さよなら、僕らの聖域
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このようなモノクロのイラストはSunnyClockworkSunnyClockworkによって描かれた。




プロローグ

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一時間と思われる時を、スチュワートは窓向きの椅子に腰掛けて過ごした。彼は大変に苦労して手に入れた本を読む心づもりでいたが、空模様の方がはるかに興味深く感じられた。主人公を兼ねた語り手は、瑣末な仔細や出来事について延々と語り続けていて、それらの描写を取り除けば、本の半分程度を減らせたように思われた。登場人物には面白味があったかもしれないが、彼らの性格は語り手の視点を通して脚色されていた。

彼は本が得た反響について想像した。そもそも、彼がその本をわざわざ盗もうとしたのは反響があってこそだった。どうしてあんなにたくさんの人がこの本に殺到しているのだろうか。そんなに素晴らしいものじゃない。僕がまだ若いだけだろうか?スチュアートは頭を振り、部屋の反対側にあったラブソファーに本を投げた。外出が無駄になったのは残念だった、しかし町の人々は徐々に店の中の自分の存在を意識し始めていたし、週に二回も訪れるのは望む程度をはるかに超えて危険だった。

彼は椅子に身体を投げ出し、窓の外を眺め続けた。雨は心地良く、邸宅の周りの一帯に霧の薄布を作り、木々の鮮烈な緑を安らかなオリーブ色に変えた。落ち着きたい時には丁度良い天気だった。お使いをこなすにはそうでもなかったが。

大した時間も過ぎないうちに、彼は風景に飽きを覚え、祖母のアカシアの世話をしに出て行った。知る限りでは、使用人が代わりを行うことはなかった。終わった頃には、雨も止んでいるかもしれない。法的には、アカシアはスチュアートの世話を行って然るべき立場にあったが、それはおそらく彼女が今よりも"偏奇"でなく、老人らしく振舞っていた頃の話だ。一度彼女の痴呆症が深刻になり、身体も弱ってくると、世話をしているのはスチュワートの方に思われた。

彼は消耗品を抱え、出来るだけ静かにドアまで忍び寄り、辛うじて祖母が見える程度にドアを開けた。彼女が寝ているのを確認すると、彼はいつもの流れに取り掛かった。初めに、祖母が前回から描き溜めた絵を集めた。絵はいつも変わらず、様々なスケッチから成った。死んだ動物達や、通常は狼、猫や兎、あるいは他のありふれた動物、または檻の中の少女。

動物の絵は最もグロテスクだったが、最も目にする機会が多かった。多くの被写体は片目や両目が取り除かれていたり、骨が見えるほどに深い傷を負ったりしていた。一方で、檻の中の少女の絵はより……陰鬱に描かれていた。檻は鉄格子で作られていて、見た目は大きな犬という方がより適切のようだった。その中には、跪いた、あるいは、胎児のように膝を抱えた少女がおり、顔は髪の毛に覆われていたが、年齢はスチュアートと同じくらいに見えた。

彼女の痴呆はますます悪化していて、アカシアは自分が絵を描いたことさえも忘れるのが常だった。彼女は絵に気付くと、その度に恐れ戦いた。彼女が絵をまた見れば、心臓発作に襲われるのではないかとスチュアートはいつも心配していた。そんな次第で彼は絵を片付けねばならなかった。

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後ほど、机には紙とインクを補充しに行く。両者を蓄えておくことは、意外にも重要であった。それがなければ彼女はもっと汚らしい材料やキャンバスでもって創作を試みただろう。残りの作業はほぼ一目瞭然であった。便器を空にし、部屋の埃を取り、彼女が起きた時のための朝食を作る。最も大変なのは、これらの作業を彼女を起こさないように済ませることだった。

やらねばならない作業の理由と方法をスチュアートが覚えたのは、大部分は試行錯誤によるところが大きいと彼自身は認めていたが、知識の多くは彼が手に入れた本から得られたものだった。適切な手順が確立されたと感じるまで、彼は患者の取扱い方やそれに類する内容の医療雑誌を購読していた。

作業が終わると、彼は窓の外を見やり、もうすぐ日が昇ることに気付いた。仕上げをしないといけない。彼はアカシアの朝食をナイトスタンドに置き、部屋に鍵をかけ、五十五ポンドを掴み取って、アンスワース医師を待つために玄関に降りた。

どんなに賢しかろうと、スチュアートはほんの子供であり、彼もそれを分かっていた。彼は一人ではこの家を維持することはできず、祖母が確かに築き上げた取引関係をそのまま引き継いでいた。彼とアカシアに食べ物を提供する八百屋がいて、アカシアの土地を借りている農家がいて、そして、今ドアをノックしているアンスワース医師がいた。

「こんにちは?ヘイワード君?起きているかね?」

彼はいつもスチュアートが塔にいると踏んでいた。たった今起きて、ふらつく足元で来ているとでも思っているのかもしれない。だが、スチュアートはちょうどこれから床に入るところだった。用事を済ませるには皆が寝静まっている時がより簡単だったためだ。スチュアートはいつもアンスワース医師を少し待たせた。その理由がただちょっと可笑しいというだけであっても。時に、医師は窓に小石を投げつけることや、次のようなふざけた呼びかけに及んだ。

「やあやあ、スチュアート君!気持ちのいい朝だぞ!」

スチュアートは玄関で長身の男を迎えた。ここに来る時は、医師はいつも活気に満ちていた。明らかに朝方の人間だ。彼の体型はやや太っていて、重ねた年齢と真っ白の髪と髭にふさわしくもあった。常に医者らしい格好で、シャツとネクタイと、よく似合ったサスペンダーとベルトを着込んでいた。

「おはようございます、先生」

「こちらこそ、おはよう!中に入ってもよろしいかな?」

スチュアートは頷き、脇に退いて男を中に招き、廊下を案内した。

「さて、最近の調子はどうだね?」

「僕は普段通りです。奥様やお孫さんたちはどうですか?」

「ああ、絶好調だよ!夏に向けて、ツリーフォート1の計画をまさに立て始めたところだよ。孫たちの勉強が終われば、資材を調達しに行く予定でな。君は何か予定があるかね?」

「あ、いえ。残念ながら。季節が変わっても日課は変わりませんから、ここにいなければなりません。アカシアの世話をしなければ。ご存知の通り」

「そう、それについてだな。スチュアート君、お祖母様について話を――」

「五十五ポンドですよね?」

「な、何だね?」

スチュアートは煙草一本と火口箱を取り出して、火をつけた。「五十五ポンド。仕事の支払い額はこれで合っていますよね?」

「……そうには違いないが、き――」

「先生にとって今まで通りなら、僕としても彼女についてはこのままにして欲しいと思います」

「スチュアート君、これは真面目な話なんだ。このままの状態だと彼女は自身に相当な危害を与える可能性が――」

「先生の言いたいことは、すでに存じていますが、答えはノーです。あの人を施設に入れる提案でしょう?僕がその選択肢をまだ検討してなかったとお考えですか?自信を持って言えます、世話ができるかもしれない施設よりも、自分の方がずっと適切に世話ができます。実際に施設を見たことはありますか?あそこに入った人がどれだけ不幸そうにしているか?僕は見ました。彼女は施設では幸せにはなれません。彼女をここに置いておくには十分な理由です。それに、彼女が行くなら、僕もまた行かなければなりません」

「彼女はここにいては安全ではない」

スチュアートは一瞬黙りこんだ。彼は間違いを正そうとしていたが、もし実際にそうしたなら、あまりに反抗的だと思われただろう。

「終わりにしないといけない、スチュアート君。君は12歳になったばかりだ。残念ながら、次の診察までに彼女の状態が良くならない限り、必ずや彼女を移さねばならない。他に正しい方法はないのだよ」

スチュアートは進み、ドアの鍵を開けた。

「分かりました。でもせめて今は、仕事をなさってくれませんか?」

「分かった」医者は頷いた。

スチュアートはドアを開閉し、医者を入れた。彼は他にも世話があったし、医者に関われば関わるほどに、状況が悪化することは分かっていた。彼は祖母が描いた絵を拾い上げると、居間に移り、暖炉のあたりに座った。

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彼はいつだってこの作業を憂鬱に思った。作品の陰惨な内容にも関わらず、それらは彼の知っている他の画風よりも美しく、かなり個性的であった。多くの画家はより自然主義的な画風に拘っていたが、アカシアの画風は極めて単純化されたものだった。黒と白の色だけを持って描いていたにも関わらず、図形や像は驚くほど生き生きとして見えた。

全部を取っておきたいとスチュアートは常々思っていたが、彼女が描くことに飽きることは決してなかった。それらを全て保存するにはいくら部屋があっても足りなかったが、それでもスチュアートは自分が特に気に入ったものを保存するのをやめなかった。彼が一日分の作品に目を通す中、一枚だけ彼の心を掴んだものがあった。礼装用のドレスを着た少女。

他とは何か違うものを感じて、スチュアートはそれを保存した。どうしてかはまったく分からないが、他の大半の作品よりももっと……落ち着く感覚があった。

「ここの仕事はこれで終わりかな」

スチュアートは振り返り、扉あたりに立つ医師を見た。彼は言い争いをする気分でもなかったので、単に肯定で返した。「そうですね」

「私の言ったことを忘れないでくれ、スチュアート。次の診察だ」

「分かりました。ありがとうございました」スチュアートは冷たく返した。

医者は少し立ち止まり、大きな溜息をついて、帰って行った。1分ばかり暖炉の火を眺めていると、鐘の音がなった。10時、ベッドに入る時間だ。



第一章

その日、彼は眠れなかった。ここ9時間、スチュアートはただ天井を見つめていたも同然だった。家を追い出されることの恐れが立ち込めてくると共に、彼は自分の行く末について考え始めた。アカシアをアンスワース医師の所に残して、荷物を詰めて逃げることを考えた。53歳に至ったアカシアは、大半の女性よりはるかに年長だった。彼女は自分の人生を送れたかもしれないが、自分はまだだ。アカシアは休息を得て、ヘロインの処方を貰って、もっと良い治療を……とスチュアートは考えた。

もしかしたら本当に施設の方が彼女にとって良いかもしれない。スチュアートの懸念は単に、自身と孤児院にあったのかもしれない。それでも彼は、あの戦場に送られるくらいなら路上で暮らした方がましだと思った。養親に目をかけてもらうには年齢が高すぎたし、いたとしても少ないもので、決して良い扱いは受けないだろう。最もありそうなのは、争うことが捌け口となっている愚か者共の餌食にされることだ。

あるいはただ逃げるのが最良かもしれない。お金は十分にあった。もしかしたら……でもどこに行くべきか?サーカス?……不確かな賭けになるかもしれないが、街は出ることになる。難しいことではない、おそらくは一日か二日の準備期間がある……アンスワースはアカシアを見つけて、家に連れ帰るだろう。今生の別れになるわけではない。

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それはいずれ、必ず起きることだったのかもしれない。
スチュアートは時計を見た。午後6時だ。1時間早かったが、そもそもろくに睡眠をとれるはずもなかった。少なくとも今は、都合が良く思われた。アカシアと過ごす時間を長く取れる。スチュアートはベッドから抜け出すと、食器棚の上に置いてあったタバコと巻紙の束に手を伸ばした。

たとえそれがより時間を要する方法であったとしても、スチュアートは自分のタバコを巻くことに常に確かな満足を感じていた。もしどこの場所でも代替品を見つけられなかったとしても、雑貨屋は小冊子を1セントで売っていた。その性質の大部分を刻みタバコ用に使うと考えるならば、紙巻きタバコを箱で買うよりもずっと安かった。日に5本が普通だったが、先の知らせもあり、彼は7本を作ることにした。

およそこの時間にはアカシアが絵の仕上げに入っていると思われたので、スチュアートは彼女の部屋に確認をしにいった。ドアに着き、それをちょうど覗き込める程度に開いた。

「おばあさま?中に入っても良いですか?」

彼女は返答せず、おそらくは絵に気を取られていた。構わず、部屋に入る。

「おばあさま?晩御飯の買い出しに行こうと思っていたのですが。大好きなトマトビスクを買ってくることも……」

「フレデリック?アンタなのかい?」

フレデリックが誰なのかスチュアートには見当が付かず、どうして彼と間違えるのかも分らなかったが、初めてのことではなかった。兄弟か、あるいは父親だろうか?

「違います、アカシアさん。僕です……スチュアートですよ?」

「あら……」

「……アカシアさん、一緒に散歩に行きたいかどうかを教えて下さい。大好きなトマトビスクを買いに行っても良いかもしれませんよ?」

返答はなかった。

「アカシアさん、ちゃんと食べないと……」

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返答はなかった。

「……聞いてください、ここに……ずっと住めるかどうか、分からなくなってきました。僕たちは……つまり、別の道を行く……」

「……私のネコはどこかしら?」

彼女はいつもこのように、目の前に何があろうと他のことに気を取られていた。何かを受け取ることも、意味のある反応を返すこともなかった。まるで彼女はすでに死んでいるのに、精神は空回りを続けていて、止まる時を待っているかのようだった。スチュアートは今まで一度も猫を見たことがなかったし、その名前も知らなかった。彼女が一時、猫を所有していたことは過去の写真や近所の人達との会話から知っていたが、スチュアートが生まれた時には死んだか逃げたかしたはずだった。

「猫は……ここにはいません」

「あら……あそこに私のウサギがいるわ。毎日見るのよ」

反射的にか、スチュアートは外を見たが、何もいなかった。

「彼女は今隠れているのよ……時々塔の壁を上ってきて、窓から覗いてくるの」

症状の進行を考えると、こういった症状も予想の範疇にあったが、この発言には特別な引っかかりを覚えた。塔はスチュアートが住んでいる場所のことだ。兎には登れない。何か不穏な感覚があった……しかしそうは言っても出鱈目には違いなかった。きっと彼女は、まさに現実のように感じた出来事を本当だと思い込んでいたのだろう……でも誰かが押し入るのを見たとしたら?

「ええと……中に入ることはありましたか?」

「お……覚えてないの」

スチュアートは訝しんだ。泥棒をあの人が実際に見たことのあるウサギと結び付けて考えることは、ありえない話じゃない。

「ごめんなさい、確認しないといけません。後で戻ります」

彼女は気にしていないようだった。スチュアートは、考え得るあらゆる貴重品の確認をしに走った。銀器、先祖伝来の家財、衣装棚の中と床下に隠した貴重品。全ての無事が確認できたようだった。スチュアートはしばし考えた。

馬鹿らしい。泥棒が入ったのなら、運べるものは何だって盗ったはずだ。それを置いても、普通は夜に忍び込むものじゃないか?それなら見たはずだ……それに、リスか何かの齧歯げっし動物をウサギと見間違えた可能性もある。どうして僕はこんなに神経質な反応をしているんだ?

スチュアートは長々とタバコを吸い、アカシアの部屋に戻った。この心労にいつか殺されるような気がした。こんなことを心配している場合ではない。盗まれた物があったとして関係ない。彼はいずれにせよ家から立ち退かされる立場にあった。

スチュアートが部屋に戻ると、彼女は窓の外を見つめていた。きっと彼女の兎を待ち侘びているに違いない。

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「アカシアさん?教えてもらいたいのですが、散歩に行ってみたいとは思いませんか?気持ちの良い夜ですよ」

彼女は彼を見上げた。「庭を見に行くのかい?」

「はい、その用意もできると思います」スチュアートは返事をして、車椅子の準備にかかった。あの息苦しく古臭い寝室にずっと籠っていた後に、新鮮な空気を吸いに行くのは、健康上も良いことのはずだ。そしてなにより、二人が一緒に必要不可欠な用事以外の時間を過ごしたのは、久しぶりのことでもあった。

アカシアは昔から華奢な女性だった。スチュアートは、彼女を椅子に運びながら、体重の軽さを実感していた。数オンスの重さも越えないように思われた。彼はアカシアをやや摩耗した階段を通して運び、車椅子を扉の外へ、土の固められた道に沿って押した。二人は話をしなかった。その必要もなかった。スチュアートは誰かの相手をしていることが本当に幸せだったし、沈黙のおかげで目の前にある庭を余すことなく楽しむことが出来た。

土地の大半は農地に変えられてはいたが、スチュアートはこの一角を維持してもらっていた。かつてのアカシアはガーデニングに並々ならぬ誇りを持っていて、庭の手入れを全部一人で行っていたが、今はもう管理を行う者はおらず、庭は草木の繁茂に蹂躙されていた。

それでも、今の状態でさえ、庭には依然として魅力があった。石造りに伸び伸びと広がる蔦、長らく干上がったままで錆ついた噴水。スチュアートにとってそこは、探検したくなるような類いの場所だった。まるで長く忘れ去られた古代遺跡で遊んでいるかのように……。残念ながら、一緒に遊ぶ人は居らず、彼は探検を行うよりもそこらの木や柱の下で読書することが多かった。

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彼女がこれを覚えはしないことはほぼ確実だったが、今この瞬間は彼女も幸せを感じていることが分かった。そして、彼女と会うのもこれが最後になるだろうことも。彼女がいるうちは楽しく過ごすべきであったが、全てを失うことの恐れは頭にこびりついて離れなかった。家も、この庭も、アカシアも、彼の蔵書も。気づけば、一時間が過ぎていた。彼は年老いた女性を覗き見た。彼女は眠っていた。

まるでそれが分かっていたかのように彼は軽く笑い、車椅子を握った。彼はまともな本が不足していたことを思い出し、今が本屋に寄れる最後の機会かもしれないと気づいた。やがては一人でここから移らねばならなくなるだろう。彼は家に戻り、アカシアを補助してベッドに寝かせ、出かける準備をした。古本と、道具袋と、運動靴を揃えて。

なんにせよ、地獄から逃げ出すのなら、もっと読み物が必要だった。



第二章

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街に広がっている噂によれば、この小さな本屋には幽霊が住み着いていた。語られる内容は一定しなかったが、およそ共通していたのは、この町が成立するよりも以前にとある老夫妻が店を一から建てたことだ。二人は長く幸せに暮らしたが、ある日、悪魔が訪れ、それは二人の魂を剥ぎ取って店内に閉じ込めたという。

時計が朝方の3時33分を刻む時、悪魔はその場を彷徨い、その恐ろしい手の犠牲となる哀れな魂を探しているそうだ……。また、それよりも遥かに確からしい話では、スチュアートはその時間帯、読んだ本をまだ読んでいないものと取り換えていた。地元の人間は幽霊やら悪魔やらに関する迷信について、比較的信じやすかった。棒を投げて建物に当たれば、それは何らかの謂れにある呪いが掛かっているのであった。

本当に邪悪な者たちは、自分たちのためにこの古びた町があるのだと主張していた。

スチュアートは店の裏口のドアに手を当てた。彼はここに来た初めの数回、地下室の窓を這って抜けねばならなかったこと、そして、真っ暗闇の物置に落ちる羽目になったことを思い出した。

幸いにも、裏口の鍵は容易に潜り抜けることが可能であった。今はただポケットナイフを裏口のボルトと蝶番の間の差し込めば良かった。手持ちの本に変化が欲しくなる度に、毎度泥土を這っていたことと比べれば、ずっと簡単に侵入できた。この侵入方法を発見して以来、スチュアートは読む本が切れる度にこの店を訪れた。今やそこは第二の家のようであった。

