「サイが死ななくなったので」
財団の新規採用者である岩本氏は、呟くように答えた。
関東圏に位置する財団の保有サイト、その応接室にて。ローテーブルを挟んで、三人の人物が座っていた。岩本氏の隣にはスカウト担当者である私が、対面にはサイト管理官がソファーに背を預けている。
おもむろに、管理官が私へと視線を投げかけた。眉間に皺を寄せ、困惑の表情を露わにしている。
管理官の放った質問は難しくはない。ありふれた、人柄を掴むための質問でしかなかった。
あなたはなぜ、財団で働こうと考えたのですか。
たったこれだけの質問で、管理官から見た岩本氏の第一印象は良いものではなくなった。
隣から、岩本氏の顔を覗き込んだ。雰囲気がおかしくなったのを察したのか、岩本氏は口を一文字に結んで硬直していた。どうやら単に言葉選びを間違えたらしい。
こうなってはスカウト担当としての信用にも関わってくる。私はすかさず笑顔を作って、凍りかけた空気の修復を図った。
「じゃあ、私から。質問を変えよう」
岩本氏は顔をこちらに向けた。大きな図体と合わさって、見られる度に若干の緊張を覚える。その巨体が椅子と机に収まっているのが滑稽にも思えた。
「クロサイに対するタナトマ抽出について、何か思うところがあったからウチに来たんだよね?」
この場面での私の役割は緩衝材になることだ。新規採用者と管理官がそれぞれの人となりを把握しなければ、職務は上手く回らない。無論、マンツーマンで成立するなら苦労もしないが、財団に来る人間は奇人変人と相場が決まっている。
この男もまた、奇人だった。
「まぁ、その……はい」
何度か言葉を濁し、岩本氏は最終的に肯定した。ここからなら、そのまま自分で志望理由に話を繋いでくれる。一瞬、私は気を抜いた。それが間違いだった。
岩本氏は何も話さなかった。財団についても、サイについても。様々な音が聞こえる。部屋の外で働く事務員たち。コーヒードリッパー。進んでいく時計の針。軋む椅子。音のない部屋で、透明な立体物が頭の中を通過していく。
岩本氏はまっすぐ私を見ている。
どう話を展開させるべきか迷っているんだな。そうとも、私は緩衝材だ。ここで機能せずして何が緩衝材か。救援を求めているのがありありと伝わってきた。
自分でどうにかしろ、と言いたかった。助けてほしいのは私だ。この場を脱して逃げ出したとしても、私に問われるのは『極端に寡黙な人間を引っ張ってきた』というスカウトの責任だけだ。会話繋ぎを放棄した責任で減給処分が下りはしない。例え前者の方が致命的であろうが、さっさと席を外したいのは変わらなかった。
記憶している限り、岩本氏はここまで黙り込むような人物ではなかったはずだ。少なくとも、自分の意志を持って我が道を進んでいく勤勉な研究者だった。
私が岩本氏と最初に顔を合わせたのは、かれこれ三年も前の話になる。
哺乳綱奇蹄目サイ科クロサイ属の奇蹄類。アフリカ大陸南部に生息。角を目的とした乱獲が原因で個体数が減少した。IUCNレッドリストでは絶滅危惧種に分類されている。
近年、保護活動により個体数が増加しつつある。活動の一環として一部個体にタナトマ抽出が実施された。
欧州のサイトへ出張し帰路に着こうとしたとき、一本の電話が入った。上司である人事局部長は帰国ついでに寄ってほしい場所があるのだと指示を発した。
アフリカ南部に興味深い人材がいる。日本人だ。是非とも財団へ勧誘してほしい。
ついでで含んでいい距離ではないように思えたが、仕事となれば従うしかない。日本への便を名残惜しく感じながら、私は南へ向かう飛行機に乗り込んだ。突然の面倒事に、後から送られてきた資料を読むのも億劫だった。
とはいえ、興味深い人材という評価に狂いはなかった。今まで、人事官として山ほど人間を見てきた。面白くない人材は即座に記憶から切り捨てるのが私の性になっている。例え実績や試験のスコアを堂々自慢できるほど優秀であっても、どこか吹っ切れていなければ財団での職務は務まらない。つまらない人間は覚えている意味がない。その持論は周囲にも知れ渡っている。
今回のスカウト対象は、確かに興味を感じる人物だった。気に入るほど好感を持ったわけではないが、経歴にどこか引っ掛かる部分があった。
岩本雄文たけふみ。国立大学の理学部に進学し、生物情報学を専攻。研究室では同期から一つ飛び抜けた存在だったという。
意外性を持ち始めるのはここから。大学卒業と同時に岩本氏は日本を発った。国外の研究所への就職が噂される中、南アフリカに滞在していることが発覚する。野生動物保護団体に所属し、現在絶滅危惧種であるクロサイの個体数回復プログラムに参加していたのだ。
生物情報学は遺伝子やら生理現象の解析やら、要は生命の仕組みを研究する分野らしい。生態系保全活動と重ならないとまではいかないが、分野としての方向性に明らかな差異があるのは間違いない。本人の意識が関係しているにしては、クロサイはおろか動物に惹かれていたという話題すら事前調査では浮かんでこなかった。
重い過去を抱え込んだ人物かもしれない。何かが嫌になって日本から逃げ出した可能性もある。そういうはぐれ者を掬い取るのが財団だ。そもそも、真っ当な夢に向かって研究する学者は他の世界を見向きもしない。
