孤独じゃない
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今思うと、少し前からちょっとした違和感は感じていた。

例えば、いつもイライラしていた上司が、急に穏やかになったり。

表情が暗かった同僚が、よく笑うようになったり。

サイト-81██に務める雨霧霧香は他人に対してあまり興味が湧かないため、周りのこの程度の変化は気にも留めていなかった。が、ついさっき終えた拷問は、流石に驚いた。

どれだけ痛めつけても、対象が全く苦しまないのだ。

むしろニコニコ笑っていて、その目は幸せそうでもあった。

有益な情報が得られないと思い、何より気味が悪かったので、早めに切り上げ今は後始末をしているところである。

パソコンに向かって報告書をまとめながら、先ほどの対象や、ここ最近の変容を思い出す。
不安になって周りをチラチラ見てみるが、そこにはいつもと特段変わらない、財団の日常があるだけだった。



ぼんやりとしていた違和感は確信に変わっていった。

ある日、雨霧宛に一通の報告書が送られて来た。そこには、人類が無条件に幸せを感じるようになっていっていることが記されていた。

昔から、精神汚染に対しての耐性を持っているからなのだろうか。貼り付けの笑顔を浮かべている職員とは違って、雨霧は今もこうして目の前のパソコンの画面と睨めっこすることができている。

報告書が届いてからは、職員がちゃんと不幸を感じることができているかを確認するために、幸せの影響を受けないAIによるチェック──もとい、ストレス軽減のためのカウンセリングが義務化されていた。

雨霧は人の心を読み取ろうとして寄り添ってくる、カウンセリングという行為が大嫌いだ。他人に人の心情なんて、わかるはずがない。それが機械相手なのならば、尚更だ。

……まあ、義務化されて「いた」のだけれど。

まもなくカウンセリングAIは姿を見せなくなった。
気が付くと、雨霧はひとりぼっちになっていた。

どれだけきつい目を向けても、
どれだけ痛い目を見させても、

ずっと楽しそうにされる拷問官の気持ちを理解できる人間もAIも、いつの間にかいなくなっていた。

拷問の最中だけではない。

騒がしかった同僚も、
あまり好きではなかった上司も、

みんな仮面を付けていた。

雨霧が食堂にいる時にちょっかいをかけてくる同僚は、どれだけ強く手を握り潰されても、顔色一つ変えなくなった。

鬱陶しく話しかけてくる知り合いに思いっきり怖い顔をしても、ずっと笑顔だった。

ここ最近の周りの変わりようには、少し気が滅入っている。

このまま皆、全てを楽しいと思うようになってしまったら?

このまま皆、拷問をされることにに幸せを感じるようになってしまったら?

それでも、自分があちら側の世界に行くという実感はそんなになかった。雨霧が感じている恐怖は、どちらかというと拷問という職務の有用性がなくなり仕事が減ってしまうのではないかという不安や、雨霧へうざったらしく絡んでくる人間が増えてしまうことへの嫌悪感からだ。
まあでも、みんな狂ってしまったから、このまま財団には居られるのだろう。


そんなことを考えていたら、もう時計の針が何周もしていたことに気が付いた。

今日はなんだか疲れたな──雨霧は仕事を終わらせた後、食堂へパフェを食べに行くことを決意した。



雨霧には恋人がいる。
ジョシュア・アイランズ──雨霧の勤めているサイトとは少し離れた別のサイトで、外交や調停の仕事をしている財団職員だ。自分とは比べられないほどの多忙な人物だが、彼も雨霧と同じ甘党で、仕事の合間を縫ってサイトの食堂で一緒に食事をしたりする。

雨霧は、表情にも声にもあまり出さないが、彼のことを心から好きでいる。きっかけがどうだったかは覚えていない。何度も食事を共にしていく内に、彼のことが頭から離れなくなっていた。


しかし、世界の突然の変貌に疲れていたせいで、最近はあまり連絡が取れていなかった。
ちょっとメッセージの1件くらい送ってもいいかもしれない、と考える。

ふと、この前同僚から押し付けられた、近所のカフェで使えるらしい「ジャンボ苺パフェ無料!」と書かれた2組のチケットに目が行った。雨霧は重度の潔癖症で、外で食事をすることは基本的にはありえない。でも、たまには彼を誘って2人で食べに行くのもいいな。そう思って携帯機器を取り出し、文面を打つ。