おそらく、スチュアートはこの小さな書店にある本の半分以上を読んだはずだった。本が読まれないままとなることがただ心残りだった。多くの著者らが彼らの作品に労力と思考を捧げている。そして、彼がこの店を訪れることは、今回が最後になるかもしれなかった。

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放棄されていたにも関わらず、建物は丁寧に管理されているようだった。どの卓にも埃はなく、どの本棚にも蜘蛛の巣は張っていなかったが、それにも関わらず、いずれの部屋も人の気配を欠いていた。もしも悪魔なり霊魂なりが本当にここに取り付いているのであれば、それは確実に魂の収穫よりも建物全体の維持に心血を注いでいるようであった。スチュアートは以前から何度か、この店に立ち寄る人がいないか近隣に住む住人に尋ねたが、これといって有益な返答は得られなかった。

何であれ、スチュアートは自分が図書館の来館者であるかのように店では振る舞った。彼は一度に三冊の本だけを選び、本を返す時は元あった場所に必ず戻し、店内を汚した分の掃除を行った。単に、彼にはそうするのが正しいことに思われた。

並べられた品物を見繕い、彼は割と気に入っていたジョリス=カルル・ユイスマンスのさかしまを、アメリカの著者であるマーク・トウェインの作で、巷説より度々耳にし始めていたハックルベリー・フィンの冒険と取り換えた。

彼がもう一冊の古本を手に取ろうとしたところ、本棚から露骨にはみ出していた一枚の真っ赤な封筒に気がついた。スチュアートは店内のこの場所には何度か来ていて、以前は確実になかった。その時、封筒に彼の名前が記されていることに気付いた。

封筒をそこに残して、本を収め、二度と戻らないのがおそらく最善だったのであろうが、好奇心はすでに刺激されていた。一体誰がここにそれを残せたのだろうか?そしてどうやって僕の名前を知ったのだろうか?彼は封を開けた。自分に危害を加えようとする誰かからのものではないだろう。結局のところ、スチュアートに近づくのであれば、背後から忍び寄って袋詰めにするか、昏倒させるのが簡単で、手紙で警告を促すよりは理に適っていただろう。

しかし不穏には違いなかった。

スチュアート・ヘイワードさんへ。

どうか二階で私と御一緒して頂けますか?貴方への遺産と将来の計画について、お話しすることがあります。

このような姿をお許しください。

――アカシアの友人より


スチュアートが詳しく調べるほどに、好奇心は一層募った。彼はアカシアが彼のために考えていたどのような計画も知らなかった。実を言えば、アカシアに取引相手以外の"友人"がいたことも知らなかった。彼女が邸宅を離れることは滅多になく、それはスチュアートが移ってきた以前も同様であった。

彼が隣の卓に本を置き、階段へ向かうと、声が聞こえた。初めは微かながら、二階へ近づくにつれ、それが歌声であることが顕わになった。音の源へさらに近づくと、その曲と、秀美な声質が認められた。屋根裏の老女中Old Maid In the Garret2を歌い上げるその声を、スチュアートは天使のようだと形容するほかなかった。それが誰であれ、彼女に並外れた才能があることは明白だった。

急に現れて歌い手を驚かせないよう慎重に、彼は歌の方へ廊下を辿り、主寝室に着いた。女性はもうすでに明白に歌に没頭していたため、難しいことではなかった。彼は壁に向かって体重を預け、軋む扉をゆっくりと開けた。スチュアートは中に若い女性を見つけた。自分よりは年上だったが、十六に届かないように見えた。

少女は、10サイズは大きすぎるようなバスローブを着ていて、頭の左側には赤い蝶リボンを付け、長い黒髪は背中の上に届くくらいであった。彼女は入口と反対側の窓を向いていて、他のことに気を取られているように見えた。歌いながらも、カモミールティーのような香りのするものを準備していた……少なくとも、スチュアートがさらにドアを開くまでは。

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ドアの軋みは、死者が目覚めるのに十分なほどの大音量だった。騒音が彼女に届くと、彼女の頭上には二本、薔薇色の骨のような突起が現れた。それはまるで耳を傍立てる兎のようであった。

「ヘイワードさん?」彼女はドアを振り返りつつ、わずかなアイリッシュ訛りでそう言った。顔の下半分は医療用マスクで覆われていた。

「あら、良かった。手紙を受け取ってくれたのですね。しばらくあなたの後を追いかける必要があるんじゃないかと心配していたんですよ。どうぞ、座って楽にしてください」彼女はそう続けて、コーヒーテーブルと一組の椅子を身振りで勧めた。「ちょうどお茶の準備をしていたんです。カモミールはお好き、ですよね?」

スチュアートはカモミールが大好きだった。

「ええと、大丈夫です」彼は答え、席に腰を下ろしながら、本当ならすでに逃げ出したい衝動を持つのが当然なのにと考えた。女性の心安まる声か、丁寧な物腰のおかげかもしれないが、彼女が危害を加えてくることはないという非常に強い印象があった。

それぞれの一杯分を注いで、彼女はテーブルの方に移動し、彼が腰を下ろす前に、グラスをスチュアートの目前に置いた。彼女が椅子に落ち着くと、スチュアートは彼女の人間離れした目を、はっきりと視認できるようになった。右目は薄っすらと、部屋を照らす白い光を放っていたが、左目はほとんど曇っているようで、仄かな赤い光を放ちながらも、もう片方ほどには明瞭ではなかった。

「す――すいません、あなたは一体どなたですか?」スチュアートは早口で話した。

「ああ、私ったら、なんて失礼なのかしら。カードに名前すら書いてませんでしたよね?私の名前はクローヴィス。私の事は……アカシアの個人的な従者とでも思っていただければ良いでしょう。ようやく話せて嬉しいです」

「待ってください、あなたは従者なのですか?どうして今まで会ったことがないんですか?」

「必要となるまで、そして、私の奉仕があなたに委譲されるまで、私のことは伏せていて欲しいというのが彼女の意向でした、謝ります。どんなに唐突な話に思われるかは分かっているつもりです。私としても、このような形で自己紹介したくはなかったのですが」

彼女は紅茶を一口含み、続けた。「あら。本当に見る目がありますね。アカシアのブレンドでしたよね?」

スチュアートはまだ自分のカップに触れてさえいなかった。あまりにも呆然として、お茶を楽しむどころではなかった。

彼はようやく落ち着きを取り戻そうとしていた。「ああ、そうかもしれませんね。まだ口を付けていませんが。クローヴィス、さん?あなたがなのか聞かせてもらって良いですか?従者だということではなく」

クローヴィスはしばし黙した。「天使ですね」

「天使が人に"従事"する話は耳慣れませんし、アカシアも特に宗教的な人ではなかったと思います。でもあなたのその……耳と、その目を見るに、嘘をついているようにも思えません。早合点ならすみませんが、あなたはむしろその反対ではないのかと思ってしまいます」

クローヴィスは膝の上にカップを置いた。「賢い男の子なのですね、ヘイワードさん。私が自らを天使と呼ぶのは、"悪魔"という呼び方にはあまりに多くの好ましからざる含意が付いて回るからです。それでは、私があなたを騙すか、傷つけようとしているかのような印象を常に持たれてしまいます」彼女は微かに笑い声を上げた。「私の姿を見たのなら、尚更でしょう。しかし保証できます。私はただ、あなたの最善の利益だけを考えていると」

「だから、その奉仕と引き換えに"僕の魂"かその類を要求してくるのですね、違いますか?」

「いいえ」女はそう言うと、朗らかな表情がふっと消えた。「残念ながら、差し当たってはアカシアのことを伝えなければなりません。彼女はもうすぐ――、……ごめんなさい、今朝方、彼女に会いに行ったのですが……彼女はあまり体調が優れないようです」

「ど――どういうことですか?」

「彼女は病に打ち負けようとしています。きっと夜は越せましょうが、明け方には、分かりません」

「……どうして分かるのですか?どうして彼女が朝亡くなると分かるのですか?」

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「それは……私が生得していたものによって、です。彼女のことはよく知っていました。23年間、彼女の下で働きましたが、片時も後悔したことはありません」彼女は続けた。「彼女はまだ亡くなっていません。会いに行くべきです」

クローヴィスは少年に袖余りの手を差し出そうとしたが、スチュアートはそれを握り返す気にはなれなかった。彼は椅子から立ち上がり、ドアの方へと向かった。「家までついて来たいのなら、どうぞ」

もちろん、彼女はそうした。二人が家路につくまでの間、クローヴィスは時折、ただ沈黙を破ろうとしてスチュアートに話しかけたが、返答が帰ってくることはなかった。彼は用事は先送りにして、適切な時間に寝ることもせず、代わりにアカシアのベッドの下に座って夜を明かした。傍らでは、クローヴィスが静かに立っていた。

スチュアートは、翌朝、アカシアの臨終に接したが、後からその瞬間を思い出すことは出来なかった。唯一思い出せたのは、クローヴィスがアカシアの耳元に何かを囁くように見えたのと、その後に彼女がスチュアートをベッドまで抱えて、ブランケットの下に丁重に寝かしつけたことだけだった。



第三章

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朝目覚めて、テーブルの上に朝食が用意されていなければ、彼は昨日の出来事をただの夢だとしか思わなかったことだろう。温かいフラップジャック3とベーコンに最初は戸惑ったが、作ってくれた人が誰であるかを思い出すことで、その思いはより強くなった。

朝食は少しだけ後回しにして、スチュアートは彼の……客人の相手をしに階段を下りた。彼女は今日も屋根裏の老女中を歌っていたので、すぐに見つけられた。しかしながら、その声色は昨日と違って若干遅く悲しげであり、彼女は最初にあった時のように彼に背を向けていた。

「本当にその歌が好きなのですね」

「ああっ、もう!」彼女は声を上げ、さっと振り返ると、自分を落ち着かせるように心臓があるであろう場所を押さえた。「……失礼しました。誰かの所に泊まるのは久しぶりでしたので。こんばんは、ヘイワードさん。気分はいかがでしょう?」

「事情を差し引けば、これ以上なく元気です」

「……はい。改めて、お悔やみ申し上げます。わた――」

「やめてください」そう言ってスチュアートは手のひらで遮った。「一つ聞きたいのですが、どうしてまだここに居るんですか?」

「え――ええと?」

「どうしてここに居るんですか?朝起きたらフラップジャックがありました。あなたは見返りでも求めているんですか?」

クローヴィスは溜息をついた。「そうですね、アカシアとの契約が理由の一部ではあるのですが、一番はあなたを想ってのことです、ヘイワードさん。私は主従契約をあなたに引き継いで貰い、従者としてだけでなく、友達になりたいと思っています。あるいは先生か相談役でも良いでしょう」

「何が狙いですか?」ほとんど面食らって、スチュアートは言った。この生き物は、悪名高い嘘とペテンに塗れた種族でありながら、友情の手を差し伸べるというのか?

「……すみません、もう一度いいですか?」

「どうして無償でそんなことをするんですか?何か理由があるはずです。結局あなたに魂を受け渡すことになるのなら、残念ですが受け入れられません」

「いえ、それは結構です。昨日は言いそびれましたが、そのような汚らわしい……ファウスト的な取引は私の領分ではありません」クローヴィスはそう言い、ローブの袖で何かを'追い払う'ような仕草を見せた。「魂を見たことがありますか?おそらくないでしょう。無理もありませんが、全く不潔なものです。とにかく、それは私にとっては何の役にも立ちません。そのように魂を扱うよりも、あなたの頭蓋骨の中に収まって、なんであれ自分の目的を果たそうとしている方が良いです。本当にありがたい……。それに、あなたの魂は売り物ではありませんよ」そう言って、彼女は紅茶を一口含んだ。

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「なら……魂が要らないなら、何が欲しいと言うんですか?」

「そうですね、雨露をしのげれば素晴らしいですが、私から求めることは基本的に一つだけです」

「それはつまり?」

「私があなたに連れ添うこと、あなただけに、あなたの命が続く限り」

「……それだけですか?」

「それだけです。もちろん、客人の相手でもして欲しいのなら、喜んでやりますけれど、私をあなたの血族の外へ移すことはできません」

「……繰り返しになりますが、それだけですか?」

「はい。簡単に聞こえるかもしれませんが、それだけです。私にとっての利点は、私があなたの下に居る限り、別の、遥かに酷い契約が無効になることです。本当に困ることと言えば、どちらかが私刑に晒される状況の到来を避けることだけです。多くの場合、私は自分の面倒を見ることはできますが、誰かがあなたを私と結び付けたなら、実際はどうあれ、魔術や降霊術の疑いを掛けられるでしょう」

「どうしてそんなことを?あなたは自分を化け物みたいに言いますが、見る限りではそうでもありません。目と……耳?はあるかもしれませんが。いずれにしろ、隠すのはとても簡単だと思います」

「それだけではないのですよ。私の身に着けているこの酷い服を見てください。恐ろしげな第一印象にならないように、あなたのために着てきたものなのですが、ずっと着ているつもりはありません。私は自分の外見を恥じているわけではありませんが、恐れられるに足るものだとは理解しているのです」

「見せてください」

やや驚いたように、クローヴィスは返答した。「ああ、そうですね。準備という程のことはほとんどありませんが。よろしいですか?」

「はい。一緒に動くようになるなら、少なくとも、あなたの本当の姿は知っておくべきだと思います」

彼女は少し黙り込み、溜息をついた「そう言うのでしたら」

彼女が顔のマスクを外し、立ち上がってローブを締めていたベルトを緩めると、着衣は地面に落ちて、ほぼ肉のない容姿が顕わになった。クローヴィスに残っていた皮膚は美しく保存されているように見えたが、下の方を見るほど、その量は少なかった。彼女の口のまわりに肉はなく、髑髏めいた笑みだけがあった。胸と首まわりは多くが生身だったが、大きく渇いた穴がいくつも空いていて、中の作りがはっきりと見えた。肋骨の下あたりになると、彼女の身体は完全に肉を捨て去ったようで、綺麗な白色の骨格だけがあった。

スチュアートは、自分が生きた呼吸する骨格を目の当たりにしていることを理解すると、他の部分にも目が行くようになった。彼女に手はなかったが、蟷螂の鎌を思い起こさせるような二本の長く尖った骨があった。首には深い傷跡があり、何年も前に切断されたようであったが、丁寧に縫い合わされていた。

彼女はスチュアートの方を見て「申し訳ありません、ヘイワードさん。服を戻しますね」とコートを着ながら言った。

スチュアートは呆然として座っていた。彼女が言うような悪魔の疑いがあったなら、その疑いはすっかり消えてしまっていただろう。恐怖は感じなかった。驚いてはいたかもしれないが、恐れてはいなかった。むしろ、何を考えるべきか分からないというのがより近い。恐怖の威光を隠そうともしないこの生物は、盛んに町に広がる都市伝説から余すところなく抜け出てきたかのようであった。その時、スチュアートは思い出した。

「あの噂話は本当なんですか?」

「噂話?」クローヴィスは首を傾げた。「それはどういった意味で?なるほど。察するに、住人の方々が何か語っていた、私の住んでいた建物の元所有者に関する話ですね?」

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「はい、その通りです」

「そうですね、私がその住人の殺害に関与したという話なら、それは誤りです。あの建物に夫婦が住んでいたのは、あなたが生まれるよりも前の話です。彼らが良く旅をしていたのは知っていました。不幸にも、夫の方は心臓の病気で亡くなり、残された妻はずっと以前にここから去りました……可哀想に。彼女には子供もいませんでした。きっとあの場所を売り払うことはおろか、見ているだけでも辛かったのでしょう。それ以来、私はあの場所に住んでいて、綺麗に管理し、世俗から隠れていたのです。あなたがどれほど本が好きなのかは知っていました。少なくとも、あなたの目に留まるのは時間の問題でした。白状すれば、定期的にドアを使ってもらえるように、細工をしなければいけませんでしたが。少なくとも……」

「……アカシアと僕が離れる前までは」

「……ええ……。アカシアは私に、あなたを助けるように頼みました。あなたがより耐え得る形で孤児院に馴染めるようにと」

「そんなことはしない」スチュアートは声を張り上げた。「行く気はありません。不親切な世話人と何も作れない犯罪者一歩手前の奴らが――」

「そのために私が来たのですよ」クローヴィスは遮った。「それを変える方法を教えます。私が出来ることはご存知ですよね?あなたが出来ることも?あなたの生活は想像していたものとは全く異なるものになるでしょう。放浪者に堕ちる以外に何の選択肢が思いつくというのですか?」

スチュアートはまともに言い返せなかった。

「必要なのは雨露をしのげる場所と、アカシアが遺したものを受け取ることです。両者を満たす理に適った選択肢は孤児院のほかにありません。あなたが永遠にこの邸宅に住まうのは元より無理なことだったのです」

「アカシアは?」

「彼女は……朝のうちに引き取られるよう手配しています」彼女は下を向いて言った。「アンスワース医師に手紙を残して置きました。すぐにでもここに来ることでしょう」

「……分かりました。僕は行きます」

「ああ……それを聞けて良かった。この瞬間をずっと避けようとしていたことは理解しています。しかし、私はそれこそが正しい選択だと思っていますよ」彼女は床に目をやった。「話題を変えましょう。朝食はご賞味いただけましたか?」

「ああ。いえ、まだ食べていなくて」

「急がないと、美味しく食べる間もなく冷めてしまいますよ」

「分かった。ありがとう」

「どういたしまして」安心したようにクローヴィスは言った。「今は朝食を楽しんで、それが済んだら私の元へ来てください。準備の全てを手伝います。私たちには、とにかくあと数日しか残っていませんからね」

スチュアートが扉の取っ手に手を伸ばした折り、彼は振り返って聞いた。「……彼女には会えますか?」

「もちろんですよ。自由になさってください。私の方で始めておきますから」

スチュアートはほかに言葉が思いつくわけでもなく、「うん。ありがとう」とだけ言って会話を終えた。



第四章

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大柄な男はいくつかの並び立つ感情を覚えていた。目の前の存在に対する苛立ちを、愛すべき患者の一人が亡くなったことに対する悲しみを。そして、おそらく最も強く表れていたのは、道を踏み外しつつある一人の子供への憂慮だった。

「どうして私はこんなことに同意してしまったんだ?」彼は唸った。

「それが正しいことだからです」

クローヴィスはもう粗悪なバスローブに身を包んでおらず、本来の人を慄然とさせる姿とは甚だしく対照的な、袖のないピンクのデイドレスを着ていた。姿を紛らわすというよりも、今の服装はむしろそれを強調していた。骨格めいた体を隠すでもなく、骨張った笑みを覆っていたマスクは外され、胸郭はコルセットや下着で隠していた。見せる生身があったなら恥ずかしくてとても表には出られない装いだったが、彼女が着ていれば、少々ぞっとする面はあるものの美しかった。

