アリアドネの糸
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 第2次世界大戦、あるいは第7次オカルト大戦と呼ばれる闘いも終結しようとしていた1945年2月、私はアーネンエルベ・オブスクラ軍団1と国家保安本部との連絡役としてベルリンにいた。
 すでにソ連軍の先鋒はオーデル河畔2に達し、風前の灯の状況であるベルリンでは、多くの人間が怯え、恐怖し、自己保身のために脱出を図っていた。
 そんな中、私は一種の疎外感を抱きながら状況を観察していた。先の大戦、いや普墺戦争や普仏戦争すら見てきた私にとって、戦争と、それに伴う死は何度も経験したことだったから、一回きりしかない人生を生き足掻く人々の企てに興味と羨望を抱いていた。
 そして――今世における私の数少ない友人もまた、私と正反対に生き足掻き、策略をめぐらしていた。
「早速だが、君には日本に行ってもらいたい、ビスマルク
 プリンツ・アルブレヒト宮殿の一角にあるビーダーマイヤー様式の応接室で、ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将3は開口一番、私に向かってそう告げた。
「今更日本に行ってどうなるというのかね? ドイツは滅ぶ、日本も近いうちに滅ぶだろう。まさか明日世界が滅ぶ段になってもオリーブの種を植えるような殊勝な心掛けで言ってるわけではなかろう、ヴァルター君?」
 シェレンベルクは肩をすくめてみせる。
「私がライヒス・ハイニ4肝いりの『和平工作』に従事していることは話しただろう。これもその一環さ」
「というと?」
 私は、口では疑問を発していたが、概ね話の筋は見えていた。
「私は、連合国と財団に、アーネンエルベ・オブスクラ軍団が保有するアノマリー資産と引き換えとして戦後ドイツの立場を保証してもらう積りだ。愛国心ゆえの行動だよビスマルク。君もドイツの愛国者ならわかるはずだ」
 私はシェレンベルクの外面のいい言葉を一蹴する。
「いやいや、ヴァルター君、君は自らの身柄を保証してもらうつもりだろう。場合によっては祖国を売り渡してでも」
「――随分はっきりと言われたものだね。まあ否定はしない。この国に売れるほどの価値がまだあれば、私は喜んで売国奴になるだろうよ」
 悪びれもせぬ彼の態度に、私は若干の呆れを覚えた。
「なるほど、君もまた定命の者の生存本能には逆らえないか。長生きした所でそれに見合うものが見られるかどうかは別の話だがね」
 私が嘆息すると、シェレンベルクは両腕を軽く広げ、言い放った。
「私は人生を最大限楽しむつもりなのでね。まだまだやりたいことは残っているのさ」
 彼は享楽家で、特に色事に長けていた。上司の妻に手を付け毒を盛られた事もあれば、パリでココ・シャネルと浮き名を流したこともある。色事の本質は駆け引きだ。となれば、今彼が進めている和平工作も、私との会話も、彼にとっては色事と同じく享楽的なものなのだといえる。
 私は彼のそういったところ――すなわち限りある生を最大限楽しもうとする姿勢と、そのためには手段を選ばない態度を気に入っていた。彼は機会主義的にナチに与しただけで、本質的には私同様に自己中心的な存在だということが解ってからは、エゴを賭けた駆け引きを繰り広げてきた。彼は私を対等の相手――不死の怪物ではなく「人間」と認めてくれたし、私もそれを喜んで受け入れた。
 彼が何故私をそう見たのか。彼にとっては全てはゲームだった。意思を持つ駒のそれぞれをなだめすかし騙し動かしてきた彼にとって、私は特別に動かすのが難しい駒だった、ということになるのだろうか。ゆえに彼は私に駒を超えた、人間としての価値を見出したのかもしれない。
 なんにせよその関係は、短いが楽しいものだったし、不死という憂鬱から逃れられる貴重な時間を与えてくれた。だから彼には感謝している。ゆえに。
「人間よ、若いうちに楽しめ――ロレンツォ・デ・メディチの言葉通りで結構なことだ。しかし、私が君の楽しみの駒にならねばならない理由とはどんなものかな?」
 私は彼の生き様を是認しながらも、私が彼の一方的な手駒ではないと示す駆け引きを演じてみせた。
 シェレンベルクは一点両手を胸の前で合わせ、くねくねと指を躍らせる。
「――要は厄介払いだよ、いろいろなね。オブスクラ5の連中には南米への逃亡を示唆しているし、我が総統にあくまで忠誠を誓っている奴らはできるだけ総統地下壕に押し込むか最前線に送り出した。闘い続けるつもりの、あるいは忠誠を尽くすつもりの奴らに近くにいてもらっては困るのでね」
 痩せた頬に皮肉げな微笑を浮かべる彼に対し、私も肉厚の頬を歪める。
「私はそのどちらでもないがね、ヴァルター君? 君同様の敗北主義者で保身主義者だとも」
「とはいえ、君は存在自体がアノマリーだからね。ペーパークリップ6に挟まれたくなければ、急いでこの国を出ることが必要だ。それに、日本に対してアノマリー資産の譲渡を行うのも私の逆心のカモフラージュとして必須でね。頼める相手が君しかいなかった、ということもある。アーネンエルベ・オブスクラ軍団随一の研究者を重要なアノマリー資産と共に日本に送り出す任務は、私の表向きの忠誠心を表すには十分なものだ」
 私は大きく嘆息した。
「ふうむ、私はここに残っていればライヒス・ハイニと君に逮捕され財団に売り渡されるわけか。それが嫌なら日本に行けと。無論手詰まりにならない策は自分で考えろということだね?」
「まぁ、そうなるな」
 彼は朗らかに笑みを浮かべた。
「体のいい厄介払いと保身とは、鉄の規律を誇る親衛隊も落ちぶれたものだね」
 眉をひそめ、捨て台詞を吐く私に、シェレンベルクはますます朗らかに、どこか自棄を感じさせる口調で応えた。
「親衛隊がそんなものじゃないことくらい知っているだろうに。ここは策謀の迷宮だよ。いや、それを言うならば、ナチス国家が、この世界が、人それぞれの人生そのものが迷宮なのさ。無数に広がる選択肢の中で、正解の道は常に1本しかない。長く生きてきた君なら無論、知っているだろうと思っていたのだけど――それで、返答は?」
 私は諦観と共に彼の提案を受け入れた。始まる前からこの駆け引きは詰んでいたのだ。だがそれが気に入らなかった。彼と私の駆け引きは常に対等の立場で行われるべきものだと何処かで信じていたものが崩れ去ったからに違いない。それは、私にとって失望と屈辱を味合わせるものだった。更に次の言葉が、私を突き放した。
「それでは、アノマリー資産の日本への移送任務を遂行したまえ、ビスマルク親衛隊少佐」
「了解しました。シェレンベルク親衛隊少将『閣下』」
 私は嫌味たらしくヒトラー式敬礼をあげた。それは、彼との決別を表す態度だった。

