「ええと……ミセス・マイケルズ?」
「はい。」
「ドクターがあなたに、その、 見せたいものがあるそうです。」
ジョイス・マイケルズの父親はこの数ヶ月で初めて病院のベッドの上に座っていた。彼のベッドの脇の心拍モニターは一定のトーンで鳴っていた — 外されていたのだ。
「あんたは誰だ?」 その男は聞いた。
彼はついに目覚めたのだが、まだ明晰ではないようだった。
ジョイスは看護師に向き直った。「何が起きたの?」
看護師は言葉を探しながら言った。「私たちは生命維持装置をたった今 — 午前七時二分、GMTでいうと十四時二分に止めました。ですが……何も変わりませんでした。」
ジョイスの肺は焼け付くようで、心臓は遅くなったように感じられた。こんなことはありえない。
七時三十二分、三十分後。ジョイスは病院のロビーにいた。医師たちが、何が起きたのかを調べている間、彼女に席を外して待つように言ったのだ。
ロビーの角のテレビはニュース番組に合わせられていた。それは彼女の父親だけではなかった。それはあらゆる者に起きていた。過去三十分間、永劫の時の中で初めて、死により中断されることはなく、生命は続いていた。誰も死んでいなかった。動物たちでさえも。
カメラはある少年が腕に止まった蚊を叩いたところを写した。その残骸の中で、残ったものが飛び立とうとまだ藻掻いていた。
キャスターは笑っていた。"奇跡"、と彼女は呼んでいた。ジョイスは笑うことはできなかった — 彼女の心の中は、これから必要となるであろう膨大な仕事のことに占められていた。
「ヘイ、ジョイス。」
誰がオフィスに入ってきたのかを見る前に、彼女はすばやくメッセージをタイプし終えると、"送信"をクリックした。来訪者が、以前共に働いたことがあるダリル・ロイドであったのを見て、彼女は微笑んだ。「ヘイ、ダリル。今日は何の用で来たの?」
「新プロジェクトに配属されてね、別れを言いに来た。何をしていたんだい?」
「転属の希望をサイト管理者に送ったところよ。」
「見てもいいかい?」
「ええ。」
To: サイト管理者フレッチャー
From: ジョイス・マイケルズ博士
件名: オメガ-K研究の要請
ハイ、トム。
もしよければオメガ-K研究チームに転属したいと思います。私の専門分野と言うだけではなく、個人的な問題にも大きく関わることです。
私はSCP-2679やSCP-3138の分析チームで働いていたこともあり、両方共異常な死体の死因を探るものでした。オメガ-Kでは死体を分析することはないとわかっていますが、この経験はオメガ-K研究チームでもとても役立つと思います。
よろしくお願いします。
ジョイス。
「スペルミスはないな。良いね、」ジョイスの肩の上から画面を覗き込んで読み、ダリルはコメントした。「彼を"トム"と呼ぶほど親しいのかい?もう少しフォーマルな方が良いと思うけど。」
ジョイスは手を振ってコメントを却下した。「大丈夫よ。私たちは……最低でも三回は話した事があるわね。いずれにせよもう送ってしまったわ。」
ダリルはわざとらしく憤慨してため息をついた。「ところでもう遅いよ。エミリー・ヤングがプロジェクトを始めている — そいつはもうSCP-3984と番号が振られた。」
「もっと早く言うことはできなかったの?」
「eメールを送ってしまったのは僕のせいじゃないだろう。」
「それにしても、彼女は何でそんなに早く事を進めたのかしら?」
「文字通りあれが起こってから数分で立ち上げたみたいだね。どうやったのかはわからないけど。」
ジョイスは肩をすくめた。「彼女ならやりそうね。ところでどうしてその事を知っているの?」
「僕は彼女のチームの一員だ。」
「ああもう、それは不公平だわ。私をチームに入れることはできないの?」
ダリルは優しく笑った。「できるかどうかわからないね。彼女は少人数のチームにすることにこだわっていたから。」
「残念ね。」ジョイスはため息をついた。「そうそう、実は あと数分で会議に行かなくちゃいけないの。お喋りする時間はもうないわ。」
「これが……」ダリルは話し始めようとしたが、その声は小さくなり消えた。
ジョイスは彼を見た。長い間があった。「何?」
「これが携挙だなんてなんだかおかしいね。だけど僕の近所の人達は、いつもの日曜と同じように過ごしている。」