『お久しぶりです。お疲れかもしれませんが、パフェのチケットが余っているので、時間が空いている時にでも一緒にカフェに行きませんか。』

メッセージの送信ボタンを押した。思えば、誰かと連絡を取ること自体も久しぶりだったかもしれない。
この世界には、まともな人間は、あとどのくらいいるのだろうか。

──考えても無駄だ。
今は、ただこの愛しい人からの返信を待っていればいいのだ。

そうすればきっと、この退屈な世界も、ちょっぴり楽しくなる気がする。

携帯の画面を消した。
数日後訪れるであろう楽しみに、心を躍らせる。

周りには絶対に、悟られないように。

そんな雨霧の様子に気付く人間なんてもう周りにはいないのに。
そんなことも忘れるくらい、雨霧はアイランズのことが好きだった。



形式的な仕事を終えて携帯機器を開くと、一件の新着メッセージが来ていた。
タップして、内容を確認してみる。
アイランズからだった。

『お久しぶりです、雨霧さん。申し訳ないのですが、まだまだ仕事が落ち着きそうにないのです。カフェに行くのは、暫く先でも大丈夫ですか。』

心が締め付けられるような気持ちになった。
わかってはいた。アイランズは急な仕事が入ることが多く、時間が空くことも珍しい、ということを。

ただ、心配でもある。

そもそもこんなにアイランズからの連絡が途絶えることなんて、今までにはなかったのだ。──まあ、雨霧自身は疲れて頭から抜けていたのだが──彼は、どんなに忙しくても、1週間に1回は必ず連絡をくれた。そして、雨霧のために無理してでも時間を作ってくれて、顔を見せに来てくれた。

そんなアイランズが雨霧に長い間連絡を寄越さず、その上暫く会えないとは、一体何があったのだろうか。

そこまで考えて、雨霧は自分の頭にコンとげんこつをした。
世界の変貌に疲れているのは、自分だけではないことに気付いたのだ。

雨霧の職務は主に尋問や拷問、インタビューである。世界が狂った今はただ機械的に仕事をこなせばいい。
何も吐きやしない笑顔の人形に質問をして、必要に応じて痛めつけるだけの仕事だ。

けれども、アイランズはどうだろうか。
外交任務を担う彼は、情報を“吐かせる”ためにひっぱたいていれば済む雨霧と違って、表情を変えない相手を前に情報を“引き出す”ことを目指さなければならない。

それは、この世界においては、雨霧の何倍も骨の折れる仕事なのではないだろうか。

携帯機器を開いて、メッセージを打つ。

『忙しいところすみませんでした。もちろん落ち着いてからで大丈夫ですよ。仕事は無理しない程度に頑張ってください。』

送信完了の文字が画面に表示されたことを確認して、鞄にぽいと放り込んだ。
代わりに財布を取り出して、チケットの有効期限を確認してみる。

後4日。

二人で食べには行けないな。
諦めて、一人で食べに行こうか。

脳内から彼とパフェの想像を追い出して、手際よく道具を準備する。
尋問房へと向かう足を早めながら、自分ももっと頑張らないと、と思った。



報告書を提出し、鞄を持って外に出た雨霧は、外の空気を大きく吸い込んだ。財団のサイト外に出るのは久しぶりだ。街路樹の影を歩きながら、眩しい太陽の光に目を伏せる。
前を見ると、満たされた顔をした母親と、楽しそうな顔をした小学校低学年ほどの子供が表情を変えることなく笑い合っていた。

風が吹く。

真っ白な髪がさらさらとなびき、太陽の光を反射させてきらきらと輝く。

雨霧の長い白髪は、いつもならちらちらと横目に見られるが、今日は視線を集めなかった。きっと、みんな幸せだから、白い髪に対して特段思うことがなくなったのだろうなと思う。

財団のサイト内でも、雨霧のことを好奇の目で見る者は、日に日に減っていっていると感じる。それを特に異常だとかは思わなく、むしろ注目を浴びることが減って、その点に関しては楽だ。

でも、それはちょっとだけ、寂しくもある。

一人で食堂に居たら陰からこっそり覗いてくるやつも、鬱陶しく絡んでくるやつも、心を許せた親友も、今はもういない。

憂鬱だが賑やかでもあったその日常も、もう過去のことになってしまった。

ほんの少しだけ、その日常が恋しい。……なんて言ったら、過去の自分に笑われるだろうか。
失ってから大切さに気付くなんて、この世はどうしてこんなにも理不尽なのだろう。

