ご紹介ありがとうございます。財団一般部門、渉外課の中牟田と申します。
財団内部部門について皆さんが習うのはまだ先と伺っていますが……予習に熱心な学生さんも、一般部門の名を聞くのは初めてかもしれませんね。通り一遍の解説をしても良いのですが、折角の特別講義です。軽い雑談から入りましょうか。
つい先日。宗教部門のエージェントである私の友人は、新興カルトの拠点へ突入しました。異常物品を操る信徒達と激しい戦闘を行い、ついに最奥の小部屋に踏み込んだ ⸺こういった体験に憧れを抱く方もいらっしゃるでしょう。ただ、この話のオチはご期待される程劇的ではありません。部屋には小さいながらも豪奢な社が据えられていましたが……そこで祀られていたのは、とても神格とは呼べない下級霊体でした。
友人は、信徒達があんな存在を畏敬し死闘さえ繰り広げたことが理解出来ないようでした。奇跡も起こさず願いも叶えない、人型の霞のような物に己を捧げるなんて、と。皆さんはどう考えますか? ……はい、そこの方。
いえ、彼らは無知ではありませんでした。下級霊体より遥かに「高度な」異常物品を有していましたし、ソレが祈りに応えないことも承知していた。……ああ、霊体のルーツというのは良い視点ですが、今回はより一般的な話です。
すみません、少し意地悪な質問でしたか。実は、高度な異常に親しむことと、卑小な異常への信奉はそもそも矛盾しません。我々は異常を研究し体系を見出しますが、元来異常は学問でなく、体系は所与ではない。それを見落とすが故、いわゆる「要注意団体」が酷く歪な仕方で異常を捉えている……ように、見えてしまう。
例えばオネイロイ・コレクティブ。住人にとって、夢界こそ所与の社会です。それを異常と断じても、「生きている彼ら」は意に介しません。例えば蛇の手。「図書館」には無軌道な程に多彩な人々が集いながら、社会めいて奇妙に繋がっている。例えば、第五主義。彼らはただ……欲する世界に在るのみなのでしょう。
ヴェールが一般と異常をどのように分けようと、人々はその内外で息づいている。財団は支配者ではありませんから。そしてヴェールの隔てた異常と関わらず、人々は、社会は、それぞれに「一般」を備えています。
これが私達「一般部門」の研究対象の1つです。異常の中にあっての一般とは何なのか。それらは多様で、奇抜で、理解し難いですが……異常ではありません。
⸺このあたりで休憩としましょうか。次はタイトルにもある「一般社会」について話します。しかし、その前に1つ問題を。
「異常なオブジェクトを含むコミュニティは、それ自体異常なのか?」
ここでの異常は財団の定義によるものと思って下さい。答えは講義の後半に、改めてお話しします。
さて、「一般社会のオリエンテーション」です。
皆さん、聖書を読んだことは? 聖書は史上およそ数千億冊が発行されたと言われ、そこには数々の「奇跡」……現代の市井で起きれば迷わず財団が駆けつけるであろう事象が描かれています。しかし少なくとも直接的には、財団はアブラハムの宗教を収容していません。当然だと思われますか? では敢えて、その理由を尋ねてみましょう。
……おっと、始めにしては中々過激な意見です。一応ここでは、聖書の内容の真偽については保留させて下さい。次の方……ええ、そうですね。20億人以上のキリスト教信者の殆どは、実際に神と見えたことが無い。教典に異常が記されていようが、直接異常と接していない以上は一般社会の範疇である、と。あとは……ええ。収容が非現実的、というのも重要です。人口比、歴史、文化などがその理由になるでしょうか。おお、あなたは収容すべきという意見ですか。確かに、財団は数多くアブラハムの宗教に関連するオブジェクトを収容していますから、それを拡張すべきというのも議論しがいのあるテーマです。
さて。これまでの意見からも分かるように、ヴェールによる異常の線引きは単一の条件からなるものではありません。無数の基準は対象によって柔軟に閾値を変え、しばしば政治的干渉を受けさえする。皆さんご存知のように、「ヴェールに守られた一般社会」の境界というのはとても曖昧です。これは裏を返せば、「財団は収容の明確な基準を持たない」ということにもなる。しかし、そんな曖昧さにもかかわらず「一般社会」の営みは非常に安定しているように見えますね。ヴェールの柔軟さはむしろ、一般社会を撹乱する存在を的確に排除するために役立っているということです。
……本当でしょうか?
一般社会を撹乱する存在を、的確に、排除する。それには一般への深い理解が必要です。財団はそれを、本当に有していると言えますか?