彼女は続けた。「第一に、彼が間に合ったのはお互いにとって幸運でした。あなたは自分の出番が終わったことを喜ぶべきでしょう」

彼は肩をすくめた。「ああ、そうだ。しかし実に不快な経験だった、特に彼の……構想、と呼ぶに値するかも分からないが」

「彼女は誰よりも子供を欲していて、私には守護者が必要でした。アカシアの末路は残念に思いますが、彼女は自分の選択に満足していました」

「私は満足していないぞ。どうして分かる?君が化け物を育てる、その手助けを私がしたのではないと」

「そんなことはありませんよ」

「何の根拠があってだ?」

「そうですね、黒猫というのは本来幸運をもたらす生き物でして、猫一般が基本的に怪奇から私達を守ってくれるのです。例えば、あのペストを防いでいたのも猫なのですよ」

「……それだけか?魔女の友人とも言うだろう」

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「では、なぜそう考えるのでしょうか?伝説と噂話は明確に異なるものなのですよ。あの子本人を見てあげるべきです」

「彼は礼儀正しいかもしれないが、何も変わりはしない。君も物腰は丁寧だが、色々なことをやってきたのだろう」彼は居心地悪そうに椅子の上で動いた。

「遥か昔、私の意に反してのことです。それでも、それが本当に悪だったかどうかは議論の余地があるでしょう。聞いてください、私の約束を除けば、伝えることができるのはその程度です。"父母"がどのように行動するかは分かりませんが、いざとなったら、少なくとも誰かが彼らを止めるチャンスを得るでしょう。彼らは声を聴いてほしいだけかもしれません。それならば私も支援できます。しかしながら、特定の成果を約束することはできません。これは最悪の事態を、ただそれだけを防ぐために必要なことなのです。アンスワースさん、あなたの働きは十分でした。役割を果たしてください。あなたが行うべきことで唯一残っているのは、あなたの兄弟に彼女の遺言を適切なルートへ運んでもらうことです。いずれにせよ行われるべきことでしたからね。心配の必要はありませんよ、あなたの孫達でさえも、終わりに立ち会えるか怪しいでしょう。私から連絡することも二度とないはずです」

医者は溜息をついた。「それならば、最善を祈るしかないようだな」

「それが眠りの助けになるのであれば、ですね。あなたと個人的にお会いするのはこれが最後になりますから、丁重に感謝を述べさせていただきます。私達は全てにおいて同意したわけではありませんが、あなたの協力なしでは事は非常に困難であったことでしょう」

「喜んで、と言えば嘘になろうが、気持ちは受け取っておこう」

「私にとっても気持ちの良いものではありませんでしたからね。彼女の子宮を開いてまともな血管を入れること自体も、それが彼女にもたらしたであろう代償も、しかしあなたの針仕事と看病には大きく助けられました」

「君の怪我で死ぬことにならなくて良かった。ひょっとすれば私よりも君の方が大変だったかもしれない。彼女の事をどれだけ想っていたかは理解している」

クローヴィスは少し言葉を止め、視線は横の方へと逸れた。「そうです。それはもう……ですが、悲しみは乗り越えられたように思います。殻が亡くなったのは最近だったでしょうが、あの方が真に死んだのは始まりの時からでした……スチュアートを見に行かなくてはなりません、まだ彼女の部屋にいます。ご一緒されますか?」

「そこで会おう。少し準備がある」

「はい、分かりました」と彼女は終え、日傘に手を伸ばしドアの方へ向かった。「楽しい老後をお過ごしください、先生。あのツリーハウスも、ひとりでに完成したりはしませんからね」

家から踏み出して、すでにどれほど遅れているかは分かっていたが、彼女は自分の時計を確認した。6時。日の出が近づいていた。アンスワースの住まいから邸宅までの道のりは長くはなく、おそらく3キロメートルほどであった。多くの人々はすでに起床していたが、彼女とアンスワースを除けば、道を歩く者はいないも同然だった。それは彼女の仕込みで、少なくとも夜の間は、誰も道を見たいとすら思わぬように"確率を調整"したのだ。

それは彼女が町のそこかしこで行ったことだった。計画的に道は忘れ去られ、建物は'幽霊屋敷'としての悪名を着せられた。彼女が静かであって欲しいと願った場所には、町が勝手に解釈を付与して、おそらくは存在しない悪魔や殺人鬼のせいにした。そうさせておけば良い。酔っ払いやヒステリックな野次馬に邪魔されなければそれで良いのだ。

彼女は町人が一帯に一切立ち入らないようにすることもできたが、彼女が歩かなければならない道はあまりに広大で、突然、誰もが恐怖に怯えて真昼間の道を歩けなくなってしまったら、不審に思われただろう。スチュアートが起きていたのは夜の時間であり、彼女はその間だけ仕組みを機能させておけば十分であった。そのため、今では皆はただ、そのことを単なる夜間外出禁止令として解したように思われた。そもそも、薄暗い夜道を歩くことに不安を覚えない人間が果たして存在するだろうか?

だからこそ、彼女は遠方の大きなシルエットを見て驚いた。

彼女の直感は植え込みに隠れることを促したが、後ずさりしかできなかった。それはすでに彼女に気付いたようで、彼女に向かって走ってきた。それは人ではなく、大きな、黒い、狼らしき姿だった。

「あなたは……ここにはいないはず」

それが彼女に突き進むにつれ、彼女はその姿が示す人物に気が付いた。それは彼女に飛び掛かり、破裂するように灰色の炎と化し、彼女に届いた瞬間に消えた。目撃した時の緊張が抜けぬままに、彼女は周辺を見回した。それは、彼女に飛び掛かるずっと前から、単なる虚像に過ぎなかったのだと彼女は結論した。

それは彼女を傷つけたはずも、傷つけられたはずもなかったが、彼女が本当に恐ろしかったのはそれではなかった。クローヴィスは自分を落ち着かせて下を見下ろすと、土には文字が引っかかれていた。おそらくは、今の存在により残されたものだろう。「一度、彼らが来たならば遅かれ早かれ必ず起こるものとは思っていましたが、」と心の中で彼女は考えた。「直接中に飛び込まねばならないかもしれません」

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訳注:"久しいな"



第五章

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「馬鹿らしいよ、こんなこと」

「いいえ、そんなことはありません。私を信じて下さい。あなたが実行する必要のあるどのような特別な行動actionにおいても、これらは最も重要な構成要素です。他の多くの方のように自分で集める必要がない分、あなたは幸運です。要素のいくつかは、それ一つで人を狂わせるのですよ」

二人はテーブルに着いていた。スチュアートの目の前にはクローヴィスがこの時のために書き記した、"構成要素"の大きな絵が描かれたリストが広がっていた。アカシアの葬式から数日が経ち、スチュアートはクローヴィスの同伴に慣れてきていた。アンスワース医師は、代理人が手続きを行い、スチュアートがマージ-川4近くに位置する"ヘイヴン・ハーバー"孤児院に送られることになるまで、彼の面倒を見ることを約束した。彼は朝方に来る予定だった。

彼女は続けた。「いずれにしろ、ほとんどは終了しました。万全の準備をしておきましょう」

「別にいいけど、要するに、僕に呪文詠唱をしてもらう予定だと言われた時には、ここまで大変な作業になるとは思っていなかったよ」

良くないですね。飽きるよりはむしろ、練習に高揚してて当然なのに、とクローヴィスは考えた。実際に独りで試してみて自分の力を知れば、態度が良くなるかしら?一応、重要な箇所はすでに覚えている訳ですし……。

彼女は口を開いた、「いえ……一理あるかもしれませんね。ひとまずこれは脇に置いて、訓練と行きましょうか?」

スチュアートはすぐさま目を輝かせた。「つまり、楽しいところに入るってこと?」

唇があったなら、クローヴィスは笑みを作ったところだ。そう、その意気だ。「はい、しかし私も不安なので、基本の構成要素を覚えていることは確認させてくださいね。復唱してもらえますか?」

彼はほとんど捲し立てるように答えた。「水銀、硫黄、金、銀、鉄、銅、塩、有機、スズ」

「有機とは何ですか?」

「たいていは砂糖、木、血、骨、皮膚、だけど実際は植物や肉なら何でもあてはまる。生きているか生きていたなら、該当する。他の構成要素と違って一つの物質ではなくて、分類のようなもの。それぞれの構成要素の性質は由来によって変わってきて、主に世代や場所を越えて生物を変えたり、その……生物を召喚したりするために用いられる。色々と。一番効果が得られるのは、植物や動物を繁殖させること。僕の場合は、主にそれを利用することになるから、自分の手を放出口として使うことができる」

「この要素を使ってあなたがしてはいけないことは?」

彼は呆れ顔で、ポケットに手を入れた。「異世界の存在を、友好的であろうとなかろうと、あなたの許可なく召喚すること」

「良いでしょう」クローヴィスは安堵の溜息をついた。「誇らしく思いますよ、スチュアート。本当に。飲み込みも早くて助かりました。でも一つだけ。手を用いて行動actionを実行することはとても便利ですが、私はそれだけに頼ってはいません。残念な結果になることもありますし、もっと飛距離や力のあるものを必要とする場合もあるでしょう。例えば、楽器、時にはスリングショット、または木剣ですね。今のところは単純な内容に留めておきましょう」

スチュアートは彼女に冷ややかな目線を向けた。

「ああ、失礼しました。御託はこれで十分でしょう。あなたが安全に取り組めるかということだけを確認したかったのです。庭に出て、勉強の成果を――」

それだけ言うと、スチュアートはクローヴィスの腕を掴んで彼女を後ろ向きに連れて行った。その間、クローヴィスは慌てないでとスチュアートにしきりに言い続けていた。二人は開けた場所に移動し、青々とした若草の上に座った。

「さて、まずは"マーキング"と呼ばれるものから始めましょう。広い視野で見れば、秘術にとってのマーキングは、物書きにおける羽ペンと同じようなものです。両手を見せてもらえますか?」

彼が両手を差し出すと、彼女はそれを返して手のひらを見た。しばらくの間チクチクとした痛みが走ったあと、穏やかな熱を帯びた。

「今の時代の人が、なぜ誰も呪文を使わないのか分かりますか?」

「いいえ」

「誰も方法を真に理解していないからです。私も例外ではありません。秘術を行使する方法を学ぶことは、習慣を身に着けるようなものです。私の知る限りでの最善の説明としては、誰もが自身の、全く違ったやり方を持っていて、それを誰かに教えようとしても、教師の方法はまったくと言っていいほど生徒のそれとは合致しない、ということになります。時にはかなりの混乱を招くこともあります。ある者はそれを生まれながらにして知っているか、少し後押しをしてやるだけで習得することが可能です。これは運命によるものです。しかし、そうは言っても積極的に学ぶことが必要な人々もいます。生存のために本当に必要なものではないですからね。私がたった今あなたに与えたのは、秘術の補助輪のようなものです……。ずっと保たれるものではなく、ここ三十分のためだけの」

クローヴィスは脇を見やった。「そうそう、実はあなたにプレゼントがあります。あそこの木の後ろを見て!」彼女は陽気に言い、少し離れた場所にある柳を指した。「行ってみて!」彼女は促した。

興味を覚えつつ、スチュアートはそれを取りに行った。彼は木の周りに目を凝らして、木に立て掛けられている彼の腕ほどの大きさの長細いギフトボックスを見つけた。

「そこで開けないで!私の前で開けて下さい!」離れた場所からクローヴィスが声をかけた。久しぶりの純粋な喜びを胸に、彼は箱を掴んで足早に戻った。

箱を開ける傍らで彼女は続けた、「私が一種の……聖句箱5を使うことについて言っていたのは覚えていますか?そうです……あなたのために用意しました!」

蓋が静かに滑り、真空が解かれると、飾り立てられた木剣が皮鞘の上に置かれていた。よく観察しようと柄を掴んで持ち上げ、ひっくり返すと、玩具にしては重みがあることが感じられた。

「あなたのために選びました。気に入ってもらえると本当に嬉しいわ!マークの付け方と、使い方を教えます。それが済んだら不活性化しておきましょう。そうすれば、感覚も掴めてくるでしょう。練習したい時は言って下さいね」

「こ、言葉が出ないよ、」明らかに感極まった様子で、彼は言った。

「気にしなくていいですよ、スチュアート」彼女は朗らかに言った。

「いや、これは、玩具を誰かに貰ったのは初めてで。こんなこと……」短い沈黙の後に、突然、クローヴィスは腹部周辺に締め付けを感じた。彼を見下ろすまで、彼女は自分が抱きしめられていることを認識できなかった。

二人が離れるまでに暫くの間があった。

「あー、こほん……ありがとう。気に入った、すごく気に入ったよ」スチュアートは自分を落ち着かせた。

「そ――それはなによりです」

「ええと……マークの付け方を教えたかったんだよね?」

「ああ、そうでしたね。マークを付けたい場所に力を加えて、付けたいシンボルのイメージに集中する、するべきことはそれだけです。あとは、あなたの手に付けたマークが残りを片付けるでしょう」

「マークを使ってマークを付けるの?」

「簡単に言えばそうです、でもこの先ずっとそうする訳にはいきません。さて、こちらには練習のために既に呪文を置いてあります。ですので、トリガーを載せれば……」

「それが発動される?」

「力を加えれば、そうなります。だから向ける方向には気をつけて下さいね。実際に、狙いの定め方を見せましょう、後ろに立ちますよ」そう言って、彼女は位置についた。

「分かった。こう?」

「ええ、そうです。トリガーの準備を手伝いましょうか?」

「大丈夫、できたと思う……。次は?」

「両手で持って、刃を空に向けて。準備が出来たら、柄をきつく握って、打ちたい方向に集中する。それが出来たら――」

すると、轟音に続いて、色とりどりの光がリボンのように切っ先から迸り、夜空を青、緑、紫からなる色彩で満たした。

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「これが"北のオーロラ"と呼ばれるものです、」彼女は始めた。「正確に言えば、自己流の再現です。そこらの花火や何かよりはずっと良いでしょう?」

「読んだことしかなかった……実際に見るともっと凄い」

「ええ……、初めて見た時は私もそう思いました。一緒に見れたら素敵だと思ったんです……、分かってもらえたでしょうか?今晩はここまでにしておきましょう、これは凄い成果ですよ」

「本当に?割と簡単だったけれど」

「その通り。それが出来るまでに、普通の人は何年も掛けるものなのです。この調子なら、残りの授業も一瞬で終わるでしょうね。教えないといけないことは、責任を持ってそれを使う方法だけですね」

「うん」

「そういえば、ヘイヴン・ハーバーの代表の方がもうすぐこちらにやって来るはずです。荷物の準備をしないと……心配しないで下さい、私がやっておきます。荷造りは終わっていますから、そう掛からないでしょう」

「分かったよ。ありがとう、母さん」

「気にしなくていいですよ、」彼女は朗らかに言った。「できるだけ早く終わらせます。では、中に戻りましょう」

二人は作った印を消して、北極光の模倣を畳み、木剣も忘れずに、屋内に戻る準備をした。スチュアートは少し遅れて、自分が言ったことに気が付いた。彼は、彼女が聞き間違えた、あるいは、もし自分がそう発言していたとしても、彼女が聞いていないことを期待した。

クローヴィスも、先の言葉をスチュアートが意識して言ったのか考えていただろう。しかし、恥ずかしさで赤く染まった彼の頬を見れば、答えは一目瞭然であった。



第六章

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伝えられた内容によれば、代表者が1時間前には現れているはずだった。ほとんどの所持品は荷造りを終えていたため、スチュアートはソファに寝転がって読書するほかにやることをほぼ見つけられずにいた。しかし、暇つぶしのための読書が楽しみのための読書に勝ることはないと気づいた。アンスワース医師は何時間も前に様子を見に来ていて、クローヴィスはときどき階段上から頭を覗かせて、どうして代表者がまだこないのかと尋ねた。

忘れられてしまったのかとスチュアートが思い始めたところで、男は玄関に現れた。訪問者は扉に拳を叩き付けた。激しい勢いで。待ち時間次第ではドアを壊しかねないことを心配し、アンスワース医師は男を中へ案内するために駆けていった。

長身の男がアンスワースの前に立ちはだかり、これまた大柄な医者を見下ろしていた。「ヘイワードの坊主とやらが居るのはここかね?」険しく、荒々しい声で男は尋ねた。

男はアンスワースの頭越しに中を見渡し、男に話しかけようと立ち上がった子供を見つけようとしたが、医師を脇に追いやるまで、彼の姿をはっきりと目にすることはできなかった。男の装いは喪服と形容するのがより適切に思われた。ピンストライプ柄で覆われた黒とグレーのスリーピース、黒のネクタイ、黒の帽子。その全てが彼の白々とした顔と、べとついた、皺くちゃの手を強調していた。

男は一歩踏み出して、自己紹介を始めた。「お前がスチュアート・ヘイワードだな?」

「はい、その通りです」

「そうか、私の名前はハロルド・モーガン神父だ。お前は私と共にヘイヴン・ハーバーに行くことになっている。道中は話しかけられた場合を除いて一切喋ってはならない。いいな?」

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この男は1時間も遅れてきて、僕に指図するために厚かましくも押し入ってきたのか?もう分かった、随分と楽しくなりそうだ。「はい、分かりました」騒ぎ立てても仕方がない、むしろ一緒に住むともなれば、良く思われるに越したことはない。それに、たぶん彼は道中のほとんどを寝て過ごすだろう。

「ハルトン6からお前を迎えに来るだけで厄介だというのに、たちが悪いことに、あの忌々しい鉄馬に乗らねば辿り着かん。あれは自然に反する物だ……。荷物の準備は終わっているようだな。持っていくのはそれで全てか?」

そもそも、彼の所持品は大した量ではなかった。何揃いかの服と、唯一の玩具と、本のみ。本が大半を占めていたが荷物は二つの鞄に全て収まった。

「いいな、何であれ持って行くものは自分で運ぶんだ。覚えておけ」

「大丈夫です」

「ええと、モーガン神父?少しばかりスチュアート君をお借りしてもよろしいですか?」アンスワース医師が割って入った。「二人で話さねばならないことがありまして」

説教師は彼を睨みつけた。「構わん。さっさと済ましてくれ」

アンスワースはスチュアートを掴んで、キッチンへ連れて行った。

スチュアートが口を開いた。「すると、ここでお別れなんですね」

「そのようだね。スチュアート、もしクローヴィスか君自身で解決出来ないような問題があったら、僕の兄弟に連絡して欲しい。彼の住居は君の所からそう遠くは離れていない。クローヴィスは彼の住所を知っているから、必要なことがあれば助けになってくれるはずだ。彼は私の所に連絡を寄こすだろう。そして、それが何であれ四人で解決しよう。分かったかい?」

「そうします、心配なさらないでください。でも彼は、あまり物腰の丁寧な人ではないようですね」

「神父が?そうだね、君の言う通りだ。しかしあまり気を張りすぎないことだ。今日は特別に機嫌が悪いというだけかもしれない」

「そうするつもりでした。たとえ、少々……不愉快な人だと感じても。最初から敵を作る必要はない、そうですよね」

医者は笑みを浮かべた。「そう、そんな必要はない。分かってくれているようで何よりだ。とはいえ、覚えておきなさい、ただ言いなりになってはいけないし、他の誰かがそうなるのを見過ごしてはいけない。自分で正しいと思ったことをすれば、全てうまく行くはずだ。良いかね?」

