「君はクビだ」
「はっ?」
部門長直々の通達が、広い主任室に響いた。モダンな椅子に座った部門長が冷ややかな目で彼女を見つめていた。
「この前の部門の課横断研究発表会、君は何を発表したか分かっているのか?」
「いや、研究内容がいささか浮いていたことは確かに認めるものの私が発表した新技術は必ず将来有用になると確信できるようなものであると恐れながら言えなくもないというかなんというか」
「『祈念メリケンサック』だよ、馬鹿にしてるのか?」
「いえ、でも……」
「『フィジカルの強い機動部隊員なら神格インファイトを持ち込める』じゃないんだよ!」
急な解雇宣言で動揺し、涙目になりかけていた彼女を感情で追いこすように、部門長は頭を抱えて崩れ落ちた。
「いやまあ発表内容をきちんと精査しなかった私も悪いよ?『神格実体の収容作戦において有効な祈念式兵器、亜種奇跡論兵器の提案』っていうタイトルで安心した私も悪かったよ?でもさあ、そんなのとは思わないじゃん……。この部門は皆真面目で優秀だからそんなことしないって思うじゃん……。こんな問題児がいたなんてさあ……」
「いや、あはは、いやいや!ほらあくまで部門内の発表会じゃないですか! 確かに発表があれだったのは認めますけど、別に対外的になんかやらかしたわけではないですし、ラッキーという事で!……ね?解雇は考え直してもいいんじゃないでしょうか……」
彼女は相手を刺激しないような笑顔を全力で取り繕いつつ、上司の機嫌を直そうと試みた。
「日本支部理事がちょうど視察に来てたんだよ!」
「ええ!」
「しかも獅子&鵺が!」
「しかも獅子&鵺が!?」
もっぱら彼女は理事の称号など知らなかったし、厳密にはクリアランス違反である。部門長の嘆きにとりあえず相槌を打っただけである。しかし、この屈辱的なストーリーを誰かに話すなど彼女自身のプライドが許さないため、漏洩の心配はないだろう……
「いいか?部門の研究費は理事の一存で簡単に削り削られるんだぞ!財団の資産は有限なんだよ!くだらない研究に金払う暇はないんだよ……」
「重々承知しております……」
尤も、財団の研究員というのは世界中の研究機関の中で最も研究費について考えない研究員の一種だろう。それでもこのような懸念を生じた彼女の真面目な研究発表は、十分解雇に値する。
「でも財団の研究職は本人の希望以外で解雇できないから、さ。異動。異動!君は異動!来週から戦術神学部門から移籍して、異常発見部門北海道支所が君の仕事場ね!」
「待ってください」
彼女の一世一代のハッタリがかまされる。
「ちゃんとした研究成果を、上げて見せます。チャンスをください。ええ、見せてやりますとも、汎用性があり、将来性があり、効率的であり、効果的であり、画期的な研究を。心配しないでください」
早口でまくし立てる。弁舌能力をフル稼働していた。
「大丈夫です。そうですね、1週間で見せてみましょう。なので異動は予定の日ギリギリまで待ってください。私は対神格の戦闘行動においてアメリカのレナー元副主任に師事し、祈念弾を始めとする兵器開発について、非常に専門的な知識を持っています。確かにこれまでは調子が少し悪かったものの、発想力で巻き返して見せます」
「ほう……」
「任せてください。私の本当の実力を見てからでも、人事書類にハンコを押すのは遅くないでしょう」
彼女はこれまでの人生の中で最も真っ直ぐな目をした。幸いにも、自分が左遷の危機にあることも知らず前日に10時間睡眠をキメていたことが役に立ったようだ。崖っぷちに立たされて逸る動悸が血流を加速し、その優れた研究者の脳で「誠心誠意」の取り繕い方を演算していたのだ。
「じゃあ、少しだけ待とう、1週間だけだからね。いや、やっぱり議論の余地なく……」
「ありがとうございます!失礼します!」
言質を取り、即退出した。
「うお~やるぞ~! 北海道なんかいってたまるもんか!」
彼女の1週間の戦いが今、始まる。

東京国際空港⇒新千歳空港
「異常発見部門へようこそ。残念だがベーグルは出ないぞ」
「いらないです」
長髪を梳いても結んでもいない、最低限の洗顔以外の化粧もしていない、よれよれのロングシャツとよれよれのズボンを着た彼女は、新しく仲間となる部門の上司に不躾な態度を臆面もなく見せている。いや、臆面がないというよりは臆だの面だの考えることも億劫なようだ。
異常発見部門はオリエンテーションから現地任務である。別にOJTとか即戦力とか最近の企業のような理由ではない。これはオリエンテーションをわざわざすると予算がかさむからとか、危ない任務は他と比べて多くないためとか、そんな理由であることは伝聞から明らかなのだ。そんなわけで、彼女は上司とワゴン車で北海道の国道を走っている。
「オリエンテーションらしく、まずは自己紹介から始めよう。博士の下田だ。異常発見部門北海道支所には15年程所属している。よろしく」
「川田です。よろしくお願いします」
下田と名乗ったその男は夏らしく薄手の白いシャツに灰色のパンツをビシッと決めていた。左遷先の部門の中年男性としてはずいぶんときっちりした服装だ。髪もやたらいい匂いのポマードで散切り頭のような形をしっかり固定している。その着こなしがなんとも堂に入っている様子から、彼が普段からこのような風貌をしていることがわかる。新人歓迎の為にわざわざ繕ってきたわけではないのだ。
「うちの部門の研究理念とか、活動方針はもう配布資料で読んだか?」
「え、あ、いや」
「フッ、まあそうだろうな。この部門に来る職員っていうのはまあ大体厄介払いで飛ばされてくるんだ。ほとんどの奴は知らないし、君がそこまで気にすることでもない」
ちなみにこの下田という男、服装や身だしなみや清潔感全てを相殺するくらい鼻につく。
川田は昨日まで戦術神学部門で無為な研究に時間を費やしていた。すこしばつが悪く感じたが、ある意味適当な部門に飛ばされたのはきっちりとした部門よりも彼女にあっているのかもしれない。
「目的地までは長いんだ。せっかくだからニュービーの君に異常発見部門について教えてあげようじゃないか」
会ったばかりの上司とずっと車に揺らされるのは少々居心地が悪い。異常発見部門には微塵も興味がないが「よろしくお願いします」と川田は答えた。
「異常発見部門というのはだな、つまるところ、自ら異常を見つけに行く部門だ。名前そのままだな。これはノーヴィスの君も知っていることだろうが、財団がアノマリーをどうやって見つけているか知っているか?」
「えっと、警察とか一般社会に潜入しているフィールドエージェントが異常と関連のある事件を通報したりとか、要注意団体にガサ入って見つけたりとか、あとはインターネットをクローラを使って探索したりとかですよね」
「まあそうだ。大体はな。でも、それでこの世の全ての異常を発見できるとは言い難い。ほとんどは事件が起きてからの後手後手の対応だ。それに、市街地に集中しすぎているという課題もある。そこを埋めるのが異常発見部門だ。こんな感じで山奥の集落や秘境を調査したり、誰もやったことが無さそうな儀式をやってみたり、まあ新たなアノマリーを発見するなら何でもやる感じだ。フレッシュマン、ここまではオーケーか?」
「オーケーです」
だから部門の中では優先度が低いとみなされ、予算が少ない左遷先なんですよね。やたら自分のことを英単語で呼んでくる上司に川田はそう感じた。
「だから異常発見部門の職員のやる業務は主に二つだ。一つは資料とかネットとかを漁って異常がありそうな場所に目星を付ける。もう一つは現地に行ったりして確かめる。どうだ、面白そうだろ! ここに配属された職員は大概落ち込んでそのまま退職する奴も多いんだが、歴史的な資料は読み放題だし、全国各地を旅できる。まあ予算の範囲内でだが。アノマリーを見つけたらそのまま帰って報告すればいいし、やばそうなときはすぐ退いて収容チームに回せるから命の危険もあまりないぞ。どうだトーシロ、いい場所に感じてきただろう?」
「そうですね。トーシロは英語じゃないでしょ」
やはりこの男、鼻につく。部門の職務も興味がないわけではないが、なんというか、やりがいがない。組織への貢献度が少なすぎてもやりがいがないと感じるのだ。特に前に勤めたいたところが戦術神学部門とかいうイケイケの所だったから、猶更感じるのだ。
「ふっ、そう緊張することはないさ。まあ一回の調査でアノマリーを見つける確率は、人にもよるが……1%くらいだ。大体スカだ」
こんな感じで下田の一言一言に冷たいツッコミを入れながら、一行は目的地へと進んでいった。
「さて、もうすぐ目的地につくわけだが、現地任務において大事なことを一つ教えてやる。『不審に思われないこと』だ。今日行くところは山奥の村落だが、スムーズに調査を進めるにあたって現地の人に怪しまれず、なんなら信頼を得られるくらいの関係になれるとベストだ。基本的に山奥の村落に訪れる人なんてほとんどいないわけだから、村が腹に一物抱えていようがいまいが余所者に対して不審がるのは当然だな。だから、話し方はいつも優しく丁寧に、柔らかい物腰が大事だ。身分とかもなるべく当たり障りのないものが大事だ」
