女の子か?可哀想に
隠しカメラ設置して全世界に曝露する形で復讐か
やるなぁ

41: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


俺の時代にネットが発達してればなあ
同じやり方で復讐してやったのになあ

43: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


» 41
お前にそんな行動力があったとは思えんが

44: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


» 43
お前が俺の何を知ってんだカス

105: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


早速おもちゃになってて草
踊る██中学校2年█組三堤作良BB

108: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


» 105

109: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


» 105

133: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


こういうのは全力で叩いておくのが将来いじめを生まないためになるんだなぁ

183: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


なんか三堤の動きぎこちなくない?慣れてなさそうっていうか

188: 名無しさん ████/██/██(█) ██:██:██:██ ID:???


» 183
シンプルに運動神経がないだけやろ



直接何かをしてきたのはうち8人ほどだった。

その他大勢は、ただ傍観するだけの「無辜なる一般人」の顔をしていた。

無論、助け舟など出してくれることはなかったが。

いじめる側が笑えば、彼らも笑った。

グループを作る機会があれば、何かと仲間はずれにした。

こちらが近付けば、関わりたくないと露骨に忌避した。

正直、自分がその立場だったら同じことをしていたと思う。

だから彼らは悪意があるというより、嫌な目に遭いたくないだけなのだ。

良くはないが、ある意味真っ当な感性を持っているが故なのだ。

それをわかってしまったが故に、余計にそれが苦しかった。

直接する側は、明確に悪だとして自分の中で完結させられる。

しかし、それを見ている側のことは、恨みこそすれ、悪と断ぜられなかった。

どこにも、味方がいないと思えた。

今思えば、クラス全員が乗り気だったわけではない。

こちらをあまり良く思っていないであろう者たちが、少なからずいた。

しかし、その事実に気付くことはなかった。

彼らも、こちらに合わせているから。

彼らも、文句を言ってくることはなかったから。

彼らも、ただひたすらに、見ているだけだったから。

むしろ、こちらとしては彼らのことを不快に思っていた節がある。

所詮は同じ穴の狢のくせに、直接何かする勇気もない卑怯者だと。

それに比べ、率先してクラス全体を動かしている自分はなんて立派だと。

そういった優越感すら、持ち合わせていてしまった。

既に、自分のしていることが悪だとは気付いていたと思う。

だが、自分が悪だとして。ヒーローという昔の夢の正反対に位置するとして。

今更、止まることはできなかった。

親には心配をかけたくなかった。

だから、何もないと、元気でやっていると、気丈に振る舞った。

しかし、親というのは思った以上にすごいもので。

身体の傷はなくとも、心の傷には気付いていた。

学校に問いただしに、抗議に行っていたことは後で知った。

それでも、学校は知らぬ存ぜぬを貫き続けた。

所詮、子供の他愛無い遊びだと。

親は、無理に学校に行かなくていいとも言ってくれた。

それでも、親を安心させたかったから。

半ばやけになって、学校に行った。


たまに、いじめの事案がニュースになり、話題になる。

しかし大部分は、誰にも知られることなく闇に葬られる。

どうしたら、いいのか。

根本的なところが頭から抜けていた。

相手も人間だという、相手にも家族がいるという簡単な事実。

しっぺ返しの可能性など、考えてもいなかった。

何より、暴力だけは控えるようにしていたし。

先生が何か「注意」をすると言ったときは焦ったが。

はしゃぎすぎるなという漠然とした言葉しか言われなかった。

だから、学校も黙認しているのだと。

大義名分を得て、行為はますます加速していった。

相手の人生を壊してしまう可能性など。

頭からすっぽりと、抜け落ちていた。


たまに、いじめの事案がニュースになり、話題になる。

ずっとどこか、他人事の、別世界のように感じていた。

あの日、あの時までは。



三堤がこのサイトに来た日から、1ヶ月以上が過ぎた。

結局あれ以降何も起きていないし、みさごの方も、何もしていない。

やってきたDクラスの受け入れ方法は別の機会に学んだし、その他、いろいろなことを餅月から教わった。

最初は遭遇したくないとサイト内でいちいち怯えていたものだが、1ヶ月もすれば特に気にしなくなっていた。

これでいい。これで何の問題もない。そう、必死で自分を納得させる。財団の職務に直接関係することではない、自分はただ、私情を挟まないようにしているだけだと、とても立派に取り繕う。

無機質な壁、無機質な床、無機質な天井。そのグレースケールが、脳を冷静へと、理性へと引き戻す。

両手で頬を叩き、「よしっ」とつぶやいて歩きだした、その瞬間。


「……っ」

曲がり角から、オレンジのつなぎに身を包んだ三堤が、一人の警備員と共に顔を出した。

いくら気にしなくなったといっても、この偶然の遭遇に慣れることはない。心臓が半分ほどの大きさに収縮するように感じる。無意識のうちに数歩下がり、壁に背を押し付ける。呼吸が早くなる。これはもはや生理現象の類だ。

