戻らじ
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初めてお手紙差し上げます、ミツアキさん。
私、東京都でサラリーマンをしております、オオエダと申します。
本日はかの雑誌の心霊特集のページを拝見いたしまして、どうしても心残りのある出来事について、ミツアキさんに調査していただけないかと思い、お手紙を差し上げました。


 
雑誌ライター小野光章の元にその手紙が届いたのは、どんよりした灰色の雲模様が、茹で上がるような暑さを倍増させる夏の話であった。昼食を食べ終わり、食堂からデスクに戻ると、薄黄色の封筒が一人、光章に破られることを待っていた。宛名を確認するまでもなく、彼は噛り付く勢いでその中身を切れかかった白熱灯の下に晒した。

実のところ、雑誌の刊行日から数日の間は絶え間なくこういった手紙やメールが彼の机へと殺到していたのだが— そのほとんどが所謂ガセネタかインターネット上に投稿された身も蓋もない作り話であることが判明した次の日には、ゲロまみれの寮の玄関口で倒れ伏す彼の姿が、社員によってSNSに投稿されたのは話題に新しい。さらに刊行から一週間もすれば、その数は指数関数的に減少していき、結果として光章のデスクの上に残ったのは、手垢のついた百物語だけであった。

期待半分、不安半分にて払いの癖の強い「初」の字を光章は目と指でなぞり始めた。序文はどこかで見たようなテンプレートな文章ではあったものの、続くように刻まれる「風鈴」の二文字は、彼の心を躍らせる。それはこの季節でない限り語られえぬ言霊であり、つまりはタイムリーな話題を提供している可能性が高いからだ。
 


私の住むアパートの近くには、もういくつかアパートが建っています。
その中でも向かい側のアパートの一室が、心霊的、というか非常に不気味なのです。

その部屋は窓際に風鈴をいくつか設置しているのですが、こちらから見える限り、それらが全て、窓の内側に設置されているのです。それ自体はおかしなことではないのですが、私が確認する限り、その窓を住人が開けているところを、見たことがないのです。

私は職業の関係で夜勤が多いため、昼間は自室にいることが多々あるのですが、それでもその窓が開いているところを見たことがありません。なぜ窓を開けないのにあのような場所に風鈴を設置しているのか、不思議でたまりません。


 
光章は片手に持った手紙に目を通しながらも、もう片方の手でパソコンを操作していた。見慣れたカラフルなバナーの検索フォームに、宛名に記された住所を入力していく。途中に予測変換にて現れた住所をクリックすると、ストリートビューにて送り主の住居が画面に映し出された。小さな門のある、暗いセルロイドの長方形が横たわっているかのようなシンプルな構造。

手紙に書いてある通り、彼はマウスホイールを回して少し離れた地点から、向かい側のアパートの様子をのぞき込む。向かいとは打って変わって、画面越しからも黴臭さが鼻を衝くような、節々に経年劣化の跡が見て取れる木造の共同住宅がそこにあった。今の東京にこのようなアパートが存在しているのか、と光章ですら目を疑った。同時に、本当に件の風鈴はこの一室の中に存在しているのかすら疑わしい、と彼の細めた瞳は雄に語っていた。それでも、そこに反射し続けている住所履歴は、紛うことなく宛名と一致している。

再び、光章の両視点は手紙へと注がれた。
 


不気味な点はもう一つあります。それは先ほど記した通り、私は夜勤でそれを聞いたことはあまりないのですが、どうも夜の間だけ、その風鈴は鳴っているようなのです。

私が経験した限りでは音が鳴っている間、やはり窓は開いてはいません。ですから、恐らくそこに住む誰かが、夜の間だけその風鈴を何らかの方法で鳴らしているということになるかと思われます。

誰が、何の目的でそのようなことを行っているのか私には見当もつきません。また、正直なところ自己責任でそういったことを調べようという勇気もあまりなく…… そこでたまたま雑誌を眺めていたところ、ミツアキさんの特集が目に入ったのです。


