「日本生類創研倫理委員会」
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 斬新な閃きは普段の生活から。
 日本生類創研に所属する研究員、伊藤は、爽やかな気持ちでタイムカードを押した。
 
「お、伊藤、今日も元気そうだな」
「あ、おはようございます」
 
 タブレットから顔を上げた先輩研究員小野寺に返事をし、隣の席に座る。

 朝会の時間までにはまだ猶予がある。その間伊藤は、先輩とひと時の会話を楽しむことにした。小野寺は、伊藤がまだ新人だった頃から何かと目をかけてくれた恩義ある人だ。
 小野寺はどうやらタブレットで新聞を読んでいるらしかった。今日分の日付が書かれた液晶を叩きながら、彼はため息をつく。
 
「ほら見ろよ、絶えない虐待事件…嫌になるよなこういうの」
「ああ、結構テレビでも取り上げられてますよねそれ」
「ほんと同じ人間として最低だわ。命を何だと思ってんだか」
「本当ですよね。肉親を〜とか子供を〜とか。掛け替えのない命を踏みにじるような行為は許せません。」
「ほんとそれだわ。…ああごめんな、朝からこんなもの見せちまって。」
「いいえ、お気になさらず」
 
 画面の中では、被害者だと思われる小学生ほどの少女が笑っている。
 スクロールバーが一番最後まで到達し、小野寺がタブレットをホーム画面に戻した。
 
「まあとか言って、俺たちも人のこと言えねえけどな。俺たちがやってる事だって、傍目から見れば命を弄ぶ行為だろう?」
「さあ…?私は生物学の観点から人類の進歩を後押ししたいがためにここに入りました。命を弄ぶのではなく、命を解明しているのでは?」
「あーうんうん、そうだな。お前そういう奴だったな。」
「何かおかしな事言いましたか、私」
「いや全く。ココではお前が真っ当だよ。ただな、俺どうしても疑問生まれちまうわ。研究の為とか何とか言ってるけど、本当に俺たちがやってる事は正しいのか、ってな。正当性を貼り付けても、そこからやべーもんが零れ落ちるくらいには、ヤバい事やってんじゃないかって。」
 
 相手が一度喋るのを止めたのを見て、伊藤も一度、鞄から取り出したペットボトル飲料に口を付ける。
 
「倫理観や金銭問題に縛られずとも自由に研究が出来るのが、ニッソの良いところでは?」
「研究、な…最近はなんかもう、知的好奇心を満たすためのオモチャしか作ってない気がするが」
「いくら小野寺さんとはいえ、言って良い事と悪い事がありますよ」
「…あ、お前ニッソに夢見て入ったクチか、ごめんな。今の話は忘れろ。」
「…いいえ、大丈夫です。貴重なご意見ありがとうございます。」
「そんな固まるな。…まあそうだな、もしニッソに倫理観持ち込んだらそれはもう、自由にやれる俺らのニッソじゃねえしな。」
「そうですよ。進歩には多少の犠牲もつきものですから。それにここの人たちは、多少道徳心が抜けてても、人道に外れた人たちじゃないって思ってますので。」
「そうだな、…多分な」
「あっ小野寺さん、そろそろ朝会の時間になりそうです。」
「おっそうか、折角だから一緒に行くか?」
「よろしくお願いします」
 


 

 ニッソ定例の朝会はつつがなく進行した。
 研究所に詰め込まれるのは体に良くないと提案された体操、当番制で行われる研究員の一言挨拶、抱負と今日分の作業の確認。
 もちろん、「研究が大詰め」だと研究室に引きこもる者もいるにはいる。しかし、原則は部門の垣根を越えた全員参加。当初は低かった出席率も、ここ最近は上昇傾向にあった。

 一通りの工程を終え、なんとなく参加者の間に「早く終わって欲しい」という空気が流れ始める。
 「伝達事項がある方は名乗り出てください」ねえよそんなもんという空気を割いて口を開いたのは、第3研究所ヒト科生物研究室主任、凍霧陽だった。
 
「ヒト研1の凍霧です。突然の申し出となり、申し訳ありません。本部から連絡が来ています」
 
 本部からの連絡。ざわ、と周囲に不穏な空気が流れる。
 凍霧の事実上の上司である久能も、その事について知らなかったらしい。壇上に上がった凍霧に、「どういう事だね」と声を上げた。
 
「申し訳ありません博士、これは本部の方でも大分論争が起こっていたようで、正式に決定するまでは他言するなと…」
「なるほど。で、本部からの通達というのは何だね?」
「はい。みなさん、聞いて驚かないでください。」
 
 ごく、と誰かが唾を飲む音が聞こえた、気がした。微妙に嫌な予感を感じた伊藤は、平穏かつ爽やかな今日1日の幕切れを覚悟する。
 普段の笑顔を更に深めて、研究員一同を見回した凍霧が口を開く。
 
「今回、度々問題視されていた、ニッソ内でも横行する実験内容へのバッシング、道理にそぐわぬ研究内容、非効率的な実験体の管理体制などを重く考え───明日から"倫理委員会"を設立する事になりました」
 
 
 
 
 
 
「訳がわかりません」
 
 皆が呆然とつっ立ったまま、時が止まった朝会から時計の針を動かし、昼休憩。
 本部からの突然の通達に酷く憤った様子で、伊藤は鯖味噌煮定食を口に放り込んだ。
 
「というか!入る時!生活的人道的問題は気にしなくて良いってはっきり職員の方おっしゃってたのに!何ですか突然倫理委員会って!」
「…うんまあ、何というか、説得力ねえよな。自分たちで言うのも何だが世界一薄っぺらい倫理観だと思うわ。」
「ウチが駄目なら財団とか完全にアウトだと思うんですけど」
「あそこは倫理委員会元からあるらしいけどな。財団に関わった事ある同期の話だと。」
「あそこが言う倫理とウチの倫理じゃどっちが浅慮ですかね」
「五十歩百歩だろ…」
 
 比べんのやめろ悲しくなるわ。小野寺は苦笑しながら唐揚げ定食をつつく。
 
「もし財団の影響でニッソにもこんなものが出来たとしたら私、財団に殴り込みに行くしかなくなりますが」
「やめとけやめとけあそこは職員も含めて全員異常物体って聞くぞ」
「…まあ、出来ちゃったものは仕方ないですからね…どうしましょう、全員でストライキでもしますか」
「お前って大人しい顔して結構過激派だよな」
「そうですか?」
 
