揺籃外去
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2時間前
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データの流れは常に光速だ。それは呆れるほどに素早い。本当に──人の脳ではとても追い付けないほどに。

光回線の末端を脳に直接埋め込めるようになったとき、人類は初めてその事実を体感した。最初の神経接続インプラントはデータ過剰読み込みへの制御が不安定で、まさに電子レンジみたいなものだった。それも扉がいつ閉まるかわからない──どのタイミングで庫内にマイクロ波が充満し、卵を80℃まで加熱するかは運次第だ。最初の5人の被験者は全員が15ヶ月以内に死んだ。当然だ、人間の脳は1TBのランダムテキストをコンマ2秒以内に並列処理するようにはできていないんだから。とはいえ、10年後には技術の進歩がそれらの困難を克服した。

レディ・プレイヤー1は少しばかり古臭い小説だけど、脳内にインストールされたVRゲームをプレイできる世界に憧れるのは自然なことだった。それで1年間かけて貯めた650ドルを握りしめてインプラント手術を受けに行ったその日、頭のスキャン画像を片手に目の色を変えた白衣の医者たちに腕を掴まれて、自分の人生は変わってしまった。致命的に、異常になってしまった。生まれつき頭の後ろにある小さなコブの中身のことなんて、13歳のガキが気にするだろうか? テレセファロン脳症という病名を教えられたのは、病室に閉じ込められてからだったんだ。

それまで、自分が妙な連中の仲間だなんて考えたこともなかった。テレビの中で演説している変な服装の人間たちはまるで別世界の人間みたいだった。手から炎を出したり、足が機械やラクダだったり、撃たれても生き返るような、コミックの中の存在が現れたんだとばかり思ってた。お隣さんは重度のセミ嫌いで、世界がブッ飛んじまった原因をあれこれ語っていたけど、クライシスの後に生まれた人間にはどうでもいい話だ。いや、どうでもいいと思っていたんだ。自分は普通の、ただの人間だって。

だけど、現実は違った。だから自分は、普通ではいられない。

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データレイヤーへ潜るのはとても簡単で、慣れてしまえば瞬きもせずに完了する。ここには恐ろしく多くの人間と、かなりの数のbotやAI、複合知性、零落した神格、わけのわからない連中がいる。昔から使われていた基礎レイヤー1の多くはマクスウェリスト以外にはちょっときまりの悪い空間で、大陸のプログラマーたちはほどなくデータレイヤーを創り上げた。もっと便利で、危険で、享楽的で、管理されていない電子空間。自分のようなクラッカーにとっての楽園。

データレイヤーでは、全てが情報でできている。人やモノが多い場所、いわゆる盛り場はデータフローが大きく、当然データ読み込みの負担も大きい。素早くアバターを目的地へと向かわせていると、後頭部が僅かに熱を持つのを感じる。仮想空間にあってもこの感覚だけはリアルだ。現実の肉体が持つ原因不明の脳腫瘍は内側に異常な神経結合を作っていて、コンピュータみたいな働き方をする上、成長するとインプラントを入れていなくてもインターネットやレイヤーに勝手に繋がってしまう。この世界を生きていくぶんには多少有利な特徴だが、常にアバターの感覚同期に現実の感覚が干渉する上、脳に直接Wikipediaを回線の許す最高速度で突っ込まれた日には呼吸が止まってしまう。

最も、目の前──会合地点、地上1kmに横たわる仮想の空中海──にアバターを沈ませ、藻掻きながら溺れているクライアントはそれ以前の問題で、そもそもこの世界の疑似感覚と現実の区別がついていないらしいが。


おい、大丈夫か?

あ、ああ、なんとか……


処理能力の許す限り形状への自由アクセスが可能な仮想海は、誰かがプログラムしたきり忘れていったものだろう。コマンド一つで20センチ四方のキューブ状に縮小された。落下してきたクライアントのアバターを、重力加速度の設定を変えて拾い上げる。

面倒なことに、そして予想通りに、今回のクライアントのデータレイヤーへの接続ログは真っ白だった。一度もデータレイヤーに来たことがないのだろう。基礎階層の仮想海で呼吸系を拡張せずに溺れかけた人間は久々に見た。
もちろん、本当に溺れ死ぬわけじゃない。クライアントの腫瘍は未発達で、データレイヤーに繋がるにはリンカー2の補助が必要だ。彼女のそれは堅実で面白みのない初心者向け駆体で、痛覚や過度の快楽への感覚カットと神経信号のバイパス処置が標準装備されている。クライアントがここは呼吸不可能な海水中じゃなく、データフローに囲まれた地上の楽園だと気付くまで取引が遅れるだけの話だが、それは許されることじゃない。

この基底レイヤーにおいて活動しているのは、当然ながら誠実なマクスウェリストだけじゃない。聖職者ですら自衛用のウィルス兵器を携える電子世界では、一秒の取引の遅れだって命取りだ。
クライアントの初期アバターの、目の粗いテクスチャが見て取れるようなごつい六角柱の手を引いて──比喩だ──レイヤーの下層へ潜っていく。きらきらと光る符号都市のネオンサイン、多くの美しいデータに背を向けて、人気のない企業区画の接続ポートを経由して、深く深く。


なあ、本当に今日実行するのか?

