POUR LES PECHEURS
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透き通ったゼラチンの中に、カットされたトマトやベビーコーンが浮かんでいる。白い皿の中央に飾られたテリーヌにナイフを通して、雨霧霧香あまぎりきりかはギリギリマナー違反にならない程度に刃先を持ち上げると、その表面を観察して眉をひそめた。ソースの筋やゼラチンの切片がべっとりと付着している。つい数時間前まで握っていた財団謹製のメス───病的な表面処理で血糊さえ残らない、それ自体が異常性を持っているのではともっぱら評判の───なら、この数倍はあろうかという厚さの脂肪を切り裂いた後でさえ美しいままだというのに。雨霧は自分の食器の持ち方がいつもの仕事道具のようになりかけているのを自覚し、慌ててフォークを皿に伸ばした。形が崩れてしまうので、中の野菜を突き刺すイメージ。
だが力加減を誤っているのか、うまくフォークに捉えることが出来ない。手袋をしたままだと持ちにくいのだ。いっそゴム手袋を上から嵌めた方が良かっただろうか。益体のないことを考えているうちにも、次は何か固い感触の野菜がフォークの先から滑って逃げる。行き先を失ったフォークが皿に当たり、ガチャリと音が鳴った。背中が熱くなり、落ち着こうと一度水を飲む。今行っているのは食事だ。尋問の仕事などではない。
「───欲がないんですか」
豪奢なテーブルクロスの向こう側から声がかかり、雨霧は急いで目線を上げた。高級な飲食店らしい控えめな照明の下、くすんだ金髪の青年がこちらを心配そうに見ている。アイランズ調停官。雨霧と見合いを経て、時々遊びに出かけるようになった相手。いっそ交際相手と呼んでもいいのかもしれないが、雨霧自身がこの関係をそう表現することはなかったし、アイランズもまた特段その点に拘る様子はなく、相も変わらずな付き合いを続けていた。この点でアイランズの側がどう思っているのかは不明だったが、少なくとも不満があればはっきり口に出すだろう。そういう人だとは知っていた。
彼の在り様に甘えてしまっているのかもしれない。しかし、多忙なアイランズと会う機会は月に一度か二度で、他に異性と親しくした経験もない自分としては、敢えて現状の関係を確認したりとか、変容させようとか、そういった動機にも乏しい。そんな彼から業務上の強制を伴った夕食の誘いが来たのは、今日の定時前のことであった。『詳しい事情は会場で』と私信が添えられた招待状、装備は自由ながら非武装推奨、場所は某高級ホテルのレストラン、ただし場所は伏せるため迎えの車に乗ること、そんな出頭命令。
それにしても欲、欲か。自分には繊細な感性などないのは承知している───もしあったなら拷問官などと揶揄される尋問官の職務は務まらないだろう───が、感情や欲求がないわけではない、筈だ。それをこうして聞いてくるというのは、今日の自分はよほど何か不機嫌そうであったりとか、つまらなさそうであったりとか、そのような不義理があったのだろうか。ひょっとすると投げやりな雰囲気を出してしまっていただろうか。
今日の招待は嬉しいものだった。特に普段から気に食わない上司に命令書を叩きつけた時に、内容のプライオリティに眼を剝いていたのは実に痛快だった。あの引き攣った笑みを見られただけで日頃の恨みの二割くらいは帳消しにしても構わないくらいに。
一方であまりに突然だったのも事実で、今週中に終わらせたかった作業は同僚に頭を下げて替わってもらう必要があったし、千日寮監に夕食は要らない旨の電話と気がかりなマナーの相談だけして飛び出してきたので、今の雨霧の服装は色気もなにもあったものじゃない灰色のスーツである。ホテルに隣接するブティックでせめてと買い求めた赤いタイはむしろ、この場にそぐわない色味だったのかもしれない。天候もあいにくの大雨で、迎えの車の中で出来る限り手櫛を通した筈の髪も、少し歩いただけで湿気て額に張り付く始末。ひょっとして見苦しく思われているだろうか。そこまで思考が飛躍したところで、アイランズはもう一度同じ言葉をゆっくりと発した。
「食欲がないんですか。手が止まっていましたが」
「あ、食欲。食欲は───お昼がいい加減だったので、それなりに空腹です」聞き間違えた上に余計な事柄まで考え過ぎていたのに気付いて少し落ち込む。かといってナイフの切れ味で仕事のことを連想していたり、自身の装いについて自信を無くして食べるのが止まっていた等と言えるわけもない。嘘にならない範囲の曖昧な答えを返すと、アイランズは
「ならよかった。お加減でも悪いのかと」
と言いながら、洗練された仕草でフォークを料理に添えた。ナイフを巧みに使い、最初からカットしてあったかのように滑らかな切断面でゼリーのひとかけらを切り出しと、それを力みなく口元に運ぶ。上品極まりない咀嚼の後で官能的なため息をついて頬を緩めたところを見ると、さぞ口に合ったのだろう。或いは会食の場で同席する相手にそう思わせる技術だったりするのだろうか。相手からの印象を支配することでその後の交渉に向けた布石を打つ技術を、この人物は幾通りも持っているはずだった。二人きりの個室、背景に流れる音楽さえもごく小音に抑えられている中で、食器の音と互いの呼吸音が耳につく。
ただ、今日はどうしたことか、アイランズの端然とした動作の一つ一つがどこか芝居がかった動きにも見えて、雨霧は我ながら呆れた。久しぶりの逢瀬だというのに、思ったよりこの空間の雰囲気に気圧されて参っているのかもしれない。立派なレストランの落ち着いた調度、礼儀正しい従業員たち、銀の食器類。普段利用する職員食堂に比べれば清潔で人がいない点で余程マシの筈だが、前菜を前に取り乱してこのザマだ。それとも、アイランズも何か胡麻化しているのかもしれない。つまらない女だと思われ愛想をつかしているのを取り繕っているのかも。
どこか空転気味だった雨霧の思考は、そこで一つの解決策を発見する。一口食べてみればいいのではないか。アイランズの味に対する嗜好は掴み切れていないにせよ、本当に美味しいのかどうか、明確な世辞かどうか位ならそれで判別がつく。先ほどの教訓から力を入れて突き刺すのは諦め、フォークの湾曲部分にテリーヌを載せようと試みる。一度目、バランスをうまく取れずに失敗。二度目は慎重にナイフで重心を整え、ゆっくりと持ち上げる。一人の食卓なら口で迎えに行くところを堪えて口腔へと運び、舌で迎え入れる。甘くないゼリーのような感触。音がしないようにフォークを抜き取り、弾力のある表面を感じながら奥歯で噛みしめる。途端、異なる歯ごたえと共に甘みや苦みが口の中にぱっと広がったかと思うと、ゼラチン質のうま味に溶かされるようにして瞬時に混ざり合った。咀嚼する度に深みを増す味わいと鼻腔に抜けていく爽やかな酸味が織り成す調和は、普段食事では考えられない程に楽しいという感情を想起させるものだ。高い食事には理由があるのだな、という妙な納得。惜しむらくはその感想を表現するだけの語彙も経験も雨霧には乏しいことだったが、もっともらしく小賢しいコメントなど考える間もなく飲み込んでしまった。もう一欠片を切り出してからようやく、美味しいですね、とだけ述べると、アイランズはほっと安心したかのような微笑を浮かべた。