「了解です、優しく丁寧にですね」
「ああ。今回は大学の教授と助手という風に偽装する。これが君の身分証だ」
川田は正直乗り気ではない。興味もない山奥の村の知らない人に接するのは、長らく研究室を仕事の中心としていた川田にとってあまり慣れないことである。コミュニケーションすらあまり得意ではないのに、さらに人里離れた集落とかいういかにもコミュニケーションのとりにくそうな人々とお話するなどもってのほかである。
「ちなみに、どんなアノマリーが居そうなんですか? その村」
「わからんが、噂がある」
「噂?」
「ああ、自称『イエス・キリスト』がいて、奇跡を見せるという噂があってな。奇跡を見せた人には加護を与えるとか。もちろんその対価に布施を頂いているがな」
「はあ、キリスト……なんか聞くからにインチキ臭いんですけど」
The・和みたいな日本の山奥にキリストというのも珍妙なものである。
「さあ、どうだろうな。お、見えてきたぞ。あれが『八葉上村』だ」
ぼろぼろの案内標識には、「八葉上やはうえにようこそ!」と書いてある。
内地はまだまだ穏やかな暖かさがあったが、北海道の秋晴れは肌を刺すように寒い。二人はコートを用意した。これから起こる凄惨な事件も知らず、ワゴン車は谷あいのくねくねした曲道を進む。
「こんにちは。ケンブリッジ大学の下田です。教授です」
おい。当たり障りのない身分はどうした。
「こちらは助手の川田です。東北産業大学から留学中です」
鼻につくというか、ナルシストだ。というかまずいんじゃないのか、と川田は思った。こんな辺鄙な場所に世界最高学府の人間が来るなんて、怪しすぎる。
「ええ、こんにちは。村長の家小部やこぶ。こんな山奥の村ですが、ようこそいらっしゃいました」
幸いにも怪しまれていないようだ。村長は田舎の村にしては比較的若く、40代ほどの男性だった。田舎らしい訛りが無いのは、村長という地位ゆえであろうか。
「イギリスから遠路はるばるお越しくださいまして、ご苦労様です。本日は調査とのことですが、先生はどのようなことを調査なさるんでしょうか」
村長の家小部はニコニコしており、自然な笑顔をしている。逆にここまで怪しんでいないのが不自然なくらいだ。
「ええ、私は民俗学の研究をしていまして、この村に伝わる伝承だとか、祭りだとか、そういったものを調査したく。そういうものに詳しい方はこの村におられますか?」
「おお、それなら私が適任でしょう。私の家系はずっと八葉上に住んでいるんですがね、土地神を祀る八葉上神社の祭祀も担当しているんです。まあ氏子って感じですね」
さんざキリストだのヤハウエだの言っていたが、意外と普通の田舎のようだ。彼らが会話している公民館にも不審なところは無く、本当に普通としか言いようがない。もしかしたらやたらキリスト教チックなネーミングも偶然かもしれない。
「なるほどそれは良かった。ぜひお聞かせ願えますか。まずは神社の由来などから」
「はい、この村はもともと明治時代の蝦夷地開拓の際に炭鉱が見つかったことから炭鉱夫の町として興ったんですが……」
・
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「……ほうほうなるほど! だから夕張に対抗してブドウが特産に! いや~いいですねえせっかくならここのワインを一杯楽しんでみたいものですな」
「ええ是非! 私共としてもワインにケンブリッジのお墨付きを得られたらいい宣伝になりますなあ!」
この村、本当に普通である。当たり前といえば当たり前なのだが、由来、信仰、歴史、産業、どの点で話を聞いても不自然なところは無い。なんならいつの間にか下田はすっかり打ち解け、酒の話までしている。打ち解けるのは大事なことだが、どうもその緩さは仕事できているとは思えない。
「では、最後に神社の方を実際に見せてもらってもよろしいですか」
三人は公民館を出て、八葉上神社のある山の麓へと向かった。日は落ちかけているものの、夏であるためもう少し日の入りまでは時間があるだろう。北国であるから夏にもかかわらずそこそこ涼しく、蒸し暑さを感じない。北海道の山中の村というのは、避暑にはちょうどいいようだ。
「なんていうか、普通の村じゃないですか? キリスト教関係ない普通の神社っぽいですし、村長さんも普通というか」
川田は歩きながら、下田に小さい声で話しかけた。
「まあすぐにキリストだのなんだのは聞くわけにはいかないからな、まずは打ち解けて、安全に聞けるチャンスを見計らっているんだよ」
「聞けるチャンス、かなりありそうでしたが」
「いや、俺の経験上のカンが言ってたんだよ。ここは酒の話をしろって」
「カンですか……そもそもキリストの噂ってどこで聞いたんです?」
「Facebookだよ、Facebook。なんだ、疑っているのか?」
「いえ、別に」
「いや、絶対疑ってるね。その顔が疑っていますって言ってるぞ。いいか、これはちゃんと根拠があって調査に来たんだ。いいか、これはFacebookでずっとやりとりしている、吉田さんからの情報なんだ。かなり信頼できるぞ」

42歳/男性/世界最高学府で教授をしています/仕事の依頼はDMまで
そういって、下田はFacebookの画面を見せた。この男、Facebookも律義にケンブリッジ大学教授にしている。顔は一応—本当に一応、本人だが、計算されつくした角度と彩度を用いているのだろうか、逆にイケメンで鼻につく。肝心の吉田さんは女性のアイコンであり、数か月前からやり取りしているようだ。しかしながら、SNSにおいて女性と会話しているキメ顔の中年男性アイコンは、残念だがどうしても信頼に足るものではない。
「はあ」
おそらく、この吉田さんは適当なことを言って中年男性を田舎に飛ばすようなことに快楽を見出しているのだろう。SNSにおいて虚言を用いて純粋な情報弱者をだまして悦に浸る人間はよくいるもので、どちらを向いてもたいへん哀れなことである。
「なんだよ」
「いえ、別に何でもないですって」
「あのな、別に何もなければ何もなくていいんだよ。どうせこの部門の調査ってもんは大体スカなんだから特産のワインでも飲んで帰ればいいのさ」
下田の職務に対する意識の低さが露呈したところで、村長が歩みを止めた。
「着きました!こちらが八葉上神社です」

八葉上神社、本殿
「神社……?」
村長が満面の笑顔で指しているものは明らかに西洋風の教会であった。しめ縄も鳥居も狛犬もなく、代わりに十字架とマリア像がある。
「これ、きょうか」
「おお~これは立派な神社ですな!見事な造りだ」
誰がどう見ても教会であり、これを神社と呼ぶのは明らかにおかしいのだが、だからといってそれを指摘すると「あなたはおかしい人ですよ」と言っているようなものである。下田は反射的にツッコミを入れそうになった川田を遮った。
「この神社、最近建て替えられた感じですか?」
「ええ、3年ほど前に」
「それは老朽化、とか」
「いえ、真の信仰に目覚めたからです」
ますます雲行きが怪しくなってきた。信仰に「真の」なんてつけるもんじゃない。だが、職務上ある程度情報は得ておかなければならないので、下田はいくつか質問を続けた。
「えっと、この十字のものは何でしょう」
「十字架です。主がかつて磔の刑にされされたときの刑具の形を模しています」
墓も後で差し替えたのであろう、全て新しめの十字架の石に作り替わっている。
「この像は何でしょう、女性と、男?」
「マリア様と主です」
もともとは狛犬のあったところであろうか、今では西洋風の彫の深い顔の男女が向かい合った像になっている。
「その、主っていうのは」
「イエス・キリスト様です。人の世に救済を齎す神の子です」
「キリスト……」
まんまもいいところである。どうやらこの村の信仰体系は神道を換骨奪胎しキリスト教に変えたようだ。そして、それは明らかに数年以内に『イエス様』によって急速に起こっている。この奇怪な信仰体系に下田はどう探ればいいのか分からなくなった。
「はい、私たちが信仰するのはイエス様の教えです。イエス様に会いますか?」
「え、会えるんですか」
「イエス様はここが生まれ故郷であり、ここから教えを広められました。教えを世界に広めて、この村に帰られてしばらく休養を取っているのです」
ここに広められている教えはどうやら一般のキリスト教とは相違がみられる。キリストは北海道の生まれではないし、2000年程前に死んでいる。下田は少し踏み込んだ質問をすることにした。
「いや~、その。なんというんでしょう。私はケンブリッジ大学におりますので、どちらかというとキリスト教の本場に近いのでそこそこ造詣はあるつもりなのですが……不躾ながら疑問を申し上げますと、イエス様はご存命なので?」