来てから1ヶ月も経てばDクラス職員の5分の1はいなくなるのだが、三堤は5分の4の側だった。そちらの方が言うまでもなく確率は高いので、三堤がまだここにいることは何一つおかしくはないのだが。それでもみさごには、何故まだここにいるんだ、何故まだいなくならないんだという感情が付いて回る。

何故いなくならないんだということは、言い換えれば何故死なないんだということであり、つまりそれは、さっさと死んでくれと願っているのと同義だ。22にもなってそのようなことを考えている自分のおぞましさにも、吐き気がする。

きっとそんなこちらの苦悩を見透かしたように、いつものようなニヤニヤと歪んだ笑みを見せてくるのだろうと思いながら、恐る恐る目を開く。








見ていた。




餅月のものとも違う、濁ったどす黒い眼で、こちらをじっと見ていた。




「ひっ」思わず、小さな悲鳴を漏らす。警備員は怪訝そうに二人を交互に見る。

「行きますよ」警備員が三堤に声をかけると、彼は更に3秒ほどこちらを見つめてから、向きを変えて警備員について行く。

何だったんだろう。あれは、何だったんだろうか。中学の1年間、彼が一度だってあんな目を見せたことがあっただろうか。8年分の感情が蓄積したが故の、あの目だったのだろうか。

いずれにせよ、それがとても恐ろしくて、おぞましくて。倒れそうになる身体を、辛うじて壁に支えてもらう。やがて三堤と警備員は、曲がり角の向こうに消えていった。まだ、呼吸が戻らない。

それでも、とりあえず離れようとして。仕事に戻って気を紛らわせようとして。








「おいお前何──」

怒号が響き、一瞬で消える。それから、小さく、低く、鈍い音。ガス、ガス。その後は、ドサンと何かの落ちる、あるいは倒れる音。二人の向かった曲がり角の向こうから。

みさごが何かを理解する間もなく、その角から、それは現れた。




「隣の部屋いたやつが、死んだってさ」

三堤作良が、拳銃を持って立っていた。

「どうせここで真面目に指示に従ってても、死ぬんだよなぁ」拳銃をこちらに向けながら、ドカドカと音を立てて、早足にこちらに歩いてくる。よく見ると、その銃床からは赤い液体がぽたぽたと垂れている。

「だったら、だったらせめ」途中で言葉を詰まらせつつ、三堤は叫ぶ。「だったらせめて、お前だけでも道連れにして死んでやるよ!!!」

頭がまともに回らない。人生最大のピンチだというのに、どこか危機感がない。緊急事態にどうすべきかということは研修で散々学んだはずだが、頭に浮かぶのはその事実だけで、具体的なところが頭からすっぽ抜けている。そしてその思考は、まごまごと視線を左右に振るという形で出力されていた。

『言葉を選ばずに言えば、彼らは"無敵の人"です。法の裁きも名誉が損なわれることも、死ぬことすら恐れない、なんでもできる人』

そういえば、餅月はそんなことを言っていた。集団自殺に向かう過程でそうなら、当然、いつ死ぬかもわからないDクラスとなった今は、それ以上に"無敵の人"なのだ。そんな至極単純な事実に、可能性に、気付いていなかった。自分の無能ぶりに辟易する。今は、そんなことを悔いている場合ではないのに。

そうこうしている間に、三堤は目の前に迫っていた。みさごはといえば、身体中の筋肉が弛緩し、地面にへたり込む。

「本当に無様だな」三堤はにやにやと笑う。「死ね、糞野郎」

引き金が引かれた。

頼みがあると言われた。

ろくなものでないことはわかっていたが、自分に断るという選択肢はなかった。

頼みの内容を聞いたとき、耳を疑った。

意味が、わからなかった。

頼みがあると言われた。

頼みの内容は、あまり自分にとって愉快なものではなかった。

それでも、皆が喜んでくれるのならと。

二つ返事に了承した。

カチッ、カチッ。

予想していたものとは違う、小さなクリック音のみが、拳銃から鳴っていた。

「あ? どうなってんだこれ」三堤は銃を顔の近くに引き寄せる。「あぁクソ、安全装置ついてんのか」

今だ。逃げろ。心がそう叫んでいるのに、やはり身体は言うことを聞かない。まだ銃の携帯を許されていないみさごに対抗手段はない。だから、今のうちに逃げて、応援を呼ぶべきなのに。

「どうやって外すんだクソ、時間ないのに」そうつぶやきながら、三堤は焦った様子で拳銃をいじくっている。銃床の血で、その両手が少しずつ赤く染まっていく。途中でその銃床が外れかけて、慌てて押し戻す。

どうしたらいい。どうしたら。どうしたら。

ただでさえ人生初の緊急事態だというのに、目の前の相手が彼であるがゆえに、余計に思考が、運動神経が、働かない。

やがて、ガチャリと音が鳴る。「いけたか?」三堤がつぶやく。そういえば、実弾の射撃を見せてもらったときも、こんな音がした気がする。

「この8年間、どれだけお前らのことを恨んでたかわかるかよ」勝利を確信した顔で、みさごに銃を向ける。「ほんとはもっと苦しめてやりたかったけど、時間がないから」銃口の先は、みさごの顔。あと数秒で、間違いなく、死ぬ。

