より良い人間とは? Part1
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前回のネクサス:
神罰 Part3

フランス、パリ、1800

ピエールは初め、どこを見ればいいのかわからなかった。だから結局この弱冠14歳の茶髪の少年は、自分のボロのシャツ恥ずかしそうに見つめることにしたのだった。そのシャツは同じように茶色く汚れたズボンと靴以外に、彼がこの場で親しみを覚える唯一のものであった。この部屋はあまりにも華美な内装をしていた。高価な絨毯が石床の上に敷かれ、光沢のあるテーブルに向かい合うように刺繍が施されたカウチが2脚置かれている。そして数台のサイドテーブルの上には芸術的な花瓶や、他の価値の高そうな品々が置かれていた。
彼は路地で男二人に突然捕らわれてここに連れて来られていた。男たちが警備員のような服装をしていたせいで、誰もピエールの叫び声に反応することはなかったのだ。
彼と同じ部屋には金のボタンが付いた青いダブレットを着た一人の男がいた。ズボンも彼は着こなしていて、その下にある黒い革製のブーツにも同じことが言えた。多くの貴族の印象と同じく角張った顔と鉤鼻を持つこの男は灰色の見事な頭髪をしていて、その左腕の下には三角帽子を持っていた。そして彼は柔和な微笑みを浮かべた。
「ピエール・ラパンだね?」彼はそう尋ねた。
ピエールは少し戸惑いながらも頷いた。
「えっと、俺はここで何をしたら? それに貴方は誰?」
「ああ、私はなんて失礼な真似を。私の名前はシャルル・ドゥ・ラ・クロワ。君を私の弟子にしたくてここに連れてきたんだ」
ピエールは色々なことを予想していたが、そんなことはなかった。
「弟子?」とピエールは復唱した。「でも先生、俺は文字が読めないんです! それに俺、路上で暮らしているし――」
「知っているよ、ピエール」ドゥ・ラ・クロワは彼の言葉を遮った。「私は君の現状を知っている。君のお父さまは第二次対仏同盟戦争で亡くなり、お母さまとご兄弟は破傷風で亡くなっているね」
ピエールは悲しそうに俯いた。ドゥ・ラ・クロワは頭を振った。
「それほどまでに多くの死を、大人になる前に経験したんだ。子どもの心が壊れてしまうには十分すぎる。でも君は、もがきながらも前に進んだ。君は聡い子だよ、ピエール。そしてその知性は現代では珍しい強みになる。さあ答えておくれ、君も家族のような最期を迎えたいのかな?」
「い、いいえ、先生」
「いい返事だ。さて、ピエール。ここで君の人生にチャンスを与えよう。拒否すれば、君を路地に送り返して全部元通りだ。弟子になれば、私たちは共に死を克服することになるだろう。さあどうする?」
ピエールはさほど長くは考え込まなかった。何を聞けばいいのかはわからなかったが、路上の荷車の下で眠るよりは暖かい食事とベッドは間違いなく魅力的なものだった。
「俺、えっと、光栄に思います、先生」
ドゥ・ラ・クロワは気取った笑みを浮かべた。
「それではようこそ、ピエール。ヒューマニストの貴族たちへ」