 計画は大幅に遅延した。アーネンエルベ・オブスクラ軍団の東部戦線からのアノマリー資産撤退作業は困難を極め、必要なアノマリー資産を選別する作業に時間を取られ、さらには本土決戦により事態が混乱したことが響いて、ドイツ降伏寸前にようやく出港できたのだ。ほうほうの体の脱出と言ってよい。
 最も危険な海域である北海を抜け、大西洋上でシェレンベルクが手配していたオブスクラ所属のミルヒ7から補給を受け、喜望峰周りでインド洋に入る。
 広大なインド洋では浮上の機会もあり、乗員とともに私も新鮮な空気を吸い、抜けるような青い空を眺め、空の果ての祖国を思う。
 無謀な戦争によって荒廃し、今やアングロサクソンとスラヴの連合軍に蹂躙され引き裂かれ、再びかつての栄光を取り戻せないとしても、私が百年生きてきた故郷には間違いない。
 ふと、郷愁の念が胸に浮かんだ。私のような、他者とのひりひりした駆け引きをもってしか感情を喚起できない灰色の人間が、抱くにはあまりにも純粋で鮮烈な望郷の念。私は戸惑いを覚え、傍らにいるUボートの艦長に向けて問いを発した。
「なあ君、祖国に対する郷愁の念を、感じたことはないかね?」
「航海に出るたびに感じますよ。本国がああなってからは一層です。しかし、任務を完遂するのも義務ですから、全力は尽くします」
「ふむ……」
 彼は任務に身を任すことにより郷愁の念を押し殺している。一方私にはそうしたよすがはない。だからこその郷愁なのか。いずれにせよ、私は自身にそんな感情が残っていたことに少し驚き、振り払うように艦内の自室へと戻った。
 さらにUボートは東進し、独立運動に揺れるインドから脱出してきたアーネンエルベ・オブスクラ軍団の諜報員がチベットやインドから持ち寄ったアノマリー資産を搭載し、シンガポールへと向かう。この戦局になっても、マレーは日本軍支配下にあり、食料などの補給は受けられる、と踏んでのことだった。
 だが、そこで1つの事件が起こった。補給を終えた後、出港せんとする前に、シンガポールの陸軍現地司令部が、Uボートの接収を目論んで異常事例調査局員と挺身隊を送り込んできたのだ。
「敵襲です、少佐!」
 鼾をかいて眠りこけていた私のところに艦長が直接乗り込んでくる。
「応戦は当然しているな?」
「はい、しかし、圧倒的な敵の前に劣勢で」
「分かった、対策する。君は応戦の指揮を取ってくれたまえ」
 私は外から薄っすらと聞こえる銃声や罵声を耳にしながら、艦の倉庫に設置された近接防衛用のアノマリー資産を起動すべく、狭苦しい通路に自身を押し込んでいく。倉庫に置かれた多種多様のアノマリー資産の中から、ケージに入れられ、脳に電極を差し込まれてコンソールボックスにつながれている一体の元人間だったものを選び出す。
 このアノマリー資産は現実改変者の成れの果てだ。ロボトミーされ自我を持たないが現実改変能を持つ貴重な資産で、プログラムされたとおりに周囲の現実を改変する。前頭葉の複雑な機能を失っているためプログラムと言ってもある特定のパターンしか実行できないが十分だ。
 私は「記憶操作」を選択した。敵兵の戦意と目的を喪失させ、穏便に事態を収拾するためだ。やろうと思えばより過激な手段も使えるのだが、ここで日本軍と険悪な関係を作りたくはなかった。コンソールボックスをタイプし、アノマリーを「起動」する。
 瞬時、銃声は止む。しばらくして帰ってきた艦長は、怪訝そうな顔をしていた。
「日本兵が戦意を喪失し、撤退していきました。一体何をやったんですか?」
「秘密兵器を使用しただけだ」
 平然たる私の答えに、艦長は絶句するが、やがて平静を取り戻し、つぶやいた。
「これほどの秘密兵器があれば連合軍に勝利できたのでは?」
「闘いは数だよ。こんなもの、量産できないだけですでに価値はない」
「そうですか……」
 私の、理想的な返答とはいい難い捨鉢さに、艦長は首肯しながらも戸惑いを隠せなかったようだ。
「乗員の様子を見てきます」
 足早に立ち去る艦長の後ろ姿を見ながら、私は任務や仲間というよすがに頼れる人間と、そうでない自身とを比べ、孤独を噛み締めた。
 不死であるがゆえに、私は同じ時を生きる親友や家族を持ち得ない。人生の一幕にそうした存在を得ることはあっても、すぐに失ってしまう。失うのは慣れたはずだった。だが、今回ばかりは「裏切られた」という印象が先に立った。要するに私はシェレンベルクとの別れに納得がいってなかったのだ。
 彼と私の関係はエゴとエゴとをぶつけ合う「仲の良い喧嘩」だった。小はビアホールでの皮肉の言い合いから、大は国家保安本部とアーネンエルベ・オブスクラ軍団の駆け引きまで。我が総統やライヒス・ハイニ、そして互いを題材にした笑い話は私達の共通の密やかな楽しみだったし、第VI局の「英国に送り込むスパイが欲しい」という要求に対し、ハーマン・フラーの不気味サーカスめいたフリークスと道化の一団を用意してみせた時は、彼は腹の底から大笑いしていた。彼がボールを投げ、私が投げ返す。その関係は最後まで崩れないと思っていた――いつの日か、年老いた彼を看取るその日まで。
「いかんな、感傷的になっては。男の子は泣かないものだ」
 私はそう呟き、自身の気持ちを整理しようとした。だが、思いは心の何処かに引っかかり続けた。