 
探偵じゃあないんだぞ— と口からこぼしかけたところで、光章は古アパートの窓際、逆さに吊るされた金魚鉢を見た。ガラスの表面には美しい出目金の赤が焼き込まれ、水草を表したであろう緑が透き通っている。その隣、またその隣にも。"全く同じ風鈴"が、"サッシ窓の内側"に配置されていた。それは美しい情景ではあるものの、アパートの外装とも相まって、その部屋だけが周りと比べて浮き上がっているように彼は感じた。

見つけてしまったという後悔と、本当に存在したという興奮がクーラーで冷えた汗となって光章の背中を、36.8度の体温を吸って流れ落ちていく。バタバタと彼は胸元に空気を招き入れると、浮き上がった部屋の、更なる特徴を探して画面越しのストリートビュー凝視した。

部屋は二階の一番奥に位置しているように道路側からは確認できる。また、少なくともその隣の部屋には住人が住んでおり、太陽が照らされているわけではないにも関わらず、緑色のTシャツがサッシにハンガーで掛けられている様子が撮影されていた。そのような様子であるために隣の部屋は電気をつけているのか、室内から蛍光色の漏れ出る様子が見て取れるが、件の部屋は薄暗く、その生活感の対比に光章は風邪を引きそうだと苦笑した。

そこまでして、光章はそれについての調査を行うか、はたまたボツとして手紙をゴミ箱に投げ捨てるかを天秤にかけることとした。少なくとも見る限りでは件の部屋は存在している様子で、また、都内の区域でいえばこの編集社からほど近い。しかも、内容としては夏というこの季節に対して非常にタイムリーな内容に仕上がるだろう。しかし、個人の家宅についての調査を行うとなると、そのアパートの管理人に取材の了承を得る、尚且つ部屋に住む当人や、場合によっては隣人にも許可を得る必要が出てくるために手間が多い。最悪の想定として警察沙汰になる可能性も考えられる。

彼はしばらく天秤を揺らし、そうして取材カバンを手に取った。「なに、もし話そのものが使えなくなったとしたら、劇作家にでも転職すればいいのさ」と光章は静かに笑っていた。
 


はぁ、あのお部屋といいますと、オオナカさんのお部屋でしょうか。
人が住んでいるのは間違いないと思います。そんなに多くはないんですけれども、お仕事、かな、に行かれている場面を見たことがありますから。

そんなに特徴的な方か、ですって? そうですね、いつもパリパリのスーツに、しわ一つないワイシャツを着て歩いていれば、少しは印象に残りますよ。お仕事そのものは分からないなぁ……でもそれだけピシっとしてるんですから、銀行員とか、どこかいいとこのお偉いさんなのかな、とは思っていました。

そうですね、だからこそあのアパートに住んでいることや、風鈴をたくさん並べているのが不思議ですね。でもそういう人なのかなぁって思ってました。ほら、アンティーク趣味っていうんですか。そんな感じの。少し違うか。でもあんまり深く尋ねるのも、別に仲良くはないからおかしな話じゃないですか。


 
向かいのアパートの住人の言葉に、光章は嘆息した。30をゆうに越える快晴の下、ようやく捕まえた近隣住民の言葉は、ごくありふれたオオナカという人物像を描き出していたからだ。恐らくは少し変わった趣味を持つ、どこかいいとこのまじめな会社員。これがはたの目から見ても狂人であったのならば、もしくは存在していなかったのならば、それだけで一つ記事を書けるものを、うまい話はなかなか転がっていないものだ。

髪の毛穴から滲み出した汗をすでに湿り切ったタオルで拭って、彼は件のアパートの裏手にあるコンビニへと入っていった。人類の叡智が彼の首筋を絞めるようにして冷やかしていく。思わず光章は「ああ」と感嘆の声を漏らした。雑誌を立ち読みする客の一人が、横目で彼を見て、すぐに視線をアダルト雑誌へと戻した。

ちょうどいい、とそれに倣い、光章も男の横で自らが手掛けた企画が乗せられた雑誌を手に取った。該当するページを開けば、「納涼祭」とフリー素材の血文字で描かれた、黒を基調とした見開きが目に飛び込んでくる。枠欄の目立つ位置に大きく描かれた編集社向けの住所を見て、件の手紙の主は本当にここに送ろうと思ったのか、我ながら光章が疑問に思うほど、そのページは安っぽい印象を受けた。実のところ、このようなレイアウト自体は彼が考案したものではなく、おそらく安請け合いのデザイナーに丸投げしたのであろうことを、光章は知っていた。しかし、それは決して彼の仕事ではないことも、光章は知っていた。

