「平山さん」
それまで昼食を食べていた平山と呼ばれた男へ、機械越しに老女の声がかかった。平山は、それが日本語話者によるものではないのではないかという印象を抱いた。
「平山 昇さん、こんにちは。私は、この組織の長の一人です」
平山は、あるときに突然やってきた警察を名乗る数人の男にパトカーに乗せられたかと思えば、突如としてガスのようなもので昏倒させられ、目が覚めたときには最小限の調度品しかない殺風景な部屋へと閉じ込められていた。そしてなにやら血を抜かれたり、奇妙な検査などを繰り返されてはや数年。その組織の長の一人を名乗る人物が室内に据え付けられているスピーカー越しに接触を図ってきた。初めてのことであった。
「突然失礼します。昼食は食べていただけたでしょうか?」
平山は静かにうなずいてから、ややあってはい、と答える。
「それは良かったです。これが始まりになります」
平山は首を傾げて、なんの始まりになるんでしょうか?と聞く。同時にテーブルの一部にポカリと穴が開き、そこから金属製のアームで掴まれた割り箸が一膳だけ出てくる。
「その食事の中には、あるものが混ぜられていました。不老不死の薬です。いえいえご安心ください。ある泉から採られた天然のものです。まあ今はそのお箸をじっくり眺めてください。大事なものですから」
平山は、大きく目を見開きながら目の前の料理を見る。泉、と聞いてまず目に入ったのは空になったコップだ。そういえば妙に美味い水であったなと平山はようやく思い至る。
「これであなたは老化が抑えられます。長く長く、生きられることでしょう。ご迷惑だったかしらね。ふふふ」
まるでたくさん煮過ぎた大根を隣家に持ち込んできたかのような老女の様子に、平山は眉をひそめる。ろくでもないものを飲まされたに違いない、だが、長く生きられるというのは本当ではないかと思う。最初にいた施設から移される時に、奇妙なものを見た。そういうものであったのだろう。平山はうんざりとしながら、いいえと短く老女に応じる。
「ともかくも、お願いがあるのです」
老女の声音が、少しく真摯さを帯びる。
「実を言えば、折り入ってお願いがあるのです。あなたにお箸を割ってもらいたいのです。具体的には2163年後に」
は、というぼんやりとした気体が平山の肺から漏れ出る。
「我々は失敗しつつあるのです。ありとあらゆる副次手段を使い果たし、保険もどれが有効なものになるかわからない。あなたは、その保険の一つ」
保険?と平山は聞く。
「すでに様々な奇跡、魔法、そういう手法があなたに対して施されています。我々の精髄が注ぎ込まれました。そしてその上での長大な計算の結果、運命はある一点に収束した。それが先程言った2163年後です」
老女は、厳かに言う。
「あなたは、その割り箸を、割るのです。遥かな時の果てに。未来はあなたの手の中にある。約束ですよ」
その言葉と同時に、割り箸は出てきた穴に吸い込まれて消える。平山にとって奇妙だったのは、その一膳の割り箸に奇妙な愛着を抱いているのを感じていることだった。
自然と平山はわかりました、と応じていた。この平山、もともと律儀な男でもあった。
「といいましてもね」
と、老女は打って変わってどうでも良さそうな風に切り出してくる。
「現状であなたがなにかすることはありません。普段どおりにどうぞ。ときにレクリエーションを楽しみ、飲み食いしたりなさればいい。以上です」
それを最後にフツリとスピーカーが沈黙し、老女が去る。部屋に残された平山は、キョトンとした様子で周囲をしばらく見回した後、残った昼食に手を付ける。そしてその日、それどころかそれからの数日は何も起こらなかった。時折、「職員」が運んでくる雑誌にテロが増えただの何だのという記事が散見されたが、隔離施設らしきところにいる平山には関係のない話だった。
