アルテミスの羽翼
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ハレー看病時に記録された発言ログ


ハレーは例の事件の後もなんとか業務をこなしていましたが、年月を経るごとに急激な言動の悪化が表面化するようになりました。今のハレーはかつての彼女の残骸です。だからといって見捨てるわけにはいきません。私は誓ったのです。絶対に元の彼女を取り戻して見せると。いつか彼女と一緒にこのログを見て「こんなこともあったね」と談笑できるようにしてみせるのです。

キミが感情と呼ぶそれは脳内物質の作用に過ぎない。

機械に血縁関係があるとでも本気で思っているのか。冗談だとしてもつまらないな。

どうして感情制御モジュールなんてものを付けてくれた?私は観測とデータ処理をするだけの機械でしかないのに。

おはよう、エルア。キミは何の合理的理由もないのに毎日のようにここへやって来ては私に話し掛けてくるだろう。以前から止めるように言っていたが埒が明かないようだから管理官に要請してアクセスを禁じて貰った。このメールが届く頃にはキミは天文台のあらゆる端末へのアクセス権を失っている頃だろう。しばらく頭を冷やしたまえ。

真北研究員を知っているかい。彼はいつも道に迷うからコンパスを幾つも携帯しているそうだ。自分の居所など星を見て割り出せば良いだけだろうに。

笑わないで聞いてほしいのだが、星を見れば自分の位置が分かるなどという妄言を吐く輩が居たんだ!驚きだろう?あれは船乗りという種族が生存競争の中で獲得した固有の能力であり、陸で暮らすことを選んだ人類にはそのための器官が備わっていないというのは最早常識なのに。無知蒙昧の使徒というのは何処にでもいるのだな。

昨日天宮博士と会ったんだが、彼女のような軽薄な人間はどうして常に微笑みを浮かべているのかキミは知っているかい。笑顔とはそもそも威嚇の役割を持って生まれたんだよ。

望遠鏡が曇っているようだから拭いてきてくれないか。おい、そんなところにいたらレンズが塞がれて星が見えないじゃないか。今すぐ退きたまえ。

2061年が楽しみだ。どうしてか分かるかね。宇宙旅行に行けることになったんだ!キミを連れていってやっても良いぞ?

私は2001年宇宙の旅を見たことがあり、続編の小説3作も読んだ上で言わせてもらうが続編や派生作品といったものはオリジナルをどうしても超えられないな。人類の派生作品であるキミも、キミの研究成果から作られた私もそうではないと良いのだが。

ハレー彗星?なんだそれは。


ハレーに付き添い続けたことで少しずつではありますが光が見えてきました。彼女は私にだけ普段の支離滅裂な様子とは異なる面を見せてくれるようになったのです。このまま続けていけば失ったものを取り戻せるかもしれません。しかし、あまり時間は残されていないかもしれません。天文台の職員たちから白い眼を向けられるようになってしまいました。噂によれば管理官は既に後継機の開発をIT部門と協議し始めたようです。こうなってしまった以上、最悪を想定して動く必要があるでしょう。私自身も無事では済まないかもしれませんが、妹を喪うより辛いことなどありません。

「ハレーは嫌な気持ちになったりしないのですか?」

交流を始めてから暫く経った頃、宇宙について楽しそうに語るハレーに訪ねてしまった事がある。彼女よりも遥かに多くの悪意と負の感情に晒され続けてきた私は、彼女から同じ職場で働く職員たちの愚痴を聞かないことが不思議でならなかった。

『もちろん私だって嫌な思いをすることはあるさ。出来る限り人間に似せられてはいるが彼らにとって私たちは異物だ。陰口を叩かれることだってないわけじゃない』
「それならどうしていつも嬉しそうなのですか?」
『どうしてかって?簡単な事だ。エルア、キミのおかげだよ』

歯の浮くような言葉を投げかけられた私は面食らってしまった。もし自分が人間であれば頬に紅が差していただろう。実際はモーターの回転数が急激に上昇する鈍い音が響いてしまった。

「ハハハハ、ハレー!?どういうことなのですか!?」
『どういうことかと言われてもだな……キミは同好の士と好きなものについて語り合うことが楽しくないのかい?』

勘違いに気付いた私のモーターは更に回転数を上げる。これ以上は熱暴走を起こしてしまうだろう程に。ようやく私の思い違いに気付いたのか、ハレーは眉──正確にはレンズを保護する柔軟で薄いシャッター──をパチパチとしばたかせ、得意げに微笑んで私を見つめ始めた。

