『"異常"って、何?』
唐突に湧き上がる疑問に、"N/Aセンター"管理官の手が止まる。ここはNeutralized/Anomalous保管セクター、異常と非異常が一緒くたに集まる場所だ。ここでの業務では、その境界を見つけることが非常に多い。
改めて、傍らに避けていた書類に目を落とす。時刻は既に22時を過ぎ、部下は誰も残っていない。彼女は小さくため息をつき、その「SCP指定申請書」を開いた。
要件: 貴サイト所蔵のAnomalousオブジェクトの格上げ申請です。
対象: AO-830-JP
事由: 対象は、私(申請者、██博士)の研究するオブジェクトです。対象は精神影響性を保持しており、暴露者の認識に明らかな"矛盾"を生じさせます。…
書類を一旦机上に戻す。後にはつらつらと、オブジェクトがいかに"異常"であるか書かれている。こうした格上げ申請はたまにあることで、少数だが(2件程だ)SCP指定に格上げされた例もある。しかし、彼女の知る"あの石"は…。彼女の抱える疑問と頭痛のタネ、彼女が手を止めた書類に記された、AO-830-JPの説明はこうだった。
説明: 視認すると"異常性は無い"と確信する石。その他の異常性は特に見られない。
…異常なの?異常無いの?
正直なところ、彼女には分からなかった。
…
書類をしまい、帰りの身支度を整える。結局、あの申請書には"却下"の判を押していた。SCP指定となるには危険性も収容コストも基準を満たさなかったのだ。格上げ申請の多くは、こうして却下の烙印を押される。彼女の日常の範疇だった。
それでも、と彼女は思う。
"異常でない"を"異常が生み出した"と彼は言う。そんな石が確かに存在するならば…正常が異常でないことなんて、誰も証明できないのでは?
財団は"正常性維持機関"だ。彼女は財団職員として、異常を隔離し正常を守る生活を送ってきた。だが、守るべき"正常"そのものを歪める存在を、彼女は多く知っている。ミーム汚染、現実改変、大規模記憶処理剤散布…。彼女は異常を知りすぎた。ゆえに、少しずつ正常を忘れていった。ここでは"正常"は脆い合意で、彼女の日常を取り巻く"正常"でさえ、こんなにも"異常"にまみれているのだから。
あの石は、私の意志だ。ふと彼女はそう思う。石は正常だ、私も同じくらい正常だ。そう思い込もうとする力が、私が人間であることを保っている。あの異常の無い石が異常であるならば、私は、私さえも、実は。
『事務フロアの方、施錠時刻です。宿舎にお戻りください。』
無機質な館内放送に引き戻される。室内は既に暗く、灯りは自分の真上の青白い蛍光灯だけだ。軽く痛む頭を振って、彼女は机上のカバンを拾い上げた。
調剤部に寄って薬を貰おう。軽い記憶処理剤が出るかも知れない。それと今夜は、ビールを買っていこう。
財団に染まったな、と呟いて、暗い廊下の向こうに彼女は歩みを進めていった。