当たり前だろ、何のためにここまで来たんだ?

分かってるよ。ただ、ちょっと怖くて。

全く新しい自分になりたいなら、今更躊躇うな。金の準備は? ちゃんと遅効性麻酔を打ったか。帰りの手段は? 財団のクソ医者どもに気付かれてないだろうな。

戸籍用の資金はとっくに振り込んだよ。それ以外も全部、言われた通りにした。なあ、本当に

じゃあ泣き言はオシマイだ。すぐにマトモな肉体が手に入る。

信じていいんだよね

任せとけ。


データになって、深海を探る。


医療ログラインネットワークに接続
.
.
.
接続ステージ:アクセス試行:承認:アクセスを開始:深度VII-ディープダイブ
JOICLE.Co::認証コードを照会しますか? >No


なあ、認証なしのアクセスは違法じゃないのか? さっきから警告表示が止まらない

ここじゃあ誰も、そんなこと気にしない。


推奨されないアクセス


医療ログラインに接続しています:認証拒否:生体シグネチャはフロー状態です

接続確認:インラインアクセス>フロー


相変わらず、企業区画のセキュリティは緩い。データレイヤーのデータ管理の都合上、一定期間アクセス数が少ないデータブロックは都市の外側へと移転され、最終的には廃棄区画に流れ着く。現実の所在の有無とは一切関係なく、ほとんどアクセスされないデータブロックが吹き溜まったこの廃棄区画はあらゆる犯罪の温床だ。接続ポートの最初の認証システムさえ上手く誤魔化せば、好き放題にクラックできる。

データレイヤーに不慣れでヒステリックに騒ぐクライアントを宥めるのは不快だが、ささやかな違法行為の代償として手に入る報酬に比べれば些細な問題だ。今や世界中の医者が難病奇病の新鮮な検体を渇望していて、闇ルートで取引される特殊な臓器には法外な値がつく。手放したがっているものと欲しがっているもの、双方を繋いでやるだけで、莫大な金額を手に入れられる。問題は現実の肉体から臓器を摘出するための手段だが、それも簡単にアテがついた。データレイヤーは需要と供給を一致させるには最高の場所だから、あらゆる医療技術者が手配可能だ。

レイヤーの階層を下るにつれてデータフローの速度が減じていく。データの更新が減れば周辺の知覚が遅れるから、回線速度が遅い場所ではとても慎重にならねばならない。ここから先は真剣勝負だ。やることといったら人に会うだけだが、巡回している企業向けのイントラネット警備botの戦闘力は本物で、もし見つかれば最悪、逆流性アクセスで脊髄をばらばらにされかねない。

超常企業のクラッキング対策が遅れに遅れているこの日本において、大陸系マクスウェリストの宗教家が作り上げた強力な穿孔マルウェアは最強の武器だ。潜入対象の中央サーバーの警戒系は古臭く、迂回するのはとても容易い──けれど、同行者が素人となると別の問題が出てくる。ランダムアクセスによる感染性ノイズを垂れ流す傍迷惑な最新型ウィルスがそこら中のポートに感染していて、クライアントを迂闊に触れさせられない。電子カルテや遠隔手術システムを統合管理する医療ログラインは強固な物理回線で隔離されていて、データレイヤー初心者を事故なく寄生させるにはうってつけだ。

巨大な尖塔のように聳え立つ医療用ログラインは、データレイヤー上では廃棄区画地下6kmの巨大空洞にあり、まるで発射直前の弾道ミサイルみたいにサイロの中に埋め込まれている。サイロ壁面とログラインの隙間に設置された正規のポートは完全に封鎖されていた。多くのクラッカーが挑んだ証拠に、侵入用のウィルスプログラムの欠片が漂っている。バックドアは少し奥、区画管理者や他の挑戦者に気付かれないように壁面の警備bot巡回用ポートに偽装されてまだ残っていた。

バックドア自体の強度はそう高くない。三重に偽装された認識配列が、バックドアポートの仮ID発行機能を稼働させる。案内人である自分とクライアントの2人分、現実時間で150分しか保たない。それで十分だ。顔合わせから手術まで、大抵は2時間で済んでしまう。ごく少数の例外を除き、現代の医療技術において、脳腫瘍なんて大した代物じゃないのだから。切り離された腫瘍を受け取れば、お役御免だ。
クライアントの不安げな表情は、アバターの表現機能が弱いせいで大分コミカルだ。ぶんぶんと腕を振り回すアバターを捕まえて、無理やりバックドアポートに叩き込む。仮IDがアバターに紐付けられ、勢いよくログラインに取り込まれた。

