身体中が痛む。身に着けている白衣は赤い非常灯の光を一身に浴び、どこまでが血によって染まった箇所であるのか区別が付かない。耳鳴りがする。緊急時に必要なプロセスだと分かってはいるが、今はこの喧しい警報音が鬱陶しくてならない。視界が霞み、涙が止まらない。収容違反発生の際に眼鏡を失くしたこともあるが、なぜだか瞼の中の異物感が一向に無くならない。
それでも、私は歩み続けなければならなかった。せめて、この子だけでも。そう自分に言い聞かせながら、私は彼女を腕に抱き、人気の消えた廊下を非常灯の明かりだけを頼りに進み続ける。
ふと、彼女の顔に目を向ける。なぜだろう。彼女の空っぽになった右目が、私を見つめている気がした。
気が付くと私は、見知らぬ部屋で長椅子に腰掛けていた。外観を見る限り、サイト内の収容室か何かだろうか。はて、私は今まで何をしていたのだったか。記憶を辿ろうとするも、生憎なことに何も覚えてはいない。
「やあ、ゴート。まさか、また君と会えるとはね」
思わず声がした方に顔を向けると、古めかしいスーツ姿の男の背中が視線に入った。そこにいつから座っていたのだろう。男は私の右隣に、私が向いている方とは反対の壁に向き合う形で座っていた。男は私が返答をするよりも早く言葉を続ける。
「君は、自分が大きな負債を抱えていたことを覚えているだろうか。そして、その負債を清算することなく、自らのシャドウ[http://ja.scp-wiki.net/Oneiroi]を殺してしまったこともね」
男の言っていることが分からず、私はキョトンとした表情で男の背中を見つめ続ける。シャドウ……影を殺したとは、何かの比喩だろうか? それに負債というのも何のことだろう? 私は誰にも借金をした記憶などない。どうやら男は私のことを、先ほど名前が出た「ゴート」と言う人物と勘違いしているようだ。
「あの……申し訳ありませんが、別の方と勘違いされてはいませんか? 私は──」
そこまで言って、私は言葉に詰まった。私は……私の名前は何だった……?
「ああ、ゴート。君は、まさか自分の名前も忘れてしまったのか? その背に付けた一対の"羽"にも見覚えがないと?」
ここでようやく私は自らの背の違和感に気付く。恐る恐る視線を送る……男が言った通り、背中からは何かの鳥を思わせる羽が生えていた。呆然となって手を伸ばして触れるが、驚くことにしっかりとした神経の感覚すらもある。
「なんでこんなものが……私は、死んでしまったのですか……?」
混乱した頭で発した言葉は脈略のないものだった。男は一瞬の間を置いて口を動かす。
「別に死んで天使になったわけではないさ。他の者がここでの移動手段として"ロケットブーツ"や"ジェットブースター"を使うことがあるように、君はその"羽"を好み、自身のシャドウに付けていただろう」
「羽を……シャドウに付ける……?」
私は男の話す内容を良く理解できなかった。つまり、シャドウとは私の身体のこと……ということだろうか……? そんな私を尻目に、男は微かに溜息を漏らした。
「シャドウはこちらでの姿のことだろう? ……ああ、どうやら君は誤った形でこちらに戻って来てしまったらしい。もしくは、生まれ変わったと言った方が正確だろうか」
暫くの沈黙が続いた後で男は呟いた。
「君の明晰さも失われ始めている。一度、目を醒ました方が良いだろう」
男は立ち上がった。
半ば意識を失いそうになりながら、私は必死に歩を前へと進め続ける。そんな中で腕に抱える彼女の様子をチラリと窺うが、その顔からは血の気が全く感じられない。口元から聞こえる微かな呼吸音だけが、彼女が生きていることを知れる数少ない証拠だった。このままでは、この子が数時間もしない内に死ぬことは明白だろう。
不意に、複数の足音がこちらへと向かって来ていることに気が付いた。財団の機動部隊? あるいは別の何か? 数秒の思案を巡らせるが、彼女を救うためには前者であることに賭ける他なかった。私は助けを求める叫びを上げる。もっとも、叫びというにはあまりにも掠れ過ぎており、周囲の警報音に掻き消されている気がしてならなかった。
幸か不幸か、足音は確実にこちらへと近づいて来ていた。叫びが届いたことの安堵か、もしくは未知の存在への不安感からか、私は思わず床へと膝をつく。さらに、追い打ちを掛ける眩暈に襲われた私は、反射的に目を瞑る。不味いことに、徐々に意識が遠退いて行くのを感じる。
暫くして誰かの声が聞こえた。私に対して怒鳴っているようだ。無意識的に口が動く。自分が何と言葉を発したのかも分からなかった。それからどれくらい後だろう、私は自分の身体が床に押し付けられることに気付く。どうして私が押さえつけられている? そうだ、彼女は? 彼女はどうなった?