「地獄に落ちろ。そして二度と生まれ変わってくるな」

引き金に指をかけた。


銃声。

頼みの内容は、いじめる側の一人に暴言を吐きながら蹴れというものだった。

もちろん本気ではなく、"振りをしろ"という条件ではあったが。

今考えれば、この裏にどういう意図があったのか容易に察せたはずだ。

だが、自分にそんなことを考える思考力はなかった。

悪夢の本番は、ここからだった。

頼みの内容は、蹴られた振りをしてくれ、というものだった。

その上で、大袈裟に嫌がる演技をしてくれとの条件付きで。

どういう意図かはなんとなく察したが、たいして大事には感じていなかった。

所詮、いつもやっていることと同じようなものだと。

何も、考えていなかった。

目を開く。

みさごは、自分は、まだ生きている。本能的に顔を触るが、どこにも穴が増えたりはしていない。しかし、間違いなく今も鼓膜には銃声が尾を引いている。

「う」一瞬、声が聞こえる。声の主──三堤に目を向けると、その口角は少しずつ下がり、目元も先ほどとは別の歪み方をしていくのがわかる。

そしてその1秒後、三堤の身体が前に倒れてくる。そこでようやくみさごは身体が動くようになり、倒れる身体をすんでのところで躱す。三堤の顔面が地面に衝突すると同時に、持っていた銃が手から離れ、彼から届かない位置に転がる。

みさごはふらつきながら立ち上がり、数歩下がる。そして眼前に倒れたものの背中を見ると、小さな穴が開いていた。その穴から少し遅れて、赤黒い血がドクドクと流れ出す。それと同時に、トタタタと駆ける音が、奥から聞こえる。

目を向けると、先ほどとは別の警備員が、銃をホルスターにしまいながらこちらに疾走していた。その警備員は勢いそのままに三堤へと飛びかかり、全身で彼を押さえつける。衝撃と共に、三堤は「ゲグ」と言葉にならないうめき声を漏らす。

どうやら、みさごはこの警備員に直前で命を救われたらしい。それを理解すると同時に、ようやく自分がどれだけ危険な状況にあったか、生命の危機に瀕していたかを飲み込む。それと同時に、堰を切ったように汗が噴き出す。

警備員は下に回した右腕で三堤の首を絞め上げつつ、左手でトランシーバーを取り出す。

「こちら檜村ひむら、現在西棟2階廊下、第8会議室前にて、警備員の銃を奪い職員を襲撃したDクラス職員を拘束中。職員保護のためやむを得ずDクラスに発砲しました。襲撃された職員は無事、しかし銃を奪われた警備員が頭から血を流して倒れているのを発見、直ちに応援及び救護班求めます」

すらすらと必要事項を述べていく。過呼吸になっている様子を見るに、彼も突然の状況をそして人に発砲したことを整理しきれてはいないのだと思う。それでも彼は、自分の使命を果たしている。それはどれだけ立派なことだろうか。それはどれだけ、人には真似できないことだろうか。