「食べてもらえてよかった。急にお声がけしてしまい恐縮でしたが、私もこんなにゆっくりと食事をするのは久しぶりです。今夜はたくさん食べましょうね」
雨霧は少し見ないうちにこけたようなアイランズの頬を見る。記憶の中の彼はもう少し血色がよかった、ような気がする。体調でも悪いのだろうか。心配の言葉、栄養バランスに関するお決まりのアドバイス、気の利いた軽口が頭の中に浮かんでは消えて、最終的にはため息に変わって大気中に放出される。言えなかった言葉の成れの果てたちを空中に漂わせたまま、雨霧は黙ってナイフとフォークを動かした。
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二品目が恭しく運ばれてきて、眼前に配膳される。コース料理では一品食べ終わったタイミングで切れ目なく次の品が提供されるというのは本当だったのだ、と雨霧は驚く。一皿一皿の調理手順も手が込んでいるだろうに、食べる速度が違う客の様子を見ながら最適なタイミングで次の皿を準備するとは。一体どうやって複雑な行程を管理しているのだろうか。アイランズが柔和な笑みを浮かべているのを気にしながら、雨霧はちらりと机の上の食器を見る。スープ用のスプーンを確認。何種類かある食器は基本的に外から取るといいわよ、と千日が電話で教えてくれたのを思い出す。にわか仕込みの知識で粗相でもしたらどうしようと嘆くと、千日は明るく笑って励ましてくれた。『大丈夫!アイランズさんならきっと気にしないし、間違えちゃったら新しい食器貰えばいいんだから。楽しんでいらっしゃい』
その言葉に勇気づけられて、雨霧は丸くて少し大きなスプーンを手に取る。覗き込むと自身の顔が映り込んでいた。白銀の髪と血の気の薄い顔色をした女がこちらを覗き込もうとするのを急いでスプーンから追い出し、澄んでいるのに密度を感じさせる温かい液体をそっとすくってみる。銀色の輝きが琥珀色のスープを通って見えることで、そこにはまるで液状の黄金がたゆたっているようだった。そして仄かに立ち上る湯気にさえ、芳醇な香りがたっぷりと含まれている。
空腹感が強まるのを感じて、雨霧は順序立てて料理を食べることは、眠っていた体を醒まして食事に適した状態へと変化させるのだと実感する。早く口に入れたいが、音を立てるのは確かマナー違反だった筈だ。念のためにアイランズの所作を参考にしようとするも、アイランズは窓の外を見ていた。外は暗く、雲に閉ざされた空からは大粒の雨が間断なく降り注ぎ、窓ガラスを打っている。風も同時に強まっているようだった。しかし防音構造がきちんとしているのだろう、視覚的に大荒れでも室内にいると雨音はほとんど聞こえない。そういえば、アイランズの服装は濡れた様子もない。そのことを指摘すると、アイランズは苦笑した。
「実は今日は一歩も外に出られていなくて」
「缶詰め、ですか。お仕事関係の」
「仕事関係、ではありますね。先日立ち会った交渉の相手方に恨まれたようで、私を狙った襲撃が計画されたとか。それで雲隠れする羽目に」
「大丈夫なんですか。こんなところで食事なんて」
「ご心配なく、実力による対処がなされています。ただ、それが終わるまでは、私の所在は隠さなくてはならないと」スープを一口、音もなく味わってからアイランズは自嘲気味に肩をすくめた。
「このホテル、うちが護衛対象を守るための施設なんです。ただし守られる間は通信も規制されるので仕事になりません。護衛される側の気持ちになるのは初めてですね」
「そういうものですか」
「ええ。仕事ができないというのは思ったよりもストレスでした」自分だったら仕事を休めるのなら嬉しいですが、と口に出しはしない。アイランズは続ける。
「食事も良くして貰っていますが、話し相手がいないのでは退屈です。最初は我慢していたんですが、上からは折角だから有休を消化してみればなどと言われ、吹っ切れました。護衛担当に交渉して一人だけ誰か呼んでいいと言わせて、雨霧さんに来て頂いた次第です。任務扱いになってしまった件についてはお騒がせしました」
頭を下げるアイランズに雨霧は少し驚いた。簡単に言ってのけたが、要するに居場所を秘匿して厳重に護衛されている身だろう。そんな状態で無関係の自分を呼び寄せる交渉とは、いったいどんな切り札を切ったのやら。
「別にかまいませんが、私に用事が入っていたらどうするつもりだったんです」
「日頃の行いを信じました」
「はあ」意地悪のつもりが拍子抜けだ。でも悪戯っぽく言われる言葉に正直悪い気はしない。普段からずっと忙しいこの人には休暇くらいあってもいいだろう。それを一緒に過ごせるのは光栄なことだった。高揚した気持ちを隠すようにしてスープを口にしてみる。香味野菜のピリリとした旨味の中にしっかりした淡白な土台が感じられる安心感のある味わいだ。爆発的ではないけれど、重厚さが口に入れた瞬間から立ち上がり、心地よい余韻と共に喉を通り抜けていく。
なんとか無事に食事を進めて半分ほどスープを飲み終えた辺りで、静かに澄み切って鏡のようだった水面に大きな波紋が広がる。一つ、二つ。アイランズが不審げに天井を見上げて言った。
「揺れていますね」
言い終わると同時に照明が消えて真っ暗になった。数秒経って、窓の外が光り、小さく雷鳴が響く。案外と近い。停電だろうか、BGMも止まっている。
廊下の方から灯りが漏れてきたと思うと、従業員が燭台を持って姿を見せた。机の真ん中に置かれたそれはごとりと重々しい音を立てる。そのまま雨霧には目礼のみ寄越して、店員はアイランズに何か耳打ちした。それに頷き返すと、従業員は静かにスープ皿を持って退室する。足音がほとんどしないのは訓練の結果なのかもしれない。腰のあたりにも不自然なふくらみ。見かけたことはないが、護衛の要員なのだろう。
「どうかしましたか」
「大丈夫です。停電の時のバックアップに切り替わらないらしく、それまでは蝋燭でとのことでした」燭台は小さいが案外と明るく、アイランズの瞳にも炎が写り込んで揺れていた。じっとこちらを見る目がどうにも居心地悪く、雨霧は咄嗟に話題を変えた。