遺伝子研究のプロを一人でも多く確保せよ。オブジェクトの異常性解析を進めたい日本支部直々のオーダーだ。私としても空振りで終わらせたくない仕事だった。何せ、アフリカまで来たのだから。
ただのサイ好きじゃないといいんだが。
タクシーの車内で頬杖を突いたのを記憶している。季節は12月、南半球は真夏。クーラーは碌に効いておらず、暑さに顔を傾ける。窓の外、タクシーの進む先で、古いコンクリートの施設が私を待ち構えていた。
何となくサイに似てるな。純粋に、そう思った。高い背丈や広い肩に反して臆病な草食動物。厳つい顔には小さな目が付いている。作り笑いを浮かべることなく、硬い表情を頑なに保つ。心を開くつもりがないのではなく、心を開く習慣が彼にはないようだ。
「それで、俺に何の話でしょう」
岩本氏への連絡は、現地のサイトが取ってくれた。日本の動物保護団体が研究協力を申し出た。それが今回の口実だ。彼は見事に釣り上げられ、財団が持つ施設の部屋の一つに招待された。
部屋に入ってきた当初、岩本氏は不安そうな面持ちをしていた。私が席を示すまで直立不動で、示されるや否やそそくさとソファーに腰を下ろしたのだった。早口で挨拶をする最中も、落ち着かない様子で腿を撫でる。知らない檻に通された野生動物の挙動のようだ。
卒業から三年経ち、彼は二十五歳。自ら辺境の地を望んだ人物にしては、いくらか気が弱いように見える。
「君さ、サイっぽいって言われない?」
「え」
「いや、失敬。忘れてくれ」
癖が出てしまった。まぁ、アイスブレイクには丁度いいだろう。岩本氏は目を丸くして、口を開けたまま固まったが。そんな彼をよそに、私は名刺を差し出した。
「私は吹上 真。そして、動物保護団体には所属していない」
私の目の前で、彼の驚嘆がより深刻そうになっていく。騙されたと気付いて自分の身の心配に転じる。警戒されては話もできないので、さっさとその不安を払うことにした。
「落ち着いて。別に危害を加える気も何かを奪う気もない。君と接触するために別の団体を名乗っただけで、研究協力の申し出であることに違いはないからね」
「は、犯罪には協力しませんよ」
食い気味に、岩本氏は返した。なるほど、正義感に溢れる人物ではあるのか。勤務先から考えてもおかしなことではない。なら、その正義感を活かせるのだと動線を引いてやろう。
「私の属する組織は私利私欲のためには行動しない。世界の助けになる仕事さ。クロサイの保護と同じで」
犯罪行為の有無についてはぼかす。相手に与えるべき情報ではない。
そこを突かれる前に、衝撃の大きい一言で意識を逸らす。
「岩本くんは、モケーレ・ムベンベを信じるかい?」
「何ですか急に……信じてませんけど」
「数十頭しか確保できてなくて、繁殖も安定していないんだよ」
鞄から書類の束を突き付ける。クリップで写真が添えてあった。硬い肌と巨躯。ゾウのようでもあり、恐竜のようでもある。首と尾の長い、生物図鑑では見られないシルエットをしていた。
モケーレ・ムベンベといえばアフリカに伝わる未確認動物の一種だが、人類の大半が確認できないように隠蔽された動物がその正体。進化論から外れた特徴のため1980年代に財団によってオブジェクトとして回収され、現在も収容が維持されている。現存するムベンベ像とは、その残影だ。
岩本氏は書類を手に取り、目を走らせた。ムベンベが実在する科学的根拠が、紙の束には記されている。わなわなと、彼の書類を掴む手が震え始めた。分かるよ。私も最初はそうだった。空想が立体感を持った瞬間は、どんな人間であっても興奮が焼き付く。その興奮は、新しい世界を立証する強い説得力になる。
「まぁ、なんだ。実在するんだよ。そういうのがさ。その資料がフェイクだと思うなら奥に連れて行ってあげよう。ここの地下に、足を怪我したムベンベが運び込まれてるそうだ」
「え……あの。ごめんなさい。俺、まだ着いていけてない、です」
書類をテーブルに置き、岩本氏は髪を掻き上げる。その動作を繰り返した。本当のところは頭を抱えたいのだろう。その欲求を中途半端に抑えようとして、何度も頭を掻いているように読み取れた。
目を見開いて、岩本氏は私を見た。標的として照準を定められた気分に陥り、私にも緊張が伝播する。その緊張は、彼の声が震えていたことで若干崩れた。
「実在、するとして。あなたは俺に何の用があるんですか」
勘はあまり良くない。それも仕方がないか。私は顎に指を添えて思案しているふりをした。それから、テーブル上のムベンベを指で叩く。
「そういう存在はまだまだ未解明な点が多いんだ。さっきも言ったろ、安定した繁殖ができてない、と。だけども時間は進む。寿命も死亡要因もはっきりしない生物の時間が削られていくわけだ。分かるだろ、保護活動者くん」
「……ムベンベもまた、絶滅の危機に瀕している」
「正解」
岩本氏は冷静さを取り戻しつつあった。話が自分の活動内容に近づいてきたからだろう。警戒心も解けている。
「我々の組織はそれが本業ではないが、必要な職務ではある。ところで、君の専攻は生物情報学だそうじゃないか。こうした異常な生物の生命システムの解析に、君のような人材を欲しているんだよ」