仕事の時間が始まる。


さあ、始めよう。出来の悪い元の肉体なんか捨ててしまえ

1時間後には、普通の世界に帰れるぞ。


それが良いことかは知らないけれど。


—-—
1時間半前
—-—


3日間降り続いた大雨の影響で、首都圏のホロスクリーンサービスは軒並み営業を停止していた。

色鮮やかなホロタグが消えた夜の街は全く殺風景だ──そう思うのは自分がAR3慣れした世代だからで、15歳年上の相棒は黒々とした夜闇をむしろ喜んでいるように見える。

自動運転モードは既に解除されていた。相棒がアクセルを踏み込み、今どき珍しいガソリンエンジンのパトロールカーは唸りを上げて車体を加速させる。
その勢いで助手席から尻がずり落ちかけ、慌ててシートに深々と座り直した。

「先輩、ちょっと吹かしすぎじゃないですか」
「久々の運転なんだ、羽目外したっていいだろ」
「サイレン鳴らしてからにしてくださいッ」
「やべ、忘れてた。頼むわ」

誤魔化すように口笛を吹き始める相棒を横目に睨みつつ、覆面パトカーのダッシュボード脇にあるスイッチを押し込み、そのまま引き下げる。
次いで視界左下の仮想コンソールを視線でトラック4。拡大表示されたコンソールに短いコマンドを打ち込む。

Command: Patrol Lamp > ON


現実の視界に赤色が混じった。回転灯の鮮やかな光とサイレンの耳障りな高音が、午後11時のぬめるような夜闇を切り裂いてゆく。
脇に避けていく先行の乗用車たちは、整然と車間距離を制御する自動運転車と、ふらふらとその列に割り入っていく手動運転車に二分されている。運転席の相棒が面倒臭げに目をすがめた。

小娘こむすめよぉ、これってレイヤー内でも聞こえてるのかね?」
「基礎座標を同期していれば音声付きの緊急車輌タグが見えるはずですよ! 正規のリンカーとOS使ってればですが!」
「じゃあ問題ないな、善良な遵法市民の皆様には私ら特常課5の存在がご理解いただけてるってわけだろ」
「先輩もどうか法定速度を──!」

言いかけた瞬間に車体が再加速した。再開発が間に合わず老朽化著しい首都高速道路を、路面を噛むように内燃機関の轟きが駆ける。
抗議の声はけらけらと楽しげな笑い声に掻き消された。この先輩はいつもこうだ。アナログで懐古趣味で勢い任せ、ガラの悪さは極め付けである。
思わず小さく舌打ちが漏れた。全てを押し潰すエンジン音に安堵したところで、視界の左隅が青白く光る。

着信通知だ。

Command: Calling > Yes


「ご指名ですよ、先輩」
「見ての通り取り込み中だから、お前出てよ」
「嫌ですよ私は。眞城さなぎ監理官、苦手なんです」
「お前それでよく今回の捜査に立候補したよな。データレイヤー内での臓器取引だぞ、上が二の足踏むに決まってるんだから、アイツが出てくるのも分かりきってるだろ」
「なんで私がそんなこと気にしなきゃいけないんです! 大手を振って堂々と、他人の目は気にするなってのがうちの家訓なんですから」
「いいから通話出ろよホラ、キレられる前によ」

着信通知の点滅間隔が狭まっていく。
もう一度小さく舌打ちをして、視線でリンクを起動した。

Privacy-Call_Ijou-Hanzaika#221


Sanagi: ONLINE

Togawa: SUSPEND

Tachibana: ONLINE

Oumi: SUSPEND

Novos_Branch: DISCONNECTED OFFLINE


Sanagi> 騰川とがわ班、現況報告を

Tachibana> 当人運転中ですので、代理でよろしいですか

Sanagi> 構わない

Tachibana> ポイント更新中です


Data_loading……


Sanagi> 確認した 追尾信号と一致したか

Tachibana> データレイヤー内13号廃棄区画 識別子f4R9oSd3からの不正アクセスを追尾中 発信元のログラインはデータレイヤーへの接続ポートを深度IXまで偽装 明らかに異常な電子的封鎖です 電脳犯罪とみて間違いありません

Sanagi> 捜索対象者の安否は?

Tachibana> リンクアドレスの偽装パターンが88%一致しています 被疑者はほぼ間違いなくテレセファロン脳症罹患者です 同行者の安否は不明

Sanagi> 応援を送る 物理座標にて対象を確保 WPhO6との協調はこちらで掌握する

Tachibana> 了解

「なんだって?」
「捜索対象者と侵入先建造物、両方確保していいそうです。これまでの手口からいって、数時間後には被疑者も捜索対象者も雲隠れですから、時間との勝負ですね」
「侵入先、よりによってあのクソマッド連中だろ? 意味が分からねえ。どんなパーティ会場だよ」
「仕方ないですよ、初期ロットの統合遠隔手術システムは国内にあんまり残ってないですから。というかこれくらい、データレイヤーで資料をロードすればすぐ覚えられます。いい加減にインプラントしましょうよ、不便なんですから」
「そのために小娘がいるんでしょうが。私はローテク担当、そっちハイテク」
「また屁理屈をーッ」
「いーからレイヤー潜れ、本庁と連携しろ。馬鹿が捜対の脳味噌引っこ抜いて逃げる前に、尻尾から脊髄までふんづかまえてやれ」

