
「五十嵐め。今度絶対焼肉奢らせてやる」
深夜1時過ぎ。同僚たちが皆帰った後の研究棟に、一室だけ灯りが灯っている。「ヒューム観測工学実験室」という簡素なプレートが掲げられたその部屋の中では、一人の研究員の影が忙しなく動き回っていた。
隣人の顔を思い浮かべて、今日も居残りしている研究員──岩坂茜はぎり、と歯を食いしばった。
この状況の元凶はあいつだ。「あんたの試作機、せっかくなら現地で使用してみたいでしょ?」と半ば強引に地鎮祭見学のフィールドワークに連行され、道中には「岩坂と神籬ひもろぎだなんて!」と笑われまくった挙句、現地では空間が無限ループする結界に閉じ込められ、やっとのことで出られた時には外部空間で一週間が経っていた。滞在時間は半日程度だったが、時間の歪みが生じていたらしい。この界隈では珍しくない話だ。
ともかくも、一週間分の研究予定が丸々潰れたせいで、今日も実験室から帰れない。寝袋の用意だけはばっちりだ。実験室の一角、雑多な私物が置かれた領域には、くたびれた寝袋が転がっている。その横にはほぼ空になっている花火の詰め合わせセットが散乱していた。岩坂がループ結界に閉じ込められている間に、同僚たちはサイトの中庭でお気楽に花火大会をしていたらしい。
「ふざけんな」
口から恨み言が流れ出ていく間も、手足は淀みなく動く。条件を変えては計測し、の繰り返し。今までとは違う温度条件下で、スクラントン現実錨の強度を少しずつ変化させながら計測を行う。単調な作業だが、数日で終えられる微妙な数なので、自動化する方が手間だ。キーボードを打つ音が荒々しく響いた。
「明日こそは10時間寝てやる!」
全ては新型のヒューム計測機のため。念仏のようにそう唱えながら、スペクトル分析がうまくできているか確認する。
この前のことを思い出すだけで気が滅入って、今日何度目かの濁ったため息が出る。けれども制御の効かない意識は勝手に頭蓋骨の裏で記憶を再生し始めた。蒸し暑い山の中、息苦しいほどの草の臭い、大量の虫。幾つもの蚊柱、体に絡みつく蜘蛛の巣。休む場所もなく、延々と歩かされたあの最悪な日──
──目の前の灰色の作業台の上を、一匹の小さな蜘蛛が横切る。
「ひっ」
情けない声が出て、咄嗟に唇を噛む。誰もいない時間でよかった。こんな小指の爪程度の蜘蛛に悲鳴をあげたなんて、恥でしかない。八本足の特徴的な動きで、蜘蛛は作業台の側面へと消えた。
この世の生き物の中で、蜘蛛が一番嫌いだ。このサイズならまだ許せるが、手のひら大の蜘蛛はサイト内で見ることすら嫌だった。もしかすると財団が収容しているアノマリーの中には巨大な蜘蛛型の存在もいるのかもしれないが、絶対に関わりたくない。上司の命令だったとしても断固拒否する。
蜘蛛のアノマリー。
一瞬、犬程度の大きさの蜘蛛を想像してしまい、岩坂は首を横に振ってイメージを脳から追い出した。悪夢だ。
息を吐き、止めてしまっていた手をまた動かし始める。今日は何時に寝られるかわからないが、徹夜だけは御免だ。単調な機械音をベースに、キーボードの音が続く。
今日は機械のコンディションが少し悪いのか、いつもよりもスクラントン現実錨の反応が悪い。隣に設置されている高精度のカント計数器の表示を確認しながら、強度の調整を行なっていく。
どれほどの時間、集中していただろう。必要なデータを取り終え、評価用プログラムの大規模な改修工事が一つ完了したあたりで、その音が意識の隅から滑り込んできた。
こつ、こつ。
窓を叩くような音。ここは10階だ。この深夜にベランダに人がいるはずもなく、枝が触れるような背の高い樹木があるわけでもない。鳥か何かだろうかと、暗い窓の方へと視線を向けて、岩坂は違和感に気づいた。
街灯りが、見えない。
息が止まった。ここは安全のために人里離れたところに建設されたサイト内にある研究棟だけれども、この10階からならば、遠くに民家の明かりを見ることができた。この時間であろうと、いつも複数の光が見えるはずであり、その光はいつも深夜勤務の慰めになってくれていた。それなのに、今はそれが全く見当たらないのだ。まるで墨を塗りたくったか、黒いスプレーを吹き付けたかのような均一な黒色が、窓全体を覆い尽くしていた。星も月も見えず、雲の輪郭もない。寝不足の岩坂の姿が反射しているだけだ。
背筋が冷えていく。何が起こっているのかわからない。ポケットからスマホを取り出す。圏外。恐怖がフラッシュバックしそうになる。心臓が痛い。冷え切った指先でスマホのライトをつけ、窓の外へとむけてみる。ガラス面への反射が眩しいだけで、外を見る一助にはならない。──嫌だ。
狂乱しそうになる感情とは裏腹に、体は何故か冷静に動いた。あの忌まわしいフィールドワークに持ち込んだヒューム計測機の試作機を手に取り、起動する。
「……ゼロ?」
嘘だと言ってくれ。
霊体撮影機の一種を改造して作ったこの機械は、カント計数器では不可能な遠隔でのヒューム値計測を目的としたものだ。赤外線を利用するサーモグラフィのように、霊体撮影機が光として観測する異常な場の波とヒューム場の相関を利用し、フーリエ変換で得られたスペクトルの特徴からヒューム値を推定する。もちろん、分解能はカント計数器よりも著しく劣るため、この「0」表記が意味するところは、正しくは「0.1以下」なのだが──