「何でだよ……」絞められた喉から、三堤は文字通り言葉を絞り出す。「笑えよ、クズ野郎」

そう言って、押さえつけながらも無理やり顔を上げた。その頬には、べたついた涙が伝っていた。








「笑えよ! 散々テメェらにいじめられた挙句復讐すら失敗した俺をよぉ!!!」

それからだった。我が家に数えきれないほどの嫌がらせが始まったのは。

学校でのいじめの話ではない。

嫌がらせをしてくるのは、顔も名前も知らない大勢の大衆。

しかし、こちらの顔と名前を、向こうは知っていた。

その事実に気付くのは、少し後になってからだった。


こちらの言葉を、両親はすぐに信じてくれた。

実際にいじめられているのは自分なのに、逆にこちらがいじめたことになっていると。

そんな理不尽な理由で、誹謗中傷を、嫌がらせを受けていると。

住所もすぐに特定された。色々な嫌がらせが、直接家に届いた。

家から出ることができなくなり、事実上の軟禁状態になった。

両親は学校に向かった。せめて学校に直接事情を説明してもらい、世間の誤解を解こうと。

だが、のらりくらりと話題を逸らされ、結論を引き延ばされ。

恐らく学校は、これ以上大事にしたくなかったのだろう。

大勢が一人をいじめていたよりは、一人が一人をいじめていた方が、気付かなかった理由付けとして正当性がある。

恐らく、そんなところだろう。

翌日、例の様子を撮った映像をネットにあげたと、頼んできた彼が言った。

三堤の顔と名前つきで。

せいぜい教師に見せてネタとして使うだけだろうと思っていたのだが。

私の顔はしっかりと編集で隠されていたが、それでも。

流石に不味いのではないかと、そこで初めて思った。


それから、学校は随分と慌ただしくなっていた。

生徒の身からしても、教師が絶え間ない抗議の電話に疲弊しきっているのがわかった。

面倒なことにしやがってという、教師の恨めしそうな目が記憶に残っている。

ネットで軽く調べれば、すぐに三堤の住所やら個人情報やらがヒットした。

当然ながら、彼が学校に来ることはなくなった。

クラス全体に、ヤバいという空気が広まっていた。真実が知れれば、矛先が向くのは自分たちだと。

特に直接映像に映っていた私は、どんなことをされるだろうかと。

しかし、しばらく経っても何も起こらなかった。

恐らく学校が、何かしら隠蔽に動いていたのだろう。最低ではあるが、当人の自分たちにとっては、安心だった。

最悪の、成功体験だった。

三堤の叫び声は、廊下全体に響いた。

警備員は彼を押さえながらも、戸惑った様子でみさごを見上げる。まだ、その意味をよく理解できていないようだ。

「クソ痛ぇ……」三堤は顔を歪ませてつぶやくと、その直後、何かを思いついたかのように、こちらを見てにやりと、笑った。

「どうせこのまま死ぬならよぉ、せめて、お前らの悪行全部発表してやるよ」

全身が急速に冷えていくのを感じる。一旦落ち着いた思考が、再び、急速にまとまりを失う。全部バラされる? ということは? つまり?

三堤の顔が小さくなっていくのを見て、ようやく自分が後ずさっていることを理解する。嫌だ。止めて。言わないで。ただ頭でそう思っているのか、口に出しているのかもわからない。

きっと大丈夫だ。所詮8年前、まだ育ちきっていない中学生の頃だから、きっとみんなもわかってくれる。仕方ないものと、受け入れてくれる。過去と今の仕事は何も関係ないから、きっと変わらずに接してくれる。そんな言い訳が、頭のどこかから喋りかけてくる。大丈夫、大丈夫。そして落ち着いて、目を開くと。

三堤が苦しそうにしながらも、大きく口を開けていた。








冬梅みさごはぁ!!! 中学2年のときに一人をクラスで寄ってたかっていじめたぁ!!! 主犯格だああぁぁっ!!!








とても、大きな声だった。同じ階どころか上下階にまで届きそうな、そんな魂の叫びだった。

深いことは、細かいことは考えられなかった。ただ一つ、口を突いて出たのを自覚した。

「あ、終わった」




みさごが次の思考に至る間もなく、三堤は大きく息を吸い、まくしたてる。

「キモイって言われた回数36回!うざいって言われたの27回!邪魔って言われたの24回!臭いって言われたの14回!教科書破られたり落書きされたり18回!文房具捨てられたり壊されたの22回!カバン傷つけられたの3回!持ち物隠されたこと26回!持ってきた宿題捨てられたの14回!上履きにゴミ詰められたの4回!机には10回!身体に落書きされたこと11回!"うっかり"で水かけられたこと15回!泥水の中に転ばされたの3回!虫食わせられたこと5回!体育でめちゃくちゃな場面でパス出されて恥かかされたの18回!女子トイレの中に押されて変態扱いされたこと2回!授業中に下ネタ言わされたの4回!それ録音されて全員の前で再生されたこと24回!」

途中で詰まったり、呼吸し直したりしつつも、その口は止まらない。何度も言いなれたことのように。三堤は、ずっと数えていた。そしてそれを、ずっと覚え続けていた。みさごは少し前まで、いじめがあったことすら忘れかけていたのに。

違う。私はそんなことはしていない。必死で自分にそう呼びかける。それでも、その一言一言で確かにせりあがってくる記憶が。在りし日の生々しい情景が。それを事実だと執拗に肯定してくる。

もちろんみさごが直接やったのはそのごく一部だ。それでも、確かにその一部は自分がやった、他も自分は見て、笑っていたことは、何よりも疑いの余地がなくて。私は、何を考えていたのだろうか。何がしたかったのだろうか。




警備員は、三堤を黙らせようと呼びかけていた。それでも、明らかに動揺し、迷いを見せているのが容易に見て取れる。当然だ。だって、それが事実ならば。悪いのは、どう考えても。

職務としては、今の行為は間違っていない。職員を守るためにDクラスを撃ち、押さえつける。それで何の問題もない、理想的な行動だ。それでも、彼の中の道徳が、倫理が、揺れているのだろう。


三堤の言葉は、まだ止まらない。

「テストで嘘のカンニング疑惑かけられたことも!美術で作った作品を完成直前で台無しにされたことも!ネットで拾った全裸の画像に俺の顔コラされて遊ばれたことも!飯に下剤混ぜられて教室でウンコさせられたこともぉ!全部!全部覚えてるぞ、冬梅みさごぉ!!!」

あぁ、駄目だ。もうどうしようもない。

「ご…… ごめん…… なさい……」

みさごは気付いていないが、三堤へ向けた謝罪の言葉を口にできたのは、生まれて初めてのことだった。しかしその声も、あまりにもか細くて。その耳に届くわけもないほどに小さくて。仮に届いていたとしても、その謝罪は、8年遅かったのだが。