ドイツ、ドレスデン、現在

誰もが長所と短所を持っている。スポーツは得意だが数学は全くという人もいる。自然科学はとても得意なのに社会的能力がない人もいる。
クロエは非常に創造性があって、歴史が好きだった。
だが彼女がどんなに想像力を働かせたとしても、学校で質問される内容を全部思い出せるわけではなかった。
授業は今、フランス革命のところで、後でクロエはその時期についてのスピーチを準備しておく必要があった。その辺りの時期はあまり面白いことが起ったわけではなかったため、全くもって苛立たしい課題であった。そう、今のフランスには憲法があるが、誰がそれに興味があると言うのだろうか? 彼女はナポレオンの台頭からやりたかったのだが、残念ながらそのテーマは別の誰かのところへ行ってしまったのだ。今の彼女はフランス人の日常に取り組んで、そのために扱うに足る資料を見つけなければならなかった。
クロエはペンで耳の後ろをかいた。すると、かなり大きな音が鳴った。
彼女はその軋むような音の出所がクローゼットからだとわかるまで、目の前に驚きながらペンを掲げていた。そしてクローゼットはたった今開かれた。
不気味に揺れるドアの裏からニヤニヤと笑うエリが現れた。そう、少なくとも頭の半分は。残りの部分はネクサスへとつながる黒色の中にあるのだった。
彼女との最後の出会いから1週間が過ぎていた。
「エリ!」クロエはそう叫んだ。「そうやって驚かさないで!」
そう叫びはしたが、彼女はすぐに立ち上がってクローゼットへと駆け寄った。
「あらら、ごめんね」エリは謝るとクロエを抱きしめようとネクサスから出てきた。今日の彼女は青いジーンズに"Meine Augen sind weiter oben, Arschloch."1と書かれた赤いTシャツを着ていた。
「また会えて嬉しい。髪をいじったのね、私は好き」
「あ、えっと、その……」
クロエの生え際はクー神に出会った後で白くなっていた。今のところは偶然でしか見えなかったが、髪が変わらず伸び続けているせいで日に日にその白さを増していっていた。いっそう速さを増していくそれは、彼女にとっては……
「あー……」エリからそんな声が漏れた。「多分それはクーを吸収した反動ね。神格は体の化学反応に変な影響を与える可能性があるの。申し訳ないんだけど、私じゃ君を助けられない。髪を染めることしか手伝えないわ」
言うは易く行うは難し。クロエはお小遣いをそんなに貰えていなかったし、このお金の量では毛染めを買うより目の前の目標の方が大事だと考えていた。
「ねぇ、白雪みたいな髪は独自の売りになるわよ」エリはそう言って彼女を慰めた。「上手くやれば皆の視線を集められるし」
「そんなに上手くいくかわかんないよ。例えばさ、私は貴女みたいに見せることはできないし」
「あら、バカ女の格好は君には向いてないって。信じて」エリはベテランの自信をもって否定をした。「私はね、自分たちよりも私の方がバカだって思わせられるからこの格好が特に気に入っているのよ。彼らがそれが逆だったって気が付いた時の表情が大好きなの。へへへ……ところで今何やってるの? 宿題?」
エリはクロエの机の状態に気が付き、彼女がこれまで書いていたものを物珍しそうに見つめた。
「歴史の宿題……ふーん、まだ飢饉に本気で取り組めてないのね。あの頃は本当に独創的だったわ」
「その頃の知識があるの?」クロエは驚いて尋ねた。
「私はその時代にいたのよ、クロエ」
そのセリフを理解するのに彼女は少々時間を要した。
「どういうこと?」
「ネクサスを使えばどこにでも行けるのよ、クロエ。別の宇宙だけじゃなくて、過去にも未來にもね。どうして前回行ったときにいなくなってた時間が90分ですんだんだと思う? 信じられないなら見せてあげるけど」
「見てみたいな……」そうクロエは言った。
「それじゃあ一緒においで。過去に行こうか」
彼女はやる気を滲ませながら振り返り、クローゼットへと向かった。だが彼女はクロエの不安を勘定には入れていなかった。
「ま、ま、待ってよ。先にここで宿題やらなきゃ、エリ!」
エリは途中で立ち止まって頭を回した。その左眉が上へと持ち上がる。
「時間旅行だよ、クロエ。私たちは世界のあらゆる時間を掌握しているの。それ以上はしてないけど。考えても見て。前回は1時間いなかっただけ、今回は練習してるのよ。正確な時間に合わせるのは細かくバランスを取り続けているようなものだけど、今ならいない時間を20分に短縮できると思うわ」
その言葉のせいで、義務感ともう一度何かエキサイティングな体験をしたいという願望の間でクロエは引き裂かれることとなった。エリはそれを見抜いていたようで、助け船を出した。
「チョクで経験したらもっと上手くスピーチができると思わない?」
クロエは何かを言おうとしたが、息を吸い込んだまま戸惑っていた。
エリは正しかったのだ……
「わたしぃ、例外をつくってもぉいいんだけどなあ……」
クロエはエリの目を見るのを避けていたが、彼女の勝利の目線を肌で感じ取った。
ゆっくりとした足取りで、彼女はポータルへと近づいて行った……