「君がこの現象の原因?」
背後からぶつけられた突然の声に、心臓が止まりそうになる。こちらへ近づく荒々しい足音。反射的に振り向こうとした瞬間、
「動くな!」
強い口調の命令。動きを止める。状況がわからない。体の動きを止めたまま、研究室内に視線を彷徨わせる。レンチ、遠い。ドライバー、机の向こう側。すぐ手の届くところに武器になりそうなものはない。──しかし、この声は。
「──それを置いて、手を挙げて。ゆっくり振り返れ」
命じられるままに試作機を置き、何も持っていないと示すように手を挙げて振り返る。侵入者の姿が視界に入った途端、声からの予想は事実に変わった。こちらに向けてデッキブラシを構えた"自分"が、こちらを睨み付けている。白衣の下は、灰色のTシャツ。服装まで完璧に同じだ。
浅く息をしながら、敵意をむき出している"自分"を見つめる。意味がわからない。否、わかりたくない。
「名前は? 君がこの事態の犯人?」
「……名を聞くなら、先に名乗るのが礼儀では?」
どうにか口に出した返答は、情けないほど上擦っていた。
自分と全く同じ顔。ただし、「鏡合わせ」の。首元の黒子の位置まで完璧な鏡像。白衣につけられたネームプレートに目をやれば、名前も所属を示すロゴも全て反転している。デッキブラシを構えた自分の姿はどうしようもないほど間抜けだったが、この状況では笑うことができなかった。
「……岩坂茜」
──同じ読みの「磐境いわさか」ってのは、磐座いわくらっていう信仰対象の岩を中心とした祭祀場のことでさ。「さか」は神域との境の意味。んで、このフィールドワークで見にいく地鎮祭では神籬っていう祭祀場を作るんだけど、まあ雑に理解するなら大体磐境いわさかと似たような意味なんだよね。つまり、あんたと行くにはぴったりのイベントってわけ!
聞いてもいないことを楽しそうにベラベラと話していた、あの五十嵐の声。よりによってこんな状況でまでも思い出してしまうのは、その記憶が新鮮だからというだけではないだろう。あの会話は岩坂の記憶の中で、「悪夢の前兆」というタグづけがされてしまっていた。
「私も同じ名だ」
「じゃあ、両親の名前は?」
正直に答える。鏡像の表情を見る限り、同じらしい。引き攣った顔をしている。次はこちらから寮の隣人の名前を尋ねてみる。
「……五十嵐」
同じだ。口調が若干忌々しげなあたり、あの隣人に対して自分と同じ感情を抱いているらしい。
現状への推測が朧げながら浮かぶ。鏡像も同じ結論に至ったらしく、顔を歪めた。こちらに向けられていたデッキブラシの先がわずかに下がる。
念の為に質問を重ねる。この時間まで研究室に残っていた理由、一致。今日の夕飯の内容も同じ。鏡像の敵意が霧散していく。どうやらこちらも同じく「巻き込まれた側」だと気づいてくれたらしい。
「鏡像対象……SCP-965-JPの亜種?」
頷きかけ──岩坂は動きを止めた。喉の奥に乾いたものが広がる。もう一つ、重大な事案があった。
「いや、少なくともそれだけじゃない。窓の外もおかしいし、スマホは圏外になっている」
「それは、どういう」
「遠隔ヒューム観測用の試作機で測ったら、外のヒュームが0.1以下だった。カント計数器は──」
ちらり、と壁面の一つを占める大型の機械の片方に目をやる。0.81。パネルに表示されている数値は、少し離れたここからでもよく見えた。最後にスクラントン現実錨の強度を変更した時は、0.92だったはずだ。
机の上に置いたままだった試作機を手に取り、屋内のヒューム計測を行う。0.8。
「一致。──試作機のエラーじゃない。外は低ヒューム空間だ」
口にすると、少しだけ頭が冷えた気がした。情報の整理に集中することによって、パニックを避けられているのかもしれない。
「もしかするとSCP-3001のような場所と接続しているのかもしれない。カント計数器の値を見る限り、窓の外の低ヒューム領域へ向けて拡散が起こっているんだろうな。スクラントン現実錨の調子が悪かったのはこのせいか。そっちでも多分、同じ実験をしてたと思うけど──待て、君はどこから来たんだ?」
濁流のような情報密度のせいですっかり忘れてしまっていた。当たり前の疑問にようやく辿り着く。
「そうか、君はこっちのエリアから出ていないのか。見せた方が早い。ついて来て」
すっかり矛先の下されたデッキブラシを片手に、鏡像が実験室から出ていく。その後を追って、岩坂も実験室のドアを通り抜けた。
部屋の外には、目立った異常はない。いつも通りの無機質な廊下だ。それなのに何故か不気味に感じるのは、この状況のせいだろう。会議室の外に立てかけられている折りたたみ式のパイプ椅子の影にまで、何か異常が潜んでいるような気がしてくる。
同じ靴音、同じ歩幅。鏡像はそのまま西側の端まで歩き、突き当たりの角を曲がる。その先にあるのは、北棟と南棟をつなぐ廊下だ。