「ありがとうございます、先生。その通りにします。最後に会った時、あんなふうにしてごめんなさい、いつも全部助けてくださって、感謝しています。嘘なんかじゃありません。僕と関わる必要すらなかったのに」

「おお、静かになさい。君は友人だったじゃないか、私が覚えている限りの昔から……。可能な時は帰って来なさい。君がいないと、とても寂しくなりそうだな」

スチュアートの表情は少し明るくなった。「機会があればそうします。約束します」

「よし分かった、行ってきなさい。私達が戻って来なくて、モーガン氏は怒り心頭かもしれん」

医者は男の子の頭に手をやり、共に説教師の方へと向かった。「準備が出来ました。モーガンさん」スチュアートは鞄を手に取って、遠慮がちに言った。

「モーガン神父だ。礼儀だ、坊主。礼儀を知れ。それを忘れずにいるのが賢明だ。さもなくば、一から叩きこむぞ」スチュアートを睨みつけ、鋭い口調で彼は答えた。「……さあ、さっさと来い。移動するぞ」

説教師が哀れな子供を扉の外に押し出したため、スチュアートは手を振って別れを告げるアンスワースを振り返ることがほとんどできなかった。説教師に文字通りに押し込まれた馬車は、すぐさま動き出した。彼の過去と家を、遠くに離しながら。道すがら、スチュアートは、ハーバーで再びクローヴィスと会えることへの期待を抑えられずにいた。

どうであれ、少なくとも一人の友人はいるだろう。

駅への道のりは短時間だったが、快適ではなかった。彼らは後部座席に乗りスチュアートは説教師の隣に座っていた。限られた空間内に何とかして荷物を収めようと試みるスチュアートの横で、モーガン神父は腕組みをしていた。彼は道中、説教師が片方の鞄を持ってくれれば、あるいは1/4メートルでも余分な空間を諦めてくれたらと考えずにはいられなかった。それならモーガンと同じくらい快適に座ることができただろう。苦行のさなか、スチュアートの頭には"聖人気取り"という言葉が浮かんできた。

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幸いにも、馬車は駅に着くまでの移動手段でしかなかった。スチュアートは客車から駅に飛び降りたが、列車はまだまったく見当たらなかった。彼がちょうどベンチを探し始めたところで、甲高い音が鳴り響き、彼を飛び上がらせた。

高い音域ではあったが、その存在感は甚だしく、人ほどの大きさのホイッスルを鳴らしたかのような音であった。スチュアートが後退りして音の発生源を探すと、巨大な鋼鉄の獣がカーブを疾走し、駅の方向へとやってきて、その後に客車が続いた。その瞬間スチュアートは、過去に一度も汽車を見たことすらなく、簡単な文書で読んだだけであったことを実感した。

"鉄の馬"か、似たような表現で称されるのは以前から聞いたことはあったが、彼はそれを、おそらくは線路の上を走る、五月蠅い笛を備えた新しいタイプの乗り物だと思い込んでいた。そんな物ではなかった。用途こそ同じであったとしても、馬とは似ても似つかない。カーブを曲がりつつも線路を外れずに駆けるその様は、むしろ鉄の蛇を思い起こさせた。クランクと偏心器、連結棒が多数の車輪の周りを眠気を誘う動きで回転している様は、"鉄の百足"と言った方が良かったかもしれない。ともあれ、スチュアートは畏怖しつつ広々とした客室に足を踏み入れた。

その時の事情にも関わらず、彼は乗車を楽しんでいる自分に気づいた。過ぎ去る風景を、通り過ぎる町並みを、説教師の不満そうな顔を、彼は歓びと共に眺めた。汽笛の音を聞くことすら、彼の心を躍らせるものとなっていた。

道のりが目的地に勝るとは、まさにこのことを言うのだろう。



第七章

スチュアートは新たな彼の家がこれほど……度を越したものになるとは予想していなかった。端的に言えば、ヘイヴン・ハーバーは広大であった。宣伝していた数人の子供を収容するのに必要な大きさよりも大きい。面積は少なくとも2.5ヘクタールを占めているようだ。それに加え、まるで丸一日掛かりの買い物から帰宅したかのような、様々なバッグを持った人で賑わっているように見えた。一瞬、スチュアートは自分が正しい建物に連れて来られたのだろうかと思った。

「ここがヘイブン・ハーバーだ」二人が中に入ると、説教師が口を開いた。「ここはただの孤児院ではない。お前の悲惨な隠れ家に、下で寝るための屋根を与えるだけではない。ここは聖地であり、電力源であり、一般市場でもある。お前には明日、従事する仕事が割り当てられる予定だ。今日の所は、お前自身で地下から寝台を見つけ出して荷解きをしろ。寝床が必要になるだろう。もし私を必要とするなら、死にかけでもない限り受け付けんが、私は礼拝堂にいる」

説教師は、他には何も言わず立ち去った。スチュアートは溜息をついた。「地下」という先行きの予想は、彼にとっては良い前兆ではなかった。ヘイヴンは水場のすぐ近くに建てられた。どのような地下室も、地下水面の下に存在することへの対処を行わなければならないだろう。彼は混雑した新しい家を歩きながら、確実に蓄積したであろう夥しい量の様々なカビのことは考えないようにした。

建物はひとつの建築物というよりはむしろ、完全な屋内広場であった。四階建ての店舗と市場は、一種の「T」レイアウトで構成されていた。北側に面した一番長い廊下は、強いて言えばアトリウム7であり、上層階は食堂を見下ろすバルコニーで終わっていた。その区域は食料品店に特化しているようだった。スチュアートは、店のほとんどが特定の種類の製品だけを販売する専門店であることに気づいた。パンだけを売っているパン屋があり、魚だけを売っている肉屋があり、他にもまだまだ列挙できる。

北廊下を除けば、他のどのエリアも特にテーマはないようだ。北廊下のように、店は特定の商品に特化しているようだった。男の子向けや女の子向けの玩具屋、子供と大人向けの本屋、女性ものと男性ものの服屋があり、皆が必要とするであろうものは何でも、それ専門の店があった。

複合施設の反対側にはモーガン神父の日曜礼拝の多様な広告があった。その全てが3つの廊下が出会う場所の近くにある、大きな飾り立てたドアへと案内していた。広告は、余りにも不相応に感じる光に包まれた説教師を描いており、ローブを着た説教師が跪く男の上に手を置いていた。その男は夕日の前で微笑みながら、喜びの涙を流しているようだった。

廊下を歩き回れば歩き回るほど、スチュアートはますます疲れていった。普段の就寝時間からおそらく4、5時間も過ぎていることに気づいたのはその時だった。廊下を進んでいると、ドアに入る少年を偶然見つけた。ドアに取付けられた金属製の表示には「プライベートエリア:立入禁止」と書かれていた。スチュアートにとって、ここは地下を探すのにまずまず十分な場所のように思えた。

子供の背後にある目の前のドアを開けると、大きな金属製のドアに通じる階段があった。それは生活空間というよりはむしろ与圧された金庫室になっているようで、子供は必死になってそれを開けようとしているようだった。

「何か手伝おうか?」スチュアートは話しかけた。

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子供は飛び上がり、捕まった泥棒に似た表情で振り返ると、スチュアートを見て少し落ち着きを取り戻した。子供はスチュアートよりも幼く見え、彼よりやや身長が低かった。明るい黄褐色の上着を着て、パンパンに膨れ上がったメッセンジャーバッグを持っていたが、最も目立った特徴は左目を覆う眼帯だった。

「ああ、新入りの子だね?大丈夫、気にしないでっ」と慌ただしく言うと、ドアに戻った。「ちょうど自分のロッカーからものを取ってくる必要があったんだ」

スチュアートが階段を下り終える前に、子供はなんとか自力でドアを開けた。

「ごめんよ、ちょっと急いでるんだ。名前はジョーイ。キミは?」

「ああ、僕はスチュアートだ」

「スチュアート?会えてうれしいよ。閉館時間後にまた会えるかもね?僕は走らないとダメだ。じゃあね」ジョーイは慌てた口調でそう言うと、走り去った。行ってしまった。たぶんそれが一番だ。僕はとにかく社交的になれる状態じゃない。

ジョーイを手本にドアを通り抜けると、前方の廊下を飲み込むような暗黒に出迎えられた。ジョーイは遥か遠くのようだ。

「ただ前に進み続けて!」スチュアートはジョーイが前方で叫ぶのを聞いた。「しばらくは一直線だよ!手を前に出して壁を探して!壁を見つけたら右に曲がるんだ!そこからでも判るよ!」

スチュアートは暗闇に慣れ、ある程度は内部をよく見ることができたが、それでも依然としてひどく暗かった。目の前の半メートルはほとんど見えなかった。彼が進もうとしたとき、再びジョーイの声が聞こえた。

「おっと、狼には気をつけて!もし声を聞いたら、顔が見えないように、ただ顔を壁に向ければ大丈夫さ!」

…。えっ?…

「後ろのドアも閉めて!印のないドアと後ろのドアは大丈夫。でも、あいつは許可したら部屋に入って来れるままだろうね!」

…。何だって?…

「うん、僕を信じて。ほんと、話で聞くほど大したことじゃないんだ!注意することは多いだろうけど、あいつは全然危なくない。今までそれで死んだ人はいないから大丈夫!だから、あいつの通り道からちょっと離れていてね。ずーっと顔を見せちゃいけないよ、そうすればへっちゃらさ!」

「け、警官とかを呼ぶべきじゃ―」

「だめだ!僕を信じて。それは悪い案だ!最初にやったんだ。そしたら、それは誰にとっても良い結果にならなかった!……怖いかい?来て欲しいなら、そっちに行くよ!」

「ぼ、僕は大丈夫!……ほかに知るべきことは?!」くそっ、これは一体何なんだ?

「いや、それだけだよ!つま先をぶつけないように!よくあるんだ!」

「とびきり上等だね」スチュアートは独り言を言うと、荷物を肩に掛け、暗闇の中に足を踏み入れた。

スチュアートが奥に進むにつれ、この廊下はレンガやモルタルではなく、金属で構成されていることに気付いた。床は彼の足下でカツンカツンと鳴り、軋んだ音を立てた。彼が触れた壁は配管で満たされているように感じられた。何を運んでいるのだろうかと、しばらく考えていたが、やがて後ろのポケットが微かに叩かれたように感じた。

「私を探す準備ができたらそれを開いてください」と声が彼に囁いた。

スチュアートはくるりと振り返ったが、何も見えなかった。しばらく深淵を見つめていたが、獣に顔を見せるべきではないことを思い出した。気付くのにしばらくかかったが、スチュアートは、声がまさしくクローヴィスであると確信した。結局のところ、彼女は意図せず人々を失神させるほど怖がらせてしまう傾向があったが、彼を怖じ気付かせることはもうなかった。

一息ついてから、彼は歩行を再開した。廊下はどういうわけかより一層、暗くなっていった。

廊下をここまで長くしないといけないような理由はなんだ?とスチュアートが思った時、ついに終端に達した。

「あー、ジョーイ!?」スチュアートが叫んだ。「ここは左折?それとも右折?!」

返事はなかった。この冒険の始まりは1時間前からのように思われたが、実際は5分ほどであった。彼は他のこと、殺人沙汰を心配しすぎて、信頼すべき道順を覚えられなかったのかもしれない。右だったか?彼は左側を手探りし、それがそもそも選択肢になるのかどうかを確かめた。それは。多分右だ。

彼は右折時につまずいてしまい、曲がった後に何をするつもりだったかすっかり分からなくなった。しばらく歩くと、彼は曲がり角に出くわした。角にはちょうど小さなライトがあり、決して明るくはなかったが、その下の看板を照らすのには十分だった。

««««««««««
従業員居住区
««««««««««

やっとだ!スチュアートはそう思い、ドアを手探りで探した。触れただけで玄関のドアのようだと判別できたが、取っ手をつかむ前にドアが勢いよく開いた。室内から明るい光が見えたと同時に、それはスチュアートに衝突し、彼は危うく床に倒れこむところだった。

「ああ、ごめんね」スチュアートは内側から声を聞いた。「何か手伝おうか?」

ジョーイだ。「いや、いいよ、大丈夫、ありがとう。ちょっとビクッとしただけなんだ」

「キミはちょっと怖がり屋scaredy catだね?」

「ハハ」とスチュアートは皮肉っぽく言った。

「ちょっといいかな、ベッドに案内しよう」ジョーイは予備の簡易ベッドに向かって身振りをした。「好きなのを選んで」

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見るべきものはあまりなかった。使用中の簡易ベッドでさえ、カバーや枕は全くないようだ。スチュアートは口を開いた。「これを使ってもいい?」

「いいよ、エスペンの寝台の真向かいだけどね」とジョーイは言って、ぬいぐるみの熊が立て掛けられたベッドを指差した。

「エスペン?」

「すぐに会えるよ」

「わかった」スチュアートは慎重に答えた。「ちょっと鞄をベッドの下に放り込んでもいいかな?」

「何でもいいよ、怖がり屋。僕は行かなくちゃ。近いうちに会おう」

「"怖がり屋"は僕のあだ名にはならないよね?」

ジョーイは何も言わずにドアを閉めて立ち去った。

溜息をつきながら、スチュアートはくつろごうとして下の寝台に飛び込んだ。ようやく許容できる状況になって、彼はリラックスし始めた。彼は眠りに落ちる前に、エスペンの簡易ベッドの熊に気付いた。それは自分の方を向いているように見えた。



第八章

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スチュアートが目を覚ますと、黒いガラス質の目と茶色いボタンの鼻面が顔の近くから離れた。

「たくさん読むんだろ?」乱暴だが、子供っぽい声が尋ねた。

スチュアートはベッドの反対側に後退すると同時に目を大きく見開いた。見返すと薔薇色の両手がぬいぐるみを差し出しており、スチュアートがより遠くを見上げると、しなやかで幾分神経質そうな人物が見えた。肉屋の仕事着を着て、頭髪はわずかに汚らしく濡れている。「うわっ、ジョーイの言う通りだな、お前は怖がり屋だろ?」

スチュアートの顔は赤みを帯びた。「手伝ってやろうか?」

その人物の身振りは、彼もしくは彼女8が怯えていることを伝えているように見えた。今は顔をぬいぐるみの熊で隠し、視線を逸らしている。まるでスチュアートが突然ベッドから跳びかかって殴ってくると予想しているかのようだ。しかしながら、その感情はその声には表れておらず、それとは無関係に落ち着いているようだった。

「こいつはエスペン、」と彼もしくは彼女は自らの前で熊を振りながら言った。「俺たちはお前が新入りだと気付いた。だから、歓迎しようと思ったのさ。仕事はもう決まったのか?」

「……ごめん、誰がエスペンだって?」

「こいつだよ」エスペンは自分を指すように熊の腕を操作した。「……エスペンは自力では喋れない。だからこいつを厄介事から守るのが俺の仕事なのさ!」エスペンは愉快で元気なテディベアにひどく当惑しているようだ。

これは…。一種の精神病か?スチュアートは考えた。彼はどのような形であれ、医学的診断を下す立場ではなかったため、どう言葉を続ければよいか分からず、話の焦点を熊との会話に移した。妄想に付き合っても助けにはならないけど、直にやり合っても怒らせるだけだろうな。この子には労働ではなく専門的支援が必要だ。

「そう、それはいいね。仕事の話をしてたっけ?」

「おお、そうだ!」エスペンは言った。会話が移ったので、今はわずかにより落ち着いた様子を見せた。「どんな仕事をやるんだ?エスペンと一緒じゃなければいいな」

「まだ決まってないんだ……。どうしてエスペンと一緒じゃないほうがいいの?」

「エスペンがしていることは……。キーヤー?9」と熊の前足を口に当て、その頭を横に傾けながらエスペンは言った。何を言ったか尋ねるように。「それがどんなことでも、こいつは本当に知られることを好まないのさ。絶対にを一緒に行かせてくれねぇ……。こいつはしばらくすると、何というか、落ち着かなくなる。震えてるみたいにな……。そうだな、ジョーイと話したほうがいいぜ!そろそろ何かあるはずだ」

「ああ、ありがとう」この状況がいかに不安なものかわかる人はこの場にいますか?

「気をつけろよ!お前の仕事のことは心配すんな。ほとんどの奴らには、まあまあ普通の仕事が割り当てられるぜ」

「分かった。そう願うよ」と言って、会話を終えた。ジョーイは簡単に見つけ出せた。彼は明らかに初期段階の大きなポスターの上に、背を丸めて座っていた。スチュアートはその作風に見覚えがあった。

「あちこちにある広告を作ったのは君なんだね」

ジョーイは束の間、こちらを見ようと振り返った。「ああ、こんばんは……。それか、こんにちは……。今起きたの?」

「そうだよ、変な睡眠時間には慣れているんだ」

「へえ……そりゃ良いや。とにかく夜勤者がもっと必要だったんだ。仕事の準備はできてる?」

「ああ。でも待って。エスペンについて聞きたいんだ。よく知っているようだね」

「うん……。彼らがここに入ってくるのを見たよ。その後になってからモーガンは肉屋だけを必要としたんだと思う。彼らは立派な人だ、少なくともクマはね。でも、クマの後ろに隠れている奴が心配なんだ……。一度そのことをみんなに話そうとしたんだけど、誰も僕みたいな汚れた馬鹿犬を司祭よりも信じることはなかった……。そのツケは払った。でもキミがそうすべきってわけじゃない」

ジョーイは沈痛な面持ちで言葉を途切らせた。「聞いて。モーガンは専門職に店の経営とかいろいろと複雑なことをさせてて、僕たちのほとんどには見習い期間があるんだ。簡単な仕事さ。僕たちの多くは日曜日を除くとモーガンに会うことさえないんだ。僕たちが問題だったり、彼のところで働いていたりしない限りはね。厄介者にならず、邪魔しないように仕事をすれば大丈夫だよ」とジョーイはバンドを眼帯に合わせながら言った。「……そうそう……」

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ジョーイは立ち上がり、「配属」と書かれた厚いバインダーを手にした。

「夜からの仕事がしたいって言ってたよね?」とジョーイは始めた。

「そうだね、その方がいい」

「へえ。そりゃいいや。ファースト・ハウンドには靴磨きが必要だ」

「ファースト・ハウンド?」

「パブだよ。大人気なんだ」

「パブ?ここは聖地だと思ってた」

「そう、だから人気なんだ。いろいろ混ざりあったちゃんとした出し物もあるんだ。あれこれ考えてみると、キミはかなりラッキーだ。音楽も聞けるよ」

「まあ、文句を言える立場じゃないしね」

「よかった。それじゃあ、うまくいけば、今夜から始められるはずだ」

「わかった。それじゃ」スチュアートは振り返ろうとしたが、あることを思い出した。「昨日の狼の話は何だったの?」

「聞かないで。知らないんだ。モーガンがそいつをフレッドと呼ぶのを聞いたと思う。だからたぶん彼はそれをそこに置いたんだ……」スチュアートは困惑した表情で、ジョーイが全てを受け入れているように見えるのはなぜかと考えた。「……ここには2年間住んでいるんだ。慣れたよ」