 鯖の身を器用にほぐしながら、伊藤が不本意そうに首を傾げる。
 相手はしばしその様子を眺めていたが、傾けたお冷が切れた事を悟り、面倒げにコップを机に置いた。
 
「まあ、無駄な予算食ってばかりで成果のない研究を切るってのはわからなくもないが」
「そこには賛成です。同期にもいたんですけど、ニッソをただの『自分が楽しいおかしな研究しても許してもらえる場所』としか見てない連中が一定数いるんですよね。許しがたい事です。」
「(一定数っていうか、九分九厘そういう連中じゃねえのか…?)」
「時々というか大体、就職先ニッソって言うと『マッドサイエンティストの集まり』とか『頭のおかしい奴が頭のおかしい研究してる場所』とか言われて心配されるんです。失礼しちゃいますよ。」
「(その指摘はあながち嘘じゃねえだろ)」
「そもそも!私はニッソに明確な目標と情熱を持って来たのです。科学の力で生命の神秘を解明し、そして人類の進歩に貢献すると!目先の利益しか考えてない商品企画部とか、自分たちが楽しい研究しかしてない人間以外生物研究室とかの連中と一緒にしないで頂きたい!ですよね小野寺さん」
「…お前、ニッソ来て何年目だっけ」
「今年で3年です」
 
 どこか不安定に浮いた理想論を語る後輩に、どう現実を示したものか…と、小野寺は頭を抱え始める。
 そんな先輩をよそ目に、伊藤はつらつらと文句を流した。
 
「そもそも倫理委員会の倫理ってどこから引っ張ってくるんですか。誰基準なんですか。組織全体で道に外れたような事してるのに、今更まともさアピールしてきたって焼け石に水だと思うのですが。」
「あっ、そこは自覚あったんだなお前も」
「実験体のずさんさとか言ったって!我々としては結構頑張ってやってるんです。ただ困ったさんな馬鹿とかが、つい!そう、ついうっかり!実験体を逃してしまうんです。本当にもうアレはごめんじゃ済みませんよ。」
「ポリクイくん…ポリッコ…ポリクイガ?まあ良いや、アレか。ポリクイガ(仮)逃したやつ、あの後クビになったらしいけどな。」
「当然の処置です。あんな人類の敵にしかならないようなの作ってるから、我々のイメージが下がってしまうんですよ」
「それこそ今更だけどな」
イナゴとか」
「アレはもう作った奴の頭がおかしいとしか言えねえだろ」
「まあ現在イナゴは物理的にゼロ匹ですから」
「昆虫科の知り合いがよ、『素晴らしい実験が成功した!ゼロ匹のイナゴを生み出したんだ!』とかドヤ顏で言うから、俺こいつを精神鑑定に突き出そうかしばらく悩んでたんだぜ」
 
 伊藤の喋る口は止まらないが、箸の動きも絶え間ない。
 憤りのエネルギーを詰め込むかのように腹に食べ物を収める伊藤と対照的に、小野寺の食事はあまり進まなかった。

 明日からの惨状を考えれば、正直食事どころではない。最後の凍霧の笑顔を思い出し、彼は胃が竦む思いがした。
 味噌汁の最後の一口を飲み干して、とにかく!と伊藤が息巻く。
 
「倫理委員会には反対です。きっと私と同じように思っている人も多いでしょう。署名でも集めて断固抗議します。」
「あー…ウチって研究者としての待遇は保障されてるかわり、労働者としての待遇がゴミだぞ…?」
 
 彼よりもこの団体をよく知る先輩として、言外にやめとけ、と止めたつもりではあったが、怒りに燃える後輩には伝わらなかったらしい。トレイを片付けるついでとばかり、食堂の面々に声をかけていきそうな勢いに、小野寺は見えないようにため息をついた。
 
「私は人類の発展と、生命の神秘の解体のためにニッソに来ました。そう、進歩のためなら多少の犠牲もつきものなのです。人が唱える薄っぺらい倫理観や道徳心など、科学を阻害する悪としか思えません。他人の目を気にした瞬間科学は地に落ちる。いつだって天才は理解されないもの───そう、我々は常に先を進まなければいけない!いつだって!どれだけ世間に叩かれようと、どれだけ罵声を浴びさせられようと、人類の発展と科学の神秘を求めて己が道を突き進む!それが我らが誇り高きニッソなのです!」
「お、おう…それはそれでまあ何というか問題がある気もするが」
「なぜ今更、倫理委員会なんて作ろうと思ったんだか」
 
 伊藤はまだ何か言いたげだったが、残念ながら休憩の限られた時間は、彼の意見を最大限発露させるには足りなかった。開始10分前を示すコールが鳴り、伊藤はため息をつきながら椅子から立ち上がる。
 
「…明日から、ですか。気が滅入ります。」
「本当だわ。臓腑がひっくり返りそう。」
「どうなってしまうのですかね、我々が愛したニッソは。」
「さあな…まあ、本格的継続的に採用されない事を祈るばかりだわ。」
「人間に飽きたら、被験体として身を差し出すのもアリではないでしょうか」
「はは、それこそ倫理規制に引っかかりそうだな」
 
 お互い軽口を叩くが空気は重い。
 
「では、お互い仕事に戻りましょうか」
「そうだな」
 
 明日からその仕事さえ、まともに出来なくなってしまうのだろうか。
 一体ニッソはどこに向かっているのだろう。伊藤はトレイを返しながら、明日からの自分の不幸を呪った。
 


 

 どうか日常を返して欲しい。
 研究員伊藤は、陰鬱な気持ちでタイムカードを押した。
 
「おはよう伊藤、今日という日が来ちまったな」
「ええ。そうですね………」
 
 タブレットから顔を上げた小野寺の顔も、心なしか色を失っているように見える。

 朝会の時間までにはまだ猶予がある。その時間が、伊藤にとっては死刑執行の待ち時間のように思えた。相手も似たような事を考えているようで、タブレットの上で指が落ち着かなく動く。
 きっと朝会で倫理委員会の詳細な説明があるのだろう。小野寺が深々とため息をついた。

「倫理委員会か…ほんと、冗談きついよな…」
「もう胃が痛いです…」
「いっそ朝会バックれちまいたいわ」
「それこそ倫理委員会の取り締まり対象なのでは?」
「それもう倫理委員会じゃねえ、風紀委員会だ」
「昨日の話を聞く限り、その方面も兼ねているようでしたが」
「大丈夫なのか?ここ世間一般の公序良俗乱す馬鹿の集まりだぞ」
「………真の智を追い求めるが故、人の道を外れてしまう事も時にはあります」
「微妙な間が」
「でも本当にどうしましょうか。倫理委員会が本格的に始動するとなれば、私たちが今まで行っていた研究も全て検閲、規制対象に。」
「そこなんだよな…」
「言われた研究しか出来ないなんて嫌ですよ私」
「ここ最近は何でもかんでも規制規制。少しでも検閲引っかかると、目くじら立てて全員で叩き出すからな。俺たちがやるような研究は、外部にはある程度秘匿されているとはいえ、そういう風潮に乗って騒ぎ出した奴がいたんじゃねえの。」
「全く、世論に乗っかり馬鹿の一つ覚えのように似たような文句を垂れ流す…他人がしているから自分もしていいと考える。そのような輩が多くて困ります。本当に世知辛い。」
 
