氷上の月
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moon

 

月が、普段見るものよりも幾段かきれいに映る。
この輝きはきっと、思い出の中の年月によって磨き上げられたもの。
鏡面でありながら、琥珀色で代えがたい月。

私は一面の氷原にいつの間にか立っている。
そう、これは夢。頭の中にこびりついたそれの反復。

「いやだなあ!」

だから、この声も聞こえてくる。流氷鳴きのように、夜の空間に、響いていく。

「磨かれなくとも、ずっと綺麗なままでしょう?」

応えようとしたところで、には頷けない。
月に手が届かないように、あなたに手が届くことも、ないのだ。

「最近は、元気みたい。よかった。あたしはそれが一番だから」

膝が少しずつ崩れていく。これは寒さによるものなのか、目の前の噓が私に影響しているものなのかは、わからない。

「ほら、今日も、導くべき人がいるんじゃない?そろそろ起きなきゃ」

あなたの声が止まって、氷を砕く音がする。

◇◆◇

殺風景な部屋で喚いている目覚まし時計を静かに止め、むくと起き上がる。

今日は、彼女の命日だった。ただ、命日に偲んで欲しい、と言うような人ではなかったと思う。1年に1度、墓を綺麗にしてくれればそれでいい。遺書にはそう書いてあったはずだ。

髪が伸びてきたな。そろそろ切らなければ、と鏡を見ながら歯ブラシに手を掛ける。天気は晴れ。7月ではあるが蒸し暑いということもなく、カラッとした程よい暑さの日。このような日は、嫌いではなかった。私も、もちろん彼女も。

と、そういえば今日は出勤だった、と気づく。

毎年、この日は休暇を取ると決めているのだが、本日は職務復帰プログラムをどうしても受けたい職員がいる、ということで仕方なく午後休、ということにしたのだった。早回しでスーツに着替える。

普段通り、職務をこなすだけ、何も心配はない。

◇◇◇

……はずだった。

「あれ、プログラムの説明担当してくださるサトージムインさんですか?よろです!」

思わず、口をあんぐりと開けてしまった。

「えっと、裏海さん、ですか?」
「あ!ですです!名乗り忘れてました、すんません」

私のデスクに現れたのは、バチバチのメイクでキメている、ピカピカのギャルだったからだ。

「……本日から職務復帰プログラムの受講を希望の?」
「ですよ~?なんか変すかね?」

こう、ではなかったはずだ。

事前情報には「Agt.裏海。██市███第三高校にて発生した超常テロの生存者として雇用。現在心理的外傷のため3ヶ月の休養/治療中」とのことではあった。元々は底抜けに明るいとは聞いていたが、まさか底抜けも底抜けのギャルがやってくるとは。

デスクの右側の人事ファイルの山から裏海さんのものを探していると、声を掛けられる。

「んで、復帰プログラムって具体的に何するんです?」
「あー。基本的には休職前の業務を簡単な順にこなしていく感じですね」

昔一緒にお仕事されていた方などがいれば協力を仰ぐこともあるのですが、と言いかけて、やめた。恐らく、それは酷だろう。

ようやく紙束の中からAgt.裏海に関するものを拾い上げると、普段はスカウトを専門的にしているという文字列が目に入る。休職していた、ということは抱えているトラウマは、これ由来なのだろうか。勝手に想像する。

「ってことは、スカウトをもっかいスタート!ってことになりますかね」
「だと恐らくまだハードルが高いので……そうですねえ」

職務復帰プログラム運用マニュアル、と書かれたものをぺらりとめくると、ロードマップこそ掲載しているものの具体的なアプローチが何も書いていないことに気付く。普段の活動にはあれほど口うるさい上長がこのような適当さの塊をばら撒いていることに嫌気が差す。

一旦、適当さの塊を手渡しつつ。

「とりあえず、面談室で待っててください、今後のプランニング兼ねてお話させていただきます」

◇◆◇

「わあ、とっても明るい子。今日はこの子とお仕事?」

辺りが暗闇に包まれていく。琥珀色の月は私が夢の中にあることを教えてくれている。

「ほらあ、私が一人抜けたところでさ、君の周りにはやさしい子、いっぱい来るんだって」

お節介、どうも。
発した声は白息になって消えていく。

「でも、こういうとき、律儀に思い出してしまうから、重ねてしまうんじゃない?」

◇◆◇

カラン。

「えと、サトーさん?」

グラスに入った大きめの氷が、涼しげな音を立てる。

「あ、ええ、どうかしましたか?」
「この先の話、よろでーす!」
「そうでしたね。では進めていきますか」
「りょーかいです」

狭い面談室では、冷房の効きが良い。まだ外では少しむさ苦しいスーツも、ここではぴっちりと型にハマっているような気がする。

互いに座り直し、一つずつ説明を行っていく。

「じゃあ、簡単なお仕事から順番にやって、最後はスカウトに戻るってカンジ?」
「はい。相違ないです」
「これなら行けそー!サトーさんマジ感謝。そんで」

目の前のご機嫌そうな金髪ギャルは目を輝かせるようにこちらを見つめている。まるで目に星が宿っているかのような済んだ紺色の目。恐らくカラーコンタクトを用いているであろうそれは、夜空のように暗く、と同時に鮮明な光を孕んでいて。