その突き当たりがおかしかった。
「……ここが鏡面か」
廊下の中心で足を止める。その先に見えるのは、鏡の中の世界の如く、反転した北棟。突き当たりにあるはずの非常階段はなく、代わりに北棟の方と同じ窓が設置されている。窓の外は実験室から見た時と同じように、一面の黒だ。
同僚の一人の顔が思い浮かんだ。あいつは時空異常理論も修めていたはずだ。もしここにいたならば、きっと心強かっただろうに。
"自分"とは一定以上の距離を取ったまま、境界部分の先へ歩みを進める。境界の先にある部屋のプレート、ポスター等の掲示の文字は全て左右反転していた。気味が悪い。硬い床の上にいるはずなのに、地面までもがぐにゃぐにゃと不確かなように感じる。
──悪夢なら早く覚めてくれ。
「異常はそれだけじゃない」
そう言って鏡像は、階段の方へと足を向ける。階段の脇には岩坂側の北棟階段と同じように、10階であることを示す「X」の表示がある。左右対称の文字だから、これだけは岩坂の世界と寸分違わない。見慣れた階段の構造の反転にまた気持ち悪さを覚えつつ、鏡像に従って階段を降りる。
下の階へ降りきるまでもなく、踊り場の折り返しでそれが見えた。通路への出口の脇、本来ならば「Ⅸ」と表示があるべき場所に、先ほど見たのと同じ「X」の文字がある。
「ちなみに、上に登っても同じ。10階の上下が完全に繋がって、トーラスみたいな感じになってる」
よく見れば、「X」の文字の脇にペンで印が付けられていた。これが10階の複製か、空間自体の歪曲かを判別するために鏡像が書いたものだろう。この前のフィールドワーク中のインシデントで五十嵐がやったのと同じ手だった。
──物理的な脱出は不可能。
階下に降りて他の財団職員の応援を待つ、という手は完全に消えた。孤立。窓の外の低ヒューム状態から、薄々察していたことではあるけれど、「可能性の考慮」と「確信」の間には無限に近い隔たりがある。背中から冷や汗が滲みだした。心拍数の上昇。まずい兆候だ。
他のことを考えろ。パニックを起こすのはまずい。冷静に今の状況の理解を──
「──10階しかないなら、電気はどこから来ているんだ?」
そう言った瞬間、廊下を照らしていた電気が、ふつり、と一斉に消えた。心臓が跳ねる。よろけるように後退り、背に何かが触れた感触がして、叫び声を上げた。そこに、全く同じ声質の悲鳴が重なる。そのまま地面にへたり込んだ後に、背中に当たったそれが壁であることを思い出した。ただの停電。暗い。見えない。怖い。嫌だ。どうして。
恐慌の一歩手前。
──スマホを持ってきていた、はず。
腕が重く軋むようで、うまく動かない。どうにかポケットの中を探り、指先に触れた硬いものをすぐに掴む。ホームボタンを押すと僅かな光源が得られて、少しばかり安堵する。指先が震えて手間取りつつも、なんとかライトをつけた。
白いライトがその場を照らした。
その光の強さに、一瞬、目が眩んだ。ライトを動かして、周囲の状況を見る。か細い光源ひとつしかない環境では、反転した廊下は更に不気味さを増して見える。少し離れた場所で、鏡像が怯えの混じる顔をこちらに向けていた。武器デッキブラシを構えることすらできず、腰を抜かしてへたり込んでいる。
──なんて、情けない。
あれは自分だ。どうしようもなく、自分だ。
暗闇で戦う者であるはずの「財団職員」に全く相応しくない姿。
直視したくなくて、岩坂は目を背けた。数秒の沈黙の後に、鏡像のスマホのライトが灯される。同じようにポケットに入れっぱなしにしていたらしい。廊下の壁に落ちる自分の影が二重になった。
「非常用電源、10階にあった……よな?」
異常が続く現実から意識を逸らすために、敢えて口に出して聞く。鏡像はこくこくと頷いた。
「確か、エレベータのある方の向かいに」
「あれって、自動でつくやつだったかな。手動で操作する必要、あったっけ」
「さあ、知らない」
無言の同意を得て、鏡像エリアの東側へ足を向ける。
鏡像はデッキブラシを持っている。それが少し羨ましかった。武器があれば多少は安心感があるだろう。ドライバーやレンチでもなく手洗いの掃除用具入れのデッキブラシを武器に選んだ気持ちは、聞くまでもなくよくわかった。リーチが欲しいのは当然だ。柄が木製なのは心許ないが、バール系の工具は基本的に下の階に置いているから、手に入らなかったのだろう。
「……ライト、私が担当するよ」
そう言うと、鏡像はこちらに視線を向けた。
「そんな長いの、片手じゃ使いにくいだろうし。電気の復旧がうまくわからない以上、スマホの充電も節約するべきだから──」
何かを探るような目つきでこちらの顔を見ている。まるで勘繰るような。そしてその疑念は正しい。自分自身を欺くことはできない。この相手は自分そのものだ。
「……わかった」
幸いなことに、鏡像は特に文句を言うこともなく、鏡像はライトを消してスマホをポケットに戻した。
無言で歩く。左右反転しているが、構造そのものは見慣れた研究室だ。恐怖が一周回って、沸々と怒りが湧いてくる。
──どうしてサイトの中でまでこんな目に遭わなければならないんだ?