 シンガポールでの椿事の後、まっすぐに日本本土を目指し、合計3ヶ月の旅を経てようやく横須賀に着いたと思ったその日、アメリカが長崎に原爆を投下し、ソ連が日本に宣戦布告した。
「やれやれ、この国ももう長くないな」
 私は舌打ちする。無論、無策ではない。考える時間は十分あった。私はアノマリーであってもあの元現実改変者のような自我を失った個体ではない、れっきとした人間だ。だから私は自身が持つアノマリー資産を手札に、半死半生の大日本帝国、そしていずれ訪れるであろう財団指揮下の米軍と渡り合って立場を守るつもりだった。
 ――そう、元友人で悪辣な策謀家のシェレンベルクと同じように。
 そのように、ギラギラとした悪謀をギラつく日差しの下で巡らせていると、全身から汗が吹き出してくる。たまらぬ、早く迎えは来ないかとUボートから降り埠頭へ向かうと、ちょうど一台の高級車が現れる。
 車内からは、日本陸軍の高級軍人がが警備の兵士に付き添われ、こちらへと歩いてきた。
「ビスマルク博士、遠路はるばる日本へようこそ」
「お出迎え感謝いたします。しかしいささか待ちくたびれましたな。一度休める所で休みたいのですがね」
「では東京九段の偕行社で」と、彼は私を車内に誘った。
 しばらく後。東京偕行社内の応接室で、私は高級軍人――「異常事例調査局」の関係者とアイスコーヒーを啜りながら今後について話し合っていた。
「早速だが、君の運んできたアノマリー資産についての引き渡しをお願いしたい」
「――それについては、8月15日開封予定の封緘命令書に従うよう、シェレンベルク親衛隊少将から命令されていますので、待っていただくしかありませんな」
 我ながら横柄な態度と思いながらもそう応えると、彼は露骨な焦燥感を浮かべた。先程の好意的な態度が嘘のように凄みを利かしてくる。
「ドイツ帝国は滅んでいるよ、ビスマルク博士。今更命令に従う必要もないのではないかな? 我々としては接収を行うことも考慮に入れているのだが?」
 しかし私は鉄面皮で応える。
「私がここにいる限りにおいて、帝国はまだ滅んでおりませんな。あるいは、滅んでいるとしたら貴方達の要求に答えることもできないはずですな。存在しない国の艦を接収するというのは、国際法および信義においてどのような立場を取るかわかりませんが、ここはひとつ私達の事情も勘案していただきたい――それとも、シンガポールでの椿事を繰り返すつもりですかな?」
 すると彼は激高した。
「戦局は将に危急存亡の時であるというのに、形式主義とはなんたることか!」
「おや、大日本帝国においては官僚機構はすでに機能していないとおっしゃると? それでは引渡しはできかねますなぁ」
「貴様ぁ!」
 高級軍人は軍刀を鞘から引き抜き恫喝する。だが私は動じない。余裕綽々で間合いに入る。あまりにも無造作な私の動きに、彼が躊躇するのは計算済だ。そのまま刀を振り下ろせない距離まで肉薄し、柄を握る手を取る。彼は私を振り払い、たじたじと後ずさると、剣を鞘に収めた。
「――今回は待つが、次はないぞ!」
 そう言い捨てて去る彼の後ろ姿を見送り。
「ふん、威勢だけのいい張子の虎かね。我が総統とそっくりだ、だから戦争に負けるんだよ」
 私は皮肉を口にしながら、交渉の引き伸ばしを行えたことに満足を覚えた。
 実際のところ、8月15日付開封命令の封緘命令書は存在していた。シェレンベルクが何を考えているのかわからなかったが、交渉を長引かせるカードであるのは事実だった。私はこれを、あえて自分なりに曲解し、日本陸軍相手にはとことん引き伸ばしを図るつもりだった。
 そして、8月15日。
 大日本帝国という国家はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。私の手元にアノマリー資産をたっぷりと残したまま。どうやってかは知らないが――考えられるとすれば彼の手元にあったアノマリー資産によるものだろうが――おそらくシェレンベルクは終戦当日を予知していたらしい。
 終戦前後にありがちなあれやこれやを「生き抜いた」私は、やがてやってくるであろう財団の特使と接触するため、偕行社に居候していた。
 そして、事態が一段落してから、私は開封予定の封緘命令書を思い出した。今となっては何という意味もないが、気になって開けてみる。