 不快そうに眉尻を引き上げた伊藤が、飲みかけのペットボトルの蓋を手で弄ぶ。
 
「倫理観や金銭問題に縛られずとも、自由に研究が出来るのがニッソの良いところだったのに」
「まあお前に対し否定はしねえよ。ただ、最近少し暴走気味と言えなくもなかったが…だからと言って、なあ。」
「自由な考えで動ける、我々の良さが失われてしまう。ここでないと息ができない者も多いでしょうに。…私のように。」
「そうだな」
「ここが、ニッソが、我々が、一番人類の事を考えていると言えると私は思います…。自分たちに不都合だからと隠蔽したり、自分たちが理解できないからと破壊しようとしたり、かと言えば自分たちの利のみで理解できないものを生み出し続けたり。我々は違う。真に人類を愛し、科学を愛し、知を愛している。進化を押し進めようとしている。偉大なる私たちの歩みが、他ならぬ我々の手で遮られようとしているのです。度し難い。なぜ上はこんな事を」
「…伊藤、そろそろ朝会の時間になるぞ」
「ああ、すみません。話が長くなりました。」
「覚悟は決まったか?」
「決まってないので一緒に行ってもらっていいですか」
「おう」
 


 

 地獄のような朝会が終わった。
 死刑宣告を受けた囚人のような顔をしている伊藤の肩を叩いたのは、彼の同期である名波英斗ななみえいとだった。
 
 名波は伊藤の大学時代からの友人である。容姿こそ爽やかな好青年という出で立ちだが、その実当時から(ある意味ニッソにはぴったりな)いわゆる"マッドサイエンティスト的思考"の持ち主で有名な人物だった。

 自分の好きな事を何よりも優先させる。目的のためなら手段を選ばない。

 大学でも、彼が手がけた研究や論文が「反社会的」だと言われ、懲罰を受けた事も一度や二度ではない。伊藤よりも先にニッソに内定が決まっていたが、その時も「これでやっと自分の好きな研究ができる」と喜んでいたのだ。そして実際にニッソ内でも頭角を現し、年若いながら重要なプロジェクトを任されていたりもした。
 
 そんな名波の事である、きっと自分よりも衝撃が大きいだろう───そんな思いで彼を見た伊藤の予想は、確かに当たっていた。
 普段は笑顔でテキパキと動く彼になんというか、いつもの覇気がない。
 
「ついに来てしまったな。この時が。」
「ああ、そうだな。全く、ニッソが自分の手でニッソの良さを封じ込めて何になる。」
「ああ、お前もそう思ってたか名波」
「勿論だ。生命の暗闇を暴く我らが、自ら生命の暗闇に囚われるなど愚の骨頂。しょせん自分たちの周りしか見られぬ連中が振りかざす薄っぺらい倫理だの人権だのに縛られず、本当にやりたい事、本当に価値ある事が出来ると俺はニッソに入ったのに…。」

「───何か質問がありますか?」
 
 伊藤と名波の間に割って入ったのは、朝会で倫理委員会の説明をしていた凍霧だった。
 「あ、いえ」咄嗟の出来事に伊藤が言葉を詰まらせる。
 
「なら大丈夫ですね。…ああ」
 
 ふと凍霧が何かを思い出したような素振りをする。
 微妙に嫌な予感がした伊藤と名波をじっと見、凍霧は口を開いた。
 
「貴方がたはあまり内容が頭に入っていなさそうだったので、もう一度だけ確認しておきたい事がありまして」
「はい」
「ここだけは、はっきりさせておかないと。今後倫理委員会の検閲に逆らった者は、自宅謹慎、減給、部署流し、最悪の場合解雇処分となりますので。」
 
 は、という顔で、伊藤と名波が顔を見合わせる。
 ───今、こいつは何と言った?
 
「解雇?」
「かいこ」
「KAIKO?」
「解雇です。有り体に言うと、クビですね。」
「は?」
「やっぱり聞いていなかったですね。まあ最後の方にちょろっと付け加えただけですし。あまり皆さんわかってないのではないでしょうか。まあ、僕としては実際に被疑者が出てから、改めて説明するくらいが良いと思うのですがね。」
「解雇…」
「説明は以上です。何か質問は。」
「異議ならあります」
「はい、そういうことで。これもニッソをより良くするためだと、本部からのコメントが届いています。今日からよろしくお願いしますね。」
 
 終始笑顔を崩さず話しきった凍霧が去っていく。

 その背をぼんやりと見つめていた名波が一言、低い声で罵声を吐いた。
 勿論伊藤はそれが聞こえていたが、何となく、何も知らないふりをした。
 


日本生類創研 倫理委員会
 最高責任者 ██博士
 責任者助手 ██博士
研究計画書は、検討、意見、指導および承認を得るため、研究開始前に本委員会に提出されなければならない。本委員会は、その機能において透明性がなければならず、研究者、スポンサーおよびその他、いかなる不適切な影響も受けず、適切に運営されなければならない。

以下の規定により、提出された計画書を審査するものとする。
 1 提出された研究計画で目的とした成果が得られるか
 2 提供される実験体への負担を提供者に正当に説明できるか
 3 研究内容に対し、予算と物資の計画は適当か
 4 実験のリスクと実験の効果のバランスが保たれているか
 5 実験によって人物、器物などに重大な損害が発生した場合の責任の所在がきちんと明記されているか
 6 実験方法は、法と人道に則したものであるか

また、研究計画開始以降も以下の点を審査する。
 1 実験体は適切に管理されているか
 2 予算、物資は適切に運用されているか
 3 人物、または器物に対し、損害が生まれる可能性のある有害事象の発生はないか

 


 

 かっちりとしたスーツに身を固めた男女、その数およそ8人ほど。
 事前の話によると、本部含むニッソの各ブロックごとに委員を派遣し、現状調査と改善案の提案、既存および新規の研究計画の審査などを行うらしい。

 「Bエリア担当班の責任者を務める██です」輪の中心に立ち、先ほどまで凍霧と話していた中年の博士が挨拶した。
 
「ニッソは近年、営利団体としての側面も大きくなっています。商売をするに於いて、販売者のイメージというのは大切な要素です。製品は適当な手順で生産されているか?作り手はどのような思いで製品を作っているのか?製品を形作る原材料は信頼できる方法で入手されているのか?また製品を作る団体自体は真っ当であると言えるのか?イメージは大切です。消費者は"イメージ"で物を買うと言っても過言ではありません。」
 