「それじゃあ」スチュアートは話し終えた。「私物を片付けようか。昨日はそこまで手が回らなくて」

「キミは良いヤツだね。これが終わったらまた会えるといいね」と言い、彼はポスター制作を続けた。

寝台に向かう途中、スチュアートはトンネルの中でポケットに滑り込んだものを思い出した。彼は折り畳まれたメモを取り出し、その内容を読んだ。

スチュアート

私と同じくらいこの場所に疑問をお持ちでしょうね。少し休んで、できるだけ早く反応炉室に一緒に行きましょう。居住区を出たら左折してください。その部屋は道を曲がってすぐのところにあり、居住区と同様に照らされています。

人目を引かぬように。剣を持って。

――クローヴィス

荷物はまたの機会になるだろう。クローヴィスをずいぶん長く待たせていた。荷解きに必要な最小限の作業をして、スチュアートは木のおもちゃを引っ掴み、自分の所持品の確保だけをすると、ドアへと向かった。

ドアを開けると同時に、彼は突然、向こう側に佇む暗黒を思い出した。彼は束の間、その試みから手を引くことを考えたが、永久に居住区にいることはできないとわかっていた。彼はいつかは外へ出る必要があった。遅くなるよりは、今のほうがマシだ。

左に曲がって暗い廊下に入ると、スチュアートは暗闇に早く順応するかもしれないと期待して、目を大きく開いた。変化はなかった。むしろ視界の妨げだったかもしれない。

1、2分ほど廊下を手探りで進んでいると、スチュアートは足を出しすぎて、冷たい金属の壁に爪先の小指をぶつけてしまった。痛みは鋭かったが、少なくとも最初は即座に伝わった。最初の一撃のすぐあと、彼が痛みで叫んだとき、痛みは足を走り脊柱を苛んだ。彼の叫び声は複合施設中に響き渡り、再び短い沈黙が訪れた。

彼は依然として顔をしかめながら、支えのためにトンネルの側面に寄りかかった。ぶつけた所を確かめられるよう反射的に足を上げた後、彼は今、物が見えないことを思い出した。スチュアートは意気消沈の様子で、足を下ろし始めたが、すぐ近くから錆びた金属が短く擦れ合う音を聞いた。やがて彼は、たった今苦労して通ってきた深淵よりもかなり明るい光に呆然とさせられた。

「スチュアート!?」すぐ近くから大声で呼ぶ声がした。「どこですか……、スチュアート!」

スチュアートは、心配していた声が確かにクローヴィスだと気付き、安堵の溜息を漏らした。「大丈夫ですか!?どうしたのですか?ケガはありませんか?」と彼女は続けた。

「クローヴィス?し……心配しないで。大丈夫。ちょうど今、壁に足をぶつけたんだ」

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「それはとても痛そうですね。入って下さい。見てみましょう」そう言うと、彼女は自身が出てきた部屋を身ぶりで合図した。

部屋に入ってから、スチュアートの目が最初に捉えたのは、部屋の中央にある金属製の巨獣だった。彼はそれが本質的には機械であることを知っていたが、それ以上のことはわからなかった。それはより小型で配線の少ないバージョンと連動しており、低い音を立てているようだった。どちらも同じ製造業者によるもののようで、「120%強靭tough as nails!:アンダーソンズ・セレクト!」と表示された小さなラベルが付いていた。

「私を怖がらせましたね」彼女は、スツールを2つ引き寄せながら言った。「ちょっと見てみましょうね?座って、私の膝の上に足を乗せてください」

スチュアートはそれに応じたが、痛みはすでに治まっていた。

「そうですね……。ああ、大丈夫でしょう。ほら見て?ちょっと赤いだけです」

「思った通り……。でもまだ痛いな」

「あなたを信じますよ。地下室のドアからあなたの悲鳴が聞こえました」

「大げさに言わなくていいよ。壁が厚いから、聞こえないはずさ」

「……はいはい。ごめんなさいね、愛しい人。では話を変えましょう」とクローヴィスは言い、スチュアートの足を解放した。「この場所について話すべきですね。教えてください。今までに何を見ましたか?」

「僕は……よく分からない。ここは家というよりは搾取工場のようだよ。でも実際の目的と建物には困惑してる。それと、去る前にあなたから教えてもらったけど、ここにはテーマを感じる」

「私――私もでした。実は、この発電機についてお話ししようと思っていたところなんです。何を見つけたのですか?」

「子供がいる。エスペンだ。屠殺場で働いているようだけど、大型の水銀貯蔵所を利用できる。僕には何かの召喚に手を出しているように見えるよ」

「召喚?……どんな状況でもそれには反対です。ですが、他に考えられることはあまり多くありません。調べてみます。エスペンですね?」

「そう。少し痩せていて、暗い髪で、いつも持ち歩いているおもちゃのクマを通して話す。間違えることはないはず。そうだ、これについて何か言ってたね?」と隣の不格好なスクラップの山を顎で示しながら、スチュアートは言った。

「ええ、この発電機についていくつか気づいたことがあります。これは、性能を遥かに超える働きをしていて、破損している状態でろくな管理もされずに継続的に稼働しています。その出力ですが、これの最新モデルが故障中だったことは何度も見たことがあります。でも、これは?故障しているのを見たことは一度もありません。燃料が必要な時だけです。これが例外なのはなぜでしょうか?そして、これに似たものは他に9機あります」

「モーガンは僕に、ヘイヴンは余剰電力を誰かに売っていると言った。ヘイヴンのためだけに、10機の発電機というのは少し多すぎるように聞こえる」

「そうですね。率直に言って、この発電機は、この場所の電力としては十二分に過ぎるようですね。他の9機は周辺の町への電力供給用なのかもしれません」

「この場所により多くの収入を与えるだろうね。今までに見たモーガンの様子から、彼を理解できると思う」

「ええ、あなたが最初に彼に会ったとき、屋敷の裏手であなたとの会話を耳にしました。吐き気がしました……。聞いてください、愛しい人。私のためにあることをやってもらわねばなりません」

「えっ?」

「日記をつけ始めるべきです。何か変だと思うことがあれば。ここで起きることを何であれ記録しておけば、お互いの助けになる予感がします。後で解決するんです。書き終わったら私にも見せてくださいね」
「それがベストだと思うなら」とスチュアートは首をわずかに傾けて言った。「何が起きていると思う?」

「私……私にはわかりません。願わくば、それがただの産業効率のための手段ならいいのですが。ほかに知っておくべきことはありますか?」

「……オオカミの話をしたっけ?」

「……オオカミ?」

「そう、他の子供のひとりから、この地下階を徘徊するオオカミの話を聞いたんだ」

「……名前はわかりましたか?」

「えっ?」

「名前を聞きましたか?オオカミには名前がありますか?」

クローヴィスの顔色を読むのは難しかった。骨や肉質の穴ではない顔の部分は、鼻があるべき箇所のちょうど上にある組織だけであった。それにも関わらず、スチュアートは容易に不安な表情を察知できた。

「……うん、実は。名前はフレッドだったかな?モーガンは彼をそこに置いたと子供が言ってた。クローヴィス?大丈夫?」

「私は――私は大丈夫……。スチュアート、明日ここに来てもらったほうがいいですね、やるべきことをすべて終えたらすぐに。それと、今の日記の件は本気ですよ。場違いなこと、もしそうでなければ、注目すべきことは何でもです」

「どうして?何が起きてるのさ?」

「何もないですよ、」と彼女は言った。すでにドアから出る準備をしている。「少し休んでください。それか、今から始めるのであれば何か仕事をしてください。今後もレッスンを続けていきます。ごめんなさい、私にはいくつか作成の準備があるのです」

「でも――」

だが話すのが遅すぎた。彼女はすでにドアを後ろ手で閉めていた。ほぼ無音でスチュアートをひとり残して。

彼と一緒に残された唯一のものは、背後の絶え間ないモーター音だけだった。



第九章

1日目; (金曜日)

朝 (最初の仕事日):

この日記を始めるにあたって、その目的を述べることから始めるべきだと思う。僕はここにできるだけすべてのことを記録しようと思う。モーガンであれ、ジョーイであれ、貴女であれ、僕が忘れたくないことをした人であれ、個人的な理由であれ、それ以外であれ。だから、もしすでに知っていることを繰り返していたら謝るよ。誰にも分からないけれども、日記が助けとなるかもしれない。

さて、その話はこれくらいにしておこう。喜ばしいことに僕を心配させた事柄の中では、ファースト・ハウンドでの仕事は、最も些細な心配の一つになりそうだ。

貴女と話した後、僕はほぼ真っ直ぐにそこへ向かった。パブだ。騒々しく、酔っぱらいで溢れていて、音楽がもっと……視覚的な娯楽をほとんどいつも隠しているけれども、ある種の幸せが詰まっている。他にそう言える場所はヘイヴンのどこにも存在しない。仕事はまあまあ簡単だ。片隅に立って誰かが来るのを待ち、靴を磨き次の人を待つ。

それだけじゃない。彼らが口から吐き出すものが何であれ、僕はそれに同意しなくちゃいけない。奥方も、上司も、奴隷も、それが何であろうと関係なく。

おっしゃる通りです、おっしゃる通りです、おっしゃる通りです、あれこれすべて。僕が話したことを彼らが理解しているかさえ疑っている。皆とても酔っている。それでも、ハウンドにはいくつかの素晴らしい舞台がある。僕の行うほとんどの作業は午前6時30分の閉店時間までに終わる。その後は床のぬかるみ掃除に取りかかる。本当に子供の遊びだ。僕は屋敷の裏でそれ以上のことをしてたな。あともう一つ、ハウンドには素晴らしい魚のフライがある。

でも、僕はその汚れの起源を聞いてみたい。それは僕が使う靴クリームと同じくらい黒い。実を言うと、最初はそれを靴クリームだと思っていた。でも、それはあまりに柔らかすぎる。しかも、跡というよりは零れたように見える。調べた方が良いかもしれないな。

ここではまだ狼を見ていない。ジョーイが冗談を言っているんじゃないかと思い始めた。でも僕は、その名前を言った時の貴女の様子を再び考えている。貴女がそんな冗談を言うような人だと思ったことは一度もない。

ありがたいことに、今日は終わりだ。ここには色々あるけれども、上はほとんど普通のようだ。今はとっても疲れている。

疲れ過ぎて眠れない朝の一つになりそうだ。

2日目; (金曜日/土曜日)

夕方 (部屋から出た):

前回の日記を参照。そう、その朝は眠れない朝の一つとなったよ。疲れに加えて、他の子供たちは僕を休ませてくれなかった。夜勤をしていること、彼らとは別のスケジュールで働いていることを、一人ずつ次々に説明しなければならなかった。それなのに、彼らは静かにしてはくれなかった。エスペンは少しも寝ていないようで、自分のものについてずっと叫び続けている女の子がいた。

結局、僕は部屋を出なければならず、貴女と共に反応炉室で眠った。僕はあれを我慢することを拒否する。もっと練習が必要だと言っていたので、これが一番だと思う。ここで寝るなら、移動の手間が省ける。加えて、エンジン音が妙に心地よい。リズミカルだ。

もっと長くいられればいいのに。仕事前に準備してこれを書く時間を確保しなくちゃいけなかった。もう時間切れだ。今夜は、もっと何か判るかもしれない。


朝 (ウルフズ・ピッチ):

調べてみたけど、ぬかるみが飲み物だとは思ってなかったな。どうやらこれは「自家製醸造酒」と呼ばれるもので、ファースト・ハウンドだけにしかないらしい。見たところ、それは「ウルフズ・ピッチ」と呼ばれている。相応しい名前だと思う。常連客にとても人気があるようで、考えてみれば、それは常に彼らのグラスの中にあった。

興味を示したら、常連客の一人がグラスを差し出した。酒だと知ってからは、それは美味しそうに見えた。液体にしては濃く、明らかにアルコール入りだった。しかし、それがグラスの中で動く様子や、その光の反射、黒一色の……。僕は嘘をつくつもりはない、とても美味しそうに見えた。

我慢できなかった。酒は初めてじゃない、シャンパン、ワイン、ウォッカ、アカシアの貯蔵庫からたくさんのものを飲んだ。正直に言えば、僕は今までにこれに似たものを飲んだことはなかった。

飲み物に関する描写にはあまり詳しくはないけど、ウルフズ・ピッチの目立った特徴は、その肉っぽさにある。何かを飲んでいるような感じはなく、特に滑りやすいステーキを食べているような感じがした。濃い。どの糖蜜よりも濃いけれども、同時にとても滑らか。ビロードのような?

その重さ(文字通りね)のせいで、僕はほぼ丸々1パイントを飲み干した。それは容器からゆっくりじわじわと流れてくるものと思っていた。そして、同じように流れていくだろうと。半分は実際にそうだった。でも、僕は自らの意思で飲み込む機会すら得られなかった。それは液体自体の重さと全体的な滑りやすさで、喉に勢いよく流れてきた。それはとても高額? 優雅? 豪華。とても、とても豪華だ。

味に関していえば、それは僕を驚かせた。その暗黒はなんとなく炭のような味がした。でもそれをどう評価すればいいのかはよく分からない。後味がするようになるまで、それを味わうことはほとんどできなかった。それはまた、葉巻の箱のような味わいもかなりあった。とても甘く、とてもスモーキー。でも、全然ウッディーだとは言えないな。

それはまた、死ぬほど酔いが回った。ちょっと試し飲みした数秒後には、素面から恥ずかしいくらい酔ってしまった。半パイントだけだったのに!ウォッカを飲んだことがあるけど、あれよりもっと時間がかかった!

……僕は今、アルコールが通常ならどのように働くかという点から、ウルフズ・ピッチがどれほど異常かを理解し始めた。少しアルコールの味がしたのは分かってる。でも、ある種の効果のためには、僕はもっと…、はっきりとした味を予想していた。効果から判断すれば、シンナーのような味がしただろう。あれはそうじゃない……。

それともっと……徐々に酔いが覚めるはずじゃないか?すべてがとても唐突に見える。素面から数秒で酔いに堕ち、酔いに堕ちて30分で楽しく興奮し、10時間後まで心地よい興奮が維持された。僕は答えに納得したような気がしたけど、疑問が増えただけだった……。

変な感じがする……けど、本当にもっと欲しい。酒も、この感覚も、妙に馴染みがある。

3日目; (土曜日/日曜日)

午後 (夢、レッスン、仕事):

ちょうど夢から覚めたところだ。夢を見ることはほとんどないので、とりわけこれが印象に残った。どう説明したらいいか分からないけど、自分自身を操れなかった。僕は炎に飲み込まれた森の捕食者だった。確実に人間じゃない、四つ足になっていたことをはっきりと覚えている。

死体は、動物の死体は、木の板に釘付けにされていた。それらは燃えているか、逆さになっているかのどちらかで、ある種の泥で覆われていた。後者は、タール刑10を受けた人を思い出させた。でも……。それが目の前になければ、どんなに苦しいかなんて決して考えないだろう。一度誰かがあるものにある言葉を与えたとしても、それがどうにかして自分に関係してこない限り、その意味について決して考えないように。

「彼らは火あぶりかタール刑にされた」は、実際の光景と同じ重みを持たない。僕は彼らを見るのが怖かった。

炎が消えて、すべてが炭と化すまで一人でさまよい歩いた。しばらく経ったに違いないけど、雪が降り始めたことに気づいた。雪ウサギが近づいてくるのを見たのはその時だ。最初、僕は彼女を、彼女は僕を傷つけてしまうのではないかと恐れた。でも僕はそうせず、彼女もそうしなかった。

その代わりに、彼女は頭を僕の頭に乗せ、周りの焼けこげた森は雪で白くなった。彼女は僕を死体から引き離したけど、僕はその時、雪がすべてをその下に引き込んでいることに気がついた。説明するのは難しいけど、僕は彼女といるともっと幸せだった。そして彼女は、ここで起きたことに対して僕と感情を共有しているようだった。彼女は僕を小さな空き地に連れて行き、僕たちは一緒に横になった。変だな。雪は僕たちを覆う毛布を形作っていたから、冷たかったはずなのに、それは暖かかった。とても心地良く。

それにも関わらず、その時間はとても重く悲しい感じがした。本当に悲しげな。夢の中で眠ってしまったけど、表向きは目が覚めていた。起床後はできるだけ早いうちにこれを書こうと思い、ここまで来た。

ウサギのことを彼女と呼んでいたことに気付いたのは、今になってからだった……。このウサギは誰の象徴だろうか?それは貴女ではなく、確実に他の誰かだ。ウサギの動き方、彼女に対して覚えた感情は、貴女への感情とは関連していない。

認めるよ、僕は貴女に対していくつかの感情を持っている。でも、これはそういうタイプの感情ではないんだ。これが不快なら謝るよ。でも僕が貴女に抱く感情は、母親や家族に対して持つ感情に近いもので、夢の中のそれとは似つかないんだ……。

あの酒はもう飲むべきじゃないと言ってたね。その意見に賛成しなくちゃいけない。いつも飲んでしまってごめんよ。でもあれはほんとにすごく旨かった。

今日は早く起きた。眠り直せない。「最初はギターかしら?それともバイオリンでしょうか?」に返事をして、貴女が立てた今夜のプランへの僕の参加は確かだと納得させた。ずっと楽器を覚えてほしいと思っていたようだね。剣よりも繊細というのが理由らしい……。何を伝えたいのかはっきりしないけど、分かったよ。ファースト・ハウンド(貴女はその場所を見てないよね?)でもより気楽な気がするギターを持って行った。

「素晴らしいものを期待していますよ。愛しい人」

そう言われて、今も緊張している……、本当に必要なのかなと思ってるけど。話がそれた。貴女は僕を間違った方向に導いたことがない。

ふと気づいた。明日は日曜日だ。多くの教会に人が集まる日だね?昨日、全員が出席しなければならないとかなんとか、ジョーイが言ってたと思う。あいつが口喧しく捲し立てるところしか想像できないよ。ああ、もうこんな時間だ。普段ならぐっすり眠っている……。

すごく素晴らしい。じゃあね。


朝 (本当に……吐き気がする):

……。今日はどこから手をつければいいのかさえわからない。一日中ひどい思いをしていたことは飛ばそう。あの礼拝?を除けば、ウルフズ・ピッチが一晩中気になってた。

それは説教壇に立つモーガンとともに始まった。その頭上には大きなシャンデリアがぶら下がっていた。あいつはローブもガウンも着ておらず、いつものスリーピースだけだった。あいつはそこに立って何も言わず、説教の大部分は何もせず、時折、礼拝に集まった人々からの拍手を合図するために腕を上げるだけだった。

その時、僕は皆がどれほど熱中しているかに気づいた。彼らはただ何かを聞いているか、モーガンのように実際に何か言っているようだった。僕はそれを見ていなかった。あいつが実際に何か話したとき、僕はもう少しで飛び上がるところだった。

これはそのまま引用しているわけじゃないけど、あいつは上着を脱いで、仕事着と手袋を選び、「今、時は来た。彼女を私のところに連れて来るのだ」というようなことを言った。その数秒後、ドアが開く音が聞こえ、エスペンが、台に拘束された大体8歳くらいの女の子を押して出てくるのが見えた。

革帯には見覚えがあった。精神病院で治療前に動きを制限するために使う種類のものだ……。あいつが実際にそれを言うずっと前に、何が起こっているのかに気付くべきだった。僕は、これらの言葉を……ありありと覚えている。

「昨今、私たちは非常に深刻な状況にある」とあいつは始めた。「アシスタントが運んで来たこの幼き少女の名はレイチェル。現在、彼女の両親が私の元に訪れて来ている。両親は娘が非常に異様な行動をし続けていると話した。彼女は口答えをし、騒動の原因となっていて、親からの直接の命令でさえ拒否している!かつての可愛らしく小さなものからは程遠い。両親は私のところに来て、その少女を連れ戻そうとしている」

「私の声が聞こえるかな、レイチェル?ご両親は君のことを心配している」

その言葉は僕を凍りつかせた。何が余計に嫌なのかは分からない。問題のテーマか、あいつが語る声の穏やかな調子か。それは今まで聞いたあいつの声の特徴を全然持っていなかった。僕が見ることができたのは、事前に被せられた薄いシーツの下でバンドに固定され、もがいている少女だけだった。服さえ着ていなかったと思う。見た限りでは彼女を覆うものはシーツだけのように思われた。

モーガンは続けたが、僕の注意はあいつがその少女に行っていることに移った。あいつはある種の頭部装具を取り出すと、それを彼女に縛り付けた。そして、彼女の左目を強制的に開き、装具のグリップのようなもので固定してから、道具をつかんだ。細い金属の棒、あるいはとても長い針のように見えた。

あいつはそれを彼女の目に突き刺した。あいつはそれを彼女の目の奥深くに突き刺し、誰もがその行いに満足した。聴衆はそれを促し、あいつがそれを行っている時は祈っていた。彼女は叫ぼうとしたが、猿ぐつわをはめられ、モーガンが行っていたある種の交霊会のようなスピーチで彼女の声は打ち消された……。彼女がまだ生きているのかどうかさえわからない。

あいつはその後、針を押し込んでいたから、それは脳内に入ったはずだ。彼女は死んでいるだろう。抵抗を止めた時にそうなったと思った。でも、あいつが事を終え彼女を鎖から外すと、彼女は何事もなかったかのようにただ起き上がった。怯えたり泣いたりなどはしていなかった。何もなかったと言ったけど、彼女はほとんど至福そうに見えた。

彼女が起き上がると皆は叫んだ。僕は一緒にそうしなかったため、少々睨まれた。

その後で聞いてみたけど、僕に立ち去るように言わなかった人たちは、はっきりと答えられなかった。分かったことは「心霊手術11」だけだった。あいつが説教している宗教を実際に知っている人がいるとは思えない。誰か解る人がいたらいいのに。こんなことを考えるのは僕だけだろうか?