彼の倫理観が財団の実態を受け付けるかとか、細かい埋め合わせは後でいい。まずは本人を舞台に乗せる。フェンスを飛び越えさせる活力を滾らせれば、相手の方からやって来る。引き摺り込まれたのと飛び込んだのでは背負う感情が異なる。結局は引き摺り込まれたのだとしても。
待遇など、細かな情報も付け足す。アフリカはおろか、日本での平均的な生活をも凌駕する環境を提示する。
私はムベンベを叩いた手を回し、手のひらを上にした。
「我々に手を貸してもらえないかな?」
彼の瞳が私の手を凝視する。
言わずもがな、取らせるために差し出した手だ。選択をさせてはいるが、実際は一択。この手を払うには、相応の理由が必要になる。幼少期からサイに魅了されていただとか、そういった時間や労力が裏側にある理由が。岩本氏にはその理由が見当たらない。
取れ、手を。私はとっとと日本に引き返したかった。
岩本氏は口を薄く開いて、細く息を吸う。微小な呼吸の音が聞こえてきた。
十分考え込んだ末に、彼は声を発する。
「あの、せっかくなんですが……お断りします」
彼は拒絶を選んだ。
そうか、そうか。無類のサイ好きか。仕方ないな、それなら。在学中に劇的な事件でもあったのだろう。あるいは逃げてきた先のアフリカを深く深く愛したか。
手を引っ込め、目を瞑る。交渉を何と断ち切ろうかと言葉を選んでいた最中だった。
「俺、今のままで満足してるんで」
この言葉だ。岩本雄文の名前が、私の記憶に残るようになった原因は。彼についての資料を読んだときと同じ引っ掛かりが、私の中に生まれた。
満足している。妥協。幸せの代替表現かもしれないが、彼の表情からは少しも多幸感を感じられない。現状のままでもいい。消極的に日々を享受する人間の顔つき。だから、妥協だと判断する。家族がいるとか生活上の問題があるなら理解できる。それを承知の上で解決策も一緒に提案するのが財団のやり方だ。岩本氏の場合、問題は何一つなかった。
この状況で断る理由はサイに拘る以外ありえない。サイの保護を渋々やっている? そんな馬鹿な。
何が岩本氏を引き留めるのだろう。
晴れなさそうな疑問が、私の頭の中で渦を巻く。尋ねたところで本人も言語化はできるまい。
答えを見出そうと思考するのを数秒続け、息を吐いた。面倒くさい。相手の意思は聞いたから、日本に帰ろう。
「分かった。私は君の意思を尊重しよう」
ソファーから立ち上がり、鞄だけ掴んでドアへ。廊下へ出る間際に、ドアの隙間から引きつった顔の岩本氏が見えた。狼狽える声はしていたが、ドアを閉めたらもう聞こえない。
天井の一角に取り付けられた監視カメラを見つけ、腕でバツを作って掲げる。
ドアの向こうから、気体を注入するシューという音がした。それを聞き流して、私はサイトの出口へと歩く。記憶処理、病院へ搬送、熱中症による記憶の欠落。この後の岩本氏の流れは概ねそんなところか。
変な男だな。岩本氏に対する私の印象はサイから格上げされた。もし今後会う機会があれば、じっくり彼の理由を引き出したいものだ。できれば、日本で。あのときはぼんやりと、そう思っていた。
あれから三年。
タナトマの発見と抽出が世界を狂わせた。人間の世界だけでなく、クロサイの世界までも。
正式名称は「擬液相性致死的事象」であり、タナトマは製品名である。生命から液体として抽出された死という現象そのもの。死因ごとに抽出しなくてはならない。
その概念は社会全体に広まっている。タナトマの抽出を完了し、実質的に死を克服した人物も多数存在する。
ゼーバッハ中央製薬の記者会見は、日本では午後八時に始まった。終業時刻を過ぎていたからか、サイトに滞在していた職員のほぼ全員が休憩室に集まっていた。騒ぎ立てる世間とは違って、誰も取り乱してはいなかった。世界が変わる瞬間を見届ける。超常に関わる立場でしか許されない態度だな、と私もコーヒーを啜りながらその様子を眺めていた。
大勢の視線が、娯楽用として設置されたテレビに集中している。画面は報道番組のスタジオから中継に切り替わる。レポーターの背後で絶えず流れる雑音が、会場の人の密集具合を表していた。主要なメディアは必ず記者を送ったのだと考えると、歴史上最もスイスが注目された日だったのかもしれない。
やがて、ゼーバッハの研究員たちが姿を現し、用意された席に着いた。会場が静まり返る中、責任者らしき人物が演説台に移る。マイクに向けてドイツ語を話し始め、日本のスタジオにいる通訳が数秒遅れでそれを訳した。
「我々は生命の死を引き起こす現象を、生物の体内に発見しました」
カメラのシャッター音が立て続けに起こる。無機質な機械音はやたらと連続し、喧しく重なっていく。記者たちの胸のざわめきを表しているかのようだった。静かな水面に石を投げた直後みたく、動揺が世界規模で広がっていくのを想像させる。
また一つ、石が投げられた。
「この概念を物質化して除去することにより、我々は皆さまに不死を提供いたします」
現在タナトマという製品名で売買が行われているこの概念が最初に報じられたのは、会見の二週間ほど前だった。スイスの新聞社からビッグネームのメディアに広がると同時に、動画サイトで公開された映像が全世界の注目をかっさらった。
爆薬を括りつけられたネズミ。そのサムネイルから、動画は元のタイトルを無視して『ボム・ラット』と呼ばれた。