 ニッソに来る前はプロメテウス研究所にいたという██博士は、倫理委員会の重要性について滔々と語った。
 
「製品を販売する団体が、モラルに欠けた非道徳的なところと消費者が知ってはなりません。だからこその倫理委員会です。研究内容も実験も真っ当に。好きなことを好きなだけ行う従来のニッソではもう済まされないのです。本当に価値ある事を正しいやり方で。これが我々倫理委員会のモットーです。」
 
 誰かが舌打ちする音がした。
 ██博士は僅かに眉をひそめたが、特に気にした様子もなく改めて一同を見回す。
 
「良いですか皆さん。我々とて手荒な事はしたくありません。ただし我々は、本部からある程度の権限を貰っています。そう、貴方がた一研究員や博士を解雇クビにできるくらいには。」
 
 ざわざわと喧噪が場を満たす。同時に、そこまでなんて聞いてない、とか横暴だ、とかいう声が上がった。
「───やれやれ、やはり皆さん、僕の話聞いてなかったんですね」委員らの側に控えていた凍霧がため息をつく。
 
「今後倫理委員会およびその校閲に逆らった者は、自宅謹慎、減給、部署流し、最悪の場合解雇処分となります。
これ朝会で説明したはずですが。話の半分も理解されていなかったようですね。」
 
 どよめきが広がっていく。
 一様に不満と驚愕を示す研究員達に、凍霧は普段と変わらぬ最高の笑顔で笑った。
 
「博士から伝えられる話は以上です。何か質問は?」
 


 

 窮屈な毎日が始まった。

 手始めに倫理委員会が行ったのは、現在進行形で行われている実験を検閲する事だった。
 噂では、数ある研究の半数以上が規制を食らったらしい。伊藤が就いていた研究は何とか委員の承認を得たが、小野寺の研究はどうやら大幅な変更を受けたらしく、「どうにもやりづらくなった」とぼやいていた。

 研究内容の審査、予算案の見直し、実験内容の確認、実験体の管理への留意。
 規制、校閲、改定。突貫で設けられた委員会の部屋は人が絶えることがなく、また大量の書類が舞っていた。
 「『ヒーローに休息はない』なんて皮肉まじりで呼ばれているらしいぜ」増えた仕事に追われ、寝不足気味の小野寺は栄養ドリンクを傾けながら言った。

 何日寝てないんですかと問えば明確な返答はなく、ただ、昔より徹夜が辛いと後ろ向きな言葉が返ってきたのみである。
 
 
 
 
 
 
「その話なら聞いたな。何が正義だ、と、嘲笑まじりに揶揄られてるらしいが。」
 
 食堂の一角を陣取り、名波に話を聞けば肯定が返される。
 もう何日もまともに食べていないという彼の目の下には隈が付いており、白衣もよれていた。彼も突然の改正で仕事が増えたクチだろう。哀れに思った伊藤がコーヒーを奢ってやると言えば、力なく感謝の言葉が述べられる。
 
「お前のとこは何もなかったのか?…ああ、お前のとこは責任者がしっかりしてたからな。ウチは駄目だ。実験方法と実験体の管理が引っかかってな。他の方法を考えろ、無理なら研究は取りやめだと。何も知らねえくせに好き勝手言いやがって。」
 
 確かに、とんだ正義の代弁者だと伊藤は思った。
 実験のための申請は、他よりよっぽど楽とはいえそれなりに手間があるし、実際の成果のためにも、机上の空論をこねくり回して作り上げた計画には寸分の狂いも許されていない。
 各々の知識と経験を総動員して作り上げた計画を突然否定され、考え直せと言われたら怒りたくもなるだろう。口の中に入った生姜焼きが砂利の味になった気がした。
 
「何というか、災難だったな…」
「気にするな、お前が心配する程じゃない。ただこんな事は二度とやりたくない。」
「だろうな」
 
 プライドが高い名波が素直に従っているという事実が、伊藤には少々驚きではあったが、一応権力には従うのだろうと思い直す。

 お互い、ニッソ以外ではまともに息もできぬ社会生活不適合者だ。自分という存在とも相手ともそれなりに長い付き合いなので、二人ともそこら辺は自覚している。
 解雇などされれば、明日も知れぬ我が身。一般的にまともと言われる人間たちに対し散々トラウマを作ってから、孤独死だの自殺だのというのは本当にシャレにならない。それだけは避けたかった。
 似たような人々に囲まれ、ある程度制限があっても自分が好きな事をさせて貰えるニッソここが居場所だった。

 というか実際問題、割と事態を甘く見ていい要因があった。
 突然の事に騒然となったあの会場で、凍霧が困ったように笑いながら言ったのだ。「本部としてはしばらく様子を見て考えるという考え」だと。

 「しばらく様子を見て考える」という事は、「しばらく」の間で特に成果が出なければ良いのだ。
 そして今までのニッソを鑑みるに、成果はあまり期待できないと伊藤はたかを括っている。

 確かに、無駄な予算や研究はニッソにとって害としかなり得ない。しかし、それだけで引くような人材の集まりでもない事も彼はよく知っていた。
 幾つかの異動を経ながら過ごした三年間は見せかけではない。自分たちの研究に貪欲で、その為ならば何を犠牲にしても構わぬと傲慢で、結果が出れば後は知らぬと大雑把で、ただ求める知に対して真摯であり、己が抱える好奇心に素直だった。

 研究者としては良く、人としては最低の集団だ。
 自分たちの興味基準でしか食指が動かぬ彼らは、伊藤にとって蔑視すべき存在であり、同時に敬意に値する人物だった。

 勿論、他利的な、真っ当な考えを持ってニッソに来た人も沢山いる(自分もその一人だと伊藤は考えていた)。そんな人々は彼にとって素直に尊敬に値する人物であり、また彼らは、前述のような研究者たちを厭う傾向にあった(そして伊藤もその傾向を持っていた)。
 「一定数」と先輩研究員には言ったが、団体に属する人間の割合、力関係を把握できぬほど愚鈍でもないし、それならそもそもココにはいない。

 実益と嗜好でしか人と群れられぬ者たちだ、今更世間一般の物差しで測ろうなどと愚の骨頂。前提から間違っている。
 
「倫理などという尺度は、我々の行動に対する抑止の箍にはならないだろう?」
「それはそうだが、なぜ俺を見る」
頭おかしい人マッドサイエンティスト代表かなと」
「それは怒っていいのか褒め言葉と受け取っていいのかわからん」
「褒めてる褒めてる」
「適当だな」
「ほんとほんと」
「ほんとかー…?」
「本当だからな」
 
 適当な相槌と共に、考えていた事をさらっと話す。委員会の執行期日に関しては名波も似たような事を考えていたらしく大きく頷いた。その間も自身の刺身定食を食べる箸は止まらない。
 
