ここは財団の数あるサイトの一つ。その一室で、心底うんざりしたような声が響く。
「あーもう!なんなんこの書類の山は!」
サイト管理官、エージェント・カナヘビ。彼の仕事はいつだって山積みだが、ここ数年で人事の配置にえらく頭を悩ませるようになった。
「この子配置したいのに異常性の相性合わんってなんやもう!」
「えーとこの子動かして…あかんこの博士人員足りんくて倒れかけたよな…」
「ええいもういっそ全員のクローン作れや!管理官命令やで!」
誰も聞いちゃいない。部屋には誰もいない。彼の叫びは虚しく空間に響くだけだった。
一拍置いて軽い音が鳴る。側に転がしてあるデバイスからだ。
「えーと、なんやこれ」
通知から内容を把握しようと、カナヘビは画面を上から下へなぞった。
From 人事部異常人事課 11:59
【アノマリー職員の追加、人事ファイル更新のお知らせ】
体長30cmにも満たないカナヘビが転げ回って奇声をあげたところで、昼休憩のチャイムに軽くかき消されてしまう。
ここのサイト管理官はちっぽけだ。
職員達が昼食に集うカフェテリア。通常なら席の争奪戦まで起こるそこに、今日は何故か余り職員が近寄らないスペースがあった。
空間の中心にいたのは、黒服をまとった小太りの男と、水槽に入った爬虫類。存在自体が嫌悪される男とサイト管理官の組み合わせなど、好奇の視線は集めるだろうが人は来ない。
「珍しい事もあるもんだ、今日は死なずに済むかもしれないな」
「ボクも正直困惑しとる」
「管理官は相当お疲れの様だ」
まぁ原因はなんとなく想像できるが、と大和博士はカツサンドを口に運んだ。それに対してカナヘビも小さくため息をつく。
「異常性を持つ職員がめちゃくちゃ増えとる、管理が追っつかへん」
「確かに増えた、異様な程に」
大和博士は軽く辺りを見渡した。今カフェテリアにいる職員を見ても、恐らく異常性を持たない職員の方が少ないだろう。
体表に異常が出ている職員だけを数えても両手の指では到底足らない。目に見えない異常を持つ職員も合わせれば、ここにいる職員の一体何割がアノマリー職員なのか。
「てか君ってそのアノマリー職員の代表とちゃうんか」
「いやいや、代表の座は貴方の物だ、〈私を殺さない〉〈爬虫類〉の〈サイト管理官〉殿?」
「イラつきはするで?まぁここまで長いこと生きてれば仏のごとく寛容にもなるわな」
「世も末だ、全く」
呆れたようなその態度に、カナヘビは一発アームで殴り飛ばしてやろうと思ったがやめた。これで故障したらたまったものではない。
そんなカナヘビの気を知ってか知らずか、大和博士は一切れカツサンドを食べ終えた。
「アノマリー職員か、どうにもあの時の事が思い出されるな」
「あの時?」
「まだここにいたアノマリー職員が私と貴方くらいの時だ」
その言葉に記憶が次々と蘇る。多くの人間にとっては忘れていてもおかしくないような、されどこのペアにとってはまだ古いとは言えない過去。それが次々に脳裏に浮かぶ。
「初めて会った時は驚いた」
「あぁ、ボクもや」
財団本部で異常性を持つ存在を雇用する制度が施行された頃。日本支部でそれを導入する事が決定した時、真っ先に候補に挙がったのがカナヘビだった。
エージェントとして雇用されたとはいえ肉体はカナヘビ。その存在は極秘とされ、接触した人間は任務が終わればすぐに記憶処理を施される。
そして表向きは人語を喋るカナヘビとしてオブジェクト扱いされカゴの中。定期的に下らないインタビューに答える日々。そんな生活が数十年も続けば誰だって嫌になる。
「エージェント・カナヘビ、貴方が正式に職員として認められました」
その言葉はカナヘビが最も求めていた言葉だった。正式に職員となり、収容生活から解放される。この時の解放感をカナヘビはまだ忘れていない。