重たい瞼を強引に抉じ開けると、隊員らしき数人が私に銃口を突きつける様子が確認できた。そして、彼女を介抱する別の隊員の姿も……ああ、これで彼女は助かるかもしれない。そんなことを思いながら、私は安堵とともに瞼を閉じた。
見覚えのある光景。暫くの後に、私はそこがあの部屋だと気付いた。もしやと思い視線を右隣に走らせると、予想通りあのスーツ姿の男の背中が視界に入る。そして……やはり私の背中には、それが正常であると主張するかのように羽が生えていた。
ふと、このときになって初めて、自身の正面の壁に格子窓が取り付けられていたことに気が付いた。そして、気付けば私は、窓の向こう側を凝視していた。あれは何だろうか。微かな蛍光灯の揺れる光に照らされながら、人型の何かが部屋の隅にうずくまっている。まるで、体全体がビニールか何かの膜で覆われているような奇妙な外見。それは顔も同様であり、眼も口も耳も見当たらず、顔の輪郭に一ヶ所だけ小さな穴が空いている気味の悪いものだった。
「SCP-███-JPだよ」
不意に発された声に、思わず私は一部を聞き漏らしてしまった。もっとも、番号が分かったとして、私の知るオブジェクトであるか怪しいところだが。視線を再び窓の向こうへと送る。気のせいか……アレが顔をこちらへと向けているようにも見て取れた。
「あのオブジェクトは一体……?」
「アレは、夢を見ることが適わなくなった者たちの執着の産物、現実に物質的な形を伴って産み出された集合的無意識だよ。ただ純粋に、そして貪欲に、自身と生みの親たちを夢へと帰還させることだけがアレの目的だった。さて、ここまで話せば、君にも心当たりがあるだろう?」
私の返答を待っているのだろうか、男はそこまで話すと口を閉じた。しかし生憎なことに、私は男の質問に答えられない。単純に男の話す内容が理解できなかったということもあるが、それ以上に私から以前の記憶が全て抜け落ちていたことが大きな理由だ。
「……すみませんが、仰っていることが良く分かりません」
私は視線を格子窓から男の背中へ移すと、当たり障りのない言葉を選んで返した。しかし、男は私がそう答えるのを予測していたように、閉じていた口を再び動かし始める。
「かつての君と同じく、彼らもまた自らのシャドウを失っていたのだよ。ユーファニアンのような排他的集団の淘汰行為によって殺されたか、もしくは一時の感情から自害を試みたか……ともあれ、彼らは全員が二度と夢には戻れなくなっていた。そこでだ。今やシャドウ亡き彼らは、一体どのようすることで夢へと帰還を果たせると思うかい?」
続けざまの質問に、私は半ばウンザリしながらも先ほどと同じ言葉を返した。私にはこの男が、私のことを「ゴート」なる人物ではないとすでに分かっているにもかかわらず、未だに「ゴート」と扱っているような気がしてならなかった。そのこともあり、この男に対してまともに取り合うべきであるか、未だに判断し兼ねている。すると、男は再び口を開く。
「ゴート、夢の研究に生涯を費やした君ならば単純な話だ。一度死んだシャドウは生き返らない。だから、別の誰かのシャドウを"借りる"しかないのさ。今まさに君がやっているように、ね」
もはや男が話しているのも無視し、私は視線を格子窓へと戻す──と、いつの間にか、アレが格子窓の傍にまで近づいて来ていた。それにもかかわらず、無貌の顔にポッカリと空いた穴の奥は依然として黒一色だ。まるで何かが穴の中からこちらを見つめているような錯覚すら覚え、思わず悪寒を感じずにはいられない。目を逸らし、私は男の背中越しに問いかける。
「あの……アレは今も財団に収容されているのですか?」
「いいや、アレはもう現実にはいないよ」
窓の向こう側で、蛍光灯が弾ける音が聞こえた。
私は個室に置かれたベッドの上で目覚めた。幸運なことに私は救助されて助かったのだ──と、この身を縛る拘束具さえなければ、きっとそう思えたに違いない。これは一体どういうことだ? なぜ私が拘束を受けている? 思案する私の頭上で、スピーカー越しの声が響いた。