休日返上で友人のフィールドワークに付き合ってあげたら酷い目に遭って、終わった後も残業続きで、その上になんでこんな目に遭わなければならないのか。自分は何か罰が当たるほどの悪いことをしただろうか? 目の奥が熱い。少しでも気分が緩んだら泣きそうだ。五十嵐。君がいたあのループ地獄の方がまだマシだった。
深く息を吐く。落ち着け、自分。何か楽しいことでも考えて現実逃避をしよう。科学のこととか。そうだ、それがいい。
「……あのさ、ええと、……岩坂」
どう呼ぶか悩んだ挙句、自分の苗字を口にする。奇妙な気分だ。
「何?」
「私たちの世界は完全に鏡像反転している、んだよな。だったらさ、フレミングの左手は──」
「中指から、電流、磁界、力」
鏡像はすぐに察して右手──彼女にとっての「左手」で直交する三つの方向を示す。目元が楽しげに少し細まる。鏡像も完璧に同じ性格なのだから当然だ。
「互いのエリアで私たちのどちらも爆発してないから、反物質ではない。電荷と磁場の定義は同じはず。──なら、境界部分で物理法則自体が反転しているのだろうな」
「お互いの世界の機材で測定とかやれたら面白そう──」
鏡像の笑みが固まった。
「もし完全な鏡像世界なら、なぜ私たちの行動はズレていたんだ? 同じタイミングで廊下の鏡面部分に到達するはずでは?」
「確かに。鏡像状態が不完全なら、夕飯のメニューまで一致するはずがない。齟齬は指数関数的に増大していくはずなのに……ここに来てから、片方にだけ起きた事象があったとか? 外的要因? ……試作機の実験から私の世界に来るまでの経緯は?」
思考の回転速度に言葉が追いつかない。だが今はそれで十分だ。相手は自分。同じ知識、同じ思考傾向の相手。断片的な単語を共有するだけで、同じ思考を実現できるはずだ。
「私は資料を取りにいくために8階に降りようとして、階段の異常性に気がついた。その次に、10階の探索でそっちの世界に」
「私はたしか──外から音が、聞こえて。だから窓の外のヒューム計測を」
「それだ」
スマホのライトで下から照らされた顔を見合わせ、頷き合う。
「私たちはSCP-3001に接続するほどのヒューム操作はしていない。安全マージンは大きく取ってる。私たちがたまたま低ヒューム空間に落ちて、そこにたまたま何らかの存在がいた場合よりは、この二つに何らかの関係性がある可能性の方が高い。もしかしたらそいつが私たちをここに引きずり込んだのかも」
「まだ生物と決まったわけじゃない。まあ、低ヒューム空間に叩く音を立てられるような普通の物体があるとも思えないけれど。──現象か、生物、知的存在か。何にせよもう少し情報を得ないことには対処のしようが──」
がしゃん、と大きな音が響いた。まるで、ガラス窓が割れたかのような。
咄嗟に向けた光の先に、それがいた。黒い塊。──否、生き物。頭の芯が痺れたようになる。大型犬程度の大きさ。艶のある外骨格。四つ足──違う、それ以上。それはしばし、その場で体を蠢かせ──こちらへと、走り始めた。
哺乳類とは違う、絶妙に気味の悪い動き。その大きさに違わぬ速さで、こちらへ向かってくる。
「──逃げろ!」
鏡像の声が鼓膜を打つ。言われるまでもなく、岩坂は駆け出していた。ライトを左右に振る。開いているドアはないか。鏡像は実験室の鍵をかけてから私の側へ来たのか──
「実験室! 開いてる!」
その言葉を信じて、実験室のドアに飛びつく。滑り込むように中に入り、ドアを閉じて鍵を閉める。鍵がかかった直後に、それがドアにぶつかる音がした。重い音を立てて、ドアが軋む。ガン、ガン、と硬いもので殴るような音。
ドアが歪む。──このドアはすぐに突破されてしまうだろう。怪物にちゃちなドアと鍵は意味をなさない。映画等のセオリーから推論するまでもなく、このドアの歪み具合でわかった。
立て籠もってやり過ごせない。
「──こっち、照らして!」
鏡像が部屋の隅の物置スペースへと向かう。放置された寝袋の傍で何かを探すように顔を動かし、すぐに目当てのものを拾い上げた。ネズミ花火とライターを手に、「もう一つ」のドアに駆け寄る。
ガン、ガン。
この実験室は広いから、出入り口が二つある。あの黒い怪物はまだ、岩坂たちが入った方のドアをこじ開けようとしているようだった。その試みは成功しつつある。ドアのたわみがこちらからでも見えるほどになっている。もともと内側に開くタイプの扉だ。こちら側への力に脆いのは道理だろう。