疾走する車内。たぶん自分はたいそう子供っぽい表情をしているはずだ──苛立ちが収まらないことを示す、眉を立てた子供っぽい顔。母親にはよく指摘されるが、直らないものは直らない。
首を傾げる。首筋、脊髄が皮膚のすぐ下を走る場所には、皮膚を覆うように装着された肌色の薄いカバーがある。自分の目では見えないけれどそうなっている。
ともすればブラウスの襟元に隠れ、肌と一体化して見えるその覆いは独りでに開き、精緻な端子の群れが鈍い銀色の牙を剥く。車載リンカーにがっちりと噛み合い、特事部のサーバーを経由した安全な接続を保証してくれる、ありがたい武器だ。
シニヨンに纏めた後ろ髪のほつれた数本を払って、改めて腰をシートに沈めた。

完全フルダイブします。肉体からだの意識落とすんで、事故らないでくださいね」
「安心迅速にお届けしてやる。早く行け」

シートの背もたれからぞろりと這い出したケーブルを首筋に宛てがえば、速やかに先端が沈み込む。
接続の感覚は特になかった。官給品とはいえ、安全対策には十分な資金を払っているのだから当然だ。

「行ってきます」
「頑張れ」

仕事の時間だ。

Link > Start


さあ、始めましょう。


—-—
1時間前
—-—


コマンドを叩く。叩く。叩く。


Error

畜生、なんでだ。仮想の舌打ちが止まない。

もう一度だ。忌々しいエラーシグナルを吐き散らかすタスクを消し飛ばす。次こそは。


Error

アラートが光る。何かがおかしい。

プランは完璧なはずだった。日本生類創研は死に体だ。30年前の一件以来超常社会から総スカンを喰らい、WPhOに技術を搾り取られている。資金繰りに苦慮してそこら中に施設を放棄しているから、ポートに寄生できる闇医者さえ手配すれば遠隔手術設備は使い放題だ。ただ2時間ばかり、そいつを借りられればいいだけだったのに。

もはや顔馴染みとなった闇医者相手のただの取引と、馬鹿げた2つ目の脳の摘出手術だ。それだけのはずだ。だがいつもの取引相手は指定の場所にいない。データレイヤーから出られない。ログラインは石みたいになにもコマンドを返さず、どのポートも妙な形式の指令で閉鎖されていて読み込めない。何かがおかしい。指定の時間を過ぎている。警備botも無反応。


Error

なあ、一体どうしたんだ? 僕が本物の患者だってところを見せてやれば、すぐに手術を始めてくれるんじゃ

何かヤバい。俺が時間を稼ぐから先に逃げ

逃げる? 何を馬鹿な

アンタ、医者じゃないな

弊研究所を舐めていただいては困ります

我々が一時停止させていた設備を勝手に悪用していた方には、然るべき措置を取りました

しかし我々もまた、連合に倣ったただ乱暴な手法よりももっと良いものがあることを理解しています

貴方がたの第2脳はたいへん貴重な生体演算子の実例です。丁度施設まで出向いてくださったのなら何よりだ。積み重なった損害のぶん、身を以て弊研究所に貢献していただきます

なんだクソ離れられない ノードが非開放に なんで

何か入ってくる! なんだこれは 熱い 頭が 熱い 痛

いやだ 嫌 いや

ちくしょう 000 111 000

たすけなきゃ …………

あ……ああ…………

さて、もう一体の検体を回収して

…………?




侵入に成功

捜索対象の民間人を捕捉した! 防衛行動を要請

要請受諾>緊急防衛行動
鎮圧執行モードに移行します

転送を開封

強制アクセス警告


外部からの異常なアクセスを検知:接続経路シャットダウン不可:侵襲性情報
研究所要員の即時退避を推奨します

おっと、いけない!


—-—
30分前
—-—


現場は一見すると小さな廃病院のように見えた。

登記上の異常はすぐに見つかった。事務の人材をケチるとこういうことがよく起きる。いっときは超常社会にその悪名を轟かせた日本生類創研も、奇蹄病事件7以降の猛烈な締め付けの成果もあってか資金繰りに難渋し、近年はこの手のミスが多い。摘発する側としては楽で良いけれど。

この病院のどこかに、少なくとも2人の人間がいるはずだ。捜索対象者と、被疑者。脳腫瘍持ちの患者と、異常臓器を売りさばく電脳犯罪者。
データレイヤー上ではいくらでも追跡不可能な取引ができるとしても、実際に脳抜きをやるときだけは話が別だ。患者を手術して異常臓器を取り出し、輸送するときだけは現実の座標が必要になる。とにかく確保しなければならない。たとえ現場がマッドサイエンティストの箱庭であってもだ。

サーモグラフィーを確認する。建物内部に人影は見当たらない──もちろん、人以外のモノもない。少なくとも、外気温以上の熱を有する存在は。空間異常もなし、Kant-NETs8は無反応。登記上も数年は資産の動きがない。
要するに、廃棄区画。データ上でも、現実でも。