「もちろんですよ! 確かに今の世の中では教義がねじ曲がり、主があたかも昔の人間のように伝えられていますが、今も私たちに加護を与えてくれます。多分社殿の中にいるのでお呼びしましょうか?」
残念ながらねじ曲げられているのは八葉上の方である。一般的な教義的にはキリストはとっくに死んでおり、復活した後も40日のアディショナルタイムの後天界に召されている。(一応科学的に見ても、エルサレムからキリストのEVEエネルギーは出ているので間違いないことを川田は知っている。)この曇りない村長の眼が語っているのは真の信仰ではなく村が何かの要因で信仰をすっかり何か異質なものにすり替えられたことである。
「いえ、大丈夫です。今日はもう遅いですし、宿の方に、な」
「は、はい教授。それでは、宿に行くので公民館の方戻りましょうか」
少し苦しい言い訳ではあるが正直こんな場所は怪しくてすぐに立ち去り、体勢を立て直したいものである。まだ日は落ちきっていないものの、下田は本日の調査を打ち切ることにした。
「ホテルなら潰れましたよ、5年前に」
店が潰れるときはちゃんとホームページも潰してもらいたいものである。
「しょうがないですね、じゃあ念の為テントを持ってきているので」
「お、おお準備がいいな、川田君!」
「ヒグマが出るのでやめた方がいいですよ」
「じ、じゃあ、車中泊で我慢しましょうかね」
そう言うと、村長は神社の駐車場の隅を指さした。

廃車とヒグマの扱い程面倒なものはない
「このあたりのクマは強いですよ~、悪いことは言いません、教会に泊まっていってください」
しまった、ここは教会だった。だが、二人はこんな不審な教会に泊まるなど到底できない。
「いや~余所者の私たちがいきなり教会に泊まらせてもらうのは迷惑でしょう」
「大丈夫ですよ!余所者ではなく大切なお客様ですから。困ったときはお互い様です」
どうしてこういう村に限ってモラルがあるのだろうか。ドラマのようにはいかないものである。下田の繕った笑顔からみるみる余裕が失われていく。
「泊まって行きなさい。誰も迷惑には思いません」
温かみと深みをよく感じる、まさに慈悲深い声と形容できる声が社殿から聞こえて、帰ろうとしていた二人は振り返る。教会神社の中から現れたのは、白いローブを身にまとい髪と髭の長い男性。顔の彫が深く、教会前の像にそっくりである。いかにもな服装と落ち着きのある歩き方で、建物の中から現れた。
神のお出ましである。
「イ、イエス様……!」
畏敬のこもった声とともに真っ先に姿勢を正し、村長は礼をした。いかにもイエスキリストの風貌を纏った男は微笑みながら歩み寄る。イエス様の足はなんかそれっぽい靴を履き、手にはそれっぽい聖書を抱えている。緩慢ながらもしっかりした足取りと周囲の人物を安心させるようなその雰囲気は非常に魅力的だった。なんかいい匂いもする。
下田はそのオーラにすっかり圧倒されてしまった。この下田、鼻につくナルシストであるのだが、その別側面として臆病で小心者である。すこしでも異常の気配を感じたら逃げ出すのはまあこの部門の職員としては正解ではあるが。一方川田はそのいかにもな神の格好に、逆に呆れてしまった。
「そちらの方々は、ふむ、なるほど下田さんですか」
もちろん下田はイエスに名前を明かしたりなどしていない。
「長旅お疲れでしょう。晩餐も用意できます。ささ、泊まっていくとよいでしょう」
イエスは優しく話しかけた。立ち振る舞いこそ神らしさは十分であるものの、現代の北海道にいるという状況証拠があまりにも浮きすぎていた。
「おい、これ、"ガチ"の奴じゃないのか」
「そんなわけないでしょちょっとクオリティ高めのコスプレイヤーくらいですよ」
二人がコソコソ話を始めると、より透き通った声でイエスが話した。
「どうしましたか? なにか、泊まれない事情でもあるのですか?」
正直怪しすぎる、が二人はもうこの村から今すぐ逃げるための十分な言い訳を持ち合わせていない。何よりもこのイエス、慈愛の表情ではあるのだがあまりにもその慈愛が顔からにじみ出ているため、要求を断りにくい。まさに教祖といった感じの誘導能力というか、カリスマ性を感じる。
「え、ええではお言葉に甘えまして」
下田はそのカリスマに押し切られた。この男、鼻につくナルシストな上にヘタレだ。しかしながら、そのまま言葉に甘えて泊まるわけにもいかない。あらかじめいくらか情報収集してから身構えたほうがよいと川田は思い、そのまま内部に案内されそうになる前に勇気を出して質問した。少なくとも、イエスと名乗るこの村に信仰を新興した男が我々に敵意があるのか、目的は何なのか、はたまた本当にただの巡りあわせの親切心なのか探る必要がある。
「えっと、その、あなたがイエス様ですか?」
「如何にも、私はイエスキリストです。」
イエスは反射的といえるほど早く返答した。だが川田にとっては世界の三分の一が信じる宗教の開祖を名乗る男が本当に前にいたとして、あまりにも現実感が無いのである。
「もしかして私達が来ることは事前に知っていたり……?」
「いえ、それは知りませんでした。ですが、聖書には『汝の隣人を愛せよ』とあります。他人だからといってぞんざいに扱うことは致しません。神社には宿泊施設もありますから、ぜひ」
イエスキリストとして完璧な答えとしか言いようがない。そう、そうなのだ。イエスがガチの異常持ちでも只のやばい人でも、悪意があってもなくてもこういうふうに答えるのだ。しかしながら、戦術神学部門出身の川田の疑念はそう簡単に払えない。そこで川田はもう一歩踏み込んでみた。一方、下田はもう自分の名前をあらかじめ知っていたことに対して呆然と立ち尽くしていた。
「泊めてくれるなんて本当にありがたいです! ところでなんですが、実はイエス様のことは噂でお聞きしていまして……奇跡を使えるとか」
「はい、使えますよ」
「あってばかりで失礼だとは思うんですが、もしよろしければ見せてもらう事って可能ですかね……?」
「ええ、いいでしょう」
この場において奇跡を見せろなんて言うことは「イエス様を疑っていますよ」と暗に言っているようなものであったが、これに対してイエスが断るというのは反対に二人がイエス様を不審がる根拠になる。川田は神格実体だとか現実改変だとかには他の者より一日の長がある。戦術神学部門で知識を得ている彼女は、ある程度本当の奇跡と嘘っぱちの手品の違いくらいは分かるつもりだった。もしガチの現実改変でも見せられたら泊まることなどリスクでしかないので走って車に乗り逃げればいいし、そうでなければ騙されたふりをして泊まって次の日にでも適当に理由をつけて帰ればいい。川田はそんな魂胆だった。もともと、異常発見部門の職務は異常を発見することである。異常の有無さえ知ればよいのだ。一方、異常発見部門の先輩の下田はもうイエスの雰囲気に圧倒され、畏怖で目が泳いでいる。
「では、そうですね……別減山べつへれやまに行きましょうか」
イエスは小高い丘を指さした。なんら変哲のない山である。イエスは歩き出し、下田と川田はそれに続く。
「別減山は、キリスト教の聖地の1つです。私はあの山で聖母マリアの子として生まれました」
神社の側には整備された登山道がある。特に高くもない丘であるのに、やたらきれいに整備されているようだ。
「私の父は天使の宣告から、妻を迎えたと言われています—」
「—生まれた日は今でいうクリスマスとして広まっていますね。内容の乱れた文献から、誕生日は諸説あるだとか、そんなことを言われています。正しい真実があやふやになっていることは悲しいですね」
イエスは優しい口調でしゃべり続ける。川田としては、どこかで聞いたような話をまるで自分が体験してきたかのように語るイエスに対する疑念は一層深まっていった。
「—どうです? あなたもキリスト教に入信してみませんか?」
「結構です」
しかも事あるごとに歩みを止めて入信を勧めてくる。奇跡を見せるなら早くしてほしいものだ、そう思った。
30分程歩いただろうか。本来は半分の時間でたどり着けたであろうものを、イエスの無駄話によってかなり長引いてしまった。日は落ちて暗くなってしまっている。運転するのは下田だが、もし今日帰ることになった場合随分と厳しい眠気との戦いになりそうだ。
山頂は静かで、神社や村の中のように街灯もなくただ暗い夜空が広がってる。昼であれば、北海道の雄大な山脈を見ることもできただろう。
突然、イエスは手を天にかざす。
「はああああああああああ!!!! 天におわします父なる神よ! その御手を我に差し出し給え!!!!!」
川田はこれまで穏やかに話していたイエスの突然の大声にビクッとしたものの、すぐに平静を取り戻す。こういう迫力だけ出してそれっぽいことをいうのは、マジシャンのよくやるチープな演技である。
しかし、次の瞬間

ワーオ……!