「火ぃついたら、開けて」
鏡像の言葉に頷き、ライトで手元を照らす。もう一方の手でドアの鍵をそっと開けた。シュッと微かな音を立てて、ライターの先に赤い火が灯る。スマホのライトとは色味の違う光。小さな火の先に花火の端の紙部分をかざすと、薄い紙に燃え広がり、すぐに音を立てて火花が溢れ出す。
ガン、ガン、ガン。
ドアを軽く開けば、鏡像はすぐに廊下へと花火を放り込んだ。目を刺すような火花が鮮やかな放物線を描く。落下するの見る前に、バタン、と今度は敢えて大きな音を立ててドアを閉めた。ドアの向こう側に、花火が撒き散らす音と光の気配が感じる。
──これで怪物の気をひければ良いのだが。
花火があるらしき場所に近づく、硬い音。考えるまでもなく、あの怪物のものだ。床を金属棒で叩くような音は、人間の足音とは全く違っていた。花火に注意が向いているうちにと、足音を極力潜めて、先ほどまで怪物がこじ開けようとしていた方のドアへ走る。
取手に手をかけ、耳を澄ませる。怪物がこちら側に来ている様子はない。怪物に殴られたせいで、こちら側のドアは大きく曲がり、複数箇所が凹んでいた。あの短時間でこの有様か。もし人体が同じ威力で殴られたらと考えると、見るだけで背筋に寒気が走った。鏡像はドアから軽く顔を出し、すぐに怪物の反対方向へと走っていく。岩坂もすぐに後を追った。
いつの間にか、廊下には非常用の照明がついていた。不幸中の幸いというやつだろう。いつもよりも薄暗いが、スマホのライトがなくとも、ものの輪郭は見える。岩坂はライトを消した。あの光のない低ヒューム空間に生きる怪物に光が見えるとは思えないが、わざわざ自分からリスクを上げるのは嫌だ。
行くべき場所は示し合わせるまでもなく決まっている。反転していない、自分の側の実験室だ。
広い実験室には扱いに注意が必要な物品がいくつかある。西側には機材室に繋がる扉もあった。それらを使えば、即席の罠か何かを作れるかもしれない。
東側の廊下を全力で走る。
後ろから追いかけてくる足音はない。あの怪物がどれほどの知能を持っているか不明だが、隠れていれば多少は時間が稼げるだろう。先ほどの鏡像の実験室でだって、反対側のドアに移動しても気づいていない様子だった。透視等の感知能力はないと考えていいはずだ。
怪物を倒せば元の世界に戻れるのかはわからない。けれど、怪物から逃げ回り続けるという選択肢はない。殺さなければ殺される。あれはそういう相手だ。失ったと思っていた野性の勘が、全力でそう叫んでいた。
さほど長い廊下ではないのに、実験室が異様に遠く感じる。まるで水の中を走っているかのような体の重さ。
──私の仕事は異常を分析することであって、異常に対処することじゃないのに。
私は機動部隊ではない。ただの工学研究者だ。それなのにどうして、こんな目に遭っているのだろう。
実験室がある廊下への角を曲がった瞬間、岩坂は自分が悪夢の中にいることを理解した。
「なあ、嘘だと言ってくれ」
岩坂たちがいる東側と反対、西側の廊下の突き当たりに、黒い怪物のシルエットがあった。照明は薄暗いが、見間違うほどではない。あの特徴的な気持ち悪い動きは。
──あいつも同じように西側の廊下を走ったんだ。
手足に冷えた絶望が広がる。
怪物がこちらへ向かってくる。徐々に視界の中で大きくなっていく黒い影。まるで膨れ上がるかのように、コンマ数秒ごとに存在感が増していく。
頭は諦めているのに、生存本能が足を動かした。
奇しくも、前──怪物に近い位置に立っていたのは、武器デッキブラシを持っている鏡像の方だった。背を向けて走った岩坂の後ろに、人間の足音と、怪物の足音が続く。二人分の肉を飲み込もうとする、死のカウントダウンの音。
時間が奇妙なほど遅く感じられた。一秒が遠い。
──ああ、わかっていたさ!
この生死の狭間の極限状態で思い出したのは、研究のことでも家族のことでもなく、数日前の五十嵐とのフィールドワークのことだった。この空間にほんの少しだけ似ていた、無限ループする結界の中。
──あの時の私は足手纏いだった。何の役にも立たないお荷物だった。神話も神籬ひもろぎも知らないと、喚くことしかしないクズだった!
