「この3日間は休んで、家に帰ると良い。ああそうだ。ついでにこれを、サイト-CN-█の王博士に渡してくれ」
サイト管理官はそう話しながら、私の膨れ上がったカバンに荷物をねじ込んだ。
頼み事を済ませ、ついでに王博士の使い走りをしていると、時刻は既に夜の3時を回っていた。不夜城はようやく鮮やかな殻を脱ぎ捨て、まばらな窓から溢れる暖色光だけが、サイト-CN-█に未練がましく残っていた。空は黒雲に包まれ、間もなく雨が降りそうだ。私は暫し考え込むと、手を振ってタクシーを呼び止めた。
運転手は中年の男だった。傷だらけの顔は、いささか恐ろしさを感じさせる……恐らくは、火傷の跡だろう。ピンク色の肌は、傷を作って間もないことを示している。不幸に首を突っ込むべきではないと知りつつも、尋ねずにはいられなかった。
「運転手さん、あんたの顔……何があったんだい?」
「ああ、これですか。先日、隣の家で火事がありましてね。ちょうど僕、その家に寄ってたんで、何度もドアをノックしたんですよ。でも、一向に開かないし、煙はどんどん濃くなるしで、最終的に蹴破るハメになっちゃって。幸いにも、手遅れになることはありませんでした。顔なんて安いもんですよ、一つの命を救えたんですから」
運転手は興奮気味に語っている。
「そういやあ、お客さんもご存知だと思いますよ」
運転手はカーナビ上の住所を指差した。
「僕もこの団地に住んでるんですよ。もしかしたら、ご近所さんかもしれませんね」
「あいにく、さっき戻ってきたばっかりでね。ここ数日、出張に行ってたんだ」
私は携帯を弄りながら、上の空で言った。
運転手は私の説明を聞いていなかったようで、止めどなく喋り続けていた。私は窓外の稲光を眺めつつ、ぼんやりと耳を傾ける。
「火事の起きた家はね、昔はとても幸せだったんです。一家三人、誰もが羨むようなご家庭でした。夫婦はどっちも国営企業の職員で、収入は多分、僕の何倍もあったでしょうね。その上、可愛い息子さんまでいたんですよ。チビの頃から賢くて、でこっぱちで、近所の人は皆、あの子と遊ぶのが大好きでした。僕もしょっちゅうドライブに行ったもんです。道中も、あの子はずっとお利口でした。泣かず騒がず、車窓に登って外を見てましたよ」
「あの子は次第に成長して、目鼻立ちが整ってきました。人に会えば必ず"おじさん”だの”おばさん"だの挨拶してくれるんで、皆とても嬉しそうでしたよ。夕飯後、あの子は親と一緒に涼みに出ることがあるんですが、ご近所さんに囲まれて、ああだのこうだの、質問攻めにされるんです。それでも、あの子は少しも面倒くさそうにしなかった。僕ね、いっつも思うんですよ。こんな息子がうちにもいれば、どんなに良かっただろうってね」
雨は土砂降りに変わっている。運転手は速度を緩めたが、口の方は相変わらずだった。
「だんだん、その子を見かけるのは少なくなりました。確か、どこかの進学校に入寮したそうです。たまに帰ってくることもありましたが、昔と変わらず、礼儀正しい振る舞いをしていました。ある時、僕は真夜中に帰宅したんですが、彼の部屋にはまだ明かりが灯っていました。電気スタンドの下で、せっせと勉強していたんでしょうね」
「大学卒業後、あの子は外国へ働きに出たそうです。それ以来、あの子は二度と帰っていません。最初の一年は、手紙を寄越してきたこともありました。確か、写真まで付いてたっけ。でもそれから、手紙はだんだんと少なくなって、内容も"私は元気です、ご心配なく"くらいになりました。まるで電報ですね。それに、ご夫婦を近所で見かけるのも少なくなりました。思えば、かれこれ4年はあの子を見ていません」
「電話に出ない、メールすら返さない。そんな状況は、ご夫婦をひどく慌てさせました。警察に通報しても、返事は曖昧なものでした……"ご子息は無事です"と。ずっと本人に会えないんです、そんなの"無事"とは言えませんよ。奥さんは元々、気さくな方でしたが、段々と寡黙に、無口になりました。時折、息子から手紙を貰って、ベンチでじっと読んでいるかと思えば、手紙を掲げて団地中、息子を見ていないか聞き回ることもありました。近所の人は皆、奥さんは気が触れてしまったと言います。でも、息子を見ない限り、その病気は治りそうにありません。僕は時々、ご夫婦の家に寄ることがありました。テーブルに置かれた手紙はしわくちゃで、薄い文字の上に、老夫婦の涙が滲んで見えるんです。僕は部外者ですが、読むとこう、胸が締め付けられるんですよ……」
語り終えるや否や、私達は団地へと到着した。私は馴染み深い老木を、子供の頃に座っていたベンチを、灰色に燻された窓を目にした。傘を叩く雨粒は、この物語のようにずっしりとしていた。