雑誌を閉じる。すると、ガラスの向こう、信号待ちをする男と偶然、光章は目が合ってしまった。照り付ける猛暑の下、その男はパリパリのスーツに、しわ一つない純白のワイシャツを着こなし……その時点で彼は確信を得た。何も買わずにコンビニをいそいそと出ていこうとする彼を訝しげに見つめる視線をよそに、光章は横断歩道を渡り切ったその男の後ろにつき、同じ歩幅で、同じ方向に、歩きだした。

時計を見れば12時を少し回ったころであった。どうもそのオオナカらしき人物は目的地がありその場所に向かおうとしている様子で、時折スマートフォンを確認しながら、住宅街を歩いていた。男が落としていく大粒の汗の跡を辿り、光章もまた住宅街をすり抜けていく。

数分ほど歩いただろうか、男はようやく目的地と思しき緑の看板のコーヒーチェーンに辿り着いた。涼しげな恰好で談笑する男女が、ガラス張りの店外から見て取れる。その中に男二人は吸い込まれていった。先ほどと同じ冷風が、二人の首元を絞めていった。男は慣れた様子でアイスコーヒーを一つ注文し、受取口の付近でスマートフォンをいじり始めた。同じ動作で光章も自然に彼の後ろにつき、気づかれないように画面をのぞき込む。そこには三原色では表しきれないほどの色が広がっていた。光章が予期していたように、それはオンラインの風鈴の販売ページであった。

アイスコーヒーが到着し、男はそれを受け取ると最も近い窓側の空席へと座った。光章はその真後ろの席に陣取った。すぐさまノートパソコンを取り出し、ポケットWi-Fiが繋がったことを確認すると、先ほど見たページと同じタイトルをフォームへと入力する。検索結果が表示したのは、この近辺に位置している百貨店の特設ページであった。「なるほど、今回は外れかもしれない」、光章は大きめのため息をつくと、後ろの様子を探りながらもワードを開いた。
 


風鈴 [名] [ふう-りん]
風鈴とは、日本の夏に家の軒下などに吊り下げて用いられる小型の鐘鈴。風によって音が鳴るような仕組みになっている。日本では夏の風物詩とされ、古くより日本ではお守りとして、中国では占いの道具として重宝されてきた。


 
光章が大筋のプロットを書き上げた時、パソコンのディスプレイの右下は午後の2時37分を示していた。オオナカ(仮)は彼の後ろから動くことなく、今も空になったコーヒーカップをテーブルに放置してスマートフォンをいじり続けている— と、そこで光章は強い違和を覚えた。彼はスーツを着ているのだ。であるなら勤めるべき場所があるはずで、なおかつそれは果たして昼休みを2時間強も与えるような職場であるのだろうか。営業という可能性も捨てきれないが、しかし彼はそこで自らの見落としに気が付いた。彼はカバンを持っていなかった。その財布とスマートフォンだけを持ってチェーン店で涼む男の様相は、営業という二文字とは矛盾している。

一度不和を見つけてしまえば、光章の目にその男はあまりに不自然に見えた。仕事でもないのに、なぜ新品同様のスーツをいつも着ているのか。休日だったとしてもなぜスーツを着ているのか。なぜ、そのような男がここまで風鈴にこだわっているのか。いくつもの「なぜ」が彼の目から見たオオナカの姿を変えていく。同時に、光章の好奇心も高まっていく。「とことん張り付いてみよう」光章は背中合わせの男の姿を瞳に焼き付けていた。

