爆音ではなく静寂の中で
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アンモナイトの群れる白亜紀の海で、潮が引いていくその手前。岩と砂利の上に転がっていた彼  サルのような姿をした1頭のネズミは、鉄の味を噛み締めて立ち上がった。二足歩行に伴って全身の筋肉が悲鳴を上げ、背骨に沿って痛みが走る。汗とも海水ともつかぬ塩水を吸った、乱れてしだれた体毛には、砂粒が奥まで食い込んでいた。


「あぁ、こんなにも響くか」


1億年と4000万年。惑星ほしの公転軌道のたわむ悠久の時を遡り、今この大地に立っている。時空の波に浚われて平衡を失い、得体の知れない粒子を鼻から肺に詰めながら、この時代の地面を踏んだ。テロメアが火花を散らしたような疲労と共に、やつれた雄は意識と無意識の狭間に置かれている。

体が虚無へ還ることを望んでいるかのごとく、彼の脚はなかなか聞く耳を持たなかった。歩むごとに重心が崩れる中、最早棒になった脚に無理矢理力を込め前へ歩んでいく。傾きながら支え、崩れながら支え  そうした試行を繰り返し、ようやくちょっとした丘に辿り着いた。


内部から殴りつける不規則な頭痛に揺られながら、彼はこの場に非鳥類型恐竜  とりわけ獣脚類の居ない幸運を喜んだ。哺乳類では相手にならない彼らの前に晒されたなら、プランはあえなく座礁するところだった。今最も恐れるべきは彼の知る"奴ら"ではなく、この時代の土着の生物だった。

しかし幸いにも、捕食者の歯と爪は今ここに無い。ただの針葉樹と普通の岩がまばらに並び、風に身を捧げて草がそよぐ。

苦痛の波が和らぎ、脈も落ち着いた。目一杯の光をその身に浴びる草へ歩み寄りながら、懐へ手を伸ばす。取り出されたのは、互いに平行をなすメタリックなシリンダーと、丸みを帯びた琥珀だった。黄色を強く主張しながらも透き通ったそれは、ぎらつく日光を一瞬反射して煌めいた。内部には節のある影が顔を覗かせている。何かをたらふく吸い上げて、小さな果実のようにでっぷりと肥えたらしい1匹のマダニが、感覚毛の1本1本まで克明に閉ざされている。古代の彫刻をも凌駕するその繊細さは感嘆に値する芸術だった。

だが、この場この時において芸術に用はない。シリンダーからカートリッジを抜き取ると共に、周囲の岩で琥珀を鳴らす。ひび割れた樹脂を捨て去って中身を摘まみ出すと、量子ゼノン効果  時間の軛の下を離れ、マダニは防御を脱ぎ捨て現実時間に回帰した。8本の肢を動かしながらダニは息を吹き返した。


「君の時代かな。許せ」


ダニの腹に針を通し、内部の汁を抜いていく。蠢きながら体が萎んでゆくと共に、鮮やかな紅の色とも、錆びた鉄の色とも違う、黄緑色の汁がカートリッジに溜まっていく。生態から外れた植物の汁を誰が仕込んだか、それは知る由もない。見知らぬ先人が遺した物だ、無駄にはしない。

採取しておいた"奴ら"の羽毛をはたき、シリンダーに入れる。そこへカートリッジをカチリとはめ込むと、数秒後の電子音が装填の完了を告げた。

決して慣れてはいない、しかし繊細な注意が払われた動きで以て、装置の液を緩やかに茎へ差し込む。汁は細胞と空隙に流れ落ち、水槽に撒いたインクのごとく溶け込んだ。解き放たれた制限酵素は二重螺旋を開いてほどき、新たな核酸の組木パズルが組み合わせを変え絡み合う。

遺伝情報の改竄を4、5回繰り返して、膝は地面に降りた。装置に液は最早残っていない。

気道を介し、口を通り、肺の空気が漏れていく。遠い白亜紀の物質循環に自らが置かれているのだと、改めて感じさせられる。気化した汗もこの星の水蒸気となり、やがては雲をなし、雨となって降り注ぐのだろう。そしてこれらの細い葉の命を支えていくに違いない。


ふう、と彼は息をついた。

◇◇◇


虚空へ還りかけた意識の前に広がっていたのは、ネズミの故郷を赤黒く染める戦火だった。活動電位の気まぐれと知りながら、彼の自我はその情景にすっかりと呑まれていた。


逃げ惑う成獣と、泣き叫ぶ幼獣。そして、彼らを分け隔てもせず爆風と共に破壊する、地歩く巨鳥の姿があった。血飛沫と爆炎が舞い上がる中、鳥たちは進む。食べるためではなく、殺すため。壁を破り、脊柱を砕き、頭蓋を踏み割る。土砂を押し切る濁流のような、怒れる恐鳥の姿があった。