「ならいっか」

呟き、騰川逸美はパトカーの後部座席に赤外線センサーを投げ捨てた。
サイバーグラスからコードを引き抜く。着用型ウェアラブルリンクデバイスは連携赤外線監視モードから通常モードに復帰する。視界補正アプリケーションが立ち上がり、老眼に歪んで焦点のずれた視界を速やかに視力1.5まで修正した。
テクノロジーは便利だ。彼女とて別段、全てを嫌っているわけじゃない。必要があれば躊躇なく使う──ハイテクは現にこうして彼女の視界を支えている。

だけど、それに五感の全てを預ける気にはなれなかった。脳や脊髄に異常由来の人工物を突っ込んで、思考の全てを預けるなんてもってのほかだ。
咽頭マイクのスイッチを入れる。音声認識アプリケーションは速やかに彼女の声を暗号化されたテキストデータに変換し、5G通信の波に乗せて首都の反対側にいる同僚の元に伝達した。


Privacy-Call_Ijou-Hanzaika#221


Sanagi: ONLINE

Togawa: ONLINE

Tachibana: OFFLINE

Oumi: ONLINE

Novos_Branch: ONLINE


Togawa> 現況問題なし、室内に熱源を認めない。捜索対象者、被疑者、共に認めず。どうするの? 生命体EVEを捉えるには少し準備が要る。

Sanagi> 突入準備中 特科のAPSAT92個小隊、強襲医療中隊の配備完了 周辺住人の退避と電子回線のシャットダウンを確認するまで待機せよ

Togawa> 別にいいけど、それに何時間かけるつもりなんだ。

Sanagi> 電子異常課の試算では450秒以内に完了の見込み

Togawa> おい、正気で言ってるか? 立花はもう潜った後なんだぞ。

Oumi> あー失礼 / お取り込み中かと思いますが / よろしいですか

Togawa> 財団から何かあるのかよ。こっちは忙しいんだがな?

Oumi> 立花捜査官と / 我が課のAIC10が / 隠匿されたポートへの侵入に成功

Oumi> 敵対GoIシステムノード警備系と / 交戦状態に入りました

Sanagi> …………… ………… ……………………

Togawa> そりゃ傑作だな、お前らのところのシステムは戦闘許可の有無も判断できねえのか。

Oumi> このような状況下 / AICが上級指令を無視して交戦を開始する条件は / 一つです

Oumi> 急迫不正の侵害事態における / 民間人の救出

Oumi> 正規の下級指令による / 交戦規定の追認が必要です

Sanagi> ………………捜索対象者ならびに捜査員の身体・精神への危険が迫っていると解釈した 突入タイミングを前倒しする 30秒後に突入せよ

Togawa> [識別不能]、面倒な。了解!


マイクを切る。最後の罵倒が拾われていないことを願いたかった。

「この小娘………………!」

睨みつけた先は突入対象の病院ではない。
車両の助手席。深くシートに沈み込んだ、意識のない一回り年下の後輩の無防備な身体。
電子の世界では、騰川は何の役にも立たない。代わりとなる彼女の相棒はあのクソ財団の手駒で、人間ですらないプログラムのかけらだ。特事部オフィスビルの地下に据えられたブラックボックスの中にいる、ひとかたまりの半導体でしかない。
小娘は生っ白い足で無茶をやるから小娘なのだ。普段あれだけ人のことを大雑把なロートルと笑っておいてこのざまだ。

舌打ちを漏らしつつ拳銃を引き抜いた。
APSATを指揮する部隊長はあくまでも特殊部隊の人間である。遺伝子や臓器を好き勝手に弄り回す変態の頭を撃ち抜くのは得意だが、頭を撃ったら死んでくれるのかを判断するのは苦手な連中だ。強襲医療中隊の強襲医たちは異常疾患対応のプロだが、悪意ある異常団体の専門家ではない。
最終的な指揮判断は自分がやらねばならない。本来なら財団の小癪なAICとこちら側で足並みを揃える予定が、小娘が先走ってしまった。

サイバーグラスをデータリンクに接続する。14名のAPSAT隊員と8名の強襲医師との位置同期が確立され、視界にAR表示の建物図面が展開される。財団のAICはメインフレームこそ基底レイヤーへの接続に集中しているものの、サブフレームは敵の警備系の干渉を跳ね除けて騰川と隊員たちの存在をネットワークから隠してくれている。
襲撃の大義名分は明日までに関東保健局と警視庁が用意するだろう。プレスリリースは眞城と財団広報部門の領分だ。仕事を始めよう、現場の警察官にできることはそう多くない。

これより執行を開始する。異常事象発生時においては各自最善の行動の後、本官に最終判断を仰がれたし

突入! 突入!

全部隊、突入せよ!

長靴がアスファルトを叩き、堅い足音が木霊する。
今はただ、無事に夜明けを迎えたかった。


—-—
15分前
—-—


転送を開封

対抗防壁を認識>遷現実性-情報改変
現実人体に対する破壊的改変が想定されます

対改変抗体の展開まで3秒
異常性因子との接触を回避してください

OK、捜索対象の保護は任せた!