「携挙?誰がそんなことを?」
「ああ、ニュースを聞いたヒッピーたちが、これは人口増加か何かに対する覚醒だとか騒ぎ始めている。ネットを通じて広がってる。」
「ええと、ごめんなさい、何が言いたいの?」
「これがK-クラスシナリオか何かで、でも普通の日常の出来事が続いているのが僕には何だかおかしく感じるってことさ。」
ジョイスは優しく笑い、それがダリルに、彼女はジョークを認識したがそれを面白く感じなかったことを伝えた。彼は微笑み、彼女のオフィスのドアを二度叩き、ドアを後ろ手で閉めて出ていった。
彼女はeメールを再度確認した。二つの新しいメッセージがあった — 一つは仕事のアドレスに、もう一つはプライベートなアドレスに。
To: ジョイス・マイケルズ博士
From: サイト管理者フレッチャー
件名: RE: オメガ-K研究の要請
マイケルズ博士、
ΩKは財団の誰にとっても個人的な問題です。いえ、世界中の誰にとっても。それ以下ではありません。
とは言ったものの、すでに他の職員が申し出たために、あなたにΩKの研究をさせることはできません。エミリー・ヤング博士がプロジェクトを担当し、補佐として彼女のスタッフを つけています — 私ならもっと増やすであろう、最小限の人数です。希望があるなら、彼女に伝えるべきだと思います。
彼女はΩKの研究の目的はその限界を探ることであり、その起源を探ることではないと宣言しています。私もどちらかと言うと同意です。
あなたは自分の時間でもっと有用なことをするべきです。昆虫たちがこれからの大きな問題となっていたはずですが、なぜそうではないのかを探ってみてはいかがでしょうか。
健勝をお祈りします。
サイト管理者トーマス・フレッチャー
To: joycemichaels79@gmail.com
From: administrative@newstarthospital.org
件名: 予定されている退院に関して
親愛なるジョイスさんへ、
予算の逼迫と医療連盟会費の高騰により、ニュースタート病院は遺憾ながら貴方の縁者である、ジョージ・マイケルズ氏が十五日に退院となることをお知らせします。
マイケルズ氏はもはや終末期から回復しており、このことはあまり大きな問題とはならないと考えています。
マイケルズ氏を自宅へ移送する際に補助が必要なようでしたら、スタッフの一人にお伝え下さい。
敬意を込めて
ニュースタート病院
長く、薄い涎の堆積物が彼女の父の口から垂れ流れていた。ジョイスはテイッシュを取り、優しくそれを拭った。彼の目は、テレビのスクリーンを見つめていたが、おそらく理解はしていなかった。
テレビは静かに、ジョナサン・ナーシムスの合衆国大統領への就任を写していた。選挙は圧勝だった。ナーシムスのマニフェストは左派でも右派でもなく — ただ皆が聞きたがっていた解決法を語っただけだった。
玄関のドアに三回ノックがあり、ジョイスをぼんやりとした状態から呼び覚ました。彼女の視線は気怠くテレビ — それは写ってはいたが消音されていた — からドアへと移動した。彼女は椅子から立ち上がり、音の源へと移動した。彼女は覗き穴からすばやく訪問者を確認し、それが何年も前の記憶から微かに認識できる誰かなのを見た。顔は何とか思い出せたが、名前は全く覚えていなかった。
彼女がドアを開けると、そこにはサウス・シャイアン・ポイント、ここから車で数時間の介護付き住宅の緑色の制服を来た人物が立っていた。そこはジョイスの兄、トニーが働いていた所だった — 財団が、詳しいことを知る必要のない人物にする説明を信じれば、だが。ジョイスは勿論真実を知っていた。だがドアの所に立つ、見たところ届けるための文書を持った、純真な顔をした二十歳かそこらの人物はそうではないと考えていた。
「申し訳ありません、ミス・マイケルズ。」彼は切り出した。「わ、私もこのようなことをお伝えしたくはないのですが、アンソニーさんが亡くなりました。彼は安らかに — 」
「その文書はどれくらい前のものなの?」うんざりした視線で彼を穿ちがならジョイスは聞いた。「この一年と半年、誰も死んでいないわ。」
彼は口ごもり、言葉を探した。彼にはバックアッププランも無いようだった。「こういうことをしなくちゃいけなくなったのは久しぶりでして、すみません、マム。」