得体のしれぬ男が動いたのはそれから数時間後のことであった。時刻は20時を回った。その間、延々とこの男はスマートフォンをいじり続けていたのだが— 急に立ち上がった男を追うように、光章はノートパソコンを静かに閉じた。急ぎ足で遠ざかる男の背を、光章もペースを上げて追いかけた。次第に加速する男を追いながら、光章は内心で舌打ちをした。どのタイミングで尾行がバレたのか、彼には検討がつかなかったが、光章は見覚えのある路地が視界に入った時点で、スピードを、緩めた。T字路の角から先をのぞき込むと、ちょうど遠目に男が件のアパートに入っていく様子が見えた。それだけで彼は十分な情報を手にしたのだと自分に言い聞かせていた。
 


オオナカさんね、はいはい。

確かに変わった方ですね。部屋中風鈴まみれで。はい? ああ、そうですそうです。窓際だけじゃなくて、お部屋も風鈴だらけなんですよ。変わった収集癖をお持ちの方ですよね。それだけあるとうるさくないかって? 確かにうるさいなぁと思いますけれども、ほら、うちの見た目。わかりますよね? こんなアパートですから、いくら安かろうが住みたいっていう人も殆どいなくてねぇ。だから、何でもアリでいろんな方に貸してるんです。本当に何でもアリで。だから騒音とかを私に訴えられたことはないですねぇ。

あ。ほら聞こえてきました。一個だと綺麗な音なんですけれど、こう、いくつもいくつも鳴り響いていると、かえって不気味ですね。はい。普段、というか毎日こんな感じですよ。あの方が引っ越してきてからというもの、毎日毎日。そんな中眠れるんだから、お隣さんもなんですけど、本当に変わってる人達ですよね。私は近くに別のアパートを借りているので、寝るときや普段はそっちにしまして。はい、ええ。今日は一段と大きく鳴ってるなぁ。

それじゃ、私は向こうのアパートにいますんで。入居希望であればいつでもお声かけください。


 
光章が大家と話している最中も、手紙にあった通り、大量の風鈴の音が上階から二人の元へと降り注いでいた。何十個もの目覚まし時計を全て21時に重ね合わせたかのような合唱に、光章は頭痛すら覚えた。意を決して家を訪ねるという選択肢を取ることもできたのだが、彼は先ほど尾行に気づかれた可能性があるというリスクを天秤にかけ、その場を立ち去ることを決めた。まだ時間はある、ゆっくりと取材を進めていけばいい。光章はボロアパートに背を向けて歩き出した。

帰り際、光章は件の部屋を見返した。窓際では、風を受けて激しく風鈴が揺れていた。
 


風鈴と騒音
現代社会では、宅地、アパート、マンションなど住居が密集している生活環境のため”騒音”として捉えられることもある。トラブルの事例も少なくない。東京都では生活騒音に分類されている(wikipediaより引用)。


 
だがそれから一週間近くの間、光章はこの場所の調査を止めていた。理由は多々存在していたが、最も大きいのが俗に言う、特ダネの垂れ込みによるものだ。

彼が風鈴の山から仕事場に戻ると、デスクの上には今か今かと開封を待ちわびる封筒の山があった。それら一つ一つを丁寧に彼は開封しては雑にゴミ箱に破り捨てていたのだが、その中の実体験を基にした噛み応えのある文章が光章の目を奪った。それを家に持ち帰り、深夜だというのに小躍りし、寮長に呼び出しを喰らい、2時間近く小言を聞かされたのは彼の記憶に新しい。

翌日。すぐさま光章はその調査へと向かい、そして十分な結果を持ち帰ったのがちょうどかの風鈴の家を訪れてから6日後のことであった。ただそこにあるだけの怪異はありふれており、記憶から消えゆくのも新しい。今現在、キーボードに指を叩きつける彼の頭の中に、既にあの夜にアパートの管理人と浴びた風鈴の音は残ってはいなかった。

数時間モニターとにらめっこをしていた彼の鼓膜に、涼し気なサウンドが入り込む。氷と氷のぶつかり合う音。その方向を見れば、同僚が砂糖を底に堆積するほど混ぜ入れたアイスコーヒーを手に、外から戻ってきた様子であった。意識せず、光章の喉がごくりとなる。彼はスマートフォンと財布を手に椅子を後ろに蹴飛ばすと、ちっとも気温の下がらない炎天下の元へ駆け出していた。
 


ごめんください。ちょっとお話よろしいでしょうか?