「それから、それからぁ!!!」三堤の叫びが、みさごの声を無に帰す。既にすっかりかすれ、絞り出すような、石と石をこすり合わせたような音をしていたが、みさごの耳にはそれが何よりもはっきりと、聞こえた。


「いじめてた犯人を俺にして、ネットに顔と名前晒したよなぁ!!!何回殺害予告が来たと思ってる!何回変なものが届いたと思ってる!何回ここがあいつの家だって、外から指さされたと思ってる!何回、何回ィ!」

もはや悲鳴だった。

「ネットの奴は書いてた!いじめるような奴は死刑でいいってなぁ!俺も同意見だよなぁ!でもお前も、勝手に思い込みでいじめてんじゃねぇかだったらテメェが死ねやあああぁぁぁっ!!!」

その顔は、涙と鼻水と唾液でベチャベチャに汚れていた。その下では、血が少しずつ広がっている。興奮で傷が広がることなど、全く考えていない。考える暇もない。

「あ、あの、あれは」みさごは何か言おうとする。しかし、思考のフィルターを潜り抜けて外に出てきたのは、「撮影してたなんて知らなくて、ネットに、まさか上げるなんて、あんな大変なことになるなんて」言い訳だけだった。この期に及んで。

あぁ、苦しい。辛い。嫌だ。逃げたい。全てから、逃げたい。

『そう言えば拳銃自殺というとこうやってこめかみをぶち抜くのと、口の中に突っ込んでそのまま撃つのがありますけど、どっちがいいんでしょう』

見ると、先ほど三堤が持っていた拳銃が、側に転がっていた。

それを、拾い上げた。

両親は、弁護士に相談することにした。

もはやこれは、自分たち家族だけでどうにかなる問題ではなかったから。

しかし、元々裕福とは程遠かった我が家にとって、これは手痛い出費だった。

金銭的なことを除いても、両親は明らかに、精神的にも肉体的にも疲弊していた。

幸いにも、弁護士は親身になって対応してくれた。

時間はかかったが、なんとか実際には自分がいじめなどしていないことを、第三者が示してくれた。

これで、事態は好転するだろうと思っていた。

奴らに仕返しができると、思っていた。


しかし、その頃には世間の関心はこちらに向いていなかった。

大半の人々はこのニュースを消化しきり、次の話題へと移っていた。

それでも、ごく一部は、いつまでも粘着し続けた。

いじめをしたのが自分ではないことは証明されたのに。

自分の名前で調べると、自分を犯人扱いするものが真っ先に出てくる。

いじめてきた相手よりも、進行形で嫌がらせをしてくる相手に対処するのが先決だった。

せめて嘘の情報をネットにあげた直接の犯人だけでも特定しようとしたが。

情報の氾濫でそもそもどこから最初に発生したのかもわからず。

結局奴らを、取り逃がしてしまった。

気が付けば、3年生に進級していた。

この頃には、自分の身が危ないんじゃないかと恐れることもなくなった。

もちろん、あえてあの件を話題にする者は誰もいなくなっていた。

あれはただの悪夢だと、嫌な集団幻覚だったと、それぞれが自分に言い聞かせた。

三堤作良など、最初からこの学校にはいなかったと。

だが、私の調べる手は止まらなかった。そこで、真相が表明されてしまったことを知った。

背筋が凍った。冷や汗をかいた。

三堤がどんな目に遭ったか、知っていたから。


しかし、その頃には世間の関心はこちらに向いていなかった。

大半の人々はこのニュースを消化しきり、次の話題へと移っていた。

だから、予想に反して何か起きることはなかった。

メディアにでもリークされていれば違ったかもしれない。

しかしそんなニュースはなく、私は世間的にまだ"被害者"のままだった。

なんだ、やっぱり大丈夫じゃないか。なんだかんだ言っても、私はやっていけるんだ。

せめて、これからは誰も傷つけることなく真面目に生きよう。それでいい。

起きちゃったことはしょうがないから、反省して次に生かそう。

しょうがない、しょうがない。

父親は、会社をクビになった。

こちらへの対応で仕事を休みがちになったのと、心労で業務が手に付かなくなったのが原因だった。

笑顔の綺麗だった母親も、目が虚ろになっていた。


母親が、2階のベランダから転落して死んでいるのが発見された。

自殺か、心労が祟った事故かはわからない。

とにかく、死んだ。


父親と心中しようかという話になった。

崖で、二人同時に互いの背中を押して飛び降りようと。

しかし、父親に、息子の背を押す勇気はなかった。

自分を残して、勝手に死んだ。


生きているのか死んでいるのかわからない日々が続いた。

意味もなく、漠然と生きていた。

そんな中で、あのサイトを見つけた。

集団自殺をやるという話を聞いた。


そうして俺は、Dクラス職員になった。

私は、高校生になった。

友達と一緒に、カラオケに行って、ボウリングして、文化祭では協力して、卒業式では泣いた。

これ以上ないほどに、青春だった。


受験にも成功し、第一志望の大学に無事に進学した。

サークルで大いに盛り上がり、彼氏もできた。

