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慣れ、というものはとても恐ろしいことで。
アイザック・ウォールデンの手に持った獲物が拳銃からカメラに変わってから、はや一か月が経っていた。

存外に手になじんできたと感じられる、膨らんだ銃口のようなカメラレンズに左手を添える。そして彼は目の前の、一見何でもないようなぬいぐるみのある風景を切り取った。間髪入れずデジタル画面にそのプレビューが表示され、アイザックは特注のレンズ越しのその風景を認識した。

撮影用に確保された一面クリーム色の収容室の壁と、そこにぽっかりとした輪郭を保つ青緑色の熊のぬいぐるみは、一見すればどこかのブランド品カタログの商材写真のようであった。しかしながらその実、チョコレートミント色の外皮からは実験のために投入されたDクラス職員の生爪と皮膚片がはみ出してところどころをワンポイントのように彩っている。

ただ───そこに認知の歪みはなく、かと言ってカメラそのものが災害に侵されるような兆候も見られず、「異常なものがそこにあるだけの写真」が出来上がったことに、アイザックは一つ、息を漏らした。そのまま、ゆっくりとできる限り物音を立てないようにして、彼は収容室を後にする。安全を示すエアロックが作動した時、再び、「ああ」という安堵の声が、彼の体と共に寄り掛かった収容室のドアをずり落ちた。


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「お疲れ様です。ウォールデン撮影員」

指定地点である会議室の中、ドアが音もなく開き、とめどなく額を伝う汗を拭っているアイザックにそのような言葉が投げかけられる。25℃に設定された冷気が開いた空白から外側へと吹き抜けていき、同時に、その場で佇んでいた一人の研究員の白衣の裾を揺らした。アイザックの眼が見開かれる。

「お疲れ様です。ジャス、パー……シートン博士補佐。撮影した写真はこちらです」

そうアイザックが声をかければ、鉱物の名を冠するように、表情筋の凝り固まったその研究員はアイザックの前方に座った。お互いの目の前には先ほど撮影したばかりの数十枚にも及ぶ写真が現像されている。それらの1枚1枚をジャスパーは手にとっては、何らかの基準を以て左右の手元へと重ねていく。重ねられていく写真に、アイザックは何らかの法則性を見つけ出そうと試みたが、それは最初の5枚で諦観の感情を彼に与えるだけであった。

「どちらが採用になるんですか」

そうであったために、彼は尋ねてみることにした。ジャスパーは現在右手に持った、元来右腕があったDクラス職員の写真に目を落とし、それを右方の束に重ねながら「どちらも報告書には採用されません」と先ほどの労いの言葉と同じトーンで答えた。アイザックの奥歯がぎり、と一つ鳴る。

「では、何を仕分けしているので?」

そして比喩ではなく、次の彼の口から絞り出されたのは「では」と「何を」の間に数秒の溜めを伴った、皮肉交じりの言葉であった。しかし、そこから返ってきたのは、写真を持ち上げる際に鳴り響く、反発からなる高く短い音のみであり、つまるところそれはジャスパーが無言で写真の仕分けを続けているという事実だけであった。ぎり、ぎり、と奥歯が二度、鳴ったのをアイザックは自覚する。

そこからは我慢比べであった。1枚、また1枚とジャスパーが左右に振り分けていく作業を、アイザックは腕を組んで見つめている。途中、渾身の一枚だとアイザックが自負していたそれが右手側へと重ねられた時、思わず撮影者である彼は声を若干荒げそうになったものの、何とか言葉を飲み込み、精密機械のようなその仕事ぶりを改めて見つめていた。


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そうして、机の上には1枚の写真が残った。アイザックが最後に撮影をした、あの商材写真がそこにあった。

「こちらを報告書には採用させていただきます」

それぞれの束を器用に両手で整え、ジャスパーはその1枚を持参していたファイルのポケットの中へと滑らせる。机の上に何もなくなった区切りの瞬間を見計らって、アイザックは彼へと言葉を投げかけた。

「それで結局、何の仕分けをなさっていたんですか?」

改めて投げかけられたその質問に、真っ先に帰ってきたのは青い瞳からの一瞥であった。しかし、先程とは違い、ジャスパーは明確に答えをアイザックへと告げる。

「左の束は没、右の束は担当職員にのみ開示可能な写真として取り扱うことを予定しています」
「右っていうのは」

言葉と同時に、アイザックは金の眼を動かした。ジャスパーの右手側、積み上げられた写真の一番上に重ねられていたのは、例の「中身」をアップで映したものであった。遠目でみればそれは深紅の風景画にしか見えることはないかもしれない。ただそれを間近で撮影したアイザックにとっては、ぽつぽつと存在するその白い点が元は眼球の一部であったことを思い出させるのは容易であった。