その予兆はあった。野生動物や家畜が次々に行方をくらませる中、鳥たちが現れた。残った動植物を焼き払い、野山に毒を流し込みながら、奴らは市街地に迫って来た。起源も正体も知れない彼らを止める手立ては、世界のどこを探してもそこに転がってはいなかった。

過去万年のトップ・プレデターもなしえなかったカタストロフは、幾億もの魂たちを黒煙と共に昇らせた。大虐殺の迫る中、同胞は言った。あんな連中にこの惑星は譲らない、道連れに散る方がマシだ、と。十字架を奪われ、赤が地面に貼り付く中、彼はたったの独りで崩れ去った。


道連れに散る。その言葉が意識に刻まれている。睡眠・摂食・生殖と、遺伝子の継承が全てであった4000万年前の祖先たちには、刺し違えの思考はあっただろうか。発達した脳の福音と見るべきか、あるいは呪いと見るべきか。

◇◇◇


強烈な日差しに脳を温められ、意識が白亜紀へ戻って来た。瞳に飛び込んで来たのは、眩いばかりの太陽と、空に浮かぶ白い雲だった。滝のように流れたらしい、毛先についた汗の宝石は、冷えるどころか沸騰したように熱を帯びている。窪みに溜まった涙が熱い。胸で駆動する鼓動が痛い。肺は今にも破れそうだ。


道連れに散る、それをやり遂げた。地球の全ての命と共に、仲間の選択を代行した。たったそれだけのことを終え、彼の細胞は悉く息絶えようとしていた。加熱を続けた火照った芯がメルトダウンでも起こしたように。最早指の1本さえも脳の指令を受け付けず、体の先から物言わぬ屍と化しつつあった。過剰なまでの情報を送り続ける神経も、もうじき静まることだろう。


様々な物を目に焼き付けた。花園に立つヒトの群れ、煙の上がるアリの城、溢れ返る蝸牛の山。

時間と空間を駆け続けたネズミは、遠い白亜紀の岩の上で死んだ。

満足げな笑みを浮かべ、ネズミは逝った。















   1億年が過ぎた。拠点と資源を確保した鳥たちは過去へ過去へと歩を進める最中だった。止まることのない遠征を続ける彼らは、慣れた様子でこの時代の兵力を蹴散らし、爆轟と共に金属塊を千切り飛ばす。ホモ・サピエンスこと自称賢者の巣は火を放たれ、燻り出された霊長は頸が折れ、その子どもの臓も宙を舞った。


赤い噴水を散らしていた鳥は、ふと、火の勢いが落ちたことに気が付いた。炭と化して崩落するサルの巣に目をやると、焔の奥には青々とした無傷の茂みが広がっている。あらかじめ設けたような彼らの分布区域は、火を退けるオアシスとして網膜に写り込んだ。ほっそりとした鋭利な葉に葉脈の交叉は無く、1本1本が平行に伸びている。

或る1羽は瞬膜をしばたかせると、永らえただろうサルを潰そうと、細長い脚を草原くさはらに踏み入れた。大層不審に感じたことだろう。極めて奇妙に思ったことだろう。彼らの生まれた9200万年の彼方にも、資源を吸った4000万年の彼岸にも、焔を鎮める叢など存在しない。そしてどこか異様な突き雰囲気を感じ取ったに違いない。気配から伝わる絶対的な殺意と害意は、蹂躙者の種を幾百万年ぶりに突き刺すものだった。

あたりを見渡しても誰もいない。S字の頸椎をぐるりぐるりと回してみても、趾骨で地面を踏み鳴らしてみても、誰も飛び出す様子が無い。当惑の色は主張を強める。毛のある動物に自ら仕掛けた民族浄化が、何倍にもなって跳ね返る予感を味わっていた。それを返しうる動物はただのどこにも居ないというのに。


ぼとり、と空から何かが落ちた。細い草を搔き分けると、そこには1羽のカラスが転がっていた。死骸はあれよあれよという間に風化していき、空気を捉えた羽毛がはだけ、肉は粉になって零れていく。血潮を担った塩水は地面の中へ還っていき、骨と泥だけがそこに残った。それが9200万年前の祖先だと察することは出来ただろうか。

困惑する鳥の周囲を、既に終極が取り巻いていた。決して留まることのないそれは、秘かに鳥に纏わり付いた。

優れた聴覚を以てしても、漏出に気付けなかった。秀でた視覚を以てしても、流出を悟れなかった。動物の分解能を超過した、気孔をくぐって大気に紛れた細かく軽い粒子たちは、兆を超す鳥の細胞に目を付けた。分子仕掛けのカスケードが満を持して幕を開ける。

◇◇◇



西暦2026年。1億年の歳月を経て、地球はプログラム細胞死に覆われた。

書き換えられた時間の彼方、それは6600万年ぶりの深々とした沈黙だった。

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