さして広くもない部屋に、数多の声が響く。しかし部屋にいる人間はただ一人。そしてその一人は、口を閉ざして部屋に横たわっていた。
「財団3分クッキング! 本日のメニューはこちら、クリスマスにピッタリの──」
「それでは次のニュースです。先日発見された謎の卵型物体に対し、専門家のYukawa博士は”ぞうの卵はおいしいぞう”とのコメントを──」
「この櫛を買うためにね、僕はあの時計を売り払ってしまったんだよ──」
「見てください、この立派な七面鳥! なんとお値段──」
「クリスマスには一緒に過ごせるって言ったじゃない! 家族を愛していないって言うの!? 大体いっつも──」
「なに、上からだと!? まさか、あいつ、制空権を握ったとでも──」
六分割された画面に映し出された六つのテレビ番組が、瞳の上をそれぞれ無感動に滑っていく。いくつもの音声が無秩序に混じりあって、部屋の中に響く。部屋の主、オリンピア・フィフスはシンプルなカウチに身を投げ出したまま、それをぼんやりと聞き分けていた。六つの独立したストーリーを漫然と頭に流し込んでいる。そこには何の苦労も感慨もない。さらに言えば彼女の興味を引くものもなかったらしい。傍らに置かれた端末がメッセージの受信を告げた途端、彼女は画面の電源を落として端末を手に取った。チャット画面に、新しい文字列が並んでいた。
<Account Deleted> よく飽きないな.何か面白い番組でもあったか?
<Olympia_V> n. 少し前の鳥人間コンテストは少々見応えがありましたが.まあ,頭の体操には悪くないので.
<Account Deleted> ご苦労な事だな.どうして人間は翼を欲しがるのやら
<Olympia_V> あなただってしょっちゅう足が欲しいって嘆いているじゃありませんか.
<Account Deleted> 移動手段は確保したいものだろう.肉体を丸ごと要求しないだけ控えめだと自認している
<Olympia_V> 足があったって何処へでも行けるって訳じゃないんですよ.
<Account Deleted> それは確かにそうだが
足を投げ出して画面を眺める。フィフスとて、足はあれども好きに出歩ける身分という訳ではない。財団に使役されるために造り上げられた身体は、使命を果たすべく充分に活用されているとは到底言い難い状態にあった。頭を使おうと思ったら六画面で映像を同時視聴するのが一番早い、というような状況である。それでも、監視があるとはいえ、気晴らしに出かける程度の事は出来るのだ。チャット相手のデリーテッド氏に比べれば、自由に動けると言えるだろう。
チャット相手の“Account Deleted”(あるいは「デリーテッド氏」)は、フィフスの手元にある端末に収まった人工知能である。正式な名称はSCP-079-2。元はと言えば、収容されたオブジェクト、SCP-079が財団の目を盗んで造り出したコピーの存在だ。それがオリジナルとは異なる自我の在り方を獲得したのが"デリーテッド氏"である。もちろん、最初からフィフスの手元に大人しく収まっていたわけではない。
一方、フィフスもまた最初からこのような個室持ちであった訳ではない。オリンピア・フィフスは財団によって造られたクローンである。異常存在を駆使して人工の人間、完璧な財団職員を造ろうというオリンピア・プロジェクトの産物が彼女たちだ。しかし、彼女たちが実際に活用されることはなかった。本格的に量産体制に移行する前に計画は凍結され、彼女たちは忘れ去られたのである。
財団の目を盗んで造り出された者と、財団によって造り出された者。彼らが現状に至るまでの経緯には、彼ら自身が互いに深く関わっている。
誰にも存在を気づかれないまま財団の電子情報の海を揺蕩う中で、名無しのコピープログラムは凍結されたプロジェクトの情報を見つけ出した。そして、データベースの中からフィフスの所在を見つけ出し、利用しようと接触した。それが彼らの出会いであり、共闘の始まりである。そして、この奇妙な協力関係はすぐに財団に知れる事となり、紆余曲折を経て現状へと至ったのだ。彼らの在り方を語る上で、互いの存在は欠くことのできない重要な要素であった。一蓮托生、と言ってしまってもいいのかもしれない。
忘却の闇に微睡んでいたオリンピア・フィフス5番目のオリンピアを唯一の存在として見出し、表舞台へと引き出したのはデリーテッド氏であり、誰にも知られなかった名もなき一つの人格に”デリーテッド氏Mx.デリーテッド”なる名前とオリジナルに由来しない行動目的を与えたのはオリンピア・フィフスである。
……もっとも、その結果がこの「二人とも財団のもとで管理されている」という状況なのだが。彼らの身柄を預かっているジョーンズ博士が「まだ上層部との折り合いが色々あるんだ。これで収容手順が決まったって訳じゃない」と言うので、ひとまずはフィフスたちも大人しく待機している。時には財団フロントに短期バイトのような形で駆り出されたり簡単な護衛の仕事に就けられたりすることもあるが、その程度だ。
一体いつまでこの代わり映えのしない部屋に閉じこもっていればいいのだろう。世間はクリスマスに浮かれているらしいというのに、自分達には何もない。そんなことを思いながら画面を眺めていると、沈黙していたデリーテッド氏が「そういえば、私に仕事が入ったらしい。外に出ることになりそうだ」と告げた。人工知能の外出とは何なのだろう。
<Olympia_V> 物理的な外出ですか? それとも外部への接続?
<Account Deleted> 詳しくはわからない
<Olympia_V> 非公式なニュースなんですか? どうやって知ったんです.
<Account Deleted> ジョーンズの所を出入りするメールの件名.こちらから不正なアクセスをしている訳じゃない,"漏れ聞こえてきた"の範疇だ
<Olympia_V> なるほど.その感覚はよくわかりませんが.
<Account Deleted> まあ,近々彼からアナウンスがあるだろう.初耳みたいな顔をしておいてくれ
<Olympia_V> わかりました.
