約4万800年前に描かれたとされている、スペインの洞窟内で発見された壁画。
獲物となる動物から敵対的な捕食動物。あるいは果実、植物などが描かれており、特に生活する上で脅威となる物をコミュニティの中で共有するために描かれたと推察されている。
猛禽類の描かれているエリアに10本以上の脚部と正四面体状の胴体を持つ黒い実体が描画されている。当初は毒虫を図示したものと思われていたが、他の絵画は一貫して概ね同一の縮尺で描かれている事から、縮尺から類推すると当該実体は一般的な肉食獣の3倍前後の大きさを持つ事になる。
宗教的な畏怖の対象を描いたものとする見解が現在の主流である。
1999年。
喧ましく耳朶を叩いていた怒声と足音に一通りすれ違い、あなたは警報のアラームが鳴っていた事をようやく思い出す。廊下の向こうからやってくる重装備の保安部隊隊員があなたを制止しようと試みるのを、最上位から一つ下のクリアランスを持つカードを掲示して追い払う。背後から聞こえる「幸運を」という言葉に振り返りもせず、中指を立てて返事とする。祈りは何も解決しないという事をあなたは良く知っていた。
試作品という事になっている、自身の作り上げた試薬の性能をあなたは確信しており、その試薬の注入機能のある7.62mm口径のスマート・バレットも、あなたが良く信頼を置いているエンジニアが作ったものだった。それらを用いた、反吐が出るほど忌々しい新規の暫定Apollyonクラスオブジェクトに対する終了計画の成功をあなたは確信していたが、その上申は、すでに半年ほど先延ばしにされていた。
手の中のM1A小銃の木製銃床は、あなたと同じ体温を掌越しに主張している。ここ半年で、研究職の人間特有の僅少な余暇を全て費やして身を投じた戦闘訓練は、この寡黙で時代遅れな小銃をあなたの第三の腕に変貌させた。薬室を確認し、緑のラインが入った特殊弾薬と視線を交わす。
たどり着いた収容室の、反射率の低い巨大な一枚の防爆壁は、古代エジプトの石職人が切り出した巨岩を思わせた。カードを虚空にかざすと、数十通りのアプローチでセンサがその真贋を確認する。マイクロ波を受けたカードの振動を幻覚し、緊張の高まりを感じる。心拍数は120程度。万全なパフォーマンスを発揮するには少しだけ過剰なアドレナリンと、その結果生じた自身の心音を聴きながら、あなたは眼前の巨岩がイメージとは相反する無音と共にぬるりと上方へ開いていくのを見届けた。
鋼鉄製の壁面で覆われているはずの収容室内には既に満点の星空が広がっていた。収容室の外縁で最大出力で稼働しているであろうXACTSはあと数分で機能限界を迎えるだろう。予防的終了処置の先延ばし。その代償が、この準Kクラスシナリオ発生という結果だった。「世界が裏返る」現象の只中、あなたはその中心のベッドで眠る少女を見やる。
自身が見続ける夜空の夢で現実を塗り潰す異能。忌々しい人類の敵。もはや一刻も早く終了すべきApollyonの少女に銃口を指向し、手垢塗れのトロッコ問題を思い出しつつ、あなたは初弾が命中する事を確信しながら引き金を絞るだろう。
夜を終わらせろ。あなたにしか越えられない。
1915年。
手入れのされていない山羊のように着ぶくれした下からでもアフリカの砂の冷たさが感ぜられる深夜。あなたは懐中時計の短針が直上を向いている事に気付く。傍らで丸まって眠る相棒は青く冷たい月明りを浴びて赤い地面に影を落としていた。見張りの交代まであと一時間もあることにあなたは辟易し、少しだけ封を切ってある缶の切り口からレーズンを数粒取り出して噛みしめ、口中で果実の色を思い出そうとした。
この戦争が始まって以来すっかり顔なじみになった鉄条網と呼ばれる資材で囲まれた小さな集落。そこを壊滅させたという、伝染病と異常宗教のハイブリットのような異常存在は、あなたを米軍の連絡員という肩書で海の向こうの異世界のようなこの大陸の果てに呼び立てた。感染性の肉塊が村から出ようとしたら機関銃で撃つ。それがあなたの仕事だった。
連合国と中央同盟国の小競り合いも近辺で起きている。イギリス軍と接触することがあったら米軍のドッグタグと全米確保収容イニシアチブの識別表を提示する手筈になっており、恐らく前者があなたの命を救うだろう。ドイツ軍と接触することがあったら、恐らくそのどちらでもなく、あなたの前でバイポッドを展開している最新鋭機関銃があなたの命をほんの少しの間延命させるかもしれなかった。
ルイス軽機関銃と呼ばれる、上にフライパンの乗っているかのような奇怪な形状をした最新の機関銃は、大挙する汚染された肉塊から少なくとも移動能力は奪うことが出来る、というのが上層部の判断であるらしい。その一見して賢しらな判断は、精密機器を砂塵舞う砂漠で運用する苦悩を現場のエージェントに強いた。