……理不尽なのは、この財団においては今も昔も変わらないか。

青信号になった横断歩道を子どもが走り渡る様子を見ながら、そんなことを考える。

その時だった。

どん、と鈍い音がした。

何かが前を通り過ぎていった。

気付くと、一人の人間が横たわっていた。

腕はあり得ない方向に曲がり、ワンピースに血を滲ませている子どもの顔は、酷く楽しそうだった。

こちらへ歩いてきた、子を轢いた車の運転手は、にこにこしていた。

一番近くでこの惨劇を見ていた母親は、笑顔だった。


みんなみんな、幸せそうだった。

雨霧は走り出した。

今まで雨霧は、自分は絶対にああはならないという無意識の安心感から、どこか他人事であった。

けれども思う。
やっぱり可笑しいよ、こんな世界。

もし、自分がこの子と同じように車に轢かれてしまったら?
もし、自分が突然GoIに襲われてしまったら?
もし、自分が収容違反に巻き込まれて、ぐちゃぐちゃになってしまったら?

もし、自分が死んでしまったら?

みんな笑って、そのまま自分は消えてなくなるのかな。

そんなの可笑しい。
きっと一人くらいは、私の死を悔やんで、悲しんでくれるよね。

確証が欲しかった。
私のことを思ってくれる、あの彼が、幸せに屈していないことを確かめたかった。
自分が孤独ではないと、信じたかった。

雨霧は来た道の反対へと、白髪をたなびかせて駆けて行った。



息を切らしながら、サイト-81██の収容施設の入り口に待機する機動部隊にIDカードを提示して、通路を走り抜ける。
たったった、と雨霧の靴音だけが、静かで清潔な廊下に木霊していた。

やがて通路の突き当たりまでたどり着いた雨霧は、エレベーターに乗り込み、行き先を指定した。

早く確かめなければならない。そんな焦燥感に駆られていた。

「雨霧さんは、甘いものが好きなんですね」

そう言って、目の前で微笑む男性の顔を思い出す。

「……意外、でしょうか」
「いえ、そんなことないと思いますよ。私も甘党なものでね。甘いものを食べると、心がふわふわするというか……なんとなく、落ち着く気がするんです」

不思議な人だった。

「そんなに隠す必要なんて、ないように思いますが」
「……甘いものが好き、だなんて、周りに知られたら舐められませんか。スイーツとかって、若い学生が好き好んで食べる……そんなイメージがあります。もし、私がそんなもの好きだなんて知られたら、尋問官としての威厳も雰囲気もなくなってしまう……そんな気がします」
「そうですかね。現にこうして私みたいな人間も好き好んで食べていますし、私の知り合いのエージェントにも、甘いものが大好きなやつがいますし」

彼はそう言って、続けた。

「でも、雰囲気って大事ですよね。その気持ちもわかります。私は仕事ばっかりしていて狂ってる、なんて言われることがありますけど、もしこれが仕事をサボってばかりな人だという印象だったら……」


いつの間にか、彼の話に引き込まれていた。

エレベーターのチャイムの音で現実に引き戻された。
少々ボーっとしていたようだ。

扉が開く。

そこは地下鉄のホームのような場所だった。

財団の施設と施設を繋ぐ、ミクロライン。雨霧は職業柄あまり使用したことが無かったが、財団職員なら誰でも使える移動手段だ。

見ると、シャープで近未来的なデザインの車体が、丁度ホームに入ってきたようだった。列車から、数十人の白衣を来た職員が降りている。雨霧は行き先を確認して、急いで乗り込んだ。

「2番ホームから、業務用路線サイト-81██直通ミクロラインが発車します。閉まりますドアにご注意ください」

アナウンスが鳴って扉が閉まり、車体が動く。

呼吸を整えながら、周りを見渡してみる。

雨霧は、普通の電車に乗った経験でさえほぼ無いに等しい。

雨霧には不特定多数の人が座るこの椅子がどうも清潔ではないように感じて、仕方なく入口近くの手すりを、真っ白な手袋越しに掴んだ。

席に座る研究員も、吊り革に掴まるエージェントも、扉の横を陣取っている博士も、みんな……笑顔であった。

気味が悪い。雨霧は、真っ暗な外を見つめた。
窓に自分の姿が映る。
光が宿っていない目をしていた。

「遅れてすみません」
「こんにちは、アイランズさん。……別に特段待ったわけでもないので、気にしないでください」

ここは、サイト-81██の食堂。端の方の席に座っていた雨霧は、こちらへ向かって走ってきた色素の薄いくせ毛の彼に、軽く会釈をした。

「今日は、何を頼みますか」
「……私はこの、チョコとバナナのクレープにしようかな、と。ここの食堂のクレープって美味しいらしいんですけど、まだ食べたことがなかったので……。アイランズさんは、何にしますか」
「私は、ええと……では、このホットケーキにします。お昼をあまり食べれていないので、お腹が空いているんですよね」