了解 防壁を展開します
敵対存在の管理者権限を凍結

貴方を逮捕します、抵抗を止めなさい!

強制アクセス警告


内部からの異常なアクセスを検知:接続経路シャットダウン不可:侵襲性情報
中枢系に対する攻撃的侵食:敵対的電子知能

管理者権限がありません > アクセス不許可

これは厄介ですね

しかし、私とて逮捕されたくはありません

こうしましょう

たすけて 000 111 000

何か出た! botなの!?

もういや 000 111 000

攻撃を検知
感染性アクセス

当該データなし
同化性の新型異常存在です

全ポートにランダムアクセス実行中
暗号化処置>完了 接続をカット

なんでよ
わたしは
けんこう
000 111 000
000 111 000
000 000 101

何これ、偽装パターンがAIじゃない……

人間なの!? でもデータフローに対してこんな書き換え速度を出したらダメ、貴方の脳が耐えられない!

電子生物部門から新しい被験者を預けられた時は困りましたが、これは凄い

私には彼女を救えませんが、貴方がたならばどうでしょう?

そろそろ幕引きですね、それでは


強制アクセス警告


医療ログラインに接続しています:管理者権限を回復:強制解除:接続を放棄

対抗演算:接続を強制解除しました


管理者権限を一時的に回復されました
対象の離脱を確認 追跡シグナル=健在

ちくしょう、逃げられた!

いたいよ
みえない
わたしが
010 111 110
000 100 011
101 001 100

Warning Warning Warning
Warning Warning Warning
Warning Warning Warning
Warning Warning Warning

感染性ノイズ増大
ノード自体を上書きしています
対象は演算速度の制御を放棄

暴走状態です
データレイヤーへの強制アクセスによる自己崩壊の可能性大
撤退を提案します

ダメ、私達は良いけど、この子は逃げられない

うう…………

オペレーター権限で貴方の機能を限定解除する

協定禁則事項です
人工知能部門の運用規則に抵触します
周辺情報インフラへの被害を鑑み

日本生類創研の戦闘員に対する正当な反撃は適用除外条項にあたるわ、限定解除を申請!

……………………

了解


限定解除申請を受理


接続を確立


揺籃機構を装填

Warning Warning Warning Warning
Warning Warning Warning Warning
Warning Warning Warning Warning
Warning Warning Warning Warning
Warning Warning Warning Warning
Warning Warning Warning Warning
Warning Warning Warning Warning

わたし
どこにもいけ
ないの
010 001 111
001 10 0100
111 011 100

いた
びようきを
なおっ
0101 101 000
000 100 0
1111 01 100

もう
いや
おへやがくらいのはこわ
0111
000
111001 010 10 0000000000

00000000000000000000000000000000000000000000000


……………………

現時刻をもって、対象の法的保護を停止

第2次横須賀協定に基づき、財団人工知能部門法定徴募員に対し、対象の終了を要請します

終了要請を受諾


Cradle=Novos.AIC : 指令受領


転送を開封




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ごめんね

おやすみ


00000000000010000000000000000001000000000011

0000000000000000

………………………




水色の光がノードを満たし、全てが終わった。

何もできず、ただ、それを見ていた。

すぐに背を向けて駆け出した。

やるべきことは、もう分かっている。


—-—
5分前
—-—


ひどい有様だが、現状は上出来だ。
少なくとも突入班に損害がなかったことは喜ぶべきだった。

粘液塗れになったジャケットを放り捨てる。
およそシャーレ3つ分の小容量から2トン級にまで膨れ上がる馬鹿げた増殖細胞を防御設備に採用した日本生類創研の担当者は、相当に脳味噌が湧いていたのだろう。

虚空から湧いて出る致死性ウィルス持ちの有角犬やら通過したものを数十倍速に加齢させる通路やら、殺意に溢れたトラップのすべてが、通路から溢れる細胞溶液に飲み込まれた。そして見た目ばかり派手であっさりと消毒薬に屈した増殖細胞が万が一にも漏洩しないよう、WPhOのスタッフは関東保健局と環境省に泣きついた。
教皇庁の焚書官さながらに火炎放射器を携えた増援部隊が全てを焼き尽くす前に、特事部は証拠を回収しなければならない。APSATが家探しを始めたが、未知の致死性トラップを警戒しているせいで探索は遅々として進んでいない。

「騰川警部補、最低限の清掃が完了しました。ここには何もない」
「了解だ。あとは捜索対象者だな」

そうですね、と頷くWPhOの強襲医は、清掃終了の報告を出しておきながら対生物災害用のガスマスクを装着したままだ。
組織色というものはこういうところに出るのだと心中で苦笑する。

「財団施設から脱走した要治療対象──放っておくと脳腫瘍が勝手にノードになって際限なくデータレイヤーを侵食するって話だが、現場の見解は?」
「政治家さん方の大袈裟な話法、ってところでしょうか」
「つまり極端な例だが可能性としては有り得る程度、と」
「6年前に終末期患者が接続発作で自分ごとメルボルン市のマスターサーバーを吹き飛ばしたので、話に尾ひれがついたんです。ほとんどの患者は自力ではノーマルネットにも接続できません。適切なホルモン治療と抗癌剤による縮小化療法、切除術で10年かければ治る、そういうものです」
「…………じゃあこいつは要らん手間ってことだ」