主は彼と共におられると彼らは言った。僕は全く信仰心がないけど、もしあったとしても、ここに神はいないと言うだろう。そして、もし存在したとしても、会うのはご免だ。

僕は怖いんだ、クローヴィス。家に帰りたい。これを書き終わる頃には貴女が戻ってくると知ってはいるけど、今すぐあなたが必要だと思う。僕はこの場所が大嫌いだ。吐き気がする……。あいつは最低だ。

ヘイヴンを燃やしたい。あいつを火あぶりにしたい。

4日目; (日曜日/月曜日)

夕方 (ありがとう、クローヴィス):

前回の日記を書いた後、僕のために一緒にいてくれてありがとう。僕……僕はあのとき、あなたが本当に必要だった。僕の心は暗い場所にあった。あれを……見てから。そうだね、あなたのプランは理にかなっている。レッスンを続けよう。

でも、僕はまだオオカミを心配している。それが何なのかわからない、まったく見たことはないし、この辺りを野生動物が歩いていると考えるだけでも落ち着かない。僕は……今日のジョーイについて考えた。何でもないかもしれない。でも……確かめる必要がある。日記の後半で続けよう。


朝 (ジョーイ):

今日の仕事が終わってからジョーイと話した。説教での彼について考えていることがあった。ジョーイは会った時から眼帯をしていて、一度モーガンとトラブルになったと彼が言ったことがあった。オオカミの件で。もしこのオオカミについて何かを学ぶつもりなら、彼は、僕が会わねばならない人物の一人だ。

彼にそれを問い質したところ、僕の疑いは裏付けられた。

僕と出会う前のある時期、ジョーイは外から助けを得ようとしていた。彼の言葉でいえば「すべきではなかった時の発言」だ。モーガンは黙っているように彼を"説得"しようとしたが、にも関わらずジョーイは注意を引き続けた。その時初めて、彼はモーガンに対するスパイ行為で捕まり、見せしめにされた。

彼はそれ以上話すのをためらっているようだった。今なら理由が分かる。ジョーイは、彼がモーガンの手術を受けた最初の一人だと言った。でもどうやら、モーガンは完全に成功を収めたわけではなかった。彼は何とかして針を避け、それは代わりに目に刺さった。串刺しにはなったものの、針をどうにか目の穴から引き抜いた。モーガンが何をしようとしていたかに関わらず、ジョーイはあいつからのメッセージを受け取った。

モーガンは、依頼した誰かのために悪魔を追い払う、「信仰療法」と呼ばれるパフォーマンスを週に一度行っている。その日にちは急用がない限り、ランダムに選ばれる。昨日見たのは、その幕の一つだった……。

この「心霊手術」が今の彼の名物らしい。彼は他のタイプの治療も行っている。そのほとんどはそれほどひどいものではないけれど、効果があるという錯覚で成り立っている。手術は前頭葉を破壊するから、最も効果がある。

ジョーイは調べるのをやめるべきだと言った。僕が何に手立ししようとしているか分かっているから、僕を止めたいと。彼は僕に起こるであろうことを警告した。モーガンが彼にしたことを見せてくれてまで。かつては彼の目だった大きな穴を……。彼の気持ちはわかるが、気にしてはいられない。これは終わらせる必要がある。

こんな場所があってはならない、僕は自分にできることがあると自覚し続けることを拒否する。

何を言っても僕を止めることはできないと悟ったに違いない。彼はステージの下にある場所を話してくれた。彼によると、祭壇の壇の下を這っていくと、あいつの部屋の音を聞かせてくれる換気装置がある。どうやら、彼のベッドは僕たちの真下の地下にあり、僕たちから隔離されているようだ。別の場所が見つかるまで、あいつはそれをよく使っていたらしい。

今晩から始めよう。

5日目; (朝/火曜日)

午後 (レッスンと翌朝の予定):

昨日の朝のレッスンにはウルフズ・ピッチが関係していた。それが最後の日記を更新しなかった理由。正直、飲むのは諦めるつもりだったけど、酒を飲むことが「僕が先へと進む」助けになるのであれば、断る理由はなかった。ほんの一杯しかくれなかったけどね!全然楽しめなかったよ……。

でも、エサで釣っても、楽器の弾き方を学ぶ助けには全然ならないと思うな。ウルフズ・ピッチには僕の知らない何かが入ってる?素材は何だ?芸術家の中には、インスピレーションを得るために阿片チンキを使う人がいると聞いたことがある。それに似た理由で飲んでいるのか?

阿片チンキがその材料だと言っているわけじゃないよ。それは不可能なんだ。彼らはこれをパブで売る。そこには酒と葉巻だけがある。阿片チンキは売るには値段が高すぎる……。それに、処方箋なしでは違法だ。

その間に気づいた。貴女はほんとに何の音符も見せなかった。ギターをチューニングすることさえせず、ただいくつかの不協和音を演奏し、ギターを僕に与えた。そして「最初に思い浮かんだ曲」を演奏するように言った。

それが何だったかは分からない。僕は弾き始めた……何かを。それはリズムやメロディーがあり、どこへ進むのかという着想があった。楽器を習っているようには感じなかったし、自分が練習不足なだけであるようにも感じた。もしくは、すでに知っている芸術形式の変形を学んでいるようだ。演奏は決して完璧ではなかったけど、以前に弾いたことがあるかのように鳴り響いた。

演奏を終えると、貴女はギターを手に取り演奏したものをコピーしたけど、それはもっと上手だった。完璧ではないけど、より良い。そして、貴女はそれを僕に返して、今の演奏よりも上手に弾くようにと言った。僕たちはギターを交互に渡して、貴女が5回目を弾くまでに、徐々に上達していき、レッスンは終わった。ええと、本当に終わり?

貴女は僕に寝るようにと言った。僕は適度に酔っていたので、期待に応えることができた。雪ウサギと一緒にいる夢が戻ってきた。僕は最初の夢で会った時のウサギへの感情に似たものを感じた……。森は雪に覆われたり、燃えたりしていなかった。そこには生命があった。

僕たちがいたところは、木々は心地よいオレンジ色の日陰に変わっていた。その夢の中では、僕は生徒ではなく教師だった。ウサギと僕は芸術的形態に変わっていたと考えてほしい。でも彼女が何を教えていたのか忘れてしまった……。ダンスかな。でも、今はそんなことは大した問題じゃない。

彼女に教えた方法は、メモを必要としなかった。それはもっと……、話し方を学ぶことに似ている?あるいは、歩き方?大体そんな感じ。多くの人に自然に備わるもの。彼女は問題なく習得した……、貴女が僕を指導していた時と同じように。

レッスンを終え、僕たちは並んで横になった。僕の頭は彼女の肩の上で、前腕で彼女を抱きしめて。レッスン以外で起こったことの大部分はぼんやりとしていた。でも……僕たちは幸せだった。それは覚えている。この夢を思い出すたびに、もっと見たいという思いが僕の心を満たし続ける。

苦く甘い。この気持ちを表現するには、その言葉しか考えられない。他の客は酒を飲むといつもこんな感じなのだろうか?なぜ人々はよくあるウォッカのようにウルフズ・ピッチを扱っているのだろうか?分からない。

それでも、それはとても助けになっている……独自のやり方で。しかし、明日の問題に関しては、エスペンが心配だ。僕は彼らの全関係を知る必要がある。

エスペンは直接モーガンの下で働いているようで、エスペンは何らかの形式の召喚を実行する兆候を見せていた。興味がなければ、それが何かは分からない。遅くなってきた。帰らないと。


朝 (エスペン):

エスペンの仕事が分かった。

僕のシフトはエスペンの開始地点で終わるので、エスペンが鍵をかけているときによく見かける。エスペンはいつも、一人で出発する前に少し礼拝堂に立ち寄ることが多い。モーガンと一緒だとクマを外していると思うけど、エスペンはモーガンと長く一緒にいる傾向がある。およそ三十分くらい。彼らが何をしているのかは分からないけれども、何であれそれはモーガン側の恥知らずなことなんだと思う。あいつはあの可哀想な少年に十分なことをした。

合間に僕は、自分を起こすために一人でブレックファスト・ティーをなんとか作っていたけど、結局エスペンは帰ってしまった。僕はエスペンとそのクマについてあることに気づいた。

クマがいないと……違う人物に見えるんだ。その動きはとてもぎこちなく、視線はとても虚ろだ。まるで機械のようだとしか言いようがない。僕はエスペンを地下の入り口まで追跡し、地下へ行く前に仮面のようなものを付けているのを見た。それはエスペンのクマに似ていた……。なぜかは分からない。クマがエスペンを元気づけているように見えるかもしれない。でもオオカミから聞いたことを考えると、それはエスペンのためだけのものではないと思う。

もちろん、後を追うのはとても困難だった。今まで言ってなかったけど、地下の廊下は真っ暗だ。どこに自分がいるかという感覚に従って、周囲の壁の感じと、曲がり角の記憶に頼らねばならない。この地下の明かりは部屋の中にしかないので、ドアを開けるたびに毎回目が見えなくなる。

廊下を歩いていた時に、エスペンの声を聞くことができた。口笛を吹いていて、とても大きな声も出していた。僕はそれが意図的な大声であることに気づかなかった。オオカミが僕の頭をつかんで、かぎ爪で強く押さえつけられているのを感じるまでは。それはオオカミだった。うなり声を聞き、毛皮を感じた。僕の首が金属壁にぶつかる音が聞こえ、僕は床に崩れ落ちた。しばらくの間、首から下は何も感じられなかった。

僕は踏み押さえられ、顔から床に落ちた。エスペンはドアを開け、光で廊下を満たした。オオカミが見えた。そいつ……そいつは、普通じゃなかった。頭部を除いたその姿勢、筋肉質な体格、毛皮の外被と尾……、それらを考えれば、男性と比べなくてはならない気がする。それは2本足で歩くことにしたオオカミか、オオカミの服を着た男のように見えた。エスペンはたじろぎさえしなかった。

エスペンはオオカミの手、あるいは前足をつかんだ。それは手のように見えたが、手の平には爪と肉球がついていた。エスペンはそいつを部屋に連れて行った。僕は少し前に首を酷く痛めていたため、起き上がって戻るのにいくらか時間をかけないといけなかった。どういうわけか、それはもっと痛かった。最初は気を失なうほど驚いたけど、その後はそうする必要はなかった。

ショータイムに間に合うように、なんとかエスペンに対するスパイ活動に戻ることができた。エスペンはオオカミを縛り付け、ラックに固定し、機械油のような飲み物をじょうごでその口に注いだ……。クローヴィス、僕たちは二人ともそのブランドを知っている。これからすることのために、ピッチを一種の鎮静剤として使っていたのだと思う。

エスペンはそいつの胸を切り開いた……

もう沢山だ。ろくに理解なんてできないし、その前に理解しようとも思えなくなる。エスペンは胸を切って、大腸と小腸だと思われるものを取り出した。胃はなかった、もしくは、エスペンが両方とも取り出したから、少なくとも取り出した時には腸にくっついていなかった……。時間は長くかかってない。そして、それらを物切り台に運び、大きなハサミで二つに切った。エスペンはオオカミのところに戻り、胃を取ってきて、自分が作ったすき間をつなげるために、再び中に移植した。

エスペンはモーガンのために、オオカミを作成、もしくは改造、もしくは支援していた。

ショックを受けた。でも、もうどう受け止めればいいか分からない。ジョーイはこれには慣れたと言った。慣れたくなんてないよ。けど、調べれば調べるほど……。モーガンは人々にゲッシュ12をかけてここに呼んでいる。それをどうやって維持しているか見ることになりそうだよ。

6日目;

夕方 (オーディション):

幸運を祈っていて。

朝 (____________________):

後で書く。



第十章

クローヴィスは、彼女にとっては何週間にも思える時間を腰掛けたままでいた。彼女はスチュアートが書いた文章を読んで泣きたくなった。しかし、彼女の目は遥か以前にその機能を失っており、その代わりはただくぐもった声が漏れるだけだった。これは彼が自身で決めた時に望んでいたものではない。彼女は干渉したことを後悔した。もしそれを行わずにいたら、彼には本当の母親が存在していたかもしれない。

いいえ、長期的にはこちらの方が良いと彼女は自分に言い聞かせた。彼らは二人とも普通の生活を望んではいたが、もし不都合から目を背けた見通しのままでいたら、準備もできないままこのような事態に直面することになっていただろう。これは必要であり、彼らの罪を忘れても全てが丸く収まるわけではない。彼らは備え方を知る必要があり、それは実行しなければならなかった。

クローヴィスは深呼吸をして、彼女が興味を持った日記の箇所に戻った。

彼はステージの下にある場所を話してくれた。彼によると、祭壇の壇の下を這っていくと、あいつの部屋の音を聞かせてくれる換気装置がある。どうやら、彼のベッドは僕たちの真下の地下にあり、僕たちから隔離されているようだ。

もしまだ自分の存在が気付かれていないのなら、姿を見せて、このすべての情報源と話をするのが一番いいかもしれない。クローヴィスはスチュアートの本を閉じ、それを手に持った。何かの役に立つかもしれない。彼はおそらく今ごろはファースト・ハウンドで、オーナーに自己紹介する方法を見つけようとしているだろう。

そういう環境に慣れていたせいかもしれないが、地下を進むのはそれほど苦ではなかった。なぜスチュアートがそれに苦労するのかはよく理解していたが、孤児たちとの偶然の遭遇を避けるため、天井を這って進むことに対しては、ほとんど不満はなかった。

夜のこの時間帯に営業している店はわずかしかなかった。ファースト・ハウンドと数軒のレストランのみ。どちらにせよ、彼女が行く必要のある場所はそのすぐ近くではなかった。今回は外に出ても発見されることはなさそうだ。結局のところ、彼女はすでにまずまずの変装をしていたので、怪訝な点を探すには、接近してから見る必要があるだろう。

出口と反応炉室の距離は短く、出口と礼拝堂との距離はさらに短かった。彼女は、実際にそこに立って初めて、そのことに気付いた。クローヴィスは礼拝堂の巨大な木製のドアに近づき、肩越しに侵入の目撃者となり得るものがいないかを探した。いない。

この類いのドアが内部にあるのは奇妙だった。そのドアはあまりにも巨大で、必然的に外側に小さなドアが取り付けられていた。彼女は開いたドアに忍び込んだ。鍵は施錠されてなかった。 おそらく、誰かが中にいる、それか、ちょっと席を外している。 クローヴィスは密かに考えた。彼女は手を握り締め、静かに中を覗き込んだ。

Chapel.jpg

ありがたいことに、そこには誰もいないようだった。礼拝堂は非常に不気味に見えた。礼拝している集団の唐突な欠如は、相当に気味が悪かった。彼女は信徒席を歩いていった。信徒席から皮の本を失敬した時に、これは結局どんな種類の宗教になるのかしら?と心の中で考えた。表紙はそれが宗教的な文章であることを暗に示しているように見えたが、実際の宗教を表す言葉や記号はなかった。

内容自体は役に立つかもしれませんよね?と彼女は考え、本を開いた。

文章はなかった。黒いページの後は空白のページで、出版も著作権の表示もなく、インクは本に付着していなかった。それ以外のものも探し出せなかったが、やがて文字が書かれたページを見つけた。









かくれろ。












いますぐ。









耳を起こすと間髪を入れずに、ドアの取っ手を掴む音が聞こえた。祭壇に辿り着かないといけないっ彼女は全力疾走で、祭壇のステージの下に飛び込み、ステージの幕に隠れた。

見られた?くそっ、くそっ、くそっ、彼女は幕が風に飛ばされないことを願った。その人物は彼女が潜む祭壇に近づき、彼女の上の演壇に飛び乗った。その人物がステージの後ろの方に移動するにつれ、足音はゆっくりと消えていき、ドアのバタンという音が聞こえた。

安堵が彼女を支配した。彼女はステージのさらに後部の方へと這い進みながら、ジョーイがスチュアートに話した換気口を探した。這い進み、ステージ幕を持ち上げると、隠されたも同然な小さな青銅鍍金めっきの換気口を見つけた。

耳を当てると、クローヴィスは足音をより明瞭に聞くことができた。ついに彼女は年老いた声を聞いた。間違いない。モーガンだ。

「いい夜だな、様子を見に来てやったぞ。お気に入りの恩人よ、今日の調子はどうだ?」

しばしの間があったが、返事はなかった。

「さあさあ、この沈黙には耐えられまい。お前と話をするのは私だけだ」

「……断る」

「……断る、だと?」

「断る、貴様との話など望まぬ。仕事であれ道楽であれな」

「おお、それはすまん。お前は礼儀正しいと思っていたんだがな。特に誰かの我が家では」

「我は礼儀を弁えている。礼儀正しく話すことが微塵もないのだ。それゆえ何も言わぬことを選択している。なぜそれを気にするかは我にも分からぬが、これは我の家だ。そのために働いた。貴様のためではない」この声はクローヴィスには馴染みのある響きだった。本当に彼なのだろうか?

