鬼の伝説
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 時は戦国時代、織田信長の躍進が始まった頃、伊勢国の北方に早瀬という大名があった。

 この早瀬という大名、大名とは名ばかりの弱小勢力であり、どの歴史書を紐解いてもその活躍や名前を見ることはできない。織田の進撃の最中に音もなく滅亡し、誰の記憶にも、何処の記録にも残らなかった大名である。

 早瀬多豊丸はそんな早瀬家の嫡男として生まれた男児だった。しかし五歳の時に早瀬家は織田家の侵略によって踏み潰され滅亡。侍女に連れられ命からがら城を脱した多豊丸は長島にある本願寺系列の小さな寺院に匿われたが、程なくして両親の死が喧伝され、身寄りが居なくなった多豊丸はそのまま剃髪し、僧侶として修業の人生を歩むことになった。

 それから時は流れ多豊丸十五歳。マジメに仏道を歩む姿勢が評価されたことと、住職が高齢だったこともあって多豊丸は十五歳の若さで寺のことを任されるようになっていた。さて、この頃の本願寺と言えば荒れに荒れた時代だ。民衆による反乱運動の支えとなる形で支持を得ると、信者を抱え込むことで力を蓄え巨大化。一部は武装し、遂には飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家に対しても睨みが効く一大勢力へと膨れていった……そんな時代である。

 権力を持った組織は腐敗するものであり、本来は仏の教えを説く僧侶たちも堕落していく。魚を食らい、酒に溺れ、賭博に興じ、姦淫に耽る。仕舞にゃ"禁忌の味は甘露なり"などと開き直った歌を歌いながら毎夜宴会でバカ騒ぎときたもんだ。およそ聖職者とは言えない不逞の輩を多豊丸は軽蔑していた。もっとも、多豊丸が連中を軽蔑するのは純粋な僧侶としての心理からではない。"武士の血族である自分は、このような腐れ坊主共とは本来別の存在である"という少々歪んだ考えから来るものだった。幼くして身寄りを喪った心に、歪んだ先輩僧侶の教えは毒だったようで、多豊丸の考え方は歪に成長してしまったのだった。

 そんな多豊丸に再び織田の旗が迫る。当時、関西を手中に収めようとする織田信長は三好家攻略の最中であったが、織田信長の権力の後ろ盾であった室町幕府十五代将軍足利義昭と織田信長が関係が急速に悪化、織田信長を抑えたい足利義昭は石山本願寺に対して三好家を支援するように要請した。すると、現代の紙幣価値で八億円にものぼる矢銭を納めるなど織田家に恭順を示していたはずの石山本願寺は突如武装蜂起し織田家と敵対、その後十年続く石山合戦の火蓋が切って落とされることとなった。この石山合戦の開戦に伴い各地の本願寺系列の寺院に檄文が飛ぶと各地で武装蜂起が発生、多豊丸のいる長島でも門徒が呼応し、小規模の豪族までもが加わり大規模な一向一揆が起きた。これが織田軍と本願寺勢力の衝突の末、民間人から二万人もの死者が出ることとなる長島一向一揆である。

 多豊丸にも檄文が届いたが、多豊丸は応じなかった。軽蔑する腐れ坊主とともに槍を握ることが馬鹿らしくて仕方なかったのだ。だからといって両親を殺めた織田家に恭順するのも真っ平御免である。多豊丸は"お陰様で身寄りもないことだし"と皮肉交じりに開き直ると寺を放棄し、裏の山の奥にある祠に食糧をもって籠ることにした。多豊丸はかなり軽く考えていた節があった。相手は天下にその名轟く織田信長であるのだから、腐れ坊主の一揆などすぐに踏み潰されて落ち着くと思っていたのだ。この長島が一向一揆の中でも屈指の激戦地となることや、織田が聖職者たる僧侶にどんな仕打ちをするかなど考えもしなかったのだ。