「あなたは財団の人間ね?民間人じゃないでしょう?」
「イエス、マム。」
「私も財団の人間なのを知っている?」
「い、いいえマム。ですが今知りました。」
「それならば、私が兄がずいぶん昔に死んだと知っていることにあなたは気づくべきじゃない?」
「本当にすみませんマム、」若者はモゴモゴと言った。彼はできる最善を尽くそうとしていた。「今知るよりは良いことだと思いますが?」
素早いひと睨みが彼を黙らせた。「良くはないわ。」
「申し訳ありません。いつ彼が亡くなったのか、聞いてもよろしいですか?」
「何もかもがメチャクチャになる十日前ね。たったの十日。もし彼が休暇か何かをとっていたら、今生きていたはずよ。」
「お気の毒に思います。」
「彼は、」ジョイスは続けた — 今は一旦話し始めたら、止まれなかった。「彼は良い職員だったと聞いたわ。偉大なエージェント。最良の一人。彼は数え切れない人を救ったと。でも誰もどのように救ったのかは言ってくれなかった。」
ジョイスは脇へどき、若者に部屋の中を、音を消したテレビとその向かいに座る、ひたすらテレビを見続けているが、おそらくは音が聞こえないのにも気づいていないであろう老人を見させた。
「あれが私の父よ、」彼女は続けた。「この頃は私が彼の面倒を見ている。彼は死ぬと思われていた。何ヶ月も入院していて — まさにその日に、死ぬと思われていたの。彼は他の皆と同じように、命は保ったけど、記憶はずっと失われたままよ。」
涙が彼女の目にゆっくりと盛り上がりはじめた。彼女はそれを押し止めるために瞬きをし、その時若者から顔を逸していたためにそれを見られなかったことに感謝した。
彼女は彼に向き直った。「一人が生き残ったけど、心を失った。もう一人は死んだ。逆であればよかったのに。でも人生は望んだようには行かないものでしょう?それはそれとして、なぜ私の兄はもう一度死んだのかしら?」
若者は口ごもった。彼はそれにどう反応していいかわからなかった。これはそんなに長い訪問になるはずではなかった。「申し訳ありませんマム。何かミスがあったに違いありません。私は……私は……我々はあなたの父に関して何か助けになれると思います。あなたに代わって彼の面倒を見ます。そうすれば少し余裕ができて、あ、あなたは財団にも帰ってこれるでしょう。」
「考えておくわ」ジョイスは言って、若者の眼前で静かにドアを閉めた。彼女は彼の父の隣りに座った。彼はその若者が誰だったのか問いかけたが、彼女は答えなかった。彼女が話し終わるまでに、彼は質問したことも忘れるだろうから。
ジョイスは机に座って、作成するように頼まれたレポートを編集していた。収容されているもの、いないものを合わせ、アノマリーと、ΩKの結果としてそれらに起きた変化。
彼女はリストを見つめて、直近に追加した五つの項目 — 今日終える事ができたものだ — を見返していた。
SCP | ΩK後の振る舞い | ΩK後のクラス割り当て |
---|---|---|
SCP-1440 | SCP-1440は近隣の都市に入り、そこに1週間定住したが、異常な災害を引き起こすことはなかった。財団はSCP-1440を捕縛し近隣のサイトに収容するために出動した。 | Euclid、Neutralizedへの再評価待ち |
SCP-2935 | 財団は現在SCP-2935にアクセスできない。その入口は現在は非異常性の洞窟系に繋がっている。 | Neutralized |
SCP-2718 | エントリーをアクセス不可能としていたシステムのバグは現在消滅している。エントリーは空白である。無関係である可能性もある。 | 再割当て |
指定解除アノマリーA315 | A315はもはや異常な特性を発揮していない。 | Neutralized |
SCP-2339 | 総数は数百万まで増大し続けている。現在は最大20の交響曲を同時にシミュレートすることが可能である。 | Euclid |
彼女のオフィスのドアに三回の鋭いノックがあり、彼女は仕事への集中をそらされた。
「入って、」彼女は言った。
ドアが開き、ダリル・ロイドが飛び込んできた。彼はやや取り乱したように見え、髪は乱れ、頬も少し紅潮していた。