「スープ、下げられちゃいましたね。まだ少し残っていたのに」
「ああ、すみません。気付きませんでした」
「いえ、でも美味しかった。折角のご飯なのに、さっきから美味しいとしか言えてませんね」
「それで十分ですよ、あなたと居られるだけで。さあ、次が来ますよ」部屋の壁に影が踊っている。アイランズの髪がくすんだ金色に、雨霧の髪が鈍い銀色に輝く中、しばし沈黙が流れる。
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銀の覆いの中から涼し気に現れたのは、鮮やかな橙色をした魚にチーズが載った料理だった。表面はバーナーでさっと炙られてチーズがやわくとろけているのに、切り身全体としては絶妙な火加減で熱を通し切らないことで、香ばしさとしっとりした魚のうま味を一口で味わえる一皿である。思わず笑みを浮かべてしまったのは、かつてアイランズと会食した際に話した、異常性を持った寿司職人のことを思い出したからだ。思えばあの頃はまだお見合いもしていなかった。会食の後、乱れた胸中と勢いに任せてこちらからアイランズを指名したお見合い。しかし申し込んだのはいいものの、多忙なアイランズはちっとも掴まらなくて、何度も挫けそうになった。それでも粘り強く予定を調整してくれたアイランズや、ずっと応援してくれた千日と周囲の人々に助けられ、数か月後に一席は設けられた。何の因果か、お手頃ながら歴史のある都内の寿司屋の座敷で。
はっきりと思い出せる。着物姿の千日寮監が我が事のように緊張しながら、略式ではありつつも世話人を務めてくれた。同様に和装に身を包んだ雨霧が自分からは発言もせず固まっていたから、そんな雨霧に水を勧めたりアイランズに寮での職員たちの生活について面白おかしく話したりと日頃の働きぶりのままに八面六臂の活躍をしてくれた。そんな彼女も、前菜に軽く箸をつけたタイミングで別室に下がっていった。随分と気を使わせてしまっただろうが、障子を閉める陰から千日はとても楽しそうにウィンクを一つくれた。その目に涙が光ったように見えたのは気のせいだったろうか。
二人きりになってからは、ランチのコースを食べた。このような店だとサーモンはさすがに出しませんね、結構好きなんですが。冗談を言ったアイランズも、実は緊張していたのかもしれない。普段のデートに比べたら少し口数の少なく、それでも他愛ない会話が途切れぬままに時間は流れ、今後の二人についての話が始める頃には、二人の前には鮮やかに焼き上げられたカステラみたいな玉子焼きと茶が並んでいた。
「雨霧さんは、どうして私にお見合いを持ち掛けて下さったんですか」
心臓が早鐘を打つ。言わなくてはならないことは、あった。
どうやって伝えたらいいのかは、最後まで分からなかった。
それでも、雨霧は乾ききった唇を震わせて答えたのだ───。
また、雷が落ちた。小さな振動が床を通じてろうそくの炎を揺らす。雨霧も三皿目となると食器を扱う要領が掴めて、特に迷うこともなくナイフとフォークを正しい持ち方で構えることが出来ている。「アイランズさんは、サーモンお好きでしたよね」
「はい。回転寿司なんかでもよく食べます」
「チーズとの相性がいいですよね。回転数が上がったりするんでしょうか」
「回転数、ですか。ははは、回転寿司とは言いますが、実際に回っているわけではないでしょう」雨霧は小さくため息をついてから皿を見る。本当に美味しそうな料理だ。前菜とスープを収めたばかりの筈の胃は、いよいよ目の前に出されたメイン料理を前にして、いまかいまかとその到来を待ち望んでいる。普段は食が細い雨霧からすれば、実に虫のいい話だ。交際相手の前で浮かれているのかもしれない。そしてそれは、先ほどまでの自分も同じことだ。だが、今の自分はそれなりに虫の居所が悪い。
雨霧は音を立ててナイフとフォークを皿に置く。アイランズは突然の物音にも動じた様子はなく、じっとこちらを観察している。何かの予兆を探している瞳。その青い瞳孔に映った炎が揺れている。
「どうかされましたか?」
「それはこちらのセリフです。アイランズさん、今日のあなたは変です」
「というと」
「普段のあなたの返しは、そんなに薄っぺらくありません」「薄っぺらい、それは申し訳ない。外に出られなくてすこし神経が参っているのかもしれません」
「そういうことじゃありません。知ってるはずのこと、しないはずの動作。こう見えても嘘を見抜く尋問するのは得意なんです」それに、と雨霧は付け加える。
「いつものアイランズさんは、もっと私の本音を引き出そうとしてくれますから」
言ってから、自分で少し首を傾げる。補足説明の必要がありそうだ。
「いつもだったら、もっと私の話を聞こうとしてくれるのに、今日は黙ってばかりです。あと、事前に説明もなく私に何かさせようとしてばかりのあなたは初めて。それだけ切羽詰まっているのかなと思いましたが、違います。あなた、誰なんですか」
「拷問官風情が、随分幸せそうにしやがる」アイランズ、に顔を似せた男が小さくつぶやく。聞き返そうとした雨霧の額に、男は懐から取り出した拳銃をポイントした。がらりと変わった口調で告げる。
「傷付けたい訳じゃない。本当なら今すぐにでも殺してやりたいが、聞きたいことがある。だから、食事を続けてくれないか」
暴力による対話の否定と強制。調停官のあるべき姿とは正反対の所業。そう、それは正しく、雨霧霧香拷問官のフィールドだ。冷えていくのを感じる。体温も、胸の内も。よくも、よくもその人を汚したな。
雨霧は逆手に持ったフォークで魚の切り身を突き刺す。上目遣いに銃口を睨みつけながら、かぶり付くこと、一口。腹立たしいことに、サーモンは身が締まっていながら脂がのっていて、しっとりさ加減もチーズの溶け加減と相まって絶品だった。飲めるようだ、とはこういうことかと得心しつつ、雨霧は皿の上の切り身を次々に平らげて、今度は少しだけ静かに食器を皿に置いた。
いいだろう、ここは確かに自分のいるべき場所だ。雨霧はアイランズには決して向けない目をしている。
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急ぎ足で店員が入ってくる。もう隠す余裕はないのか、あるいは先ほどまでの自分が浮かれて気付いていなかっただけか。彼はあからさまに武装した戦闘要員の歩き方になっていた。併せて、階下のものだろう。散発的な爆発音が小さく聞こえてきている。「状況は。何人だ」
「一人だ。だがバリケードがもう二つ抜かれた。相手は二丁拳銃らしい」
「くそ、ふざけやがって」雨霧は挑発的な笑みを浮かべる。
「色々な意味で、急いだほうがいいのでは?」
