昨日はどこにもありません
あちらの箪笥の抽出しにも
こちらの机の抽出しにも
昨日はどこにもありません
それは昨日の写真でせうか
そこにあなたの立つてゐる
そこにあなたの笑つてゐる
それは昨日の写真でせうか
いいえ昨日はありません
今日を打つのは今日の時計
昨日の時計はありません
今日を打つのは今日の時計
昨日はどこにもありません
昨日の部屋はありません
それは今日の窓掛けです
それは今日のスリッパです
今日悲しいのは今日のこと
昨日のことではありません
昨日はどこにもありません
今日悲しいのは今日のこと
いいえ悲しくありません
何で悲しいものでせう
昨日はどこにもありません
何が悲しいものですか
昨日はどこにもありません
そこにあなたの立つてゐた
そこにあなたの笑つてゐた
昨日はどこにもありません
昨日のわたしに、さようなら。
今日のわたしに、はじめまして。
定期記憶処理専用ルームを出る際、ふとそんな台詞が思い浮かんだ。月並みなフレーズだから、前にここを出た時にも思い浮かべた事があったかもしれない。もちろん記憶にも記録にも残っている筈がないから、確かめる術はない。自分の記録も記憶も、ごく限られた、財団に許されただけしか残っていないのだ。そっとIDカードホルダーに触れると、折りたたまれた一枚のA4用紙の感触がそこにあった。この紙切れにおさまっている文章が、私のアイデンティティを規定する標だ。
角宇野 一四、セキュリティレベルは1 、ただし場合によって一時的に3まで付与。記録官としての職務内容は実験の記録、音声/映像記録の書き起こし、他言語の文献の翻訳。小柄な体格、大人しい性格、孤独を嫌う、写真と絵が趣味、エトセトラ、エトセトラ。
そして、業務の都合で通常の職員よりも多く記憶処理が行われている。そのため、複数の記憶が混在しやすく、また一部の記憶が消失していることがある。その対策として、私はメモ帳を持ち歩き、様々なことを書きのこしている、らしい。探してみれば、確かに鞄の中にメモ帳があった。これのことまで探す必要があるあたり、今回の記憶処理はかなり強かったらしい。昨日の私は何を知り、忘れたのだろう。メモには何も書いていなかったし、昨日の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。何一つ残されていない、完全な空白だ。
人気のない場所に移動してメモを流し読みし、その内容を今の記憶に留めておく。身に覚えがあろうがなかろうが、ここに書いてあることが私の過去なのだ。おそらく最後とおぼしき(どうして私はこれを千切ったんだろう?)メモには、「8月1日は休みになった。頑張った」と書かれていた。確か、記憶処理ルームにかかっていたカレンダーでは今日がその日だったはず。何があったか知らないけれど、どうやら昨日の私は相当頑張ったらしい。記憶に開いた暗い穴の向こうに消えてしまった"昨日の私"に、おつかれさま、と胸の中で言葉を送っておく。
そのままメモを読み進め、今は誰との約束もしていない事を確かめる。急にできた空白の一日、と言う事らしい。どうしようか、と考えて、ひとまず昼食をとることにした。どういうわけか、記憶処理の後は空腹感を覚える人間が多いと聞いた。たぶん、直近の食事の記憶が消えるからだと思う。ちょうどいい時間でもあったからだろう、食堂は混み合っていた。視線をめぐらせ、誰か知っている人がいないかと探してみる。見つからないな、と肩を落としかけたとき背後から声がかかった。
「角宇野さん。これから昼食ですか?」
振り向けば、そこには蛸のぬいぐるみを小脇に抱えた少年……にしか見えない成人男性が立っていた。財団の持つ図書館の司書、遠野さんだ。記憶力が異常なほどに強く、そして記憶処理にも耐性を持っているんだとか。私とは対極にいるような人だ。忘れることが出来ないのも大変なことがあるだろうとは思うけれど、少々うらやましいなと思ってしまう。
「遠野さん。はい、これからご飯にしようかと。そちらは? ……お一人ですか?」
近くに彼の知り合いらしき人がいない事に気付きながらも、私はそう聞いた。書庫で迷ったのを助けてもらって以来、遠野さんの名前は時々私のメモにも出てきている。実際に覚えていることも覚えていないこともあるが、ひとまず親切でそれなりに親しいと思っていいはずの人だ。なんとなく期待していた通り、彼はにっこりと笑って肯定した。
「タコさんを数えるかどうかにもよりますが……概ね一人と言っていいんじゃないでしょうか。ご一緒しませんか?」
「はい、是非」
座席を2つ確保して、食券自販機に並ぶ。今日は何となく定番と書いてあるオムライスを選んだ。定番なんだから間違いなく食べたことはあるはずだが、味が思い出せなくなったので興味が湧いたのだ。遠野さんはその後ろで日替わり定食のセットAを選んでいた。今日は煮込みハンバーグらしい。彼はこちらの手元を見て「定番ですね」とコメントした。少しだけ複雑な響きだった。