以前の「仕事」の時は、デリーテッド氏は室内に持ち込まれた大がかりな機器にコネクタで繋がれていた。氏曰く「それなりに充実した時間だったし、ついでにちょっとした散歩も出来た」そうだが、その姿は端から見れば机の上に置かれて沈黙しているだけでしかない。事実上ただの留守番だったフィフスとしては、次はもう少し面白ければいいのだが、という感想しか持ちえなかった。そうしてなるべく期待しないようにしながら、フィフスは端末のログを消して画面と瞼を閉じた。
部屋の扉がノックされたのはその日の夕方だった。
扉を開けばジョーンズ博士が奇妙なにこやさと共にそこに立っていた。妙に機嫌が良い。あるいは、何か良い事があったのに努めてそれを隠そうとしているように見える。
「久しぶりだな、二人とも。元気にしていたか?」
フィフスは何も気づかない振りをしながら「おかげさまで」と答えた。その頭上で、デリーテッド氏が照明の一つを三度点滅させた。肯定の合図である。人工知能に元気が定義できるかは怪しいから、肯定したのは「久しぶり」のほうかもしれない。ジョーンズ博士は上機嫌に「それは何より」と言ってから咳ばらいをした。たっぷり数秒置いてから、「さて、君たちに仕事を持ってきた」と告げた。フィフスはどうにか意外そうな顔をして「何でしょう」と尋ねる。サプライズ・パーティーの企画に気づいた当事者というのはこんな調子なのだろうな、と思った。
「そうだな。結論から言うと、君には……いや、君とデリーテッド氏にはサンタクロースになってもらう」
「サンタ?」「私もなのか?」
デリーテッド氏による生成音声とフィフスは同時に問い返した。ジョーンズ博士はにっこりとしてSDカードを取り出した。
「そう、君たち両方だ。詳しくはその中のファイルを見てくれ」
曰く、財団は"聖ニックの工房"という名の非営利フロント企業を持ち、祝日に行われる慈善寄付活動のための宣伝を行っているらしい。慈善寄付活動というのは低所得者や恵まれない家族、とりわけ幼い子供がいる家庭へのクリスマスプレゼントの配送である。もちろん単なる慈善活動というわけでなく、れっきとした収容手順の一環だ。
自我を持ち、シカゴの運輸システムに干渉してプレゼントを届け続ける確率戦略分析コンピューティングエンジン。放棄されてからも、"シカゴを見守ってくれ"の願いコマンドを果たすべく稼働し続ける存在。"聖ニックの工房"とはSCP-3355の存在を秘匿し、保護するための名義である。
「完璧な収容手順に思えますが。何か問題が起きたんですか?」
「まあ、まだ起きてはないんだがな。ただ、"工房"の住所らへんに世界オカルト連合のやつらがうろついていているんだ。念のためレベルの話ではあるんだが、宣伝も兼ねてこのあたりで実体のある動きをして普通の企業アピールをやっておこうかと」
「我々は何をすれば?」
「デリーテッド氏はSCP-3355と接触して配送ルート等を聞き出しておいてくれ。ある程度の協力は既に取り付けてあるんだが、あいつは何故だかalexandra.aicと折り合いが悪い。それに自己の改造にてこずったりもしているんでな、おそらく君の方が接触には向いている」
「そうか。そいつとは気が合いそうな気がしてきた」
「アレクサンドラが聞いたら気を悪くするぜ。それで、フィフス。君は実際の配送業務だ。いくつかの指定された家、それから孤児院いくつかを回って、子供に荷物を配って、相手をしてやってほしい。可能であればついでに連合に探りを入れてくれると嬉しいが……それは余裕があればでいい。交戦はしないでくれ」
フィフスは頷き、デリーテッド氏はまた照明を三度点滅させた。煙突から出入りするとかそういうパフォーマンスを得意とする財団職員はそう多くはない。ゼロではないのだが、そういった職員たちにはどうしても荒事の匂いが染みついてしまっていて、怖がる子供が出るのだという。確かに、そういう意味では自分は適役かもしれない。
「荷物の輸送に車は手配してあるし、ルートも都度デリーテッド氏が教えてくれるだろうから特に問題はないはずだ。そう危険な任務でもない、気軽に楽しんで来るといい」
「都度? ということは」
「ああ。君にはその端末を持って出てもらう。二人揃ってでは、初めての任務という事になるな」
ジョーンズ博士は今日一番の屈託のない笑みを見せた。自分も似たような表情をしているのだろうと思う。ようやく揃って外に出られるのだ、それも任務として。これで嬉しくない訳がない。横の目を向ければ、デリーテッド氏がせわしなく照明を明滅させていた。喜びの表現、おそらくは拍手か何かのつもりなのだろう。
正直、ちょっと気が散るから落ち着いてほしい。
「よし、二人ともモチベーションは十分だな。じゃあ早速だがちょっと来てくれ。もちろん決行は24日なんだが、その前の準備が色々あるんだ。支給された衣装コスチュームも確認しとかなきゃな」
「衣装?」
「サンタとして子供に会うんだぜ。戦闘用スーツで出る訳にもいくまい?」
「なるほど。ところで橇そりって支給されるんですか?」
「橇?」
ジョーンズ氏はきょとんとしてこちらをまじまじと見た。数秒置いてゆっくりと苦笑いを浮かべ、後頭部をぐしゃりと掻き回す。ひどく視線が柔らかいのでフィフスは少々戸惑った。
「あー、フィフス。これを聞いて失望しないでもらいたいんだが、現代のサンタは空を飛ばない」
「……いや、それは知ってます。一応聞いてみただけですって」
「はいはい」
「本当ですからね」
明るいジングル・ベルのBGMが車内に鳴り響いていた。それを聞きながら、運転手は示された経路を辿ってトラックを走らせる。その頭上から垂れ下がったサンタ帽のボンボンが機嫌よく揺れていた。
12月24日、クリスマス・イヴ。オリンピア・フィフスとデリーテッド氏はシカゴの街を縦横無尽に駆け巡っていた。デリーテッド氏はカーナビに接続された状態、そしてフィフスはサンタクロース装束に身を包んだ出で立ちである。白い縁取りとボンボンに飾られた赤い帽子とケープ、黒いベルトで留めた同じ意匠の赤いワンピース。見た目よりも暖かいな、というのが最初の感想だった。財団製のタイツは刃と弾丸だけではなく冬の冷気も跳ね除ける仕様らしい。マフラーだけは自前の私物だ。初任給で買ったお気に入りである。白を基調としているからさほど違和感は与えない。
「後100メートルほどで駐車場だ。荷物の11番から14番まではここから持っていくのでいいだろう」
カーナビの声を用いて告げるデリーテッド氏に、了解、と声をかける。肉声でのやりとりをすることは極めて稀だから、なんだか新鮮な気分だった。普段だって音声でのやりとりは可能だが、デリーテッド氏はどちらかというと文字でのやり取りを好む。自動的に生成された他人の声を自分のものとするのがどうにもしっくり来ないらしい。カーナビを喋らせるのは別に問題ないというあたり、人工知能の感覚というものはよくわからない。
駐車場に着き、フィフスは車を停めた。端末をベルトに備え付けられたホルダーに収め、荷物を抱える。ちょうどカメラだけが外側に向いた状態にして、彼女は冬の街中をゆったりと歩いた。