店員が乱暴に配膳したのは、白桃とロゼの色合いが美しいソルベだ。クローバーの葉が載せられている。ご丁寧にも、アイランズの姿をした相手の前にも一つ置かれた。
「葉は避けた方がいいですよ。少量ですが、この種類のクローバーは青酸化合物を有しますから」
そう言ったそばから、雨霧は赤い舌を見せつけるようにして、ソルベと一緒にクローバーを口に入れて見せる。目の前の男がたじろいだ。
「まあ、私にはあまり関係ありません」
「財団職員ってのは、薬に耐性でもあるのか」
「さて、どうでしょうね」雨霧は一定のペースでスプーンを動かした。舌の上でとろけると、桃をそのまま凍らせたのかと思えるくらい、濃厚な果汁の味が感じられる。後味には凍ったシャンパンのシャリシャリした触感が舌を心地よく洗い流していった。でも、魚料理のあとに口直しするよりも肉料理の後にした方が脂っぽさを抜く意味ではより適当ではなかろうか、などと思う。アイランズ──の紛い物──の前では手つかずのソルベがゆっくりと溶けていく。勿体ない。こんなに美味しいのだから、食べるなりくれるなりすればいいのに。
「それで、聞きたいことがあるんでしょう。さっさと済ませたらどうですか。やり方が分からないなら教えてあげます。少なくとも秘密を話させるのに、中途半端な変装なんかよりも効率的で役に立つ手段は色々とありますよ」
「一緒にするな、化け物。痛めつけて吐かせた情報なんか信頼に値しないんだよ。それに、変装が半端なのはお前のせいだ」アイランズは空いた方の手を懐に入れると、一枚の写真を取り出して滑らせてくる。スプーンを置いて手に取ると、バストアップの女性の写真。
「覚えているか。あんたらに拷問されて死んだ。一緒に仕事をしてきた相棒だ」
「生憎ですが、仕事で知り得たことはお伝え出来ない規則ですので」写っているのは半年ほど前に雨霧自身が担当した読心能力者だ。正常性維持の体制に対するテロ事件に関与している疑いで送られてきた。印象に残っていたのは、それが随分と簡単な仕事だったからだ。能力の発現はある程度制御できるようだったが、受動型の読心能力の悲しさである。こちらでイメージしたことが嫌でも伝わってしまう。耳を塞ぐことだって、時として身と心を守るのに必要だというのに。
だから、幾つかの方法で細胞サンプル採取を行った後は、どこを切ろうか、どんな機材を使おうか、この体格なら血液量はどのくらいで、どこまで痛めつけても大丈夫か、と具体的で詳細な手順を想像してやるだけでよかった。その妄想すべてを克明に読み取った彼女は怯え、泣き、身を震わせ、その合間に多くのことを教えてくれた。結果として施した処置は全くと言っていいほど致命的なものにはならず、周囲の汚れも殆ど無かった。後始末の手間が省けて安堵したのを覚えている。その日は珍しく寮の夕飯にも間に合い、千日の温かい料理を口に出来た。真っ赤に煮込まれたハンバーグだったか。普段なら半分ほど残していただろうそれは、とても美味しかった。
だからこそ、疑問がある。確かあの女は最終的には事件には大した関与無しと判断されて、簡単な記憶処理の上で五体満足で帰されたと聞いた。それが死んだ。写真から目を上げると、思ったよりも明確に意図が伝わってしまったか、それとも事前にある程度情報を掴んでいるのか、男は銃口を震わせながら吐き捨てた。
「自殺したんだよ。帰ってきてすぐ。見たくないものが見え続けるって。自分が傷付けられるイメージから逃げられないって」
「ご愁傷さまです」
「人の心とかないのかよ。拷問官だと? そんな仕事してて、あんた自分ではどう思ってんだよ」
「それは」
「今はまだ答えなくていい。早く食べろ」やはり薬だ、と雨霧は確信した。おそらくコース料理全てに自白剤かそれに類するものが盛られている。心を開いて段階的に会話の中で情報を引き出していく腹だったか。単に情報を取るだけならば拘束の上で拷問すればいい筈だが、手段は選びたいらしい。或いは、雨霧の口から自発的に語られた情報であるという構図が重要であるのか。それこそ、外傷を一つもつけられない理由がある可能性。
だが残念なことに毒を呷るのは初めてではなかった。遠い昔、幼い頃に受けた暴行のレパートリーにあった。空腹の極致に追いやられてから投げ与えられる異臭を放つ食物を、半分嘔吐しつつ、食べた記憶。腐敗したものであったり、時間が経ちすぎて毒を持った野菜であったり、口にするのも憚られる汚物を頬張り、せき込みながら飲み込んだ。口にするごとに涙があふれて、込み上げる胃液に喉が焼け、頭の芯がしびれていくのを感じながら。必死に出されるものを貪り、苦痛にのたうつ雨霧の姿を見て、親と思しき大人達は嗤っていた。
そんな思い出と、尋問官として過ごしてきた経験が教えてくれる。まだ自分の体は保つ。摂取した料理と自分の体重を考慮すれば、おおよその効果や致死量の見当が付く。男には気取られていないが、雨霧の背中は少し前から吹き出す汗でびっしょりと濡れていた。それに伴うショック症状か、倦怠感とめまいが少し。しかし現時点でこの程度の発作ならば、情報を抜かれるよりも致死量を超える方が先かもしれない。これだから素人は、と罵りたくなるのをこらえる代わりに、空になった器にスプーンを落とした。カラン、と涼やかな音が響く。さあ、口直しは済んだぞ、と笑みを浮かべてやる。
「次は肉料理ですか。楽しみですね」
男が舌打ちをする。それにしても、自分はこんなにも好戦的な口の利き方をしていただろうか。普段はもう少し大人しく人畜無害を装っている筈なのだが、思ったよりも薬が効いているのかもしれなかった。雨霧の中から冷たく饒舌で、残酷な側面が顔を覗かせている。
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男が席を立ち、皿を持って帰って来た。自分でやるしかないということは、給仕の人員も防衛に駆り出されたのか。いい兆候だった。秘密を吐かされるよりも、自分が死ぬよりも、救助される方が早い可能性だってあるのだ。雨霧には財団に対する忠誠心などないが、仕事に対する意識は存在した。悲壮感でも責任感でもなければ自己肯定感でもないそれは、所詮は義務感に過ぎなかったけれど、自己の能力を評価して任用してくれる財団という場所への恩義くらいは持ち合わせてもいた。だから耐えられるだけ耐えてやろうかと思う一方で、少しずつ箍が外れて開放的になりつつある思考が囁いてくる。日常的に拷問なんてしてる身には随分過ぎた日々だったでしょう。この人に悪いことをしたのは事実だし、多少の話くらいはしてあげてもいいんじゃない。