このアパートに監視カメラなんてものは……ああ、設置されていませんか。困ったなぁ。
ええ。当日や普段のオオナカさんの件でお話をお伺いしたく思いまして。
最初に彼自身は管理人さんから見て、どのような人物だったでしょうか?

はぁ、風鈴。そうですね。それは私たちも部屋を確認させていただきましたので、もちろん存じております。
それらを集めていた理由なんかはご存じでしょうか? わからない、そうですか。ではそういったことに詳しそうな、例えば彼には配偶者であったり、恋人であったり、そういった交友関係について、何かご存じのことはありますか?

なるほど。配偶者の方と子どもが数年前に他界していると。ああ、あの事件ですね。存じています。なるほど、あの強姦魔による連続殺傷事件の被害者の方の、夫であったのですね。ええ、腹を縦に引き裂くなど、正気の沙汰ではありませんでした。

では、それ以外のご交友であったり、後はそうだな、部屋にこんな方がいらっしゃいましたよ、などという些細なことでもよいのですが。
あまり彼は部屋に人を入れたがらなかった、ですか。それは管理人さんでも? となると、何か、家の中に隠しておきたいものがあり、それをカモフラージュするために、風鈴を集めていたなんてことも考えられますかね。
……はい? 風鈴を集め始めたのは記憶している限り、殺人事件のすぐ後、ですか。なるほど。

では当日、オオナカさんのご様子はいかがだったでしょうか。
いつも通り、ですか。管理人さんから見ればいつも通りでも、他の方から見たらおかしいような、それこそ普段から何かしていることなどはなかったでしょうか?

ふむ、急いで家に帰ることが多かったと。それについて何か理由は……聞いていませんか、そうですね、申し訳ありません。確かに理由がなくとも早く帰りたいと思うのはあり得ますからね。

ご協力ありがとうございました。もしかしたら再度、事実確認のためにお話を聞かせていただくことがあるかもしれませんが、ご了承ください。


 
彼のその判断は失敗だったに違いない。コンビニにたどり着く前に、湯上がった彼の顔には、頭から噴き出したべとべとの線がいくつも引かれていた。ようやく外気と冷房の境を跨いだころには、彼の額のしわが1つ増えていた。そしてハンカチという高尚な文化など持ち合わせていない雑誌ライター小野光章は、Tシャツの柄で額を拭うと、レジの前へと歩み出るのであった。

アイスコーヒーを片手に休憩コーナーにて、光章はスマートフォンのロックを解いた。汗が乾く感覚を味わいながら、彼は写真フォルダを眺めていた。直近一週間はつい昨日まで行っていた取材の成果物がずらりと3×5の感覚で並んでいる。そうして髪が伸びては禿げゆく日本人形の写真に親指を置き、上にスライドさせた時、ふとスーツ姿の男のデータが光章の瞳に反射した。オオナカだ。

蘇った記憶は鮮やかに、閑静な住宅地に鳴り響く風鈴の音とその様相を思い出させた。尻尾をくねらせた出目金の赤が、閉じられた窓が開いた状態で激しく、

開いた状態で?
 


オオナカさんね、亡くなったんですって。


 
先ほど飲み干したアイスコーヒーが全て吹き出てしまったかのようなヒリついた光章の喉を、浅い呼吸が抜けていく。古ぼけたアパートの前で呼び止めたその管理人は、反面、落ち着いた様相で彼にそう告げた。吐き気がこみ上げながらも光章が聞いた話では、5日ほど前───つまり、管理人と話した次の日。部屋の中でオオナカが亡くなっているのが発見されたのだという。警察はそれを他殺と認定し現在も捜査を進めていると、管理人は数日前の新聞を部屋から持ってきて彼に渡した。そこには小さな欄ではあったが、確かに殺人事件の記述と、無愛想な男の写真があった。

光章は胸ポケットからケースを取り出すと、いくつかある名刺のうち、1つを管理人に差し出した。そこには簡素な明朝体で週刊"分"春の銘と偽名が刻まれている。その名刺を見て管理人は訝し気に眉をひそめたが、光章は強引に事の詳細を尋ね始めた。
 