自分の専門ではないからと、責任も問題解決も何もかも全て五十嵐に押し付けていた能無し。
挙げ句の果てには鏡像の自分にまで、武器を持っていたことにかこつけて、危険な戦闘行為を全て押し付けようとした。自分はライト係だと、そう自分自身に言い訳をして。
──ここで死ぬのがお似合いだ。
口元に自嘲じみた笑みが広がっていく。足が止まる前に、頭は死を受け入れていた。元から、財団職員に向いていない自覚はあったのだ。もう、痛いのも怖いのも苦しいのも嫌だ。頭でっかちなだけで臆病な自分は、この職場に相応しくなかった。
かあん、と硬い音が響いた。
予想外の異音に振り返る。瞬間、目を疑った。鏡像が──デッキブラシを怪物に振り下ろし、前足の動きの一部を押し留めようとしていた。
間近で見た怪物は、巨大な蜘蛛そのものだった。八本足に、頭と胴、特徴的な顔。岩坂が想像した「最悪なアノマリー」の姿とそっくり同じ。
明らかに力負けをしていて、鏡像は後ずさりしていた。それでも、デッキブラシを離さない。良い場所を押さえられているのか、怪物も鏡像を攻撃することができないようだった。
──どうして。
あれは自分だ。自分なのに。
ここで逃げれば自分の命は数分伸びるだろうという予想はできた。しかし、体が勝手に動いていた。立てかけてあったパイプ椅子を掴む。冷たい金属の手触り。
──怖い。
怖くて当然だ。五十嵐もきっと同じように怖かった。あんなインシデントが起こると知っていたら、そもそも誘って来はしなかっただろう。ぐ、と椅子のパイプを握る。こんなでかいだけの蜘蛛に"自分"を殺されてたまるか。
「伏せてっ!」
偶然か、それとも鏡像はもともとそれを狙っていたのか、怪物が足止めされていたのはちょうど階段の前だった。身をかがめた鏡像の上を、折りたたみ椅子が横に振り抜かれる。パイプ椅子が直撃した怪物はバランスを崩し、階段の方へとよろける。体勢の崩れた巨大蜘蛛の胴を、岩坂は蹴り飛ばした。
──落ちろ!
作業台を蹴ったかのような、重い足応え。蜘蛛足数本が空を切り、階段を転げ落ちていく。踊り場の壁に痛ましい音を立てて衝突し、その衝撃で跳ね返って更に下の階段へと八本足を踏み外す。ループする階段の上から蜘蛛が落ちてくる前に、二人の岩坂は廊下から階段へと通じる扉を閉めた。がちゃり、と鍵を閉める。
──これは階段側に開く扉だ。
あの足の形状からして、おそらく鍵を開けることはできない。取手を引くことも難しいだろう。体当たりを続ければ壊れるかもしれないが、この扉の重さからして、きっと実験室のドアを壊す何倍もの時間がかかるはずだ。ダメ押しに、手近にあった「大きくて重いもの」──パイプ椅子がぎっしり詰まったカートをバリケード代わりに扉の前に設置する。
「……これで、少しは時間が稼げるはず」
少し荒い息のまま、鏡像はカートの取手を軽く叩いた。
「──さっきは、ありがと」
礼を言った鏡合わせの自分の顔を見て自覚する。今自分を突き動かしたのは、意地だ。
私は自分を見下したくないし、自分に見下されたくもない。失望されたくない上司相手でも、幻滅されたくない後輩相手のものでも、同僚へも見栄でもない、自分相手の意地だ。視認可能な他者としての"自分"が具現しているからこそ生まれた、この感情。その手触りを確かめるように、岩坂は鏡像の顔を見つめる。これが自分を財団職員たらしめてくれる錨になるかもしれないと、直感が囁いていた。
「自分相手にお礼とか、要らない。──それより、あいつの殺し方を考えないと。二人揃って、生きて帰るんだから」
実験室と機材室をひっくり返し、使えるものがないかを探す。管轄でない研究室の部屋までも漁った。銃火器があれば一番良いが、今までこの階で見かけたことはなかったし、安全装置の外し方さえわからない。
ガン、ガンと、遠くで扉を叩く重い音が聞こえる。
光学実験台、緑色のがぎっしりと詰め込まれた古いラック、旋盤、超低温冷凍機。どれもバリケード以上の使い方を見出せない。剥き出しの梁か何かがあれば、いくつもある重い機材のどれかを使って破壊的な振り子を作れそうだが、残念ながら実現できそうな場所はなかった。
"自分"の横顔を見る。
私にできることは鏡像にもできるし、鏡像が知っていることは私も知っている。
二人分の手足があるだけで、これは実質私ひとりだ。頼れる相手はいない。もう一人の自分に責任を押し付ける言い訳は成り立たない。
──考えろ。考えるんだ。ここには私しかいないんだから。
怪物が階段を転げ落ちる音は、とうにやんでいる。代わりに扉を叩く音が断続的に聞こえるようになっていた。もう、きっと長くは保たない。音の調子が変わってきている。歪む音、軋む音。ガタガタとした音は、徐々に歪みによる”遊び”が大きくなってきていることを示している。
ガン、ガン、……ガン。
今は、この北棟で最も大きい実験室に立てこもっている。結局、使えそうなものの大部分はここにあった。少しでも時間稼ぎをできるように、ドアの近くに重い作業台を寄せている。
「一か八か、あの辺りの機械を解体して武器を作ってみる?」
若干投げやりな鏡像の声。さっき階段に閉じ込められたのは、まぐれのラッキーパンチだ。パイプ椅子で殴ってみてよくわかった。あれは硬すぎる。そんな武器で戦ったところで、勝率が低いことは考えるまでもなく明らかだった。
「花火の火薬を使えないか──」
パックの中に残っている花火は、さほど多くない。それを解体して多少の火薬をかき集めたとして、できることは高が知れている。
──音が、聞こえない。
ハッとして、廊下へ通じるドアを振り返る。先ほどまで絶えず聞こえていた、あの怪物が体当たりする音が聞こえなくなっている。まさか──
──ガンッ、と音を立てて、視線の先のドアが揺れた。鏡像も振り向く。駆け出すのが同時。ドア近くに寄せていた作業台を全霊を込めて押し、バリケードを完成させる。
目の前で、激しい音と共にドアが大きく揺れている。このドアの向こうに、奴がいる。八本足の怪物、パイプ椅子で殴ったところで傷すらつかなかった生き物。即席の近接武器では、まず勝ち目のない相手。
ガン! ガン!