フランス、パリ、1801

いつものようにヒューマニスト総会が予定されている時期に、総会に参加しようとフランス全土にいる何十人もの素晴らしき裕福な紳士たちが移動していた。彼らは今回、パリで落ち合うことになっていたのだ。
総会まではまだ1日あったが、数名の貴族たちは情報交換や世界についての議論を交わすために事前に集まっていた。
丸々とした頭には小さすぎる印象を受ける顔をした肥満の男であるフィリップ・アンブロワーズもまた、この計画に従っていた。今の彼は同じ地位の多くの人々のように、白いズボンに白いシャツ、黒の革製ブーツと青いジャケットを着ている。その茶髪からは汗が滲み出していた。そのせいでアヴィニョン近郊の風景を描いた絵画を眺める彼は、かなり間抜けな印象を受けた。ただし誰もそれを指摘したことがなかったため、彼は自分が他人に与える影響を自覚してはいなかった。
彼が注目していた絵の掛けられた壁は他の壁と同じように木で覆われた、あらゆる種類の陶器とガラス製品で装飾されたサロンの壁であった。大きな暖炉の側には椅子が集団で置かれ、その全てにサイドテーブルが付いている。幾つかの窓からは光が差し込んでいた。
「好みに合うものを見つけられたようですね」
白い両開きの扉からドゥ・ラ・クロワが入って来た。アンブロワーズは彼の方へとゆっくり振り返ったが、その動作は穏やかで興味深そうにしているカバのような印象を抱かせた。
「ええまあ。私は昔この辺りにいたんですが、よく描けていますよ。素晴らしい場所ですよ、アヴィニョンは。そういう表現でしか勧められません。どれほどの費用がかかったのでしょうか?」
惜しいな、ドゥ・ラ・クロワはそう思った。彼は既にアンブロワーズがここにいる理由に思い至っていた。
「それは贈り物でね。どれほどの価値があるのかわからないのです。こちらへの旅は楽しいものでしたか?」
「比較的苦しいものでしたね。それに私たちはこの町でほとんど動いていないので。パリはいつも忙しなくて、まるでアリの巣穴にいるようでした」
「そうですね、パリはいつも少し面倒だ。何かお飲みになられますか?」
笑うんだ。ただ笑い続けろ……
「ご親切にありがとうございます。ですが残念なことに、それに付け込むには、私はあまりにも悪い知らせを持って来ているのです」
ドゥ・ラ・クロワは内心呆れた顔をしていた。惨めな偽善者めが……
「え? ではどんな悲しいお知らせがあるのでしょうか?」
アンブロワーズが同情が籠った目線で値踏みをすると、途端にドゥ・ラ・クロワの頭に血が昇って行った。
「貴方には正直でありたいのです、友よ。優れたる人を作成する貴方のアプローチは他の貴族たちに必ずしも理解されているわけではないのです。それに貴方は3年間、何の結果も出せていません。すぐにそれを解決しなければ、総会は資金を削減するか取り止めるかと思われます」
予想通りの内容だ……そう、ドゥ・ラ・クロワの研究は難しく、時間と莫大な費用がかかるものであった。だが重要なのは最終結果だ! 他の貴族どもは信じられない程目先のことしか見えていない。彼のアイデアは革命的なものだった! 過去に固執していては、普通の人間の想像を超えるものなど作ることはできない。ドゥ・ラ・クロワが自分の研究に全ての財産を費やしたという純然たる事実は、彼がそれをどれだけ信じているかを現に示すはずだったのだが、それは違った。会費を払うのがやっとの男への資金を断つのは当然のことだったのだ。だがドゥ・ラ・クロワは多くの失敗の果てについに一歩手前に来たのだ……唯一の救いがそこに……
「えっと、実は少し前に大発見をしたんですよ、親愛なるアンブロワーズ」
アンブロワーズはそれに耳を傾けた。
「大発見、と言いました? 何故私がそれを事前に聞いていないのでしょうか? 見せてもらっても?」
ドゥ・ラ・クロワにはわずかに汗が滲んでいた。彼はただ焦って墓穴を掘っただけであった……
あの少年はまだ準備ができていない。
ならば即興で行くのみだ……
「まあ、明日の総会のために取っておきたかったのです。サプライズとしてね。不死鳥のように灰から復活するために。わかるでしょう?」
アンブロワーズは同意の意を込めて頷いた。
「へぇ、わかりました。ですがね、私はたった今興味があるのです。見せてください」
ドゥ・ラ・クロワは作り物の笑みを浮かべて後を付いてくるように言った。ゆっくりとだ。何しろアンブロワーズが太り過ぎていたせいで著しく歩みが遅くなっていたからだ。ドゥ・ラ・クロワは彼を転がしてしまえばもっと早く行けるのではないか、と少々考えていた……
二人の貴族たちはドゥ・ラ・クロワの所有する2階へと上がり、オーク製の堅牢なドアと一人の警備員が守る部屋へと足を運んだ。その警備員は無精髭を生やした日雇い労働者であった。何しろ先に言ったように、ドゥ・ラ・クロワには経済的な流動性が全くないからだ。
「ムッシュ、ドゥ・ラ・クロワ」彼はできるだけ丁寧な口調で答えた。
「彼は起きたか?」話しかけられた方は質問だけを返した。
「全くわかんないです。ずっと前は大声で悪態をついてたんですが、今はすっかり静かになってて」
彼がまた何か怪我をしたのに違いない、とドゥ・ラ・クロワは諦めたように思った。作品の奇行を直すのはかなり難しいことだとは思われるが、結局のところローマは1日にしてならずだ。
彼は重たい錬鉄製の鍵を取り出し、溜息を吐きながらドアを開いた。それは嫌な軋み音を立てながら開いていった。
そして破壊された景色が視界に入った。
多くの本が並べられた棚は無傷であったが、狭いベッドはそこに嵌めこまれていた窓を壊してしまうための破壊槌として用いられたようだ。シーツは即席ロープになるように結ばれて窓枠に固定され、外の地面から約2mのところまで垂らされていた。
ドゥ・ラ・クロワは、恐らく大声でしていた罵倒が脱出の時に必然的に発生する騒音を覆い隠したに違いないと思い至った。1階にいる者には聞こえるはずのない騒音を。
青ざめたドゥ・ラ・クロワと同じく、傑作が逃げ出したことに気が付いたアンブロワーズは少し驚いた様子でその部屋全体を見回した。
「貴方の財政には寒風が吹きすさんでいるようだ」そう彼は言った。
目に見えて汗をかきながら、後でこの日雇いに詳しい話を聞こうと決意したドゥ・ラ・クロワは太った男へと向き直り、落ち着き払った様子で両手を挙げた。
「ご心配なく、まだ時間はあります。きっと探し出しますよ。明日のヒューマニスト総会には共に出席すると誓いましょう」
アンブロワーズは彼を疑わし気に推し量った。
「ドゥ・ラ・クロワ、最後のチャンスです、正直に言ってしまえば。最初にその大発見について語り、次にそれを見せてください。私以外の誰も気が付かなかったのは幸運でしたね」
「勿論ですとも、アンブロワーズ。ですがご心配なく、何か思いつきます。結局のところ、それが私たちの組織の特徴ですから」
ドゥ・ラ・クロワは再びドアを閉じたが、その時どうやら彼は無意識の内に錬鉄製のノブを握り潰してしまっていた。彼の後ろに立っていた日雇いの膝は嫌な予感を抱いて震え始めていた……

