少女は耳を塞ぎたかった。毎日のように飛び交う両親の罵声、生後6ヶ月の弟の泣き声、豪雨から絶え間なく鳴り続ける、風と雷鳴の音。全てが騒々しく鬱陶しかった。心は既に鬱いでいたが、鼓膜は否応なく音全てを受け入れてくる。布団をかぶりうずくまっても、音は響く。
邪魔、邪魔、邪魔。
ノイズに感情が逆立つ。
神様は何で私をこんな所にやって寄越したのだろうと、一人の時間はそればかり考えていた。壁に掛けられたボロボロのカレンダーの中の神様はみんなに手を差し伸べているけれど、その「みんな」に私は含まれていない。救いなんてやってこない。いつだって周りは喧しく私の心を蝕み削ぎ落とし踏みにじる。救いはない。知ってる。そんなこと。
なんで神様は不平等なんだろう。神様はもっと公平であるはずなんだ。私が神様だったらどうするかな?私が神様だったら、きっと、悲しんでいる人や苦しんでいる人の所それぞれに、花束を持たせた天使を一人一人寄越すだろうなぁ。そして、顔を伏せている人の手を取って立ち上がらせて、ぎゅーっ、て優しく、しっかりハグをさせる。たぶんそれだけでどんな人も笑顔になれるから。私もそうされたいから、きっとみんなもそうされたいでしょ?
少女はうずくまる。誰からも抱きしめられない代わりに自分で自分を抱きしめる。そして、ふと気づく。
……あれ、もしかしたら。
私がみんなに優しくしてあげたら幸せになるんじゃない?別に、私が神様になる必要はないんだ。私が行けばいいんだ。私が天使になって私が抱きしめたらいいんだ。この手で。
夜八時、子供部屋、柵付きベッドからゆっくりと這いだした少女は一回のリビングへ、父と母の喧嘩の渦中へと歩み出す。金切り声、ガラスの割れる音、うなり声、ヒステリックな罵倒、赤子の泣き声、何かが壁に叩きつけられる音。心の弱いところを全て串刺しにする鋭い音が彼女の鼓膜を乱暴に叩きつける。しかし、不思議と彼女の心は落ち着いていた。
私が幸せにしてあげなきゃ
「クソ!クソアマ!お前がしっかりしないからこんな事になるんじゃねぇか!死ね!ガキ諸共死ね!」
「ふざけないで!私が一体今までどんなに苦労したと思っているの!あなたの方がろくでなしよ!」
「なんだと!?いったい誰がお前等を食わせてると思ってるんだ!」
何故争っているかもわからくなるほどに、二人の心はうねり思考は焼き切れ、忍耐はとうの昔に消し炭となっていた。いつどちらがどちらかを殺しても全く違和感のない空気。腹を空かせたと訴える息子の声は感情の波間に沈み、届かない。男が投げた四つ目の酒瓶は女のすぐ後ろの壁にぶつかり砕け、茶色いガラス片は女の脚にわずかに赤い線を刻んだ。それを合図にしてか、女は一つ大きなガラスの破片を掴み、男へと殴りかかる。
「死ね!」
しかし、力の差は無情だ。男は――怒りからか酒からかはわからぬが――ぶるぶると震える手でもってして女の手を乱暴にはねのけた。ガラス片が細く、あかぎれた女の指をすり抜け、冷たい木材の床に落ち、コツン、カラカラとその上を滑って行く。男はバランスを崩した女を床に突き倒しその上に馬乗りになると、そのまま女を殴り始めた。頬を。鼻を。口を。鈍い音に、何か固いものが折れる音と苦痛な、曇った声が混じる。
そんな風に怒らなくていいんだよ。みんな幸せにならなきゃ。
「おかあさん、おとうさん」
はた、と争いの喧騒が止む。おとうさんと呼ばれた男は自分の感情の整理を邪魔されたことで手を止め、おかあさんと呼ばれた女は普段争いには顔を出さないはずの娘に対する疑問と、このまま男の怒りの矛先が少女に向かうことをわずかに期待し、少女を見る。そして、二人の感情は一瞬にして簡単な物へと変わった。
なんだ?これは。
少女の背中には、翼があった。
「だめだよ、おとうさん、おかあさん」
少女はゆっくりと歩み寄る。
―翼を構成する羽の一つ一つは淡く雪の様に光る。曇りのない白。無垢な色。
「けんかなんかしても、だれもしあわせになれないよ。ふたりとも、くるしいからそんなことするんだよね?」
ゆっくりと歩み寄り、二人に向かって両手を広げる。二人は動けない。目の前にいる、今までしいたげてきた存在とその双肩にそびゆ神々しい翼の不整合性に、思考が追い付かない。
―その美しさとは裏腹に翼そのもの、少女の背中肩の下あたりを起点として生える神の使いのシンボルは奇怪な形状をしていた。
「なかなおりしなきゃ、ね?ほら、ぎゅーってすれば、みんな幸せになれるんだよ!」
茫然と「天使」を見つめる二人の男女を、少女はその腕と翼で、愛と祈りと共に抱擁する。
―あまりにも、多い。
ゆがんだ環境で荒んだ心になってしまった少女の本質は無垢だった。彼女は不幸を憂いつつも、そのどこかで全ての人に幸福を望んでいた。みんなが幸せになれば自分も幸せになれるという、半ば利己的な考えではあったが。
これできっと、みんなしあわせになれるんだ
彼女は人の為に神に祈った。
しかし、彼女の神が彼らに与えたのは―
罰だ。
少女の翼に抱擁された二人の体中に突き刺さる審判の槍。純白の切っ先は容易に皮膚を切り裂き,肉に食い込み,痛覚を覚醒させ,その口から人の物とは思えない絶叫をあげさせた。だが、その声は幾重にもなる防音壁に遮られ、少女の耳にはわずかな泣き声の様にしか聞こえなかった。
「そうだよね、くるしくなくなったんだから、うれしいよね、そうだよね」
少女の心は安らかに彼らの幸せを祝福した。目を瞑り、ふわふわとした暖かみの中でかみしめる幸せ。この幸せが続いてくれたらどんなに良いことだろうか?この幸せが広まってくれたら世界はもっといいものになるんじゃないか?世界中が幸せに満たされれば何と良いことだろうか。宙に浮くような感覚の中で少女は思案する。もっと愛を、苦しんでいる人へ愛を広めなければいけない、と。薄ら眼を開けて、差し込む希望の白をぼんやりと眺めながら考える。
だが、時が少し経ち感涙の声も静まり返るころになると、やんわりとした眠気が少女に覆いかぶさり、考えるのも、瞼をあげるのも苦痛になってきた。目を開けるのはもう少し後ででいい。今はただ、今はただ幸せのまどろみの中で、眠ろう。彼女は意識を手放した。
彼女が眠った後もその背中から生え伸びる翼は、悲しむ人を抱きしめたいという意思をくみ取ったかのように,傍らで泣き続けていた彼女の弟を抱擁した。しかし、彼女の神は他人を許さない。全ての者が幸せになることは無い。不幸が無ければ幸せという概念はない。少女の幸せ、自己満足の為に、彼女に愛された者は悲鳴をあげざるを得ない。
いまや彼女の愛は世界に向けられた。世界が悲鳴を上げるのは、いつになるだろうか。