「お前は契約下にあるんだぞ、フレデリック。私が契約を守る限り、それはすべて公正だ」それは……。

「そうだな……。公正だ」

「……それで、貴様は何を望むのだ?」

「お前は望みを知っている」

「……では"皆無"ということだな。そうであれば私はここを出ていくとしよう。また戻ったら会ってやろう」

「まあ、いいだろう。じゃあな」

そのすぐ後で、クローヴィスは頭上のバタバタという足音を聞いた。それは次第に薄れていき、やがて、礼拝堂の特大のドアに辿り着くと扉をバタンと閉めた。

「クローヴィス、入って来なさい!君と会うことを渇望していたぞ」フレデリックは叫んだ。

彼女は最初、彼がどうやって、自分がそこにいることを知ったのか気になった。だが考えてみれば知っているのは当然だ。彼は隠れるよう警告を出していたのだから。「すぐに行きます」

「ステージのちょうど裏だ。見つけられるはずだ……、最初に下から出なくてはならんがね、お嬢さん」

モーガンの住居への扉を見つけるために、下から這い出て舞台上によじ登りながら、彼女は一人祈った。どうかあの人が理解しますように。どうかあの人が理解しますように。あの人を狂わせないで。

彼女がドアを開け内部にある金属製の螺旋階段を見下ろすと、暖かい、親しみのある光が下から放たれていた。階下は綺麗な居住区に通じていた。ほぼ全てがマホガニー材か、汚れのない大理石で作られていた。壁には、金の額縁に収まった美術品が惜しげもなく掛けられており、5人用のベッドは主に輸入エジプト綿で作られていた。この場所全体が贅沢の悪臭で満ちていた。

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「クローヴィス!入って来なさい!入って来なさい!我は事務室にいる、右手の最初のドアだ」とその狼は言った。

事務室に入ると、華麗な鋳鉄ちゅうてつのフレームが付いた、豪華なマホガニー製の机がクローヴィスを出迎えた。机はほとんど生きているかのようで、クローヴィスが熟知している像やシンボルが刻まれていた。その場面の多くを見てから何千年も経っていたが、忘れることは難しかった。

机は、最初の戦争、彼女の裏切り、楽譜の盗難、そして、思い出すのが苦痛であった他の多くの記憶を彼女に思い出させた。机の両横に位置する鋳鉄製の骨組みは、大型の狼の前脚の形に成型されていた。机の後ろには、同じような意匠の、アーチ型の高い背を持つ椅子が置かれていたが、机の彫刻がクローヴィスに直接話しかけているように見えた。最初は十字架に釘付けにされたイエスのように見えたが、ヘイヴン以外のあらゆる文脈の中では意味を成さなかっただろう。

前に進むにつれ、それは男ではなく、狼のフレデリックであることが明らかになった。前方からの彼女を呼ぶ声は、再び大きくなった。

「ご機嫌いかがかな、お嬢さん。久方ぶりだ!君は一日も年を重ねていないようだな。我を忘れていなければ良いのだが」

「いいえ、どうして忘れられましょう……。どこにおられますか?」

「君は我を見ているぞ」

「……机ですか?」

「そうだ、君に斯様な姿を見せねばならんのは残念だ。ごく近いうちに我はこの場から移動するつもりだ。椅子を引きたまえ!話すことは豊富にある」

クローヴィスは応じた。

「それでは、」とフレデリックは続けた。「宜しいかな?君は今まで何をしていたのだ?我の居らぬ間に可憐な娘達に会ったか?ああ!ゴルゴタの丘で何をした?君はあれを処分した。そうだな?近くに置いておくのは危険だ。たとえ死ぬことができずとも、その件に関しては、君も誰も、その傍にいるべきではない」

「私――私は大丈夫です。それは……困難でした。心配なさらないで、楽譜はなくなりました。埋めました」

「ああ、よかった。13に感謝しよう。どれほど前だ?何処で?」

「……千年です。あのとき私が……。彼女は……」

「……それ以上はもうよい。了解した。戻ってきて本当に嬉しく思う、お嬢さん。あまりにも長かった」

「……私たちは話をする必要があります」

「そうだな。そうしよう。説明しなければならないことが多くあるからな。どこから始めようか?」

「どうしてあなたは机の姿なのでしょうか?」

「……我が期待していた最初の質問ではないが、教えよう。机と椅子は我の肖像だ。アメリカのアンダーソンという男が、我を机に宿らせる意図を持ってこの机を作った。それが実用的だと考えたのだな。奴とはあまり会話をしていないとだけ言っておこう。奴から聞いた話に基づけば、奴は我や我の望みについて相当に歪んだ意見を持っていた。我をこの地、奴の取引先へ送ったが、その取引先のことを知ることは愉快ではない」

「モーガン神父でしょうか?」

「そうだ……奴だ。アンダーソンよりはまだ良いとは言ってやろう。しかし魔物は魔物だ……。だが、それについてはもう十分だ。君は他の事が気になっているに違いない」

「まったくその通りです……。なぜあなたはここにいらっしゃるのでしょうか?どうしてこの人物を手助けしておられるのでしょう?彼のしていることは、あなたらしくないことですよ」

「……そうだな、スワイアードが生まれ変わった時から常々、我はこの問い掛けを予期していたのか?我はこの全てを適切に説明する答えを考えようとしたが……。駄目だ。地上の肉体を得る最善の試みであったために奴の元へ来た。……このような姿ではない、本物の肉体だ。肉と骨の合一だ」

「彼が何をしているかご存知なのですか?」

「知りたくはある。だが奴は最善を尽くし、我に活動が露見せぬようにしている……。しかし、それはまさに奴が信用に足らないということを伝えてくる」

クローヴィスは話を切り、スチュアートの日記を机の上に置いた。

「何だこれは?」

「何が起きているかについてのスチュアートの報告です。これまでに起きていた事のほとんどがここにあります。被害者の視点からの」

「被害者?……見せなさい。それを引き出しに入れたまえ」とフレデリックは言い、引き出しをスライドして開けられるようにした。クローヴィスはそれに応じ、すべてを確認する時間を与えた。

「奴をどう扱えばよいか分かった、」怒りを露わに彼は始めた。「奴のヘイヴンは崩れ、何も残らぬだろう。 奴はアンダーソンが受けたものと全く同じ報いを受けるに値する」

「……彼は、何をされたのでしょうか?」

「……すまない、お嬢さん。娘に話すことではないな。奴は悪い男だ、それくらいにしておこう。手助けしてくれたら嬉しい。これは以前の状態に戻すための第一歩に過ぎない」

「それは一体どういう意味でしょうか?」

「ああ、昔に戻すという意味だ!人間が何もかも滅茶苦茶にする前、飢餓の前、楽園だ!そして今、君とスワ……。スチュアートというべきだな、二人とも私と一緒にここにいなさい、私たちはいつまでも一緒だ!」

「人間より以前ですか?滅ぼすという意味ではないですよね?」

「……違わないが?すまない、それは問題なのか?クローヴィス、彼らは、自らが行ったことに対して罰を受けるべきではないと言うのか?」

「はい!人間はあなたが会った時の人々とは全く違うのですよ」

「その通りだ。非常に愚純であったのが、非常に貪欲になった。大して進歩していないではないか?」

「分かりました。フレデリック、最近、何人の人間と会われましたか?生きている人間は?」

「……二人だ……。君とスチュアートとエスペンを入れたら五人だが、他は知らぬ」

「分かりました。結構です。しかし、あなたは人間が何人いるかご存じですか?数百万です」

「何が言いたいのだ?」

「あなたは本当に、誰もが彼らと同じだとお考えですか?二人の人間を基準にしていますが、正直なところ、少し偏っているとは言われないおつもりでしょうか?私たちはすべて蛇と同じでしょうか?もし私たちが……それと比較されたら、あなたはお怒りになるでしょう?」

「……そうであろうな」

「お聞きください、私が今まさに申し上げているのは、すべての人間が……モーガンやアンダーソンと同じではないということです。私が今まで出会った多くの人々は、この上なく親切な人たちでした。決して完全ではありませんが、あなたの提案を受けて当然な人たちではないのです」

「……君がそう言うなら。君は私の娘だ。そして、君は私が知る誰よりも彼らとの経験が豊富だ……」

「お聞き下さい。私はあなたをお助けします。スチュアートも、少なくともこれについては同様でしょう。しかしながら、私達は契約について話し合うべきです」

「……了解した。彼らにチャンスを与えよう。彼らにだ、モーガンではなくな」

「それが私の願いの全てです」

「我は……合意に至れて喜ばしい。それで、君は何を提案するというのだ?」



「ダメだ」

「お願いします!」

「ダメだと言ったぞ。もう演者は十分なんだ。それにな、ここに君が必要なんだ」

「ご要望でしたら、それに応じることは今もできます。でも、お願いします。15分だけお時間を下さい。もしそれが駄目なら、2分間で結構です。何を失うというのですか?」

「……うーん、上演中に靴を磨いたり、床やテーブルを綺麗に掃除したりできるとは思えんが、」支配人はスチュアートを見下ろし、溜息をついた。ファースト・ハウンドは今まさに店仕舞いしたばかりで、パブは閑散としていた。彼の言うことは一つだけ正しかった。実際に失うものは何一つとしてなかった。もし子供が演奏を許されたとしても、替えが聞かないという訳ではなかった。靴磨きは楽に手に入る。率直に言えば起きうる最悪の事態は、わずかな時間を無駄にすることだ。「ああ、分かった、分かった。早く済まそう。何だ、歌うのか?ダンスか?えっ?」

「ああっ、ありがとうございます!少しは歌えますが、ギターも弾きたいです」

「ふーむ、珍しいな。新入りを得るときはいつも皆、楽器なしの演技をするものだが……。そうだな、必要なものは全て舞台上で見つけられるだろう」

「やった!絶対にがっかりさせないと約束します」

支配人はそうは思わなかった。「さっさとやってくれ」と言うと、ステージに向かって一番近いテーブルに座った。

スチュアートはステージによじ登り、ギターを掴み、足乗せ台を引き上げた。彼は深呼吸をして支配人の審判の視線を遮断し、覚えている最初の歌を歌い始めた。

即座に頭に浮かんだのは、『ウォバシュの土手で』13だった。瞬時にスチュアートは考えた。この曲の練習は全然十分じゃない。なんでこれを弾いているんだ?それに、これはカルテットの曲だ!なんで僕は『ウォバシュの土手で』をやっているんだ?!なぜクローヴィスの歌を演奏しなかったんだ?少なくとも慣れてはいたのに!ちくしょう、今はこいつに集中しないと駄目だ……。彼がこれを気に入る見込みはない。

スチュアートの心中は、しばしそのような有様であったが、やがて、時が過ぎ去るのを感じた。実際には3、4分だったものが2週間のように感じられた。時間が経つのは、実際はこんなに遅かったのか?なんでこのお喋りな自慢屋はまだ僕を止めないんだ?とスチュアートは曲を終える前に考えた。彼は顔を上げると先刻の気忙しい支配人を探した。

少し前までは、子供にテーブル掃除をさせる用意をしていたその男は、スチュアートの演奏にすっかり心を奪われていた。「これは……。君、これは今まで見た大半の舞台よりも良かったぞ……。今ちょうど私の前でやったことができれば、君に時間をやれると思う」

スチュアートは言葉に詰まった。「お……お気に召しましたか?」

「少年よ、君は素晴らしい。私を信じなさい、誓って言うが、君の優秀さときたら、その目前に迫るためだけにさえ、悪魔に魂を売る必要があったはずだと思ったよ」

「あ――ああっ、ありがとうございます!いつから出られますか?出ていいんですか?」

「なるべく早く頼む!今夜会おうじゃないか。さあ、ここから出て行きなさい。練習して、友人に見せびらかしなさい。君はもうこれ以上靴を磨かんでよろしい」

「そうします!ありがとうございます!」とスチュアートは言い、パブを飛び出して廊下を駆け抜けた。早くクローヴィスの元に戻りたかった。道すがら、彼はほとんどスキップしていた。彼女の元に戻るためにずっと通っていた陰鬱な地下の完全な暗闇にすら、彼は気づかなかった。



第十一章

スチュアート

この上なく貴方を誇りに思います。頑張って下さい!

全ての愛を込めて
-C

Guitar.jpg

スチュアートは微笑みながらメモを見つめた。それはスチュアートが今まで見た中で最も素晴らしいギターに、あらかじめ結び付けられていた。どうやらクローヴィスは練習用に使っていた以前のギターを、純銀のトリムを持つ黒いギターと交換していたようだ。ギターの塗装は深黒で、周囲を明るく際立たせた。まるで、光を満たすためにギターが周囲の闇を貪っているかのようだった。

彼はギターを持ち上げた。両手の中に力強さを感じた。軽量だが、山をも動かすに十分な力強さがある。調律のために弦をストロークしたが、それはすでにクローヴィスが行っていたようだ。その調べは蜂蜜よりも甘かったが、雷鳴のようでもあった。「意気揚揚」、それがふさわしい言葉かもしれない。

緊張はしていたが、その時に感じていた興奮は、おそらく彼が持っていたであろうどんな不安感をも追いやった。クローヴィスがまず間違いなく声の届く範囲に隠れていることを知り、スチュアートはステージに上がることに対して、とても落ち着いた気持ちになった。もちろん、彼はメインの呼び物ではなかったが、今の場所にいるだけで十分だった。

ひとつ前の舞台は、質の点ではまずまずだった。彼らは何度か躓き、ステップを時折間違え、リードシンガーの歌声が微かにキーから外れて聞こえるところもあったが、うまく立て直して誰も間違いには気づかなかったようだ。彼らが目の前を通り、舞台から退場するところをスチュアートはじっと見ていた。

「おめでとうございます、今夜の観客は本当に惚れ込んでいましたよ!」スチュアートは口を開いた。彼はまだ、ほんの数秒でも時間が進むことを幾分不安に思っていた。

「ありがとな、坊主。足を骨折しろよ」グループのメンバーの一人が通り過ぎて言った。

「ありがとう、僕――待って、何だって?」しかし、彼らは前方に歩き続けていたので、スチュアートの質問は聞こえなかったようだ。

司会者はアナウンスを始めた。「紳士淑女の皆さん。グラスを上げて、拍手をお願いします。我らがスチュアート・ヘイワードに!」彼は行かねばならなかった。彼らがスチュアートの足を折りたいのか、他の誰かの足を折りたいのか疑問に思う時間はなかった。たぶん、文字通りに捉えるべきじゃなくて、おそらくは"幸運を"や、それに似た何かを意味していたんだろう。

彼は不安そうな面持ちで舞台裏のカーテンから現れ、観客の方を見た。騒々しい夜だった。スチュアートは全てのテーブルをはっきりと見渡すことができたが、空きテーブルは一つとして見つけられなかった。スチュアートが自分の座る席を見つけると同時に、聴衆は軽い拍手を送った。彼は深呼吸し軽く弦を弾いて、可能な限り柔らかい声で歌い始めた。

彼はもはや恐れてはいなかった。観客が自分の演奏について一体どう考えているのか気にかけるのをやめ、ただ自分の歌のことだけを考えることにした。その歌詞は心安まるもので、スチュアートにとっては、喉から漏れ出たかのようでもあった。彼のギターセレナーデは、普段は騒がしい聴衆を沈黙させた。

歌の最後の一節に差し掛かった時、スチュアートは自身に満足し喜びを感じた。歌が終わり深呼吸をすると、彼は即座に聴衆の前で演奏していることを思い出した。座って、墓場のように静かに観客を見つめていると、彼の体は硬直した。スチュアートが退場するために立ち上がり引き返していると、聴衆は興奮して大声で叫び彼に喝采を浴びせた。同時に彼は、周りで突然爆発した騒音にたじろいだ。

彼は最初、歓声に非常に驚かされた。それが歓喜による叫び声なのか、憤慨によるものなのか分からずにいたが、彼が頭を下げていると聴衆自身の拍手喝采と口笛でほとんど何も聞き取れなくなった。彼はギターをさっと掴み舞台から降りた。支配人が彼に会いたがっているだろう。

スチュアートは混雑したテーブルを通り過ぎて厨房に行き、群衆の反応を観察している支配人を見つけた。

「えーと、すみません、上手くできたでしょうか?」スチュアートは始めた。

「うーん?おお、少年か、君は素晴らしい!他に比べようもないほど、みんな君に夢中だ!この調子でいけばレギュラーになれそうだ!」

「ほ――本当に?。それは……物凄く……最高です!」

「そうだ。そこら中から人を呼び込めるぞ!」

スチュアートは不安そうに笑った。「ハハ……お役に立てて嬉しいです……。ということは、これからレギュラーの時間帯をひとつ頂けるということですか?」

「複数だ!君はスターになろうとしているのだよ、少年!」

「ああ、ありがとうございます!」

「嘘じゃないぞ、少年。この調子でいけば、誰もが君の名前を忘れないだろう!」

「ハハハ……、ありがとうございます……。具体的な時間を言っても良ろしいですか?」

「ん?そうだな、時間帯にもよるが……」

「日曜日の10時はどうでしょう」

「分かった、夜がいいんだな、できるぞ。丸一日空いてる」

「ああ、夜じゃないんです。朝の10時です」

「……なぜその時間がいいんだ?その時間は皆説教中だろう」

「承知しています」とスチュアートは笑顔で言った。

「……まあ、いいだろう……。大丈夫だ。働いている間は説教を聞き逃すことになるが、これが君の仕事だ。他の時間は?」

「うーん……土曜日の最後の時間帯ですね。それはともかく、お望みの夜で大丈夫です。後の時間の方がいいですね、実際のところ」

「分かった、より良い時間を一番に手配しなければな……。なぜその時間がいいか聞いてもよいかね?」

「その時までに遅れずに僕に会いたい人たちがいるんです」

「……そうか。私は何も損はしないから、それがいいなら、その時間で大丈夫だ」

「ありがとうございます!とても感謝しています」

「問題ないさ。さあ、演奏しに行きなさい」

退出を許された彼は、ギターを従え自信を持った大股歩きでバーを去った。より大きなショーを宣伝するという、ただそれだけのために、彼は毎日、ファースト・ハウンドできっかり1、2曲のみを演奏した。クローヴィスがアドバイスしたその通りに、毎回観客に更なる欲求を与えた。簡単な1曲だけではなく、もっと多くを聴きたいと。

彼はその一方で、週末になると全力を尽くして演奏し、モーガン神父の説教に出席する者の多くを集めた。彼らは偽説教師に祈りに向かう途中であった。最初のうちは、群衆の違いは取るに足らないように見えた。モーガン神父の教徒は、スチュアートの観客の100倍はいた。しかし、モーガンの注意は週を重ねる毎に、治療を求めた家族にのみ向けられるようになった。ファースト・ハウンドの支配人は、ジョーイにスチュアートのショーの広告を描くようにと依頼し始めてさえいた。それはモーガン神父の広告とほとんど拮抗しているように見えた。


