地下40(4)m
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怠惰。人類はヴェールが剥がされて以降、数々の危機に直面し、乗り越えてきた。異常との付き合いは確かに人類をより強く、より高度なものにした。しかし、同時に人類は弱くなった。超常技術は世界を発展させると同時に世界の構造を根底から変えてしまった。人類が制御下に置いたと考えているものは今や、いつ突然変異して牙をむくか分からない時限爆弾と化してしまった。

傲慢。地盤制御技術で災害がコントロールできると政府は喧伝し、実際にいくつもの未曾有と言われた災害を予防してきた実績を見た人々は、自然に持つべき畏敬を最早忘れ去った。かつて神の技とされた天候や災害の制御という開いてはいけなかったはずのパンドラの箱を、パラテックという名のカギを以て人類はいとも容易く開けてしまった。

崩壊。人類の思い上がりに、神、いや地球は沈黙してくれはしなかった。2017年の冬に東京を飲み込んだ未曾有の厄災は、人類を目覚めさせた。人類が築き上げた超常技術の楼閣が崩壊し、ヴェールが剥がれて以降初めて、人類は『敗北した』。ポーランドの超常動乱を鎮圧し、マンハッタンを危機から救いあげた正常性維持機関でさえ、東京を飲み込んだ超常災害に対しては無力だった。


「このご時世、まさかこんな薄暗い地下に籠る機会があるなんて、夢にも思わなかったぜ」

終わりが始まってから、数時間が経った。地上ではビルの豪雨が降り注ぎ、粘っこい電流が地面を舐めつくしているのだろう。どちらにせよ、もう東京は原形をとどめていない。何もかもが分からない状況下でさえ、それだけは誰もが共有しうる確定事項だった。

「こんな面倒事になるなら、逃げずに素直に死んどけば良かったのかもな」
「さぁ。『命あっての物種』とも言いますし、諦めるにはまだ早すぎる時間じゃないですか?」
「そんなものかねぇ」

そんなもんですよ、と月夜野つきよの博士は答える。

「とは言え、お先は真っ暗ですが。一昔前ならこの手の災害の専門家だの防災訓練を受けた市民とやらも残っていたろうに、今じゃこの有様ですよ」
「皮肉なもんだ。封じ込めたはずの災害が、封じ込め続けた故の欠点を突いてくるなんて」
「全くです。僕たちにそんな機会はもうないかもしれませんが、今頃支部理事たちは反省会でもしてるんでしょうよ」

月夜野の隣で暢気なもんだ、と愚痴を零すのはエージェント・鴇羽ときわ。機動部隊指揮官だった彼は財団の命令で移動中に災害に巻き込まれ、配下の部隊と、そして部隊に同行していた月夜野博士ともに最寄りの地下鉄駅であった東京メトロ新橋駅に避難していた。

「助けは来ないものとしたほうがよさそうだな。上層部も連合も、あとは政府もあんな惨状の中に嬉々として乗り込むほどお人好しじゃない」
「せめて通信でも出来ればいいんですがね。物理的にも、ネットワークという意味でも僕たちは完全に上の世界と遮断されちまったってわけですか」
「そういうこった。さ、俺たちも迷える子羊たちを導く手伝いをしに行くとするか」

鴇羽の言葉を聞き、月夜野は避難民の方を見た。彼らは自らを飲み込みかけた厄災を理解できず、呆けてその場に座り込んでいるか、あるいはヒステリーを引き起こすかのどちらかになっている。無理もないことだ。『災害はもはや脅威ではありません』と散々言われていた結果がこの始末なのだから、何も信じれなくなる気持ちは分かる。

「『一般市民と財団職員を分ける壁はただ一つ、"イカれてる"光景を見るのに慣れているかそうでないか。その点を除いて、財団職員はただの人なのだ』、か。いつぞやの新人研修だかで蘊蓄述べてた爺さんは、正しかったんだな」
「言い得て妙、という奴ですか」
「あぁ。問題があるとすれば、慣れている俺たちでさえ何も分かってないことだがな」

違いない、と二人で苦笑する。危機的な状況下だというのに、その顔には恐怖や絶望の色は浮かんでいなかった。


幸いというべきか、食料や生活必需品は自治体当局が備蓄していた災害用物資から回収することが出来た。何とか秩序を取り戻した避難民には手分けして生活必需品の配給を行われ、人々は不安と恐怖に苛まれながらも一まずは生存したという安堵を胸に床に就いた。