親愛なる君へ

君が日本でどう振る舞うか理解しているつもりだし、だからこそ君を厄介払い同然に日本へと送り出した。君なら必ず、アノマリー資産を私同様保身に用いると判断したからだ。
理解は概ね願望にすぎないが、私は君がそのように振る舞うことを願望している。なぜなら、君は私の数少ない友人であると信じているからだ。
ナチス国家や親衛隊が迷宮であるように、財団もまた迷宮だ。しかし君の持つアノマリー資産はアリアドネの糸になりうるものだ。君がそれを賢明にたどることを期待している。

変わらぬ友 ヴァルター・フリードリヒ・シェレンベルクより

 私は私信を読み終え、頬が大きく歪むのを禁じ得なかった。
「まったく、彼らしい。まったく、まったく」
 私を祖国から追い出したのも、終戦のその日まで行動を凍結したのも、私を案ずればこそというのだ。なんという迂遠な友情だろうか。アリアドネの糸に似て、複雑な軌跡を描きながらも、私と彼とはか細い、しかし確実な絆で結ばれていたのだ。一幕の友情にすぎないとしても、彼にとって私とは茶番をもってさえ守るべき価値のある友だったのだ。
 私はそのまま、封緘命令書を懐に入れ、そして偕行社のビルを出た。

 ビルの外には、ひどく目に染みて仕方ないほど青々とした空が広がっていた。
 私は空の果てにある祖国を、懐かしむのではなく確かな繋がりあるものとして捉えることができた。

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