そんな思考のバランスを取って、或いは思考に割くリソースを節約して、雨霧は食器を動かし続ける。肉料理は、シュー・ファルシ。フランス風のロールキャベツだ。キャベツを丸ごと一つ贅沢に使って、くりぬいた芯と中心部にミンチを詰めたもの。目の前の皿にはカットされたシフォンケーキのような姿で盛り付けられている。
荒めに挽かれたミンチはリブロースだろう。口にする機会はあまりないが、肉の部位には詳しい。脳内で牛の解剖図を思い浮かべながら一切れ口に入れる。一杯に肉汁が溢れかえるのに、食感は少しもべた付かない。香りも強いが嫌な残り方は一切ない。キャベツの繊維も程よく処理されていて、歯ごたえを演出しつつも咀嚼するうちに自然と嚙み切れる塩梅になっている。それにしても薬の効果に吐き気や味覚の阻害がなくてよかった、と雨霧は思った。どうせなら味わって食べたい。
ただし、全体的な体調の方は急降下するように悪くなってきている。半致死量に到達した辺りだろうか。それでも機械的に料理を食べ続ける雨霧に、男は堪え切れないといった様子で問いかける。
「何が入ってるかとか、気にならねえのか。躊躇くらいしろよ」
「ご親切に。しかし毒を盛ってでも相手に何かを言わせるのは別におかしなことではありません。話して分かり合えない場合なんて特に。私は少なくともその流儀には共感と敬意を示したい」七割ほど腹に収めたところで、男は対面にカメラを設置し始めた。雨霧は流石に顔をしかめてフォークを止める。
「食べている所を写すのはマナー違反です」
「じゃあそこは切り取ってやる」
「それとかなり満腹になって来たんですが、ちょっと食べてくれませんか」返答はなかった。雨霧は胃の上の辺りを何度かさする。こんなに美味しいもので腹を満たしたのはいつ以来だろうか。
「そろそろ始めさせてもらう。時間もねえ。けど、その前に聞きたいことがある」
男は、困惑しきった様子だった。
「あんた、なんでそんなに普通の顔して飯食ってるんだよ。今まで何人殺してきた。いや、ただ殺すだけじゃないよな、何人壊してきた。そんなことを真顔でやってのけるバケモンが、浮かれて着飾ってのこのこやって来たかと思えば、男とそわそわ食事して、惚気て。それでいて急に、人が変わったみたく冷静になって、薬入りの飯を美味そうにパクパク平らげやがる。どういうつもりなんだ。なんで平気なんだよ」
本当ならここで答えなくたっていい。黙って睨みつけて終わりでもいいし、そもそもこんな協力的に食事を続ける必要さえなかった。だが、ああダメだ。どうしてか雨霧の口は滑らかに回り出す。薬の影響? 勿論、それもあるだろう。でも、もっと本質的に、雨霧霧香は試されている。あの日の会食でアイランズに語った信条が問われている。それに殉じられる機会を得たことが、ただ誇らしかった。他の何にも代えがたいほどに。
「さっき言ったとおりですよ。人と人は分かり合えない。結局のところは赤の他人、口から出る言葉だけでは信じるに値しない。それでも相手から情報を引き出すために、溝を埋めるために、ある人は対話を行い、またある人は暴力を用いる。そして、二つの手段には然程大きな違いはないから、それだけのことです。言ったでしょう? だから、私はあなたのやり方は正当なものだと感じます。ほら、そんなことよりも。拷問の七箇条、時間は常に私たちの敵です」
「もういい、質問を始める」男の目が、一気に冷めたものへと変ずる。憤りと困惑が入り混じっていた表情が、無表情で義務的な色へと変わっている。きっとそれは仕事をしている際の雨霧と同じものだった。いいぞ、その調子だ。雨霧は男の変化を快く思っている自分にクスリと笑う。これならもう少しサービスしてやってもいい。
「一つ、これはフェアを期してお伝えしますが、折角の自白剤がまだ効き切っていません。でも、そろそろ投与限界量ですよね」
「ああ。そうだ」
「安物を使うとこうなるんですよ。もう少し追加してみますか? 別に今の段階でも聞かれたことくらいには答えてしまうと思いますが、真偽のほどは怪しいラインかと」本来拷問という行為は、得た答えを分析して初めて意味がある。苦痛と引き換えに引き出した言葉なぞ、その場しのぎと本音のちゃんぽんになって当然なのだ。だからこそすべてを記録し、洗い直し、裏付けをとる必要がある。裏を返せば、こんなお膳立てをしたからには、この男の目的は真に情報を取りたいということではない。ある種形式的で、質問と答えそのものが力を持つような構造がここにある。
「そしてもう一つ。別に時間稼ぎをするつもりはなかったんですが」
二人の耳にはっきりと、立て続けに銃声が届く。それも、急速に近付いてくる。
「お迎えが来たようですね」
振り返ると、店の入り口の辺りで激しい物音が聞こえてきた。男が立ち上がる。誘導か、武装した兵士が雨霧たちの部屋に入ろうとして崩れ落ちた。後ろから撃ち倒されたのだ。追うようにして廊下を疾風のように駆けてくる、サングラスを掛けた長身の男。応神薙が両手にベレッタを提げて走ってくる。
「来い!」
男は雨霧の腕をつかみ、立ち上がらせた。部屋の隅、ホテルの屋上へと繋がる非常用梯子の元へ。作動ボタンを叩き割ると、ラッタルが斜めに降りてくる。引き摺り上げられるように昇らされる。震えが大きくなり、足に力が入りにくい。でも心は全くと言っていいほど萎えておらず、雨霧は一段一段と段を踏み越えていけた。
最後に残った迎撃部隊が煙幕か何かを使ったらしい。背後で燃えるような匂いと煙が立ち込める。応神が一瞬で効果範囲から引いた所に斉射。木材の破片が乱れ飛ぶが、射線はどれ一つとしてその長身を捉え切れない。それでもその隙に、防火用のシャッターが一枚、最後の砦として降りる。
そんな様子を見て取り、応神は口元のマイクに話す。
「屋上は? 制圧できたか」
『まだです。ただし周辺空域と道路は押さえました。敵に増援無し』
「了解。平押しは好みじゃねえが、準備しとけよ」
『応神。私が行くまで、誰も殺させないでください』
「無茶言うぜ」背後の柱の陰から戦闘服の男が躍り出て、手斧を振り下ろしてくる。そちらを見るまでもなく、応神は半身になって一撃を躱し、至近距離から敵の脇腹を三発打った。身を折って崩れる相手を蹴り倒すと首の後ろに札を貼り付ける。束縛札。術式が起動した瞬間、敵は痙攣して動かなくなった。
「あと五人」
獰猛な笑み。外の嵐に等しい暴威が屋内に吹き荒れる。
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昇り切ったところは、要人がヘリの迎えを待つ小さな待機室になっていた。一歩外に出れば、屋根のない発着場。外は本格的な雷雨になっている。顔から滝の汗を流し、体のあちこちを痙攣させている雨霧をひじ掛けとキャスターのついた椅子に座らせて、男はその全身をハンディカメラの画角に収める。恐ろしい女だった。今にでも倒れそうな程弱っているはずなのに、目は爛々と輝き、唇は皮肉気な笑みの形を崩していない。だが、男もまた冷え切った表情をしているのだろう。最初は復讐のつもりだった。最愛の相棒を手に掛けた奴がどんな顔をしているのか拝んだ上で、その悪行を暴き立ててやろうと猛っていたというのに。
