この話は、これまでのそれらと比べると本当に珍妙だったと思う。いつも通り、あの子は今まさに死の危険に曝されている。自分がやることはただ一つ、いつか来るかもしれない「奇跡」を信じ、次の章まで彼女を生かし続けることだ。
─つまり僕は、死ななければいけない。この物語はそういう風に出来ている。
おそらく昼下がり、平和から一転しどよめく動物園、というシチュエーション。彼女は柵の下で横たわり動く気配はない。周りの聴衆は早く助けてやれだの、救急車を呼べだの好き勝手に喚いている。だが、彼らにはそれ以上の役割は存在しない。彼らは物語を盛り上げる端役で、役立たずの木偶だ。彼女の名前を叫んでいる壮年の男女──あの子の両親だと思うが──さえも、機械仕掛けの人形に過ぎない。
ごく当たり前に、僕は人混みを押しのけ、飛び降り、数メートル下の彼女の元へ駆け寄った。意識はないが。息はある。僕が諦めない限り、この子は死なない。いや、死ねないのだ。
軽い体を抱え上げて立ち上がると、空腹と血の匂いで興奮した猛獣、ライオン共が僕達を取り囲んでいた。今回、僕はこいつらのランチになるらしい。けど、ご馳走になるのは僕だけにならなければいけない。彼女を逃がせるような出口を探す。見渡すと、猛獣の飼育部屋と運動場との連絡通路の扉が開いているようだった。
最初はゆっくりと、僕は獣共を睨めつけながら壁伝いに連絡通路に近づく。ライオンたちも同様に、弱った獲物たちの力量を見定めるようにジリジリと距離を詰めてくる。
連絡通路の入り口まであと2m、というところで、目の前の生き餌に耐えきれなかったライオンの一匹が駆け出した。僕もほぼ同時に走り出す。といっても、僕が連絡通路に入るのはとうてい無理だ。今の僕には銃や鎮圧用の武器はない。当たり前のことだが、丸腰の人間は獣には勝てない。
だから僕は彼女を連絡通路の中に全力で放り投げた。慌てふためく顔して連絡通路から出てこようとしてきた飼育員が、彼女を受け止める。これすらも良くできた予定調和だ。
僕は沢山のライオンに背中から引きずり倒された。今に喉を潰され、背はずたずたに割かれるだろう。飼育員は少女を抱え、怯えた目でこちらを呆然と見ている。
「早く閉めろ!」
怒声に飼育員は我にかえり、勢い良く扉を閉めた。この世界の住人は木偶だ。僕が叫んでも叫ばなくても、どちらにせよすぐに閉まっていただろう。
ただ、たとえ覚えていなくても、目覚めかけていたあの子がこんなひどいものを見せられるのに、自分が耐えられなかっただけだ。
生臭い吐息と唸りとともに、自分の手足や皮膚が砕かれ、裂かれ、咀嚼され、息の根を止められるのをあとは待つだけだ。
「……今回は……時間がかかりそうだな」
痛みには慣れた。苦しみにも。ただ時間ばかりが惜しい。自分はこれからもこの物語を、一刻も早く駆け抜けなければいけない。挫けるよりも前に、救いがあると信じて。
死ぬ時は常に次のことだけを考えるようにしてきた。死の恐怖から逃げるためではなく、二人で生きるためだ。今回もそうだ。
うなじにかかる歯牙の圧の強まり、詰まる息、ぬらぬらとした自分の温み、シャッター音、悲鳴、作り物の惨劇、紛い物の英雄譚、永遠のヒーローたりうる為に用意された無間が、ここだ。抗うことだけを、戦うことを、次の事だけを考えなければ……。
「へぇ、てめぇ、ずいぶんと酷い目に遭っているようじゃないか」
聞こえるはずのない、永遠に聞くことがないだろうと思っていた、「僕に呼びかける」声が遠のく意識を引き戻した。うなじをベロリと舐めたそれは、今まさに僕の首をへし折らんとした獅子だった。首の痛みで僕は完全にこの章に引き戻された。
「ちょっと話したいことがある。それまでくたばんじゃねぇぞ」
静かな、しかし怒気を含む声。雄叫びをあげて獅子は変生する。この世ならざる形へ、この世ならざる存在へ移り変わる。おそらくそれは、鵺、あるいはキメラと呼ばれるかもしれない。殺すための形を得た怪物は、無数の刺を持つ尾で周りの猛獣を容易く薙ぎ倒し絶命させると、難なく柵を飛び越え、人だかりを破壊していく。原型のなくなる瞬間まで、逃げることもせず、奴等は本来の役割のみを遂行していた。