そしてひたすら書類、写真、書類に書類。あれよあれよと手続きに追われ、さすがのカナヘビも疲労と心労でくたくたになった。まさかその身でもうひとりのアノマリー職員と顔を合わせる事になるとは思いもよらず、げんなりしたのも忘れていない。
「貴方がカナヘビの職員か、これからよろしく」
温和そうなヤツ、カナヘビはそんな印象を抱いた。
壮年と言うには少し年若い顔つき、大きな体躯。ドイツから来たという彼は不死性を持つが故に、博士号を持っていながらオブジェクトとして扱われていたと聞いていた。
「キミ、こんなナリでもボクはめっちゃ長生きやで、敬語を使わんかい」
「それでも同期にはなるでしょう、アノマリー職員として」
後私だってこれでも長生きしてますよ。
不機嫌丸出しのトゲトゲした挨拶を、柔らかな笑みで包んで返されたカナヘビは、疲れもあってそれ以上突っかかる気が失せた。そのまま一緒に食事をした、あの日のメニューもカツサンドだった。
過去の記憶が今と重なった。思えばあの日と今に差異はほぼない。だが、昔と今では決定的に違うところが一つある。
「なぁ、大和博士」
「ん?」
大和博士は三切れ目のカツサンドを半分程食べている。カナヘビが過去の余韻に浸っている間、彼はさっさと現実に帰っていたらしい。
自分を過去へ飛ばしておいて、なんちゅう無責任なやっちゃと若干お門違いの文句を心の中で吐いた後、カナヘビはぼそりと呟いた。
「昔に帰りたいって思う時ある?」
大和博士は噎せた。盛大に噎せた。タイミングが悪かった。嚥下しようとしている途中での唐突な質問だった。
カナヘビが大袈裟やないのと拗ねている間も、大和博士はしばらく呼吸困難に喘いだ。昼休憩も残り半分程。
「先に言って欲しかったよ管理官、スマホの録音機能を開いておいたのに」
「しばくで」
相手の発言に肩を震わせていつまで経っても笑いを止めようともしない無礼。もしこれが他の職員であったなら、大和博士は既に数回殺されていた。
サイト管理官の「仏のごとく寛容」は、あながち間違いでもなかったらしい。
「管理官殿もそんなセンチな気分になる時があろうとは、ああ滑稽滑稽」
「よっしゃしばく」
「せめてランチを終えてからで頼みたい」
最後のカツサンドに手を伸ばし、大和博士は少し目を伏せた。
「懐かしむ事はあっても帰りたいとは思わないね、過去は過ぎ去った事であるし、思い出は終わった事ではない」
「後悔とかないんか、あの時ああしとったら、とか」
「それこそ過去の私が持っていったよ、後悔など感じている間に殺されるんだ」
私にあるのはきっと終わる事のないこの先だけだろう。
そうしてカツサンドを一口齧る。咀嚼して、嚥下する。
「少なくとも、私はオブジェクトだった過去に戻る気はないね、貴方もそうだろう?」
突如カナヘビの小さな瞳を、大和博士の真摯な視線が射抜いた。目に宿る意思の強さに呑まれ、思わずカナヘビは一歩後ずさる。時すら凍り、全てが動きを止めたような空白がその場を支配する。
やがて、大和博士の口元がまたにやにやと歪んだ笑みを形作った。
「管理官のノスタルジアか、いやはや生きていると面白い事にも出会うもんだ」
「もう、君と話してるとなんでこうもイラつくんやろな」
「こればっかりは仕方ないな、管理官殿もカナヘビが悪い」
そう軽口を叩いて食事を続ける大和博士。仮にもサイト管理官相手に敬意の欠片もない。カナヘビはすっかり機嫌を損ね、文句を垂れる。
「全く、初めて会うた時はもっと穏やかな好青年やったはずやで、何をどうしたらこないになんねや」
「はっはっは、気のせいだ。私はあれから何一つ変わっちゃいないさ、変わっていくのは周りのほうだ」
その言葉に一瞬カナヘビの動きが止まった。まじまじと大和博士の動きを観察するその目は、若干憂いと哀しみを帯びて揺れていたが、やがて諦めたように呟いた。
「まぁこの数十年、いろいろあったのは確かやな」