ネクサス、 ???

読者は恐らくご存じだろう。初見で顎が外れてしまうような信じられない光景というものは幾らか存在する。例えば、別人が新しくさらにいい感じにアパートを飾り付けたり、自分のパートナーが浮気していたり。
クロエにとってのそれは、初めてはっきりとした意識でネクサスに立ち入った時に自分の目が皿のように大きくなっていることであった。
前回のエリはそれを宇宙船みたいなものだと言ったが、それが本当ならとても巨大な宇宙船に違いなかった。なぜならそれは、青い空と太陽が雲間から輝いていたからだ。クロエは柔らかい草の上を歩いていて、それは砂利道へとつながっていた。そして、その道は彼女がこれまで見てきた中で多分一番ヘンテコだと思う家に続いていた。
最初に言及されるべきはその塗りだ。この家は均一的な色合いではなく、様々な色や模様で塗られていた。その全体像はかつて他の虹とは違うものになろうとした虹、というのが手っ取り早く説明できるものだった。建築家も恐らく似たようなことを決めたのだろう。なぜなら小塔が幾つか付いた6階建てらしきこの家は、不可能な形状に捻じれ曲がっていたからだ。そして、ここの全てのものは信じられないほどリアルに見えた。クロエ自身よりもリアルに……
「あ、あれって貴女の家なの?」
彼女の側に立つエリはボトルから一口飲んだところで、それにすぐには答えてくれなかった。
「そう、私が建てたの。この色好き?」
クロエにはその家がヘンテコに見えていたが、それでも頷いた。
「これを建てた時、素面だった?」
エリは含み笑いだけを返した。
「ううん、どーして?」
「いや別に……えっと、あれが宇宙船?」
エリは少し混乱した様子だったが、その後に顔に理解の色を浮かべた。
「え? 違うわ。ネクサスを宇宙船みたいなものだって想像してって言っただけ。だけど、それはただのその場しのぎだったの。ここは移動手段どころの話じゃないわ。ここは私の小さなプライベート次元。ここなら私のやりたいことが何でもできるの」
「まあねぇ、警察がいないから確かに簡単だね」
エリは愉快そうに眉を上げると、鼻からスミレを取り出した。
「小さな次元で考えてるのね。ほら見て」
ちょうど歩いていたクロエは、突然自分の足が地面の感触を捉えなくなって縮みあがった。混乱しながら下を向いた彼女は、自分がゆっくりと後ろの方へ倒れていっているのに気が付いた。
地面から2cm上のところで。
「な――」
「無重力よ」しっかりと地面に立ったままでエリはそう説明した。「楽しいでしょ?」
クロエはどうしようもなくなって手足をバタつかせた。彼女は何も言いはしなかったが、パニックが顔に広がっていっていた。エリは眉をしかめた。
「あー、別の想像をしてたんだけど……」
彼女はクロエを正しい向きに直すと、地面に押し戻した。こうして少女は重力が再び自分にかかっていることを感じ、安心感を覚えたのだった。
彼女がショック状態から回復するには少々時間がかかった。
「ここなら本当に何でもできるの?」
エリは頷いた。
「ネクサスの特性のおかげでね。唯一ダメなところは、ここで私が作った物を別の宇宙には持ち込めないってとこ。私が作った物はネクサスを離れた途端に存在がなくなってしまうの。そのせいでここで作った物を食べられないのはかなり面倒ね。そんなことやったら私の体の大事なトコがなくなっちゃう。空気だってどこかから持って来なくちゃならなかったし……」
彼女らは家のドアに辿り着いた。エリがドアに手を伸ばす前に、反対側からドアはディーンによって開かれていた。彼はベスト清掃員仮装コンテストに参加しているかのような出で立ちであった。彼は緑の小さな花が付いた青いエプロンに紫の三角巾を頭に巻き、ゴム手袋を付けている。その右手にはモップの入った掃除用バケツを持っていた。
「おっと、ハロー、クロエ。ここの掃除をしていたところだ」
「掃除は忘れなさい、ディーン」エリは手を振って止めるように言った。「見に行くものがあるの。フランスにね。19世紀初頭の」
ディーンは呆れたような表情をした。
「あの当時はひどく不潔だった……エリ、待ってろ。俺が家を――」