それは黄色とも橙色とも言い難い、琥珀色で───。

◇◆◇

氷を砕く音がする。あの日に封印された、氷漬けの記憶が割れる音。

「だからもー。一年に一回、来てとは言ったけど、こんなに顔見せに来なくて良いって……」

足先から冷たさがじんじんと突き刺さる。初夏に見る氷漬けの幻覚は、何度目の焼き直しかわからなくて。

「ほら、前見てって、お役目でしょ?」

薄いあなたのその透明な手で。前を。

「じゃ、行ってらっしゃい」

氷を砕く音がする。ざく、ざくとした耳障りの良い音の間に、流氷鳴きが響く。

◇◆◇

「順調そうで良かったです。事務仕事はエージェント時代にも?」

裏海さんは渋い顔で続ける。

「だーいっきらいでしたよ!新しい子のためにしゃーなくやってましたもん」
「復職明け1つ目の職務が外向というわけにもいきませんから、仕方ないです」
「そりゃそーですけどね」

パソコンのキーボードを2本指で押している様子は少しぎこちなく、ふと、フロント企業時代を思い出すもので、思わず口角が上がった。

「そういやサトーさん」
「はい、なんですか?」
「その、植物?お花?は?」

と目の前の花瓶に生けられた植物を指差し、言う。指先を彩ったネイルは薄ピンク色で、中に彩られたラメがきらりと輝いている。

「ああ、これですか」

私は大きめの花弁を付けた植物の入った花瓶を静かにとり、答えた。

「ゲッカビジン、です」
「げっかびじん?ビジンさん……っことで当たりすか?」

ええ。と相槌を打ち、撫でるように見つめつつ、続ける。

「とても大きくて綺麗な花が咲くんですよ。それに」
「それに?」
「思い出の、花なんです」

◇◆◇

氷を砕く音が、頭の中に響き始める。桃の甘い、甘ったるい香りが、脳裏をツンと刺す。

そのせいだろう、あなたのことを思い出してしまいそうになる。あなたがまるですぐそこにいるようで、手を伸ばせば届きそうで。

でも。

いつもは私から。この日はあなたから。それは止められる。

もう、会う必要はないのだ。誰にも起こされないまま、あなたは安らかに氷漬けになるべきだ。

ただそもそもの話をすれば───

───あなたは、ここに来るべきでは、無かったのだ。

◇◆◇

「休職していたとは思えませんね」
「でしょ~?」

カラッとした笑顔が、裏海さんの顔に現れる。実際のところ、彼女のコミュニケーションには一切の問題はなかった。彼女のトラウマを、人事ファイル越しに見る必要も無さそうだ。

「今日はバッチシ!ってことで、サトーさん、ご飯食べに行きましょー」
「え、ああ」

今後のプログラムについて一頻り思案していたら、成り行きで食堂まで来てしまっていたようだった。まあ、別に今日中に墓に顔を見せに行けばいい、と思いつつ寄っていくことにした。次いでに、裏海さんのことをもう少し尋ねてみよう、とも思った。

食券機で八宝菜定食を選び、カウンターで受け取ると、流れ作業のように席につく。

「サトーさん、八宝菜すか!あたしは、チャーハンですよ?中華でおそろですね!」

中華でお揃い、というのは余りにも広く括られたな、と思いつつも、なんだか大きく括られたことに少し面白さを覚えて、ふふ、と笑う。

「あ、サトーさん、よーやくちゃんと笑ってくれた」
「へ?」

少し、意表を突かれる。

「サトーさん、今日ちょっとふざけても、全然笑ってくれないんすもん。やってけないかもーって、思っちゃいましたよ」

揶揄うような目線で、私のことを見つめる。

「サトーさん、疲れてるんすか?『やっぱ事務員って大変なんすかね~デスクに張り付いてないといけないですし』」

ああ、きっと私はあの頃から、それに目を。

「サトーさん?サトーさん!」

中てられていたんだろう。

『でも、まだこっちに来ちゃダメだからね』

◇◆◇

私がSCP財団の一般低級事務員として勤め始めたのは、6年程前のことだったと思う。それまでは財団のフロント企業で勤めていた、これまた、普通の事務員であった。尤も、今もただの事務員ではあるんだが。

そして、私には、フロント企業の時代から長らく同じ課で働いていた同僚が居た。

同僚は、飛び切り明るく、誰にでも物腰柔らかに懐に入るような、事務所では異色の存在だった。冷え切った窓際人事部の、月だなんて言われて、持て囃されていたと思う。実際のところ、他の同僚とそこまで仲が良くなかった私ともサシで飲みに行ってくれるような、そんな優しさがあった。

ただ、実際のところその評価は客観的に見ても正しかったようで、親族に財団職員がいた私がコネクションによって財団へ入ったのとは違い、彼女は人当たりの良さからフィールドエージェントとして雇用されることになった。確か、そのことも飲み屋で教えてもらっていたんだったか。