──考えろ。
五十嵐ならどう考える? あの友人は切羽詰まった状況でさえも、情報の整理を最優先していた。
これまでにこの空間で見てきたことを思い出せ。今自分が使えるもの、手元にあるのはそれしかない。
見ている間にも、怪物の強打によるドアの変形が大きくなっていく。
外の低ヒューム空間。文字も何もかもが反転した並行宇宙の同じ空間との接続。停電。私が想像したものと全く同じ姿の怪物。
──全く、同じ?
頭の奥で火花がちらつく。
「──聞いて」
切羽詰まった声に、鏡像がこちらを振り向いた。まとまりきらない考えを、言葉にしながら整理していく。
「ここはSCP-3001と同一、または類似した空間。つまり、ヒューム値が極端に低い。ここでの私たちは、実質的に現実改変能力者だ」
強打されたドアが凹む。見えてきたか細い光明、蜘蛛の糸を掴むように、言葉を続ける。声音に興奮が入り混じる。
「近くで攻撃して見えたんだ。あれは、私が想像した蜘蛛に似すぎている。あの怪物はここにもともといたアノマリーじゃない。私たちの想像によってこの空間に投影されたものだ。きっと君も蜘蛛を見ていたはず」
鏡像の目に理解の光が浮かぶ。
「上下の階から孤立したことを理解した時、停電が起こった。私が初めてあの怪物の音を聞いたのは、小さな蜘蛛を見て蜘蛛のアノマリーを想像した後だった」
ドアを叩く音に負けぬよう、声を張り上げて畳み掛けるように証拠を提示する。二人による確信があった方が、この作戦は成功しやすいはずだ。
「あれはここにもともといた生物じゃない。私たちが想像で生み出したんだ。作れたならば消せるはず」
「でも、だからどうしろと!? 私たちはこの向こうに怪物がいることを『確信』してしまっている。無いものを在ると思い込むよりも、在るものを無いと思い込むことの方が難しい! 君はあれを現実改変で消せると本気で思っているのか!?」
怒鳴るような声で鏡像が答える。鏡像の言い分は正しい。どんなに才能があったとしても、突然与えられた能力をすぐに使いこなすのは困難だ。
──なら、何ができる。
真っ先に浮かぶ案。現実改変で武器を作る。
銃? ──分解したこともないものを、生み出せるはずがない。ろくに仕組みを知らないものなど、想像のしようがない。動かないレプリカができるのがオチだ。
だが、やれると知っていることならば、どうだろう。
歪んだドアの隙間から、蜘蛛の脚が一本突き出る。反射的に距離を取った岩坂二人の目の前で、二本目の脚が捩じ込まれる。曲げ伸ばしされた足が作業台の上を引っ掻いた。鉤爪が台を抉る。
岩坂は目の前の状況を極力頭から追い出し、包み込むような形で両手を上下に合わせた。まだ時間はある。多くて数十秒か。──十秒あれば事足りる。
「よく見てて、"私"」
絶望的な表情をしている自分に声かける。
在るものを無いと思い込むことは難しい。けれど、無いものを在ると思い込むことは幾らか簡単だ。嫌いなものを細部まで想像することの簡単さも知っている。
──できる。
一度できたのだから。
合わせた手を、再び開く。左の手のひらの上に鎮座する八本足の小さな存在は、作業台の上を彷徨いていたあの蜘蛛と寸分変わらない。今すぐ手から振り払いたくなる衝動を全力で抑えつけて、反転した自分の目の前に突きつける。
「これが、あの蜘蛛の原型。私たちがあれを想像する元になった存在。私たちの頭の中で、これは怪物と結びついている。──なら、」
バチン、と右手を上から打合せる。小さな蜘蛛が潰れた瞬間、──ドアから突き出ていた二本の脚がグシャリと潰れて消えた。
荒い息で、変形したドアを見守る。音はしない。潰れた蜘蛛の足は、残骸すら残さず消えてしまっている。後に残っているのは、歪んだドアと、一条の傷が入った作業台だけだ。
──勝てた、のか?