エリは指をパチンと鳴らした。それによる変化は、バケツの水がかなり汚れたこと以外にはほとんどなかった。そして部屋の中が突然綺麗になったようだった……
「もっと頻繁にそれをやるべきだ、エリ」そうディーンは言った。「それか、二度とネクサスが汚れないようにいい加減に設定するかだ」
「それならここから貴方が出れないようにするわよ」エリはそう言うと、ディーンの横を通り過ぎてクロエを家の中へと押し入れた。
「しばらく準備してて。私はクロエを見てるから。後、水を捨てといて」
「承知いたしました、皇帝陛下」ロボットのような声でそう言うと、ディーンは頭を振って踵を返した。
「ま、待って! どこ行くの?」先の見えない家の廊下とホールをエリに連れられて通り過ぎながら、クロエはそう尋ねた。その床はらせん状に捻じれているところもあれば、天井に繋がっているところや壁を貫通しているところすらあった。
「そうね、過去にその恰好で現れたら幾つか質問を受けなくちゃならなくなるでしょ。だからさっさと着替えよう」エリはそう説明すると、恐らく多元宇宙盛大の衣装部屋へと続くドアを開けた。
その部屋は家の中には絶対に収まらないほど大きなものであった。エリはどうやら地球の全人口に服を賄えるほどの衣装を持っているらしい。クロエは普段着や、石器時代のものと思われる動物の皮を繋ぎ合わせた服を含むあらゆる時代の歴史的な衣服があるのを見た。それから、襟に長い上向きのトゲが付いた青いマントや、機械のような見た目をしたドレス、エリが定期的に餌をやらなくてはならないと予想されるガウンなど、彼女にとっては全く新しいデザインの衣装があった。さらにクマの着ぐるみや宇宙服、養蜂家の服のような馬鹿げたものもあり、小さな皿すら覆うのに足りない生地の水着のようなクロエが顔を赤らめてしまうものもあった。
クロエがその無数の衣装を眺めている間、エリはかなり質素な袖のないワンピースを取り出し、それに赤いショールを纏わせた。さらにふくらはぎ辺りを紐で留める靴を取り出した。すぐさまクロエはエリの計画に致命的な欠陥があることに気が付いた。
「エリ、それは私には大きすぎるよ」
エリは少しだけ動きを止めると目測をしているようだった。すると突然、その服がクロエにぴったりのサイズに縮んでいった。
「問題解決ね」彼女はニヤリと笑ってそう言い放った。
「でも――エリ、ここの中で作られたものはネクサスの外じゃ存在できないって言ってなかった? 着いた途端に通りで下着姿になっちゃうよ!」
「落ち着いて」エリはそう言い聞かせた。「私はなんにも作ってないし、それどころか壊してるのよ。ネクサスから出てもワンピースは残り続けるの」
クロエは嫌な気持ちになった。
「私なんかに貴女の服を合わせる必要なんてなかったのに。元のサイズに戻すことってできないよね?」
エリはそれを否定した。
「とにかく服が多すぎるのよ。それにこれをどれだけ安く仕入れたのか、信じられないだろうね」
「でも安いっていっても、きっとまだ結構高いんだって。高価そうだよ」
「それはまあ、絹で織られたモスリンだけど。値段は気にしなくてもいいの。盗んできたから」
場に少し沈黙が訪れた。
「なんて?」
「信じられないだろうけど、って言ったもの。心配しないで。私がこれを手に入れた宇宙の売人はどっちみち2時間後に全く別の問題に直面したから。あそこのマルセイユでリスとの戦争がいきなり起こったの」
クロエには懐疑的な表情を浮かべるしかなかった。
「そう、リスなの、クロエ。あの小さな獣たちは君が思ってるよりずうっと賢いの。あの宇宙では惑星の支配種族になることを決心したのね。彼らが上手くやれたって私は信じてるわ。えーと……」
クロエはまだじっと彼女を見つめるだけだった。エリは険しい顔をした。
「クロエ、多元宇宙で起こらないことなんてないの。ポルノ雑誌だけで構成されてる宇宙とか、地球がサバの群れに支配されている宇宙とかに私、行ったことあるもの。クローゼットから小さな次元に入ることくらいあり得ないと思わない?」
クロエはやはり何も言わなかったが、その表情は考え込んだ末に納得したことを表していた。
「じゃあそうね、ここのどこかに更衣室があるの。それを持って行って着替えたら、すぐに玄関でディーンと落ち合おうか」

