霧の街、旅立ちの日
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2021年3月19日


早朝、あけみは体育館に立つ。卒業式だというのに飾りつけもない。ただ、薄っすらと積もった埃が一歩ごとに舞う。

持ち込んだ買い物袋。ひっくり返すと、一杯に詰め込んだ紙細工やリボンが床に跳ねる。先生も居なくなってしまった。それでも、出来ることは全てやろう。そう決めたのだ。

特に打ち合わせたわけでもない。それでも一人、また一人。生徒たちがやって来て、作業に加わっていく。舞台と、一列だけ並べたパイプ椅子。誰が持ってきたのか、小さな花束が置かれる。静かに、厳かに。別れの場を清め、彩っていく。

電気も止まっていた。あけみはピアノが電子式でなくてよかったな、と考えた。

「司会、誰がやる?」

「あたし、晴佳から答辞預かってるから読みたい」

「それはいいけど送辞は誰がやんだよ」

「送る人いないからなぁ」

あけみは舞台の上から外の景色を眺める。山の中程に立つ校舎からは街と海が一望できた。青く広がる海原は穏やかに春の陽気を跳ね返してる。

街に目を移す。打って変わって、そこにのどかさはない。三年間見慣れた風景は、ない。

乗り捨てられた車。道のあちこちに倒れ伏す人。もう時間は残されていないようだった。

ポン、と音。メッセージアプリに着信。『頑張れ』。発信者はデータが壊れていて読めなかった。それでも、誰かは分かった。

「みんな、歌おう」

生徒は十人。パート分けもギリギリ。部活もバラバラ。よく集まってくれたと思う。

指揮者はいない。必要もない。ピアノの前に腰掛ける。あけみの動きを、全員が見つめている。

脳裏に親友の言葉がよみがえった。

『ピアノは時の芸術。停滞してはいけない。間違えても忘れても、天変地異があっても、ただ弾き続けるんだ』

小さく息を吸って。両腕を鍵盤に伸ばした。

    • _

    原田はらだ あけみ (第二高校合唱部)


        みさき    
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    2020年12月19日(土)
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    起きてる?
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    明日の練習、どうしよっか
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    冬休み初日ですが?
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    明日ってか今日ね
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    えー、だめかな
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    だめじゃないけど。やるなら連絡回さないと
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    (ていうか皆もう予定入れてるんじゃねーでしょーか)
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    (君もそー思うかね)
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    はい、もう明日は休み!
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    じゃあさ、デートしようぜ
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    なんだよー。部長と副部長は夫婦みたいなもんだろ
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    部長命令ならお聞きしましょう
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    じゃあ九時半に学校集合
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    朝早い!待って今からじゃ起きられない
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    ていうか、なんで学校よ。デートじゃなかったっけ
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    だってさ、見納めかもしんないじゃん!
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    冬休み明けたら立ち入り禁止、からの転校コンボとか、私嫌だよ
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    ふむ
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    じゃあそう言うことで!
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    おやすみ!
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    あけみはスマートフォンを枕元に放り、椅子を回転させた。気の乗らない勉強。漫然と広げたノートは白く、英単語が数個転がっているのみ。

    メッセージは部長の美咲からだった。あけみは副部長を務めている。といっても殆ど名ばかりで、のらりくらりと合唱部の練習に出てきた高校生活は楽しかった。

    なにせ相棒の美咲がとにかくしっかり者で、選曲から編曲、伴奏にパート分け、全てこなす。肩書だけ立派なポジションに立たせてもらったお礼に、個人的な誘いの類にはなるべく付き合うようにしてきた。

    ノックの音。返事をすると、ドアを開いて母親が入ってくる。

    「早く寝なさい。明日の朝、また避難訓練だって」

    「町内のでしょ?もう覚えちゃったよ。ガスは重いからなるべく高いところに。押さない走らない死なない」

    「しゃべらない、でしょ。人数確認されるのよ。ちゃんと参加して」

    「はーい。待てよ、そうか」

    朝から避難訓練。ということは、明日はみんな学校に来るわけだ。彼女たちが通う高校は、この小さな町には似つかわしくない立派な校舎を持っていた。ちょっとした高台にあり、避難場所としてはもちろん、何かにつけ地域住民の集まる場所としても機能している。

    「こりゃ、明日は練習だな」

    母親を適当に追い出し、あけみはもう一度端末を手に取る。デートは中止。練習あるのみ!残念でしたのスタンプ。送信。

    しかし、卒業まで三か月弱。しかも開かれるかも不確かな卒業式で披露する歌の練習など、意味があるのだろうか。

    母親が階下で兄の部屋に声を掛けているのが聞こえた。一階の和室。部屋が離れている分、随分長く、見ても話してもいない気がする。ひとまず考えるのをやめて布団を被った。明日起きられるかの方が重大な問題だった。





    中村なかむら 美咲みさき (第二高校合唱部)


     

    「────ということで、ガスが漏出するとすれば、地下空洞から気体の通り道が開いている渓谷の周辺です。その場合警報を発令しますが、直ちに健康を害するものではありません。ガスは空気より重いのである程度高いところに行けば大丈夫です。落ち着いて、この校庭へと避難してください」

    避難訓練の想定はいつも通り。最近発見された地下空洞に充満しつつある有害ガスとその漏出。当初こそ全国紙の隅っこに載ったらしいが、差し迫った危険性もなければ、こんな田舎のさびれた街にニュース性があるわけもない。話題としてはあっという間に忘れ去られ、日々の訓練と段階的な疎開──とは住民側の俗称である──の噂に辟易とするのは住民たちのみであるという有様。

    「それにしても、無害なのか、避難しなきゃいけないのか、どっちなんかね」

    美咲はスピーカーから流れる音声に突っ込みを入れつつ、自他共に認める相方が来るのを待っていた。果たして、ふらふらとこっちにくる人間がいる。

    「おっはよー!元気かね」

    「ぅぃっす」

    「ほら、後ろ向いて。梳かすから」

    あけみは朝が弱い。必然的に身支度は甘く、ぼさついている髪を梳いてやるのが美咲は好きだ。染めていないけれど茶色で細く絡みやすい毛。本人の気性とよく似ている気がする。美咲は面白みのない真っ黒の直毛を肩で揃えていたから、親友の頭は弄りがいがあって楽しい。最初は痛くされるからと嫌がっていたあけみも、数か月経った今は慣れたようで、大人しくされるがままになっている。そうこうしているうちに、後輩たちもやって来た。

    「先輩、おはようございます!」

    「おー、偉いね!誰もさぼってないじゃん」

    「だって。人数確認されるし」

    「係の人なんかこわいし」

    「国から来たって。あれですかね、ジエータイの人とか」

    全員が急に声を小さくする。美咲はちらりと、校庭の前方で列を整理している人員を眺めた。どこにでもいそうなスーツ姿の男性たち。威圧的と言うほどでもないが、妙に洗練され統制の取れた様子は、この小さく古い街には似付かわしくないものであった。

    「ちょうどいいや、みんな揃ってるし。この後練習しよう」

    「えーーー!!」

    「えーーーってなんだ」

    「練習はいいですけど、仰げば尊し以外も歌いたいです」

    「そりゃそうだ。じゃ、もう一曲決めて練習しよっか」

    「え!それ何でもいいですか?」

    「あんまややこしいのはダメだよ。弾けるのならいいけど」

    歓声を上げ、曲目をあーでもないこーでもないと言い合う後輩を残し、美咲はまだ足取りの覚束ないあけみの肩を抱いて、人数確認の列に加わった。

    その列の先に、あけみとよく似た顔立ちの男がいるのに気が付く。たまに聞く、一つ違いだという兄だろう。話したことは殆どない。進学もせず、町をフラフラしているとか。

    「あけみには悪いけど、黒服連中とか工事の余所者よりも、最近のあーいう人の方が怖いね」

    「んー、なんか言った?」

    「なーんにも」

     


     

    田崎たさき 晴佳はるか (第二高校科学部)


     

    理科準備室、とプレートのかかった部屋に五、六人の生徒が詰めている。実質的な占拠だったが、文句をつける教員は存在しなくなって久しい。彼らは自称、科学部。首魁たる赤縁眼鏡の少女がホワイトボードを引き出し、今日の活動、とペンで大きく殴り書いた。

    「折角学校に来たんだから、我々も部活するべ」

    「集まっちゃったしな。そんで何するよ」

    「冬休みの自由研究を兼ねて、ずばり、今我々を脅かすガスの調査でしょう!」

    「却下」

    「耳から血が出るほど怒られたのにまだ懲りてないのか」

    「はい、今日はもう解散」

    「あー、ちょっと待って、分かったから」

    田崎晴佳は科学部の部長である。同時に色々な意味で周囲から警戒されている生徒でもある。

    あまり多くはない進学組の中でも、一早く入学先まで決めていた。得意分野は化学、現在の興味はこの街の地下に充満しているという毒ガスの成分分析。それでいて、意気揚々と名ばかりの顧問や自治体に調査計画など出したものだからさあ大変。本人はどこ吹く風で、安全確保の為には大人に報告して綿密な計画を練らなくてはならない、というのが部員たちへの弁解であった。