「お目覚めになられたようですね、阿久津博士」
声の主は私に簡易的な質問検査を十数程した後、幾つかの説明を行った──
一つ目、私を含めた数名が、事案時に何らかのオブジェクトの影響に曝されたことについて。
二つ目、前述の全員が致死性のミームに曝されており、処置なしでは数日以内の命であることについて。
三つ目、私の愛弟子は幾つかの臓器と右目を失ったが、奇跡的に一命を取りとげたことについて。
四つ目、行方不明者リストの中に私の友人の名が含まれていることについて。
五つ目、研究中だったSCP-███-JPが消失したことについて。
そして最後、私の身体のことについて。
差し入れられた姿見に映る自らの姿に、私は凍り付くしかなかった。その鏡面に映ったのは、行方不明である友人の面影を感じさせる若い青年の姿だった。その上、鏡面の青年は私の動きを寸分の狂いもなく真似して見せる。それに加え、青年の右目は見慣れた美しい虹彩で飾られていた。ああ……何ということだ。その瞳は、あの子の失われたはずの右目と瓜二つなのだ。
吐気と嫌悪感が同時に押し寄せてくる。ああ、もしも私が拘束されていなければ、どうにかしてこの右目を抉り出し、その後で死んでやれるものを。私は姿見から目を離し、ベッドにもたれ掛かる。なぜこんなことになった……? 全ては私のせいなのか……?
疲弊する私を気に掛けることもなく、スピーカーからは対ミーム侵襲処置としての記憶処理に関する詳細な説明が流れていく。私は目を瞑る。おそらく次に目を開けた時、私は誰でもなくなっているのだろう。いや違う、もうすでに私は誰でもないのだ。友人と愛弟子のパーツで構成された身体に収まった、阿久津豪人の人格と記憶を持った誰かというだけなのかもしれない。それでは、私は──
またあの部屋だった。恐る恐る、視線を前の格子窓へと向ける。窓の向こう側は蛍光灯の明かりが消えており、何も見えなくなっている。だが、それでもアレがこちらを見つめているような気がして、私はそこから視線を離すことができなかった。
「もう分かっただろう? 身体と精神を統合することでシャドウを借り受ける、これこそが夢へ帰還を果たす数少ない手段の一つ。そして、アレは"相乗り"を試みるわけだよ」
今までと何も変わらない口調で男は淡々と述べる。なぜだか、今は男の話す内容が微かに理解できるような気もした。不意に私は、自分の手の平に視線を落とす。その手はどこかで目にした青年の手に似ていた。それから、手の平で自らの顔の輪郭をなぞり……不意に右目の縁で指先が止まった。
「私の、この身体……シャドウでしたか? このシャドウも三人の人間のパーツが組み合わさって構成されている……いえ、身体だけじゃなく、私自身も彼らのパーツで造られた存在ということでしょうか」
「意図して産み出されたわけではないがね。だが、現実の君のように、夢の君も罪悪感や嫌悪感に苛まれているのかい?」
男の問いかけに、私は数秒の間をおいて答える。
「分かりません……今は、自分には関係のない遠くで起きた現実味のない出来事のように思えます。ですが……なぜだか哀しい感覚はあります」
私の回答に、いつも口数の多い男も「そうか」とだけ返事をする。私も自分のことが良く分かっていなかった。私は誰でもなく、ただ阿久津豪人が現実で感じていた哀しみのために、この夢の私も哀しいと感じているだけなのだろうか? なぜ私は存在しているのだ。
「さて、話を最初に戻そう。君には……あー、そうだな……君をゴートとして扱うのは、もうこれまでにしておこう。だからこう言い直すべきか……"君を構成している者の一人"には、大きな負債があったと言ったね。申し訳ないが、君にはその肩代わりをしてもらう必要がある」
「肩代わり……ですか?」
"肩代わり"という表現には嫌な響きを感じたものの、なぜだか自らの存在する理由を提示されている気がして、半ば安堵している私がいることに気が付いた。しかし、何も持たざる私が一体どのようにして負債を支払えるのだろう?