「ジョイス、」彼は少し息切れしながら切り出した、「ヤングが自殺しようとした。以前君が彼女と一緒に仕事したことがあると聞いていたから、僕は……君には知らせなくちゃと思ったんだ。」
「エミリー・ヤング?」
「エミリー、そう。」
ジョイスは取り組んでいた文書を閉じ、手を上げ、所在なげに首の側面を掻いた。
「二人共3984に直接関わってたんじゃないの?」彼女は聞いた。
「そうだよ。彼女ともあろうものが結果がどうなるかわかっていたはずだ。君もそう思っているだろう?」
「今の容態はどうなの?」
「わかっていたらすぐにここに知らせに来てたさ。今医療処置を受けているが、最低でも脳にダメージを負っただろうね。」
「どれくらい悪いの?」
「悪いね。」
ジョイスは両手を顔に当てて、長く、小さな嘆きを漏らした。ダリルに聞こえていたかもしれないが、彼はコメントしなかった。
長い間が空き、ダリルが沈黙を破った。
「申し訳ないけどジョイス、」彼は切り出した。「君たちは親しかったのかい?」
ジョイスは顔から手を下げた。彼女は息を鋭く吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。
「いいえ、でも兄が一緒に働いていた。」
ダリルは理解して頷いた。
「誰かに私が3984を引き継ぐと伝えてくれない?」
「本気なのかい?」
「ええ、本気よ。覚えてる?元々私もやりたがっていたのよ。事後レポート、その他全部を私が書くわ。私に任せて。でもまずはエミリーの様子を見に行くわ。」
ダリルは共感して首を振った。「勿論だよ、今そこへ案内しよう。」
「ハイ、ミス・ジョイス・マイケルズさんのお宅でよろしいでしょうか?」
ドアに立つ女は髪を深い紫色に染めていて、肩の周りでカールが跳ねていた。彼女の明るい赤に塗られた唇の微笑みは大きく、心からのものに思えた。
「ええ、私です。」
「はじめまして!私はエマ・プレストン。社会人口調査プログラムで働いています。いくつか質問をしたいのですが、十五分ほどお時間はありますでしょうか?」
「ああ、あなた達のことは聞いたことがあるわ。フロリダで起きているおかしなことか何かについて何かわかったのかしら?」
その女性は肩をすくめ、顔をしかめるような笑いを浮かべた。「ごめんなさい、私はそのことについて存じておりませんわ。ただ調査をしているだけ。中に入ってもよろしいかしら?」
うまい口実もなかったので、ジョイスは彼女を中に入れた。プレストンはお辞儀をし、ラウンジへと入った。二人は長いソファの両端に座った。
「あなたがジョイス・マイケルズさんね?」
「そうです。」
「お歳と性別を聞いてもよろしいかしら?」
「51歳です。そして女性。でもそれくらいは見ればわかるでしょう?」
プレストンは柔らかく笑った。「ええ、でも私が判断してはいけないの。」
彼女は少しの間ノートパッドに書き込み、それからジョイスに向き直った。
「血縁のあるご家族でご存命の方はいらっしゃるかしら?」
「ええ、そうね。」ジョイスは少し考え、まだ何も言っていないのにプレストンが何かを書いているのを見た。「父のジョージは八十三歳で、介護付き老人ホームに住んでおります。弟のエリックは四十八歳ですが、今どこにいるかはわかりませんわ。」
「最近お父様をお尋ねになりました?」
「あ — 、少し個人的過ぎないかしら?いいえ、最近は行っておりません。」
プレストンはノートから目を上げた。「すみませんが、それで全員ですか?」
「全員です。」
「ありがとうございますジョイス。お子様の予定があるか聞いてもよろしいでしょうか?あるいは、誰かそのような方をご存知ですか?」
「いいえ、知ってもいません。この頃はそういう事は禁止されているでしょう?」
プレストンは頷いた。「妊娠を登録すれば可能です。数週間前に予め申請する必要があるけれど。その場合は拒むことはできないわ — 個人的にはひどい話だとおもうけれど、これは法律ですから。ごめんなさいねこんな事を聞いて — 結局の所、これが人口調査の目的なの。」
わかっている。「それは問題ないです。ナーシムスのせいね。」
「ええそうね。携挙が起こってから、あなたのライフスタイルになにか変化は生じましたか?」
「携挙?、ああ、オメガ-Kね。」
プレストンは頭を横に微かにかしげ、髪がそれにつれて揺れた。「つまりその、人が死ななくなってからということね。」
