御先にさよなら、また█う日まで
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何気なく払った指先には、整えたばかりの項がさらさらと引っ掛かりなく通り抜ける感触がした。
櫛を通す際に余計な力を入れてしまったり、乾かし過ぎてしまったりもしたが、鏡を前にしてやっと認識する。
何本もの房を結わえる事が出来ていた髪の長さは、すっきりと切り取られて、揃えられている現状。

財団の中にあてがわれていた部屋の中も、彼女の私物は全てなくなった。
本日、正確には現在から凡そ10時間と57分後に、御先稲荷は外宇宙支部へと赴く事になるからだ。
このサイト-8█8█を出るまでは20分を切っている。間もなく、使いの者が来る。
管理員としての命も解かれ、今更後には退けはしない。必要な物は、彼女と共に送られる手筈である。

トイレの中で鏡と向き合った顔立ちは、他人の目にはどう見えるのかは分からない。いつも通りの顔。
ただ真上をのたうつだけの██な哺乳類に、浮ついてしまっているのか。本当に今の君は、御先稲荷と言えるのか?
問い掛けに対しての明白な答えは、考える事すらしていない。この先、二度と通る事はないのかもしれない、トイレから出ての順路を下る様に。
 
 


 
 
「本当に、宜しかったのですか?」
歩いている途中に言葉を掛けて来たグレースーツの男と、彼女の足元に擦り寄って来た一匹のカワウソ。どちらも見覚えがある姿を前に、御先稲荷は微笑んだ。
Anomalousアイテムの保管に携わっていた2人と1匹がこうして出会ったのならば、最後の、きっと最後の見送りに来てくれたのだろうとは読み取れる
彼の物憂げな表情と、きいきい、と寂し気に鳴いているカワウソの声を気にしなければの話ではあったが。
話の理由も、分かっている。
「ここでは人の移り変わりも珍しくはないでしょう。こうしてお見送りに来てくれただけでも、とっても嬉しいです」
「……その通りではありますが、私も兄達から…ずっと顔を合わせていた貴女が変わった事に、気付かないと思いですか?」

切迫した顔を浮かべながら、神山博士は御先稲荷と視線を合わせた。話さえもがもどかしい時間帯。
今更何も止められはしないと、きっと分かった上で、非合理な意見を投げ掛けに来た。そこまで分かった上で、御先稲荷は肯定する。
制限されているのかもしれない。それ以上に、今更出会ったとして、言葉を酌み交わすとして。
何を持てば「答え」になるのかと言えば、今の今まで何も分からなくなっていたのを包み隠しながら。

「どうか、良き旅を」
寂し気に鳴くカワウソの頭を撫でていた御先が見上げた前で、神山███蔵は何処か嘆いた視線を浮かべている。
答えが返って来なかった事をただ嘆いているのか。これが最期の会話になると職員としての立場から察していたかもしれない。
当然「御先稲荷」はにっこりと笑いながら深く頭を下げた。これが最後だからとカワウソの頭を両手で撫でたばかりか、握手までやった。

彼女が御先であるならば当然そうしただろう。僅かに通路の端から覗く黒髪と、紅色のイヤリングには少しも気付きはしなかった。
それとも、気付かない振りをしたのが、彼女の、御先稲荷としての納得であったのかもしれない。


生体移送用の球体ユニットの中に、既に御先稲荷は「設置」してあった。側面に固定され、頭部には各種計器が装着されている。
酸素マスクを通して続けられる呼吸の音ばかりが意識の中にあり、アイマスクを着けられた視線は見開いても閉じてもただ暗いばかりだ。
僅かに身体を通して伝わる振動と微細な駆動音を他所に、ほんの少し前に説明を受けた外宇宙支部への移送法を思い出す。
「御先稲荷さん。貴女が例え命を失ったとしても、移送は問題無く行われます」

外宇宙への移送に合わせて、生命機能を失う事も何ら珍しくはないのだ、と当たり前の様な口調で語っていた。
故に彼女の傍らに置かれた無機質な装置と頭部に装着した計器を繋ぐ事で、彼女の記憶、精神…意識体を半分程切り取る。
そして外宇宙に辿り着いてから、繕う事で…或いは、肉体再生技術を用いて、物言わなくなった死体と無骨な装置から「御先稲荷」を組み直す。
何も心配は要りません。貴女という存在が外宇宙支部において必要な事柄は確かにこの内側にあるのですから。

言葉の意味は全て理解している。何せそうでなければ、きっと楽しくない。
記憶の複製を行われながら御先稲荷は自己の意識レベルの低下を明確に感じる。落ち込むのではなく、夢の中に上り詰める風味と似ていた。

「良き旅を」

外宇宙移動シーケンスの音は、既に彼女には何も聞こえていない。
聞こえているかどうかは、今更どうでも良い。
次に開いた時には、彼女は既にこの宇宙には居ないのだから。


時間移送の関係で、万年単位での間隔さえも空くかもしれない。
今となっては、ただ彼女が無事に戻って来る事を願うばかりである。
そのぐらいしか出来ない。

自分の中に渦巻いているのがまだどんな感情であるのか。
理解してしまうには、まだ若過ぎる事だけは分かっていた。

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