そして、夜がくる
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人類は25万年もの間、理解の外にあるものを恐れて、洞窟の中で小さな焚火を囲み身を寄せ合って過ごしていた。理を超えた不条理と不可解。そうした「理外のもの」の闊歩していた世界は、人類にとってあまりにも過酷であった。しかし、そうした存在が衰える中で人類はようやく世界へと歩み出すことができたのだ。光の元へ躍り出た人類は文明を手に入れた。文明を発展させ、とうとう人類は「理外のもの」たちから世界の主導権を奪取するに至った。しかし「理外のもの」は世界に残存し、絶えず生まれ続ける。光の中で生き続けるため、人類はこうした存在を闇の中へと隠し葬り去ることを選択した。

こうして、洞窟から這い出た人類は光を─"朝"を手にすることが出来たのである。

だが、朝は永遠には続かない。日は必ず没し、夜がやってくる。

今、日が沈んでいく。






連合のサイト-19強襲。彼らはその作戦においてある彫刻を確保した。目を離すと高速で移動し人の頚部に攻撃を加えるという異常な存在。SCP財団にSCP-173と呼称されていたそのコンクリート製の不気味な彫刻は、連合の施設へと運び込まれた。この彫刻はこれから、彼らの理念に基づいて破壊されるのだ。

連合は多くの異常存在がそうであるように、この彫刻もまた"壊せば壊れる"ものだと考えていた。いくつかの調査を行った後、彫刻を破壊する手段が議論された。しばしの議論を経て、彫刻は破砕されることとなった。それはこの存在の異常性の単純さ、及び彼らのこれまでの超常存在の破壊経験から得られた知見に基づいた判断だった。

連合は彫刻の特性を調査によって把握し、破砕においては複数人の直接の監視下で行うこととした。強化ガラスの箱の中で彫刻が破砕機の上に横たえられ、箱の外では何人もの連合職員が彫刻を目視し続ける。これにより、彫刻は全く動くことなく破壊される。

破砕機が稼働し、ゆっくりと2つの破砕歯が回転を始める。彫刻はしばらく2つの歯の間で揺れ動いた後、大きな音を立てていくつかの断片に割れた。彫刻の断片は破砕歯の間に飲み込まれ、少しずつ小さなコンクリートの欠片へと成り果てていく。内部に存在していた鉄筋もまた歯によって捻じ切られ、少しずつ小さく、細かくなっていった。破砕機を通過した彫刻は、もはやただの細かなコンクリートと金属の集合体でしか無かった。小石大のそれらは単なるゴミにしか見えず、一見しただけではこれがかつて多くの人間を殺害してきた不気味な異常存在であることなど分からないだろう。

連合の講じた破壊計画は次の段階へと移行した。人為的な彫刻の修復を不可能にする不可逆的な破壊。連合はバラバラの欠片となった彫刻を、粉砕機と高出力のマイクロ波照射によって"粉々"にした。こうして彫刻は、彫刻に戻すことが出来ないことが誰の目で見ても明白な灰色の粉になった。

彫刻の破壊を完遂し、職員達が撤収準備を始めた時。ほんの一瞬、強化ガラスの箱に向けられていた全職員の目が粉末から離れた。

次の瞬間、強化ガラスの箱は内側から破壊された。周囲の人々の視線がいっせいに箱の方へと向けられる。砕けた強化ガラスががらがらと音を立てて床に散らばる中、粉末となった彫刻がただ煙状に空気中を漂っていた。彫刻はしばらく空気の中に帯を描いていたが、次第に空気中に溶け込んでゆき、やがて見えなくなった。誰もが、何が起こったのかを把握出来ていなかった。