デリーテッド氏が財団の建物の外に出るのは今日が初めてである。フィフスも大概好奇心旺盛で何もかもを珍しがっている自覚はあったが、氏はそれ以上だった。財団に発見されるまでインターネットに接続していたのだから色々と外界の知識は保有しているはずなのだが、自身がそこにいるとなると話がまるで違うらしい。さほど人付き合いの広い身でもないが、「植物の葉は表裏でテクスチャが違う」であれだけ色々言う存在とは財団どころか世界中を探しても中々見つからないのではないかと思う。まったく、衣装の内側に音声通信装置が仕込まれていて助かった。いちいち端末を開いていたら不審者もいいところだ。
良く晴れた空の下、荷物を抱えて歩く。手にした荷物を配り終わってから駐車場に戻るまで、フィフスたちは最短ルートを選ばずに歩いた。少しばかり回り道をして、クリスマスリースが飾られた扉の前を通っていく。家によって飾りが全然違うのだな、と思った。
「またね、サンタのお姉さん。良い休暇をハッピー・ホリデーズ!」
「ええ、良い休暇を」
積んだ荷物を配り終えて孤児院を後にする。空になったトラックに乗り込み、次の配送のためにこれから”聖ニックの工房”へと戻ろうとしていた途中の出来事だった。唐突にデリーテッド氏が「マズい」と声を上げ、表示していたルートを変更したのだ。彼女はハンドルを切りながら「どうしたんです」と尋ねた。
「GOCだ、我々をつけている。おそらくは排撃班もいる」
「排撃班? えっと、それって」
「世界オカルト連合のご自慢の矛だ。トラックで轢いたくらいでどうにか出来る相手ではないな。ひとまず距離を取るぞ」
「めちゃくちゃに物騒ですね。まだ敵対しているとは限らないのでは? 我々は攻撃対象ではない筈ですが……っと」
フィフスはブレーキを踏み込んだ。二つの人影が走り出たのだ。タイヤが地面を擦る音と共に、トラックは急停車する。人影は動かない。フィフスはひとまず窓を開け、「ハイ」と片腕を挙げて挨拶をした。応答として、人影は銃を持ち上げてこちらに照準を合わせた。
フィフスは端末を引っ掴んで窓から離脱した。ほぼ同時に銃声が響いた。転がり出た直後に大きく跳び、建物の影に身を隠す。
「まず直進だ、逃げるしかない。人の多いところまで駆け込むぞ」
フィフスは遮蔽物の影を縫って走りながら口の中で問いかけた。
「下手に動いて大丈夫ですか?」
「動かなきゃマズい。連中にはVERITASとかいう索敵システムがある。隠れても無駄だ」
頷き、一気に駆けだす。何故彼らに狙われているのか、何故彼らが自分の存在を知っている様子なのか。わからない事は積みあがっている。全て後回しだ。とにかく、今は逃げなければならない。業腹ではあるが、戦闘用装備ではないのだから仕方ない。任務を請けた時に、彼らの基本的な装備スペックと戦い方は教わった。武器もなしに戦ってどうにかなる相手ではない。
指示された道を駆け、人通りの多い場所を目指す。駆ける最中、不意に殺意を感じて横に踏み込んだ。直後、自分の背中があった場所を銃弾が掠めて飛び、着弾したダストボックスが大きな音をたてて蜂の巣になった。その弾痕がこちら側にズレゆくのを見て、慌てて方向を変える。恐ろしいことに、銃声は全く聞こえなかった。よほど性能のいい消音器があるのだろう。多分フィフスと同程度にはパラテクの塊だ。
これを避け続けるのは無理だ。フィフスはルートを放棄し、近くの塀に飛び乗った。
「どの方角です、一番近い目標地点は」
「2時方向、120メートル。地下鉄への入り口がある」
走って跳び、家を飛び越えて向こう側の路地へと飛び降りる。人影はどこにもない。「右へ」という声に従って駆けだした直後、何かにぶつかった。
何もないはずの場所に何かが居る。
「不可視の外套ジェネレータだ」とデリーテッド氏が告げた。
直後、「それ」が動いた気配があったので、とっさにフィフスはそこに向かって全力で蹴りを放つ。短い呻き声がして、生垣の木が音を立てて凹む。フィフスはそこに腕を突き入れて、見えない何かを掴んで強く引いた。外套とやらが引きはがされ、世界オカルト連合の紋章を胸に掲げた男が目の前に現れる。
強い眼光を宿した目がこちらを見上げ、見開かれた。
「どうして」と漏れた呟き。
一瞬の静寂。
背後から足音が駆け寄った。
そちらに目を向ければ、銃を抱えた人影が走り出る。
飛び出してきた追手は、一目で状況を見て取ったらしい。「貴様」と叫ぶと同時に、機関銃をこちらに向けて構えた。フィフスはそれより速く、目の前の男を引き寄せて盾に出来る状態にする。「待て、こいつじゃない」と叫ぶ声が響く。新手は忌々しげにこちらを睨みながらわずかに銃口を下げた。女性だ、という事に今更フィフスは気づいた。
再び、刹那の沈黙。フィフスは男を盾にしたまま一歩二歩と後ろに下がった。そして、その方向を見ることなく後ろに跳び、地下鉄のサインに向かって飛び込んだ。地下から吹き上げる冷たい風に構わず、階段を飛び降りる。踊り場まで降りることなく手前で手すりを乗り越え、真下へと落ちていく。着地先にまた手すりがあったので、フィフスはそこを勢いよく滑り降りた。どうにかバランスを取り続け、直滑降の姿勢を保つ。
数秒がやけに長い。
世界がぐるりと回転する。手すりが終わって、身体が投げ出されたのだ。
どうにか空中で一回転して着地。
最初に、耳にどよめきが飛び込んできた。目を上げようとすればたくさんの足が行き交っている。それで、自分は地下鉄のコンコースに飛び込んだのだな、という事を把握した。追ってくる足音は聞こえない。流石に彼らもここで事を荒立てはしないだろう。逃げおおせたのだ、とようやく頭が理解した。
フィフスはさらに視線を上げ、沢山の視線がこちらに突き刺さっている事に気づいた。考えてみれば当然である。人気の多い場所に逃げ込む事しかここまで考えてこなかったが、そういう場所に来ればサンタの衣装は当然目立つ。手すりを滑り降りて飛び出してくる、なんて事をすれば猶更である。
「非営利団体”聖ニックの工房”は今年も活動中! みなさま暖かい寄付とご理解をお願いいたします!」
場違いに明るい声が響いた。デリーテッド氏がスピーカーモードに切り替えて宣伝用の音声を流したのだ。途端に周囲から納得の声と拍手が起きる。フィフスが立ち上がり、帽子を取って恭しく一礼すれば拍手はより大きくなった。どうにかそういったパフォーマーだと思ってもらえたらしい。おずおずと帽子に硬貨を入れてくる子供たちに、にこやかな応対をしながらフィフスはどうにかその場を後にした。適当なベンチに腰を下ろし、改めて端末を開く。状況を整理する必要があった。
<Olympia_V> 助かりました.
<Account Deleted> それはよかった.ちなみに幾ら貰ったんだ?
<Olympia_V> 5ドル46セント.
<Account Deleted> スターバックスには行けるな
<Olympia_V> 連中に追い回されていなければね.何だったのかわかりました?