その作戦を立てて実行した自分自身でも信じられず、ドアの隙間から目を離すことができなかった。
「……君の仮説は事実だったようだね」
鏡像の声に、現実に引き戻される。鏡像は思案げな顔つきで顎に親指を当てていた。
「……ああ。あの手段で消せたのだから。でも、それなら、ここに来た原因は全く別にあるということで……振り出しに戻ってしまった」
「──原因は私たち、ってことはないか?」
一瞬の困惑の後に、岩坂は目を見開いた。五十嵐の言葉を思い出す。岩坂と同じ読みの磐境いわさか。「さか」とは神域との境。境は結界に通ずる。
「磐境いわさかの境──もし私たちが結界に関する儀式適正のある血筋だったなら、空間の異常の引き金として作用してもおかしくない」
「そう。あのフィールドワークで無限ループに巻き込まれ、研究室でもこの異常事態が発生した。確率的におかしい。"私"が原因でないのならば」
地鎮祭の儀式、そしてヒューム値に関わる実験と、自分の「適性」の相互作用。それが二度の異常現象を引き起こしたのではないか。
医療関係者とて全ての病気の精密検査をするわけではないように、財団でも全ての職員の血筋や体質を調べ尽くしているわけではない。まして、岩坂の専門はヒューム計測工学だから、儀式や神話・伝承とは本来遠い場所にいる。検査をする理由がない。
「──この現象って、時間反転対称性あると思う?」
「それは、試さなきゃわからないな」
財団が扱う異常には、いくつかの傾向はあっても、「必ず使える」セオリーはない。神話・民俗学部門の五十嵐も、あのループ空間の破壊方法を複数立案していた。結界の抹消儀式、要の破壊、その他多数。
この異常空間の発生において、自分以外に「要」となるような物体に心当たりはない。ならばまず試せることは、儀式を逆の手順で行うことだろう。
「今までやっていたヒューム観測実験を、時間反転した手順で行おう。おそらく、今回の鍵になっているのはスクラントン現実錨を使ったヒュームの変動だと思う。これを逆の順番で変化させよう」
「私たち、実験に関しては真面目だからね。実験ノートはしっかり取っている。ヒューム値をどう変化させたのかの記録も」
「…………一つ、不安もある」
同じ懸念をしていたのか、鏡像は表情を変えないまま頷いた。
「私たちのオブジェクト指定」
もしこの予想、「岩坂の儀式適正」説が事実であった場合、自分たちはオブジェクト指定を受ける可能性が高い。最悪の場合は人型収容施設に幽閉、最良のシナリオでも行動に制限がつくだろう。この閉塞した異空間を脱出したところで、別の空間に閉じ込められるというオチだ。それならば戻る意味はあるのか。
「この空間でなら、私たちも現実改変能力を使える。慣れれば生活に必要なものを全て作り出せるようになるだろう」
「この研究棟10階の外殻はヒュームの拡散を多少抑制してくれているし、現実改変で作った電力を建物外部から供給すれば、スクラントン現実錨を恒常的に使用した建物内のヒューム値安定化も理論上可能なわけで──」
自問自答。これに意味があるのかわからない。他者ではなく、けれど私自身の声でもない自分。自己の客観にだけは都合がいい。
元の世界に残してきたものを思う。家族。学生時代の友人。財団という組織すら知らない彼ら彼女らにはきっと、「行方不明」の四文字しか伝えてもらえないだろう。五十嵐の顔も浮かんだ。こんな自分と仲良くしてくれていた友人がいる世界を諦めるのは惜しい。
「……それに、科学をするには、この場所は狭すぎる」
結論は出た。鏡像の口元に薄い笑みが広がる。
やはり、どこまで行っても私たちの核はそれなのだ。この世界の未知に魅せられたからこそ、この財団という組織の中に留まってきたのだから。
「じゃあ、ここでお別れだな、私」
実験室の中で一人、ふう、と息を吐く。鏡像は自分の世界の側の実験室へと戻った。腕時計を見下ろす。約束した「実験開始」まで2分41秒。お互いの腕時計が一致していることを確認してから解散した。「来た時」と条件を揃えるならば、我々二人の実験も対称にすべきだという判断だった。
時計の針が動くのを見守る。実験の準備は揃っている。発電装置は無事に動き、スクラントン現実錨へ供給するための電力は十分に得られていた。
──世界の対称性はこれから崩れるのだろうか。
二人分のイメージの重ね合わせが一匹の怪物を作り、それが外乱となって自分たちの対称性は崩れた。暴れ回った怪物によって10階の各所は非対称に破壊されてしまっている。この非対称性をきっかけとして、自分たちが戻った後は対称性の破れがどんどん広がるだろう。
それとも、実は何らかの相互作用が存在していて、最終的にはまた対称状態に収束するのかもしれない。そうだったら良いな、と思った。
時計の針が約束の時間を指し示す。
スクラントン現実錨を再起動し、カント計数器の表示を見ながら出力強度の調整を行う。実験ノートには、ヒューム値の記録の隣に時間が書き込まれている。この時間の通りに現実錨を制御しなければならない。厳密に同じ時間に同じヒューム値を実現するように、実験計画を鏡像と打ち合わせていた。
鏡像の自分との別れを、少し寂しがっているらしい自分に気がつく。妙な話だ。あれは完全に私だから、会いたければ鏡を見るだけで良いはずなのに。──無事に戻れたら、自室に鏡を用意するのもいいか。
現実錨の操作を続ける。
作業台の上に放置されている試作機は、運が良いことにどこにも傷がついていなかった。あのフィールドワークと今回、二度の異常事態を乗り越えて無傷なのだから、この試作機は相当な豪運の持ち主だ。縁起が良いぐらいかもしれない。
ふと、窓の外を見る。街明かりが見えた。いつの間にか、元の世界へ戻れていたらしい。吸い寄せられるように、窓に近づく。両手で数えられる程度の光点があるだけだ。多くの人々が寝静まったこの深夜では、明かりは随分少ない。けれども、この光はなんて、暖かいことだろう。この実験室から見るあの光が、自分にとっての日常だったらしい。
──次の週末は、五十嵐を焼肉に誘おう。
あの子ならきっと、この冒険譚を嬉々として聞いてくれることだろう。お代は勿論、割り勘で。