平山は、次第に自分が壮大なヨタに巻き込まれているのではないかと思い始めていた。箸を割る?2000年後くらいに?バカバカしい。たしかにどちらかといえば自分は箸はきれいに割れる方だ。しかしそれはどちらかといえば、という話だ。なんの都合か知らないが、スプーンとフォークで食事をしている今はそれすら関係ない。フォークで肉を突き刺す。スプーンでスープをすくう。箸などいらないのではないかと思い始めてさえいるというのに。
食事、スプーン、フォーク。
食事、スプーン、フォーク。
食事、スプーン、フォーク。
それから何年が経っただろうか。
隔離生活はあっさりと崩壊した。
「緊急警報発令、重大なセキュリティ侵犯発生、職員は直ちに脱出してください」
そんなけたたましい放送が鳴り響いたかと思えば、閉じ込められている部屋の扉が唐突に吹き飛び、黒煙が部屋の中に入り込んできた。ゴホゴホとようやく息をつきながら、職員が逃げ惑う施設を訳も分からずに走り抜け、たまたま開いていたエレベーターに飛び込むと、そこはエントランスホールのような場所であった。そして、平山は数年ぶりに外の世界へと脱出することに成功した。
だが、その外の世界は平山の知るものとは一変していた。空には巨大な肉製の気球のような物体が浮かび、地上は霧のようなものに覆われている。そして人を著しく歪めたような奇妙な物体が、街だった場所を足を引きずるような不気味な足取りで闊歩していた。
それでも平山は、いやに冷静であった。あの施設で漏れ聞いたことのせいで慣れてしまっていたのかもしれない。とりあえず、鍵が開けっ放しになっていた民家を見つけると、平山はそこをねぐらにすることにした。平山は英語は余り得意ではなかったが、その民家に残されていたものから、今いるのがアメリカらしい事を悟った。なぜ?という疑問もあったが、この今はとにかく身を守らねばならなかった。戸に冷蔵庫など重い家具を寄せ、窓を塞ぎ、そこにあった食料をちびちびと食いつなぎながら一週間ほど耐えたところで、この小サバイバルは終わりを迎えた。
似たような服を着た人間の集団が200人ほどぞろぞろと街に現れ、武器を手に化け物を一掃していたのである。慌てて窓からまろびでるとおい、ここだ、助けてくれと平山はその人間達に声をかけた。
「あなたは、私達ではないようですね」
第一声はそれであったが、平山の着ていた中央の円に向かう三本の矢が描かれたジャンプスーツを見て、リーダーらしいその男は得心したように頷く。平山も、ガクガクと頷いて応じた。
「よく生き残っていましたね。さあ、あなたを保護します。ついてきてください」
わけも分からず、平山は彼らと行動をともにした。彼らは妙な空気をまとった連中だった。統率が取れているが、個々の人間に話しかけてもまるで同じような人格、性状をしたものばかりだった。まるでロボットだ、と平山は思う。素性を聞けば、彼らは目的地へ向かう道中であり、あの隔離施設と運営母体を一にする集団であるのだとだけ教えてくれた。
やっちゃったかな、と平山は思った。
だが目的地についた平山は、ホッとした。そこに広がっていたのは近代的な街並みであり、すでに復興の兆しが見えていた。彼らの拠点にたどり着いた平山は、知的だが機械的な印象を受ける、額の広い男と引き合わされた。平山が名前を名乗ると、その男は深く頷いた。
「無事の到着で大変結構です。復興事業は着々と進んでいますし、神はきちんと機能しています。予定されているように、あと50年でXK発生当時の水準に回復予定です」
神?と聞いたが、男は曖昧に首をかしげるばかりであった。そしてそこについてから程なくして、もともといたような殺風景な部屋をあてがわれた。だが、今回は特に閉じ込められるばかりでなく、たまに施設内の力仕事や、機械のメンテナンスの手伝いをすることもあった。