夜の暗い空に、光の柱がそびえ立った。
少し時間をおいて、もう一本、またもう一本柱が立っていく。
「こんな……!」
「マジかよ……!」
下田と川田は唖然として、変わらず光り輝く天の御柱を眺めていた。燦然と光り輝く光柱からは、まるで天上の聖人でも降りてきそうな雰囲気だった。
「あの一番大きい御柱が父なる神、あの御柱は聖ヨハネ、あちらは聖パウロ」
何も驚くことはないと、そう微笑むかのようにイエスは光柱の解説をする。
「すごい……!」
川田は感嘆の声を漏らした。
「お判りでしょう? これが奇跡です」
イエスの自信に満ち溢れた表情から、川田は本当に彼が現実改変をしたのではないかと思いこみかけた。しかし、腐っても彼女は戦術神学部門である。川田はそれが本当の奇跡なのかただのマジックなのかは確実に判別することができるのだ、このカント計数機で。異常発見部門の下田は腕時計に偽装したカント計数機を腕に巻いており、そのことは予め川田に共有していた。川田はイエスに不自然に思われないようにちらっと見て、その針が微塵も動いていないことを確認した。
「おい、これ、マジモンじゃねえか」
「なに騙されかけてるんですか。ほら、見てください。カント計数機で見たら一目瞭然です」
「お、本当だ」
「というかなんでその発想がないんですか?異常発見部門なのに?」
「うっ」
どうやらこの下田という男は仮にも博士であるにもかかわらず、川田が耳打ちするまであっさり信じかけていたようだ。この男、鼻につくナルシストでビビリなだけでなくアホである。いや、アホだから異常発見部門に飛ばされたのだろう。
殆どの職員はご存じだろうが、異常発見部門はご存じの通り落ちこぼれた職員の左遷先である。街で見つかるアノマリー、世界征服を企む要注意団体、世界を揺るがす神格実体に対応することに日々追われている財団は、まだ暴れてもいない上にまだ見つられていないようなアノマリーに対してはあまり優先度を高く設定していない。必然的に異常発見部門にはポンコツと協調性の無い職員が集まるのだ。下田は前者、及び後者だ。
鼻につくナルシストでビビリなアホの下田は調子に乗り出した。
「イエスさんよぉ、さすがにそんな子供だまし、俺達には効かないぜ」
「奇跡を見せろと言って見せたら子供だまし扱いですか……だったら暴いてみてはどうです、そのトリックを」
「ふん、造作もない。川田!」
「私!? えーっと、あー、あの多分ライトが仕込んであったんですよ! こうやって奇跡を疑う人が来たときの為にきっと山の周囲にこう、埋め込んであって」
「では、なぜあの御柱は空中で途切れているのですか?」
「む……」
「だって、おかしいでしょう? 仮に私がライトをこの山に仕込んでいたとしても、こんなことはできません。そんな光学機器は無いんですから」
「で、でも」
「なら、探してみてください。ライトでも何でも」
イエスは口角を上げた。ライトなんて仕込んでいないことを、その微笑みは確信している。実際、ライトを仕込んだという川田の指摘が正しくないことは、彼女自身も分かっていた。もし山にライトを仕込んでいるのなら、彼女の立つ位置をずらすにつれ光柱の見える角度も少しは変わるはずだからだ。光柱はまるで月光のように不動の美しさをたたえている。これは光柱が仕込みなどではなく正真正銘遠くの空に架かっていることを示している。
「くっそお……」
川田の予定に狂いが生じた。ガチ改変者ならば逃げ、ペテン師なら適当にあしらう。そんな腹積もりではあったものの、川田の目の前には「ガチではないが、ペテンの証拠が全く見つからない」イエス様がいる。
ふと、川田に不安がよぎる。「カント計数機で計れない異常現象だったら?」ここは財団の実験室ではない。考えるべき環境条件は大量にあり、自分の専門分野に関する仕事ばかりが振られるわけではないのだ。例えば、霊体がなにかしていたのならカント計数機ではなくハルトマン霊体撮影機でなければ分からない。現実改変ではなく認識災害や過去改変なら測りようがない。そしてなにより、彼女はもっとも忘れてはいけないケースを考えていなかった。イエスが本当に神ならば、奇跡を起こすためのエネルギー、EVEを強く放射して現実改変が可能である。この場合は奇跡測量機でしか測れない。元戦術神学部門として痛恨のミスである。
この場合どうすればいいのか。逃げるべきか? それとも神かもしれない存在の気分を害さないよう従うべきか? 焦る川田をよそに、下田が先に結論を出した。
「あー! 今日子供の誕生日だ! 帰らないと!!!!」
下田はわざとらしい大声を出す。イエスは少しも動じなかったが、隙を作れたかどうかを確認している暇はない。下田は振り返り、走り出す。
「「「「「「「「どこいくんだべ(ですか)?」」」」」」」」
「ひぃっ!」
背後には、村長を中心として、十数人の村人が微笑みながら立っていた。下田は脚を滑らせ腰をついた。村人は皆、神々しいものを見たと言わんばかりに目を輝かせている。
「いや~イエス様が奇跡を見せると聞いて、近所の人達を集めてきました!」
「知っとるか? イエス様の奇跡ばみせてもろたら、加護がえれんだべ!」
「んだ! お客様はでら幸運だがなあ!」
「えらいもん見たわ! はっはっは」
家小部は曇りのない眼で下田と川田を見つめていた。その曇りのなさが何よりも不気味である。
「どうしたんです? 泊まっていくんでしょう?」
ガタガタガタガタ……
これは下田の震えである。鼻につくナルシストでビビリなアホの下田は恐怖で震えていた。下田にとって今日の様々な出来事は精神のキャパの限界近くに迫るものだったらしい。
「神だ……イエス様は実在するんだ……」
「いや、別に彼がそうでなくてもイエスは実在しますけど。はい、水です」
二人はイエスと村人の圧に抗うことができず、神社に泊まることになった。泊まるというより、これはどちらかというと軟禁に近いだろうか。神社は外観だけでなく内部もきっちり教会風にリフォームしているようである。あてがわれた部屋には彫刻のような装飾の施された背もたれの椅子と机、そしてベッドが設置してあった。床はきれいなタイルであり、きれいにワックスがしっかりかけてある。まさにお客様用の部屋といった様相である。部屋数はそれなりにあるようで、二人にそれぞれ部屋が割り振られている。ではなぜ二人ともここにいるかというと、
「あ、そうだ。夕飯は食料を持ち込んできているからってことでお断りしましたからね」
「ああ……」
「あと、風呂は部屋を出て右の突き当りです。」
「ありがとう……」
「じゃ、さっさと出て行ってください」
「ちょっと待ってくれ! ひ、一人にしないでくれ!」
下田は情けない声で川田にすがった。ばっちり決めた服装と髪型はどちらもよれており、憔悴した顔を川田に俯きながらちらつかせている。
「神は、神はいたんだ……」
「いや、確かに彼は現実改変者かもしれませんけど、私たちがタネに気付いていないだけでインチキかもしれないじゃないですか」
川田は逆に落ち着いている。下田が取り乱す様子を見て、反対に自分の恐怖心とか、不安感とかが薄れてしまったようだ。川田自身としては、あのイエスが本物の現実改変者だとはあまり思っていない。確固たる証拠があるわけではないが、ある程度の確信はある。何度も言うが川田は元戦術神学部門の研究員、もちろん現実改変者の研究もしていて資料は数えきれないほど読んでいるし、実際の現実改変者も何度も見たことがある。その長年の経験からくる直感を照らし合わせると、イエスはどうも現実改変者ではないと彼女は感じたのだ。冷静になった川田は不安がる下田を尻目にそう感じた根拠を考察した。