録画を開始した。どのみち、もう時間はない。最後に聞かなければならないことがあった。財団には拷問官がいるという証拠と、その張本人による自白の記録。それを取得するために、男はポケットから銀色の袋を取り出して放り投げた。薬量の調整用に作っていた予備、最後の手段。雨霧が嚙みちぎって開けると、中にはクッキーが詰まっている。
「一枚ずつ食べて飲み込め。その度に質問する」
「よかった。デザートなら別腹です」ここから先は、いつ急性中毒を起こしてもおかしくない。雨霧の笑みはますます凄絶さを増している。今、自分のことを怪物だか化け物だかと呼んだ男は、同じステージの入り口まで辿り着いた。その高みに続く最後の一線が、今超えられようとしている。ここは本来ならば分かり合えない人と人が、真に向き合える本当の場所。なら、もういいか。雨霧は一度、全てを忘れることにする。薬物量の計算も、財団への背信行為のことも、そして想い人のことも。むき出しの暴力と強制が支配する場で踊る為に。
一枚目は、デフォルメされた虎のクッキーだった。
「尋問官、雨霧霧香。お前の仕事は対象に苦痛を与えることで情報を抜き出すことだ。ここに、お前がこれまで処理したとされる案件のリストがある。うち三名を指名するから、施した処置の詳細を答えてもらう」
目で促されるままに、雨霧は虎を頭から咀嚼し嚥下する。その眼前に、男は何枚かの記録写真を掲げて見せる。どこで入手したのか、それは雨霧がよく使う処置室に設置された定点カメラの静止画像だった。
「一人目、田尻昌彦。指定発番PoI-861-U00372、変身能力を持っていた。覚えているか」
「はい。対象の能力は変身能力及び再生能力でした。ただし後者は当初未知だったため、まず非異常性尋問手順を適用し、痛覚へのアプローチを行う過程で異常性が発現。抵抗したため実力で制圧の後、対抗薬剤をワンショット静脈注射、電気ショックによる変身形態の固定化処置を実施したのち、穿孔器具を中心として口腔内の脅威を取り除いたのち、発話が可能なよう部分的な───」淀みなく話される内容は、いかに合理的に対象を追い詰め情報を取り出すかに特化した手順。そこには遊びや私情はおろか、一切の妥協も無駄もない。雨霧も男も、もはや内容に動ずることもなく淡々と情報の共有を行う。その様子は事務的でありながら厳格で、ある種の引継ぎの儀式のようだ。
一息ついて、クッキーをもう一枚。可愛らしいピンク色の豚を、耳から齧っていく。
「二人目は───」
同様にして唱えられる文言は祝詞を奏上するがごとく。時に声を震わせるのは、感情の昂りなどを意味せず、純粋に肉体の限界を示すものだ。不随意に搾り上げられる食道の動きに蓋をして、滑らかにひそやかに囁かれていく神秘の呪文は、雨霧が仕事の過程で犯した罪を詳述する。
三枚目、確かな予感がある。きっとこれが今宵最後に口にするものになるだろう。恐怖はなく、むしろ早く食べたいという欲が腹の底から手を伸ばし、喉を通り抜けて、舌に乗って伸びていくようだった。摘まみ上げ、その期待に応えようとするが、力が入らず取り落としてしまう。眼で訴えかけると、男が歩み寄って静かに雨霧の手から袋を取り上げる。新しくクッキーを抜き出して、差し出す。その目には感情はなく、ただガラスのようになった瞳が白い髪の女を映している。その眼球の中にも女が居て、喉を晒しながら薄い唇を開け、白い歯の間に赤く蠕動する暗い穴を広げているのが見える。これでいい。乾いた芳ばしい香りの死が近付いてくる。
扉が内向きに吹き飛び、向かいの壁にめり込んだ。すかさず滑り込んでくるのはコートに拳銃の応神。男が雨霧を盾にする。構うものか、早く寄越せ。身の内で何かが喚いたが、次の瞬間、雨霧は信じられないものを見た。
応神が打通したクリアリング済みの経路を辿って来たのか。顔の所々を煤にまみれさせながら、そして豪雨にさらされたと見えて濡れそぼったベージュのスーツに身を包んだ男が、部屋に足を踏み入れた。
本物の、ジョシュア・アイランズ。
偽物と相対するとよく分かる。本物の彼の目は、どんな修羅場の中にあっても、人の意思を信じる輝きを失いはしない。この場にアイランズが来た。その目的は一つしかない。「こんばんは、私はジョシュア・アイランズ。ご存じの通り財団で調停官を務めています。お取込み中のことと思いますが、少しお話をしませんか」
気が付くと応神は銃をおろしている。最後の抵抗として男が押し付けてくるクッキーは、雨霧の弱く引き結ばれた唇と前歯に阻まれ、床に落ちた。転がっていったのを応神が靴の先でキャッチし、踏みつぶす。それを最後に全員が一度動きを止めた。「あなた達のことは少し調べさせてもらいました。イバラと琉璃、読心能力による調査とイメージ伝達で対象に高度な擬態を行えることで、界隈では有名だったと。瑠璃さんは、残念なことでした。我々としても不本意だった」
アイランズは少し俯いて弔意を示したのち、再びまっすぐな視線を男に向ける。
「手短に結論から言いましょう。今投降すれば、あなたの身の安全は保障されます。過度で暴力的な尋問は行われないと約束しましょう」
「よりによって、その約束に何の意味がある。財団には拷問官がいる、その事実はもうここに収めた」
「突然信じろというのは無茶な話です。ただ、あなたも多少はこちらの事情に通じているのでしょう? 財団及びGOCは、現在共同で日本警察の異常性対処部門設立に協力している。この現場を仕切っているのはそこです。あなたの身柄が財団に委ねられることはない」
「その代償は何だ。記録の破棄というなら受け入れられない」
「申し訳ないことですが、それを渡してもらうのに加えて、今後の生活における自由も制限されることになるでしょう。ただし、付随事項については交渉によって決めると彼らに確約させました。なので、私から言えることは一つです。私たちに協力してもらえませんか」「断る」
男は拳銃を雨霧の後頭部に押し当てる。応神が構えようとするのを、半歩出たアイランズが制した。
「いいか、動いたら撃つ」
言いながら、男は片手でカメラのボタンを一つずつ操作する。通信手段は全て殺されていたが、想定の範囲内だ。動画の保存。メモリカードを時間を掛けて取り出して、一歩下がる。
後ろ手に屋上ヘリポートに繋がるドアを開くと間から小さな折り鶴が入って来た。仲間が用意したメッセンジャー。