「ええ、それね。ええと……そんなには変わっていないと思うわ。多分。どんな情報が欲しいのかしら?」
プレストンは微笑んだ。「話しても良いと思えるものは何でも。例えば、生活環境とかは変わりましたか?」
「ええ、私は何年か前に父の世話をするために仕事をやめたわ。でないと誰もやらないだろうから。でも結局ホームに入ることになって、私は元の仕事に戻ったわ。それからずっとそこで働いている。ええと、そういうわけで生活環境は全く変わっていないと言えるわね。」
「どこで働いていますか?それは関係ないことですか?」
「今は財団の一般管理ね。前は実践的な仕事をしていたけど、それは荷が重すぎたわ。数ヶ月前にそこから降りたの。」
「財団?」
「つまりその、ええと……」
ジョイスはエマ・プレストンが財団が何かを知らないかもしれないことに気づいた。そのフロント企業で働いているとしても。ジョイスは一般市民とずっと話していたのだ。
「……その、マナによる慈善財団。私達は慈善事業よ。」
「そうよね、失敬!その組織の仕事は携挙以降変わりましたか?」
「それは……」
ジョイスはマナによる慈善財団で働いたことなどなかったし、彼らが実際に何をしているかについては何も知らなかった。彼女は創作することにした。
「……すごく大変になりました。ホームレスの世話をするのは元々大変だったけど、ここ数年はもっとたくさんの人がそういう生活に追いやられていて。私達はできるだけの事をしようとしてきて、今もそうだけど……それは大変なのよ?毎日仕事に取り掛かるたびに、私、私達にかかっている人達の重さを感じるわ。そしてこここそが私の働く所、いるべき所だと感じるわ。多くの人たちがまだ快く寄付を、あるいはできることをしてくれることに感謝している。」
彼女が話す間、彼女のホラ話はプレストンの完全なタイミングの共感と称賛の声で何度も中断された。ジョイスはため息をついた。彼女は自分の調査結果を削除してもらえるように電話しなくてはならないだろう。
「前はもっと実践的な仕事をしていたと?」
「スープの調理場で。手を火傷してしまったわ。それでその仕事はもうできないと思ったの。」
プレストンは粛々と頷き、立ち上がった。「それじゃあ、お時間ありがとうございました、ミス・マイケルズ。十分以上の調査でしたわ。まだたくさん他の方たちも訪問しないと。」
「問題ありませんわ。ごきげんよう、ミズ・プレストン。」
「こちらこそ、ミス・マイケルズ。お父様を訪問してあげてね。」
「ハイ、パパ。」
「ハロー、会ったことがあったかな?」
彼らが会う度に、いつも同じ会話だった。毎回、それは苦痛だった。だがある意味では、それは祝福だった — ジョイスが彼女の父を訪ねてから、一年以上が経っており、彼女の罪の意識は、彼が彼女が何者かすら覚えていないということを知っていることによって、抑制されていた。
「新年のプレゼントがあるの。」
彼女は小さな箱を取り出した — それはかつては結婚指輪の箱だったものだった。同じ箱を、彼はジョイスの母親にはるかな昔に贈ったのだった。数ヶ月前、彼女は全くの偶然でそれを見つけたのだ。彼女は彼がそれのことを覚えていてくれたら、その青いベルベットの表面の手触りが何かを取り戻してくれたら良いと思った。彼女が最大限に望んでいるのは、彼の目に浮かぶ涙を見ることだった。
彼女の父は新年とは何かさえ覚えていないかもしれなかったが、彼はその贈り物が何かわかっていた。彼はゆっくりとその箱を手に取った。弱々しく、暗い色の静脈に覆われた彼の手が、それを開けようと苦闘して緩く震えていた。
ジョイスは手を伸ばして彼のためにそれを開けた。その内部のバネが抵抗し、やがてくぐもったクリック音と共に箱はゆっくりと開いた。
中にあったのは一錠の薬だった。
「これは何だ?」彼は怒鳴った。彼の声はしわがれていて荒かった。
「これは……薬よ、」彼女は彼に語りかけた、「苦しみが楽になるわ。」
「どこも苦しくなんかない。」
私のよ。「もう忘れることもなくなるわ。」
「私は何も忘れてなんかない。」
「パパ、あなたは私が誰かもわからないでしょう?」
「わかるともさ、勿論、」彼は言い、ジョイスが来てから初めて、顔を上げて彼女と目を合わせた。