「そもそも、現実改変者だとしたら、不自然な部分がいくつかありませんか?」
「……どういうことだ?」
「光の柱を出す時はそれこそ現実改変者って感じでしたけど、それまでの様子です。別減山に登る時、イエスはやたら饒舌でしたよね。まるで、『時間稼ぎをしている』ようでした。奇跡をいつでも起こせるなら、さっさと登って起こせばいいじゃないですか」
「確かに」
下田は少し希望が見えたのか、震え声が収まり始めた。
「だから、やっぱりあれはただのマジックだったんですよ!」
「いや、でもそれは異常ではないことの根拠にはならないだろう。普通に布教したい気分だったかもしれない」
「山頂でもカント計数機は現実値の変動を示しませんでしたよ」
「カント計数機で全部の異常が測れるわけじゃないだろう!」
「いやまあ、それはそうですけど……」
「じゃあやっぱりあれはイエス様の奇跡なんだよ、クソっ!」
一瞬落ち着いたかのように見えた下田は、また不安から震えだした。その震えで転ばないように、下田は柱にもたれかかって縮こまり、白湯を啜った。
ズズ……ズッ
「あ~クソがっ! 震えが止まらねえ! 酒だ」
不安というより、アル中だ。下田は探索用の登山バッグから缶ビールとアタリメを取り出した。中年男性がアタリメをかじり、酒を飲む。いったいオリエンテーションで何を見せられているのだろうか。
刹那、川田の思考に一閃が迸る。
「そうか! 分かった! 下田さん、分かりましたよ」
「うおっ、 いきなり大きい声を出すなよ、何なんだよ」
「光の柱を出したトリックが分かったんです」
「本当か!?」
「そうです、ヒントはこの『アタリメ』です。イエス、いや偽イエスはイカによって光柱を作り出したんです」
「さすがに違うと思うぞ、頭大丈夫か?」
「いいから黙って聞いてください」
「はい」
1
まずですね、イエスが起こしたのは奇跡でも何でもありません。ときどき見かける自然現象です。サンピラー現象って知ってますか? —まあ改めて説明すると、日没時に起きる大気の光学現象です。空の中でも特に高い位置にある雲、高度2000m以上の高層雲や巻層雲は水滴ではなく氷晶になっているのは高校の物理とかで習いましたよね。これらの結晶は表面が板のような平面になっていて、なおかつ空気抵抗によってほぼ水平の状態を維持したまま落下します。
2
その水平な面が集まってまるで鏡のようになった時、そして日没で太陽が地平線の少し奥に沈んだとき、氷晶の鏡は太陽の光を虚像として映します。虚像も中学理科でやりましたよね。—いやまあ大体の人は忘れますけど。これがあたかも空に浮かぶ光の柱として目には見えるわけです。もちろん光の柱の上にはまだ落ちていない雲があるわけですから、あたかも天界から光が差しているようになります。雲が高層だけに存在し、乱層雲などがなく晴れている日、および見晴らしのいい場所というコンディションで起こる現象です。
3

イカ漁船
—それなら柱は一つだけのはず? 確かにその通りです。付け加えれば、私たちが見ていたのは日が沈む西ではなく南方面です。それにもちゃんと理由があります。サンピラー現象は、太陽以外の光でも起こります。例えば月の光で起これば月光柱ができますし、街灯でも時々現れます。しかし街灯ではあそこまでくっきりとは見えないでしょう。
イカ漁船は知っていますか? この船、たくさん電球をつけているでしょう? イカは走光性という、光のあるところに寄ってくる習性があります。そのため、イカ漁船は夜間に明るい電球を船から光らせることでイカをおびき寄せて一網打尽にする、という手法を取ります。この電球は非常に明るく、宇宙からも見えるほどです。つまり、私たちが見ていたのは夜間に操業しているイカ漁船の光によって起こったサンピラー現象です。この現象には実際に漁火光柱と名付けられています。イカ漁船はもちろんばらけて漁をするので光柱はたくさん見えるってわけです。
こう考えると、山に登るまでのイエスの時間稼ぎも説明できます。基本的に漁に出る時間ってのは決まってるもんですから、その直前になるよう到着時刻を調節していたんでしょうね。
「ってな感じです」
「なるほどな、確かにそれならイエスが光柱を天から降ろしたように見せることができる」
「そのアタリメの袋、パッケージの原産地を見てみてください」
「む、奥尻島だな」
「奥尻島周辺は北海道の南にあるイカ漁の有名な場所です。日本のイカ漁は季節によって増減するものの一年中やっていますから、八葉上村ではこの現象がよく起こることをイエスは予め知っていたのでしょう」
「だが、そんなうまくいくもんか? コンディションがそろっていなきゃ見られないんだろう?」
「はい、だからイエス、いや偽イエスはギリギリまで奇跡の説明をしませんでした」
「なるほど、コンディションが悪そうであれば別のプランを用意していたという事か」
「その通りです。山の天気は変わりやすいと言いますからね。実際、山で起きる自然現象を神聖な現象として宗教的に祭り上げた、なんてことはよくあります。サンピラー以外にもアーベントロート、雲海、ダイヤモンドダスト、ブロッケン現象、モルゲンロート、ワッフ音……なんならいきなり雨が降ったことを『嵐を巻き起こした』とでも言えるでしょう」
「確かに……」
「ま、とにかくこれでタネは分かりましたから、安心して寝れますね。酒は没収です」
「あ、ちょっと」
後輩に出し抜かれた上夜の楽しみを奪われた下田は、失意のまま自室へ戻り眠りについた。予定よりもずっと早くポンコツぶりが後輩にばれてしまったのは、無念というほかないだろう。
北海道の朝は早い。長旅に疲れていた二人も、まぶしい陽の光と鳥の鳴き声という大変牧歌的な要因によりすっきり起きることができた。
財団職員らしく、朝のミーティングから一日を始める。今度は下田の部屋に集合し、これからの計画を建てるのだ。
「それじゃあ、今日のことだが」
「はい」
「ぶっちゃけイエスがただの詐欺師であることはほぼ確だ、だからこの村にいる必要はもうない」
「え、詐欺師ほっとくのもそれはそれでやばいんじゃないですか?」
「それは俺たちの仕事じゃない。警察なりなんなりに任せることだ」
「まあ、そうですね……」
「というわけで、そこそこ調査しているふりをして夕方には帰るぞ」
財団職員は不用心にリスクを抱えるわけにはいかない。変に深入りして正体がばれたりすれば、火消しに大きく労力を費やすであろうことは考えなくても分かる。
「……じゃあ帰ったら匿名で警察に通報しておく、それで今回の任務は終わりだ。報告書の作成とかも含めてオリエンテーションだから、気は緩めんようにな」
それはもうオリエンテーションではないのでは? と突っ込みかけたがこれが異常発見部門である。とにかく、異常でないことが分かればもう心配はない。イエスが過激な行動に出ないよう騙されたふりをして帰ってしまえばいいだけの簡単な仕事である。
「ありがとうございます。頑張ります。でも……」
「でも、なんだ」
「いや、自分から言っててなんですけど、昨夜に暴いたトリックは『そう考えられる』ってだけで『絶対にそう』ではないじゃないですか。異常はないって結論を出して大丈夫なんですか?」
「それに関しては確固たる証拠を見つけた」
「え、すごいじゃないですか! 下田さんが見つけたんですか?」
昨日から一貫して尊敬を失う要素を見せつけられていたため川田はすっかり下田を侮っていたが、少し見直した。窓際部門に詰め込まれていても、財団職員としての素質が無いわけではないようだ。