「まあそうだろう。というか、そうでないと困るな。」
「どうする?これからどんどん力を持って暴走し出したら」
「笑えない冗談だな…」
「まあ平気だろ。ニッソって博士も研究員もみんなアレだし。」
「上まで変な方向にトチ狂ってるからこうなったがな」
「そのうち正気に戻るというか、いつもの狂気が戻ってくるだろ」
「そうだな」

 プレートの上の料理は空に近づいている。
 時計を確認すればもう少しで午後の業務が始まりそうだ。二人は喋るための口を閉じ、目の前の品を咀嚼しにかかった。
 


 

 伊藤の予感は外れた。外れてしまった。

 大幅に減少した脱走案件。指示通りに改稿した事により、売り上げが上昇傾向になりつつある商品カタログ、向上した研究者の待遇。
 その変化を本部は歓迎し、より手広い活動域と大きな権限を与えたのだ。
 それにより、後ろ指をさされながら渋々従われていた倫理委員会の存在が、盤石な立ち位置バックをもって君臨してしまった。
 
 この一連の出来事について、渦中にて体験したニッソ職員は後にこう語る。
 「道徳心が存在しない正義を持った権力など、ただの独裁に過ぎない」と。
 

 初めは作業環境からだった。
 食堂やミーティングルーム、休憩室などの各部屋に、よくわからない洒落臭い観葉植物などが置かれ始めたのだ。
 前までは、荷物や資料を置いていた棚の上などに置かれていただけだったので、皆「微妙に邪魔」と思いながらも取り立てて気にする事はしなかった。

 そして、椅子やら何やらに微妙に気取ったクッションが置かれるようになった。
 「微妙に座りやすくなった気がしなくもないな」笑って流していた。

 いつの間にか、壁に貼られていた無機質な張り紙が剥がされ、その代わりデザイン性の高いチラシが貼られていた。
 「誰がこんな事を」皆思ったが、声高に注目する者はいなかった。

 手荷物検査、PCの履歴調査、個人的な身辺調査などが行われた。
 要注意人物にはGPSを付けるなどの対応が行われた。
 「他の会社だってやるだろう?」そうは言っていたが、皆「他の会社」をよく知らなかった。

 これは「倫理」ではなく「管理」なのではないか?そう思ったが声には出されなかった。
 人間至上主義の倫理観の中に与するのは、研究員ではなく研究員を使役する側だけなのでは。疑問と不安が水面下に流れた。

 やがて「反逆すると暴力による制裁を受ける」という噂が流れ出した。
 「まさか、時代遅れだ」そうは言ったが、倫理委員会に充てがわれた部屋の横に「懲罰室」と書かれた紙が貼られると、それを笑う者はいなくなった。

 圧迫された政策に抗議しようと、解体の署名を行った者がいた。
 署名者は皆自宅謹慎となり、首謀者は「組織に反抗」したとして解雇された。ここまで来ると、笑う者も不満を言う者もいなくなっていた。

 その間にも、研究の検閲は行われ続けていた。審査に落とされた計画書にでかでかと押された「検閲済」の判。恐れ怒り、不満を垂れ流す者が多かったが、それ以上に皆、段々と思考が止まってきていた。
 検閲されたからなし、次、と、取っ替え引っ替え。自分の"役割"を見つけようと、手を替え品を替え審査を受けた。
 
 我を通さねば動かぬ狂人の集まりだったが、我を通せなければ途端に何も出来なくなる、社会生活不適合者の集まりだった。
 
 自分たちの力でしっちゃかめっちゃか動いていた歯車が、油を差される事を忘れられ動きが鈍くなる。
 回転の均整は取れども、個々の勢いはなくなっていく。
 
 危機感は薄れど不満はたまる。
 
 
 
 
 
 
 「実験体管理・脱走対策会議」と書かれたホワイトボードを、伊藤はぼんやりとした目で見つめていた。
 
「皆さんもご存知の通り、我々ニッソでは実験体の脱走案件が絶えません。踊り虫氷晶花ヤギ翼人、少し古いものだとそうですね、今だ向日葵畑の管理が出来ていない事とかですが。あまりにも、ずさん。あまりにも、雑。計画、理論、実験、そして結果が出れば終わりではありません。研究者たるもの自分が行った研究の後始末くらいまともに出来ずにどうしますか。」
 
 キビキビとした話し方をする女性委員が、ホワイトボードの前を神経質に歩く。
 その後も今まで脱走、行方不明となった実験体の名をつらつらと上げていくと、ボードに赤文字で大きく「責任感」と書いた。
 
「財団を見習いなさい。彼らは、自分たちが持つ異常物体を徹底的に秘匿します。一般人の目には触れさせず、それぞれに合った特別な収容方法を確立させています。───そもそもの規模が違いますから、そこまでやれとは言いません。ただ、そのくらいの気持ちで管理をしてください。」
 
 (言ってることは正しいんだけどな…)伊藤は思ったが口には出さなかった。私語は厳禁だと、開始前に散々注意されている。
 自分より少し遠いテーブルにいるであろう名波を盗み見ると、必死で欠伸を噛み殺している様子が見えた。現在午後二時、昼食が消化されつつある頃。睡魔が襲ってくるのも仕方がないと伊藤は思う。

 責任感。英語で言うとa sense of responsibility。
 目先の研究にだけ没頭する、ニッソの職員に足りないもの。

 伊藤自身としては、割と責任感はある方だと自負していた。学生時代も集団内をまとめる役職に就くこともあったし、社会人になる者として、責任感は大切だと散々教えられてきた。大人になるという事は、自分の行動に責任を持つ事なのだと。

 ならば、自分たちが生み出したものに責任を取れない自分たちは、頭と図体だけ大きくなった子供のようなものなのだろうか。
 伊藤は思うが、口には出さない。私語は厳禁。
 
 「良いですか。たまに実験体に情を入れてしまうような例も発見されているようですが、そのような事は全くあり得ません。実験体はあくまで実験体であり、実験体が我々に与えられているような何かしらの権利を所有している事、それを主張する事、それによって何か変化がもたらされる事───は全く無い事なのです。彼らは生体です。ええ、命を持っていますとも。ただ、"ただ生きているだけの事"と"生きる事が許されている事"は明確に違う事です。実験体、人の形をした異常物体。例えそれが如何に人間に近い物であろうとも、それはあくまで実験体です。消費物です。」
 