まず、実験用ラットが器具で固定されている場面から動画は始まる。ゴムチューブの付いた注射器が映り込み、針はネズミに刺さる。注射器には血液よりも濁った赤い液体が溜まっていき、チューブを通じて画面の外へと流れていく。注射器は交換され、何度かその手順が行われた。
場面は変わる。屋外、それも草原らしき場所。金属の檻を背景に、先程のネズミが再登場する。爆薬を括りつけられた状態で。撮影者はネズミを檻に入れると急いで離れ、檻を置いた方を映して止まる。
ピッ。軽い音が鳴る。直後、轟音が画面の奥で響き、視点自体も体勢を崩して空が見えた。撮影者の荒い息遣いとともに、画面は檻へと寄っていく。抉れた地面、焦げてひしゃげた檻。内側で、ネズミの鳴き声がした。曲がった檻の扉を叩き破壊して、撮影者はネズミを取り出す。手の上でネズミは与えられた餌を食べる。終了。
起こった現象は私でも説明できる。爆死、その他爆薬によって起こり得る死の抽出。それをネズミに施して爆破。結果、ネズミは死ななかった。
ゼーバッハのパフォーマンスは、ある意味でベンチャー企業らしいものだった。死を物理的に取り除くことが可能だと、興奮させる演出を伴って主張する。理にかなった戦略だ。当然方々から批判されたりフェイクだと疑われたりしたが、弱小企業の発表にメディアを引き寄せるには十分だった。
世紀の発見タナトマの発表を、財団とその職員たちは冷静に受け止めた。なぜ、と尋ねるまでもない。この一連の騒動自体が、財団の仕組んだカバーストーリーだからだ。
『ボム・ラット』が投稿される前日、職員への全体通達があった。落胆したくなるような内容だった。
あるオブジェクト絡みの事故が原因で、不特定多数の一般市民から死が液体状になって抽出されてしまった。もし彼らの不死性が明るみに出れば、超常を覆い隠しているヴェールを揺るがす事態になってしまう。隠蔽するにも時間がかかる案件であるのに対し、対象そのものはいつ爆発するか分からない。いつもみたく包んで隠すのでは間に合わないと踏んだ上層部は、思い切った決断を下した。
死を抽出するという超常的な技術を、ペーパーカンパニーを通して公開する。異常を正常に再分類し、異常が漏れ出たと解釈させる隙を抉り出す。言い換えれば、死の抽出を財団認可の上で普及させるという策だった。
随分と大胆な決断をしたもんだ。当時の私は、呆れのような、感心のような、とにかく安定しない感情で会見の映像を見ていた。人が死ななくなる。生きるのに飽いたときは死ねるという保証書付きで。それを一般社会に解放することの意味を掴みかねていた。
私の仕事に深く影響しないならそれでいい。いつも通り受け流す心積もりでいた。
「これから、どうなっちゃうんでしょうか」
休憩室にいた誰かが零した。人類の脅威を収容する財団の立場は変わらない。死なない人間が現れようが、これまで通り異常な存在を隔離していけばいい。何も変わらないはずだ。だから、財団の職員として発したものではないのだろう。
声色には、生きている人間が常々覚える、先の見通せない未来への不安だけが籠っていた。
その声を塗り潰すかのようだった。
死を克服した。月日を経るにつれ、歓喜の絶叫が世界各地で聞こえるようになっていく。
タナトマは二年で人々に受け入れられた。三年もすればこの世の常識になっていた。
こっちは休憩室で聞いた声が、まだ引っ掛かって抜けないままでいるのに。
世界は著しい速度で変貌した。
転落死がなくなったので工事の効率が上がった。事故死がなくなったのでモビリティが発展した。中毒死がなくなったのでフグの肝は珍味になった。人は生身で深海や宇宙に繰り出すようになった。安全は配慮しなくてもよくなった。自由に無茶ができるようになった。
意外だったのは、慈善団体もタナトマを活用し始めたことだ。
最初に、飢餓を救うために餓死のタナトマを抜き取る団体が現れた。この団体の行動は物議を醸したが、生死の境にある人々を前に御託を並べる暇があるのかという意見に全員黙らされるのが常だった。
タナトマ抽出で人が救える。その事実が、タナトマ抽出技術の普及に拍車をかけた。
人が死ななくなるのは良いことだ。良いことなのだから、率先して実行するべきだ。タナトマは抜き取らなければならない。そういった論調が、タナトマ抽出を懐疑的に見ていた層を覆していった。
タナトマの抽出は、次第に自然に対しても行われ始める。主な対象は絶滅危惧種。密猟や感染症などの死亡リスクを取り除き、より安定した個体数回復を実現するためだ。
これにも反発が起こる。不死もするのは過介入、自然な生態系を崩すという主張が反対派の主な意見だった。しかし、捕食による死のタナトマさえ抽出しなければ上位種の個体数も確保可能だと返され、反対派の意見こそ感情的だと批判する派閥が数で勝るようになる。種を絶滅寸前まで追いやった人類の責任を果たすときが来た、タナトマ抽出が過介入なら今までの保護活動も過介入だ。
様々な激論が飛び交った末に、次の一言で議論は終幕した。
死なないのが一番じゃないですか。
かくして、絶滅危惧種へのタナトマ抽出がそれぞれの団体で行われていった。繁殖のリスクが消滅したことで、繁殖の安定性が向上した。幼体、未生体時での死亡も回避できるようになったので生まれた個体は確実に成長し、個体数は倍々になっていくと予想されている。