あはは、と言って頭を掻くアイランズに雨霧は、大変ですね、なんて声をかけてみる。

人と話すのは慣れないが、それでもこの男性の前では大分自然と話せるようになってきた。
雨霧は軽く男性不信の気があったが、それも日に日に克服できていっていると感じる。

「そういえばですね、この前街中を歩いていたのですけど、偶然未収容のSCiPの回収現場に巻き込まれまして」

彼の話す内容は、ほとんどの時間を財団の施設内で過ごす雨霧にとって、非日常的なものが多い。
それらは全てが興味深かった。

「既に財団エージェントが収容に臨んでいたところだったのですが、これまた偶然にも、GOCの排撃班が付近に常駐していたみたいで。いやあ、あの時は大変でした」
「怪我はなかったのですか……?」
「ええ、大丈夫ですよ。こういったインシデントに巻き込まれることはしょっちゅうあるので、慣れていますから」

クレープにかぶりつきながら、彼と話す時間は幸せだった。

気が付くと、お皿の上はチョコとクリームが僅かに残っているだけになっていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

「おや、もうこんな時間ですね。残念ながらこの後も仕事があるもので……」

アイランズが腕時計を確認しながら、この至福の時間の終わりを告げる。

「……わかりました。今日もとても楽しかったです。また一緒に、お話させてください」
「勿論ですよ。私も、とても楽しかったです。──それでは、さようなら」

さようなら、と小さな声で呟いた。

「まもなく、サイト-81██に到着します」

アナウンスの声で目が覚めた。
どうやら、眠ってしまっていたらしい。

手すりを掴み続けていた右手は、心なしか疲れている気がする。

姿勢を整えて、車体が止まるのを待つ。
少し乱暴にブレーキがかけられて、よろけそうになった。
白い髪が、ふわっと揺れた。

そうだ、会いに行かなければならないのだ。

寝起きの頭を叩き、真っすぐ前を向く。
扉が開いた。
走り出す。

彼のオフィスは、すぐそこだ。



「雨霧霧香──サイト81██に所属する尋問官です。ここに勤めている、ジョシュア・アイランズという方に用があるのですが」

息を切らしながらIDカードをかざし、オフィスへの進入許可を得ようとする。

「お嬢さん、渉外の関係者じゃないとこのオフィスには入れないんだよ。……ジョシュア・アイランズだな?ここに連れてくることはできるが、どうする?」
「じゃあ、それで、お願いします」

