水に浮かんだ月を掬って
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「それじゃあ今夜も、電子の海で震えて眠れ!」
そんな決まり文句と共に、わたしは配信を終えた。画面にはフォロワーが描いてくれたわたしの絵と、なおも流れ続けるチャットが映る。配信中にパニックになってガバったプレイングを揶揄する声とわたしへの賛美と売名とリクエストが、一緒くたになって流れていく。
しょうがないじゃん急に赤スパ来たんだもん、とぼやきながら大きく背を伸ばす。マイクも切ったので、画面の向こうにその声が届くわけがない。さっきまでのわたしは私じゃなくて、グレイのふわふわのロングヘアと青い瞳の美少女だった。パソコンのモニターに映る今の私は、ぺらぺら生地の夜空みたいなロングドレスという、格好だけ"わたし"……私の美少女アバターとお揃いの冴えない喪女ってやつだけど。
十分すぎるくらいに分かっているとはいえ、いつも私にとっての二つの現実の格差に一瞬面食らってしまう。現実の私には到底似合わないから余計に。画面に映らないところで服だけ着るなんて滑稽だ、と誰かに指摘されてる気がして、画面外から急に冷たい水をかけられる気分になる。
滅入っていく気分をどうにか持ち直させようとスマホを開くと、配信の終わりを知らせる予約投稿に反応があったらしい。真っ暗な部屋にブルーライトがぴかぴか光って、そこに浮かぶリプライは天の川の星みたいだった。私とわたしを繋いで照らす、小さくて大きな声。星の光は過去から届いているらしいけど、この声は現代からわたしの元に届いている。ひょっとしたら私の隣にもいたりして、それはそれで怖いけど。
寝落ち配信を希望するリプライのすぐ下に、初めて聞いたけど変な挨拶、という文字。このフレーズについては何回か説明してるんだけど、ご新規さんかな?配信全部見てる人もいればそうでない人もいるんだから仕方ない、とはいえ変な、という言葉はいらないような気がする。
苛立ちを払うように私は小さく息を吸い込む。配信を始めると決めた時から二ヶ月くらい考えて、結局借り物のネットスラングになっちゃったけど。何度も何度も頭の中で咀嚼した言葉を呟くと、不思議と元気が出るような気がした。
「震えて眠れ」

わたしの声は微かに揺れる。エナドリの毒みたいに人工的で甘い匂いと夜が充満した自室で、今日もこれが言えることに小さなガッツポーズ。今日もやりきった、という心地いい疲労感が全身に染みていく。
本来の意味みたいに、次の配信まで震えて待ってろとかお前らの発言見てるからな、みたいな意図もなくはない。でもそれ以上に、この挨拶にはまた会おうねみたいな気持ちが強い。
わたしである時は誰かの声や言葉のヌクモリティってやつに包まれていられるのに、タブを閉じて画面を消すと私は今夜も一人で薄っぺらい布団にくるまるしかない。でも、それは私だけじゃないと思う。インターネットにしか居場所がないとか、そこでしか温かい言葉を貰えない人達だって星の数ほどいるはずだ。
現実世界では透明な声しか持たない52ヘルツのクジラたちが、潮を吹き出して思う存分泳ぎ回れるのがこの暗くて生暖かくて排他的なくらい優しい世界。
朝も人も怖くても、目を瞑ってしまえばいずれ夜が来る。夜になれば、わたしはここにいる。インターネットで皆が待ってる。何もできなくても責めたりしない、嘘でもリアルなんかよりよっぽど優しい人達が。
だから、震えて眠ればいい。一人ぼっちで震えながら夜になるまで現実逃避。そうしてきちんとここに来て、見た夢の話をすればいいんだ。
インターネットは電子の海と言われるけれど、海底ケーブルを介してこうして誰かと繋がっているんだからあながち間違いでもないかもしれない。冷酷だけど生ぬるい電子の海で、一緒に揺蕩えたらきっと幸せだろうと思うのだ。