タナトマ抽出は人類の希望だ。人類が長年解決できなかった問題の多くを見事に解決したのだから。
今ではそうした賛美をあまり聞かなくなったが、効果が現れ始めた数ヶ月の間はよく耳にした。
岩本氏が保護団体を辞めたのは、その賛美が最高潮に達した頃だったという。
彼の属する団体がクロサイからタナトマを抽出すると発表した時期と、岩本氏の退職は重なっていた。
生命の終わりにあるもの。
存在する限り恐怖に苛まれるため、タナトマ抽出を用いて取り除くべきである。
外回りを終えてサイトに戻ると、昼休憩の時間に入っていた。
食事のためにカフェテリアのある区画を訪れる。飲食スペースに一つ、白衣を着た大きな背中が見えた。
「岩本くん、調子はどうかな」
正面へ回り込み、席に座る。声をかけられた岩本氏はびくりと身震いして、それから会釈した。卓上に突き出した腕の内側には、空の紙コップとプラスチックの包みがある。
互いに何も発さないまま、時間が過ぎていく。和気藹々とした周囲に比べ、穴が空いたかのように静かだった。岩本氏は何度かこちらを見ては目を伏せる。腕の中のゴミを握っては手放す。それを繰り返していた。一方で、私は彼の顔から視線を外さない。未だ、彼の内面についての興味は尽きていなかった。この状況で何を言うか、気になるところだ。
管理官との顔合わせは、私の計らいで何とか乗り越えさせた。採用自体は決まっていたからあの段階で落とされなどしないが、私が散々フォローに回ったのも確かだ。
黙って立ち去るような人間ではないと三年前の記憶が物語っている。私は彼が口を開くのを待った。待ち続けた。自分でも嫌なやつの行動だと思う。それでも見逃したくなかった。
とうとう耐え切れなくなったか、岩本氏は頭を上げた。
「あの、すみませんでした。管理官と顔合わせしたとき、何も返せなくなってしまって。そのせいで、吹上さんにご迷惑を」
彼は一度上げたはずの頭を下げた。いくらか勢いが付いていた。
数十秒、私は岩本氏の頭の天辺を見続ける。別に謝罪を求めていたわけではないが、何にしても話しやすくはなっただろう。彼がずっと頭を下げているので、私は分かりやすく喉を整えた。
「いいよ、そのことは。あれをやるのがあのときの私の仕事だったんだから」
おそるおそる、といった具合に岩本氏は頭を戻した。まだ体の動きは硬い。
会話が途切れないうちに、言葉を継ぐ。
「ただ、教えてくれないかな」
「えっと……何を、ですか」
「なんで、サイが死ななくなったのでって答えたんだ?」
途端に岩本氏の目が方々へ泳ぎ始める。小さな目をはっきり開けて、黒目の見ている方向は定まらなくなった。眉は寄り、口も微かに開く。困ったときの表情をこんなにも隠さない人間は逆に珍しい。
「目を逸らすな」
「はいっ……」
両の目が急にこちらを向く。相変わらず怖い顔をしている。気圧されてしまいそうになるが、堪えどころだ。座高の高い岩本氏の目に、見上げる形でこちらの視線を合わせ続ける。
情報が私に届いた頃には、岩本氏の退職から半年が経っていた。職員候補として情報収集が行われていたため他の人物よりも優先度が低く、情報の入手が遅れたらしい。人事局部長の指示を受けてスカウト担当に再任された私は、日本に帰国したという岩本氏を尋ねた。記憶処理の影響で、彼は三年前のことをしっかり忘れていた。
二つ返事だった。安いアパートの部屋で、岩本氏は財団への参加を決めた。
口数は以前よりも減っていた。虚脱感に包まれている、と言い表すのが正しいか。彼の発する声には生気が全くなかった。感情表現に乏しい人間でも、しっかりと抱えている思いがあれば強く身構えているものだ。三年前とは明らかに様子が違っていた。
今の岩本氏は、何もかもが抜け落ちたかのようだった。持っていたはずの正義感も、相手の考えを伺うような慎重さも。財団は人体実験を行う組織であること、危険なオブジェクトと対峙する可能性もあること。全て説明した。それでも彼は頷き、現在は財団の白衣を身に纏っている。
岩本氏はサイへの固執すらも落としてしまったらしい。
これまで、機会を見ては何度も尋ねた。もうサイはいいのかい。その度に、岩本氏は聞こえない振りをする。聞き出す必要はなかったが、晴らしておきたい疑問ではあった。
半ば諦めかけていたそのときだ。岩本氏は言葉を口にした。
サイが死ななくなったので。財団への再就職の理由に、彼はサイを使った。
他の絶滅危惧種と同じく、クロサイが動物種として不死を得たのは広く知られている。捕獲した個体から順々にタナトマが抽出され、クロサイはもはや寿命以外では死亡しない。密猟被害も抑えられ、大衆はこの場合もタナトマ抽出を好意的に捉えている。それでも、クロサイはまだまだ支えていかなければならない。タナトマ抽出が保護団体を食いっぱぐれさせるような事態は起こらず、むしろ新時代の保護方法を模索するために人員を募集しているくらいだ。
サイが死ななくなったところで、岩本氏を取り巻く環境は変わらない。あくまで、環境は。
「分からないんだ。サイに奉仕していた君がころんと辞めた理由。わざわざそれを仕事にするくらいだから、責任感を持ってるのかと」