「最後の機会です。あなたはそのカードを手放してはならない。それはあなたの背後にいる人を満足させる成果であると同時に、あなた自身の存在を担保する交渉材料です。手放してはいけない」
「俺は許せなかっただけだんだよ、あんたらが正常性維持とやらを盾に残虐な手段でも平気で取るって現実が。俺自身の身の安全なんて最初からどうでもいいんだ。だからここに来た」男の目に、僅かに温度が戻る。
「あいつが死んだあと、俺の能力は半分しか発揮できねえんだよ。でも最低限役には立った。後は仲間が上手くやってくれる。作られた現実をぶっ壊して、ヴェールの向こう側に包まれたお前たちの好き勝手を暴いてくれる」
折り鶴の胴体が緩み解け、メモリカードを飲み込んでいく。
「逆に聞かせてくれよ、アイランズさん。あんたは拷問ってのをどう思ってるんだ」
「非人道的な情報入手手段であることは否定しません。しかし、事実として存在する通常の範疇にない対象が、異常性を使って抵抗し、職員に危害が及ぶという場合に対抗的に用いられるという点では必要なものです」
「外交官の言いぐさってやつだ。俺みたいなのにも分かりやすい。でもよ、確かに好きでやってんじゃないってのは、分かった。仕事だもんな、間違えずにやり遂げないといけない。けどそうじゃない、この女だ。雨霧霧香という拷問官が、対象を傷付け、時に殺す。そんな血に染まった女を、お前はどう思っているんだ」男の懐から何枚か写真が零れて滑り落ちる。雨霧が工具を手にして対象に向かっている様子。ドリルを踵に押し当てている様子。鮮血と肉片を全身から滴らせて刃物とアイスピックを片付けている様子。
一瞬の沈黙が流れる。それでもアイランズは表情一つ変えずに答えた。
「雨霧さんの職務内容については、私の職権の及ぶ限りで調べました。とても私には務まらないし、受け入れがたい部分はある。でも、結局のところそれは些細な事に過ぎません。彼女には彼女の信条があり、私には私の信条がある。それらが最も離れた彼女と、言葉を交わし、時を過ごせることが私にとっての喜びですから」
雨霧の中に満ちていた死の気配がたじろいだのが分かる。今放たれたのは無責任な理想論に過ぎないと否定してやりたい。女の趣味が悪すぎると言いたい。只の足搔きだと、諦めてしまえと。ただ、雨霧の中の何かが、たった今まで黙っていた部分が、今はアイランズの流儀にも敬意を示すべきだと呟いた。
雨霧のだらりと垂れ下がった手の先にかすかに固い感触。椅子の座面から生えているレバーだ。頭の後ろの銃口に感覚を集中する。雨霧以外は気付いていないだろう。先ほどからメモリカードの操作やアイランズとの話に注意を割いてか、銃口がほんの少し逸れている。その圧が一番薄くなった瞬間に、雨霧は精一杯の力を指先に込めて、椅子のレバーを引いた。
大柄な体格に合わせられていたのだろう。座高が一気に下がり、知らず寄り掛かっていた男がバランスを崩して引き金を引く。耳元が一瞬熱くなり、轟音が衝撃を伴って頭を揺らしたと思うと、金属音が聴覚を支配した。アイランズが何か手を振り回しながら叫んでいるが、耳鳴りがそれをかき消してしまっている。
そして、応神薙はまるで最初から構えていたかのように二丁のベレッタの照準を定め、同時に弾丸を撃ち放った。一発は折り鶴を、もう一発は男の手首を貫通する。飛び込んできたアイランズが、日頃からは想像もできないような力強さで雨霧の胴を抱いて引く。どうせなら感触をもう少しゆっくりと味わいたかったな、等と思った。
攻守所を変え、今度は応神が前に出る。片手でベレッタを油断なく構えながら、もう片方の手には札。早歩きで近付く最中に、応神の式神が異常を検知した。空中で胴を撃ち抜かれたはずの折り鶴が、男の首筋をよじ登っている。翼の先、くちばし、随所に火が灯り、じわじわと燃え広がっている。
「アイランズ、下がるぞ!」
咄嗟の判断で、応神は身に纏っていた防弾コートを脱ぎ捨てる。札を貼り付けて強化術式を付与。そのまま男の体表面を添うように投げる。広がりながら飛んだコートは、過たず折り鶴を絡め取って床に落ち、丸まった。だが悠長に見届ける暇はなく、部屋の外へと三人一塊になって飛び出す。一瞬のインターバルのうちに小さな爆音がしたのを雨霧は微かに聞いた気がした。
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頭がふらつく。着こみ過ぎた時のように暑く重く感じる体を起こそうとすると、額に大きな手が当てられて、姿勢を変えないようにと促された。まだ寝ていていいらしい。鳩尾の少し下に何かを貼られている気配。じんわりと温かみを感じた後、数秒で外された。それから、背に手を入れられてゆっくりと起き上がるのを助けてもらう。体を支えきれず倒れそうになるのを、誰かもう一人が、優しく受け止めて安定させてくれた。
「最低限の解毒は完了した。念の為このまま病院に行けば大丈夫だ」
「私が付き添います」
「頼む。しかし、後詰めの奴らえらく遅かったな。結局例の刑事さん達のバックアップがなきゃ危なかった」
「よく礼を言いましょう。今後のポイントにもなる」応神は手際よく片付けを済ませていく。手持無沙汰なアイランズは、突然、感情のない声で言った。
「見えないだけで、私の手だって、同じだけの血に汚れています。いえ、他人に手を汚させている分だけもっと酷い……。今日もあなたにも随分負担を掛けました」
「だが少なくとも、今日は誰も死ななかった。あの野郎も命は取り留めたらしいし、お嬢ちゃんも生き残った。俺たちの勝ちだ」
「それでも───」応神はアイランズの額を軽く突く。鈍く重い音がした。
「うだうだ言いなさんな。キツイが遂行可能、つまり適切な指示だった。あんたが筋を通し続ける限り、俺はいつだって力になってやるさ───。ったく、普段ならそんな事で迷わないだろ。アイランズ調停官殿も人の子か」
二人は顔を見合わせて、低く笑い合った。
「それはそうと、あまりに内部情報が筒抜けでした。取り調べ画像なんていったい誰が」
「まず間違いなく内通者だな。ま、ゆくゆく調べがつくさ。ほら、終わりだ。後はポットもってけ」
「解毒剤ですか」
「我が家秘伝のな。地獄のように熱く悪魔のように黒い。道中飲ませてやれ」ばたん、と外からドアが閉められる音がして、エンジン音と振動が伝わってくる。車だろう。目は全く見えないままだが、先ほどまで感じていた体の重さは少しずつ消えていくようだった。思い切って声を出すと、掠れていたが思ったよりもしっかりと言葉が紡がれる。
「どうして私が危ないって気付いたんですか」
「八家さんが命令の出所を不審がってしつこく問い合わせを掛けたんです。それなりに巧妙に偽装されていたんですが、あの人の目はごまかせなかった」