「理解しました。しかし、疑問が一つあるのですがよろしいでしょうか」

ぴったり90度かと見紛うほどの首肯が返される。

「私としてはこういった───異常を前面に押し出した写真を報告書に用いる方が適切であるように感じられるのですが」

そうして彼が手に取ったのは右方の束、上から4枚目に位置していた写真であった。オブジェクトがDクラス職員を襲う、まさにその瞬間。自らに被害が及ぶ可能性もあるために、二度と撮影をしたくないと彼が自負するほどの、渾身の一枚。

深海のような瞳の前に、その1枚が差し出される。瞳の持ち主はそれを改めて受け取ると、それを双方の真ん中へと戻し、

「紙とペンを用意してきます」

とだけ告げて、会議室を一度後にした。会議室に残されたのは、何一つ説明を受けないままその場で呆然と座り込む、三十而立を少し過ぎたばかりの男のみであった。


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「それでは今から私が言ったものをこちらに描写してください」

目の前に複数のペンと紙を叩きつけられたアイザックは、それは何のためであるのかを問おうとしたが、有無を言わさぬ迫力がその言葉にはあった。仕方ないと言ったように彼はペンを持ち、紙と向き合い、そしてその言葉を待つ。

「3つほど書いていただきます。1つ目、視線を外すと接近し、対象の頸部を折る彫像」

一瞬、何を言われたのかをアイザックは理解できなかった。大きく見開いた太陽の如き瞳が、彼の真後ろに立つジャスパーを捉えるものの、彼は二度とは言わないというように無言でその奇怪な単語を目の前の紙に描写をするように促す。そうして暫く経ってみれば、聖書の悪魔を模したかのような邪悪な像のイラストがそこにあった。

「あの、これは」
「2つ目、年配の人間の姿をした、腐敗した外見を持つ実体」

言葉を挟む余地もなく、再び奇怪な単語がアイザックへと降りかかる。ただし、それを描写する事は先ほどのものと違い、彼にとって容易であった。何故なら、それはよく知っていたからだ。つまり、それはオブジェクトである。
そして皮膚が腐食した人間に近しい実体の描写を彼が終えたことを確認すると、ジャスパーは「それでは」と一呼吸を置いてから最後の異常物品の詳細を口にした。

「3つ目、一定以上の音量を発生させた生命体を、背部から捕食する熊のぬいぐるみ」

ペンが止まる。「それは」とアイザックが口にしようとしたところで、彼の視線が、博士補佐として、1人の職員を試すような暗い瞳とぶつかる。それに気圧されるようにして、1人の撮影員は、先程までの被写体を紙に描写していった。

3体の描写が終了した時、ジャスパーは改めてアイザックの前に座り直し、そして真っ先に最初に描写を行った彫像を指さして告げた。

「1つ目に描写していただいたのはSCP-173。あなたは報告書を見たことはありませんね」
「そうですね、私は管轄が違うため、閲覧権限がなかったはずです」
「はい。実際のSCP-173はこのような姿をしています」

白衣の胸ポケットから、彼は懐から1枚の写真を取り出す。そこにはコンクリートと鉄筋で構成されている、無機質な彫像の写真があった。そして「これは担当職員以外も閲覧可能な情報です」とジャスパーは補足し、次に描写を行ったオブジェクトに指を動かした。

「2つ目に描写していただいたのは、あなたは元機動部隊ですから、ご存知ですね」
SCP-106。出会ったことはありません」
「出会っていたらここにいるかどうかも少々怪しいでしょう。こちらは見事な描写です」

そう言って再び、撮影員が目指すべき規範的なものとして挙げられていた1枚の写真が、胸ポケットからジャスパーの手を伝って机上へと置かれる。相違点はほぼなく、そこには写真と類似したイラストが存在していた。そして華奢な指先が、最後に描写された存在へと辿り着く。

「ナンバリングはまだされていません。そのために私が写真を撮影する必要がありましたから」
「はい。その通りです。ではあなたの描写を確認してみましょう」

その指先を視線で辿り、アイザックが辿り着いた先。そこに存在してたのは、最後に机上に残ったあの1枚に映し出されていた構図と類似した、ぬいぐるみのイラストであった。もしこのイラストに異常さが存在するとすればそれは、わずかに赤く塗られた、かつて人であった断片を再現した部分であろうか。