「あいつはこんな時間まで起きてるのか」
「ずっとゲーム?してるみたいで……昼夜逆転だけでも直してもらわないと、就職もしないしこのままじゃ行き遅れになっちゃう」
「元々この歳まで彼氏もいないんだ、それよりご近所に顔向けできん」
部屋のドアを貫通して聞こえてきた声に、そんな空想がぶち壊されそうになる。現実はコンクリートブロックみたいに重くて硬いから、必死で積み上げたもう一つのリアルを粉々に破壊できてしまう。見上げた誰かの声が、星が、私の視界から消えていく。階下から聞こえる親の声をこれ以上聞きたくなくて、慌ててヘッドホンを手繰り寄せて、何も分かっていないのに呟く。
「……分かってるって」
装着するだけでいくらか気分はマシになる。海の音が聞きたい気分だった。頭の中にしかないインターネットの波間を駆け抜ける妄想をしながらリプライを見て、せめて妄想に沈んでる時くらいは引きこもりで喪女で可愛くも頭が良くもなくて、つまりは何も出来ない私を捨てて本当のわたしになりたかった。
動画サイトに繋いだ勢いのまま検索窓に『海 環境音』と打ち込もうとして、パソコンは配信画面のままで止まっていたことを思い出す。生放送は終わったから、既にアーカイブになっているだろう。一枚絵のままで停止した画面を、つまりはいつもの光景を浮かべたわたしの目に飛び込んできたのは、ブルースクリーンより真っ青な夜の海だった。動画のバーが、確かに動いている。
何これ訳分かんない、と思わず口走りながら画面をチェックする。配信が終わったらチャンネル登録と過去の動画に誘導するような一枚絵があるはずなのに、そこにはやっぱり青すぎて目に痛い、なのにどこまでも暗い海と、月みたいにぽつんと浮かんだ海月しかいなかった。

『こ にちは』
ヘッドホンから流れるのはノイズみたいな波の音。閉じたはずのコメント欄が確かに動き出している。見覚えのない海月のアイコンが、電子の海に流れ着いていた。ずらっと並んだお決まりの挨拶を見て、
『ふるぇて ねむれ ?』
ぽんぽんと言葉を吐いていく。波に揺られる海月が体を動かしているようなリズミカルな流動。意思があるのかないのか分からない、子どもじみたテキストが浮かぶ。暗い画面に海月が増えていく。青いアルファベットのDにも少し似た、不規則な動き。ゆらゆら、ゆらゆら。
『ゎからん』
荒らしにしては妙な手口だし聞いたこともない。botにしては人間味がありすぎるし日本語が怪しいから、外国の人かもしれない。常識に沿って対応しようとして僅かな違和感が脳裏をかすめるけど、それに捕らわれていると何も分からなくなりそうで、とにかく勢いに任せて書き込んでみる。ゆらゆら、画面上で海月の増殖はまだまだ続いている。
「あなたは誰ですか」
返ってきたのはたった三文字の、海の泡みたいに小さく軽いテキスト。返事にもなっていない、揺蕩う海月にも似て掴みどころのない言葉。ゆらゆらゆらゆら、画面の半分以上を埋めつくした海月みたいな。
『くる?』
その二つの音の意味を理解した途端。その一言を目にした途端。
ぱぁん、と頭の中で何かが弾ける音がした。

どうしてか分かってしまった。この海月がここに来た意味を。わたしは選ばれたってことを。どこかで見た写真が脳をよぎって、訳が分からないまま脳が揺れる。海を照らす月明かりが道のように水面を照らす夜の写真。あの光の道に、海の中に、私は導かれていけるんだ。
「「くるの?」」
透き通ったブルーライトのほとんどを、いつの間にか海月が埋めていた。意味もなく波に揺られていた海月たちが、いつの間にかずらりと画面に並んでいる。どうしようもない現実とあまりに近いのに真反対の独特のきらめきが、私の瞼に浸透する。

ここでなら、私はわたしになれるのかな。
もう二度と朝に怯えながら、夜を待たなくてもいいのかな。現実の硬い痛みと後ろめたさに全身を刺されないで、電子の海を漂っていられるの?
まともな人間なら絶対にその手を取ることを否定するような、海月の骨みたいにきっと現実では意味のないもの。画面を覆いつくした薄青のフリルみたいな触手に、画面越しに手を伸ばす。

わたしにとっては、確かに救いに見えたから。

こつ、と音がして液晶に阻まれるはずの指が、画面の向こうの水溜まりみたいな空間に吸い込まれていく。
体が電子の海に沈む音が背後で聞こえた。最初に感覚を失くしたのは、手と足。それからわたしの意識と骨格は、つまりわたしを私たらしめるものは解けて溶けて、脳まで浸るような冷たくて心地のいい温度に包み込まれていく。
目を開けると、ゆらゆらふわふわと漂う海月たち。透明な月が視界を埋めつくして、手招きするように触手を伸ばす。何処までも続く海の境界を曖昧にする海月に導かれるように、わたしの意識は電子の彼方に溶けていった。

「次のニュースです。今朝未明、██市の住宅街において二十代無職の女性の遺体が発見されました。女性は事件前日から当日にかけて事件現場の自室に一人でいたにも関わらず遺体は溺死の特徴を示しており、警察は事件性があると判断して捜査を続ける方針です」

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