クロエには当時の人間がそんな服をどういう風に着ていたか本当にわからなかったせいで、"すぐ"は少し長いものとなってしまった。少し遅れてエリは彼女と似たような恰好をしてやって来たが、そのショールだけは青かった。最初はクロエの格好を見て彼女はニヤニヤしていたが、次第に眉をしかめた。
「その腕、どうしたの?」
その問いは彼女の前腕にある数本のカサブタになったみみずばれのことを指していた。
「金網の柵に引っ掛かっちゃって」そうクロエは説明した。
彼女はいつそうなったのか認識していなかったが、もしもしっかりと思い出せていたら、当時の彼女は近所の近道を試そうと夢中になって決心していたのだった……
「ふーん……」とエリは言った。「ちょっと待って、それ裏返しに着てる」
彼女はクロエのワンピースを頭上へと引っ張ると、大体1分くらい黙ってその背中を見つめていた。
「エリ?」クロエは尋ねた。「大丈夫?」
彼女がエリの方へと振り向くと、エリはすぐにぎこちなく頷いた。
彼女はクロエが正しくワンピースを着るのを手伝って、もう一つの部屋へと連れ出した。その部屋はクロエが念入りに探し回ってようやく見つけたもので、化粧室のようだった。世間知らずの人間はこの部屋を化学実験室と見間違ったことだろう。
「ここにはこんなに大きな部屋しかないの?」クロエは少し困惑した様子でそう尋ねた。
「そうね。大きな冷蔵庫が見えるまで待ってて」
その間にエリは透明なポマードのようなものをかき混ぜてクロエの怪我へと塗った。するとたちまちそれは彼女の肌の色と質感になった。その下にカサブタはもう見えなかった。
「少しは見栄えよくしておきたいよね?」とエリは言った。「ちょっと乾かしておいてね。次にシャワーを浴びるまでは持続するから。生分解性ってこと」
この美容的な緊急措置をした後で、二人はまた曲がりくねった道を通って玄関へと戻り、そこで示し合わせたかのようにディーンと落ち合った。クロエには彼の姿が馬鹿らしく見えたので、吹き出さないようにしなくてはならなかった。そのズボンは胃の上にまで引き上げられていて、ふくらはぎまである厚底ブーツと、燕尾服の先祖のような耳にまで届く襟の付いた何かを不快そうに着ていた。
彼は二人を探るように見た。
「エリ、あんたのハンドバッグ」
エリは自分の持っていた黒いハンドバッグに目線を落とすと呆れたような表情をした。
「誰も気が付かないわよ、ディーン。でも貴方が言うんなら……」
エリはバッグから金属製の小さな十字架を取り出すと、それをクロエに渡した。それからディーンと自分にもそれを用意した。
「これなに?」クロエはそう尋ねた。
「AATだけど」と彼女は説明した。「アンチ・アテンション・タスマリン。人が私たちを見落としやすくなるわ。ただし、見えなくさせるわけじゃない。逃げるのには役立つんだけど、誰かが私たちに注目してたら効果がなくなるの。例えば、私たちが注目し合ってたりね。だから誰かにぶつかったり、話しかけたりはしないで。静かにしておくのがいいわ」
「わかった……」
「よろしい」はしゃぎながらエリは叫んだ。「それじゃあ、いっくぞー!」
彼らの目の前には宙に浮いた黒いポータルが出現し、それはすぐさま長方形に姿を変えた。