    「だってさ、気になるじゃん」

    「それはそう」

    「でもこれはこれ。ガスは忘れよう」

    「となると、黒服の方だね」

    「あの人たち、何調べてるんだろうな」

    さりげなく、部員たちが部屋の戸を閉める。窓から外を確認し、ブラインドを下ろす。ホワイトボードの前に集まり、額を突き合わせて密談を開始。

    「観測機器だよね、あれ。街中で監視してるのは何でだろう」

    「実は渓谷だけじゃなくて、こっちでもガス漏出の危険性がある?」

    「危険性は低いんじゃなかったっけ」

    「やっぱ成分分析をですね」

    「はいはい。でも、全員退去って噂もある。必要なのかな」

    「あの人たち、所属どこなんだろう」

    「実は別のものを僕らから隠したがっている?」

    会話にも参加しつつ、晴佳はキュッキュとホワイトボードに広げた地図に書き込みをしていく。学校周囲の概要、適当な地点に印をつけると、部員たちが次々に口を出して怪しい黒服の目撃情報を報告していく。

    方針の相談。想定される調査内容と位置との関係。出揃った辺りで、晴佳はペンにキャップをはめ、白衣の裾を翻す。扉を開け放って、振り返る。

    「よし、フィールドワーク、行くよ!」

    科学部の一同が力強く返事をした。棚からお手製の実験器具や記録道具を下ろし始める。一足先に廊下に出た晴佳は窓の外、隣の棟からピアノ曲が聞こえてくるのに気付く。何やら色んな曲のさわりだけを試しているようだ。

    「卒業式の曲かな。さて、どんなのになるのやら」

     


     

    D-08-11 (サイト-8.05: 特殊調査機材管理部)


     

    白塗りのバン。後部座席は取り払われ、スーツや作業服の男たちが機材の狭間に座り込んでいる。一番最後に乗り込んできた男が、うんざりした様子で隣に話しかけた。

    「えらく子供が多くないか。冬休みの筈だろ」

    「知るもんか。で、どうだ、そっちは」

    「人型実体には外見、行動様式、その他確認できる要素で一切の連続性はない。で、公的な記録の変質も確認。戸籍謄本まで全部書き換わってる」

    「つまり?」

    「いつも通りってこったな。そっちは」

    「人の多いところが怪しいかな。でも山の方まで掃いて見ないと何とも言えない」

    晴佳たちはまだ気付いていないことだが、男たちは体の一部にオレンジ色の装飾品を身に着けていた。それは、彼らの組織においてはある種の身分を指し示す記号である。

    バンの中に所狭しと積まれた機器はいずれも巧妙に擬態され、例えば男の持つそれは一見するとガス漏れを感知する光学検知器にしか見えない。しかしその機能は全くの別物である。内部は殆どブラックボックス化されており、使用している彼ら自身には原理一つ知らされてはいない。

    普段軟禁されている施設から連れ出された彼らに、任務内容が知らされることは殆どない。都度、作業に必要な知識だけが与えられ、多くの場合は記憶を処理される。だが長く仕事を続けていると、経験知とでもいおうか、遂行している調査の断片的な情報から色々と想像がついたりするものだ。

    「今回の異常性、どう対処するんだろう」

    「原因の特定、当該地点の封鎖、あとは住民を全員始末する」

    「いや、いきなり始末はまずいだろ。まずは収容だよ。んで人体実験」

    好き勝手言い合っていると、電源を切っていたはずの無線機が急に音声を発した。

    『私語をするな。データが取れたのなら速やかに報告しろ』

    「ちっ。すいませんね、今送る所だったんですよ」

    『それに無線を切るな』

    「どっちでも同じでしょう」

    『勘違いするなよ、D-08-11。お前たちの代わりは幾らでもいる。お前たちは観測機器の一部、いやそのものだ。面倒なことにしたくなければ、無責任な憶測などせず職務を果たせ』

    返事を待つことなく一方的に通信が切れる。相棒が役所からコピーしてきたデータを電子化していた。程なく送信。用済みのコピー用紙は車載のシュレッダーに投入。

    「これで文句はないだろ」

    言いながら、大きなあくびを一つ。そろそろ睡眠を取る頃合いだった。D-08-11と呼ばれた男も、機器から端末へとデータを転送する。途中、マジックミラーになっているガラスのすぐ外に、あからさまにこちらを気にしている生徒の集団を発見する。相棒が運転席との仕切りを二、三度叩くと、車がゆっくりと発進した。

    「さっきの子、こないだからウロウロしてるな。報告に上げとこうか」

    「ほっとけ。言われたことだけやればいい」

    何やら端末を操作する相棒。男はため息を吐く。宿泊施設も古い木造で、夜間には隙間風が体温と気力を奪う。もう少しましな寝床が近く用意されるとは聞いている。今は耐えるしかない。

    「どうせならこんなクソ田舎町じゃなくて、都会に行きたかった。坂ばっかでよ、碌な店もねえ」

    「街中だったら俺らに声は掛かってないさ。いいじゃんね、久々に湯船に浸かれるんだ」

    こう見えて図太くのんきな相棒に、男は首元を一周するオレンジ色のリングを苛立たし気に擦った。

     


     

    佐藤さとう のぞむ (サイト-8.05: 特殊調査機材運用部)


     

    移動型の指揮車。起き出してきた男は目をこすると、常温で保管できる中華饅頭を二つ蒸し器に入れる。待つこと二分、小さく湯気が立つ。車内にはもう一人エージェントが居て、後ろからコーヒーのカップを二つ持って現れる。

    「おはよう、肉まん?」

    「残念、餡まんだ」

    「げ。寝起きによく食べられるね」

    「いらんのか」

    「一個もらうよ」

    時刻を確認すると、夕方である。日没の少し前。もし寝過ごしでもすればどうなるのだろうか。浮かび掛けた考えを即座に打ち消す。

    「そろそろ霧が出るころだね。彼らにも改めて徹底させよう。霧に触れてはならない。その中で眠ってはならない」

    蒸し上がった饅頭を齧ると、粘り気のある強い甘みが舌の上に溢れ出た。慌てて熱気を口の外へ逃がす。業務用大型スーパーで叩き売られているにしては上等な味で、任務で遠出する際にある程度買い込んでおくのだった。反面、外側の饅頭部分は少しばかり味気ないのだが、これはこれで餡を引き立てている、と考えることにしている。

    同じメーカーの中華まんも試したことがあるが、肉が不味いので全体のバランスが崩壊していた。期待した分落胆が大きかったものだ。そんなことを思い返しつつ、大き目の欠片を口の中に押し込む。睡眠中に届いていた上層部からの指令を処理していく。

    「報告、出来そう?」

    「分からん。なあ春日井、Dクラスの連中が上げてきたデータはどうなってたっけ」

    「寝てる間に解析回しといたから、もう出来てる頃。見るかい?」

    春日井が青色のリストバンドを操作すると、佐藤の画面にデータ受信のウィンドウがポップする。

    「毎度よく整理されてる」

    「そりゃ本職だからね。でもありがと」

    展開されたデータを確認し、報告書の形に整えていく。佐藤の職務は異常性の概要を掴み、現場視点で対策の青写真を作ることである。脳内に航空写真を呼び出し、今後取るべき処置と整合性のとれたカバーストーリー、最終的な収容作戦案を組み立てていく。

    「どうだい、やっぱり全員退去?」

    「難しいな。やるとしたら大仕事だ」

    佐藤は睨みつけているファイルの上部を指す。全住民の人口に係る、ある種の割合を示す円グラフ。5000人程度の内、3割を超える人数が要注意との表示。

    「3割が汚染の可能性、か。重いな」

    「まだ見分ける手段はない。もっと多いかもしれん。現時点で把握している奴らの所在確認と追跡は出来ているが、今後を思うとな。精度が甘すぎる」

    苦悩する背中を、春日井がそっと擦ってくれる。この同僚にして友人は、自分の苦悩を知る数少ない人間だった。自分の引いた線の通りに進む作業の重圧や関係各所との調整。佐藤はよく胃を痛めつつ仕事をしていた。

    「二杯目は白湯にしようか。それと、人員輸送の手配と優先リストの策定、進めとくね」

    「頼んだ」

    春日井が水のボトルを手に立ち上がる。いつも通り、やるべきことをやるしかない。街一つ分の住民のランク分けと段階的な移送、そして収容。異常性の原因と目されている霧への対処。情報統制とカバーストーリーの流布。これが彼らの業務だった。

    「それにしてもな、夜に起きてろって指令は辛い」

    「被害が出たら洒落にならないからね。慣れだよ、慣れ」

    「気楽に言うよ」

    「そう言えば、その餡まんのメーカー、肉まんは出してる?」

    佐藤は何気ない風を装いながら、どこで買えるのか、商品の見た目などを詳細に教えた。

    翌日の深夜、上層部の正式な決定を経て、3月末までに全住民の段階的な退去させる収容プロトコルが発令された。運搬手段の確保の指示を出す佐藤の表情は虚ろで、そこには使命感も無ければ悲壮感もなかった。