07:40ごろ 当日の朝、男の悲鳴を聞いたかもしれないと後から左隣の住人より証言があった。ただ、住人は寝ぼけており、尚且つテレビを消し忘れて寝てしまったため、その音声かと思ったらしく、特に気に留めることはしなかったという。

10:25ごろ オオナカ氏の部屋の下の階の住人より、天井から赤黒い液体が滴っていると管理人が連絡を受ける。元々、各回の部屋は場所によっては雨漏りが発生することがあり、恐らくはそのために床にしみ込んだ血液が落下したのだと推測される。

10:30ごろ 連絡を受けた管理人による1回目の部屋への訪問。数度インターホンを押したが返事はない。1度管理人が合鍵を取りに行くために管理人室へと戻る。

10:35ごろ 合鍵を取りに行った管理人が戻ってくる。2度目の部屋への訪問。再度インターホンを押すが、返事がないため、合鍵を使って管理人が部屋へと入る。

10:37ごろ: 管理人によってオオナカが発見される。管理人によって警察、並びに救急に連絡がなされるが、この時点で恐らくオオナカは死亡していたものと思われる。管理人による見解によると、腹部を縦一閃に切り裂かれているような状態であったとのこと。

10:50ごろ: 鑑識、並びに警察が到着し、捜査が開始される。ここから管理人を含む、一切の住人はオオナカの部屋には立ち入っていない。

12:30ごろ: 管理人、並びに各階の住人に聞き込み捜査が入る。普段のオオナカの様子、並びに事件当日の様子などを話したという。


 
癖のある字で書き殴られた、自分しか読めないであろうメモを見返しながら、光章は「外れか」と改めて呟いた。窓の開いた様子を思い出した時、彼のセンサーは完全にこの前の取材の際よりも大きく反応していた。そして、センサーの通り、大事件は起きていた。しかし、メモに記された情報はそれがどこにも異常など見当たらない、ありきたりな殺人事件であることを告げていた。

もし、現場を見ることができたのなら、メモ以上の何かを感じ取れるのかもしれない。そう考えた光章に対し、階段を上がり切った時点で彼の目に飛び込んできた黄と黒の単色は、それ以上の介入を許すことはなかった。8段目で立ち止まった彼の後ろを抜け、大がかりな装置を手にした白衣姿の男性二人が、その規制線を軽々と越えてオオナカの部屋へ入って行く様子を、彼は黙って見ていることしかできなかった。

奇妙な男、風鈴、そして殺人。明らかに"美味しい"ネタが目の前にあるのに、それらの調理法を思いつくことのできないもどかしさを、光章はオフィスでキーボードへとぶつけていた。彼が1つ打鍵するごとに、不必要なほど大きく鳴る音に、周りの社員は眉をひそめている。がたがたがたがた、気が付けばグーグルの検索欄に「風鈴」の文字が打ち出された後、彼はエンターキーを押していた。
 


平安時代から鎌倉時代にかけ貴族の屋敷でも軒先に魔除けとして風鐸を吊るしたことがあったといわれており、風鈴にし呪術的な意味もあったほか権力の象徴でもあった(wikipediaより引用)。


 
彼は除け切れぬ魔に殺されたのかもしれない───なんともつまらない締め方をしたものだ、と既に皆退社した後のオフィスで光章は一人ごちる。じきに殺人事件の犯人が捕まってしまえば、その時点でこの怪異は現実となり、薄れて行く。この一瞬の背筋を舐めとるような感覚でさえ、ありふれた事件の一つとして記録の中から消えていく。だからこそ、このようなオチを雑誌ライター小野光章は強く嫌悪している。ただそれでも、この事件はこれで終わりなのだ、終わらせてくれ、と努力を無碍にされた彼自身の心が泣いているのを、光章は聞き届けた形となる。

既に押された退社ボタンを、わざとらしくもう一度押してから光章はオフィスを後にする。涼やかな夕暮れの風が彼の頬を撫ぜるとともに、どこからか運んできた甲高いガラスの摩擦音を彼の耳に届かせるのであった。
 


 

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