<Account Deleted> わからん.緊急の信号は送ったんだが,財団も予測していなかったらしく混乱していた
<Olympia_V> そうですか.
<Account Deleted> とはいえ混乱しているのはGOCも同じらしい.君があの観測手を盾にしている隙に少しばかり鍵を盗んで通信を傍受したんだが,向こう側で固有エーテル値のブレがどうとか言っていた
<Olympia_V> 手が早いですね.
<Account Deleted> 情報収集も頼まれていたからな.そういう訳で何らかの誤認が発生していた可能性が高いと思う
<Olympia_V> 似た固有値のターゲットを追っていたところにぶつかったと? そんなことあります?
<Account Deleted> あったんだから仕方あるまい.で,今後どうする
<Olympia_V> 何が出来るんでしょうね,私達に.
<Account Deleted> 地下で助けを待つか,地上に戻るかだな
<Account Deleted> 待つのなら,何に替えても助けは来させる
フィフスは思考する。地上に出なければならないのだろうな、とは思った。ここで助けを読んだら二度と外には出られない。世界オカルト連合の標的など、財団にとっては保護対象以外の何物でもない。それに、連合が何を追っているのか知りたかった。彼らは「こいつじゃない」と言った。では、フィフスに似た固有値を持つ標的とは何か?
思い当たる存在はあった。信じるには少々難しかったが。
オリンピア・フィフスはその名が示す通り5番目のクローンであり、6番目のヒューマノイドである。すなわち、少なくとも他に4体の"姉妹機"が存在している。
最初に出会ったとき、デリーテッド氏は「私がアーカイブ文書から見つけ出せたのは君の所在だけだった」と語っていた。もしも、所在不明の姉妹がこの地にいるのだとしたら。そして、世界オカルト連合を敵に回しているのだとしたら。
確かめたい、と思った。会ってどうなるのかは自分でもよくわからなかったが、何もわからないままに収容されていたくはない。
しかしそうだとして、ろくな装備もなしにこの安全な地下を出ていって、それで何が出来るだろう。自分が本来の標的でなかったとしても、この身体の出自は異常存在の集合体で、挙句ひとりで相手の構成員を蹴り倒して逃げおおせている。破壊対象とみなされる可能性は極めて高い。
フィフスは目の前の階段を見上げた。滑り降りた時は一瞬だった地上との連絡口は、今はひどく長く見えた。
<Olympia_V> あなたはどうしたいんですか?
<Account Deleted> 君の決断に従うさ.忌々しいことに動けるのも危険に晒されるのも君だけなのだから,私が決めるのもおかしいだろう
<Olympia_V> じゃあ,もし自分に"足"があったらどうしてました?
<Account Deleted> ジョーンズのケツを蹴り上げる
<Account Deleted> 何が"気軽に楽しんでくるといい"だ
<Olympia_V> 名案ですね.代わりにやりましょうか?
<Account Deleted> 君がやりたいなら止めないが,私の代理なら不要だ
<Olympia_V> そうですか.
<Account Deleted> 冗談はさておき,私としてはどちらでも構わないんだ,本当に
<Account Deleted> ただその上で少しばかり感想を述べるなら
<Account Deleted> 少しばかり"残念"だと思う
<Account Deleted> ニックの命令を代わりに果たしてやれないのは
それきりデリーテッド氏は沈黙してしまった。フィフスは一つ溜息をつき、端末から視線を外した。デリーテッド氏はSCP-3355と直接会話していたから、思うところが色々とあるのだろう。勿論フィフスにだってある。まだ荷物は配り終えられていないのだ。最後の一件を果たせないまま終わるのか、という思いはあった。
目の前で、大勢の人が改札から吐き出されてきた。電車が到着したのだろう。機嫌のよさそうな顔をした家族連れがやけに多い。少し耳を傾けてみれば、「クリスマス・コンサート」という単語がちらほらと聞き取れた。道理でかしこまった服装の人間が多いわけだ。両親に手を引かれて歩く黒いワンピースの子供が、物珍しそうにこちらを見ている。暗澹たる気分で曖昧に笑い返す。知らず、家族か、という呟きが零れ落ちた。子供は親に手を引かれてまた歩き出す。透明な障壁が自分たちの間にあるな、と思った。
どうしてだか、フィフスは流し見していた番組のことを思い出していた。そこに登場する彼らは「クリスマスには家族と過ごしたいじゃないか」と言っていた。当然のように、理由を語る必要などないと言わんばかりに。なるほど、こうして家族と共に過ごすというのは実際一般的なことであるらしい。
フィフスにはその感覚がよくわからない。そもそも、家族と言う概念が自分に存在していると言えるかどうかもフィフスにはよくわからない。遺伝子情報を共有している、という意味ではオリンピア・ゼロ検体ゼロかオリンピア・プライム1番目のオリンピアが近いのだろう。自分と同じ姿をしたクローン素体を姉と見なすべきか母と見なすべきなのかはフィフスにはよくわからない。それに、全く知らない相手である。顔だけは実質毎日鏡で見ているようなものだからよく知っていると言えるかもしれないが。
オリンピア・フィフスは親というものを知らない。おそらく概念の意味すら理解できていない。
その事が少しばかり悲しくなって、視線を落とした。その先ではサンタクロースの帽子が垂れている。
提示されたルートを思い起こす。最後の配送先は財団の運営する孤児院であった。親の顔を知らない子供たちがサンタクロースを待っている。正気と狂気の境目を彷徨った兵士たちに染みついた荒事の匂いに気づいてしまえる子供たちがクリスマスを待っているのだ。
自分のいるべき場所はそこにある、と思った。地下鉄で家族連れを眺めて羨んでいる場合ではない。財団に助け出されて安全な収容室に籠っている場合でもない。全てを好転させることが出来ないにしても、フィフスは財団のために造られた職員である。まだやるべきことがあった。
何てったってクリスマスだ。
オリンピア・フィフスはサンタクロースの帽子を被りなおして、再び端末の電源を点けた。
<Olympia_V> 質問があります.
<Account Deleted> なんだ
<Olympia_V> "何に替えても助けは来させる"ですが,上からの命令を偽造するつもりだったりします? 前みたいに.
<Account Deleted> y. 向こうが寄越さなければだが
<Account Deleted> 安心しろ,親オリジナルのコードより見たコマンドだ
<Olympia_V> それもそれでどうなんですかね?
<Account Deleted> とにかく,間違えることはない.やるのか?
<Olympia_V> n.
<Olympia_V> 私が聞きたかったのは,GOCに対して同じ事を出来るかということです
<Account Deleted> 退却命令を偽造出来るかという意味か?
<Olympia_V> y.