その頃、モーガンは、心乱れることもなくフレディの机に座っていた。

「そんな訳で、毎週の寄付はますます減ってきている。皆が見に行くようだな……このスチュアートって小僧を」

「ふむ……この場では、そんな言葉は決して口に出さないと思っていたぞ」狼は考え込むように言った。

「全く問題はない。ファースト・ハウンドの儲けから分け前を得ている。つまるところ、おおよそ以前と同じ金額を稼いでいる。同じでないなら、それ以上だ。奴にはもっと歌ってもらうかもしれん」

「……貴様は非常に手際良く契約を終了する手続きをしているな」

「……何のことだ?」

「忘れたか?契約では貴様、我、又は我らの創作物は、我らが関与する長期的な金融事業において、貴様の月収の過半数を占めなければならないと定めている。貴様か、我らが作った機械で、だ。スチュアートではない。貴様の偽の説教と我らの発電システムは先月のヘイブン・ハーバーの利益の約30%を占めた。現在、貴様は推定20%だが、ファースト・ハウンドは、具体的には約25%を稼いでいる」

「……何だと?!」

「とても残念だ。今月末までに利益が再び入り始めなければ、契約は終了するだろう。そうなれば、我は自由となり、望むままを行うつもりだ」

「……俺が……なぜもっと早く言わなかった?」

「貴様がそれを言い出したのはたった今だ……。我は貴様の最上の支持者ではない」

「汚い犬め!……わざとやったんだな!俺には正直でいるという取り決めだろう!」

フレデリックは説教師の侮辱に微かに唸った。「契約書には単純に、我は貴様に虚偽の発言はできないと書かれているだけだ。そして貴様は助言を求めたことなど皆無だ。言っておくが、我は物理的に規則を破ることができぬ」

「黙れ、元に戻す方法を教えろ。このクソ犬め」

フレデリックは怒りを抑え、冷静さを保とうとした。恩知らずに助言する気などさらさらなかったが、彼は最善を尽くさねばならなかった。「要約を全部か?」

「そうだ」

「その子供はまさしく貴様と同じように魔法を使って観客を引き付けてきた。しかし、この会話とは関係のない理由から、貴様よりもさらに効果的に行使する素養を有している。彼の仕事はより質が高く、それを実行するために物質的構成要素を必要としない。聴衆を貴様から奪い取る手助けとして、彼は故意に魔法が付与されたギターを使用している」

「奴が……奴も魔法を使っているだと?だったら……。奴のギターを没収したらどうなる?それですべてが解決するのか?」

「手遅れだ。別のものを作らなかったと仮定しても、人気はやや落ちるだろうが、それでも貴様の教徒のほとんどを有したままだ」

「……もし……奴を治療したら?」

フレデリックは悪態をつき、口を閉じた。モーガンが何を言わんとしているのか非常によく分かっていた。そしてそれ以上に、言わねばならぬことも分かっていた。「……そうだ。彼が舞台をやらなければ、ほとんどの観客は貴様と会うことを選ぶだろう。もし彼の舞台が完全になくなれば、なおさらだ」

モーガンは安堵の溜息をつき、ほくそ笑んだ。「助かったぞ。まあ、今のところはそれで十分だ。エスペンに頼んで、奴を連れて来られるか確認せねばな……。ふむ、今が最適だな。フレデリック、良い一日を過ごせよ」

モーガンはそう言うとすぐに、犬だけを残して去っていった。孤独な、以前よりもさらに飢えた犬を。



第十二章

スチュアートは間に合わせのベッドから跳ね起きた。最初はまだ夢を見ているのだと思った。彼の後ろに立っている人物はこの場に相応しいとは思えなかった。寝惚け眼で見上げると、エスペンが彼を見下ろしていた。

「エ――エスペン?くそっ……。いつ……いつからそこに立っていたんだ?」

エスペンは返事をしなかった。

「……君は他の人にも同じことをするのか?寝ている姿を見られていたのはこれで二度目だ……。ちょっと配慮が足りない……」

エスペンは変わらず黙っていた。

「君の熊はどこだ?どこへ行くにしろ、それを持って移動すると思ってたな……待って、なぜマスクをしている?仕事でしか着ないと思ってた……」

エスペンは手を突き出した。それは明らかに、どこかに連れて行くために、スチュアートを掴もうとしていた。

「……何をしている?……いや、僕は疲れてない。明日は日曜で、僕は舞台がある……。今からどこかに行く気はない……」

エスペンは再び手を突き出した、前よりもより暴力的に。

「やめろ、あっちへ行け」スチュアートは自分の体に覆いを被せ、エスペンに背を向けた。その直後、頭の両側から数センチ離れた箇所で大きな音が響いた。目を開けると、錆びた鋏の巨大な刃が、自分の両側にあった。

「ク――クローヴィス!助けて!」スチュアートは叫んだ。

何も言う必要はなかった。クローヴィスはすでに彼らの頭上にいて、熊なしっ子を部屋の向こうに投げ飛ばし、発電機の上に着地した。

彼女は時間があるうちに、彼が無事か確認した。

「スチュアート、大丈夫ですか?怪我はないですか?」

「な――ないよ、大丈夫」

「分かりました……愛しいスチュアート、私の言うことを聞いて。ここから脱出しなさい。私が彼らの相手をします。とにかく逃げて。いいですね?走って!」

スチュアートは頷き、瞬時に平静を取り戻すと、立ち上がろうとしている途中の子供をすり抜けドアに向かって逃げ出した。ドアを開け放って廊下を駆け抜けたが、結局は、大きな髪の塊に衝突しただけで終わった。それが彼の首を掴んでから、衝突した際に顔から先に狼に突っ込んだことに気付くまでの時間は、ほんのわずかであった。それはスチュアートのぐったりした体を、まるで小麦粉の袋のように肩に掛けて、運んでいった。

クローヴィスが子どもを制圧した頃には、スチュアートと狼は姿を消していた。


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スチュアートの周りには空虚だけがあった。呼吸ができず、心臓の鼓動が停止してしまったかに思えたが、奇妙なことに、気分は十分に良かった。首の痛みに悩まされてはいたが、他にも問題があった。彼は動こうとした。しかし、実際には全身がほぼ痺れていた。彼は自分が死んでしまったのかもしれないと考え始めたが、やがて「パチン」という大きな音が聞こえ、首の痛みが薄れていった。彼の心臓は再び鼓動を始めた。実際は以前と比べ、動悸がしていた。

「生きてるようだな……可哀想に」

スチュアートは、周囲からの声を聞いたが、どこから聞こえたのか、誰の声なのかは分からなかった。とにもかくにも、彼がその言葉を理解できたことは奇跡だった。

「とは言え、それが一番だ。生きていて口が利けない方が対処しやすい。死んでdeadいて……なおかつ、何も感じないdeadよりもな……。冗談だ」

スチュアートの目は痙攣けいれんして開いていたが、視力はまだ回復していなかった。彼はあまり明瞭には考えられなかったが、声が誰なのかは簡単に判った。

「モーガン神父?」スチュアートは呟いた。

「だが、お前は脳死ではない。それは本当に残念だ。見ろ、生きていたおかげでたぶんお前はもっと苦しむ羽目になる」

「な、なんです?」スチュアートは朦朧もうろうとしながら尋ねた。見下ろすと、彼は服を脱がされ、担架に縛り付けられていた。

「ふむ……まだあまり理解していないようだな……。まあ、始まってもお前はそれほど混乱しないだろう。まだ理解してないなら、さっさと理解するんだな。さて、手短に話そう。私はこのすぐ後、舞台に出て来ると期待されている。知って欲しかったぞ。私がお前の動きを知っていたこと、お前はせいぜいが厄介ものでしかないということをな。お前を片付ければ全てが正常に戻り、儲けを維持して、お前が全く存在しなかったかのようになるはずだ。すまんな、兄弟よ」モーガンは振り返ってドアの方へ歩いていった。「さて、そんなところだな。今からエスペンが一緒にいてくれるぞ。少ししたら、また会おう」

そう言うと彼は、暗い、クローゼットのような場所から出て行った。スチュアートはモーガンが存在を知らせるまで、エスペンが部屋にいたことさえ知らなかった。「エスペン?……どこにいる?」

返事はなかった。エスペンはただ目の前に移動し、壁を背にして座った。

「……クマを持っていないのか?」

エスペンは依然として黙っていた。

「……そうなんだな」スチュアートは少しの間、クローヴィスについて、エスペンがモーガンに何か話しているのではないかと思ったが、熊なしではあまり話さないことも思い出した。その時、彼は気付いた。「……クローヴィスはどこだ?……彼女に何かしたのか?」

返事はなかった。

「……彼女は生きている。生きていると僕には分かる。彼女は天使だ。彼女は僕の母親……。彼女は僕の母さんなんだ……。君は殺さなかった、君はやってないはずだ」

エスペンは沈黙したままだった。

「……もし君が彼女を傷つけたら、僕は……僕は、君を殺してやる……」彼の脅しは的外れであった。スチュアートはそれをよく分かっていた。捕まる前にエスペンが何をしたか知っていたが、エスペンを責めることは、実際には困難に思われた。熊なしでは、エスペンはモーガンの延長にすぎなかった。強いて言えば、今のエスペンは道具だ。クローヴィスを攻撃したのはエスペンではなく、モーガンであった。

スチュアートが話してから間もなく、エスペンが近づいてきた。スチュアートは抵抗したが、彼の頭は大きな金属の装具で固定され、首を回せないようにそれを締められた。スチュアートは、その時初めて、なぜ自分がこのような状態で拘束されているのか理解した。

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エスペンはスチュアートを部屋から外へ運び出し、外光が彼の目を眩ませた。子供はスチュアートの担架を押して廊下を進み、モーガンの礼拝堂の大きなドアを通り抜けた。スチュアートが礼拝堂に入ったときに聞こえたのは、オルガンの音だけで、部屋は賛美歌の演奏で満たされていた。スチュアートが通路を移動するにつれ、教会の信徒たちは皆、視線を彼の方に移した。その多くは、ファースト・ハウンドでの演奏の記憶から彼だと気づいた。モーガンは演台を背にして中央前部に立ち、肉屋の仕事着を身につけていた。その姿は、スチュアートがこれまで見たことがないほど熱狂的に見えた。

「現在、我らは非常に深刻な状況にある」と彼は話し始めた。「昨今、皆には見覚えがあるかもしれぬ少年、スチュアート・ヘイワードは、非常に邪悪な一面を見せている。この子供がヘイヴン・ハーバーに訪れて以来、彼の中に悪魔が存在することは全く以て明白だ。事実、彼は自らの永遠の魂を売ったとして告発さえされている!」

群衆は、はっと息を飲み、説教者の長々とした告発のリストにすっかり心を奪われた。「違う!僕はそんなことはしていない!」とスチュアートは返した。

「静かにするのだ!子供よ!」説教師はスチュアートの左目をこじ開けながら続けた。「君の痛みはすぐに終わる……。今日、我らは知るだろう。彼らの微々たる契約を破棄することが不可能なのかどうかを。我らはこの哀れな少年に縋り付く悪魔を消し去るであろう。そして彼は、この地上における真の幸福を知るであろう、そして来世では!私はハレルヤを得られるのか!?」

群衆は祝賀し、説教者の行為を称賛した。スチュアートは無益にも、拘束を引き離そうとした。進行を遅らせることも、邪魔することもできなかった。モーガンは少年の額に手を置き、針を持ち上げると、眼前の群衆に説教した。

「さすれば、我らが主、偉大なる火を創造し、我らの世界、我らの宇宙、そして我ら自身の創造を監督した我らの王の名において!私は、お前を、浄化す――

スチュアートの視界は暗赤色に染まった。重く鈍い力が頭に打ち当たり、目に鋭い痛みを感じた。薄れゆく意識の中で彼が記憶した最後のものは、怯えた悲鳴と近くの炎の音だった。



エピローグ

スチュアートには、時間が急速に過ぎたように思えた。物事が真っ暗になってから1日か2日後は、ほんの数秒のように思えたが、目が覚めるまでの最後の数時間は、まるで数日のように感じられた。彼が周りの部屋を短く一瞥すると、暗い人影が彼の周りを歩き回っていた。周囲の様子は、彼にとってはあまり馴染みがないように見えたが、少なくともヘイヴンには見えなかった。起き始めると、大きくてがっしりした人物が彼とは反対の方を向いているのが見えた。

「こ、ここは?……」

その人物は振り返った。「スチュアート?ああ、起きるな、起きるな。私だ、アンスワース医師だ。君は安全だ。今はただ横になっていなさい。安静が必要だ」

「ア、アンスワース?……。ぼ、僕はhomeに戻った?」

「ああ。君はこの町を故郷homeと呼び続けてたぞ……。良かった……。今君は私の医院にいる。何も心配せんでいい。気分はどうだね?目のかすみや頭痛はあるか?火傷をしたようなところは?」

「……死んだような気分です」

「君は中等度の脳震盪を起こし、胴体と左腕、左足に何箇所かⅡ~Ⅲ度のやけどを負っていたんだ。そして、顔の左側には深い切り傷を受けていた。徐々に良くなるはずだが、傷跡が残らず外出できるようになるかどうかは保証できん。より重要なのは君は……。意識ははっきりしているかね?大丈夫かね?」

「わ……わかりません」

「そこにある手順をクローヴィスが教えてくれた。君の眼窩に傷は見られなかったが、確認するのにそれが役立った」

「クローヴィス……。彼女はどこですか?」

「彼女は……君に書き置きを残した。だが今は休んでほしい。君は長い間気を失っていたのだよ」

「読みたいです」

「スチュアート、私は――」

「どうして彼女は、僕に直接言わずに書き置きを残したんですか?読みたい……。お願いです」

「よし、わかった……。読んであげよう。では……。横になりなさい」

「分かりました……。ありがとうございます」

アンスワースは頷き、スチュアートのベッドスタンドにある書き置きに手を伸ばした。彼は注意深く封を取り、先に咳払いをしてから読み始めた。

親愛なるスチュアート

貴方がこれを読む時、私は去っているでしょう。私はアンスワース医師に貴方の世話を託しました。彼は、貴方がこの世界で自分一人でやっていける年齢になるまで、親権を持つことに同意しました。貴方は彼といれば何も危険はないでしょう。貴方は安全になります。約束します。

可能な限り疑問を減らしておこうと思います。これが私にできるせめてもの事です。

私が去った理由、それは狼を助ける必要がある為です。名前と正体を伝えられれば良いのですが……。それは語ることを制限された事柄なのです。私が言える事は、あの人14は自らの意思でヘイヴン・ハーバーにいたわけではないということです。さらに付言出来ることは、私はあの人の娘であり、あの人は貴方が地下で遭遇したものとは異なるということです。モーガンの奴隷であるエスペンが子供ではなかったのと同様に、あれは狼でした。私はあの人を解放します。

再結合が近づいています。私たちの製作物が、あの人の製作物と融合する日が。その日が祝賀の日の一つとなるのか、アルマゲドンの日の一つとなるのかは、私にはまだ分かりません。あの人は今でも、その為に私の助けを必要としており、私が狼と共にいる限り、私は後者を防ぐ努力ができます。理解して頂ける事を望みます。

貴方が昨夜の事を、どれだけ覚えているか私にはわかりません。貴方が拉致されたとき、私は後をつけましたが、貴方は厳重な警備下にありました。姿を見せる事なく貴方の元へ向かうことは出来ませんでした。それで……私は実行しました。明かりのついた天井灯の一つを、モーガンに投げつけました。正面に向かって……。不運にも、それは貴方にも当たり、モーガンは貴方を傷つけることに成功しました……。ごめんなさい。慰めになるか分かりませんが、少なくとも針は貴方の目から逸れました……。

その時にはもう、皆が私を見ましたので、私は怪物を演じて全員が逃げ出すように吠えました。殆どの人は逃げましたが、何人かは私を退治しようと残っていました。重傷を負った人はいません、心配しないでくださいね。多くの人が祈りに集中していましたので、私が行わなけばいけない唯一の事は、彼らをドアから放り出す事でした。

狼が入ってきた時、彼らは皆、余りにも喜んでいました。どうやらモーガンの契約は、彼らの聖地への悪魔の侵入を参加者が見た際に、無効とされたようです。私の理解する所では、契約はモーガンの成功に基づいており、モーガンが私の行動から回復する筈はありません。狼は自らを解き放ち、貴方が捕らわれていた礼拝堂に火を放ちました……。

今やヘイヴン教会は灰の中です。心配しないでくださいね、誰も傷を負っていません。ほぼ全員脱出できました……、一人を除いて。モーガンは狼のものとなりました。これが計画されていた事だと知って欲しかったのですが、残念な事に、これは始まりにすぎません。貴方は安全になる必要があり、狼は適切になる必要がありました。私は、貴方にどのように行動するかを知らせる必要がありました。そう……、とても、とても沢山の事を。貴方は自分の人生を望んでいたのに、私が行った干渉によって、それを否定してしまいました。本当にごめんなさい。

貴方を深く、深く愛しています。決してそのことを忘れないで下さいね。貴方と再会することを誓います。約束しますよ。再び会えた時には、もう二度と離ればなれにならないようにと願っています。

貴方を愛しています。


~クローヴィス


追伸:
貴方の為にある物を残して置きます。アカシアの作品の多くは今はもう存在しません。しかし、私は作品を幾つか保存していました。良かったら、貴方に持っていて欲しいと思います。アカシアは貴方がまだ幼かった時にこれを作りました。アンスワース医師は所在をご存知です。昔の貴方は、これ程可愛らしい小さい存在でした……。貴方を愛しています。


医者は読み終えると溜息をついた。「……時間が必要かね?」

スチュアートはベッドに横になり、宙を見つめた。答えるのに少し時間がかかった。「は……はい……。ありがとうございます」

「分かった。何か要るかね?」

「水を……水をいただけますか」

「そうしよう……。クローヴィスはアカシアの絵のひとつについて何か触れていたのかね……?」

「回復したら僕もお話ししたいです」

「もちろんだ」医者は静かに部屋を出る前にそう言った。スチュアートはベッドに深く沈み、目から涙が溢れ始めた。一分も経たないうちに、医者が入ってきた。彼はナイトスタンドに静かに水を一杯置くと、スチュアートが見えるようにクローヴィスの贈り物を立てた。「他に何かあるかね?」医師は尋ねた。

「いえ……大丈夫です。色々とありがとうございました」

「構わんさ……。少し休みなさい、スチュアート」

「そうします……」

アンスワースは頷いて去った、子供を一人残して。スチュアートは首を回してクローヴィスが彼に残したものを見た。泣くのを堪え、永遠と思えるほどそれをじっと見つめた。以前の彼は孤独を好ましいと思っていた。静寂を。しかし今は……、彼は本当に孤独を感じ、胸が押し潰されたかのように感じていた。

「僕も貴女を愛しています、母さん……。僕も貴女を愛しているよ」

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