今、何人かの方がにやりとしましたね。もしや歴史の講義を思い出しましたか? ええ、1世紀やそこら前の報告書を掘り返してみれば、財団が収容判断を誤り一般社会に被害を及ぼした事例がいくつか見つかります。私の質問はやや時代錯誤に聞こえたでしょうか。しかしひとまず、これを皆さんの問題として考えてみましょう。
皆さんは「見たこともない神を信じる」心を、実感として理解できるでしょうか。財団職員にも、もちろんこの中にも、仏教徒やキリスト教徒であるという方は一定数いらっしゃるでしょう。ですが、皆さんは異常存在としての「神」の実在を知っている。デカルトはキリスト教徒でしたが、その信仰を当時の一般的なものと同一視は出来ない。況んや我々が神を信じるならば、それは一般社会の宗教観とは大きく異ならざるを得ません。
あるいは、財団は数多くの組織を「要注意団体」として識別しています。それらの一部は監視下に置かれ、一部は強硬な手段で ⸺ちょうど初めに述べたエピソードのように⸺ 解体される。先の友人曰く、対応は「団体の規模及び危険度、干渉が齎す影響を鑑み、検討を重ねて」決定されるようです。ただ実を言うと、GoI対応というのは財団における渉外トラブルの温床でして……生温い監視が重篤な事案へ繋がることもあれば、藪をつついて恨みを買い、政治的損害や不要な闘争が起きることもしばしばです。
そういったことは習いませんか? しかしこれこそ、財団が今でも無理解を抱えている証左です。一般社会に異常社会。どこが異常で、収容すべきか。……確かに財団は歴史上の失敗から内省し、基準を過たぬための努力をしてきました。皆さんもそうですね? 先程、壁新聞に今年度のKetergramsの抜粋が載っているのを拝見しました。素晴らしい志です。しかし、物体でも現象でも個人でもない、「基準を押し付けられない」相手。つまり「社会」と付き合うならば、内省では足りません。
ええ。先程の問題に、現在のところ答えは無いということです。「異常なオブジェクトを含むコミュニティ」は大抵GoIに指定されますが、収容対象であるかは判断しえない。先述したトラブルは多くの方がそれに気付いていないが故のものであり……苦々しいことに、私達の力不足の証でもある。
⸺財団、そしてこの学院のカリキュラムは、我々に異常への深い理解と順応を求めるあまりしばしばあることを忘れさせます。
すなわち、「異常Anomalyは普通Normalではない」という当然を。
我々が守護している世界は、芸術も思想も宗教も歴史も、すべてが「正常」を前提としています。そして財団は最早、そのような世界を理解出来ない。「我々は暗闇の中に立つ。」……講堂の扉にも書かれていた警句です。しかし闇に慣れた目では、照らされた世界の実像は捉えられません。故に私は職務として、共同体へ出向き、語り、与え、受け取る。……コミュニケーションです。監視でも保護でも、解体でもなく。
私達一般部門は、財団が正常から疎外されない為に存在します。一般社会で人々はどう考え、営んでいるのか。異常な社会ではそれらがどのように、何故異なるのか。私達は「一般」を研究します。それは財団が遠い過去に袂を分かち、既に見えなくなったものです。
……本日私が講義を任された理由がお分かりになったでしょうか。財団内部部門も、勿論私達のことも知らない皆さんに対して。
皆さんはこれから、異常に立ち向かう力を磨いてゆきます。そして、異常は世界に底無しの闇の如く拡がり、どれだけ覗き込もうと見透せないことを知るでしょう。故に財団は、闇に身を落とし切らねば使命を果たせないということも。
皆さんは今、境界に立っています。誤解しないで下さい、私は財団を否定してはいない。ただ、貴方が闇を覗き、その身を沈めてゆく毎に……貴方が守るものを振り返って欲しい。
両の目で、光と闇を共に眼差すこと。
困難な要求に聞こえるでしょうか。ただ実のところ、皆さんのいくらかは既にこれに挑んでいる。先程私は、財団職員の宗教観は一般とは異なると言いました。……しかし、神の実在を知りながらも見えぬ神を信じようとすること、それ自体はまさに一般社会を振り返る試みと言えましょう。前言を覆す訳ではありませんが、皆さんや財団職員の中にも、一般社会を正しく捉えようと努める者がきっと居るのです。……そして、故にこそ私は皆さんに期待したい。
財団が正しく在る、未来の礎となることを願って。
ふう……椒上さん、あなたも人が悪い。敢えて事前にシラバスを見せなかったんでしょう? これまでの特別講師の一覧を見たら、僕がこの話を引き受けないと思って。……とぼけないで下さい、錚々たる面子じゃないですか。
ええ、講義ですから。しかも先生の頼みとあっちゃ、偉そうなことを言うしかないでしょう。……まったく、こんなの柄じゃない。キャリアを捨てた身ですからねえ。彼らの多くはきっと、僕の未来の上司なんですよ? 直属でないにしても。
はは、相変わらず謙遜が下手でらっしゃる。自分も一度キャリアを失ったと言っても……プリチャード左遷組で、財団の講演に何度も招かれる教員は椒上さんくらいでしょうよ。
ちなみに、先生に講義の感想を伺っても?
…………ああ。
私自身は、一般社会を正しく捉えられているか。分かりませんよ、勿論。分からないということを……肝に銘じるのです。一般部門に入ってからは、先生との付き合いはあまり無かったと記憶しているのですが。はは、今回だけでそこまで見抜かれるとは。もしや学生たちの中にも似たような……ああ。先生の教え子ですものね。いえ、いえ。ここの学生を舐めていました。
そうすると先生。ひとつお願いが。もし今後、一般部門を志望する学生が現れたなら……忠告して下さい。今回、私は敢えて伏せたことがあるのです。私はしばしば異常なコミュニティへ、推奨される対抗ミームや防護装備を持たずに出向く。ええ、とても危険です。先生は身を以てご存知の通り。先程は未来の上司と言いましたが……もしかすると、それはあまり高くない可能性なのかも。
一般部門、特に渉外課職員の一定数はGoI出身で、一般社会にルーツを持つ者も数名擁する。それは私達の職務が財団よりむしろ、異なる社会に親しんだ者に適していることを示しています。今回の講義は、あくまでも未来の「財団職員」へ向けたものでした。彼らが真に「私達」へ踏み入ろうと言うなら……覚悟と用心が必要です。乖離する明暗に目が潰れ、盲とならない為の。
「一般部門のオリエンテーション」と題したレクチャーは、その際改めて行うこととしましょう。