豪奢でありながら飾りすぎない。いい店だ。
変わり者の上司に薦められて予約した店だし、正直ちょっと心配だったんだ。でもこれなら期待できそうだ。
『前菜の夏野菜サラダ 特製ベーコン和えでございます』
「ほー」
出されたのは店の格を感じさせる上品なオードブルだ。トマトの赤が特に目を引くが……。やはり気になるのはこのベーコン。
「すいません。このベーコンは……」
『そちらは大森敦子様の特製ベーコンでございます』
「ああ、これオフクロか」
この店、弟の食料品の噂は聞いていたが、なるほど噂通りという訳だ。
オフクロ……。若い頃に親父が蒸発して、それから女手一つで僕を育ててくれた、僕が最も尊敬する人物。胃に癌が見つかったのが半年前、それからはあっと言う間だった。孫が見たいって言ってたよな、浮気者の親父の子なのに、不甲斐ない息子でごめんよ。
オフクロを箸で摘みあげて口に運ぶ。せめて僕の中で生き続けてくれ。
一噛み。
「……ん?」
『いかがいたしましたか? お口に合わなかったでしょうか?』
「ん、んー。なんか味気ないな。」
それはまるで氷を口にいれた味。味気ないなんてもんじゃない。何かの間違いなのだろうか、こんな料理がでてくるとは正直驚いた。
『失礼致しました。すぐお下げして次の料理をお持ち致します』
ウェイターはオフクロを素早く取り上げ、バックヤードに引っ込んでいった。おいおい、オフクロをあんな粗末にしたのか?
なんだよ期待したのになぁ。オフクロ、本当にごめんよ。
『先程は失礼致しました。続きましてスープになります。コンソメスープになります。』
「いいえ、気にしないでくださ……。おお、これはすごい」
コンソメスープと聞けば馴染み深いスープではあるが、本来はフレンチにおける高級スープだ。そして出されたコンソメスープときたら、まるでアンバーが水に溶けたような煌めき、そしてこの雅さを感じる香り、今度こそ期待できる。
『こちら市橋美沙様より絞りました体液を使い、味に奥行きを与えております』
「娘を……。なるほど。」
美沙。俺の大切な一人娘。お前の産れた時、七五三、入学式、発表会、卒業式、成人式。お前の晴れ姿1つ1つを俺は忘れないよ。お前には幸せになってほしかった、それなのにあんな男に付いていくなんて……。美沙がスープに溶けているならこの美しいスープも納得だ。美沙ほど透き通った存在を俺は知らないからだ。
スプーンでその黄金色を掬い、口に含む。
「んんん?」
『いかがないさましたか?』
「な、なんだよ。さっきと同じじゃないか」
まただ。また何も味がしない。
『そんな……。大変失礼致しました。確認させていただきます』
ウェイターが首を傾げながらバックヤードに戻っていく。美沙をこんな風に使うなんて……。
別に引っ込めなくていいのに。まずいスープだけど、それが美沙なら飲み干すというのに。
『先程から重ね重ね不出来なものをお出してしまい申し訳ありません。次がメインのステーキとなります。』
「はは……。そろそろ本当にお願いしますよ。……これはすごい肉だな」
『こちら井上信明様の胸部の肉を使っております。岩塩でお召し上がりください』
なんて食欲をそそる匂い。この肉が愛する旦那のものだと思うと背徳が心を擽る。酷い男に捨てられ、心から病み腐っていたところを支えてくれたのが信明だった。信明の妻になれたことは私の人生にとって最大の幸福だと思う。まさに幸福を食するということ、この店の真骨頂だ。
ナイフを2往復。やわらかい。フォークを付き刺し口へ。
「うーん、これは」
『え』
これはいくらなんでも酷い。まさに無味無臭。信明の味なんて微塵もしない。岩塩の味だけが舌を刺激する。
「ちょっと。そろそろ本当に酷いですよ。こんなの、食えたもんじゃない」
『そんなはずは……』
「もう結構です。これ以上はいりません。お勘定をお願いします」
デザートなんて食べる必要が無い。流石に頭に来たし本当に失望した。しっかし、こんな店を薦めてくるなんて、あのオッサン許せないな。
『不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。こちらになります』
私は早々に会計を済まし、店の戸に手を掛けた。カランカランという音が頭上から聞こえる。
『ところで……』
ウェイターが私を呼び止めるように声を出した。捨て台詞だろうか。
『お客様は一体何人の人生をお持ちなっているのですか?』
……。
「さぁね。もう"どれ"が"どれ"だか解らないぐらいには」
ウェイターはジっとこちらを見つめている。
「来週また増えるんですよ。次は女の子らしいです。ステーキにされるのは信明とかいう人じゃなくて私ってね。……では」
ウェイターの「ありがとうございました」すら聞かないように店を出た。私が店を出たのを見計らったように携帯に着信。発信者は……久能尚史。
「はい、凍霧です。先生、正直期待外れでした。ええ、ええ。出されたのが先生だったら少しは感じたかもしれませんね。ふふ、やはり私は倶楽部の方が」