「誰かから、頼まれたんですか? それを聞くように」
「いやいや、興味があるから聞いてるだけさ。でもまぁ、同じようにウチをころんと辞められても困るし」
尤もらしいことを言って圧をかける。岩本氏の顔はさらに引きつって、それから魚みたいに口を動かす。言葉に詰まって声らしい声を出していないことを、彼は数秒遅れで理解した。
「その、あの」
「ゆっくりでいいから。その感じ、自分でもどうしてああ言ったか掴めてないでしょ」
僅かな頷きが返ってくる。
「言葉にしてみなよ。どんな言葉でもいいから。言葉にして、体から引き摺り出せばいい」
促すと、岩本氏は右手を鈍く頭へ動かした。前髪の裏に指を入れ、髪を掻き上げる。三年前にも見た彼の癖だ。言い淀んでいる。視線は下に逸れ、目は紙コップと包みを見ていた。今度は指摘しなかった。
岩本氏はぐっと目を瞑って、ゆるゆると開いていく。錆びついたシャッターを連想させる瞼の動作とともに、小さな声が漏れ出た。
「昔、テストで百点取ったら褒められたんすよ」
時間をかけて出てきた返答は、どこか焦点がブレていた。それを訝しがるのが顔に出そうだったが、自分の表情の歪みを悟って口許を引き締める。
岩本氏はこちらを一瞥して、また目を机に向けた。睨むような顔つきになっていたが、私に対する敵意ではないようだった。丸い玉を繋いでネックレスを作るように、彼は一つずつ言葉を紡ぐ。
「良い成績取るのもボランティアやるのも、全部褒められた。褒められるって分かったら、どんどんのめり込んだ。周りの勧めで良い大学の響きの良さそうな学科に入って。だけど、真っ直ぐ就職するのは気が乗らなかった。もっと、自分を犠牲にして貢献できることがあるんだろうなって、考えてたんです。そしたら」
そしたら、の先はなかなか出てこなかった。その間に何度も前髪を掻き上げる。束になっていた髪が解け、細い線の集合になっていった。指先に力が籠り、髪を掴んでいるのと大差がなくなった。左手が掴んでいる紙コップは、力が加わって緩く変形し始めている。
岩本氏は息を吸って、吐くと同時に音にした。
「サイが死にかけてました。これだ、と思って。教科書でもコマーシャルでも、みんなサイが死にかけてるのを嘆いてた。それを思い出したんです。英語は褒められるうちに話せるようになってたんで、とにかくアフリカに飛びました。最初は怪しまれたけど、受け入れてもらえました。俺も団体のみんなも目的は同じなんだなって、そのときは思いました」
落ち着いていた声が震え出していた。がたがたと歯が打ち合って鳴る音が耳に届く。何かに怯えているような動揺の仕方だ。口にするのを躊躇って、それでも口にしなければ前に進めない。目は泳がず、歪む紙コップを直視している。
くしゃりと、紙コップが潰れた。
「タナトマが見つかりました。抜き取れば、生き物が死ななくなるそうです」
岩本氏は左手を開く。握り潰された紙コップは、醜い格好のまま自立した。彼は左手で机を撫で、空気を揉んで、持て余した。
「人が死ななくなりました。死んでしまう人を助けるためにタナトマ抽出を使う人が出てきました。そんで、ウチの団体のメンバーが言い出したんです。これを使えばサイの絶滅は確実に回避できる、なんて」
声色が変わる。嘲りが混ざり始めた。誰を笑っているのかは分からなかった。
「すごい揉めたんですよ、いろいろ。だけどみんな、サイをどう助けるかって信条を軸にしてて。意見を言う前に全員こう付けてましたよ。タナトマ抽出は素晴らしい技術だから、それか、タナトマ抽出は素晴らしい技術だけど、って」
余っていた左手が頭に乗った。ずるずると下がっていく右手に代わって、左手が髪を掴んだ。腕の動作は交互に繰り返され、やがて岩本氏は机に両の肘をついた。重い頭を支えるような姿勢になり、頭はどんどん沈んでいく。
喋り出す前に、ふっ、と笑いが入った。
「俺は違いました。両方の意見に乗れなかった。サイが死ななくなるのは歓迎してるみたいな言い方に聞こえて」
岩本氏は嘲笑を自分に向けて発していた。それが分かった瞬間の彼は、より一層弱々しく映った。群れからはぐれた動物みたいに衰弱している。頑強そうな体が縮こまっているのが、私にはそう見えた。
声量が大きくなっていく。周囲の騒めきを貫通して、嘆きが飛んできた。
「サイが死ななくなるのを、俺、喜べなかったんです。良いことのはずなのに。なんでだろ、ってしばらく考えてたんですよ。そしたら、俺、俺は、俺は」
私は言葉を待った。待たされた。いつの間にか、岩本氏は全部をかなぐり捨てて突っ込んできそうな気迫を纏っていた。
「サイなんかどうでもよかったですよ。タナトマ抽出がサイを死ななくするなら、俺がサイ守んなくてもいい。俺がやるべき良いことが、消えちゃったんです」
言葉の合間に鼻を啜る音が聞こえる。ぐずぐずになった声を必死に張り上げ、声として保っているようだった。
「それで、俺は、俺が良いことやるのが一番大事だったんだな、って気づいちゃって。だけどそんなの、何一つ良く、正しくないじゃないですか」
髪を掻き上げるだけだった手が、平たく広がっていく。曲がっていた指が伸び、その隙間からは髪が出ている。
岩本氏は頭を抱え込んだ。吐き出す語句の一発一発が重く、苦しそうだった。