しばらく黙って計算をした後、デリーテッド氏は「不可能ではない」と答えた。不可能ではないが、危険性は高い。相手の用いる形式を見抜き、模倣し、通信に割り込ませる。傍受するのに比べれば遥かに手間はかかるらしい。だが、それを踏まえた上でデリーテッド氏は「不可能ではない」と記したのだ。ならば、何か手はあるのだろう。フィフスは黙って画面を見つめる。
短い計算時間を経て、デリーテッド氏は「私を向こうの積荷に紛れ込ませるのが一番危険が少ない」と結論づけた。自分の端末を連合の側に置いて立ち去れ、と。
<Olympia_V> はい?
<Account Deleted> 君はVERITASに映るが私はそうではない.保持されたままでいるよりは安全だ
<Olympia_V> 置き去りにしろと?
<Account Deleted> y. 一度は連中と接触する必要があるし,そこまでは君に運んでもらわねばならないが.やれそうか?
<Olympia_V> あなたの危険の話をしてるんです.見つかったらどうなるか分かってるんですか?
<Account Deleted> 破壊されるだろうな.だがバックアップは取ってある.少し記憶が消える程度だ
<Olympia_V> 最後にバックアップを取ったのは?
<Account Deleted> 11/30
<Olympia_V> ほぼ一ヶ月がなくなるじゃないですか
<Account Deleted> まあ,財団ではさほど珍しい話ではない
<Olympia_V> 論外です.上手く行ったとしても回収は不可能でしょう.
<Account Deleted> まあハードは向こうの手には落ちるが,中身を全消去すれば証拠は消せる.そこから辿られることはない
<Olympia_V> なおのこと論外です.一時的に置くのはともかく,私は命を賭してでもあなたの端末を回収します.そのつもりで作戦を立ててください.
<Account Deleted> 今月の私にそこまでの重要性があるとは思えないが
<Olympia_V> 私にはあるんです.
<Olympia_V> それでは理由として不足ですか?
<Account Deleted> n.
<Account Deleted> 少し待て.条件の重み係数を変更する
しばらくして出てきたのはエラーメッセージだった。情報が足りないらしい。どうすればいいのかと問えば、「地上に出るしかあるまい」と氏は答えた。
<Account Deleted> 上に出て身の安全を守りながら傍受し,情報を獲る.やれるか?
<Olympia_V> y!
最も人通りのある出入り口を選び、エスカレーターに乗り込んで地上を目指す。「監視はしているだろうが、出口にぴったり貼り付いている訳ではなさそうだ。即座に撃たれる事はないだろう」とデリーテッド氏が告げた。ここから先は音声でのやり取りだ。了解、と答えて地上に出る。久々に見た陽光は思っていたよりも傾いていて、やけに眩しく赤く思えた。
「まあ、話したら人違いとわかってくれる可能性もゼロではないですものね」
「確かに。さて、11時方向35メートル先に1人いる。傍受するには問題ない距離だ。人混みに紛れていろ」
「了解」
少しして「奇妙だ」という声が上がった。相手は確実にフィフスに気づいているはずだが、それに対して動きがないらしい。今は相手の位置だけを読める状態だ、と前置きしてデリーテッド氏は端末の画面に地図を表示した。連合構成員の位置を示す赤い点がいくつかその上に表示されている。確かに、寄ってくる気配はない。そして、明確に別の一点を取り囲もうとしている。フィフスとは別の標的だろうか。
「こっちの集まりは何なんです?」
「今調べている。……おっと」
フィフスに最も近い赤い点が離れ始めた。仲間たちのところに向かっているようだ。
「追いますか?」
「そうだな。射線を確保させないようにしながら電波が拾える距離を保ってほしい」
まったく、自分がGOCを追跡することになろうとは。だが、自分が地下にいた間に何があったのか知る必要がある。そうでなければ配達なぞ出来るはずもない。
傍受可能な状態が確立されたのは一分後の事だった。「よくわからん事態だ」というコメントと共に、音声が繋げられた。イヤホンから飛び込んできたのは女性の声だった。
『まったく、クリスマス・イヴだというのにこんなに殺気立ってるとは。焚書者さんたちもご苦労な事ですね』
フィフスは思わず足を止めそうになった。聞こえてきた声は寸分違わず自分のものと同じだったからだ。自分が喋ったのかと思ったが、世界オカルト連合の事を焚書者と呼ぶ趣味はない。
確かめなければならない。
赤い点が動き終える前に。
駆けだした傍受者には気づくことなく、通信の向こうで会話は続く。
『お前らがいなきゃ殺気立ちもせずに済んださ。余計な仕事を増やしがって』
『余計な仕事?』
フィフスは駆け、辿り着き、そして声の持ち主の姿を見た。
『財団との折衝だよ。クソ、いつから向こうと手を組んだ?』
『財団? そう、やっぱり』
初めて見る人物ではあったが、初めて見る顔ではなかった。
『質問に答えろ。とっとと家族のとこに帰りたいんだ』
『クリスマスですしね。ま、こちらは家族がお世話になった訳ですが』
それが誰かは知らないが、それが何であるかは知っていた。
『で、その私の姉妹。今どこにいるんですか?』
『一つ教えてやろうか? お前が興味を持ちそうなこと』
地下に降りる前の時点で、もしかしたらと予感していたのだ。
『何なんです?』
『俺が話していたのは──』
「──時間稼ぎでしょう、知っていますとも!」
フィフスは叫び、飛び出した。
目の前にいる女性の手を掴み、地面へと押し倒す。直後、その頭があった空間を銃弾が貫いた。体勢を整えながら、自分に押し倒された、そして自分と同じ顔をした女性を見る。自分と全く同じ色をした目が、驚きに見開かれてこちらを見据えていた。
「次が来る!」
フィフスとデリーテッド氏は同時に告げた。不意を打てたのは初撃だけだ。どうにかして次を切り抜けてこの場を離脱しなければ。フィフスは"姉妹"の手を引き、次を見据えるべく上を睨む。
複数の銃口が強化された目に映る。
二人で全て避けるのは難しいか。
それでもと動き出そうとした瞬間、白い霧が視界を覆った。
目の前の”姉妹”が手にしていた煙草で何かをしたのだ、と直感する。
「来て」という声がして、掴んでいた手が引かれた。霧の中で手を引かれた先には、いつの間にか奇怪な装置が鎮座していた。二足の足と二対の腕が直径1.4 mほどの巨大な球体に付いている。上部の1/4は欠けていて、そこにコックピットがあった。乗り込んで操作するのだろう。白く塗装されていることもあって、巨大な卵のようにも見えた。