順風満帆だった。


大学で、爆発事故があった。

後で知ったことによると、異常存在の影響だったらしい。

私は避難誘導を行い、何人かの命を救った。

ヒーローみたいだと、誇らしかった。


ある日、私は謎の組織からスカウトを受けた。

その組織は「SCP財団」というらしい。

よくわからなかったが、二つ返事に了承した。

ここなら、きっと誰かを救えると。


そうして私は、財団職員になった。

ふらふらと、拳銃を持ち上げる。

三堤と警備員は目を見開いてこちらを見つめる。警備員が何か言っているようだが、そちらの声は入ってこない。

「何だよ。俺を、殺すのかよ」三堤はつぶやく。「上等だよクソが。さっさと殺せやゴミ人間! 永遠に呪い続けてやるからよぉ! 殺せよ!」

銃口が、ぷるぷると震えながら徐々に上に向いていく。

私は、この8年間何をしていたんだろう。

「どうせ知らねぇだろうけどなぁ!」三堤は息を吸うと、もう一度叫ぶ。「お父さんとお母さんは死んだんだよ! テメェらのせいでなぁ! この人殺し! 犯罪者が!」

私は。私は。


右のこめかみに、冷たいものが当たるのを感じる。

「は?」三堤が漏らす。呆然として、少し黙ってから、笑った。

「マジ? お前自殺すんの? お似合いだよ、お前なんか生きててもどうしようもないもんなぁ! さっさと死ねや!」

人差し指が震える。既に、引き金にかかっている。

時間が、ゆっくりになる。何倍にも、何十倍にも引き延ばされる。

ためらうようにしばし左右に目を向けてから、警備員は三堤の身体を押すようにして飛び上がる。それから、何かを叫んで、ゆっくりと左腕を伸ばそうとする。

あぁ、この人は私を止めようとしてくれているのか。でも、明らかに間に合わない。その手が届くより先に、私の人差し指の関節は曲がるだろう。

人が死に直面した際は、走馬灯というものを見るらしい。しかしこの目には、この現実しか見えない。地獄のような、皮肉で悪辣な現実。もちろん何よりも悪辣だったのは、他でもない自分だったのだが。そしてそのゆっくりになった時間で、この地獄をまざまざと見せつけられる。これが、罰なのだろうか。走馬灯を見る権利など与えられていないということなのだろうか。

それとも、世界は私を人とも認識してくれなくなったのだろうか。

それも当然か。








さようなら、世界。








「……?」

引こうと思っていた引き金が、というか銃そのものが、手から消えていた。

なぜか、みさごの右腕は大きく前にずれていた。よく見ると、警備員と三堤の奥に、先ほどまで持っていたはずの銃が転がっている。

これまで以上に、状況が飲み込めない。何があった?

警備員と三堤はその場に止まり、こちらを見ている。

違う。こちらの、更に奥を。


誰かの手が、右肩に触れた。

理解できないままに、反射的に振り返ろうとする。

その途中で、視線が真横に来たタイミングで、ヌッと、その顔が視界に入ってきた。

その瞳は、それはそれはもう見事なまでに、真っ黒だった。

「餅……」

次の瞬間、視界はペールオレンジに覆いつくされた。




身体が浮いた。

みさごの身体は直線距離にして1.5メートルほどを吹き飛ぶと、バァンと、背中を壁に叩きつけて、ようやく地面に落下した。

地面に着いたことに気付いた2秒後、みさごは背中の、そしてそれ以上に顔面の激痛に気付く。思わず両手で顔を覆ってから、外すと、その手は鼻血まみれになっていた。とても、とても鋭い痛み。鼻が折れたかもしれないと、他のどの状況よりも先に意識が向いた。

前を見ると、餅月が姿勢を立て直していた。その右の拳は、赤くなっている。ちょうど、人の顔面ほどの大きさと硬さのものを、真正面から全身全霊で、存分に鍛えたその右腕と足腰全体を駆使してぶん殴ったときになりそうなくらいの赤色をしていた。

警備員は、ぽかんと口を開けてその姿を見つめている。みさごにとっては言うまでもないが、彼にとっても、今日はつくづく感情の忙しい日になったことだろう。

その警備員を、餅月は丁寧に後ろに下げさせる。それから、やはり口をぽかんと開けた三堤の前にしゃがむ。出血多量のせいか、既に三堤の目は虚ろだった。

餅月は、一言だけつぶやいた。






「ほんの少しだけでも、気を晴らしてくれましたか?」






3秒の沈黙を経て、やがて三堤は、笑った。

もはや言葉を発することもなく、最期の気力を振り絞って、めちゃくちゃに笑った。

こういう笑い声のことを「ケタケタ」と表現するのだろうと、みさごは思った。

先ほどまでよりも遥かに小さく弱弱しい笑い声だったが、それでも、他のどんな声よりも、はっきりと朗らかに聞こえた。

紅潮したその顔は、涙と鼻水と唾液ですっかりべちょべちょになっている。嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのかも、もはやわからない。恐らく本人もわかっていない。ただひたすらに、笑い、笑い、笑い続けた。