 祠に籠って何日か経っただろうか、多豊丸は自分の認識の甘さを早くも知ることとなる。多豊丸が籠った祠は織田の陣からそれほど遠く無い様だった。食料の消費も想像していたより早く、補充に出歩きたいが迂闊に外に出ることも出来ない。そして多豊丸最大の誤算は"僧侶がなんの遠慮もなしに殺されている"という状況だった。祠の裏を少し歩くと少々切り立った崖になっており、木々の隙間から織田の陣地を見晴らすことができたのだが、そこで多豊丸が見たのは捕虜として捉えられた僧侶達が処刑される様子だった。槍を持った坊主が殺されてしまう……というのは多豊丸も少し理解できた、しかし殺されている僧侶の中には槍が持てるか怪しい老僧や、尼僧、果てには子供まで居るのが見えた。なんと罰当たりで狂暴か、万が一自分も捕まったら有無を言わさず殺されてしまうだろう、そう思うと恐ろしくて堪らなくなった。多豊丸は祠に駆け足で逃げ込むと、つるつるの頭を抱えて震えているしか出来なかった。

 そしてそれから更に数日、多豊丸は早くも限界だった。合戦は日に日に苛烈なものとなり、昼夜を問わず至る所から火の手が上がり、雄叫びと悲鳴が四方から木霊する。祠に蓄えた食料も尽きつつあり、飢えと恐怖に精神を抉られる日々に、多豊丸は逃げ出したくて堪らなかったが、この状況ではどうすることも出来ず、目をギュッと瞑りながら合戦が落ち着くのを待つしかなかった。そんな時、祠の前で何か"ドサッ"という物音が聞こえた。何やら空きっ腹を刺激するような匂いもする。多豊丸は恐る恐る祠から顔を出し、様子を伺ってみると、体中火傷だらけの水牛が力尽きていた。恐らく合戦で焼かれた牛舎から逃れてきたのであろう、まだ体の一部には火が灯っていた。

 多豊丸にはこの牛が"天の救い"か、はたまた"忌むべき誘惑"か分からなかった。この時代獣肉を食らうことは一般的ではなく、穢れを食らう忌むべき行為とされていた。病人や一部の上流階級には薬食などと称され、滋養の名目で食されていたはいたが、僧侶の身分では禁忌中の禁忌であった。とは言っても、今この時餓死の危機に瀕している自分には、この目の前の"食料"はまさに天の恵みでる。多豊丸は"少しの時間だけ"葛藤した。

 多豊丸は教えのために死ぬことは出来なかった。祠からヨタヨタと降りてくると水牛の焼けた外皮にそのまま齧りついた。生憎刃物になるものは持ちあわせていない、顎の力だけで焼けた肉を抉り取ると咀嚼した。おお、なんと美味なものか、何時ぞや腐れ坊主共が騒いでいた"禁忌の味は甘露なり"とは言い得て妙では無いか。多豊丸は袈裟が脂に塗れるほど肉を貪り続ける。それが極限状態だったとはいえ、多豊丸の堕落した様はいよいよ気色悪いものであった。永遠に食らい続けるのではと疑うほど食らい続けた多豊丸であったが、腹が膨れて妙に眠くなったのか、酷使した顎の疲れに気遣いながら祠にまたヨタヨタと帰っていた。まだ肉は残してある、明日から食うものにゃ困らない、多豊丸は夢見が良かった。

 翌朝、多豊丸は落胆した。昨日残しておいた肉が無いのだ。何者かに持ち去られたか、又は何か大型の獣に連れ去られたのか、僅かながら引き摺ったような痕跡が見て取れる。残された肉片には早くも虫がついており、食を躊躇させる。多豊丸は激昂したが、その怒りの行き先はどこにも無かった。呆然とする多豊丸を、遠くからから聞こえた法螺貝の音が叩き起こす。多豊丸は慌てて祠に逃げ帰ると再び隅に小さく縮こまって怯え始めた。合戦も恐ろしいが、今となっては飢えもが一番恐ろしい。またこの暗い地獄に引き摺り戻されたことに頭がどうにかなりそうだった。いや、もうこの時点でどうにかなっていたのかもしれない。