フランス、パリ、1801

クロエは自分が路地裏にいることに気が付いた。現在ポータルはパブの裏口を塞いでいて、石畳の道へと続いていた。彼女に続いてネクサスから出て来たディーンは、エリを咎めるような表情をした。
「君が着替えている間に適切な出現場所を選んでたの。大通りに出ちゃったら大騒ぎになるし」エリはネクサスを閉じながらそう説明した。
「靴を磨いたばかりだったのに……」ディーンが苛立ちながらそう言うと、三人は路地裏から出て都会の雑踏へと足を踏み入れたのだった。
「ここは1801年のパリのはず。エッフェル塔は85年に建てられたものだから見るのは無理そうね。凱旋門はまだ5つだし」そうエリは話を切り出した。
クロエはそれを半分くらいしか聞いていなかった。印象に残るものがあり過ぎたせいだ。
一番気にかかったものは、ディーンが口を手で覆うほどの臭いであった。ジムに行って馬糞の臭いを嗅げば、路上に立ち込める香りのようなものを味わえる。クロエは自分が調べたことらか、この時間の文化圏の人間はあまり頻繁に体を洗っていないことを知っていたが、ここは彼女の予想の全てを超えてしまっていた。
翻訳パッチのおかげで、路上で何が話され、叫ばれているのかを彼女は理解していた。幾人かの裕福な見た目の男たちは元ジャコバン派に勝利するためのナポレオンの苦労について議論を交わし、二人の女は最良の洗濯方法について話し、とある商人は植民地産の商品を宣伝し、子どもの集団が路上でキャッチボールをしていた。
通行人は誰も彼らに気が付かなかった。
「ここ、ひどくないか?」ディーンは少し苛立って尋ねた。「あの髪の毛を見ろ、ヒ素と鉛が多すぎる」
そのコメントは非常に不健康な頭髪をしている男を指していた。
クロエは不意に何かに気が付いた。
「待ってよ、私たちは過去にいるんだよね?」
「そうだ」ディーンは肯定した。
「未来を変えないように気を付けなくちゃいけない?」
「時間が経つにつれてそれが問題になる」ディーンは説明した。「広範囲に影響を与えることを何もしなければ全く問題がない。例えば、エリがナポレオンを殺すために堂々と出て行くことはない。たとえそれがロシアで50万人もの兵士が死ぬのを防ぐだろうとも。だが君はやましいことなく向こうのパブに入り、アイントプフ2を注文することもできる」
「何かして、もし私が――」
不意に群集が彼らを押し退けて今にも引き離されそうになったせいで、クロエはそれ以上言うことができなかった。だがディーンの屈強な手が彼女を抱き留めたことで、彼女は安心感を覚えたのだった。しばらく時間が経ってしまったが、通りにはスペースが戻った。
「ありがとう、ディーン」とクロエは言った。「エリ、これからどこに――エリ?」
クロエとディーンは辺りを探し回った。エリはどこにも見つからなかった。
彼女の表情が驚きに変わった。
「あ――ああ、ダメ」思わずクロエの口からそう漏れた。「ディーン、これからどうしよう? エリに何かあったら!」
「エリは危険なほどにアルコール濃度が高い時でも自分の面倒を見れる」それは冷淡な返答だった。
「じゃあこれから私たちはどうするの? ネクサスに戻る?」
ディーンは首を横に振った。
「ネクサスを開けるのはエリだけだ。だがこういう時の緊急プランがある。よく聞いてくれ、俺たちは次のことを……」