「ああ、昨日の深夜なんだがな」
「はい」
「俺は酒が無いと寝れない質なんだ」
「何となくわかります」
「それに加えて、君と同じように奇跡の確固たる証拠がないからどうにも不安でな、全然寝れなかったんだ」
下田の目には隈ができている。
「それは、ご愁傷さまです……」
「だから外で散歩でもしようと思ったが、びっくり、街灯が消えてたから真っ暗だったんだ」
「え、そうだったんですか」
「だがな、その時俺は見たんだ。夜空にまだ光柱が残っていることに。街灯が消えていたから、山頂と同じように見えやすくなっていたんだろうな」
「そうか! 偽イエスはとっくに寝ているはずなのに光柱が残っているということは」
「そうだ、あの光柱は奇跡なんかじゃない。ただの人間にはどうすることもできない自然現象だ」
カーン、カーン、カーン
下田と川田が安心して帰還できる証拠を見つけたところで、いきなり洋鐘のような軽い透き通った音がした。
「下田さん、これは……」
「神社の鐘だ。今日は日曜だからな」
「ああ、日曜礼拝ですね……いやまあ神社なんですが」
二人は荷物を整えて宿泊用の部屋を出る。建ててからまだ月日がそう流れておらず、きれいな見た目の神社も詐欺師が村長らをだまして建て替えさせたと思うと、見えない醜悪さがまとわりついているように感じる。数年前から、ここの村人は偽イエスに騙され続けている。その実感が確信となるにつれ二人の胸糞悪い感触は強められていくのだ。
「おはようございます。下田さん、川田さん」
偽イエスはいかにもご機嫌といった笑顔で二人に挨拶をした。
「おはようございます。イエス様、もしかして日曜礼拝ですか。いや~お早いですねえ」
「ええ、この地域は早起きの方が多いですからね。礼拝の時間も早くしているんです。見て行かれますか」
「ええ、是非。ここの信仰体系は珍しい。ケンブリッジで宗教学の先生にも相談して、是非論文にでもしたいところです。なにより、教祖が本当の奇跡を使えるなんてここだけですからね! はっはっは」
心にもない賛辞を下田は並べる。大学教授さえ騙せたというのなら、偽イエスもたいそうご満足だろう。
明るい廊下を出た先は礼拝堂に繋がっている。昨夜はがらんとしていた礼拝堂は、今は多くの人でごった返している。田舎の村であるため、高齢者が多く、皆談笑したり聖書を読んだりしている。礼拝時間が早いのも、高齢者ならではの特徴だろう。
「「「い~つ~く~し~み~ふ~か~き~、と~も~な~る~い~え~す~は~」」」
偽イエスはそれっぽい讃美歌を歌わせている、讃美歌というよりお経に近い。お年寄りの喉にはこちらの方が優しいのだろう。その後は聖書の朗読、説教、祈り等々……偽物の割にはなかなか堂に入った礼拝である。恐らく、宗教を使って村人を騙すにあたっては新しいものを作るよりそのままメジャーで形分かりやすく洗練された宗教を使った方がいいという魂胆だろう。
「それでは、主の祈りと共に献金を捧げましょう」
これが偽イエスの主目的だろう。村人は笑顔で封筒に入れた献金を持って礼拝堂の前へと進み、偽イエスに渡していく。
「イエス様、わしゃ最近物覚えが悪うなったようで、孫ん顔すら時々忘れてしまうんだべ」
「それはかわいそうに……敬虔に祈りと献金を捧げれば、主は必ず祝福を与えましょう」
「イエス様、札幌に行った息子からの便りが少なくなって来とるんだば、どうすればよかろうが……」
「大丈夫ですよ。主への祈りと献金を続けましょう。神はあなたを見放しません。私が奇跡を用い、必ずや恩寵を授けます」
はたから見れば、分かりやすいものである。偽イエスは村人の相談を聞けば自然を装って献金の話に繋げていく。不安に付け込んで私服を肥やすさまを、川田は苦虫を潰すような目で見ていた。
「イエス様」
「イエス様」
「イエス様」
川田は偽イエスの薄っぺらい笑顔を見ることにもう耐えられなくなっていた。
「おや、下田先生! おはようございます」
「ああ、家小部さん」
村長も礼拝に来ていたようだ。どうやら献金はもう済ませているようで、帰りがけに話しかけたという雰囲気である。
「どうです? この賑わいは」
「ええ、すごいですね。こんなに敬虔な方が多い神社は、世界全体を見てもそう多くはないです」
「すごいでしょう。イエス様が来る前はこの神社は寂れて誰も近づかないような場所だったんですけどね、いや~イエス様様です。どうです? 下田先生も是非献金を捧げていきませんか」
「あっはっは、そうしたいのはやまやまなんですが、生憎持ち合わせが—」
「こんなインチキに金が払えるわけないでしょう」
いい感じに下田は村長の誘いをあしらおうとしたが、川田は先に限界を迎えた。
「ん? 何か言われましたか川田さん」
「おい、口を慎め川田」
下田は荒事を起こさないように川田をたしなめる。
「こんなインチキに金なんか払えるかって言ったんですよ!!!」
川田は激怒した。川田にとってこの偽イエスを見逃すことは前のキャリアに対する侮辱であり、騙されている村人を見て見ぬふりするのも彼女の正義感が許さない行為だった。川田の渾身の叫び声は礼拝堂中に響いた。
「あ、あははは~いやいやすいませんねこいつはイスラム教を狂信しておりまして、どうも我慢が出来なかったというかなんというか」
「聞き捨てなりませんね」
下田が誤魔化そうとするもむなしく、偽イエスは彼女の発言に返した。
「何度でも言います。あなたの奇跡はインチキです」
「何を根拠にそんなことを、不敬ですよ」
「そうだべ!」
「イエス様の前で、何言ってんだ!」
「わしはイエス様に救われたんじゃ!」
「そんなの全部インチキですよ! ただの自然現象をそれっぽく言っただけです!」
「お静かに!」
激しい口論が始まりかけたのを静めたのは偽イエスだった。
「ではもう一度、奇跡を見せましょう。それで信じていただけますか?」
「いいですよ。でも、しょぼい『奇跡』だったらマジックだってまた見破っちゃうかもしれませんね~」
川田はわざとらしく言った。光柱を作り出したタネ自体はもうほぼ確実に分かっているのだが、事実として今村人の殆どは偽イエスの方を信じている。村人たちに自分が騙されていることを自覚してほしいのであれば、もう一度『奇跡』をさせて見破らなければ川田のいう事は誰も信じないままだろう。それでは川田の腹が収まらない。
つまり、ここからは川田と下田がマジックをその場で見破れるかどうかという話である。
「では、こちらのトランプの山札から一枚取って、柄を覚えていてください」
「はい」
「山札に戻して」
「はい」
偽イエスはカードをシャッフルする。
「はああああ! ふう、あなたの選んだカードは、ダイヤの5」
「マジックじゃねえか!」
「じゃあグラスの水をワインに」
「それもチープなマジックだ!」
流石に茶番が過ぎる。トランプマジックはそれこそインターネットで調べればいくらでもタネが知れる。
「いえ、奇跡ですよ。あなたの心を奇跡で読んだのです」
「そんなのが奇跡なら、パソコンを持ってる人は10分経たずに奇跡が使えますよ」
「はあ、なかなか強情な方だ。いいでしょう、マジックなどと疑いようのない奇跡を見せます。それであなたは信じてくれますか?」
「ええ、いいですよ」
「では30分後、この八葉上村の中心、御留湖田ごるごだ広場にお集まりください。神は信心乏しい方にも等しく奇跡を与えます」