ゴム手袋を嵌めた手が手術台に触れる。偽装された廃病院の中央区画、ここだけは綺麗に掃除され防御システムが存在しない。完全自動化された遠隔制御の手術ユニットには、誇らしげにプロメテウス・メディカルのロゴが印字されている。当然のように製造番号が削り取られた闇製品である。超常大企業につきものの闇流通、自身にも制御しきれない暗黒面だ。

「安易な切除術では後遺症が残りますし、腫瘍が再発しやすい。切除対象の第2脳が宿主の意に反して現実改変や魔術を行使した例もあります。無許可の医療行為である以上当然ですが、あまりにも危険だ」
「その程度、患者は入念に事前説明を受けてるはずだ。それらの危険を冒してでも財団から逃げ出したかったと」
「…………現時点では、結論は出せません」

呻くように語る強襲医も、それが逃げ口上だとは分かっているのだろう。
財団医療サイトで続発する医療事故への予備調査、それが今回の合同捜査の裏の目的だ。現場の体制を怪しみつつも正式な監査の一歩を踏み出せずにいるからこそ、財団から正規ルートで提出された脱走患者の捜索願にWPhOが反応し、合同捜査を申し出た。本来なら強襲医が8人も投入されるような重要事案ではあり得ないのに。

「なんでもいいさ、不正はいずれボロを出す。私らは仕事をやるだけだ」

手術ユニットの周囲を巡る。その滑らかなボディ、天井から降りてきている複数のアーム、今にも手術が始まりそうな具合に滅菌されたベッド、がっちりと床に嵌め込まれた基台、給電ユニット。

「なあ、この部屋は全部捜したんだって?」
「患者がまだバラバラになっていなければ、この部屋にはいないはずです」
「地下は見たのかよ、ここの手術台の基部とその周辺。電気系統とログライン用の物理回線の接続部」
「あ、」

しまった、という顔をした医師が慌てて同僚を呼びつける。
暫くして、完全防護のマスク姿で手術台の基部を外した部隊員が、その下に空間を発見した。
手術用の麻酔が回ったのか、それとも電子戦の余波を受けたのか。意識を朦朧とさせている病院着のままの少女が、脊髄のポートに長いケーブルを突っ込んで横たわっている。

「捜索対象者、確保」

床下に仕込まれた断熱材がサーモを防いでみせたのだろうか。
少女の頭部を確認した強襲医がハンドサインを送る。手術前──第2脳は無事だ。
なんにせよこれで一安心、と言おうとして気付く。

ケーブルは1本。
だが、床下の埃を踏んだ足跡は──明らかに直近のものが2組。
犯人が突入してきた部隊に気付き、慌てて患者を置いて逃げた。そう考えるのが自然な流れだ。
それを許すような希薄な関係性ならば──しかし、事前調査において捜査線上に浮かんできた人物は、ある種の哲学を有していた。
それは同じ病に侵された同胞に対する仲間意識。自分が脱走させた患者への思い入れ。

彼女を見捨てて、一人で逃げるか?
逃げないとしたら、一帯を封鎖され逃げ場がない中で、何をする?

「────────!?」

後輩の言葉を思い出す。
意識をレイヤーに落とし、車の中に一人。現実で何があろうと、咄嗟の抵抗はできない。周辺は封鎖され、部隊に見張られている。安全なはずだ、しかし──

立花?

応答しろ、してくれ


クソが

「騰川警部補、別働隊から電脳死フラットラインした闇医者らしき人物の情報が──」
「悪いな、後で聞く!」

叫び、騰川は駆け出した。
相棒を喪う苦しみは、もう二度と味わいたくはなかった。


—-—
現在
—-—


…………

ねえ、いるんでしょ?

ノヴォスちゃんはいないから、出てきなさいな


いつから気付いてた?

もちろん、最初から

貴方の素性もやっていることも、特事部は把握しています

財団の医療サイトから脳症罹患者を逃がして、闇ルートで治療している脱走患者がいるってね


……………

あそこはおかしいんだ、81Q5

患者で人体実験して、ものすごい数が死んでる

俺はあそこには戻らない
お前を殺してでも財団から逃げないと

俺は今、お前の車の隣にいるんだ
いつでもお前の身体を殺せる
人質なんだよ

だから、あいつを返してくれ

大丈夫、戻らなくていい

彼女も財団には引き渡さない

何? お前ら、財団の手先なんじゃ

私たちは財団でも、連合でもない

そうでしょ、Dr.ブース?