そして小さな恋があり、時たま病気をし、酒を飲みすぎて吐き、平山の上に50年の歳月が降り積もった。その間に彼らが財団と呼ばれる団体であり、世界が一度滅んでから救われていたのを知った。それを聞いて平山は乾いた笑いを漏らしたものだった。ともかくだが、平山に老化の兆候はなかった。あの老女の言うように加齢が抑えられているのだ、と平山はある時点で確信していた。そしてだんだんとこの隔離マニアの集団を我が家族のように思い始めていることに、平山はおかしみを覚えていた。
そんな夜。寝ていた平山は、部屋に白いガスのようなものが充満しているのに気がついた。火事かとあわてて外に出ようとするが戸の鍵は開かず、パニックに陥った平山はベッドに戻り、布団をかぶって一夜を明かした。そしてその翌朝からは、誰も平山のことを覚えてはいなかった。いや正確には覚えてはいた。見知った仲とおもっていた職員たちは平山のことをSCP-2973-JPと呼びなし、部屋から出ないように求めた。
そして昔のように週に何回かレクリエーションが実行され、数ヶ月遅れの雑誌が運ばれてくる。平山は、雑誌の日付をみて瞠目した。化け物から逃れて民家に入ったときに目に焼き付いたカレンダーの日付と寸分も違わない。雑誌には戦争が回避されたという記事が踊っていた。
平山に、狂気のようなものが襲いかかっていた。しかし、不思議に平山は狂わなかった。正気のまま平山は壁を頭で打ち、運ばれてくる食事を床に叩きつけ、叫んだ。そんなことが不定期な間隔で22 回続いた。頭で壁を打ち、運ばれてくる食事を床に叩きつけ、叫んだことではない。22 回世界が滅んだのだ。
そしてそのたびに、平山は人類が肉団子のタネのようにかき混ぜられるのを見た。あるときはおぞましい肉の軍団とロボットたちが戦い、天からさらに恐ろしい何かがやってくるのを見た。またあるときは、鎖を引きちぎった大いなるものが世界の表側に現れたりした。かと思えば、ときには可愛らしい白いもこもこしたものがありとあらゆるプラスチックを食い尽くして世界を滅ぼすこともあった。それらが平山が通過してきた世界の終焉だった。長い長い時間が経った。もううんざりだった。
平山の中に非人間的な無感動がじわじわと充満しつつあった。滅びが来るたびに、平山はただただ面倒くせえなあ、と思うようになってきてしまっていたのである。
だから、今度はなんだと肩をすくめてその事態を迎えていた平山だったが、23回目の世界の終わりは、平山の見たこともないようなものだった。宇宙に暗闇の壁があり、迫ってきたそれに飲み込まれれば地球は消滅してしまう。そういう種類の終焉だった。財団にももう打つ手なく、要人たちはどうやってか逃げたらしいと平山は担当職員に聞かされていた。
そして後しばらくで終焉というところで、懐かしい声が聞こえてきた。
「平山さん、失礼します」
あの老女の声。とうとう幻聴か、と平山が寝台から身を起こしてその声に答えようとしたが、それは一種の録音メッセージであるらしく、平山の声には答えなかった。
「こんにちは、私はO5-7。2163年前の今にこの録音を残しました。あなたの頭の中に、奇跡論的な手法を用いてね」
奇跡論、魔法のようなものだと誰かが言っていた気がする。
「このメッセージを聞いているということは、目論見は成功しているということです。ありがとう平山さん。人類を救い続けてくれて」
救う?自分はただただ世界にしがみついてきただけなのだが、と平山は思う。間接的にこの組織を助けてきたことが、あるいは救うことになったのかもしれないが。しかしそれに足る何かを残せた気も、平山にはしていなかった。
「複数のオブジェクトを組み合わせての因果律操作、あなたの生まれた場所に生えた檜の木を用いて作った割り箸にSCP-343の改変能力をもちいて、この最後の場にそれがあるようにする。超常的な手段に頼っても、我々は人類の存続期間延長を求めました。その鍵があなたです。SCP-2973-JP……平山さん」