「主に管理官がうら若い乙女を泣かしたりとか」
「キィー!やっぱ君腹立つわ!」
水槽の中で地団駄を踏むカナヘビに対して、大和博士の態度は一貫して悠然としていた。大多数の存在を不愉快にさせる、にやけた口とからかう視線。しかし今はその目の奥に僅かな、それでも確かに友愛の色があった。
「さて、私はそろそろ部屋に戻るとしよう」
「あ、コラちょっと話は」
失礼する。最後の一欠片を口に押し込んで、大和博士はさっさとトレイを持って行ってしまった。逃げられたかと思ったがもう遅い。
カナヘビが目で後を追うと、モーゼの海割りのように左右へ散る職員達と、その真ん中を悠々と歩く大和博士が見えた。
後に一匹残されたカナヘビは、小さく呟いた。
「大和クン、忘れてしもてるんか」
大和博士は変わった。カナヘビから見ればの話だが。
彼が何よりも今と違うのは、昔の彼は殺意を抱かれることがなかった事だ。
たった二人のアノマリー職員同士、話していると落ち着いた。オブジェクト扱いをされた時の愚痴や、過去の話に花を咲かせた。
歩くのが面倒で、大和博士の肩は特等席になった。いつも煙草の匂いがした。
初めて会った時の印象は間違っていなかった、実際彼は優しかった。
そのうちカナヘビはエージェントからサイト管理官となり、会う事もほとんどなくなった。光のように月日が経ち、気がつけば大和博士は嫌われていた。
カナヘビは些細な事で彼にイラつくようになり、大和博士は笑みが冷たく歪んでいった。あたかも体質が、周りがそうなる事を望んだかのように。
大和博士が変わった原因。当の本人は気付いてはいないだろうが、カナヘビはそれに見当がついていた。
「やっぱり、もしもを考えてまうなぁ」
もしオブジェクトのままでいたら、大和博士は不死だけで済んだのかもしれない。
せめて日本に来ることがなかったら、一緒にこの国の職員にならなかったとしたら、周りに殺される事もなかったのかもしれない。
きっとあの時の穏やかな笑顔のまま、祖国で職務を全うできていたかもしれない。
だがそれをカナヘビは口にはしない、大和博士に伝える必要はない。何より、誰も過去には戻れない。
「世界って残酷やな」
何十億といる人間の中で、不死と世界に嫌われる運命の両方を押し付けられた大和博士。自分の意思でそれを選んだ訳ではないだろう。
死ぬことも出来ずに殺されつづける気持ちなど分からない。不死を望み、結果として不死になり、サイト管理官としてある程度の安全を約束されたカナヘビには、きっとその内心を想う事すら許されない。
カナヘビには何も出来ない。サイト管理官と言えども、そんな力は持ち合わせていない。
例えどんなにクリアランスが高くても、結局カナヘビはちっぽけな爬虫類だ。
後方から罵声と銃声。確認しなくてもわかる、これがこのサイトの日常だ。通りすぎる職員の服に少量の血痕を見つけて、カナヘビは小さくため息をついた。
「さて、ボクも行かんと」
アームを伸ばしてカフェテリアを後にする。現場の側を通れば、大和博士はとうに事切れていた。眉間に一発、即死だったろう。
「予想、当たらんかったなぁ」
自室に戻れば、いつも通り待ち構える書類の山。すぐに手を付けなければならないが、今のカナヘビは何となくその気になれなかった。
部屋に入って右角の引き出し、その一番奥をアームで探り、古い写真立てを引っ張り出す。
「ほんまに、ボクらしゅうないわな」
古ぼけた写真の中で、かつての穏やかな大和博士が笑っていた。その肩でふざけたポーズを決めるカナヘビが哀愁を誘う。
昔に戻りたいのはボクの方かと自嘲する。愚かな話、できない相談だ。自分達は世界の為に進み続けなければいけないのだ。
自分も、彼も、財団の職員なのだから。
「さて、仕事仕事」
写真立てとセンチメンタルを乱雑に引き出しへ放り込み、再び書類と戦うべく机へ戻る。
休憩終了のチャイムが響いた。