幸いにもイエスは乗ってきた。異教徒だと川田を詰って村から追放……とかになればひとたまりもなかったが、このままでは村人の中にも疑念を持つ者が出るかもしれないと判断したのだろう。
「しかし、30分経つまで誰も広場には近づかないでください。奇跡を起こすため、天上の父なる神と対話を行う必要があります。神の子である私以外が父なる神を見ることは禁忌です」
「いや、絶対時間稼ぎでしょ!」
「時間稼ぎ?何のことやら。」
「サンピラー現象でやったように、いいタイミングを狙ってわざと時間を調節したり、奇跡が見せられるよう仕込みをするのは分かってるんですよ」
「はあ……私としても不本意ですが村長さん、そこの二人を見張ってていただけませんか。禁忌を犯して天罰が下ってしまっては、元も子もないですから」
村長はうなずき、心の底から川田が哀れだという顔をした。
「では、今日の礼拝は終わりです。30分後にまたお会いしましょう。」
偽イエスは礼拝堂から立ち去る。その後に村人がぞろぞろと続いて出ていった。しかし川田と下田の目の前の村長は微動だにせず、相変わらず憐れみの顔で二人を見つめている。
「おい、ちょっと、こら!」
「すみません、イエス様の言う事なので」
「村長さん、俺はイエス様の奇跡を信じているので別に見張る必要はないですよ……なので通して下さ~い」
下田はこの期に及んで誤魔化そうとしている。
「すみません、イエス様が二人を見張るように言われたので」
「そうですか……」
昨日意気投合した村長にこのような表情をさせたことに対し、下田は凹んでしまった。
「そういえば、偽、いや、イエス様はどうやってキリスト教をこの村に広めたんですか?」
川田はすっかりやる気になっている。下田はこうなった以上仕方がないと考え、少しでも情報を集めて、マジックを暴くための手掛かりにしようとした。
「もちろん、最初は私たちも信じていませんでした。イエス様が初めて奇跡を見せるまでは」
「その奇跡はどんなものだったんですか」
「生き返りの奇跡です。この村にある崖から飛び降りたのですが、数分後にはまた戻ってきました。それ以来、イエス様の教えを疑う人はいなくなりましたね」
「生き返るだけで皆宗教を信じたんですか?」
確かに疑問といえばそうだが、それは本当のキリスト教にも失礼じゃないか? 下田はそう言いかけたがぐっとこらえた。
「ええ、もちろんそれだけではありません。奇跡はきっかけだったんです。この街にいる人たちは皆、不安だったんですよ」
「不安?」
「もしかして、炭鉱の閉山が原因ですか」
下田が口をはさんだ。なんだかんだで昨日の調査で聞いたことを覚えていたようだ。
「知っていたんですか」
「ええ、昨日気になって、八葉上村の炭鉱について調べました。この村の炭鉱は25年前に閉山されています。村はもともと炭鉱からとれる上質な石炭を主要な特産品にしていたものの、石炭の枯渇によってあえなく閉山。それからは村の税収も人口もずっと右肩下がりでした。わずかに特産のブドウが残っていたものの、それでも人口流出は抑えられず……」
「……その通りです。この村は数年前にはすっかり老人だけの村になって、独居老人、老老介護、かさむ社会福祉費などの問題によってお先真っ暗、加えて電気代を抑えるために夜に街灯を落とす始末……その時に現れたのがイエス様です」
「やはりそうですか」
「イエス様は私たちに優しく接してくださって。悩み事や相談事などを一つ一つ聞いてくれました」
「でも、それで献金をたくさんしてますよね? 騙されてるとは思わなかったんですか?」
「そんなこと言わないでください! もう、信じなきゃやってられないんですよ。じゃないと、もうこの村は……」
はじめは憐れみを向けていたはずの村長はすっかり項垂れて、いつしか二人が憐れみを向ける側になっていた。川田はもう一つぐらい質問しておこうと思ったが、それは下田に無言で制止された。

処刑台
「私はこれから、復活の奇跡を見せます」
御留湖田広場には村人が集まり、広場中心の偽イエスを取り囲むように円形に群がっている。偽イエスは簡素な木でできた小さな舞台の上に立っており、後ろには少し大きめの十字架が立っている。偽イエスは白の長い古代ローマ人の服の上に赤い長めの布を肩から斜めにたすき掛けのように掛けている。宗教画などでよく見るキリストの服装そのままであった。その周りに集まる村人たちは、それこそ、キリストが王によって処刑される際の見物人のようだった。
「かつて、私はキリスト教を弾圧する王によって、磔にして殺されてしまいました。しかし、神の子であり主の教えを広める使命を持つ私は、三日後に再び生を受け復活したのです。」
復活の奇跡という事は、ここで一度死ぬ(フリをする)という事である。村人たちは動揺した。
「歪んだ教えでは、その後イエスは亡くなったと伝えられていますが、本当は違います。私は健在で今ここに立っています。少しでも多くの人に教えを広めるために!」
「イエス様~!」
「なんと神々しい……」
「ありがたや、ありがたや」
偽イエスは大一番の前口上ともいわんばかりの説教を解く。その言葉は優しく丁寧な響きであり、油断すれば川田も心を許してしまいそうな独特の心地よいトーンであった。村人たちは偽イエスの言葉に半狂乱的に賛美をつぶやいている。
「では、そうですね……湯田さん。前へ」
「え! お、おらですか?」
偽イエスは集まった村人の中から無造作に一人を呼び出した。
「ええ、あなたです。湯田さん、確かあなたは狩猟免許持ちでしたよね。そこに猟銃があります。それで私を撃ち抜いてください。しっかり狙ってくださいね」
「で、でも。イエス様を撃ち抜くなんて」
「大丈夫ですよ。父なる神の加護の下に、私はまた一度死んで生き返ります。それで、あそこの二人は主の教えを信じることができるのです。信ずるものを増やせるなら、私はこのくらい気にしません」
「……分かりましただ」
湯田は前に歩み出て、舞台の裾においてあったライフルを持ち構えた。銃口の先には偽イエスが真正面を向いて立っている。円のように集まっていた村人はその形を崩し、偽イエスの背後だけ空いたCの形に再形成した。
「ちょっと待ってください! その銃、弾はちゃんと入っているんですよね?」
川田は尋ねた。
「相変わらず、疑り深いですね。湯田さん、では試しにこれを撃ってみてください。」
偽イエスは着ていた赤い布を十字架に垂らし、舞台から降りた。湯田にジェスチャーで撃つように促した。それに応じ、布に10mくらいの近さによって照準を定め、湯田は恐る恐る引き金を引く。
パァン
乾いた音が鳴り、そこにいた人たちは驚いて一瞬目を閉じた。再び目を開いたとき、赤い布には直径4cmほどの穴が開いていた。穴の周りは焼け焦げており、少しだけ煙も立っている。
「……本物でしょう?」
「そのようですね」
川田は答える。銃には仕込みをしていないようだ。
「では、次は私を撃ってください」
湯田は相変わらず恐怖心にとらわれたような動きをしている。当然だ、人を撃つのと布を撃つのはまるで違う。
湯田は偽イエスに照準を構えた。いや、腕は震えている。
「大丈夫です。私を信じて」
偽イエスが優しく言うと、震えは収まった。
「大丈夫です。私は数分もすればすぐ生き返りますから」
数秒の沈黙。川田、下田、村長、湯田、偽イエス、村人たち、全員が広場の中心に視線を注ぐ。信心の眼差しは100近く、疑念の眼差しが2つ。息をのむ音さえ大きく耳に響くような静寂の場に、数秒後銃声が鳴り響いた。
バタッ
偽イエスが倒れた。俯せに倒れた体の下からは血が流れ出し、木の舞台の明るい色を暗い赤色で染める。広場のあちこちから悲鳴が聞こえ始める。