「複雑な気分です。あの陰湿さもたまには役に立つんですね」
「優秀な方です、本当に」微妙に見解が食い違う中、アイランズは腕の中で脱力する雨霧の顔色を窺った。まだ朦朧としているのかもしれない。大人しく身を預けてくるその顔色はいつにも増して白く、アイランズは目元に張り付く髪をそっとよけてやった。
「どうしてそんな無茶を」
「話したくありません」
「そう、ですね。今は休んで」雨霧はアイランズの袖を握る。もう少し話を続けたいという意思表示。聞いて欲しいという気持ちの現れ。
「今回の犯人、ヴェールの向こうで行われていることを暴くって言っていました。以前私が担当した中でも何度か同じような件が」
「ええ。ここのところ上も警戒を強めて、調査を進めています」
「もし、この世界の異常性が知れ渡った時。私の行いはきっと、正しくないものとして裁かれるのでしょうね」
「それは」あり得たとして当分先のことだ、とは言えなかった。財団のことだ、緊急避難としての実力行使を許容する枠組みを作ったうえで、通常技術による残虐な尋問を段階的に代替しつつ、過去については不遡及として扱う方針を取るだろう。だが、それは同時に大きな非難を浴びることになる。組織力学の結果として責任を押し付けられるのはどの部署か、明白なことだった。
「分かってはいるつもりです。いつの日か、私は罪を償う。私はそれを受け入れます。今日だって、助けが来なければそうするつもりだった。けどアイランズさんは言ってくれましたね。信条の違う私と、共に過ごすことが喜びだと。私もそう思います」
「雨霧さん、無理してませんか。一度飲み物を」魔法瓶に入っているのは黒い解毒剤。注がれたコップを素直に受け取り、雨霧は一口飲んで軽くせき込む。アイランズが背をさすってやると、もう一口飲んでコップを置いた。
「私が断罪されるとき、あなたは私の側には立つべきじゃありません。異なる、交わらない道で歩き続けることが私たちなら。でも、あなたの理想で私はきっと救われない。一緒に居られない時が遠からず来るのなら、私はどうしたらいいんでしょうね。私は、どうやって、私自身の行く末を───」
解毒剤の作用だろうか、瞼が重くなる。アイランズの呼吸を感じながら、雨霧は安心しきって眠りへと落ちていく。
夢を見ている。ここ数年内で最も幸福を感じた瞬間の再演だとすぐに分かった。自分は和服を着てスーツ姿のアイランズを前にしている。「雨霧さんは、どうして私にお見合いを持ち掛けて下さったんですか」
その問いに答えるのは簡単だが難しい。嫉妬心、独占欲、感情の勢いのままに。直接的に端的に述べるならその辺りになるだろう。仕事中は極めて冷徹に他者に加害する雨霧拷問官ともあろうものが、心の平穏を千々に乱された末に取った行動。
でも、その乱心を周囲の人たちは喜んで応援してくれた。いつの日か約束された破滅を迎える女が、財団外交の担い手である調停官と結ばれるという恐ろしい未来を、自分はどうして夢見てしまったのだろう。
「それは」
信条の違いを戦わせる時間が楽しかったから。知らない世界で生きる人と違った生き方のまま一緒に過ごせることが嬉しかったから。あの日の想いを、口先の表現だけ弄して述べるならそうなるだろうけど、きっとまだもう一つ、自分の心を遡ることが出来る。雨霧はそれを素直に口にすることにした。
「あなたのことを、もっと知りたいと思ったからです。ジョシュア・アイランズさん。ただ、それだけです」
「そうですか」本来このような場には相応しくない、飾り気のないつまらない答えだった。なのに、どうしてだろう。アイランズは頬を紅潮させ、少し背を丸めて、熱いお茶を急いで飲もうとして舌を火傷していた。こんなに動揺しやすくて本業でも大丈夫なのか、と思わず笑ってしまった雨霧に、アイランズも照れ笑いを返した。
再び目覚めると、病室に寝かされていた。真夜中だろう。体の具合は嘘のようによかった。手に熱を感じて隣を見ると、アイランズが椅子の上で珍妙な姿勢のまま眠っている。来客用か、ひじ掛けの付いたそれなりに立派な椅子の上で体を折り曲げ、片腕を体と椅子の間に挟んで、横向きにした背もたれに体重を預けてバランスを取っている。その状態から伸ばされた手が、雨霧の手にそっと重ねられているのだった。雨霧はアイランズが椅子の上で仮眠する名人として名高いのを思い出す。手を動かさないように、彼を起こさないように、雨霧はそっと身を起こす。アイランズは自分が眠っているベッドに崩れ落ちるのを良しとしなかったのだろう。交際相手だろうと意識のない相手に無遠慮に近付きたくないと。だとしても、その解決策がこのオブジェかと思うと微笑ましい。同時に、それがアイランズなりの意地の通し方なのだと実感する。アイランズが示す、最善を尽くして信条を貫くという覚悟の姿勢。
雨霧は、あの極限状態における自分の心の動きについて思い返した。アイランズが駆けつけるその瞬間まで、自分は死ぬつもりだった。尋問された果てにそうなるのなら、これ以上ない終わりの形だと、そう思えたから。だというのに、アイランズの顔を一目見た瞬間に、願ってしまった。生きたい、この人と歩いていきたい。
それは過分な欲張りかもしれない。それでも、彼がこうして眠っていてくれることが雨霧には嬉しかった。そう、嬉しかったのだ。アイランズが忙しい合間に会いに来てくれること、一緒に甘いものを食べてくれること、お見合いを受けてくれたこと、そして危機に駆け付けてくれたこと。
ならば、いつか終わりが来ても構わない。胸を張って、己の信条を誇りながら裁かれる日を目指していこう。この人の隣で。
ふと、悪戯を思いつく。雨霧の手袋は、おそらく治療行為の中で外されていた。普段アイランズと手をつなぐ時、いつもはただ普通に手を重ねるだけだったが、世の中には、その、あるというではないか。恋人繋ぎというやつが。
一度アイランズの腕を持ち上げて手を離し、改めて指と指を絡めて握りなおしてみる。その感触は思った以上にこそばゆく、密着感が強いものだ。あ、これはダメだ、まだ自分たちには早い。調子に乗った。後悔が頭をぐるぐると渦巻いて、雨霧は急いで指を解こうとする。
「え、あれ」
だが、何故だろう。アイランズの指が急に固くなり、外すことが出来ない。まだ起きた様子がないのに。だがよくよく注意してみれば、常夜灯の下でその頬と耳が少し染まっているのを雨霧は発見する。どうせ一つ露見したんだ、悪戯を重ねてやろう。雨霧はその耳元に口を寄せて囁いた。
「アイランズさん、次は本当に二人で、ディナーに行きましょうね。デザートは、クッキー以外で」
アイランズが辛うじて聞き取れるような寝息を立てた。
二人に幸がありますように