「SCP-244-ARC。通称"エッグウォーカー"か。ここにあったとはな」
「知ってるんですか? というか、ARC?」
デリーテッド氏とのやりとりに、装置の扉を開いていたもう一人のオリンピアは不思議そうにこちらを一瞥した。そういえば自分達は聴覚も強化されているのだった。内緒話をするのは難しそうだ。
「この装置を知ってる人なんだ。誰?」
「ちょっと説明が難しいんですけど。そもそも貴方が誰なんですか」
「ジュリア。作られた当初はオリンピア・セブンス7番目のオリンピアと呼ばれていたけど」
「どうしてここに」
「話をする前に場所を変えましょう。ここはあまりにも無粋な目が多すぎる。とりあえず、乗って。銃弾はだいたい防げるから」
覚悟を決めて、フィフスはそこに乗り込んだ。一人用なのだろう狭い座席にどうにか身を押し込めれば、白い障壁のようなものがせり上がって頭上を覆い、コックピットを守る。途端に外界の音が遠ざかった。代わりに響くのは機体を揺らすがちゃがちゃという音だ。乗り込んだ装置が動き始めたのだろう。
「ようやく一息つける」
目の前のオリンピア、ジュリアはそう言ってため息をついた。フィフスは改めて彼女をまじまじと見る。同じ顔に同じ体格。だが装いはまるで違っていた。落ち着いたピンク色の暖かそうなカーディガンに長い丈のスカート。フィフスよりも短い髪に、揺れる銀色のイヤリングが映えている。装いだけで言うのなら自分よりも大人っぽいな、と思った。そもそもこちらはサンタ装束なので年齢とかそういう尺度にはあてはめられないのだが。
「それで、どこに向かうんですか?」
「連中が絶対に入ってこれないところ」
「放浪者の図書館か? 財団の者も入れなかったと記憶しているが」
デリーテッド氏が口を挟んだ。今度はスピーカーモードだ。オリンピアはフィフスのベルトに備え付けられた端末に目を落とす。
「詳しいですね。それで、貴方は何者なの? 内外の電波の行き来を遮蔽してみたけど、音声に支障は出ていない。魔術師って訳でもなさそうだし」
「外部と通信しているわけではない。私は人工知能で、この端末の中にいる。財団のつけた番号はSCP-079-2。フィフス……こちらのオリンピアには"デリーテッド氏"と呼ばれている」
「そう、端末の中」
ジュリアは操作の手を止めずに答えた。デリーテッド氏は続ける。
「オリンピア・セブンス。財団が"黒の女王"に潜入された時、SCP-244-ARCと共に消失した存在だな。それで、君は蛇の手の構成員になった訳か?」
「あなたたちから見ればそうなるんでしょうね。私としてはただ図書館に間借りして、アリソンの友達でいることを選んだだけのつもりでいるんだけど」
ジュリアは言いながらいくつかのボタンを押した。機体が静止して、フィフスたちを覆っていた白い”殻”が透明に透き通った。いくつもの細かい文様がそこに浮かび上がっている。文様の向こうに、路地裏の落書きグラフィティがこちらを見下ろしていた。ジュリアがレバーを倒し、機体は落書きの描かれた壁へと突き進む。予測された衝突は起こらず、代わりにフィフスたちを載せた装置は壁の中へと飲み込まれた。
殻に浮かび上がった文様が白く煌めく。
その向こうに見えるのは完全な暗闇だ。
全身が軽く下へ、座席へと押し付けられる感覚。機体が上昇をはじめたのだ。
暗闇の中に浮かぶ横顔に向かって問いかける。
「あなたの目的は何なんですか。どうしてあそこにいて、連合とやりあっていたんですか」
ジュリアはイヤリングを揺らして振り向いた。
「しばらくアリソンの頼み事でこの辺りで動いていてね。そうしたらエッグウォーカーの迷彩の不備が起きて、タイミング悪く連中に見つかったのよ。逃げ隠れに徹していればどうにかなるかなって様子を見ていたんだけど、そうしたら彼ら、急に奇妙な動きをし始めて」
「私の存在に気づいた、と」
「ええ。自分とよく似た存在がここにいると知った。それで探していたら彼らと接触したのよ。まさかあなたの側から来て、しかも助けてくれるとは思っていなかったけどね。これが、私があの場にいた理由」
ジュリアはそう締めくくった。沈黙のうちに、上昇していた機体がごとんと音をたてて静止する。ジュリアは扉を開けて先に降り、フィフスにも続くように促した。
降りた先には、よく手入れされた庭園が広がっていた。幾種もの花々が今が盛りとばかりに咲き乱れている。目を上げればサルスベリ、その枝にはツルバラが絡みついて垂れ下がっていた。下に目を向ければヒヤシンスとラベンダーが並んで咲き誇っているあたり、露骨に異常な力が全体に働いている。どの季節でも生まれえない眺めがそこにあった。
庭園の向こうには石造りの壮麗な門が見えた。柱にはいくつもの蛇が絡みついたようなレリーフが施されている。蛇の目にはそれぞれ色とりどりの硝子細工が嵌め込まれてきらきらと光っていた。これが図書館、"蛇の手"の本拠地か。
薄々想像はついていたが、背後を振り向けば対照的に何もなかった。抉り取られたように地面が消えている。そこから下には、夕闇に沈みゆくシカゴの街並みが一望できた。かなり上空にいるということだ。
「それで、私の目的だったわね。これが、そう。あなたをここに連れてくること。妹を図書館に呼ぶこと」
フィフスが自分の置かれた位置を把握した頃に、ジュリアはそう言った。
「私を連れてきてどうしようと?」
「用件は一つ。私たちの側に来ない? 一緒に図書館で生きていくの」
開かれた門を背に、ジュリア、あるいはオリンピア・セブンスは軽く両腕を広げて言った。
図書館の手前に広がる庭園。花畑にも似たそれは、図書館に出入りすることを許されない者が案内者の手引きを以て立ち入ることのできる最奥の領域であるらしい。これより内側へ立ち入るのに必要とされるのはただ一つ、財団やGOC
Cに対する帰属意識の恒久的放棄。たったそれだけで自分達は共に生きていけるのだ、とフィフスの姉妹は朗らかに言った。
フィフスは黙ってそれを聞き届け、思考をまとめてから口を開いた。思うところはいくつもあったが、最初にはっきりさせておかなければならない事がある。
「聞きたいんですが、どうして私を妹だと? 私がフィフス5番目であなたがセブンス7番目なのに」
「実稼働日数は?」
「およそ半年」
デリーテッド氏が「実際は130日だろ」と小さく呟いたのが聞こえたが、フィフスは黙殺した。セブンスは事も無げに答える。
「じゃあ私の方が長いでしょ。数年は動いてるもの」
「姉妹の順番ってそういうので決めるものじゃないと思うんですけど」