「あくまでも"モノ"という意識を忘れずに」。「責任感」の下に、こんな文字が追加された。
 
「貴方がたは鼻をかんだティッシュ一枚、切った野菜一欠片、運ばれた梱包材一つ、それら一つ一つに何かしらの特別な感情を抱き、何かしらの情をかける事がありますか?ありませんね。それと同じです。実験体は消耗品です。ただし先程挙げたそれらの物は、何かしらの手段で"処理"をするでしょう。ゴミを捨てる。可食部を食べる。実験体のその後の管理というのは、それと同じような事だと考えてくださって結構ですとも。やってやりっ放し、散らかして片付けない、我々は子供のお遊びをしているのでは無いのです。正確な行動、明解な定義、明確な意思をもって、そう、我々人類に明るい未来をもたらすために動いているのです。幼子が神に祈る世界平和などではありません。我々はその力があります。人類をより良い方向へ導ける力があります。その力をどう使うか?それは我々に委ねられています。そしてその力の一端を得てもそれを放棄し、隠蔽し、あまつさえ紛失する。本末転倒とはこの事です。力を得た我々は何をすべきか?人類のために何が出来るか?もう一度考えてください。そしてその力の正しい使い道を思い直してください。叡智を自ら手放すような馬鹿な真似だけは、どうか控えて頂きたいものです。」
 
 
 
 
 
 
「くだらん講釈だった」
 
 開口一番そう言い放った名波に、伊藤はまあ彼にとってはそうだろうな、と妙に納得していた。
 休憩室の椅子にもたれながら、自販機で買ったペットボトル飲料を開ける。視界の端に映った観葉植物をしめ出し、伊藤はペットボトルの中身を胃に流し込んだ。
 
「さも人間が特別なように言っていたなあの女。ああ、倫理委員会という存在が人間様至上主義か。人類が持つ特別意識と連帯意識、本当に理解し難い。何故見ず知らずの他人に対し幸不幸の意識を向ける。何故羊のクローンは作り、人間のクローンは拒絶する。何故モルモットに医療実験を行い人間には渋る。人も動物も生きとし生ける命という括りにおいて何ら変わらん。生物学において人間を分類すればヒト亜族ホモ・サピエンスだ。哺乳類だ。命は皆平等など謳っておいて、自分たちが一番命の価値に区別を付けたがる。言葉解せぬ動物は良く、自分たちと同じ人間は悪い。矛盾だ。」
 
 憤りながらまくし立てる名波の言葉を聞き流しながら、伊藤は休憩室の椅子に置かれた柔らかいはずのクッションが、何故か針のように自分を攻撃してくるように感じた。
 この同僚は昔から自分と一番打ち解けた友人であり、その実、いつだって自分と一番正反対なところにいるライバルだ。
 
「自然界において人間もまた他の動物と変わらず、また科学において、人間もまた一つの実験体として価値に貴賎ない。倫理委員会など大仰な名を語っているが、その実詭弁だらけだ。というかそもそも、本当に"倫理"を語るならば実験体の身辺待遇の向上を求めるのではないか?」
 
 ひんやりと冷たかったペットボトルが、伊藤の体温によりぬるくなっていく。

 名波の言うことも分かってはいたが、伊藤は名波が糾弾する人間の方だった。
 人類を上に見て、人類の進歩のために動いていた。人間といういきものは、他の動物に対し優位たらしめる差異があると思っていた。

 知性を持って生まれたのなら、その知性を最大限に生かす方向を。
 文明を生み作り上げたのなら、その文明を最大限に発展させる方向を。
 その為に自分は科学を選んだ。その為に自分はここニッソを選んだ。
 
「…わからない。何故人は自分たちばかりが他の生物と違うと考える…?」
「…」
 
 ただきっと、この考えは、どれだけ言葉を積み重ねても、名波には届かないのだろうと思った。
 


 

「くそっ、追いつかれたか!」
 研究員███は、手に抱えた包みに注意しながら、悔しげに後ろを振り返った。
 埃が舞う薄暗い倉庫の中で、研究員が来た白衣と抱えた白い布がやけに目立つ。何とか逃げようと奥まで走ったが、抵抗虚しく壁際まで追い詰められてしまった。カツ、と追跡者の靴音が倉庫に響く。
「研究員███、君は既に我々の反逆者だ。ただし我々も鬼ではない───今すぐその手の中の荷物を置いて投降すれば、島流し2くらいで許してやろう。」
「っ、誰が!」
 研究員███は顔を一瞬顔を歪めたが、ふと後ろに冷たい金属の感触を認めた。はっとしたように振り返ると、そこには上の方に付けられた小窓まで届く梯子が伸びている。本来は換気用の小窓を開けるための梯子なのだろう。
壁に張り付いたそれが、███には救済への道標のように見えた。
「これなら───!」
 追跡者に背を向け、███は包みに向かって何か囁いた。そのままそれを担ぎ上げ、梯子を登り始める。
「そこから逃げようというのか?無駄だ。その窓は君が出るには狭すぎる。見苦しいぞ███」
「…」
 追跡者が嘲笑う声に何も返さず、上まで辿り着いた███は、張り出した窓の所で包みを開く。
「…俺は駄目だけど、君なら平気だ。大丈夫、きっと行ける」
「  」
「怖い?ここで君がされる事、されてきた事よりよっぽどマシだ」
「  」
「駄目、君は行かなきゃいけないんだ。外は山だから、きっと君の仲間だってたくさんいるよ」
「  」
「ああ、君はそうだ、人でも動物でもなかったんだね…ううん。気にしないで。そこには君をいじめる奴なんて一人もいない」
「  」
「行って、ほら!」
 何もかもを察した追跡者が銃を取り出すと共に、███が窓を開け放つ。そして白い布に包まれていた少女を、窓の外に突き飛ばし

   
「何を読んでいるのですか?」
 
 休憩室の椅子に座り、薄い本を捲っていた小野寺の肩を叩いたのは、倫理委員会██博士だった。
 
「…██博士」
「何を読んでいるのかと聞いたのですが」
 
 答える隙を与えず、博士が小野寺の持っていた本を取り上げる。
 青い空と山、少女が表紙に描かれたA4コピー本には「飛び立つ君に祝福を」とロマンチックな文体でタイトルらしきものが印刷されていた。
 しまった、という顔をした小野寺を、博士が訝しげに見やる。
 
「これは何ですか」
「本です」
「見ればわかります」
「薄い本です」
「確かに通常の本より薄いようですが。貴方の私物ですか?」
「微妙に合ってますね」
「他人の所有物だと?元の持ち主を教えてもらえますか」
「…」
「私はこういった文化に詳しくないのですが、これはいわゆる『ドウジンシ』というやつではないのですか」
「ソウデスネ」
「内容の説明を」
「とある研究所にいた少女と、そこにいた研究員の恋の話だそうです。ちなみに誤解のないよう言っておくと、俺はこういう趣味はありません。配布したけど余った分を、感想目当てに押し付けられただけです。」
「その少女というのは…実験体に見えますが」
「ソウデスネー」
「実験体と研究員の恋愛など、許される事ではありません。」
 
 博士がどこからか取り出した判子を構える。
 ぽん、と音がしたと思うと、透明感のある作画の表紙には無慈悲な「検閲済」の文字が踊っていた。
 そのまま博士がグイッと小野寺の腕を引く。
 