     


     

    • _


    中村 美咲 (第二高校合唱部)


     
        あけみ    
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    2021年1月10日(日)
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    明日、デートしようぜ
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    冬休み最終日ですが?
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    デジャヴだ!
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    はいはい
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    ていうか急だね
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    まあ、あれだ
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    前回のやり直し
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    言いたいこととか、渡したいものとか
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    (告白かな)
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    (愛してるぜ)
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    じゃあ、無事心が通じ合ったところで本題!
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    街を出ることになった
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    ごめん、もっと早く分かってたんだけど
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    言えなかった
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    10時、岬で待ってる
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    ごめん

     

    美咲はすこし緊張しながら待ち合わせに向かった。夜の間に霧が出ていた名残か、路面や庭の椿がしっとりと湿っている。

    通学路とは逆の道、下り坂を行く。この街は海と山が近い。程々に険しく深さのある港として、中世には貿易の中継地点として栄えていたらしい。だが、陸路があまり開拓されなかったこと、港の規模が大型船の発着に適さなかったことから、ここ五十年は衰退の一途を辿っている。美咲の親の世代から、濃い諦めの空気が流れていたらしい。それでも、この街で人々は暮らしを続けてきた。

    だからだろうか。美咲自身、今回のガス漏れ騒動で街がなくなるという事態は想像出来ていなかった。噂はあったが、全住民の避難計画が具体的な要請として父の元へ届くまでは、いや届いてからでさえ、実感はなかった。

    反面、美咲の脳内のある部分は事態に冷静に対処し始めていた。進学予定の音楽専門学校への問い合わせ、高校への連絡、身の回りの荷物整理(といっても一人当たりの持ち出し制限があったが)、そして新しく選ばれた曲の編曲作業。

    休みを費やしてタスクを消化しきった頃、美咲はもう先延ばしに出来る用事が残っていないことを悟った。それでなお一日余しているのが中村美咲という少女であり、気が重い中で親友へとメッセージを送ったのだった。

    朝の10時であれば、いくら朝が弱いあけみでも大丈夫だろうとの目論見であったのだが、待ち合わせ場所の友人の姿を見て、美咲は自身の浅はかさを呪うことになった。よく整えられた髪、珍しく厚く施された化粧。それでも肌が映す焦燥と目の充血は隠せていない。結果的に不意打ちじみた宣告になってしまったことを、心の底から申し訳なく思った。

    潮風に吹かれながら、二人は並んで河口を見下ろす。流れを辿っていけば、街の外縁を辿りながら針葉樹の林を抜け、問題の渓谷へと遡れる。今は殆ど稼働していないはずだが、生産された木材が鉄道と河川から輸出されていた時期もあった。衰退の原因に思いを馳せるのはひとまず止めて、二人は改めて向かい合う。

    「来てくれてありがとう。いつも可愛いけど、今日は一段と素敵だよ」

    「なんか、時間あったから」

    「じゃ、行きますか」

    港の周囲、倉庫や市場が立ち並んでいる区画。その一部はレンガ積みであり、実は戦前に外国人技師の手が入っている由緒正しい建物だったりする。地元では今更ありがたがられることもないが、美咲は規則正しく、しかし人の手によって積まれたであろう石の壁に触れるのが好きだ。

    ここをスタート地点に、その日の気分で足のゆくままに歩き回るのが定番のコースだった。どうしても今日はいつも通りの雰囲気とは言い難かったが。

    言葉はなく、でも指先が触れそうになるくらいの距離で、二人は普段よりもゆっくりと街を見て回る。

    書店はない。どうしても必要な場合は学校の図書室を通じて注文するのが常だ。

    映画館はない。集合型の商業施設なんてものもない。

    若者にとって、この街は旅立つべき古い街に他ならないのだと、美咲は思っている。だがどうだ。こうして親友と歩く風景の一つ一つに思い出があり、心を掻き立てるトリガーがあり、断ち切りがたい絆しがある。

    前から出ていくこと自体は決めていたことだった。その手段として、彼女には音楽があったから。あけみはどうなのだろう。

    「学校、明日から一応始まるってね」

    「いつまで続くかな」

    「道路拡張するとかで、移動が制限されるって」

    「受験会場の配慮、一応はあるみたい」

    「よかった。あけみ、受けるんでしょ?」

    「出願書類は書いた。でも、出せるのかな」

    短い商店街を抜け、少しずつ勾配が急になっていく。このまま直進すれば渓谷に至るのだが、その道は危険を示す看板と共に封鎖され、警備の黒服が三人ほど待機している。適当に挨拶し、二人は横手の坂を上り始めた。息を弾ませ、高台を目指す。普段の登校ルートの反対、体育館につながる道。その裏手には大きな桜の木があって、黒く太い幹がじっと街を見下ろしている。

    「美咲が町を出るの、いつ?」

    「2月の、頭」

    「すぐだね。思ったより」

    サボる時、空いた時間、合唱練習の休憩。思えば二人でよくここに来た。これで最後なのだろうか。

    「お願いがあるんだ。自分で弾くつもりだった曲、代わりに伴奏してくれないかな」

    楽譜を手提げから取り出す。昨日まででおおよその部分は仕上げたのを、譜面に起こした。美咲は、大体の頼みならあけみが断らないことをよく知っていたが、きっと二つ返事ではないと覚悟していた。けれど、それを聞いたあけみが予想通り怯みを見せたことは、却って美咲を動揺させる。

    「何年も触れてないんだよ、ピアノ。無理、それに美咲みたいに弾けっこない」

    「大丈夫、まだ時間あるし、編曲だってちゃんと簡単に」

    美咲はあけみの手を引く。体育館の中、舞台袖にはピアノがある。弾いて見せたらきっと分かってくれる。

    あけみはその手を振り払った。振り払った側も振り払われた側も同じくらいショックを受けていて、二人ともそれが分かった。

    「受験だって。どうなるか分かんないけど。どうせ卒業式もないよ。私には、無理」

    あけみは目を伏せたまま駆け出す。追えば届くだろうが、足が動かない。ゆっくりと小さくなっていく背中が見えなくなること、美咲は楽譜で口元を隠すようにして空を仰いだ。灰色の雲。

    「なーにやってんだ、私は」

    翌日から、あけみは部活動に顔を出さなくなった。校内受験の配慮が正式に決定されたとのことで、しばらくはそれに専念するとの連絡が部活のグループラインに書かれていた。

     


     

    田崎 晴佳 (第二高校科学部)


     

     
    この街で生まれ育った、晴佳と同じくらいの年の若者の進路は大きく分けて三つに分けられる。外に出て進学か就職、街に残って就職、そして街に残って特に何もせず暮らす。いや、何もせずは言い過ぎかもしれない。だが、晴佳にとって、この街に残ることは何もしないのと同じように感じられたのだ。

    「暇だ。やることが……いや、やることは沢山あるが、どれも刺激が足りないな……」

    先日正式に発表された避難計画は、同時に住民に対して厳しい移動制限を掛けるものだったが、その分予想される困難には手厚く保証が設けられていた。その目玉の一つが、受験生への配慮だった。特例として街の中で共通テストも二次試験も、申請すれば殆どそのまま受けさせてもらえるという。半分諦めかけていた科学部の進学組も色めき立ち、晴佳は突然手持無沙汰な状態になってしまった。

    最初は意地を張って学校に出入りしていた。だが、仲間たちの空気がピリピリしているのを感じて、これは気安く近寄れないな、と思ってしまったのだ。以来、したことと言えば、家で積んでいた本を読む、ネットで街のうわさなどを調べる、大学で使うであろう教科書のpdfを探す、といったところだが、どうにも身が入らない。

    そんな時だった。日暮れ、そろそろ暗くなろうかという頃、窓の外をパーカーを着た男が歩いていく。窓から身を乗り出すと、どこかで見たことのある背格好だ。霧が出る時間帯に出歩くのはまともな人間がやることではなかった。霧の中は死者が通う、と小さい頃から何度も言い聞かされている。彼女を街の外へと駆り立てる動機ともなった迷信。

    「ふーん。原田さんとこのお兄さんか。まあ、知らずにごちゃごちゃ言うのはよくないからね、うん」

    去年高校を出てから、定職にも就いていないと聞いている。何もしていない人間が何をしているのか。ちょうど退屈していたのもあるが、それよりも好奇心が勝った。晴佳は採掘調査用の靴を押し入れから取り出し、素早く上着を羽織る。こういう時の為に外出に必要なものは鞄にまとめてあった。

    部屋の電気は点けたままに、彼女は窓の外、雨どいに足を掛けるとテンポよく降りて行く。長身を生かして突起に足を延ばし、着地には音一つ立てないという慣れた様子。そのまま周囲を伺って、危険はないと判断し、早足であとを追う。