「サトウ君が事務員で閑職やってる間に、アタシはみんなのこと助けてきちゃうから!期待しといて!」

時には朝までお酒を入れて談笑しながら、そんなことを言っていたんだと思う。

今思えば、それは空元気だったのだろうか。

█年半後、私は一般事務員から異常職員管理課へと転向となり、彼女は危険任務担当研修を終え、より危険な任務に配置されるようになった。そこで、たった1度だけ、弱音を聞いた事がある。異常職員管理課の話をしていたときの事だった。

いつもの24時間営業の居酒屋。周りが喧騒に包まれている中、あなたの声だけが耳に入る。

「アタシさ、ちょっと今のところ疲れてきちゃった」

そうですか、私はいつも通りです。変わった財団職員さんのお話を聞くばかりで。

「いつも人に噓ついてばっかりでさ、本音を話せる人が全然いなくてさ」

ええ、確かに。普段のフィールドエージェントに逃げ場はないです。

「サトウ君、結構頼りにしてるんだよ」

……。

この日の2週間後、彼女は自殺した。異常性に起因しない精神的なショックが原因だとされたが、詳細は公開されなかった。

この時、私がはぐらかさず、「もっと頼ってください」「私はあなたの話を聞けます」なんて言ってあげれば、あなたは、まだここにいたのだろうか。そもそも、あなたはここに来るべきだったのだろうか?あなたは、平穏にフロント企業で皆に好かれる人事局員であればよかったのではないか?

そして、その時思い出したのだった。そうだ。

あなたが優秀だと、スカウトしても良いのではないかと、進言したのは、私だったのだった。

今、財団職員として思考すれば、彼女を紹介したのは正解だったと言えるだろう。

ただ、どうだ。私があの時とった行動は、私情ではなかったか?

私が彼女に、特別な感情を抱いていなかったとする証拠は?

全て、信じられなくなっていた。いつしか、名前を思い出せなくなっていた。どこかで記憶処理でも受けたんだと思う。

思い出せるのは、あなたのその物腰柔らかな口調と、好きだったゲッカビジンの花。そして、あなたと2人で一度っきりの遠出だったはずの、雪原の記憶。

◇◆◇

「落ち着いたっすかね?」
「はい、自分が思ってたより無理してたみたいですね、申し訳ないです」
「いやいや?最初見たときサトーさん、完璧超人なのかと思ったんで、なんか人間っぽくて嬉しいです」

救護室には薬品の匂いが漂っている。白と薄ピンクで包まれた空間。

「こんな感じでは、どちらがトラウマを抱えているのか、わからないな」
「ウチで働いてる人、みんなこんな感じなんだろーなって思うと、ちょっと寂しいっすね」

沈黙が流れる。救護室には我々以外に誰もいない。

「裏海さん、月下氷人委員会のことはご存知ですよね」
「もちですよ~あのお見合い?みたいなイベントを開催しているっていう。確かそれこそサトーさんがやってるんでしたっけ」
「そうです」

息を吸う。

「あれは、贖罪なんです」
「しょく、ざい?」
「はい、罪を償うためのもの、です。私は、もう、支えを持てずに倒れてしまう人をこれ以上増やしたくない。一人でも多くの人が、孤独から救われて欲しい。そういう思いなんです」

裏海さんは神妙な顔つきになって、でも、ゆっくりと言葉を咀嚼しているようだ。

「いや、あたしもわかります、あたしも、困ってる人たちに1人でも多く光を届けたい。その想いは一緒、うん、一緒だと思います」

裏海はなんか、恥ずいかもとボソッと呟く。だから、私は、よしと勢いづけて起き上がると、こう言った。

「お墓参り、一緒に行ってくれませんか」

◇◇◇

「さっきのお花、供えるんすね」
「一般的にゲッカビジンは、余りこのような供花には適しません。手入れを要する花なので、咲かずに枯れてしまうことも多いです。それでも、やっぱり、傍においてあげたくて」
「綺麗に咲くと良いなあ」
「まあ、夜に咲くので、私たちには見れないんですが」

えっ、という純粋な驚きの声が耳に入ると、やはりどこか愉快で、笑みがこぼれてしまう。

夜にしか咲かない、ゲッカビジンの花。闇の中で戦い続ける財団職員を癒す花なんだ、と彼女は力説していた。

「そうだ、裏海さん。裏海さんはスカウトを担当していくんですよね」
「です!」

勢いの良い返事の後、私はゲッカビジンを一株、渡す。

「きっと、あなたにこの花は似合っています」
「でも、大事なお花なんじゃ?」
「ご迷惑をかけたお礼です」
「これでおあいこ?ってことですかね?」
「まあ、そんな感じです」

ゲッカビジンには、1年に1度しか咲かない、という迷信がある。これは明確に事実でないことが分かっていて、丁寧な管理を行えば、1年に何度も咲くことができるそうだ。

きっと、裏海さんは2度咲けるのだろう。トラウマを乗り越えて、この場に立っている。この先の見えない闇へと、また進み始める。

そして私も、2度咲かなければならない。また来年この日を迎えるため、職務を全うせねばならない。静かに手を合わせながら、そう思うのだった。

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