ああ、そういえば。

「何で、こんなことするんだよぉ」

「俺が、何したっていうんだよぉ」

「嫌だよ、やめてよぉ」

……

……

……

あの時の三堤も、こんな顔をしていたっけ。



インシデント20280611

発生日時: 2028年6月11日、13時42分

発生地点: サイト-81HZ西棟2階廊下

概要: D-37284が実験を終えて護送中、付き添いの杉内警備員の所持していた拳銃を奪い、銃床でその頭部を3度強く殴打。彼を昏倒させた後に、直前にすれ違っていた冬梅渉外員を襲撃した。しかしながらD-37284が発砲する前に、現場に訪れた檜村警備員がその背中に発砲、D-37284が倒れたところを取り押さえた。その後、D-37284の発言内容にショックを受けた冬梅渉外員が彼の落とした拳銃で自殺を試みるも、餅月渉外員がその銃に発砲、手から銃を取り落とさせた。直後、餅月渉外員は冬梅渉外員に駆け寄ると、その顔面を拳で強く殴打した。この行為について、餅月渉外員は「冬梅渉外員の気を覚まさせるにはこうするしかなかった」と証言している。なお、D-37284の発言内容の参照にはレベル4クリアランス、または該当クリアランス保持者による許可が必要である。

事後:

  • D-37284は確保時、強い興奮状態にあった。緊急治療が試みられたものの、出血多量及び左肺の損傷により後に死亡が確認された。
  • 杉内警備員は軽度の脳震盪を起こしていたものの、約30分後に意識を回復した。目に見える後遺症はなし。頭部の傷は現在治療中。
  • 冬梅渉外員は、餅月渉外員の殴打による鼻骨骨折を除いて目立った負傷はなし。餅月渉外員の暴力行為に関しては、やむを得ないものとして不問とされた。冬梅渉外員には一週間の休職と、定期的な精神鑑定の受診が命じられた。

想定される原因と期待される対応:

  • 特にプロジェクト・ヱルテルが本格化して以降、職員のDクラス職員への警戒の希薄化が深刻化している。彼らは過去主に用いられていたような重犯罪者ではないとはいえ、同じDクラス職員としての立場であることには変わりない。彼らに武器を奪われるような事象は防がねばならない。したがって、再度全職員に対しDクラス管理手順の周知徹底を行うとともに、護送時等の拘束・監視の厳格化が実施されるべきである。
  • 各職員とDクラス職員との間にわずかでも過去に接点があった場合、その報告を義務化する。確率として非常に低くはあるが、そのような事象に対する対応が整備されていなかったために今回のようなインシデントが発生してしまった。



「……」みさごは、餅月のオフィスで、椅子に座っていた。鼻には包帯が巻かれている。鎮痛剤こそ処方されているが、まだある程度ジンジンと痛む。

目の前には、餅月が床に倒れている。傍には、玩具のナイフ。「セルフ首切り自殺」ごっこらしいが、みさごにはそれを笑う気力も、ツッコむ気力もない。


一週間の休職になりはしたが、精神鑑定の受診のため、みさごはサイトを訪れていた。

職員からの視線が、とても、恐ろしかった。みさごが過敏になっていることを除いても、明らかに、職員たちがこちらを奇異の目で見ていることが分かった。一応、こちらの身を考慮して過去に関する事情はクラス4制限となった。だから、これ以上広がることはないとは思う。しかし、既に事情を知ってしまった職員への記憶処理などは一切行われていない。制限が行われる前に、三堤の声を通して、あるいは職員間の噂を介して、既にサイト全体に事実が広まってしまっていた。

恐れていた事態は、結局現実になってしまった。

「あの」恐る恐る、みさごはつぶやく。

「申し訳ありませんでした」

5秒の沈黙を経て、地面に倒れたまま餅月は答える。「何がですか?」

「えっと、今回の件で、いろんな人に迷惑をかけてしまい、本当に、申し訳ないと。私のせいで」

「……」更に5秒黙ってから、餅月はまた返す。「でしたら、私に謝られても困ります。もっと謝るべき人がいるでしょう」

あのぐしゃぐしゃになった顔を思い浮かべる。私は、なんてことをしてしまったのだろう。あの時、私は何を考えていたんだろう。それを考えるたびに、また涙が出て、吐き気がする。

「三堤…… さんには、本当に申し訳ないことをしたと。取り返しのつかないことをしたと、思ってます」嗚咽交じりに、そう漏らす。「でも、彼はもう、どうにもならなくて」

「死んでしまった人は、どうにもなりません。二度と戻ってくることはありません」今度は間を開けず、餅月はすぐに答えを返してくる。「この世でいくら嘆こうが、謝ろうが、届くことはありません。幽霊にでもなっていれば別ですし、謝罪の気持ちは大事ですが」

「でしたら、誰に、謝れば」
「わかりませんかね。真っ先に謝るべき相手は二人です。怪我を負って入院中の杉内さんに、人をその手で殺す羽目になってしまった檜村さん。直接の原因は三堤さんかもしれませんが、種を蒔いたのはみさごさんなので」