「何の真似だよ」
「貴方は風紀にそぐわぬ行動を行いました。よって、改心させる必要があります。」
「は!?俺別にやりたくてやった訳じゃ…」
「問答無用」
 
 案外強い力で腕を引かれ、小野寺がずるずると引っ張られていく。
 やがて「立ち入り禁止 倫理委員会懲罰室」と書かれた部屋の扉が開かれ、二人は中に消えていった。   
 


 

「みなさん、こんにちは。アナウンサーの█です。今回は、日本生類創研さんにお邪魔しています。」
 
 完璧な笑顔で話すアナウンサーの声が、白と黒の建物に妙に不釣り合いだった。
 
 
 
 
 
 
 「工場見学、ただし見せられる範囲で。場所は公開しない。」そんな約束のもと、テレビ局がやって来た。
 良い印象を植え付けるにはメディアが一番、そう言った博士は各方面に掛け合い、あれよあれよとテレビの取材を取り付けた。

 本部ではいけない、しかしアピールに最も都合が良い。そんな条件の中白羽の矢が立ったのは、伊藤たちのいるBエリアの研究室だった。
 特にBエリアのヒト科生物研究室などは、公に公開した商品を数多く扱っている。確かに消費者へ公開するにはわかりやすいだろう。わかりやすくはあるが。
 
「なんで一番倫理観トチ狂ってそうなとこを取材させたんだ」
「それはまあ…見栄え、とか?」
 
 伊藤、名波、小野寺の三人でテーブルを囲み、いつものように話し合う。

 いよいよ取材は明日に迫った。「いつも通り、ただしテレビという他人の目は気にするように」微妙に矛盾しているように感じなくもない厳命を受けながら、三人はそれでもなお普段通りに構えている。(なお、小野寺は名波を見たときわかりやすく嫌そうな顔をしたが、そこは今回特に特筆すべき所ではない。)
 
「伊藤、お前は確かヒト研だよな。やっぱり緊張とかあるのか?」
「ええ、まあ…緊張していなくもないです」
「そういう小野寺さんは確かドネブラチーム3でしたっけ。確かあそこも取材来るとか聞きましたが?」
「…おう、まあな」
「名波のヒトキメラ研4は来ないんだって?」
「まあ、テレビに映した途端、反人道的だとフルボッコされそうなセンシティブ要素の塊だからな」
「だろうな」
 
 研究室の様相を考えるだけで、現在進行形で腹に収めたカツカレーが胃から逆流してきそうであった。
 涼しい顔をしてハンバーグ定食を咀嚼する名波を、やっぱりこいつまともじゃないなという顔で見つめる。相手はこちらの視線に気づくと、一瞬「?」という顔をした後、また目の前の食事の消費作業に戻った。
 
「小野寺さんはテレビの取材についてどう思います?」
「あ?」
 
 口の中を切った傷が未だ癒えないと、気を遣いながら鉄火丼を食べていた小野寺に話しかける。
 彼は躊躇うようにしばし逡巡した後、「賛成はできない」と苦い顔で言った。
 
「財団の方には、施設がバレないよう尻尾を切っては切っては隠してるだろ。というか基本的に、本部の実態は俺たちもあんま知らねえレベルだろ。そんな秘密を抱えてる所が、不特定多数の目に晒されるような事をするのは正直歓迎しねえし、というか突然解放しても上手くいかねえだろうし。財団に位置特定されたらどうすんだよ。それこそ終わりだろ。物理的に。ニッソが。」
「まあ、その意見に否定はしませんが」
「お前何というか、いつも微妙にムカつくよな名波…何様だよ」
「俺は俺以外の何物でもありませんが?」
「煽るな名波!小野寺さんすみません。こいつ昔からこういう奴なんです。」
「あー知ってる。こいつが来た時からうん、こういう奴なんだろうなと知ってる。」
「貴方がたに俺の何が分かるとでも」
「だから煽るな名波」
 
 この友人といると微妙に気疲れする。伊藤は彼に見つからぬようこっそりため息をついた。
 テレビの取材は明日だ。あくまで基本はいつも通りではあるが、この間新調した未開封の白衣を出すのも良いかもしれない。

 何だかんだ言いつつ、テレビに映るかもしれないという期待にそわつく心を抑えられない伊藤であった。
 


 

そして不満は限界へと近づく。
 
 
 
 
 
 初めて行動を起こしたのは誰であっただろうか。署名活動の辺りまで遡ろうか。
 わからない。
 ただ、錆びた歯車も、もしかしたらもう一度。油が差されれば、美しく蘇るかもしれないという話だ。
 
  
 テレビで放映された自分たちの姿が、どこか歪んで見えた。
 言われるがままの作られた映像。言われるがままの規制された研究たち。
 
 「我々の理念は何だったか?」誰かが問いかけた。
 「進み続ける事が我々が選んだ道だ」誰かが答えた。
 
 解明し、解析し、解剖し、解体すること。
 好奇心の赴くままに?それも良し。
 自らが掲げた正義の元に?それもまた良し。

 人間を、生物を、生命を、切開し、暴き出し、書き換え、創り出し。
 その手が動く意味は、その頭が動く意味は、その心が動く意味は。

 人に言われるがままではない。自分の意思で、その行為を行なっていたのではないか?
 人に言われるがままではなく、自分の意思で動きたくて、ここに入ったのではないか?
 
 自分の興味という利己的な望みも。人類のためという大義名分も。全ては己の願い。全ては己の意思。
 人に協力すれど、人と慣れ合う事なく。己を差し出す事あれど、己を売る事なく。
 上からの渋面にも、予算の工面にも、倫理観の壁にもめげる事なく。

 ただ一人己が信じた道を、ひたすらに邁進する。それが日本生類創研のあるべき姿ではないのか?
 