端役が生ゴミに変わるのに、ほとんど時間はかからなかった。異形は自分のところへと舞い降りると、次第に本来の姿、ライオンのそれに変化した。僕はこれを知っている。
「く、964……」
「あぁ、そのとおり、お察し早くて結構だ」
地べたに座り僕を覗きこむこの畜生も、この世界と同様に、収容されるべきオブジェクトだ。
SCP-964ーJP。物語の終わりを知ってしまった登場人物。語るべきことすべてが終わった世界は、死ぬでも消滅するでもなくすべてが静止すると語る、狂ったライオン。これは収容されるまでその悲劇を繰り返さぬように、と物語とその作り手を多く殺し続けてきた。その事実への確証はない。ただ彼は救いをかたる。
「……また逃げ出したのか」
「そうだ。俺の使命はまだ果たされていない。ちょうどいい隠れ蓑があったんで入り込んだら……あんたが死にかけてた。……あんたはこの本の、本来の登場人物じゃないだろ?」
こいつは「獅子」を媒体として平面、ひいては物語の中を縦横無尽に駆け回り、殺すことができる。そして、物語の中にいる間ならこいつは何にでもなれるし、登場人物も話の流れを無視して虐殺することもできる。犠牲になった物語は単に死体を映すだけの物となる。当然、この本の中に入ったということは、きっと章をまたぎ、駆け回り、全てを殺すつもりなのだろう。だが、僕に話しかけに来るのはなぜだ?
「殺さないのか」
「殺すさ。オレが殺さなくても、その傷じゃいずれにせよ死ぬ。安心しろよ。お前の目的はこれからも果たされるさ」
安心。死とはあまりにも縁遠い単語。目的。生き延び続けること。思い当たることは一つ。
「お前、……見たのか」
獅子はまぁな、とだけ淡白に肯定した。僕は痛みを耐え仰向けに転がった。獣と目をあわせる。獅子の金色の相貌が僕を見つめる。
「おかしな場所……おかしな話だな、ここは。オレは1524章からこの本に入った。そこはオレの生まれ故郷みたいなサバンナだった。違うのは二本足の兵隊みたいなライオンが闊歩してたことだ。お前がそれに捕まり銃殺されるのも見た。ちっさい子供を自動運転ヴィークルに乗せてやったあとだったよ」
僕は安堵の息をついた。1524章までこの物語は続けられる。1524の死まで、少なからず自分は諦めていないのだ。獅子は続ける。
「いつも通りそこで世界は止まって、また新しい章、世界が生まれるんだと思ってた。だが、違った。この物語は章だてにはなってはいるが、俺は物語の最初の方まで走った。駆け抜けられたんだ」
最初まで。一番最初はあのときの再現だったか。未収容オブジェクト、後にSCP-XXX-JPと指定されるあれを、僕は命を賭して一時的に無力化し、彼女を救った。あの事件がなければ彼女がここに閉じ込められるなんて事は起きなかったかもしれない。だが過去は変えられない。未来は……
「……最後はあるのか」
「おん?」
「この物語は……終わるのか?」
次第に鈍重な感覚が体を支配し始めていた。おそらくこの章も限界が近いのだろう。お涙ちょうだいを好む読者たちが、悲劇はまだかとせびってきているのだ。
「さぁな。オレが駆け抜けたのは……少なくても、物語の頭から数えて5000章ぐらいだ」
5000。5000の物語。5000の救出劇。5000の死。5000の孤独な戦い。気が遠くなるような自己犠牲の数々。
獅子の声は相変わらず淡々としている。
「この物語は全て地続きだ。お前は死んだあと、時が巻き戻るように蘇り、子供は状況に合わせて再配置される。ゲームかなんかみたいにな。……あいつは本当にお前の守りたい人間か?あれも人形で、ここはお前に用意された地獄なんじゃないのか?」
「違う」
そんなことは絶対にない。彼女は、彼女だけは、この無間の中で、僕を見つけ、僕に助けを乞い、ありがとう、と、僕に一時の死出の旅路への感謝を手向けてくれる。
「彼女は僕の……唯一の希望だ」
「既にあんたは死人のくせに?」
「死んでも僕は、財団のエージェントだ。助けられる命があるなら、助けなくちゃいけないんだよ」
僕は財団のエージェントだ。一度死に、こうして甦っても、それは変わらない。
獅子は薄く笑っていた。あきれているのか、憐憫の情か、僕には測りかねた。