「ひょっとして前も頼んでましたか? 私」
「まあそんな日もあった気がしますね。中々飽きない味ですし、僕もよく食べますよ」
「そうなんですか」
席に戻って料理が出来上がるのを待ちながら、これはお茶を濁されたなと思った。何も忘れることがない人が「そんな気もする」などというわけがない。それを指摘していいものかどうか考えているうちに、私たちの食券に記された番号が読み上げられた。注文したものが出来たのだ。
「こうして並べてみると、ちょっと昔の洋食屋さんみたいですね」
私の目の前にあるのはふわふわの黄色い卵の上に赤いケチャップがジグザグに軌跡を描いたオムライス。遠野さんの目の前にはデミグラスソースたっぷりのハンバーグ。添えられた丸っこいポテトサラダも含めて、どこか懐かしさを感じさせる光景だ。何気なく零れ落ちた呟きは、ありふれた感想以外の何物でもなかっただろうと思う。でも、遠野さんはひどく形容しがたい表情をしていた。財団では時々見かける表情だ。決してもう戻ることのない時間、もうどこにも見つけることのできない存在を想うとき、人は時々こんな表情をする。
「……そうですね。さて、いただきましょうか」
私が見ている前で、遠野さんは普段どおりの笑みに表情を戻した。私もそれに笑みを返し、「いただきます」と手を合わせて唱和して、食事をはじめる。ふわりと口の中で崩れるオムライスは定番を謳うだけあって確かに美味しかった。自分でも口元が緩むのがわかる。ふと視線を上げるとこちらを見ていたらしい遠野さんと目があった。
「うん、美味しい」
「それはよかった」
遠野さんは表情を取り繕うのに1秒もかけなかった。でも、それだけあれば確信を持つには充分すぎた。彼が見ているのは、きっと"今日の私"ではない。この人は消えてしまった"昨日の私"を私越しに見ているのだ。決して遠くない過去、それでいて決してもう思い出すことのない過去にこの人とこの場所で食事を共にしたのだろう"私"を。きっと"私"は私と同じ物を選び、同じ感想を口にしたのだろう。それから、私たちは何を話したのだろう。今回は違う話が出来るだろうか。私には知る術のないことだ。
こういった視線を向けられるのは今回が初めてではない。いつだったか、痩せた長身の人がじっとこちらを見下ろしていた事もあった。落ち窪んだひどく哀しそうな目のことは、珍しく強く覚えている。彼は私が何かを言うより前に立ち去ってしまったから何もわからなかったが、きっと親しかったことがある人なのだろう。そういった視線を向けられるたび、私は自分が窓ガラスのように透明な存在になったような気がしている。透き通った自分の身体越しに、私の知らない私に視線が向けられているのだ。「誰かの面影を重ねられるなんて良くあることだ」と苦笑いを浮かべていたのは誰だったか。貰ったホットミルクの味は覚えているのに、顔も声も思い出せない。そういう人たちが、私にはたくさんいる。
「そういえば、角宇野さんは今日お休みだったりするんですか」
「実はそうなんですよ」
最後のハンバーグを食べ終わったところで遠野さんがそんな事を尋ねてきた。自分でも先ほど知ったことだ。自分ももう一口、最後のオムライスを味わってから「どうしてわかったんですか」と聞いてみる。
「いや、この前お会いしたときに、今の仕事が終わったら1日休みがとれる、と仰っていたのを思い出したので」
「なるほど」
「そうなったら好きな本をもう一度読みたい、と言っていたのでお貸ししようかと思っていたんですが、どうされますか」
「なるほど……」
遠野さんは「気が変わったとかなら全然構いませんよ」と付け加えた。どうせ予定もなかったのだから、そうしようか。そう思ったが、私の口から出てきたのは「そうですね、気が変わりました」という台詞だった。どうしてかはあまり自分でもよくわからない。
「そうですか」
「今までの私が読んだ事のない本が読んでみたいです。出来れば、読みそうもない本」
遠野さんは意外そうに2回ほど瞬きをした。たぶん、目のピントをあわせなおしたんだろう。それから「任せてください」と笑ってみせる。その力強さはさすが司書と言ったところだろうか。安心して席を立ち、図書館へと足を向ける。
「……こちらとかどうでしょう」
「学園ラブコメですか」
「こういうの、自分じゃ普段手に取らないでしょ?」
「確かにそうですけども」
大図書館、一般開放読書スペース。静謐で、一種の神聖さすら湛えた広い空間。その空気にはいささか似つかわしくないような表紙が、私の手の中にあった。表紙の絵柄と裏表紙の煽り文句からは、相当「ベタ」なギャグが散りばめられているんだろうなということがひしひしと伝わっている。なんでこんな本が財団にあるのか不思議に思うくらいだ。確かに勧められでもしなければ、昨日の私も明日の私も手に取りそうもない。
「僕はまだ仕事があるので戻りますが、何かあったらいつでも呼んで下さいね」
「ありがとうございます」