人々が寝静まったのを見計らって、月夜野は構内のコンビニから拝借した缶コーヒーを持って鴇羽の元に向かう。

「鴇羽さん、今よろしいですか?」
「ん?あぁ、大丈夫だ」
「これ、良かったら」
「気が利くな。ありがたく頂いておく」

静まった構内に、彼らがコーヒーを啜る音だけが響く。彼らの呼気と音だけが、その場所がまだ生きていることを示していた。

「……で、用件は何だ。月夜野博士」
「あら、お気づきでしたか」
「あんたがコーヒーを差し入れるためだけにわざわざ俺のところに来るほど暇を持て余していないってのは俺でもわかる」

鴇羽が飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱にひょいっと投げ捨てる。いつもならありふれた環境音にすぎないであろうカツン、という音ですらここでは貴重な存在の証明になりうる。

「ま、その通りです。さっきまで鴇羽さんの部隊からもらった備蓄品の概要やら東京地下鉄の地図やらとにらめっこして色々考えていましてね」
「地下鉄の地図か。なんでまたそんなものを」
「どうせこんなところで備蓄物資を食いつぶすくらいなら、少しでも積極的に動けないかと思いまして。東京の地下鉄というのは世界最大規模と言えるほど広い。八重洲地下街を始めとした地下街もありますし、恐らくはいくつか地下鉄線路に繋がる通路が存在する財団のサイトもあります」
「上がダメなら下に行く……そりゃまた随分勝負に出る選択肢だな。一体いくらのリスクがあるか分かったもんじゃない」

鴇羽が肩をすくめる。

「垂れるはずもないアリアドネの糸を待ちながら餓死するよりかは、素敵な死に方ができると思いますよ?」
「キッツい冗談だな……ともかく地下に降りる、か。そこで上に行ける手がかりや打開策が見つかればいいが、もし見つからなかったらどうするつもりだ」
「その時はその時、としか言いようがないですね。僕たちのように地下に潜った人間は多いでしょうし、それなりに財団やGOCの人間もいるでしょう。そういった人間といかに早く合流できるかにかかってます」
「ふむ……いいだろう、その案に乗ろうじゃないか。明日の朝、俺の部隊を集める。それまでにあんたは細部を詰めてくれ」
「了解しました。では、失礼します」


翌朝、新橋駅地下二階プラットフォーム。月夜野は十数名の財団職員の前に立っていた。彼らは鴇羽が率いる機動部隊である即応部隊な-16("銀の弾丸")の隊員。財団日本支部に直属する機動即応部隊にして、その裏の顔は処分された機動部隊員が送り込まれる事実上の『懲罰部隊』であるという曰くつきの部隊だ。

「えー、まずは機動部隊員諸君、今回は僕の無茶な提案に応じてくれたことをとても感謝している。君たちが財団へ少なからずよからぬ思いを抱いていることは重々承知している。それでも僕は君たちに依頼したい。人々の不安を振り払い、希望の糸を掴ませてやる救世主であって欲しい」

「僕たち財団の理念の一節に、このような文言がある。『人類が健全で正常な世界で生きていけるように、他の人類が光の中で暮らす間、我々は暗闇の中に立ち、それと戦い、封じ込め、人々の目から遠ざけなければならない』……ヴェールが剥がれた今でなお、僕たち財団は一般市民を異常から守り、先頭に立って暗闇を進む義務がある。財団という組織が消え、財団職員である僕たちだけが残ったこの状況でも、それは不変の事実なんだ」

「僕の案ははっきり言って成功するか分からない賭けのようなものだ。リスクがどれほどのものか分からないし、何より前例が一切ない。そんな死地に君たちを送り込むようなマネになってしまったが、僕は君たちならそんな過酷な任務も必ず達成してくれると信じている」

長ったらしい演説は、あまり月夜野の好むところではない。最後に、月夜野は不敵な笑みを湛えながら、こう言った。

「さぁ、闇を照らしに行きましょう。知恵という名の火を熾し、僅かな光を頼りに闇の出口を探し当てに行こうじゃないですか」

隊員は、静かに敬礼をして月夜野の言葉に応える。月夜野は彼らの反応に頷くと、彼らの前に立ちはだかる闇へ向かって、歩き始めた。


放棄。破壊と創造が無秩序に繰り返される東京はもはや都市としての存在を否定され、生者なき死の地だという認識が広く一般的となっていた。

抵抗。しかし—東京は完全に死んではいなかった。誰からも存在を否定された場所でもなお、人類は白旗を上げることを良しとはしなかった。これは、崩壊した東京で歩み続けた人類の英雄譚。あるいは、『地下東京』と呼ばれた場所で生き続けた人々の物語である。

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