職員達が警報を発令させ部屋から撤収する最中、突然数人の職員が苦しみ出した。彼らは皆首元を抑え、口をぱくぱくとさせていた。彼らの首の皮膚からはぷつぷつと針で突いたように無数の血の水滴が染み出してくる。みるみるうちに微細な傷は増えてゆく。微細な傷は密度を増してゆき、口からごぼっと血が溢れ出す。やがて傷口は首を埋めつくし、スポンジのような有様となった。彼らの首から血液が吹き出す。頭部の重さに耐えかねたようにぐじゅぐじゅと音を立てながら首が潰れ、その場に倒れた。突然の事態に周囲がパニックに陥る。そのうちにも一人、また一人と首元からぷつぷつと血が溢れ出していた。

彫刻は連合の推測に反して、粉末となってもその性質を失っていなかったのである。高速で移動し人間の頸部の圧断や絞殺を行っていた彫刻は、今や高速で頚部を貫通する粉末となった。高速で運動する0.05mm程度の大きさとなった彫刻は、微細な弾丸のように対象の皮膚と肉を貫く。頚部へと向って高速移動し続ける性質上、頚部を通過した彫刻は再び頚部へと向かって運動する。最終的に、対象が死に至るまで繰り返し頚部を通過し続けるのだ。

彫刻は視認されている間は動くことが出来ないが、粉末となったことでもはや"視認される"ことが無くなった。人間の肉眼で視認できる限界は0.1~0.2mmである。それよりも細かい粉末となった彫刻は、もはや人の目には捉えられない存在となったのだ。視認されることで運動が停止する彫刻の呪縛は解かれてしまった。生まれ変わった彫刻は自らの性質に従って、生きている存在の頚部へと向かって高速移動し続ける。

そこから起こったのは、この新しい彫刻による際限のない殺戮であった。数時間で連合の施設内の全生物を殺し尽くした彫刻は外界の攻撃対象を察知して外へと溢れ出し、世界へと拡散した。連合、財団による対処も行われたものの、不可視かつ制御不能な彫刻を止めることはもはや出来なかった。シェルターであろうが防護服であろうが、高速で運動する彫刻の前では意味を成さなかった。流体的振る舞いを無視した直線的な高速移動は防護服を貫通し、シェルターの金属壁すらも破壊したのだ。

一時は彫刻が世界中に広がったことで濃度が希薄化し殺戮が落ち着くのでは無いかと推測されたが、粒子1つでも死亡するまで通過し続ける性質上、単に殺戮のペースが低下したに過ぎなかった。周囲の生物を殺し尽くした彫刻粒子は新たな殺害対象となりうる生物の元へと移動する。その結果、対象生物の個体数が減るにつれて彫刻の濃度は高まり、殺戮が加速する。また、殺戮の加速につれ世界は秩序を喪失することとなった。国家は機能を停止し、社会システムは完全に失われた。かつて財団によって管理されていた無数の異常存在も、管理者達の死亡によって世へと解き放たれてしまった。世界中で発生したこの大規模収容違反は多少人類の絶滅を加速させることとなったが、収容違反がなくとも人類の絶滅が不可避であったのは明白である。

彫刻の流出から2年。今、残された僅かな人類が死に瀕していた。

波の打寄せる海岸で、彼らはただ夕日の沈みゆく水平線を眺めていた。彼らの存在を感知した彫刻粒子が世界中から集まっているのだろう。彼らの首の周りを漂う煙が徐々に濃くなっていく。諦めているのか、彼らは何を言うでもなくただ黙って自らの周囲で密度が高まっていく死を待っていた。彼らの首の皮はほとんどボロボロとなっており、溢れ出す血液ももはや取り返しのつかない量に達している。数十秒後、この人間達の死亡を持ってして人類は滅びることとなるのだ。

人類が光の元へと躍り出て、"朝"を手にした時から幾千年。こうして人類は日没を迎えた。やがて陽の光は完全に消え、世界に再び暗闇が訪れる。

太陽が海の彼方に沈んでいく。その薄明かりの下、波打ち際にかつて人だった骸が倒れ伏していた。

太陽が沈み、光が消えた。

そして、夜がくる。

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