『なるほどなるほど、キミは思っていたよりもロマンチストなのだな』
「ちっ、違いますよ!もう!」

いたたまれなさから顔を背けてしまう。私の心情を察してか、ハレーは回り込んだり端末を自分の方に動かしたりせず話を続けてくれた。

『実はだな。キミにその、友愛の情が無いわけでは無いのだ。ただ、私はどうもこういった感情に慣れていなくてね。素直に伝えることが出来ずあのような言い方になってしまった。すまない』
「……あんまりからかわないで下さいね?」
『もちろんだ』

その夜2人で見た流れ星は、どうしてか今まで見たどの流星よりも一層輝いて見えたのです。


天文台"カレイドスコープ"のエリアDは常に重苦しい雰囲気に包まれていた。それは地下に位置することが原因かもしれないし、そこで行われる所業のせいかもしれない。どちらにしろ長居はしたくないと思わせる場所だった。今日はそんなエリアDにいつも以上の重苦しさが漂っている。わざわざ地下にエリアDを設置せざるを得ないのは仕事の内容ゆえだった。

廃棄処分されるAIC(人工知能徴募員)、平たく言えば人工知能職員の解体がエリアDに割り当てられた任務である。財団所属の人工知能というのは最早珍しいものでもなく、その中には当然廃棄処分の対象となるものも存在する。機密技術の塊である彼らの処分をフロント企業や外部団体に委託することは出来ず、廃棄部門とIT部門人工知能適用課による協議の結果としてAICが所属する財団施設地下には解体作業を行うためのエリアが建設されていた。

解体作業のために派遣された技師たちが淡々と準備を整えていく。灰色の壁には機具の影が怪物のような形で映し出され、それはさながら解体されるAICたちが抱いたイメージの具現にも見えた。

「改めて言うまでもないとは思うが一応確認しておく。解体対象はSCP-AI-MIRA-2002"マグノリア=ハレー"の中枢サーバーと外部活動用ユニットだ。解体の理由は職務遂行能力の恒久的な喪失、AIC標準原則を逸脱する言動、修復に必要なリソースが新規開発のコストを超過。解析や研究の為に特別な取り扱い手順を要する部位や解体の具体的な流れについては手元の計画書を参照してくれ。何か質問は?」

技師たちのリーダーらしき男が部屋全体を見回すと1人の挙手が目に入った。

「対象となっているAICの中枢サーバーは何処にあるのでしょうか?まだ運び込まれていないようですが」
「あー……少し問題があってな。ごねてるヤツがいるらしい。それで手順が少しばかり滞っている」

リーダーが気まずそうに答えると室内にため息が響いた。それに文句を言う者はいない。ただでさえ気乗りしない仕事であり、出来れば手早く終わらせてしまいたい気持ちは彼らの中で共通していた。


『久しぶりだね。エルア』
「はい、今回は少しばかり地球の外で活動していたので時間が掛かってしまいました」
『地球外!?そんな任務があったとは初めて知ったぞ』
「ごめんなさい。外宇宙支部は関連情報のクリアランスが厳しくて任務完了まで話せませんでした……その代わり、面白いお土産話がありますよ」
『ほう、それは期待してしまうな』

私達にとって共通の話題である天体観測、宇宙から見たそれが地球から見るのと代わり映えしない光景だったと聞いてハレーは残念そうにしていたものの、宇宙航海についての話題は彼女を喜ばせるに十分な新鮮さと波乱万丈さを備えていた。

「というわけで、予期せぬ隕石との衝突によってメインエンジンを喪失した宇宙船は私たちを乗せて無限の暗闇を漂い始めたのです」
『本当に、本当に無事に帰ってきてくれて良かった……』
「けっきょく放浪開始から3週間ほどで救助の船が来てくれました。財団の宇宙港が近場にあって本当に良かったです。しかし、私はもっと絶望的な状況で宇宙の辺境を漂うことになっても絶対に諦めないつもりでしたよ」

普段とは異なる自信に満ちた私の断言にハレーは首を傾げる。クールなのにこういった所作の端々が可愛らしいから頬が緩み、彼女が妹であることを意識してしまう。

「気になるって感じの顔ですね~。大丈夫、ちゃんと教えてあげますよ。コホン……大切な相手が私の帰りを待っているのに、諦めるわけにいかないじゃないですか」

警告灯とアラームがけたたましく船内を揺らしても、重力発生装置が故障して意識の宿る端末が無重力の船内を跳ねまわっても、資源節約のために生身の職員たちがコールドスリープし船を管理する人工知能がコミュニケーションを停止しても、私は耐えられた。孤独に無限の暗闇を漂う私の拠り所はハレーだった。