ジョイスはその感覚を長らく忘れていた。彼女の父親の眼差し。それは鋭く知性に溢れ、彼女を穿った。彼は微笑んだ。口ではなく、彼の目の周りの、親しげな皺によって。彼女が隠して、固く鍵をかけていた全ての貴重な記憶が溢れかえっていた。彼が彼女に料理を教えたこと、長い自転車旅行、交わした会話。彼女には彼女の父親が帰って来たかのように感じられ、一瞬の間、彼が娘のことを思い出すのではないかという希望すら抱いた。
「あんたは看護師だ、」彼は打ち砕いた。
勿論、彼女の父はもう長い間いなかったのだ。
ジョイスは指輪の箱の薬を見下ろした。彼女は、父に安らぎをもたらすために、職を危険にさらしていた。
もし彼がそれが何であるかを理解していたとしても、ジョイスにとってそれを彼に飲ませることは難しかっただろう。
「パパ、」ジョイスは切り出した、「この薬はとても貴重なものなの。これはマーシャル、カーター&ダークという会社が作ったもので、"ヒプノトラリン"という名前なの。これはとても高いのよ。」私が今までに欲しがったあらゆるものよりずっと、ずっと高いのよ。
彼女は少し近寄り、彼の父親はひたすら見つめていた。「実は私はこれを盗んだの。私たち — 財団、私が働いているところは — 何百錠ものこれの出荷を妨害したの。そして全くの運で、私は一つを自分のために盗んだわ。」
彼女は父親の手を錠剤の上に置かせた。念のため、自分は触らないように注意しながら。「これはとても重要なの。あなたが……あなたにこれを飲んでほしいの、パパ。あなたのために。」
彼女は、財団の知る限りでは、その薬はMC&Dとプロメテウス研究所の共同計画の結果だとは言わなかった。二つの企業は、それらが互いの利益になるときには、研究を交換していた。MC&Dの製品だけがこのように判明していたが、プロメテウス研究所が取引から何を得たのかは定かではなかった。
もし彼女の父親がこのことをすべて知っていたとしたら、おそらく彼は薬を飲んだだろう。もし彼が、それがもはや目覚めることはないほど深い眠りへと誘う睡眠薬だと知っていたとしたら、おそらく彼はそれを飲んだだろう。
彼は飲まなかった。そしてジョイスはモンスターにならずに済んだ。
あなたは年老いた。あなたは病んでいる。もしかしたらただ疲れているだけなのかも。
人生に疲れ、でも私たちには終わりは見えない。
だけど新しい始まりを迎えられるときに、終わりを望む人などいるのでしょうか?
新しくなれるときに、そのままでいるのですか?
プロメテウス研究所が、今日、変革をもたらします。
広告は十分前に終わったが、ジョイスの心でまだメッセージが反響していた。プロメテウス研究所は文字通りに、体全体を別人に入れ替える事ができると提示していた — そしてどういうわけか、財団は公的な発表以前にそれに気づくことが全くできなかった。110-モントークは犠牲者を出してはいなかったが、そのクリーンアップには大量の労力を必要とした。
ジョイスにはプロメテウスが何をして、これほど長く財団に感知されずにいられたのかに関しての報告をする任務が課せられていた。しかし彼女の仕事は進まなかった — 限られた情報しか得られなかっただけでなく(その情報もほとんどがプロメテウスの広告からだった)、彼女がすでに手遅れではないかと懸念していたからであった — プロメテウスに対抗する見せかけの案を作り上げるまでに、すでに人々は手術をうけるために群がっているだろう。
程なくして、手術が実際にうまくいくことすらニュースになるかもしれず、そのときには、事態は財団の手に負えなくなるだろう。
三回の鋭いノックが彼女のオフィスのドアに響き、彼女の注意が逸れた。
「入って、」彼女は呼びかけた。
ドアが開き、サイトの警備チームの隊長であるアーダル・ロジャース — ジョイスには誰か思い出せなかったが — が部屋に半歩入った。
「マイケルズ博士。お邪魔してすみませんが、尋問中の対象があなたの同席を求めています。」
「尋問中の?」
「イエス、マム。機密文書にアクセスしようとした者です — 実を言うと3984の文書です。」
「私はそれには何年も関わってないわ。他の人もね。なぜ彼女はそれを見ようとしたの?」
「わかりませんマム。彼女があなたと話すことによってもう少し明かしてくれればいいと思っています。」
ジョイスは頷いた。「いいわ、彼女のところへ連れて行って。」