    原田あけみの兄、原田あきらは下り坂を進んでいく。港の方だと分かる。逢引だったらつまらんな、等とひどく失礼なことを思いつつ、晴佳は距離を取りながら足音を殺して同じ道を辿った。岬に続く道の手前で、あきらは民家へと消える。集団避難をした家の一つだろう、少なくとも原田家はもっと山の方だったはずだ。物陰からうかがっていると、次々と青年が集まってきた。手に物騒なものを持っているのもいる。

    「今時学生運動でもあるまいし」

    ふと、別の物陰を見る。いつかの部活で見かけた白いバンが止まっていた。なるほど、と頭の中で点と点が繋がった。

    こっそりとそちらに近づく。バンの中は無人。原田兄が入っていった建物の隣、そこは確か以前民宿として使われていた。なるほど、意図せずして黒服たちの仮潜伏場所を発見してしまったらしい。

    「しかし、こう。狙わずして得た果実は味気ないものだなぁ」

    と、後ろから複数人が移動する気配を察知する。晴佳はひとまずバンの真下に待避することにした。地面との隙間から伺っていると、出てきたのは彼女と同年代か少し上の少年たちである。それぞれが辛うじて護身用と思しき何かを持ち、ゆっくりと民宿を包囲し始める。急に殺気立ってきた雰囲気に、晴佳は息を殺した。

    闇が濃くなってきた。この辺りは街灯はまだ少なく、包囲網を構成する人々が少しずつ移動しているのは、影が地をのんでいくようだ。晴佳は、ふと民宿側にも動きがあるのに気付く。雨戸は勿論、全ての窓に分厚い覆いがしてあったために遅れたが、壁一つ隔てて向こう側には調査員や何かが詰めているのだろう。となると、これはひょっとすると一種即発の状況なのだろうか。

    原田あきらが、民宿の玄関へと近付いていく。リーダー格なのだろう。雨戸に手をかけて揺さぶると、ガタガタという音が思ったよりも大きく響く。いつの間にか霧が出ている。もう一人並んだ少女が、フライパンを振りかぶり、玄関のドアを叩いた。

    バァン、と。勢いもあり、ガラスがびりびりと震える。晴佳は予期しない物音に思わず頭を上げてしまい、車の底面に後頭部をぶつける。目から火花が飛び、一瞬平衡感覚さえ失った。物音がぴたりと止み、恐ろしい勢いでバンの下へと腕が伸びてくる。最初の何本かは振り払ったが、もつれたところを掴まれ、あっという間に引きずり出されてしまった。両脇についた青年に無理矢理立たされ、顔にライトを向けられる。眩しさに晴佳は顔をしかめた。

    「お前、奴らの仲間か」

    「違いますよ。あけみちゃんの同級生です」

    そう言うと、急に腕が離された。おかげで晴佳はたたらを踏むことになる。どうせならもう少し支えてくれていたらよかったのに。

    「こんな場所で何をしている」

    「そりゃお互い様でしょ。しかもそっちは人様の家をバンバンとさ」

    「街を守るためだ」

    晴佳のまゆがピクリと動く。

    「そこの家の中の人を怖がらせるのが?どう繋がるってんの」

    「街をなくそうとしているのは彼らだ。それを止める」

    「証拠はあります?あるなら是非協力させてください」

    「そんなものはない」

    「じゃあ言い掛かりじゃないですか!それにこの人たち、精々作業員とかですよ。やるならもっと上に、ちゃんと申請書なり質問書なりですね────とにかく、こんなことはもうやめて下さい!」

    民宿の中の雰囲気が変わった、そんな気がした。彼女は知る由もなかったが、屋内では強硬な対抗手段を主張したD-08-11をD-08-14が羽交い絞めしていたところである。目の前の青年の顔はよく見えない。ライトからこぼれたわずかな光の中、晴佳の言った内容をかみ砕いているのだろうか。

    気が付くと、あれほどいた少年たちが居なくなっている。

    「お前は、街を守りたいと願うか」

    「いいえ。私はもう出ることを決めた身だから」

    「そうか、それもいいだろう」

    気を付けて帰れ、とあきらはライトを足元に投げ捨てた。明かりが消える。慌てて拾い上げ、点灯。残っている人間は自分ひとりだった。民宿側に何か言った方がいいだろうか。

    だが、結局晴佳はその場を足早に離れる。一連のやりとりに、不思議と恐怖は感じていなかった。霧が晴れようとしている。

    山を行く自動車道が崩落した知らせを晴佳が受けたのは翌朝のことだった。元から難易度が高い工事で、無理な拡張に耐えられなかったものと、回覧板に書かれているのを、母親が不安げに読んでいる。

     


     

    D-08-14 (サイト-8.05: 特殊調査機材管理部)


     

    部品として、機材として生きることは、一度受け入れてしまえば気楽なものだった。期待される性能を期待されるタイミングで発揮すればいい。うまくやれば組織からのメンテナンスも受けられるし、自身の生命の存続も期待できる──生き続けることの意味はさておくとして──ばかりか、人類存続におそらく多少の貢献もできる。訳あってこんな立場になってしまったが、自分たちには自分たちなりの矜持もある。

    一方で、危険の只中に送り込まれるのも常だったし、そこで受ける肉体的精神的苦痛に関しては、やはり"機材"としての順応を求められているのは確かだった。寝こみではなかったものの、監視対象から直接的な威嚇行為を受けたことで、同僚たちはかなり大きな衝撃を受けていた。追い打ちをかけたのが調査生活の激変。睡眠中に襲われる危険性を考慮し、なるべく街中で乗車した状態での仮眠が義務付けられ、安息の時間を取るのは困難になりつつある。特に、D-08-11の憔悴ぶりは見ていて辛いものだった。隣で膝を抱えて蹲っている。時刻は昼過ぎ。そろそろ仮眠を取らなくてはならない。

    「まあ、人のことは言えないか」

    財団に支給された安定剤を一粒のむ。財団流のメンテナンスの一種。経験上、これはまだそんなにヤバくない薬だ。依存性もおそらく軽微。だが、用量を間違えればどうなるか。ふと嫌な予感がして、相棒が握りこんでいる薬瓶を見る。予想よりも多い。

    「おい、それ何本目だ。まさか、もう一本使い切ったのか?」

    顔を上げた彼の目は、異様に輝いている。だが、おそらく自分も多かれ少なかれ同様の状態なのだろう。

    「今後は、一人で服薬するんじゃない。分かったな」

    それだけ言うに留めて、毛布を手渡す。調査自体は段々と自動化が進みつつある。居なくなった筈の誰か、新しく増えた筈の誰か。それに伴う改変を捉えるシステム。どれだけ立派でも後手後手なのに変わりはなかった。

    例えば、今サッカーボールを抱えて楽しそうに下校しているあの少女。あの子がいつから街にいたのか、推測することさえ難しい。異常の予兆を捉えて記録できるのは精々が世帯ごとであるし、観測態勢が整ったのも最近のことだ。

    「少なくとも移動車に足を伸ばして寝れる構造は欲しいよな」

    D-08-14は端末を操作し、提案書を作成する。仕事中の公務員がサボって公衆浴場に居るというカバーストーリー。前線部隊の疲労は限界に達しつつある。上司の顔を思い浮かべながら送信し、そっと手を合わせた。

    車の周囲を生徒が通り過ぎていくのに反応し、D-08-11が身動ぎをしている。

     


     

    秋園あきぞの ともえ (第二高校サッカー部)


     

    初めて入学したころは広いグラウンドが嬉しかった。そもそも生徒数が少ないので、放課後に自由に使える空間が突然手に入ったのだ。入りたかったのはサッカー部。人数が足りないために男女混合の団体ばかりだったが大喜びで入部を決め、毎日ボールを蹴った。ただ、どうしても試合相手には事欠いた。なにせ全部員を集めても1チーム出来ないのだ。

    授業が終わればまず、適当にたむろしている帰宅部の面々に声を掛けて回るのが日課。運がいい時でも半面を使ったミニゲームが精々といったところだったが、ボールを追うのは楽しかったし、試合が出来ない日でもリフティングの回数を競ったり、罰ゲーム付きの鳥かごをしたり、がむしゃらに短距離ダッシュを重ねたり。

    けれど、一年経った頃、今度はその広さを持て余すようになった。これは毎年同様に言えることだったらしい。同期の足が遠のくようになると、しばらくはミニゲームさえ組むのが難しい時期が続いた。巴自身も、たまに顔を出して基礎練習を積みつつ、それ以外の時間を図書室や文化部の長屋で過ごすようになる。科学部の晴佳からは体力自慢は歓迎だと散々誘われもし、顔なじみこそ増えたがやはりそこは彼女の居場所ではなかった。

    「あーあ。あたしも、もうちょい頭が良ければな」

    加えて、自分自身を迎え入れてくれたサッカー部に対する気持ちは変わらかった。かつて自分がしてもらったように新入生にも楽しめる場を残したいと願い、部の運営にも適度に励んでいた結果、最終学年は部長をやることになった。年に何度か行われる部長会議に出る位しか仕事はなかったのだが、会議と言うのは響きだけでも格好のいいものだ。