 あれからまた数日たって夜のこと。どうやらここいら一帯の合戦はひとまず落ち着いたようだった。死人から物を奪っておきながら後ろめたさに駆られた追い剥ぎが、仕事帰りに手を合わせに祠に立ち寄って行くのだ。祠の裏の崖から見るに織田の陣が引き払われた訳ではないが、追い剥ぎが仕事を始めたという事はそういうことなのだろう。奪っておきながら懺悔のつもりか祠に手を合わせる追い剥ぎ共の自己矛盾を、普段の多豊丸ならば馬鹿にしていただろうが、その表情には侮蔑の感情は無く、薄っすらとニヤけが見て取れる。祠の隅の暗がりから祠を拝む追い剥ぎをニタニタと見つめながら、何か考えごとをし始めた。

 この空腹、思い出すのはやはりあの肉の味。肉が食いたくて仕方が無い。あれからすぐに多豊丸は山を降り、ブツブツと念仏を口走りながら合戦場を歩いていた。合戦の死体の山の中袈裟姿の坊主が手を合わせながら歩いてくる様子に追い剥ぎたちは"熱心な坊主だ"と気にも留めなかった。多豊丸は一人の死体の前で立ち止まった、若い農民の男ようだった。

「おお。なんと哀れな。お前は若い、好きな女子の一人や二人おっただろう。」

 軽く手をのんのんすると、顔を前を向き直し、再び歩みを進めた。ある程度進むとまた一人の死体の前で止まった。首に掛けられた手作りのお守りの様なものをジっと見つめると多豊丸は再び口を開く。

「おお。なんと哀れな。お前には帰りを待つ家族がいるのだな。」

 この死体にも手を合わせると、またまた歩みを進め、今度は織田の兵卒の死体の前で止まった。粗末な装備を見る限り農民から徴兵された足軽の様だ。

「おお。なんと哀れな。僅かな銭のため、命を落とし、満足な弔いもしてもらえないとは。」

「しかしお前らは運が良い。ワシはありがたいお坊様よ、お前のことを特別に弔ってやろう。」

 追い剥ぎ共は多豊丸の異様な雰囲気に気づき、何やらただごとならない空気を感じ取っていた。多豊丸は注目されていることなど気にも留めず、落ちていた折れた刀を手に取った。刃を死体にあてるとギコギコと切身を作り始めた。まわりの追い剥ぎが"何をやっているんだ"と強引に止めに入るが狂人多豊丸は止まらない。

「お前たちと同じよ。ワシのこれは、お前たちが死体から金目の物を盗むのと変わらん。道を外す理由があるのはお互い様じゃないか。」

 狂人の熱視線に追い剥ぎ共はたじろぐしかなかった。追い剥ぎを振り解くと再びを歩みを進め、焼け残った炎を見つけて切身を炙り始めた。そして狂人は"これらは弔いだから良いのだ"と唱えると炙った肉を口に運んだ。思った通りなんと甘露な味か、まるで早瀬の城で父上と母上と共に食べたあの日の鮭のようだ。ふと蘇る思い出の片隅で笑う父上と母上が眩しい。この地獄の真ん中で多豊丸は唯一人幸せだった。この幸福は死者の無念を浄化するに違いない、死者の無念をこれで供養すると叫ぶと、水を飲むようかのように肉を喰らった。

「おお、お前も無念か! 待たれよ。今供養してやろう。」

 あまりに異様な光景。袈裟姿の坊主が刀片手に血に塗れながら食人鬼に堕ちているではないか。追い剥ぎたちは皆恐れをなし、一人、また一人と逃げ帰っていった。誰もいなくなった月夜の地獄に、何かを貪り喰う音と南無阿弥陀仏が聞こえてくる。翌朝、気になった追い剥ぎが仲間を連れて合戦場を確認しに来たが、そこにはもう何者も居なかった。
 
 
 
 三重県北部の一部地域では今でも"食人鬼"の伝説がごく僅かではあるが伝えられている。この教訓の無い昔話には大抵続きがあり、『食人鬼に対し討伐隊が差し向けられた』と続くものや、『死体という死体全てを食人鬼が食い尽くした』と続くもの、『村娘を連れ去り、子を孕ませた』などと続くものもあるなど話の本筋は語り部によって大きく異なる。多種多様な一面を持つ食人鬼伝説であるが、物語の最後だけは語り部に依らず共通しており、どの早瀬多豊丸も紆余曲折の後、京に落ち延びたと語られている。

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