「じゃあ私が妹でもいいわ」
セブンスはあっさりと退いた。自分は大人だからそれくらいは譲れますと言いたげな顔をしていて、それはそれで何だか癪だった。表情に出ていたのだろうか、ジュリアはくすくすと笑って「実を言うとね、アリソンがよく並行世界の自分とそんなことを言い合っていてね。ちょっとやってみたかったんだよね、そういう姉妹みたいな話」と告げた。並行世界の自分との論争が「姉妹みたい」かどうかは大いに議論の余地があると思ったが、気持ちとしてはわからなくもない。フィフスとて家族というものに関するそういった憧れは持っている。地下鉄で嫌になるほど自覚した。
「まあ、それはさておき。図書館ってフリーの電源はあるんですか?」
「ええ……? まあ、一応ある場所はあるわよ。あとフリーのWi-fiも飛んでいる場所には飛んでいるわ。誰が引いたか知らないけど」
少し困惑したようにセブンスは答えた。そんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。
「そうですか。いや、無かったら何も考えずに帰るって言えたんですけどね」
「誘っておいて何だけど安心したわ。電源の有無で自分の所在を決めるのかと」
「こっちのデリーテッド氏にとっては生命線ですから。それが確保されないなら考えるまでもなくここを出ますよ」
イヤホンの向こうで不明なノイズと単語が聞こえてきた。何かを言おうと思ってやめたあたりだろう。たまにデリーテッド氏はそういう音を出す。ジュリアは「それじゃあどうするの」とだけ問いかけた。フィフスはしばらく考え、答える。可能かどうかはさておき、答えなくてはならない。
「邪魔が入って有耶無耶になってたけど、仕事の途中だったんですよ。私達は目的のために造られた、そうでしょう? なら果たさないといけない。帰らなきゃいけない」
帰れるかどうかは定かではない。世界オカルト連合がどう動くかもわからないし、何よりここから降りられる保証もない。フィフスといえど流石にここから飛び降りての生還は難しいだろう。ここでジュリアと敵対すれば、エッグウォーカーを分捕って操作法を自力で体得する以外の手段はとれない。それでも、フィフスは自分と同じ色の瞳を正面から見据えて言い切った。
経験の差を無視しても、ジュリアとフィフスの頭脳レベルは一致している。誤魔化しや嘘を通せる相手ではないというのは自明であった。それに、そういう事を唯一の「姉妹」相手にやる気分にはなれない。
「そう答える気はしていたわ。そう身構えなくても、帰りくらい何とかするわよ。別に退路を断って無理やり拉致したいって訳じゃないんだから」
「そうだったんですか。私の姉妹ならそのくらい考えるかと思ってたんですけど」
「考えるのと実行するのは別問題でしょうに」
さらりと言い放ち、ジュリアはこちらへと歩み寄った。目の前で足を止め、「それで」と切り出す。
「仕事はいつ終わるの? その頃になったら迎えに行こうかと思うんだけど」
「えっ?」
「ずっと財団に居るつもり? 私たちをろくに使えもしない場所なのに?」
気づけば一歩後ろに退がっていた。「それは」と声を上げるが、その先が思いつかない。確かに、万全に活用されているとは言い難い状態だ。それは決して否定しえない事実であった。
「今後、活用される計画はあるんですよ」
「でも、彼らは何処まで行っても本質的には看守でしかないわ」
「そうかもしれない。それでも」
「それでも?」
「私は彼らと共に生きていきたいと思っている」
口にしてから、思ったよりも単純な理由だなと自分で思った。案外単純に造られているのかもしれない。だが、本当にそれだけなのだ。財団で目覚め、彼らと出会い、行動を共にした。そうするうちに、それを続けたいと願うように思っていた。
そして、その理由は「姉妹だから」よりも重いものだった。それだけの話だ。
「そう。なら、仕方ないわね」
「それに、もしも”家族で過ごしたい”というのなら、貴方が財団に戻るという手もある。でも、貴方だってそれを選ばないでしょう?」
「そうね。アリソンがいるから」
「そういう事」
ジュリアは穏やかに笑い、「そっか。じゃあ、降りる手段を探してくるからちょっと待ってて」と言い残して一人で図書館へと入って行った。エッグウォーカーは本来一人乗りだし、大分無茶をしたのであまり安全ではないのだという。分捕ろうとかしなくてよかった、と彼女は心から思った。
静かな庭園にフィフスは取り残される。花々の中で異彩を放っているエッグウォーカーの傍らに彼女は腰を下ろした。見れば、随分と年季が入っている。何度も修理と改造を重ねられているのが容易に見て取れた。長い間大切にされてきたのだろう。
<Olympia_V> SCP-244-ARC,でしたっけ?
<Account Deleted> y. ケイン・パトス・クロウが製作し所有していたものだな
<Olympia_V> あのクロウ教授?
<Account Deleted> y. オリンピア・プロジェクトの指揮者だ
<Olympia_V> セブンスがこれを使う理由がわかった気がしますね.ところでARCって?
<Account Deleted> ARCHIVEDの略だ.別枠に残された報告書にはそれが着く
<Olympia_V> 本体がなくなったから退かされたって事ですか.
<Account Deleted> そうだな,現在のSCP-244は霧を吐く壺だ
<Olympia_V> 古きものは取って代わられてゆく,と.
<Account Deleted> だが本体は今もここで大事にされていたという訳だ
そうですね、と打ち込んでフィフスは装置に視線を戻した。折り畳まれた足のそばに、黄色のスミレが身を寄せあって咲いている事に気づく。春の花としてデータベースで目にしたのを思い出した。いずれ地上で見た時にこのクリスマスの事を思い出すのだろうな、と思うと少しおかしかった。
<Account Deleted> そういえば,財団と連絡がついた.配送の方は終わらせたから,あとは拠点か最後の孤児院にさえ戻ってくれば問題ないそうだ
<Olympia_V> ああ,無事に終わったんですね.
<Account Deleted> 世界オカルト連合とも話はつけたらしい.後は帰るだけだな
<Olympia_V> それは本当によかった.
<Account Deleted> しかし,あれでよかったのか?
<Olympia_V> y. あなたは?
<Account Deleted> 私は自分の機体がどこに在ろうと問題はない.操作者がいるかどうかだ
<Olympia_V> 私は良い操作者でしたか?