人類史上初とも言われる世界的な戦争。蔓延が噂される非異常性の疫病。戦場を跋扈する新型の、忌々しい兵器たち。世界が大きく変わろうとしている。そんな中、あなたは異常存在から世界そのものを守る任を受けている。
懐中時計を見やる。まだ数分も経っておらず、あなたは嘆息する。
世界は激動し、時代の先行きは全く不明瞭で、缶詰のレーズンの残りは少なかった。
夜から目を逸らすな。あなたにしか見届けられない。
とある夜。
焚火のもとに皆が集まっていた。洞窟の入り口が遠くに見え、その向こうには夜空が紫色に広がっている。洞窟の中に居る「大人の男」の数は、いつもの半分も居なかった。そして何度探しても、その中にあなたの父親はいなかった。
「みんな知っての通り、私たちは今日、長らく禁じられていた『夜の狩り』に出た」
そのことはあなたも知っている。狩りをするのも、知らない場所へ出かけるのも「大人の男」の仕事で。そしてそれは「明るい時間」のうちに終わらせなくちゃいけない。
「この一族は栄え、人数が増えた。食い扶持はどんどん増やさなくてはならない。そして夜になると現れる魚、夜になると動きが鈍くなる獲物が多いことは分かっていた」
おじいさん、と呼ばれる、一族の約束や仕事を最後に決める人は、いつも通り難しい言葉で、けれどゆっくりと話し続けた。
「私が決めた。約束を破って夜の狩りに出ると。「大人の男」半数で、いつもの狩場に出向くくらいなら大丈夫と、そう判断したのだ」
集まりのあちこちから泣き声が聞こえる。
「間違いだった。『決まり事』には意味があった。我々は夜、外に出てはいけなかった。父親を亡くした子ども達。すまない。そして忘れないでおくれ」
あなたはおじいさんの背後の壁に広がる絵を仰ぐ。牙を持つ生き物。大きくて危ない生き物。食べると体がおかしくなる木の実、草。「危ないもの」をみんなで知るために描かれている絵。その一番端に新しく加えられた「危ないもの」。今まで知られていた「危ないもの」のうちのどれよりも大きく、沢山の脚を持ち、そして泣きたくなるくらい黒く、ソレは描かれていた。
「決まりを破るな。火を絶やすな。家族を守るんだ」
おじいさんはソレにつけた名前を口にし、あなたはその名を記憶に深く刻んだ。
夜を忘れるな。あなたにしか語り継げない。
約4万800年前に描かれたとされている、スペインの洞窟内で発見された壁画。
獲物となる動物から敵対的な捕食動物。あるいは果実、植物などが描かれており、特に生活する上で脅威となる物をコミュニティの中で共有するために描かれたと推察されている。猛禽類の描かれているエリアに10本以上の脚部と正四面体状の胴体を持つ黒い実体が描画されている。当初は毒虫を図示したものと思われていたが、他の絵画は一貫して概ね同一の縮尺で描かれている事から、縮尺から類推すると当該実体は一般的な肉食獣の3倍前後の大きさを持つ事になる。
宗教的な畏怖の対象を描いたものとする見解が一般社会における現在の主流である。実体の形状等の特徴がSCP-█████と一致する事から、当時の人類とSCP-█████の接触が発生したことを示唆するものである。現在研究が進行している。
今夜。
あなたは夜道を歩いている。細い車道と、さらに細く砂利にまみれた質素な歩道しかない、ひたすらに真っすぐで、街灯一つない荒れた道だ。
幸いにも月齢は大きく、満月が雲一つない天上から歩くには十分な光を落としている。足の裏に刺さる石くれの感覚は涼しい夜風と混濁し、何だか夢見心地になったあなたは、気まぐれに道のわきに広がる藪に目を凝らす。
そこには夜があった。火を起こすという技術を身に着けるまで、人類種がただ恐れる事しかできなかった、暗黒と、外敵と、死の世界だ。
あなたは物音を立てないようにポケットに手を入れ、使えるものを探す。幸いなことに硬くて冷たい道具らしきものに指が触れ、あなたは少しばかりの安堵と、大きな勇気と共に、何らかの道具を取り出すだろう。
それはナイフかも知れないし、38口径の短銃かも知れない。あるいは干しブドウの入った缶詰かもしれないし、ひょっとしたら黒曜石で出来た石器かも知れなかった。
いずれにせよあなたの手には道具があり、手段があり、これまで歩んできた道で手に入れた知恵と意志があった。あなたは無力である。あなたは無能ではない。夜はあなたを殺そうとするだろう。しかしあなたは夜が恐ろしくはない。
ざあ、という風の音をあなたは無意識に視線で追う。夜道を吹き抜けた風から藪の中の暗黒に視線を戻すと、もう木々の間からこちらを覗き込んでいた漆黒はすっかり薄らいでいる。
あなたは再び夜道を歩きだす。道の脇にある藪には相変わらず夜が存在し、天上からは月明かりが降っていた。
夜を歩め。あなたは一人ではない。