    「えー、サッカー部の秋園です。知ってる人も多いけど改めてよろしく」

    「科学部の田崎です。部じゃないけど呼ばれたから来ました」

    悪友を始めとして顔見知りの同級生たちが挨拶をしていく。そこで、彼女は出会ったのだ。

    「合唱部部長、中村です。よろしく」

    黒髪を肩で揃え、凛とした空気をまとう少女。名前は聞いたことがあったし、少ない生徒数である。遠目に見たことは何度もあったが、同じクラスになったことはなかったので、動いて喋っている様子をそこで初めて見た。それから目が離せなくなった。突然の変化に、晴佳には大いにからかわれたものだが。

    とにかく世界はかくも容易に変貌し、巴はグラウンドにまた熱心に通うようになった。これまで放課後の雑音として聞き流していた合唱の声、いや伴奏の音を聴きたかったから。曲名が気になってメロディを頭に叩き込み、家に帰って必死に検索した。すると、流れてくる音楽は明確に頭の中で像を結びだす。やがて聞くだけで安心したり、楽しくなったり、あるいは心配になったりした。ちょうど今のように。どこか元気のない伴奏。

    「先輩、ダッシュ30本終わりました!」

    「あ、うん。えっと、どうしよっか」

    「寒いですし、あれやりましょう!鳥かご改、巴スペシャル!」

    「よし、やるか!」

    一年生と仲良く練習メニューを決める部長を二年生が半眼で眺める。小さく足踏みをしている彼は、ふと気付いたように言った。

    「部長、ピアノの音がします。合唱部かな」

    「そうだね」

    「あそこの部長さん、美人ですよね。背も高いし奇麗だし大人っぽいし。うちの部長とは大違いだ」

    「村山ぁ。お前、校庭10周して来い」

    「ひぃ」

    生意気な後輩を周回に蹴りだし、巴はため息を吐く。確かに自分は背は低いし可愛くないし子供っぽいが、足は速いしリフティングは部で一番だし中村さんのことは、きっと、多分、もしかすると、二番目によく知っている。それに自分は部長なのだ。後輩に舐められる謂れはない。

    ボールを足元に転がし、巴も走り出す。早くピアノが元気になるように祈りながら。

     


     

    原田 あけみ (第二高校合唱部)


     

    合唱部に行くのを休むと伝えると、両親は安心したようだった。いくら特殊な状況下でも受験はやってくるのだと、大体そんなことを言われ、言葉にこそ出なかったけれど、兄の現状を両親が嘆いているであろうことは明らかだった。

    母は仕事前に昼食を二人分作っていくようになった。自由登校とはいえ学校を避けている現状、せめて勉強に集中するのが筋というものだろうが、中々進まなかった。共通テストを使うでもなく、一発試験と作文で通る大学を探してきたのだ。

    朝起きると参考書の最初の方からだらだらと読み、脳の表面をそれらが滑っていくのを感じ、昼過ぎに階下へ降りる。ふとした時に、午後から行われるであろう合唱練習のことを考える。あけみはそんな時間を過ごしていた。

    その日のメニューはオムライスだった。朝忙しかっただろうに、丁寧に卵で包まれたそれを温める。ケチャップで何か書こうとして、止めてしまう。

    ピアノの伴奏はどうなっただろう。今はまだ美咲が担当しているだろうが、自分以外の代役は知る限りいないはずだった。

    ぼそぼそとケチャップライスを口に運び、皿を流しに漬ける。階段を上り、自身の部屋へ向かう途中。廊下を挟み、反対側にある大きな部屋にはグランドピアノが置かれている。家の建築時に運び込んだものだ。持ち出すことはもう出来ないだろう。

    昔は街にも楽器店があった。それも無くなり、習い事としてピアノをしていた子供は美咲とあけみが最後かもしれない。懐かしくなって、そっと蓋を持ちあげる。鍵を叩くと、流石に調律が必要であるが、意外にきれいに音が鳴った。つられたのだろうか、その音に、かつて弾いていた童謡が思い出されたので弾いてみる。指が転んでしまうのに心の中で悲鳴を上げつつ、運指も怪しいまま。

    そうだ。家で美咲とピアノを弾いて、それが終わるとそのまま遊びに行き────ピアノは、誰に教わっていたのだろう。

    「おい、勉強しなくていいのか」

    背後からの声に驚き、鍵を強く押してしまう。

    「止めるなよ。ピアノは時の芸術。停滞してはいけないんだ」

    あきらはそう言って、入り口にもたれかかる。

    「ねえ、お兄ちゃんは、ピアノ弾いたことある?」

    我ながら変な質問だった。母も父も楽器は演奏できない。兄以外にそんな家族がいたことはない。

    「そうだ、俺がお前らに教えたじゃないか。何を分かり切ったことを」

    「そう、だよね。ごめん」

    「まあ、長いこと弾いていないからな」

    あけみは急に怖くなり、部屋を足早に出る。すれ違いざま、枯れた木のような匂いを嗅いだような気がした。成熟した空気とでもいうのか。

    ──じゃあお兄ちゃんは、どうやってピアノを覚えたんだろう?

    背後で、兄が階段を下りていく音。オムライスをレンジに入れる音がした。


     


     

    • _

     

    中村 美咲 (第二高校合唱部)


     

    三年生は自由登校だ。元々他にピアノを弾く人などいなかったのだが、それでも練習開始まで音楽準備室のピアノを独占できる。自分の好きなように曲を弾ける。今日がこの部屋で過ごす最後の日だった。

    ピアノはあけみの家で習った。いつ頃からかもう行かなくなってしまったし、誰から習ったのかも今となっては思い出せない。大事なのは、結局美咲はピアノを弾くのが好きなこと、その延長線で街の外へと踏み出せたことだ。そう言えば、あけみにはまだ言えていなかった。新しく歌う曲、旅立ちを歌うそれ。思わず苦笑いしてしまう。結局、今の自分は合唱部の部長であり、伴奏の担当者なのだ。

    前奏を弾き始める。即興でアレンジ。ジャズ風。適当に歌ってみる。調子はずれ。実は歌は苦手だった。でも、合唱の舞台で弾くと、あの子の声を一番近くで聴くことが出来たから────。

    「そんな難しいアレンジやるなら帰ろっかな」

    聴きたかった声。振り向くまでもなかった。張り切って、美咲はアレンジを激しくする。流れるように両腕が躍る。来てくれた喜び、謝罪の気持ち、そんなものを込めて。すっかり弾き終わるまで、彼女はじっと待っていてくれた。ぱちぱちと拍手。

    「ねえ、まさかとは思うけどさ、ホントにそれやらせる気じゃないよね」

    「大丈夫、これだとそもそもみんな歌えないからね」

    「それはそう」

    美咲は勢いよく席を立つと、入れ替わりにあけみを座らせる。

    「あのさ、言っとくけど期待だけはしないでよ。何年ぶりだと思ってんの」

    「いいからいいから。はいこれ、楽譜。ちょっと簡単めに編曲してあるから!」

    そこだけ時間が戻ったように、二人は鍵盤に向かう。誰とも知れない三人目はここには居なかったけれど。たどたどしくも、ゆっくりとあけみは曲をなぞっていく。

    「あ、ミスった」

    「全然いいよ、続けて。止まらないで」

    「伴走者としての心得?」

    「まさか。ピアノは時の芸術。停滞してはいけない。間違えても忘れても、天変地異があっても、ただ弾き続けるんだ」

    厳しい言葉だ。これを教えてくれた人もきっとそうだったに違いない。目の前にいるのが小学生だろうと、子供扱いせずに一人のピアノ奏者として扱おうとするような、そんな指導者。

    つっかえつつ弾き終わる。美咲は手元の楽譜に書き込みを入れていく。チェックポイント。

    もう一度。細部の修正。しかし、同じところで止まりかけてしまう。技巧的に難しい部分。

    「大丈夫、そこは後で考えよう」

    後で、と口に出してから気付く。でも、何とかすればいい、と自然と思える。

    「まず、前半部分からね」

    隣に座って、美咲は旋律を奏で始めた。あけみに弾き易いように工夫をして。

    二時間ほどそうしていただろうか。授業を終えて、後輩たちが集まってくる。あけみを見て、喜ぶ彼ら彼女らに取り囲まれ、あけみがはにかんでいる。しかし、メンバーの半分は明日ここを去ってしまうのだ。美咲はそっと、楽譜を抱える腕に力を込めた。

     


     

    秋園 巴 (第二高校サッカー部)


     

    自動車道の崩落に伴い、人員の輸送は古い資材運搬鉄道で突貫されることになった。急遽形ばかりの座席が設置されたその列車は古く、あからさまに乗り心地が悪そうである。実際、乗り込んだサッカー部の後輩二人は発車前の貴重な時間をずっと文句を言うことに費やしていた。ついでに持ち出し制限の厳しさにも泣き言を言う。