「いえいえ。あ、折角なので感想とか聞かせてくれたら嬉しいです。夕食のときにでも」
持ち場へと戻って行く後姿を見送る。何気なく夕餉の予定まで入れられてしまった。こちらとしては一向に構わないからいいのだが。どうせフリーの一日だし、何なら仕事の参考にするための資料も確保している。さほど期待することなく私は勧められた本にとりかかった。
そして、数時間後。
「で、どうでしたか」
「表紙詐欺もいいところじゃないですか。学校が舞台だったの最初の20ページだけでしたよ」
「でも面白かったでしょう?」
「……ええ、まあ。3巻全部一気読みしちゃいましたし。うぅ、仕事の資料も目を通すつもりだったのに……」
「まあそっちは貸し出しということで」
「ありがとうございます……」
結局私たちは夕食まで共にすることになっていた。昼食とは逆で、私が日替わり定食Bで、彼が定番を謳うカレーライスである。他愛もない話をしながら食事をとる、なんてことのない休日。時折向けられる視線は感じたが、自分が透明になったような気分はしなかった。少しだけそのことに満足と安心を覚える。楽しい時間は過ぎるのが早いもので、あっという間に食事は終わっていた。「ごちそうさまでした」と声と手を合わせてから、私は改めて頭を下げた。
「今日はどうもありがとうございました。おかげさまでいい休日でした」
「いえいえ。この前お見かけしたときはとにかく大変そうだったから、休みになったなら何よりです」
私は少し考え、思い切って尋ねる事にした。やっぱり、奇妙だと思うのだ。知人とはいえ、食堂で会っただけの人をここまで気にかけることがあるだろうか。なるべく重く響かないように問いかける。
「"この前の私"、一体何を言ったんですか?」
「さあ。忘れてしまいました」
「嘘ばっかり」
「だって忘れてくれとあなたが言ったんですから。この僕に向かってですよ」
「……それは難題をぶつけましたね」
「でしょ」
はぐらかされたなとは思ったが、それでいいと思った。財団には知る必要のない事がたくさん溢れている。だから、私たちはただ並んで歩きながら笑いあった。それもじきにおさまり、心地のいい静けさが訪れる。人通りの少ない廊下に、私たちの足音だけが響いていた。私はちらりと隣を見た。この人の瞳には何が映っているのだろうか。忘れることの出来ない悲しみをいくつ抱えているのだろうか。
「遠野さん」
「何でしょう」
「私なら、全部忘れる事が出来るんですよ」
少しだけ困ったように首を傾げる遠野さんに向かって続ける。きっと“昨日の私”も思ったであろう事。そして、この休日をくれたらしい“昨日の私”と、遠野さんに私ができること。
「私は何だって忘れられます。覚えておいて欲しくないけど誰かに聞いて欲しい事があったら、呼んで下さい。……私には、きっとそれ位しか出来ないから」
「いえいえ、ありがとうございます。……覚えておきますね」
こちらをまっすぐ見つめて少しだけ寂しそうに笑ったその表情を、私はあと何度思い返す事が出来るだろうか。100年以上にわたって様々なものを覚え続けた瞳の静けさを、今日あったささやかないくつものやり取りを、あと何回懐かしむ事が出来るだろう。少しでもより長く、多く思い出せたならと強く願った。帰路の分かれ道はすぐそこまで来ていた。
「では、ありがとうございました。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
ひらりと手を振り、遠野さんに背を向けて自分に割り当てられた部屋へと向かう。その間、ずっと今日あったことをどうメモに書くか考えていた。どうやってもそっけない文面しか浮かんでこない。どれほど仔細に書き留めたところで、きっと遠野さんの記憶のほうがはるかに高い解像度をもって今日の事を記録しているのだろう。そして、私がどれほどのことを書きとめても、きっとそれは今日の事を忘れた私には他人事としてしか受け止められないだろう。それならば、いっそ事実だけを簡素に記録しておこう。誰もいない部屋に帰り、数行のメモを走り書きする。今回の私にも、そして次の私にもこれで充分だ。
寝る支度を整え、ベッドに横たわったところで考える。今日は何も「知ってはいけないこと」に触れていないから、明日は何も忘れさせられることなく目が覚められる。でも、明日も明後日も、という訳にはいかない。記憶処理を繰り返すうちに、いつかは今日のことも思い出せなくなるだろう。今の私が昨日の事をまったく思いだせないように。そうして、次に目が覚めた私はこう思いながら記憶処理ユニットを後にするのだろう。昨日の私にさようなら、今日の私にはじめまして、と。
それでも、と私は考える。未来の私は、きっと遠野さんの眼差しの中に今日の私を見つけるだろう。メモのなかに記された人々の中に、かつての私の片鱗を見出すだろう。記憶に開いた穴の中に消えた私を、どこかで知る時があるだろう。
"今日の私"は、それを信じている。
だから、せめて今日ばかりはこう思う事にしよう。