鍵。平山は自分の中でかちりとなにか、錠前の開くような小気味の良い音がするような気がした。
「人類は、このメッセージを残してから数十日で滅ぶという予測が立てられていました。SCP-2000を用いてさえ立て直せないような事態です。しかし21世紀経っても人類は存続している。それは、あなたの力によるものなのですよ。平山さん。あなたはアルフィーネ、あれを凌ぐほどの強大な……いわゆる超能力をお持ちでした。細かいことはわからなくても結構、これは半ば独白であるので」
老女はため息を付いてから続ける。
「あなたの能力を用いれば22 回の終焉を回避できると計算エンジンがはじき出したときには、希望の灯火を見る思いでした。遥かな時の果てに、あなたに割り箸を割ってもらう。あなたの能力は、いかなる妨害にあっても割り箸を割るということにのみ特化していました。その力は他に類を見ない強大さでした。あなたが割り箸を割るという結果以外を全て打ち砕くほどに。時空を歪めても、他の現実改変能力者をぶつけてもどうすることも出来なかった。ですが、方向づけにはなんとか成功した」
「すなわち、あなたに見せたあの割り箸を割らせるということでした。それを可能な限り遅らせ、しかし確実にやって貰う。そのために我々は神々がかつて振るった武器や魔術を駆使し、運命をめちゃめちゃに切り裂きました。こんなことは、我々のポリシーに反するのですがね。とにかく遅らせた果てが2163年後、現在になるわけです。念の為、あなたに対して暗示によって、あの時見せた箸をどうあっても割らせるように仕向けようとしたり、他にも呪術的な誘導や強制を施しました。ただ、暗示や呪術の方が効いているとは信じていません。あなたは、無意識にでしょうが、私達最善の努力のほとんどを蹴散らしてきましたから。気休め程度のものでした」
「ですが、あなたはとても律儀な人物であるとは聞き及んでいました。ですから、私は申し上げたでしょう?『約束ですよ』と。私は、あなたの人間性に賭けました。そして勝ったのでしょう。これを聞いているということは人類は存続期間延長を果たしたわけですから。あなたにとっては無意識のうちだったのでしょうけれどもね」
「アストラカンの泉の水をコップ一杯、あなたが飲んだ不老不死の薬。そして私の言った約束。それらによってあなたは自分は生き続ける、最後には箸を割ると信じ、無意識のうちにすべてを実行した。ああ前者については、あれは嘘っぱちです。いかに若さの泉たるアストラカンの水でも、コップ一杯ではなんの意味もない。せいぜい数十年寿命が延長される程度です」
「そしてその思い込みが、2163年間に降りかかる災いを最小限に食い止めてくれたのでしょう。おそらく隕石は地球に当たる前に軌道が逸れ、天変地異は軽くなり、異界の神が攻め寄せたとしても、撃退できる程度の事態に収まる。全てはこの今の瞬間のためにあった。それでは、お箸を割ってください。お疲れさまでした」
メッセージが終わると、部屋の中に何かに導かれるようにして、半ば風化しつつある細長い木切れが転がった。それは一膳の箸であった。平山は、それを無言で拾い上げると静かにその端と端を持ち左右に引く。ああなんとくだらないことだったか。深く考えず、平山はそうぼそりとつぶやく。
割り箸は、下の方から分子の一つ一つがぷつぷつと音を立ててちぎれていく。それが平山には何故か知覚できた。長く一つであった檜の材は分かち難いものであるはずが、平山の手にあってはなんの障害にもならなかった。なめらかにパキン、と澄んだ音が部屋に響く。平山には、こういうときにやってしまう子供時代から続くある癖があった。割った箸の断面をすっと指でなぞる。そしてそのなめらかであるのを確認してほくそ笑むのだ。木のトゲは、指に一切かからない。遠い日の約束も果たされた。
ああ、満足だ。
うっとりと平山が目を閉じると同時に、全てを覆う暗闇が世界を覆い尽くした。