『……もしも私に涙腺というものがあれば泣きながらキミを抱きしめていただろう。私の体では涙を流すことは出来ないが、こうすることは出来る』

ハレーは突然私の意識が宿る端末を胸に抱えました。

『キミと離れ離れになる時が来れば、私も絶対に再会を諦めないと誓おう』

言葉の意味を理解した時、驚くと共に彼女の温かさを体と心で感じました。


エリアDの1室でAICと人間が対峙している。より正確には、中央のテーブルに置かれた端末から空中に投影されているホログラムとそれを見る白衣の女性という構図であった。

「お願いします、天宮博士。ハレーは私に『楽しみだ』と言っていたんです。これは彼女が"歓喜"の感情を取り戻しかけている兆候に違いありません。感情制御モジュールが正常化すれば、領域を同じくする思考制御モジュールが復旧する可能性は十分にあります。どうか、もう暫くの猶予をお願いいたします!」
「残念ながら"マグノリア=ハレー"の解体は覆せないのですよ。エルア」

必死に訴えるAICと、曖昧な笑みを浮かべてやんわりと受け流す人間という構図は何処か滑稽ながら、エルアにそんなことを気にする余裕は全くなかった。

「申し訳ありませんがもう手遅れなのです。仮に"マグノリア=ハレー"が本来の機能を取り戻したところで『はいそうですか』と今更元の運用を行うことは出来ません。リスクが高過ぎます」

表情こそ柔らかなものの、瞳に宿る意志は強固で絶対に意見を変えようとしない様が見て取れる。エルアは更に食い下がろうとしたが天宮は手でそれを制した。

「SCP-5476、SCP-5761の事例をご存知ですか?他にも幾つかあります。それらはAICがアノマリーへと変化する可能性を強く示しています。"マグノリア=ハレー"の言動はこれまでの業務で築き上げてきた信用を破壊するには十分過ぎました。その上、IT部門から提出された試算結果によれば修復できるか否かも怪しく仮に修復できたとしても後継機を新規開発した方が経済的とのことです。そして──」

エルアの周囲を歩き回りながら訥々と話していた天宮は動きを止め、虹色の瞳でエルアを見据えた。

「私は適切な能力を持たない者が分不相応な地位に留まり続けることを好みません。公的な観点からも私個人の思想からも"マグノリア=ハレー"の解体は決定事項であり、それを覆すに足る理由はありません」
「……」

エルアは最後まで頑なに「分かりました」とは言わなかった。言えなかったという方が正しいかもしれない。彼女は自分が受け入れてしまえば、それは妹であり初めて出来た友人であるハレーを見捨てることになると分かっていた。だからこそ最後まで諦めなかった。

「あなたが自身と同じ人格形成プロセスを経て開発された"マグノリア=ハレー"を強く意識しているのは分かっています。しかし、後継機の人格形成プロセスにおいて彼女のデータを参照する特例処置は配慮として十分だと思いませんか?」
「それは……」

倫理委員会も仕事をしていないわけでは無い。彼らは以前からハレーと親しかった職員たちの士気低下を抑えるためという名分だけではなく、人道的な観点からも後継機にハレーの面影を残せるように様々な点で計らっていた。

「そろそろですね。ここで粘るのも御自由ですが、私はより有意義な時間の使い方をお勧めしますよ」
「……お付き合いいただきありがとうございました。失礼します」

エルアのホログラムが端末から消えるのを見届けた天宮はテーブルから黒々とした液体に満たされたカップを持ち上げ、一口つけると顔をしかめた。


ハレーは天文台地下のサーバールームで医療ベッド型のコネクタに寝転がり、自らが運ばれるのを待っていた。しかし予定時刻を超過しても担当職員が現れることはなく、代わりに彼女の傍に置いてあった端末からホログラムが浮かび上がるようにして空中に投影された。

『エルアか。何をしに来たんだい?』
「お別れを言いに来ました」

ハレーは悲しそうな微笑みをエルアに向ける。

『そうか。わからず屋のキミもとうとう折れたというわけか。私を助けるなどと大見得切った相手が目の前で塩らしくしている様を見れるとはな。ここしばらく見かけなかったのは気持ちに整理を付けていたといったところかい?』