    「私のサッカーボール!どうして……ずっと一緒だったのに」

    「いや、サッカーボールくらい向こうでも手に入るだろ」

    巴はいい加減面倒になっていたが、一応突っ込んでやる。なにせ暫く会えないのだ。

    「うええ。部長、また会いましょうね。約束ですよ」

    「うん。居場所落ち着いたら連絡してくれよな」

    一年がそんな調子だから、二年もしんみりとした口調になる。

    「今までありがとうございました……楽しかったです」

    「お前はお前で大人しいな!気持ちわる!」

    ホームには同様にして別れを惜しむ人々の姿がある。目の前にいるのは合唱部だ。中村美咲もまた、街を去る側の人間だった。窓を開けて、何か冊子をあけみに渡している。

    「昨日、何とかもっかい編曲したんだ。間違えやすいとこ、直ってると思う。後はセルフで、ね」

    「うん。ありがとう」

    「あと、パート分けもちょっと弄った。声の指導の方は、あけみの方がうまいとは思うけど」

    「美咲は歌だけはだめだからね」

    「理論面では完璧だからいいんだよ!」

    もっと、話すべきことがあるんじゃないのか。それとも、そんな話は普段から十分にしているのか。妬ましさのようなものが胸を焦がす。大声を上げて走り出したい気分。

    しかし、それが逆恨みでしかないことがすぐに明らかになる。後ろからだから見えた。あけみが何か封筒のようなものを取り出して、美咲に渡そうとした。でも、何故か後ろ手に持ったまま、動きを止めてしまった。渡さないつもりだろうか。渡せる立場にあるというのに。

    警笛が鳴る。黒服たちが列車から離れるように促した。程なくしてドアが閉まる。ゆっくりと加速しだす列車。いつの間にか隣に晴佳が立っている。科学部の面々に手を振っている。ふと、巴は自分の胸の内に、何か嫉妬とも違う黒い感情が渦巻いているのを自覚した。別れそのものに対する忌避感か、あるいは────。

    胸に手を当てて苦しげな表情をする巴。段々遠くなる後輩が、身を乗り出して彼女に叫んだ。

    「先輩!走って!!巴さんは、前を向かないとだめです!」

    ハッとする。束縛をその一言が断ち切ったかのように。晴佳が、今度は物理的に巴の背中を強く押す。まだ列車はそんなに速度を出していない。確かに今なら。そうだ、自分にはまだ走ることが可能なのだから。

    「おい、あけみ!それ、寄越せ!」

    突然呼ばれて、身をすくめるあけみ。きっと何を言われたのか、巴が何をしようとしているのかは分かっていない。それでも、彼女は反射的に手に持っているものを差し出す。それを答えとみなして、巴は大きく一歩踏み出し、ホームを蹴る。

    「うわああ!!」

    大声を上げて走りたいと、確かに思った。思ったが、まさか実際にするとは。しかし、案の定すがすがしい気持ちだ。

    「中村さん、中村さん!」

    全速力。離れていた美咲の窓へ距離を詰めていく。資材運搬用のホームは長い。持久力には自身がある。サッカー部舐めんな、と、速度を増す。

    後輩が声を掛けてくれたのだろう、美咲が窓から身を乗り出した。美しい黒い髪が風に揺れる。

    「あけみから!受け取って!」

    伸ばした手と手。触れ合う。美咲は確かに、封筒をつかみ取る。すぐ横で、後輩たちが腕を大きく突き上げている。

    「ありがとう。秋園さんも、元気で」

    その時の美咲の表情を、巴は一生忘れないだろう。一筋の涙と、はじけた笑顔。

    まるでそれを待っていたかのように、列車が加速する。美咲はすぐに体を車内に戻した。列車の最後尾が、山の中を切り開いた鉄の道の上、ぐんぐんと遠ざかって行く。

    渓谷に別れを告げるかのような警笛が木霊した。それを見送る人々を、黒服たちがじっと見つめている。

    背後であけみに晴佳が近寄る。何事か聞いているのを、巴は意図的に聞かないようにする。それは、彼女が背を向けたことだろうから。近寄って、二人に声を掛けると晴佳が気まずげに距離を取り、あけみは改めて、巴に言うべき言葉を考えているようだった。


     


     

    春日井かすがい 欧太おうた (サイト-8.05: 特殊調査機材運用部)


     

    霧の中、指揮車はゆっくりと移動していた。ハンドルを軽く握り、静かな移動を心掛ける。佐藤は輸送列車に関する報告を読みつつ、第二陣の受け入れ調整作業を進めていた。少しばかり急なブレーキ。ちょうどコーヒーカップを持ちあげていた佐藤は、慣れた様子でそれを傾け、こぼれるのを防ぐ。

    「ねえ、居場所、なんでバレるんだと思う?迷彩装置に異常はない筈だけど」

    「さてな。いずれにせよ、バレてから議論してもしょうがないのは確かだ」

    人影が進行方向にぬらりと立っている。一つではない。動きを止めた車両を、ぐるりと取り囲んでいく。報告は上がっていた。以前は直接的な示威的行為が観察されていたが、ある時期を境にそれは影を潜め、霧と共に職員たちの拠点を包囲するような動きに変化していた。

    それ以降、佐藤は指揮下の職員全員に夜半の移動を命じている。安全を考慮しての処置であったが、効果は芳しくない。被害状況はむしろ甚大であった。霧の中包囲され、逃げ切れないという心理的な圧迫に加え、閉鎖空間に閉じ込められて常に移動を強いられるという状況。強制的な住民の収容に加担しているという罪悪感。職員の多くは、通常の手段ではもはや職務遂行に不安が生じつつある。

    勿論、財団にはこうした時の備えが十分すぎるほどにあった。佐藤は直ちに精神安定作用のある薬剤の使用を命じるなど事態の対処に余念がない一方で、本人は到っていつも通りに餡まんを齧っている。ただ、一度に蒸す数量が一つ増えているのを春日井は知ってもいた。

    「こっちから攻めがないのが辛い」

    「佐藤?」

    「人かオブジェクトか分からん相手、どこまでやって許されるんだろうな」

    佐藤が弄んでいるのは光学式記憶処理装置の起動ボタンだ。程度にもよるだろうが、状況を鑑みて、その使用は間違いなく"許される"だろう。

    だが、それは包囲者たちにこの指揮車の装備が、ひいては財団の存在の手掛かりが露見することを意味している。然程強力ではないとはいえカムフラージュした拠点や車両を発見してくる相手だ。未知の情報共有能力を有しているかもしれず、少なくとも地の利は向こうにある。

    「なあ春日井、入れ替わった場合、その記憶はどうなるんだろうな」

    「現段階の仮説では連続性はないものと扱っているね」

    「そう願いたいもんだ」

    春日井は無意識に腕を撫でる。群青の腕輪。今回の任務で指揮官を務めうる職員を送り込むうえで、財団が講じた防護措置。機能的にはオレンジのそれと同様である。佐藤はDクラスの人員に報告を求める。どのチームも同様に包囲されているものの、実害は加えられていないとのことだった。引き続き待機を命じる。

    「じゃあまあ、出来ることからやるか。情報収集にでもなればもっけの幸いってな」

    佐藤が選んだのは攻撃手段ではない。制御卓からマイクを取り上げ、車載スピーカーの電源を入れる。

    「あー、もしもし。こちら災害対策本部の渡辺といいます。あなた方は車両の進路上に位置している為、大変危険です。速やかに道の脇に避けてください」

    気負いない声が霧の中へ送り出された。収音装置からの応答を待つ。一秒、二秒。

    『話があって来た。責任者はあなたか』

    「ええ。現場作業の策定と実施を行っているのは我々です」

    カバーストーリー通りの返答ではあるが、やや踏み込んだ表現だ。

    『何故、あんたらは街を壊そうとするんだ』

    「いいえ。我々は確かにあなた方を街から遠ざけようとしていますが、これは災害対策です。時間はかかるでしょうが、いずれは元通り────」

    『それが嘘だと分かっている、と言ったら?』

    「何のことを言っているか分かりかねます」

    『火山ガスなんてものはない。あんた達が来たのは僕らに対処する為だろう』

    さすがの佐藤も小さく息をのんだ。

    「ガスがない、と。観測データだとかの話は置いておきましょう。僕ら、とは」

    『知っているくせに。僕らはきっと、普通の人間じゃない』

    それが何なのか、僕ら自身にも分からないけれど。でも、あんたに倣ってその話は置いておこう、と原田あきらは続ける。

    『僕らが問題にしたいのは、やり方だ。あの列車の行先はどこなんだ。みんなを、どうするつもりだ』

    「近隣都道府県に準備されている仮設住宅へ、順次入居して頂く予定です。その先の目途がまだ十分に立っていないことはお詫びします。それでも、我々はこの街の皆さんを助けたい」