「大丈夫! イエス様も言っておられたでしょう! すぐ生き返ると!」
パニックになりかけたものの、村長の声によってすぐに収まった。
「そ、そうだべさ」
「すぐ生き返るべ」
「んだな……」
村人たちの騒ぎは収まり、じっと偽イエスを眺めていた。教祖が死んだのにこの落ち着き様こそが、偽イエスの人心掌握能力の高さを示しているのだろう。
しかし、イエスは生き返らなかった。
5分、いや、10分はしただろうか。いつまで経っても偽イエスは再び立つことなく俯せに倒れたままである。出血も止まらず、舞台はすっかり血の色に全体が染まってしまった。端からポタポタと血の滴が落ちていく。その滴が落ちる度まだ生き返らないのか、まだ生き返らないのかと川田、下田含めその場にいる全員が思っていた。
「イエス様!」
しびれを切らしたのは湯田だった。銃を地面に落とし、偽イエスに駆け寄る。その倒れた体の表情だけでも見ようとして、偽イエスの腹を持ってひっくり返した。そして、偽イエスの生気のない顔、白目を剥き口をあんぐりと無気力に開いている顔が衆目に晒された。
誰が見ても分かる。死人の顔。ついさっきまで見せていた優しそうな微笑みの笑顔は面影すらなく、ただただ醜く恐ろしい顔が目に映る。
村長は急いで医者を呼び、偽イエスを見せた。診断はすぐに終わる。完全に死亡していた。
「川田、これを見ろ」
下田は茫然としている川田に声をかけ、自身のカント計数機を見せる。
「……っ! はい、えっと、え!?」
「動いたな」
「……はい、0.982Hm、小規模ですが、基準より低いです」
「やはりか。財団の支所に連絡して、警察に偽装した部隊を呼べ」
下田は落ち着いていた。彼は、考えうる結論にたどり着いていたのだ。偽イエスはもう生き返らない。
「どうして……! どうして……!」
結果的に人を撃ち殺してしまった湯田は、泣き崩れている。周りの村人たちも偽イエスが死に、もう生き返らないという事実に少しづつ自覚し始め、絶望の表情を浮かべだす。
まさに、ゴルゴダの丘でイエスが死んだときの日の景色が、現代に蘇っていたのだ。
「悪いな、待たせた」
「大丈夫です」
「帰るぞ」
「え、もう帰っていいんですか?」
「まあ、俺たちは異常発見部門だからな。ここからの処理は後の部隊の奴らに任せる感じだ」
下田はエンジンをかけて、ブレーキハンドルを引く。公民館前の駐車場に止めていたワゴン車は静かに走り始める。
「一応、真相を話しておこう」
走り始めて数分後、村を後ろにして下田は語り始めた。
「湯田に聴取したところ、生き返りマジックはこういうタネだった」
1
実は最初から湯田と偽イエスはグルで、協力していたのさ。まず、銃は本物。これに関しては予め川田が調べるだろうと思って本物にしていたらしい。人を選出するとき、あたかも無造作に湯田を選んだようにしていたのに、銃はわざわざ舞台に置いておいたのは、まあ疑いをそらすミスディレクションだろうな。銃は本物だから、もちろん川田が疑った時も試射することでタネが無いことを示せた。
2
それで、銃を偽イエスに撃った時だが、予め打ち合わせた内容によると、湯田はイエスに「撃つフリ」をするよう頼まれていたらしい。30分の間に用意した血糊と小規模の爆弾、そして舞台に仕込まれたスピーカーを偽イエスが操作することで、あたかも銃声が鳴り、偽イエスが撃たれたように見せかける。これが全部のトリックだ。
「だが、そうはいかなかった。偽イエスは死んだ。検死によると、ライフルの弾が体内から見つかった」
「あるはずのない銃弾が現れたってことですか?」
「端的に言うとそうなる。もちろん現実改変者はあの中には一人もいない。ただ、あの広場はクラスE現実希薄領域だった。」
「クラスE現実性希薄領域……」
「お前も戦術神学部門の出なら知っているだろう。クラスE現実性希薄領域は通常に比べてHm値の少し低い場所だが、これ自体はとても珍しい場所というわけでもない。事実基本的には何も起こらないからな。普通の内部Hm値を持つ人は、何の現実改変も起こせないだろう」
「しかし、集団が同じことを考えれば」
「そうだ。多くの周囲の人が、同じイメージを本心から想像する場合、そして、そのイメージが一つの対象に注がれる場合、現実改変が起こる。今回は全員が『イエスが撃たれて死ぬ』という共通イメージを同時に思い浮かべていたから、それが現実になったわけだ。タネを知っていた湯田はそりゃ動揺しただろうな」
「そんな……」
「まあそれだけ多くの人を深いところまで信じ込ませていたってことだな、偽イエスは。それが原因で本当に自分が死ぬことになるなんて皮肉なもんだ」
「じゃあ、私にも責任がある」
川田の懸念の最大はこれである。確かに川田は偽イエスの詐欺に憤慨し、その詐欺師を成敗しようとしていたが、殺すところまで行くつもりはなかった。しかしながら、川田は偽イエスに挑戦を申し込んで結果として生き返りマジックをやらせることになったのだ。
「もし私が下田さんの言う通り、騙されたふりをして帰っていたら。偽イエスは死ななかった」
ふと、村長の言葉が甦る
—『もう、信じなきゃやってられないんですよ。じゃないと、もうこの村は……』
「そもそも私が偽イエスの正体を暴こうとしなかったら。村人たちは絶望に打ちひしがれることはなかった」
「それは違う、川田」
下田は川田に淡々と話す。それは、川田を悲しませぬよう少しでも感情を刺激しない話し方だった。
「見せかけの希望なんて、現実逃避に他ならない。もし偽イエスをそのままにしていたとして、十分私腹を肥やしたらあいつはいずれあの村から去って、東京のタワマンでも買っていただろうさ。それにだ」
「それに……?」
「確かに生き返りマジックをさせた原因は俺たちかもしれないが、それも大元をたどれば偽イエスの仕業だ。簡単だが、偽イエスの身元を調べてもらった。あいつの名前は吉田竜也。大阪府出身、数年前から行方不明。ちなみに、Facebookでネカマしている」
「それってつまり」
「恥ずかしいが、そういう事だな。偽イエスはFacebookで教授を名乗る俺に近づき、八葉上村の調査に来るよう仕向けた。おそらく、自分の奇跡にケンブリッジ大学のお墨付きを付けて、さらなる集金でも目論んでいたんだろう」
「あはは、下田さんもあっさり騙されてるじゃないですか」
苦笑いをする下田につられ、川田も笑った。
「はっ、まあ結果オーライだ、こうやって無事に帰れたわけだし。宗教っていうのは、いつもいつも厄介なもんだ」
「私は宗教なんか信じませんけどね。私のメンタルを作り話に支えてもらうなんて、リスキー過ぎます」
「さあて本当かな? 追い詰められた人っていうのはあからさまに無理な話にもすがってしまうもんだ。例えば、『一週間で研究成果を上げて見せる!』とか」
「え、なんでその話知ってるんですか!?」
「伝手があるのさ、川田君。これで互いに弱みを握られたな、はっはっは」
一台のワゴン車が、曲がりくねった山道を進んでいく。道の幅が大きくなるにつれ、八葉上村からは遠ざかる。一人の詐欺師によってかき回された山奥の村は、これから長い時間をかけて衰退し、いつか誰からも忘れ去られるだろう。キリスト曰く、「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。」どんな宗教を信じようが、信じまいが、騙そうが、騙されようが、どのみち人は弱いものである。せいぜい人にできるのは、広い道を精一杯堪能することぐらいなのだ。

さらば八葉上村