「俺は正しくなかった。俺の生き方はひん曲がってて、邪で。正しさに雁字搦めになった俺は、なんにも正しくない」
阿呆でしょ、これ。俯いたまま、そう自嘲する。
徐々に頭が上がり、手の隙間から目許が覗いた。頬に流れた涙が照明に照らされて輝く。それでも、瞳はぎらついている。助けを求める目ではなかった。一緒に自分を貶せ、と言っているように見えた。
「こんな俺がサイ守る意味なくないっすか」
彼は堰を切ったみたく喋り出す。
何をしてもやることは正しくならないんだろうと思った。何もする気が起きなくなった。日本に帰国したのは意味を見失ったから。それでも金は必要だった。だから、私に流された。
「サイが死ななくなった以外に理由なんかないんです。サイさえ死ななくならなけりゃ、俺は曲がったまま正しかった」
は、は、は。途切れ途切れになった笑いが聞こえた。
他の職員たちは岩本氏に目も向けず、昼の長閑な時間を過ごしている。食事をし、談笑し、コーヒーを啜っていた。彼の笑いも雑音に吸い込まれて消える。しかし、頭を抱えて小刻みに揺れる岩本氏は確かに私の視界の正面に居座っていて、対話相手になるよう私に強制していた。
そうか、そうか。岩本氏の話を受け止め切った後、私は情報を頭で転がした。
サイが死ななくなったので。やはり、言葉の通りの意味ではなかった。翻訳するとしたら、こうだ。
俺が正しくなくなったので。
随分と長い時間が過ぎたように感じた。数分に渡って、岩本氏の嗚咽を聞き流す。
彼の涙が収まってきたところだった。岩本氏はおもむろに立ち上がり、散々握り潰したゴミを拾い上げる。
「すみません、失礼します」
ふと、私も腕時計を一瞥する。昼休憩は終わりに差しかかっていた。あれだけ騒がしかった飲食スペースも静かになり、職員たちは仕事に戻りつつある。
岩本氏も座席横に置いた荷物を取り、場を去ろうとしていた。ゴミを拾った手の甲で、目許を拭いながら。
彼の背が遠くなっていく。寂しい背中だ。その背に、私はなぜか苛立ちを覚えた。
気づいたときには、私は岩本氏を追いかけていた。周りの目を考えず、言葉を発する。
「君は凄いやつだよ」
自分でも珍しいと思うくらい、衝動的だった。
その言葉自体は本心だ。サイの個体数回復に努めたのも十分称賛されるべきだが、何よりその正しさへの真摯な感情は類を見ない。人はどこかで楽をしようとするものだ。にもかかわらず岩本氏は正しさに向き直って、違和感を覚えたなら自分が間違っていると思考した。実直という他ない。
彼は立ち止まったが、振り返りはしなかった。
「やめてください。これ以上お世辞は聞きたくない」
「本当だって。徹底して正しくありたいなんて、凄まじいよ」
「うるさい」
私の投げた誉め言葉が遮られる。無理もない。その誉め言葉に歪められたのだと散々主張していた。
岩本氏はこちらを見ないで声を吐き出し続ける。
「俺は身勝手で自己中心的で、自分の正しさのためならサイが死ぬのを心では望んでた人間ですよ。正しい側にいるって思い込んで、悦に浸りたかっただけなんです。善人ぶって、正しさを利用して快感を覚えて」
「じゃあさっさと死になよ」
岩本氏がこちらを向いた。同時に、酷く怯えた顔になった。どうやら、今の私はとても怖い顔をしているらしい。少し、苛立ちが晴れた。冷淡な態度を表に出したのは久々かもしれない。
ようやく彼と会話ができる。素性を曝け出した感情のぶつけ合いができる。さっきまでは彼が吐き出す番だった。今度は私の番だ。
「正しさが全てだった君がどうしてまだ生きている? 正しくないまま生きて悔やんで、何か面白いのか?」
心に沸いた怒りが明確な像に変わる。岩本氏は優秀な人材だ。だからこそ、その優秀さを無視して自分を貶す彼を、私は許せなかった。
岩本氏の目が点になる。我に返って現状を把握したが、もう手遅れ。そんな焦燥が表れていた。
「痛いのが嫌ならタナトマを買えばいい。楽に死ねる世の中だろ、死になよ」
死が脅威ではなくなると、世界は死に寛容になった。生物はタナトマを抜かれれば死から逃れられるが、その反対も可能だ。タナトマを注入すれば、そのタナトマに基づいた死を得ることができる。当然ながらタナトマ抽出の方が流行しているが、タナトマ注入を行う業者もいるという。彼の収入から鑑みるに、上質なタナトマを入手して打ち込むのは困難ではなかったはずだ。
岩本氏は生きている。自己卑下を繰り返し、自分の取る行動は間違っていると思っているにもかかわらず。
矛盾していた。
それは彼も認識していたことなのだろう。私の自殺教唆めいた発言を聞いている間、岩本氏の顔はどんどん青ざめていった。もごもごと口を動かす。何か言いたげだが、形にならないようだ。拳は固く握られ、歯を食いしばったまま息をする。今、彼の顔を歪めているのは悔しさだろうか。過去の蓄積が彼を窒息させようとしているのだろうか。
喉を絞ったような、掠れた声がした。
「死にたくて、死にたいわけないでしょ」
迷いの果てに出た彼の言葉は屈折そのものだった。折れ曲がった回路から捻り出され、ねじれて不細工に固まって床に落ちる。一見すると意味不明な言葉だ。
岩本氏の小さな瞳には不安が映っていた。この返答が正しいか、曲がって解釈されはしないか。目から溢れた憂いに顔を覆われ、それが鼻や口を塞いでる。どれだけ正しさを憎んでも、正しさを求めてしまう。間違っている、歪んでいる、狂っている。その追求が自身を苦しめるとしても。