    『そもそもそれが嫌だと言えばどうする。僕らはこの街で生きていきたい。最後までこの街に居たいんだけなんだ』

    「分かります。あなた方にとって、ここでの生活が大切なものであるとは分かっています。その上で、私たちはどうしても、これをやらなければならない」

    佐藤の口調は落ち着いている。その背景にある信念が、彼を支えているからだと春日井には理解できた。

    「それに、あなた方がそれに反対しているとして、他の住民の方々はどうなんです。"存在している危険"に彼らを巻き込まない保証はありますか?彼らをそれから守らなくてよいのですか?」

    『彼らはこの街の一部だ。これまでも、これからも』

    春日井は、ふと小さい頃に砂場で遊んでいた日のことを思い出す。帰る時には平らにならすというルールがあった。母親が夕飯時に迎えに来て、自分が作った砂の城を壊すように言った。渋っている自分を母親はなだめすかしたが、子供時代の春日井は受け入れられず、最終的には傍の滑り台の上へと籠城したのだ。そして、ため息をついて砂場にしゃがみ込んだ母親の背を睨んでいた。そんな夕焼けの思い出。

    「それは、我々には受け入れがたいことです。この街に生きることはこの街で死ぬことではない。我々は、この街が孕んでいる危険性から、あなた方を守るためにきたのです。だからやり通します」

    佐藤の声を一貫して支えているのは、結局のところ、そういった類のものなのだと思った。

    「例えここであなた方が何をしようと、我々はそれをやる。その為に存在している力を行使して。そして、お約束しましょう。その過程で、我々は好んであなた方の生命や生活を脅かすことは決してしない」

    『では、僕たちもそれを受け入れられない。僕たちは、あんた達のことを見ていようと思う。僕たちのやるべきことをしていこう』

    道が開けた。霧の中、人影が割れていく。会話はこれまでのようだった。春日井はヘッドライトを強め、アクセルを踏み込む。後ろで佐藤ががっくりと脱力するのを感じた。マイクが切れているのを何度も何度も確認し、絞り出すように一言。

    「機動部隊を、投入する」

    「指揮は任されるよ」

    「頼む」

    そう言うと、佐藤は席を立った。

    「寝たら、ダメだよ。もう一息だ。夜が明ける」

    返事はなかった。


     


     

    D-08-11 (サイト-8.05: 特殊調査機材管理部)


     

    心と体の歩調が合わない時、どうすればいいのだろうか。忘れる、別の仕事をする、気分転換をする。だが、それが許されない時はどうすればいいのだろう。もう長いこと布団で寝ていない。いつ襲撃されてもいいように、見張りを立てつつ車内で眠る。一晩中追い回された神経は皮膚の下で燃えているかのように激しく痛んだ。

    D-08-11は焦点の合わない目で機材のピンを動かしていく。頭の中には靄が掛かっていて、次に自分が何をするべきなのか、今何をしているのかもわからない。それなのに、手は滑らかに動き、脳は計測されている数値を読み取っては見事な勘を発揮してデータに応じた操作を続けている。いつか無線から出力された語句。お前たちは測定機器だ。なるほど、機器に意識はあっても無くてもかまわない。

    だが、長くは続かない。前に薬を飲んだのは何時間前だったか。もう関係ない、とにかく体を動かさねばならない。D-08-11は急に震え出した手でポケットから薬瓶を取り出す。個々人に支給された最後の一本。振ると掌にザラザラと錠剤が出てくる。山となったそれを口に押し込み、飲み下そうとするが、喉の動きが思い通りにならない。吐くことも嚥下することもできず、D-08-11はもがく。水はなかった。前回の服薬で飲み切ってしまったから。

    「あ、あ」

    近くに相棒が居なかっただろうか。そう言えば、もう一人で薬を飲むなと言われていた気がする。だが、もう薬がなければ動けないのだ。動けない部品は廃棄されてしまう。あの冷たい声をした指揮官に、面倒なことにされてしまう。だが、ここで使い物にならなくなった方がいいのではないだろうか。自分は一度社会から零れ落ちて辛うじて今の状態に引っ掛かったに過ぎない。藻掻く力も失われて、男は地面に膝をついた。まだ日は高い。ああ、喉に薬が詰まっている。視界が暗くなっていく。誰かが駆け寄ってくるのが見えた。もう来なくていいのに、と考えた。

    「ちょっと、大丈夫ですか!?」

    黒服の男を見掛け、あわよくば観察でもしようとしていた晴佳だった。へたりこみ上を向いて泡を吹いている男の近くにはあからさまに怪しい薬瓶が転がっていて、空だったそれを見て晴佳が最初に疑ったのは薬物中毒だった。だが、下を向いた拍子に口の中から錠剤が零れ落ちたのを見て、まだ吞んでいないのだと気づいたようだ。背中を強く叩かれる。肺から空気が出たのだろうか、男はようやくせき込み始めた。激しく息をしようとする。すると、晴佳は思い切って口の中に指を差し入れる。何度か激しく掻き出す動き。唾液で溶けてくっついていた白い塊が喉から剥がれたのを感じる。

    幸い近くに水場があった。機器を抱えて先導してもらう。支えられてようやく水分を取ると、人心地が付いた気がした。冬だというのに、肌着の下では嫌な汗が噴き出ていた。

    「おじさん、何度か見てますよ。街の中で観測してたり、駅のホームで例の列車の管理とかしてた」

    「ああ」

    「で、折角なので、聞きたいことがあってですね」

    D-08-11はなけなしの集中力をかき集める。そうだ、この少女には見覚えがあった。いつか民宿のような建物であいつらに包囲されていた時、助けてくれた少女だ、と。何か情報を奪いに接触してきたに違いなかった。対尋問訓練の成果は体に叩き込まれている。身構え強張ったその顔を見たのか見ていないのか、晴佳は能天気な声で知りたかったことを聞いてくる。

    「その機械なんですけど、ガス検知器ですよね?しかも光学式の」

    「あ、ああ。そうだが」

    「実用化されたの最近だと思うんですよ!ちょっと見せて下さい!軽くでいいので!」

    「あ、ああ。原理は赤外線を用いた画像処理なんだが、えっと、高校で習うのか?」

    晴佳は嬉々として説明を聞いている。事前の設定で、温度ムラからガスの種類までをある程度識別できると聞いて、彼女は大いに感心した。なんだか毒気を抜かれたような気がして、D-08-11は任務前に仕入れた知識を問題のない範囲で話していく。最終的に、ガスの成分について話が及んだ。

    「火山性ガスだからな、究極的には。水蒸気が主で部分的に二酸化硫黄が危険だよ」

    「で、その為に街中でも張ってると。なるほどなぁ」

    晴佳は必ずしも納得したわけではない様子だった。久しぶりの平和な話題で気が緩んでいたのか、妙に心細い気持ちになる。

    「えっと、質問は、あるか?」

    「ない、けど。やっぱり、最後に自分でガスの成分分析したかったなぁ」

    「そんなこと企んでたのかお前。そうか、最後って」

    辺りは暗くなりかけている。

    「うん、明日の便。だから今日はスッキリした。ありがとうね、おじさん」

    そしてやはり、油断していたのは晴佳も同じだったのだろう。

    D-08-11は夜になり、霧が出てくる前に車両へと戻らねばならないと思った。霧に触れることは、強い禁忌だった。そして、今の彼に、その禁忌に抗うだけの力はなかった。

    「なあ、一個だけ教えてくれよ。あの霧、何なんだ?」

    「何って言われても。μmサイズの水滴の集合体?」

    「そうじゃなくって。なんか、伝承とかないのかよ」

    晴佳は肩をすくめる。非科学的な話は苦手だった。

    「死んだ人が霧の向こうに行く、ってのは聞いたことがあるよ。よくある黄泉の世界ってやつ」

    「住民間で共有される伝承のイメージ、か。そうか、そういうことか」

    異様に目をギラつかせる男に、晴佳はたじろぐ。

    「ちょっと止めて、お互い知らない方がいいこととかあるじゃん」

    「まあ、待てよ。そう言えばお前には借りがあった。いいか、聞いてくれ。あの夜にあそこに居たのは」

    或いは、予期していたのかもしれない。決定的なことを言う瞬間に、その首に巻かれたオレンジ色の器具が破裂した。晴佳は一瞬早く駆けだしている。一刻も早くこの場から逃げなくては。

    その足首に白い不定形の細長いものが巻き付き、彼女を引き倒した。物理的にあり得ない現象。それは、ある種のガスだった。その場にばら撒かれ、周囲の熱源を追って無力化するという常識外の"安全装置"。光の世界にはないもの。晴佳の思考が千々に乱される。白いガスは蛇のように彼女の体を這い上ると、まさに鎌首をもたげるように狙いを付けてから、勢いよくその気道へと侵入する。肺を満たすと速やかに、対象の意識を奪う。ともすれば危険の伴う制圧手段。

    「ごめんね、君たちを守りに来たはずだったのにね。こうすることしかできないんだ」

    D-08-14、男と組んで任務にあたっていた男が、悲し気に呟く。動かなくなった二人を抱えて、走らせてきたバンへと担ぎ込んだ。

     


     

    原田 あけみ (第二高校合唱部)