その通り
君には、世界超保健機構の証人となってもらう

確保した彼女も、同様に証人だ
君たちの身の安全と、将来的な治療を約束する

財団の不正が真実であるなら、証拠が要る
悪い取引ではないと思うが、どうだろう

……………………………

潮時だろうなと、そう思った。

封鎖され、人通りの途絶えた住宅街。
病院ビルの脇に停車したパトカーの脇で立ち尽くし、自身に向けられた銃口を幻視する。

「随分鋭いんだな、超保健機構ってのは」
「医師であり、異常に対処する責務がある。相応の訓練を積んでいるのさ」

手を上げろ、という声は後ろから聞こえた。

矢継ぎ早の指示に大人しく従う。
振り返らず、ゆっくりと拳銃を足元に置き、空になった手をまた上げ、そのまま3歩下がり、膝立ちになって、両手を頭の後ろで組んで──

「要救助者を確保」
『確保了解』

アスファルトに素早く身体を押し付けられると同時、拳銃が遠くに蹴り飛ばされる。
流れるようにこちらを制圧した精悍な男は、特殊部隊によくある目立たないタクティカルギアの上から真っ白なコートを羽織っていた。
医者の白衣のようにも見えるコートの胸元と肩口には、5大陸を背景にして杖に絡み付く2匹の蛇の意匠が、UNブルーに染め抜かれて誇らしげに掲げられている。
世界超保健機構、強襲医療部隊。
異常疾患の蔓延に対処する、メスの代わりに銃を掲げた医師。

「私はブース、強襲医師だ。君も彼女も助けたい。財団が患者に不正義を成すなら正したい。そのために協力してほしい」
「こうやって路面に叩きつけるのが協力か?」
「誰かの命を奪おうとしているなら、まずそれを止めるところからだ。立花捜査官は君の味方だよ」

それより、という言葉とともに拘束が解かれた。
同時に首元を撫で回される。彫りの深い顔立ちを心配そうに歪める男は、兵士というよりもまさしく医者に見えた。

「君、JOICLEの連中の電子攻撃に晒されたんだろう? 症例は幾つか報告されているが、インプラントチップを異常暴走させて熱で神経を焼く凶悪な代物だ。既に犠牲者が出ているらしい、すぐに検査を受けてリンカーを取り出さなければ命に関わる」
「ああ、それなら大丈夫だ。俺はそういうのには人一倍頑丈だから」
「そういった問題ではない! 君はテレセファロン脳症を除いてはごく一般的な人間だったはず」
「いや、そうじゃなくて」

目深に被っていたフードを脱ぎ、後頭部を指し示す。恐る恐ると覗き込んだブースは目を丸くしているのだろう。呻くように息を吐いた。
彼の目には奇妙な状況が映っているはずだ…………テレセファロン脳症に特有の盛り上がった後頭部──頭蓋骨が変形した瘤が開き、複雑にせり出した中の組織が青く光るのが見えているはずだ。

「俺はテレセファロン脳症患者の第1世代だ。脱走した時点で、腫瘍は深度VIIまで行ってた」
「…………驚いたな、ここまで長いこと生存している患者は見たことがない。脳組織が外気に露出し、シンク構造を作っている。空気冷却をしているのか」

本当に感心しているのだろう。深い溜め息が硬化した脳のひだをくすぐって、少しこそばゆい。

「俺は2つの脳を持ってる。生の脳と、リンカー要らずになっちまったクソッタレの第2脳。昔はチップを使ってたが、膨れ上がる脳に埋もれてしまった」
「そもそもチップを使っていなかったわけか。脳を焼かれずに済んで何よりだ──だがダメージは確実にある、検査を受けてもらうぞ」

さあ、と腕を掴まれる。身体を起こされたとき、パトカーの助手席が目に入った。
首元のコネクターを片手で外し、ゆるりと上体を起こした女性捜査官。立花と呼ばれていた女と、窓のガラス越しに視線が合う。

市民の安全な暮らしを守るのが私たちの仕事

貴方だって、その輪の中に入ってる

13歳のとき、財団に収容されてから──ずっと、疎外されて生きてきた。
自分が異常であることを思い知らされ、社会の異物であると刷り込まれた。
脱走して自由の身となってからも、より強い異物になっただけ。
けれど今日、警察官と医者に助けられた、のかもしれない。

貴方のことも、私が守る

立花の朗らかな笑みが、奇妙に印象に残った。
とても──とても、輝いて見えた。

後頭部を掻いて、ブースに促されるまま立花に背を向ける。
封鎖線の向こうで待っている救急車──その前で、クライアントの少女が手を振っていた。
どうやら彼女も、無事に助け出されたらしい。

………………

ありがとう

現実の夜が明けるまで、もう少し。
世の中はどうやら、少しだけ優しくなったようだった。



2039.png



—-—
数分後
—-—


貴方のことも私が守る、だと? 好き勝手に言ってくれやがって

独断専行の挙句上司に何の許可もなく勝手に交渉を纏めやがったなこのクソ馬鹿娘が

怖い怖い母親殿に今回の顛末を言いつけてやろうか、ええ!?

母は関係ないでしょう、財団は敵じゃなかったんですか?!

相棒の身内は家族だから例外だ、馬鹿め!

解析不要な会話と判断
ログ蓄積>完了 スリープモード……

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