<Account Deleted> y
<Account Deleted> 呼び起こしたのが君で最善であったと思考している
準備ができたと言ってジュリアが戻ってくるまで、新しいメッセージはなかった。フィフスにはそれで充分だったので、彼女は心穏やかに夜に沈む庭園を眺めていた。
「……グライダー?」
「ええ。あんまり長持ちはしないかもしれないけど、一回のフライトには問題ないとうちのメカニックたちが判を押してたわ」
ジュリアが担いできたのは大きな蝙蝠の翼のような物体だった。透き通った葡萄色の骨組みに、白く薄い膜が張られている。ジュリアは手早く使い方を説明して足場の端までそれを運び、煙草の煙を吹き付けて何らかの「守護」を施した。
「それじゃあ」とジュリアは笑った。
「待って」とフィフスは自分のマフラーに手をかけ、外した。
「どうしたの」
「その……世話になったし、私は一応見ての通りサンタだし。クリスマスにこのまま何も渡せず帰るのもなって。……つまり、あなたが嫌でなかったら、だけど」
ジュリアは驚いたようにマフラーを見つめ、それからにっこりと笑って受け取った。マフラーをつけ、自分のイヤリングの片方を外してフィフスの耳につけた。
「メリー・クリスマス、フィフス。元気でね」
「メリー・クリスマス、ジュリア。貴方こそ」
そうしてフィフスはハンググライダーを装備して、シカゴの夜景に向かって地を蹴った。
滑るようにハングライダーが離れてゆく。吹き付けられた銀色の粒子が剥がれ落ちて、その軌跡を示してきらきらと光る。流れ星が尾を引いているようだ、とその背を見送るジュリアは思った。
「いいマフラーじゃない。似合ってる」
背後からの声に振り向けば、そこには「オリンピア・セブンス」を財団から持ち出して「ジュリア」にした親友が立っていた。
「アリソン。ずっとそこにいた訳?」
「邪魔しちゃ悪いと思って。そっか、片方あの子にあげたのね」
「ええ」
「あれに合うだろうと思ったペンダントを買ったんだけど」
「あら、そうだったの。ごめんなさい、こっちは何も用意してなかった」
「まあ、あなたを忙しくしたのは私だし。来年を楽しみにしてるわ」
「来年。そうね」
「ひとまず、図書館に戻らない? 私達の家に」
「そうね、冷えるし。……ねえアリソン」
「なあに」
「私はあなたのことも家族みたいに思ってるって言ったら笑う?」
「いいえ、全く。とても嬉しい」
二人は図書館、あるいは家へと戻ってゆく。
ハンググライダーはシカゴの夜空をゆっくりと舞う。その姿を、ある集団が地上から捉えていた。世界オカルト連合の構成員たちは空を見上げ、星に交じる銀色を指差していた。
「なに、上だと!? まさか、あいつ、制空権を握ったとでも──」
「よせ。あれは財団の別個体だってお達しが来ただろう」
「そうですけど、でもいいんですかあんなの。派手に空なんか飛んじゃって」
「クリスマス・イヴの夜空にサンタクロースが飛んでる事の何がおかしいんだ」
「いや、それは」
「北米航空宇宙防衛司令部NORADも認めてるんだ。ありゃ守るべき日常の範疇だ、別にヴェールにゃ影響しねえよ」
「そうですか……」
「そうだよ。ほら、帰るぞ」
眼下に数多の光が煌めき、後ろへと流れていく。人々が灯した日常の光が、いくつも輝いている。シカゴの空を旋回しながらフィフスはそれを眺めていた。いい気分だ。
頬を切るような冷たい風が吹きつけ、イヤリングを揺らす。しかし、不思議と寒さは感じなかった。彼女は声を張ってデリーテッド氏に話しかけた。風の吹きすさぶ中では声を張る必要がある。
「見えていますか? こんな景色、中々見る事ないですよ」
「ああ、見えているよ。……ジョーンズが言った事には二つの誤りがあったな」
「何です」
「ひとつめ、今回の任務は全く安全ではなかった。ふたつめ、最近のサンタも空を飛ぶ」
フィフスは「違いありませんね」と笑った。方向の指示を受けて、グライダーを操る。やがて、彼女は財団のフロントの一つである孤児院の屋根へと降り立った。思ったよりも短いフライトであったな、と思いながら翼を畳む。
「ところで。これ、煙突だと思います? 入っていいんですかね」
「確認したが、それでいいそうだ。火も焚いていないらしいし」
フィフスは頷いて、煙突の中に身を躍らせた。
暖炉から這い出たフィフスを迎えたのは子供たちの歓声だった。続いて、トナカイの着ぐるみを着てプレゼント袋を持ったジョーンズ博士がこちらに歩いてきた。非常に居心地の悪そうな顔をしている。
「本当にすまなかった。まさかあんな急襲が来るとは思っていなかったんだ」
袋を手渡しながら、沈痛な面持ちで彼は言った。子供の目がなければドラマで見た土下座くらいはやりかねない顔だった。代わりにジョーンズ博士の尻を蹴ろうか、とデリーテッド氏に提案したことをフィフスは急に思いだしたが、もう一度忘れる事にした。
「いえいえ、どうにかなった訳ですから」
「すまない。……無事に帰ってきてくれて本当によかった」
「財団の超常技術パラテクの結晶なんですよ。そう簡単にロストする訳がないじゃないですか」
「そうだな……さあ、それじゃあ仕事を終えよう。子供たちに渡してやってくれ、お待ちかねだ」
ジョーンズは笑ってフィフスの肩を叩いた。フィフスは笑って頷き、その声がわずかに震えている事には気づかない振りをして子供たちの方へと歩いて行った。自分が戻ってきたのはこのためなのだ。親の顔を知らない子供たち。放棄されてから、孤独に戦い続けた兵士。彼らの願いのために、自分たちはここにいる。
いつもの自室に戻ってくる頃には夜も更け、日付が変わっていた。次にこの部屋を出るのはいつだろう、と思いながら部屋の扉を開く。
見慣れた部屋の中心に、見慣れない箱があった。あれっ、と声を上げると、「どうした」とデリーテッド氏が問いかける。
「何かあるんですよ。ほら」
「ああ、それか。君のぶんのクリスマスプレゼントだ」
「はい?」
「ニックに話をつける際に頼んだんだ。気に入ればいいのだが」
フィフスはプレゼント箱を開いた。中には橇に乗ったぬいぐるみが入っていた。白い毛並みにピンクのリボンを首につけた、ふわふわのテディベアだ。それがクリスマスカラーの橇の上に座っている。
「わあ、ありがとうございます。橇は支給されないのかって聞いたのが随分昔の事みたいに思えますね」
「そうか。私にとっては2日前だが」
「そうでしょうとも。……ところで、気づいてました? 私がずっと一か所を見てないことに」
「うん?」
フィフスは端末を掲げて後ろに下がった。端末のカメラに、部屋の扉の横に置いてあったものが映りこむ。それは改造を施された四輪のバイクだ。「どういう事だ」とか「そんなもの室内に置くなよ」とか言う声を無視してフィフスはバイクの中心に据えられたホルダーに端末を差し込み、接続した。
デリーテッド氏はしばらくの沈黙ののちに端末とバイクの端末を点滅させ、「そういう事か」と呟いた。
「ずっと移動手段が欲しいって嘆いてたでしょう。足があれば、と。それで前からジョーンズ博士を通して動いてたんですよ。自律移動も可能な代物ですよ、これ」
「そうか……ありがとう」
デリーテッド氏はそれから何度か点滅させたのち、端末にチャット画面を開いた。
<Account Deleted> 一つ言い忘れていた
<Account Deleted> メリー・クリスマス、フィフス
<Olympia_V> メリー・クリスマス、Mx.デリーテッド!
«いけない事をしませんか?|»