眉根を寄せたアイザックをよそに、ジャスパーはイラストの隣に先ほど、報告書に採用すると言った写真を並べる。そして続けてその隣に、先程の「一定以上の音量を発生させた生命体を、背部から捕食する熊のぬいぐるみ」という一説を書き綴った。

「あなたが撮影した写真は確かに素晴らしく、このオブジェクトの異常性をこれ以上なく表したものでしょう。しかし、あなたは自らがそう主張したに関わらず、この写真に類似したイラストを描写した。他のものも同じ、直接的な異常の描写を、あなたは省きました」

「それは、活性時の描写が困難であったから」

「いいえ。あなたは自らの心を守ったのです。活性状態のオブジェクトというものは───ただそれを見ただけで、思い出すだけで、自らは平常心を保っているつもりだったとしても、徐々に人の精神を蝕みます。記憶処理をしても尚、ふとした瞬間にそれは頭をよぎっていくのです。だからこそ、それは報告書を見る人間に必要でないのならば、文字でのみ表され、写真は非異常であるべきなのです」

そう言ってジャスパーは胸ポケットから、件の、渾身の1枚を取り出す。不意に取り出されたそれを見れば、無意識に、その風景を想起したアイザックは眉根はより深く皺を形作っていた。その様子を確認すれば、ジャスパーはそれを視認することのないように机上へと伏せる。

「様々な凄惨な死を眺めてきた、機動部隊であったあなたでさえそうなのです。一介の、研究だけを続けてきた研究員らが……それに、耐えられると……思いますか?」

「わかった。ジャスパー……シートン博士補佐、わかりました。あなたの言いたい事は十二分に理解いたしました」

「はい。だからこそ、数々の職員を守る安全な写真を提供するために、あなたのように、異常を躱しつつ、非異常を映し取れる人員が必要なのです、ウォールデン撮影員」

そう言ってジャスパーは静かに机の上に散らばった写真を集め始めた。暫くすれば埃一つない机面が露になり、そこに2人の男の顔が写り込む。そしてそれが1人になり、その顔に浮かんでいた悲哀も、たちまちに部屋の外へと消えていった。


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ファインダーの中には、両足のない死体が収まっていた。

昨日、撮影員の1人が寮を飛び出していったところを確保された。なんでもKeterクラスオブジェクトの撮影を終えた後だったそうだ、とアイザックは聞き及んでいる。本来この死体はその撮影員が担当するはずであったものであるが、代理として選出されたのが彼なのであった。

「これも担当職員向け行きだろうな」と彼は心の中で苦笑する。そして同時に、それらを機械的に振り分けていくかつての同期の姿が、焼き付いた目から零れ落ちて、まぶたへと重なった。

胸ポケットから、彼と肩を組んで酒を飲み合った日の写真を、アイザックは取り出してはひとつ溜息をついた。
日焼けで随分と色が飛んだその風景のジャスパー・シートンは、それでも分かるほどに赤い顔をして、にこやかな表情を浮かべている。
 
文字と、わずかな写真で構成された報告書の下には、数多の写真が眠っている。
 
「一介の、研究だけを続けてきた研究員らが……それに、耐えられると……思いますか?」
 
博士補佐にまで上り詰めたジャスパーは、それらを掘り起こしては多くを見てきたのだろう。一つや二つではない、あまりにも目を背けたくなるような写真でさえ、彼は直視せざるを得なかったはずだ。そしてそれを、覚えていなければならない事案も、アイザックが思うより遥かに存在していただろう。
 
死体を撮影するシャッターの音が鳴る。甲高い、破裂音のようなその音は、鉱物が砕ける音によく似ていた。
 
きっと彼は耐えられなかったのだ。そうして砕けても尚、無理やりにでも歪に繋ぎ止めてそこに立ち続けていた博士補佐の男は、アイザックのよく知るジャスパー・シートンとはかけ離れた顔と、性格をしていた。彼は死んだのだ。それを受け入れることができなかった、といえば自身に嘘を吐くことになる───と、撮影を再開するために、アイザックは写真を胸ポケットへと大事そうにしまいこんだ。

そうして、男は───せっかく持ち替えた道具の、目的地が何ら変わっていないことに気づき、また辟易とした。

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