「すみませんが……この私に、どのようにして清算しろと言うのですか」
何かの機械音が聞こえた気がした。気付けば部屋の照明は徐々に消え始めており、今となっては私と男が座る長椅子以外が暗闇に包まれている。しかし、男はそんなことに気を留める様子もなく会話を続ける。
「ただ君の仕事をすればいい。君の同僚が確保し、収容し、保護する、その一助となりさえすればね」
「それだけですか」
「君が現実で財団職員としての仕事を全うする中で見聞きした物が、夢の中の私たちの利益や資産に繋がるのだよ。今回の例のように、SCP-███-JPのような存在の新たな出現は、私たちの顧客と仕事に悪影響を及ぼし兼ねないのでね。私たちが現実へと積荷を下ろす港の灯台の防人、それが君というわけだ……さて、君はどうする?」
言い終わると同時に、また何かの機械音が聞こえた。そして、その瞬間に視界が暗転し……気が付けば私は、どこかの草原にポツンと設置されたベンチに腰かけていた。私の右隣には相変わらず男が座っていたものの、向いていた方向は私と同じ向きに変わっていた。男は何事もなかったかのように続ける。
「どうやら、君の新たな名前も決まったようだ。空高く天より見張る者か。奇しくも君の役目にピッタリな名前ではないか。しかし、これは君の現実での名だ。君にはオネイロイとしての新たな名前が必要だろう」
そう言うと男は椅子から腰を上げ、私の前に立った。そして私はこの時、初めて男の顔を見る。それから男は右手を差し出した。私は数秒考えてから、ゆっくりと右手を伸ばす。男の表情は何も変わらなかったが、少しいつもと違う語気で言葉を発しているように感じられた。
「私たちのコレクティブへようこそ──アマミエル」
私は個室に置かれたベッドの上で目覚めた。未だに続く微睡みの中をボーっとしていると、いつの間にか白衣を着た女性職員がやって来ていた。
「お疲れ様です、機密保持処理は無事に完了しました。確認ですが、眩暈や体の痛みなどはありませんか?」
私は問題ないと答える。そして、それにつけ足すように、どうして私が病室のベッドで寝ていたのか、記憶が曖昧だとも伝える……ああそうだった、私は前の部門から転属することになり、その際に必要な機密保持手順として記憶処理を受けたのだった。
「今後暫くの間は記憶の混乱に加え、眩暈、頭痛などの副次的な悪影響が考えられますので、どうか安静にお願いします。また、新たな配属先やその他の事務手続きについては追って連絡があります」
それだけ言うと職員は部屋から出て行った。私はその背中越しにお礼を言うと、再びベッドへと横になる。あれ……そういえば、私の名前って何だったか……? どうやら、記憶処理の影響は思った以上に大きなものだったようだ。再び訪れた眠気に襲われながら思案する私は、不意にベッドに取り付けられたネームプレートに気が付く。
「天見 快人」
ははは、まさか自分の名前をすぐに思い出せないなんて。こんな調子じゃあ、次の仕事でも先が思いやられるな。私も財団の一職員、もっと他の方のお役に立てるよう、頑張らなければ。確保、収容、保護……ってね──そんなことを未だにボンヤリとした頭で考える内、私は自身の明晰がゆっくりと夢の中へと沈んでいくのを感じていた。