 歯車は回る。回り始める。
 噛み合わず早さも形もまばらだが、酷く楽しそうに。
 噛み合わぬ仕掛でも、これが自分の居場所だとも言いたげに。
 


 

 少しだけいつもと違う気分で、伊藤はタイムカードを押した。
 今日はきっと、何か変化が起こる。そんな期待を胸に秘めながら。
 
「おはようさん伊藤、元気そうだな」
「おはようございます小野寺さん、そちらこそ」
 
 タブレットから顔を上げた小野寺と朝の挨拶を交わし、彼の隣に座る。
 ふと視界に入った横の壁を見つめながら、伊藤は昨日あたりから、ずっと気になっていた違和感の正体を口にした。
 
「小野寺さん、壁のチラシ、剥がされてますね。」
「ああ、ついでに言うと、あの植木鉢とかも片付けられてたな」
「どういうことでしょうか」
「勿体ぶるな。気づいてるくせに。」
「そうですね」
 
 今日はいつもの飲料を買い忘れてしまった。なんとなく手持ち無沙汰な気分で、伊藤は椅子に座り直す。
 そういえば、あの柔らかなクッションもない。
 
「クッションは座り心地が良くて、割と気に入ってたんだけどな…」
「ここの休憩室使う時なんてあんまないだろ」
「食堂があります」
「あー…」
「まあ、元からずっと無かったんですから、ちょっと勿体無いなんて思いつつも、すぐに慣れますよね」
「そうだな」
「ああ、おはようございます」
 
 のんびりと会話する二人に、挨拶をしてきたのは名波だった。
 
「おはよう名波」
「………どうも」
「小野寺さん、なんか名波に恨みでもあるんですか」
「それ本人の前で聞く?たとえあっても俺的にはすげえ言いづらいんだが」
「大勢の人間から恨み買ってる自覚はあるので、別にいちいち伝えていただかなくても結構です」
「やっぱムカつくわこいつ」
「伊藤、今日は朝会少し早くから始まるらしいぞ。そろそろ行っとくか?」
「え?聞いてない。行きますか小野寺さん。」
「おうよ」
 


 

 始まりが突然だったように、終わりも至極あっさりとしたものだった。
 
「本日付で、ニッソ倫理委員会は解散することになりました」
 
 笑顔を崩さぬ凍霧の言葉に、一同から感嘆のようなため息が漏れる。
 昨日まで幅を利かせていた委員たちの姿は、もう既に影も形もなかった。
 
「身も蓋もない言い方ではありますが、少々予算を使い過ぎてしまったようですね。あと、各支部での委員会の横暴があまりにも目に余っていたようで…。ただ、最後の方は研究員たちの意見で決めたとあります。」
 
 さざめきのような声が場を満たす。
 「残念ですね」壇上の凍霧は心にもなさそうな口調で言った。
 
 
 
 
 
 
 仕事終わり。
 休憩室で一人、薄い本を捲っていた伊藤に、声をかけたのは名波であった。
 
「ああ名波、お疲れ」
「伊藤もお疲れ。何読んでんだよ。」
「本」
「見ればわかる」
「薄い本」
「あーそれはソッチ系の…」
「違う。合ってるけど違う。僕的には別に望んで手に入れた訳じゃない。第1研究所の女性職員が小野寺さんにこれをあげたのを、僕が小野寺さんからもらって今読んでるだけ。」
「へえ。面白いのか?」
「正直よく分からないな。実験体と研究員の恋の話らしいんだけど。」
「ほう。なるほど。道理が通っていなくもないな。障害は多そうだが。」
「なんかこの様子だとバットエンドっぽい」
「はは、読み終わったあといい気持ちになれないと知って読み進めるのか」
「まあ、ここまで読んだし。というかこれ、倫理委員会にバレたら一発で規制されそう。」
「そうだろうな」
 
 本から顔をあげ、二人で顔を見合わせて少し笑う。
 
 倫理委員会の名前が出た事により、伊藤は少し前、名波が話していた事を思い出していた。

 本来は幸せを求めているのに、幸せになれないと知りながら話を読み進める。
 倫理観を振りかざしながら、世の倫理と外れた事をする。
 真っ当にやると言いながら、真っ当でない所、都合の悪い所は何とかして隠そうとする。
 
「名波」
「何だ?」
「人間とは、矛盾した生き物だな」
「矛盾だらけで詭弁だらけで、欺瞞に塗れてるな。ことさら、この組織はその齟齬が大きいらしい。」
「お前はきっと、自分の愉悦のためには狂気にも手を染めるだろ?」
「お前はきっと、自分が求めた理想のため狂気に堕ちるのだろうな」
「お前が望んだ狂気に堕とされるには、世界はまだまだ美しいな」
「お前が望んだ狂気の世界は、きっと美しい最期なのだろうな」
 
 分かり合えない。
 ただ、分かり合えずとも良いと思った。

 それがニッソだ。自分たちが求めたニッソだ。自分たちが望んだ。自分たちが愛した。
 ただ一つの思想によって、組み伏せられるものなどあり得ず。思惑が入り乱れ、倒錯した狂気が満映し、私欲を満たすために、あるいは人類のためという私利を満たすために、ここにこうして存在する。
 
 誰よりも世を愛したのは自分たちなのだ。輝かしい未来のために立ち上がった。
 誰よりも命を愛したのは自分たちなのだ。そして、その秘を暴こうとメスを取った。
 誰よりも人を愛したのは自分たちなのだ。いつかその愛が、自らの首を絞める事になろうとも。
 

 ページを捲る手が止まる。最後のページに差し掛かる。

 「親切な人に拾われてくれ」主人公は最期に実験体にそう言った。
 自分はきっと、この本当の結末を知っている。
 「少女」のことも、「研究員」のことも知っている。
 だってこれは、目の前の友人が初めて手がけたプロジェクトだったから。
 「質の良い実験体ができた」成功に浮き足立った声で話す友人の笑顔をよく覚えている。
 
 本当に"親切な人"などきっと、何処にもいないのだと知っている。 
 
 
「なあ名波…僕たちってやっぱ、酷い人間かな」
「どうした、突然しおらしくなって」
「いや、僕は人類のため、お前は自分のために研究をしてるけど、それは傍目から見れば同じ"命を弄ぶ行為"に映るのだろうなって。」
「だろうな」
「やっぱそうかー…」
「というか、お前は一度自分の理想を見つめ直せ。人類のためってのに自分は入ってるのか?自分の望みを人類の願いにすり替えてないか?」
「…」
「まあ、そんな事考えたって仕方ないけどな。俺たちがやってる事やってきた事、やるであろう事が消える訳でもなし」
「そう、だよな」
 

 酷い詭弁だ。
 ただ、そういうとこなんだろう。ここは。
 そして自分たちはここを選び、ここを進む。きっと、ずっと変われないし変わらない。

 倫理観なんて面倒なもの、放り出すのが一番楽なのだろう。
 まともであるために狂うなんて話があるが、自分たちは狂うために狂う。自分たちの望みのために。自分たちが望んだもののために。
 世間に叩かれようと、どれだけ罵声を浴びさせられようとも、己が道を突き進む。
 自分たちが望み、自分たちが選び、自分たちが進むこの道を。
 
 世界の暗闇を解明し、解析し、解剖し、やがては解体するために。
 
 いつか自分たちの手によってその暗闇に導き、導かれ、呑まれる事になろうとも。
 誰よりもこの世界を愛した自分たちだから。
 

「やっぱ、倫理委員会なんてないほうが良いな。いつものニッソが一番だ。」
「全面的に同意だ」
「これからもお互いに研究、頑張ろうな」
「ああ、勿論」
 
 
 
 いつかこの場所で、一欠片の闇もない眩い光の中で、「出来た!」と声高に叫べる日を願う。

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