     

    朝、学校へと向かう前にピアノを弾くのがあけみの日課となっていた。あけみの部屋の向かいにある部屋。そう言えば、二階の使っていない部屋は、長らく物置になっている。ここも使えた筈なのに。

    残っていた生徒を対象としてなんとか大学入試が行われた後、早めの休みということで学校は閉鎖されている。それでも、入ろうと思えば幾らでも手段はあったから、あけみたちは残った生徒たちと共に最後の日々を過ごすことにしていた。最終退去の日には自主的な卒業式も行う予定である。

    最近の兄は夜通し外で何かをしているようで、朝に帰ってくるのが常だった。そして気が向いた日には、演奏に対して指摘をしてから一階の和室へ消える。美咲を見送った日、晴佳から一度尋ねられたことがあった。お兄さんは何をしているのか、知っているのか、と。答えることは出来なかった。

    その日、珍しく兄は演奏以外のことを問うてきた。

    「お前は、この街が好きか。無くなって欲しくはないと、そうは思わないか?」

    「そんなこと言ったって……。みんな居なくなるなら仕方ない、かなって」

    「出来ることがあるとは思わないのか」

    「あるかもしれない。あのね、この曲は美咲が書いてくれたの。私に弾き易いようにって。美咲のこと、お兄ちゃんも覚えてるでしょ?すごいんだよ、音楽の学校に行って、将来はピアノで生活するんだって」

    「ああ」

    「私は、美咲みたいに、はっきりとした目標があって街を出ようとは思わなかった。どっちでもよかったのかも。でも、最後の時が今なんだったら、それが……ちゃんとした終わりになるようにしたいな、って思う。えっと、大事にしたいことがあるんだけど。なんて言えばいいんだろう」

    「納得できるか、か?」

    「そう、納得。出来るかどうかわからないけど、でも、一緒にそれを目指してくれる子たちが居るから」

    兄の瞼がゆっくりと降りていく。あけみは鍵盤の蓋を閉め布をかけた。

    「じゃあ、行ってきます」

    扉を開けると、夜の間に地面が湿っている。母が植えたチューリップの鉢植えは、もう殆どが咲きかけていた。

    坂を上る。何度も美咲と共に歩いた道。後ろから、小さな体が走って近づいてくる。

    「よう、あけみ。今日は遅かったな」

    「ちょっとね。巴はどうしたの?」

    「えっと。実は待ってたんだ。聞きたいことがあって」

    立ち止まると、最近できた友人は頬を赤らめて聞いてくる。

    「あたしも、その、音楽室行ってもいいか?なんて。歌は自信ないけどさ」

    あけみは微笑む。

    「もちろん。丁度パートが足りないって話してたとこだよ!」

    「そ、そうか。じゃあ、科学部のやつらにも声かけてやろうぜ。晴佳も急に行っちまったし」

    「あれ、それ手紙?」

    「うん。今朝ポストに入ってた。たく、直接言えばいいのにな」

    「巴は行かないんだ」

    「まだらしいな。まあ、ガス騒ぎなんてなければ街に残るつもりだったしさ、見届けるよ」

    あけみと巴は、また坂を上り始める。もうすぐ最後の日を迎えるまで、出来ることをしようと改めて思う。納得が出来るように。これまでの街の歴史が、今を生きている自分たちの上に流れ着いたのだとしたら。あけみたちがその終わりに立ち会って、いつか戻るにせよ戻らないにせよ、自分たちの道を歩いていくことに意味があるはずだと信じて。

     


     

    閠∽ココ縺溘■


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    むら
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    こちら、監視終わり~。解散します
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    確認しました。また明日
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    2021年2月28日(日)
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    飯田
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    結局、あの人たちを止めたところで、か。僕たちはただここに居たいだけなのに
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    保科志穂
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    私たちに出来ること、まだある筈だよ。せめてもっと仲間が増えれば。巴とか
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    もう、終わりにしよう
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    保科志穂
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    なんで?街が無くなるんだよ?
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    ここで僕たちが生きた証は、あの子たちの存在そのものだ
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    あの子たちがそれを受け継いで生きていく。それは信じようと思う
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    飯田
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    そうか。あまり、街の役には立てなかったな
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    そんなことはないさ
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    との
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    そうとも。それに、こんな風に終わりになるのなら悪くはない
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    僕もそう思う
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    との
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    気持ちはわかるけどさ、やっぱあけみちゃんに言われると弱いね
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    言うなよ。やっぱり可愛いって思ってしまうんだ
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    との
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    みんな、帰っていく。君はいいのか?
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    僕は残る
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    まだやることがある
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    みんな、これまでありがとう
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    さよなら


    あきらは二階へと向かった。あけみがいない時にこの部屋に入るのは久しくなかったことだ。五年ぶり、いやもっとだろうか。椅子を引き、腰掛けてみる。鍵盤の蓋を開き、なんとなく音を出してみる。一つ、一つと音を出し、積み重ねていく。ジムノペディ。ゆったりとした音階の幻惑的なつながり。終わることのない曲。繰り返し。

    だが、これは相応しくないのかもしれない。曲の終盤を辿りながら考える。明日、きっと全部が終わるのだ。ならば。

    余韻を敢えて破るようにして次の曲へ。月の光。技術的には簡単だが、予想しない音が入るので弾きこなすのは難しい。だが、完璧に暗譜しているので問題はない。むしろ表現力を問われる曲だが、今のあきらには伝えたいことがあった。この街には届かなかったものを届けるかのような、そんな演奏。


    • _


     
    作戦は特殊睡眠ガスの散布と同時に開始された。

    このガスは、人を襲う。動く生き物を見つけると集中し、効果が確認されればまた拡散していく。制圧が確認されたエリアには留まらない。開放型の空間でも大きな効力を発揮すると、多くの現場で証明されてきた。より攻撃性を増したタイプも存在し、いつでも追加で散布できるように準備は出来ている。

    状況開始から20分。防護服姿の機動部隊員たちが作業を進めている。

    朝の大通り、最も忙しい時間帯。だが動くものは自分たちだけ。狙ったのは通勤の途中。事前に人の流れを計算した上で最適なタイミングとして提案された。

    大通りの只中でバタバタと倒れている人々。手早くタグをつけ計数。予定からの逸脱はない。

    慣れた作業だ。人員の収容は後続の機械化部隊が担当。先行隊である自分たちの任務は制圧と警戒。

    「こちら春日井。各班、進行状況知らせ」

    「こちら一班。作戦に支障なし」
    「二班同じく」
    「三班異常なし」

    「了解。作業を継続せよ」

    三班に分かれ、事前計画通りに周縁部から中央部を処理。残された高台へと歩を進めていく。途中、人々が中途半端な姿勢で崩れ落ちているのを処理していく。高台を目指す途中だったのか。

    その目線の先にある大きな校舎。現在運営されている唯一の高校。12月の観測開始以降、入れ替わった人型実体の多くがここに集まっていた。特定が可能だった個体とその関係者が、今日まで残された。

    最後の坂道の手前。春日井は流れてくるピアノに気が付く。手を上げて待機の合図。まだガスが到達していないようだった。

    「卒業式ってとこか」
    「仰げば尊し、じゃないな」
    「それ、俺は歌ったことないっす」
    「まじか、ド定番だろ。時代かねぇ」

    前奏の途中で気が付く。春日井は、その曲が旅立ちを歌うものであると知っていた。自身も歌ったことがあった。

    若く朗々とした歌声。風に乗り聞こえてくる。幾重にも重なり、伸びやかに。翼を広げた白い鳥を、春日井は見た気がした。


    光を受けて輝く風景。そこへ飛び立つ日が来た


    限りなく続く青い空、自由にどこまでも行ける


    「ああ、これ!これ歌いました。懐かしいなぁ。まだ歌えるかな」
    「おいおい、やめとけ」


    空の彼方へ向かう鳥は戻ることはない。いざ別れの時が来た


    自分たちの若い力を信じて進もう。この大空へと羽ばたこう


    歌声が少しずつ小さくなる。息継ぎをする度に重なる声が消える。一人、また一人。ピアノの伴奏が響き続ける。消えた声を補うように強く。まだ残る声を励ますように優しく。今この時を寿ぐように伸びやかに。終わり行く日々を拒むように激しく。


    勇気を翼に、希望を胸に。思い出を強く抱いて


    勇気を翼に、希望を胸に。思い出を強く抱いて


    遂に、声が聞こえなくなる。残されたピアノを、一人の少女が弾き続けている。時の芸術を紡いでいく。

    空から降ってくる音を、機動部隊員たちは受け止めていた。皆、微笑ましいといった様子で。演奏は終盤に入った。

    震え、乱れる音色。最後の繰り返し。それは大空を目指す若い鳥の羽ばたきだった。そうすることでしか前に進めない。そう訴えかけるような。

    最後の余韻。そして静寂が訪れた。




    数拍おいて、指揮官は前進のサインを出す。

    彼らの行く道を散った桜の花びらが彩っている。

     

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