女は両手を壁に縛り付けられ、警備員に殴られて口から血を流しているように汚く拘束されているわけではなかった。代わりに、彼女は木製の椅子に座り、金属の手錠がテーブルの左側と結び付けられていた。彼女は首の傷跡とシャツの赤いシミを除けば、比較的健康そうに見えた
女は頭をわずかにうなだれさせていたが、ジョイスが尋問室に入ると鋭く目を合わせてきた。ジョイスはテーブルの反対側に腰掛けた。どちらも長いあいだ口を開かなかった。
女は見開かれた、しかし空虚な目をして笑った。「歳をとったわね。」
「SCP-3984の文書にアクセスしようとしたと聞いたわ。」
「そうよ。」
「そして私を名指しして呼んだ。」
「そうよ。」
「なぜ?」
その女は少し前へと乗り出した。「私を覚えている?」
「いいえ。」
「長かったわ。十六年?」
「十六歳よりは歳をとっているわね。五十歳くらいに見える。」
「あなたが私の頭を体に縫い合わせてから十六年よ。」
思い出した。3984、ヤングが手を下したD-クラス達、全員に運命が降り掛かった。彼らはまだ全員生きている。一人が帰ってきたのだ。
「彼女があなたの頭を落とした。」
女の微笑みが大きくなった。「思い出したようね。」
「気の毒に思うわ。」ジョイスは話しはじめた。彼女にかけようと思っていた、でもその機会がなかった言葉が、ジョイスの中に蘇ってきた。「あんな目にあったことを気の毒に思うわ。八年も冷凍庫の中で — 私、私は — 」
女は頷いた。だがあまりに速く — それはむしろ神経質な痙攣のようだった。「それであなたは変わってしまった。でも生き残った。」
「D-11424。それがあなたの番号。あなたの名前は?」
困惑が女の顔に走った。まるで出すべき言葉を、あるいはもしかしたら答えを知らないかのように。しかしそれはすぐに消えた。「そんなことは関係ない。」
「なぜ私と話そうと思ったの?」
「ヤングは何かを隠そうとしていた。私にはわかった。わかっている。証拠を見つけた。」
勿論、彼女は何かを隠そうとしていた。彼女はたくさんのD-クラスを殺した。実際には生きているが、彼女がもたらした苦しみを永遠に味わい続けなくてはならない者たち。
「ダマルング計画とは何か知っている?博士?」
「何?」
「ダマルング計画。聞いたことがある?」
ジョイスは思い返した。聞き覚えはあったが、どこで見たかはわからなかった。「わからないわね。」
「それは存在する。私は知っている。SCP-3984にリンクが、それへのリンクがあった。文書が。だけど私はそれを突破できなかった。」
「私は何年も3984の主任研究者をやっている。そういうものが存在するなら私は知っているはずよ。」
「勿論、あなたには見えないでしょうね。それは埋め込まれている!隠されている、深くに。レベル5アクセス制限。ヤングが、ヤングがそこに隠した。」
あまりに速く喋ったため、唾が彼女の口の周りについた。彼女は自由な右手でそれを拭った。
ジョイスには彼女が正しい可能性があるとわかっていた。もしそのようなリンクがあるならば、それがジョイスからも隠されている事はありえる。
ジョイスはドアの方を向いた。「これ以上話すことはないと思うわ。」
「待て、待って!」彼女は自由な方の手を伸ばし、ジョイスを必至の形相で見つめながら彼女は叫んだ。「じゃあ教えて、博士。オメガ-Kの研究はなぜ禁止されているのかを。」
「なぜならそれは意味がないからよ。」だが我々が3984にしたあらゆる実験も意味がなかったではないか。ドアの向こうで警備員たちの声が聞こえ、何かの命令を怒鳴っていた。
「調べると約束して。」
「調べないわ」するだろう。
ドアが開かれ、ジョイスは脇へと押しやられた。警備員が年老いたD-11424を掴み、椅子へと戻した。もうひとりがジョイスをそれよりは優しく掴み、彼女を部屋から連れ出した。ドアが金属音とともに乱暴に閉められた。
アーダル・ロジャースが手をジョイスの肩に置いた。「このようなことをさせてしまい申し訳ありませんマム。彼女の言ったことは忘れてください。あとは我々がやります。」
「大丈夫よ、」ジョイスは答えた。だがその声は上の空だった。D-11424は正しいかもしれない。
だがそれを調べる前に、彼女はプロメテウス研究所の報告を仕上げなければならなかった。