ドゥ・ラ・クロワは通りを急いでいた。その手には魂エネルギーを探知可能な小さなコンパスのような装置が握られていた。その唯一の問題点は本物のコンパスではなく、痕跡を追跡するブラッドハウンド3のように動作していることに違いなかった。この貴族は痕跡を見失わないためにも、壁を越えてフェンスに身体を押し込み、家を通り抜けて行くことを既に余儀なくされていた。そのせいで彼の衣服はボロボロになっていた。至る所に汚れが付着し、2つボタンが取れてしまっていた。だが針の振動が次第に強くなっていたため、彼が対象に近付いているのは確かだった。
すると突然、針が方向を変えた……
ドゥ・ラ・クロワは混乱して立ち止まり、装置を2回ほど叩いた。だが、針はそのままで、痕跡が指し示す方向は変わってしまっていた。逃亡者は最後には角を曲がらねばならなかったがため、それ自体はもちろん整合性は取れているのだが、普通は痕跡のカーブはそこまで急にはならなかった……
彼が最初に示された方向に進むと、その疑念は確信になった。彼の作品よりも多くの魂エネルギーを放つ何かが道を横切っていた。そのせいで針がより良質な痕跡に合わせ続けているがため、彼の痕跡がかすれていたのだ。なんてふざけた話だ! 彼は絶対にプレゼンに使うものを見つけねばならなかった! 運が良ければ知らない人間と探し物が共にいるのではと、ドゥ・ラ・クロワはその痕跡を追跡することにした。そうでなければ……それなれば彼は即興でやらなくてはならなくなるだろう……
彼が出発した時、その頭には1つの疑問が残っていた: 何がそんなにエネルギーを放てるんだ?

「……そしてそれが下層階級の家族が普通のボウルからご飯を食べる理由なの」エリは講義を終えた。
拍手を求めて彼女は連れを探したが、そこには誰もいなかった。
彼女が最初にした反応は、ボトルを勢いよく飲むことであった。
次にしたのは、転がっているも同然な荷車を避けることだった。苛立っていた彼女は自分がAATを身に付けていることも忘れ、その操り手に中指を立てた。それからVサインでその野蛮なジェスチャーを中和しようとした。だが、誰もそれに気が付きはしなかった。
こういう場合には緊急プランが適用されるため、彼女は足早に、もっと正確に言えばよろめきながら真っすぐ進んで行った。
悩ましいことだった。上手くいけばそれはクロエの旅行が台無しになるのを防いでくれる。
彼女は近道をするために脇道に逸れたが、半分までしか進めなかった……
エリは他の誰かが後ろに付いてくる音を聞いた。彼女はハンドバッグに手を伸ばしたが、それはナイフが首に突きつけられるのを防ぐには速さが足りなかった。その時、彼女の肩を非常に冷たい手が掴んだ。
「金がいるんだ」囁くような声がしたが、その声の主は肺を動かすのに苦労しているようだった。
その冷たい手は、恐らく末期の人間のものだろうと思われた。
「それで、私がお金を持っていなかったら?」エリはバッグの中のお目当てのアイテムを握りしめながら試しにそう尋ねた。
「嘘つけ。それにしては身なりが良すぎる」
「誉め言葉をどうも。でも誰かを襲うなら注意しとかなくちゃいけないことが1つあるわ……」
首を逆の方向へと傾けながら、彼女の手がバッグから飛び出した。すぐに続いてナイフがバッグから取り出されたフライパンの取っ手で逸らされ、そうしてエリはもう片方の肘を強盗の腹腔神経叢があると思われる場所へと叩き込んだ。彼女が当てた場所は狙った部位として妙な手触りであったが、相手に何の反応も引き起こさなかった。それどころかナイフを持った手はエリの抵抗にかかわらず、非人間的な力で押し戻され、エリの首元にまた突きつけられた。
「実は被害者の手の位置に気を付けろって言いたかったんだけど。あなたいったい何者?」
エリは試しに頭の向きを変え、その顔をちらっと見た。それは悪夢から出て来たかのようであった。

次回のネクサス:
より良い人間とは? Part2

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