「おまえがそういうなら、それをやりきるしかないな。この終わらない物語で……どこまで戦うのか。戦えるのか……」
「どこまでも戦えるさ」
「そうか」
獅子は立ち上がった。憎いほどに快晴の空を見上げる。柵の向こうの木々のざわめきが彼のたてがみを撫でる。
「……終わらない物語」
それは彼が求めた理想郷。獅子は続ける。
「どこまでも永遠に続き、人も獣も人外も生き続け、未来も過去も巡り続ける。それがオレの、あんな結末を知りたくなかったオレの、唯一の天国、幻想だった」
「けどここは、終わらない地獄だ。」
「そう、地獄だ!こんな物語はどさんぴんの駄作、最底辺の娯楽、鍋敷きか便所の紙ぐらいにしか使えない無駄紙だ。終わらず続く世界はここだけだが、こんな世界は続くに値しない!こんな永遠はあっちゃいけない!」
僕に呼応して、堰を切るように夢想家は叫んだ。今度は彼の顔を見なくてもわかる。その声は押し寄せる憤りだ。突き上げる怒りだ。創作の中を生きたからこそ感じることのできる、悪意への憤怒だ。
「わかるか、物語ってのは筋道立てて、一つの流れを、人生を、苦難を、幸福を、生み出さなきゃいけねぇんだ……確かに永遠に巡る世界をオレは望んだが!それがこんな、こんなクソッタレな形で実現してたのを見ると、惨めになるんだよ……!」
彼の物語がハッピーエンドだったか、バットエンドだったか、僕は知らない。ただ彼は世界が止まることを知り、その運命から逃れながら、誰一人として再び歩ませることができなかった。その苦悩、自責は大きかっただろう。彼の無念を皮肉るように存在する終わらない英雄譚は、きっと彼の心の傷を逆撫でしたのだ。
僕の物語はまだ終わらない。だが僕はまだ終わりを迎えていない。バッドエンドは簡単だ。まだ、僕には大団円を迎えるチャンスはある。諦めない限り、生きている限りは。
「……終わらせてやるさ」
「何?」
次の句を継ごうと息を吸うと、僕は激しく咳き込んでしまった。息が苦しい。体もかなり冷たい気がする。ただ一つだけ言わなければいけないことがある。
「この予定調和、いつか全部終わらせてやるって……」
「お前が?良いようになぶり殺され続けてるお前が、この駄作を終わらせる……」
「終わらせて、日常に、帰してやらないと…」
今度こそ彼は嘲りをもって笑うのだろうか。僕は無力だと。無意味だと笑うか。それとも激昂するか。眼前は暗闇、鼻腔は血生臭く、思考も次第に霞がかかり、僕はもう何が何だかわからなくなっていく。そろそろ次の舞台に駆り出される頃か。ただ明瞭に獅子の声だけが聞こえる。
「やれるんならやってみろよ。はは、そいつはきっと、お前だけじゃねぇ。”お前ら”がコレに求めている結末だ。今回ばかりは俺もそれを望むさ。……なぁアンタ、”読者”が求めてるのは悲劇だけじゃァねぇ。それだけは忘れるなよ」
分かっている。理解っている。きっと誰かはこの惨状に救いを求めてるんだ。ならなおの事、僕はあきらめない。戦えるのは僕だけだ。
だが、もはや声も出ない。僕は獅子の言葉に対し、何百回目かの最期の力を振り絞って力強くうなづき、そして事切れた。次第に世界が暗転していく。
最期に見た獅子の目は優しかった。
英雄の傍らに佇んでいた獅子は一人語る。此方に向けて。あなたに向けて語る。
「ここまでがこの英雄譚の358章だ。アイツらはこれからも諦めず戦い続けるんだろう。俺の到達した5000より先も、もしかしたら10000とか、もっとかもしれない。その中で、あいつはこの英雄譚の致命的な弱点を見つけるだろうさ」
獅子の独り言は前章と次章との間に、文字として紡がれていく。
「クソみたいな無数のオムニバスを終わらせて、相手を日常に帰し、死者に戻る。いずれにせよ死ぬためだけにあいつはこの世界に呼ばれたんだ。だから、あんたも、せめて、ハッピーエンドを願って……出来るなら救ってやってくれ。……俺は殺すことしかできないからな」
獅子は立ち去る。彼は物語の中なら何でもできた。しかし、物語という枠組みに対しては何もできなかった。故に、祈る。大団円を、ハッピーエンドを、彼らが元の世界に帰ることを。
獅子が去り、そこには祈りの頁だけが残された。