心臓が高鳴っている。それは、ずっと走り続けたせいでもあるのだが、もうすぐ求めている人に会えるという高揚、興奮からでもあるのだろう。

まもなく、先ほどの機動部隊員が戻ってきたが、告げられた内容はにわかには信じがたいものだった。

「……ジョシュア・アイランズは、手が空かないから席を離れることができないらしい。」
「そんな……どうして!!」

おかしい。いくら彼でもそこまで忙しいことなんて、有り得るのだろうか。

「お願いします……!どうか、彼に会わせてください!」

自分でも、こんな大きな声が出せたことに驚いている。
ただ、必死だった。

「お願いします……!!」

目の前の隊員は、きょとんとしていた。……そうだった。目に涙を浮かべて辛そうな顔をしながら何かを訴える人は、彼らにとっては、珍しいのだったな。

駄目なのか。

液体が頬をつたる。
泣いたのなんて、いつぶりだろう。
思えば、もう何年も涙を流していなかったのかもしれない。

諦めるしか、ないのだろうか。

彼にはもう、会えないのだろうか。

視界が涙で滲む。

私はやっぱり、孤独なのだろうか。

その時だった。

「雨霧さん」

聴きたかった声がした。

「アイランズ、さん」
「ごめんなさい。……暫く、会えなくて」

彼の蒼い瞳は、真っ直ぐとこちらを見据えていた。

申し訳なさそうな、悲哀が漂う顔をする彼を見て、雨霧は酷く安心した。

雨霧はこの世界で初めて、他人に心からの笑顔を見せることができた。

心底幸せだった。

ずっと一緒にいたかった。

孤独から解放された気がした。

彼女の優しくて控えめな笑顔が崩れることは、二度となかった。





アイランズは、以前は一人ではなかった。
同じオフィスの何人かの同僚は、泣いたり怒ったりすることができていた。

だからアイランズは、周りの大多数が笑うことしかできなくても、仲間と語らいながら、仕事をすることができた。

始めのうちは、財団外で通常の情緒を持った人間がいないか探してみたりもした。
けれども、たった数人の職員にできることなど限られていた。

幸せそうな上司は今までよりたくさんの仕事を吹っかけてきて、それをこなして、少ない仲間と共に過ごす。そんな生活を、アイランズは受け入れることにした。

幸せしか感じられなくなるだなんて、御免だった。

事件は突然起こった。

普通の人間だったはずの同僚が、突然可笑しくなったのだ。

生き別れていた家族に会えただとか、幸せだとか言って、アイランズの愚痴に耳を傾けることはなくなった。

一人、また一人と笑顔は増えていった。
兄弟が感謝の言葉を投げかけてくれた、クソッタレなこの境遇を理解し励ましてくれる親友に会えた、恋に落ちて人生が楽しくなった……

トリガーはなんとなくわかった。
心から「幸せ」を感じてはいけない、のだ。

兄弟や、親友や、恋人と過ごす日々が、全てだと思ってはいけない。

この不幸に慣れてしまったら最後、絶対に幸せになってはいけない。
一度幸せを感じてしまったら、もう二度とこちら側には戻れなくなる。

アイランズはそれを理解した。
だから、自分の恋人から連絡が来た時は、頭を悩ませた。
一緒にパフェでも食べた暁には、深い幸せを感じてしまうと思ったからだ。

それに、今までしてこなかった「連絡を取る」という行動を自発的にやってのけた雨霧は、まだ幸せに堕ちていなかったのだと思う。
アイランズが会いに行ってしまったらどうなるかは、容易に想像ができる。

だからといって、「幸せになったらだめなんだ」と教えるのも酷な気がした。
普通、そんなことを言われて、はいそうですかとは受け入れられないだろう。
もう二度会えないのか、と、余計彼女を傷つけてしまうかもしれない。

それでアイランズは、雨霧と会うことよりも、孤独を選択した。
きっと、彼女も一人なのだ。
だからこそ、不幸を噛みしめていてほしかった。
自分の大切な人が堕ちないでいてほしいと、そう願っていた。

にもかかわらず、雨霧はオフィスまで来てしまった。
最初は機動部隊員に忙しいと告げて、帰ってもらおうと思った。
でも、雨霧は諦めなかった。

あんなに自分のためを思って、大きな声を出してくれる恋人を、突き放すことができるだろうか?
アイランズは迷った。
きっと、アイランズの姿を見た雨霧は幸せになってしまう。

彼女にはまともでいてほしかった。

もう誰も、いなくならないでほしかった。

それなのに。

「──雨霧さん」

声を掛けて、しまった。





雨霧霧香は今日も仕事をこなしていた。
人形から情報を吐かせる仕事を。

ジョシュア・アイランズは今日も仕事をこなしていた。
人形から情報を引き出す仕事を。

パソコンを起動しようとして、黒い画面の向こう側の自分と目が合う。
光が宿った目であった。

パソコンを起動しようとして、黒い画面の向こう側の自分と目が合う。
光の無い目であった。

アイランズは、幸せになれなかった。
雨霧はただ、一人で幸せになってしまった。

あの時話しかけた時点で、覚悟はできていたはずだった。
それでもいざ、彼女が笑うことしかできなくなったのだと理解すると、自分の行動を酷く後悔した。

そんな自分が、幸せになんてなれるはずがなかった。

結局、何が正しかったのかはわからない。

だけども、一つだけわかることがある。

アイランズは、もう孤独ではなかった。

「ジョシュア・アイランズ、あなたに用があるという女性が」
「わかったよ、今行く」

デスクから立ち上がる。
スーツのジャケットを羽織って、ネクタイを整えた。

アイランズは今日もまた、彼女の名前を呼んだ。

「雨霧さん」

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