死にたい。その感情の根には、生きるのが辛いから死を選ぶという理由がある。生か死か。まるで二者択一だが、死を選ぶ人間の選択肢に生きていく道は用意されていない。自死を選ぶ人間は、あたかも自分の意思のように誘導される。
どんなに生きていたくなくても、死にたくはない。矛盾して屈折した感情で、大抵の人間は生き続ける。ぷっつりと折れた人間は死んでしまうが、生きていられる限りは生きていようとする。
私は彼の言葉に首肯した。それで正しいのだと思う。
「そうとも。本当に死にたいやつなんかいないんだ。だから君は生き続けた」
人はタナトマ抽出に縋りついた。いつか来る死を恐れ、取り除こうとした。不安を払うタナトマ抽出は良い行いだと認められ、加速した。その結果、何が起こったか。人が死ななくなって、社会がパンクを起こし始めた。
人が死ななくなったので住居は増え続ける。人が死ななくなったので交通量は増え続ける。人が死ななくなったので食料需要は増え続ける。人は生き続ける。ずるずると、ずるずると。苦痛で面白味のない生を惰性で生きる。
しかもタナトマを抽出しても、死に無関係な事象は人生に付随する。一度タナトマを抜けば、どれほど辛くても死に逃げられない。破産しようが奴隷になろうが、命は続く。老化して筋肉が動かなくなっても、それは死ではない。
理解していても、人はタナトマを抜くのをやめなかった。生きていられる以上の利益がない行為を延々と続ける。生きている意味を失っても、人は生きていた。
死なないのが一番じゃないですか。誰もがその綺麗ごとに辿り着き、拠りどころにした。根拠になっていないのを薄々実感しているくせに。
同意されると思っていなかったのか、岩本氏は当事者なのにぽかんとしていた。彼の鈍さに笑ってしまいそうだった。
「自分を捨てきれないでいる。そうだろ」
生は良いことで、死は悪。タナトマが出現したこの世界では、より一層その思想が強くなった。
果たして、自分を捨てずに生きてだけいる状態は悪なのだろうか。きっと大多数から否定されるはずだ。生きていることそのものに価値があって、命が持続しているのは尊いのだと。
死んでいないのが本当に生きていると言えるのか。そんなことは誰も気にしてはいない。面白くない人間が増えたように感じる。生きたいと思って生きている人間が、あまりにも少なくなった。生産性を求めて不死になり、恐怖から逃れるために不死になる。
誰もが自分の命に向き合わなくなった。誰もがタナトマに飼育されてしまった。
しかし、岩本氏は変わっていなかった。三年前に感じた引っ掛かりが、未だに残っている。
「君はまだ生きている。正しさを失っても、自分の正しさに対峙している。面白いじゃないか」
既に崩壊した、投げ出してもいいはずの命題を背負い続ける。
自分はなぜ生きているのか。その疑問に押し潰されそうになりながらも、自分の脚で立っていた。ただ、あまりにも負荷がかかり過ぎてはいたが。
財団に来たのは、サイが死ななくなったから。理由は重々承知した。
なら、これからの話をしよう。
「君がどう生きていくか、財団ここで私に見せてくれよ」
ひとまず、前を向いてくれ。うだうだと反省を垂れ流すより。
この世は良さも正しさも乱立している。各々が好き勝手に掲げて立ち振る舞っている。不変のように佇んでいる説明文だって、どうせ明日には書き換えられる。
自分の価値観を白紙にされた岩本氏が、一体何を軸にしていくか。彼の話を聞いてから、興味が湧いていた。だから、歩み出すその背を押してやる。
笑みを作り、岩本氏に向けた。普段通り、緩衝材としての役割を全うする。ぶつかり合う過去の彼と現在の彼を上手く混ぜ合わせ、未来へと受け流す。
岩本氏は固まったままだ。彼なりに、時間をかけて飲み込んでいるのだろう。握られた拳は、徐々に緩んでいく。その拳で目許をまた拭って、返事をした。
「やってみます、何とか」
声は力強かった。
返事を聞いて、私も安堵に包まれる。ふーっと息を吐き、踵を返して立ち去ろうとした。
後方でも足音が起こると思っていたが、音は何一つ聞こえない。振り向くと、岩本氏がその場に立ち尽くしている。私と本気で衝突した緊張が解けていないようだった。
返事の力強さに彼の態度が追いつくには時間がかかりそうだ。私は肩を竦め、氷を溶かしに向かった。何気ない雑談は得意な部類だ。
「そういえば君、何の研究班に配属されたんだ?」
「えーと……吹上さんって、セキュリティクリアランスは」
「私はただの事務員じゃない。君より上だ」
私が言うと、彼は申し訳なさそうに一度謝った。それから、言葉を捏ね始める。えっと、ううん、いや。間延びした声が流れる。口頭では余程説明しづらい概念を取り扱っているらしい。
これ以外に使える語彙がないと言わんばかりの表情で、岩本氏は口を開いた。
「モケーレ・ムベンベって知ってます?」
私は思わず噴き出し、うっかり呟く。
「生きていると何があるか分からないもんだな」
三年前の記憶がない彼は、ただただ首を傾げていた。
死んでいない状態。
現在のタナトマ社会で語れることは、あまりにも少ない。