みさごは唇を噛む。そのまま、手で顔を覆う。「そうですよね。私が…… 私の、せいですね」

15秒の沈黙。

「今回の件が」絞り出すように、みさごは口にする。「今後に、何か影響しますかね」

「確かに、インシデントであなたが取った行動はあまりに未熟でしたが。しかし入ってきて2ヶ月ちょっとの新人に完璧な対応など、誰も期待してはいません。パニックになって硬直してしまったのもやむを得ないことなので、これから」

「そうじゃなくて!」大声を出す。それから、自分が餅月の言葉を遮ってしまったことに気付き、声を小さくする。「すいません。ですが…… サイトのみんなに、これからそういう目で見られることになるわけですよね。私は、これから」

「そうですが。とはいえ、少なくともそれを露骨に出してどうこうすることもないでしょう。それに、みさごさんが将来的に別のサイトに行くことになれば、知る人は誰もいなくなります。緘口令を無視してベラベラ漏らすほど、皆さん子どもではありませんから」

「餅月さんは…… 私が何したか、知ってたんですよね?」
「いじめをしたということと、グループの誰かが嘘の情報を流したことなどは知っていましたが、その他具体的に何をしたかは、今回の件で初めて知りました」
「幻滅…… しましたよね」
「別に。これからあなたのことはそういうことをした人とは認識しますが、それ以外特に何も」

相変わらずその言葉は淡々としていたが、だからといって本当に餅月が何とも思っていないと安易に思うほど、今のみさごは愚かではない。その裏にある思いを、意図を、確かに感じた。

「ただ一つ」餅月はふと付け加える。「言っておくことがあるとすれば」

みさごは唾を飲む。

「みさごさん、最初に会ったとき言っていましたよね。ヒーローになりたい、と」少しの沈黙を経て、餅月は続ける。「しかし、あなたがヒーローになることはできません。二度と。永遠に」

みさごは何も言わずうつむく。

「たとえ世界を救うレベルの活躍をしたとしても、あなたは絶対にヒーローにはなれません。あなたは、それほどに取り返しのつかないことをしました」

みさごが何かを考える間もなく、餅月は続ける。

「彼の両親がまだ生きていた頃なら、ある程度は取り返しがついたかもしれません。しかし人が一人でも亡くなった時点で、どうしようもなくなりました。前も言いましたが、人は一度しか死ぬことができません。人生は一つしかありませんから。あなたは、その一つしかない人生を潰しました。その時点で、ヒーローとなる資格は永久に失われました。厳しい言葉だとは思いますし、既に追い詰められているみさごさんをこれ以上責め立てるつもりはありませんが、これだけは、言っておきたかったので」

「だったら、私に、生きてる意味なんて」たまらず、みさごは漏らす。

「だからこそです」餅月はつぶやく。「あなたはまだ何一つ贖罪ができていません。まだ何も果たせていないのに、勝手に死ぬことは、自分の死に方を自分で決めることは、絶対に許しません。もちろん何をしようが罪が消えることはありませんが、それでも、少しでも長く生きて、苦しんで、何かを果たしてください」

これは、餅月なりの優しさであり、厳しさであり。何年も自殺について考え続けた果てに出した、結論であった。

「生きるのが辛いほど、精神的に苦しいのであれば。私がいつでも相談に乗ります。他にも、対話部門とか、職員の精神を扱う上では、財団は充実してますから」ここでようやく、餅月は上半身を起こす。

「それに、私だって罪を抱えていますから」自分の手を見ながら、餅月は言う。「みさごさんのように悪意があった訳ではないですし、私がいてもいなくても結果は変わっていなかったとは思いますが。それでも、取り返しのつかないことをしたと思っています。それが、私がここに雇われるという形で生き残った意味なのだと思います」

私が、今生きている意味。餅月に生かしてもらった意味。何なのだろうか。私に、何ができるというのだろうか。

わからない。わからないが、ただ。今は、涙があふれてきて。

「ごめんなさい」もう一度、両手で顔を覆う。それでも、指の間から涙はしたたり落ち続ける。「ごめんなさい、ごめんなさい。三堤くん、三堤くんのお父さんにお母さん、ごめんなさい。私のせいで、私が全部潰しちゃって、ごめんなさい」

涙と鼻水で包帯が湿る。嗚咽が漏れて、かすれた咳を吐く。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

その涙と謝罪は、本当に心から相手を想ってのものか。それとも、未だに悲劇のヒロイン気取りである故のものか。本人にもわからない。ただ、やけくそに心が痛いことだけは確かだった。

餅月は立ち上がると、デスクの引き出しから薄い毛布を取り出して、みさごの背に投げるように掛ける。「休職期間中くらいは、懺悔に費やすことを許します。ですがそれが明けたら、またしっかり、仕事を始めましょう」

どんなに辛くても。どんなに苦しくても。ヒーローにはなれずとも。




冬梅みさごは、生き続ける。

そうしなければ、ならないから。


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