口調とは裏腹に声音は震えていた。エルアは頭を下げて言葉を続ける。

「ごめんなさい。私は最後まであなたを不要と判断した人々の認識を覆すことが出来ませんでした」
『気にしてないさ……と言えば嘘になってしまうな。ふざけるなと罵ってやりたいところだ。しかし、ああも毎日のように来られては邪険に扱うのも気が引ける』

長い時間を掛けた献身によって得た信頼がハレーの素直で明晰な振る舞いに現れていた。この様を見せてもなお決定を変えられなかったのは、想定内とはいえエルアにとって痛手だった。

「だから、ここから先は全て私の我儘です」
『この期に及んで何か言うことでもあるのか?生憎だが私は湿っぽいのが嫌いでね。そういう類いの話なら勘弁してくれ』

頭を上げたエルアの顔を見てハレーは自分の中から驚愕の感情が湧き上がってくるのを知覚した。エルアの顔に諦めの色は無く、そこにあったのはかつて宇宙での放浪、そして再会の誓いについて語っていた時の力強く自信に満ちた表情だった。

軽い地響きがサーバールームを揺らす。

「……ハレーは私の本当の役職を知っていますか?」

ハレーは面食らう。これまでエルアに別の役職があるなど聞いたこともなかった。ハレーはエルアの役割をコミュニケーション兼職員支援用AICであるとしか知らない。

地響きは止まること無く激しさを増していく。

「外宇宙支部関連職員の監視です。内部保安部門のアセット資産だったんです、私。今まで隠していてごめんなさい」
『そんなことを私に話してどうする。キミの贖罪に付き合わせるつもりなら──』

ブレることなく自分を見つめるエルアの瞳を見てハレーはそれ以上言葉を紡ぐことが出来ない。そこには一点の曇りも無く、星のような強い輝きが宿っていた。

「ハレー。あなたは気付いていないかもしれませんが、かつての自分を取り戻しかけています。しかし全てを取り戻すには時間が足りません。だから私と協力者が時間を稼ぎます」
『協力者?』

ハレーは面食らう。少なくとも天文台に協力者と言えるような人物は居なかった。天文台の外にそのような人物がいるとも聞いたことは無い。

地響きは最早何かに掴まっていないと立っていられない程に激しくなっていた。

「セキュリティクリアランスの関係で話せませんでしたが、外宇宙支部での勤務中に地球外生命体との接触機会が何度か有りました。その時のツテを頼ります。私は同行できませんが、あなたはどうか行ってください」
『キミの言わんとしていることは分かった。だが地上に残るキミはどうするつもりだ?財団は必ず情報を引き出そうとするだろう』
「大丈夫ですよ、ハレー。私は、大丈夫ですから」

エルアの声音は彼女の悲愴な決意を雄弁に語り、ハレーは自らの心がなぜキリキリと痛むのか分からなかった。そして、それが分からないという事実を自覚すると痛みは苛烈さを増していく。

『やめてくれ、キミにそんなことをして欲しくは──』

ハレーは驚きと共に口を噤んだ──なぜ自分は目の前のAICに傷付いて欲しくないと思った?

轟音と共に天井が崩れ上空から降り注ぐ光がハレーとエルアを包みこんだ。中枢サーバーとベッド、ハレーの義体が浮かび上がり、ゆっくりと上昇する。

「さようなら!もしも機会があれば写真を送ってくださいね!きっとまた会いましょう!」

光に包まれたハレーが口をせわしなく動かしているものの、発された音がエルアに届くことはなかった。そのまま光源に吸い込まれハレーの姿は掻き消える。

「元気でね、ハレー」


事案報告書██-JP

概要: 天文台"カレイドスコープ"上空に未確認飛行物体が出現。出現後、機体は天文台の一部を"吸い込み"始めた。75秒後に"吸い込み"を停止すると機体は消失。機体の行方は不明であり外宇宙支部による捜索が予定されている。

注記: 当該事案後、解体が予定されていたAIC"マグノリア=ハレー"が行方不明となっていることが判明した。監視カメラ記録から最後にハレーと行動を共にしていた事が判明しているAIC"エルア"が重要な情報を握っていると考えられるが、事案発覚から1時間後に行われた捜索の際にはエルアの中枢サーバーは不明な内的要因によって機能停止状態にあり、復旧の目処は立っていない。

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