オーバードライブは未明に歪む
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『俺はお前を、世界を呑み込む!叫びし第九の悪魔の王PAYMONよ、今や全ては俺の糧だ』

ウェンブリー・アリーナの特設ステージに張り巡らされた白銀色のフレームは、剥き出しの生命の象徴たる赤黒いブヨブヨの物体に覆い尽くされている。肉の塊からは整然と並んだ乳白の骨が突き出し、その間には緊張する腱が渡され、それらは尖爪に覆われた骨の腕によって弾かれ、歪んだビープ音のようなけたたましい波形を放出する。より観客席に近い方向には数個の丸い陥没を有する組織塊が無造作に広げられ、陥没を覆う薄い膜には太い円筒状の骨によってBPM 160の8ビートが正確に刻みこまれ、はち切れんばかりに震え出す。

『そして、ラクダのヒトコブは木星へと中指を立てる』

会場の上にある機械と呼べる物体は、ちっぽけなアンプ4台のみ。それらも血と組織を纏い、本来の大きさが外からわからない程に肥大化している。ステージの全域を覆う不定形で流動的な楽器たちが奏でる音を集約し、一般の聴衆にも余すことなく届けるための変化だ。

『O〜o〜o〜o〜ooo〜』
『Dudu, Da, Da, Da, Da, Da, Du'du, Da, Da, Da, Da, Da, Da』

そして最も特筆すべき音源、それはステージの隅々にまで広く散りばめられた、有機的なヒトの口を象る器官の束である。外からでは唇と舌までしか見えないが、それらの中には一つ残らず声帯と咽喉とが形作られ、ステージに相対する者たちに、何層にも重なるボイス・パーカッションとして届けられる。擬似的な口の群れはステージ両側から1対の翼状の器官へと徐々に収束していき、その中央に立つのは、白黒に染め分けた髪に真紅の血糊を迸らせた若い男。

『ありきたりの神に唾を吐く、対極むかい宇宙そらには新たな世界が…俺を待ってる』

そう、夥しい肉塊に埋まるこのステージで繰り広げられているのは、新人気鋭のネオ-サーカイトらによって綿密に構築された、新たなロック・ミュージックの花形なのだ。ウェンブリー会場で「インバース・ゼノ」が最初に演奏したのは、バンドを代表する定番のキラーチューン、"PAYMON"のフルコーラスVerであった。ボーカルとコーラスとボイスパーカッションを全て一手に引き受けたバンドの代表者が、人肌以上の熱気に包まれた聴衆たちへと一歩進み出て、自分自身の顔についた1つだけの口を開き、スタンドマイクへと近づけた。

『このライブホールで口聞いていい奴はただ一人!エドワード・スティードマン、この俺だ。口数なら聴衆全員束になってかかってきても負けねえぜ』

 
 
 

時は2028年5月、エドワード・スティードマンは他のメンバーを置いて一人だけで本国からスペインへと跳躍路を渡り、バルセロナの街並みをぶらついていた。主目的は息子と別々に世界を飛び回っている歴史学者の父親に会いにいくことだったが、それが済んでしまった現在の彼は目下ノープランであった。

『スペインのカワウソの連中の耳には、俺のサウンドはどう響いてるのかね。確かめてみねえとな』

エドは父親譲りのナルキズム信仰者であり、他のバンドメンバーも全員そうであった。それゆえ、彼の人生の宗教上の目標の第一は自分自身が神のごとき魔力と権力を獲得することにあり、そのための己の様々な力の研鑽と養成を欠かさないのだ。注意すべきなのは、彼(および彼ら)に一般的な意味での連帯感や他者への献身の概念は持ち合わされていないことだ。なので、通りの反対側を私事で歩いているカワウソの見た目をした数人の存在に対し、エドがおもむろに己の一種冒涜的な外観を持つ翼を広げてみせようとすることは、彼にとっては別に恥ずべきでも咎められるべき行為でもなかった。

「うわぁ!後生だから食うのはやめてくれ!食われるならせめて化け物じゃなく神様にしてくれ」
『おい待てよ、俺はただ声を聞いて欲しいだけなんだが。それに俺だってそのうち神になるぞ』

冗談めいたやりとりも甲斐なく、ターゲットは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。本場イギリスでなら、エドのこのような奇行はロックスターの微笑ましい茶目っ気として好意的に捉えられることもあるのだが、生憎スペインでは誰もが彼を知っているわけではない。それに加えて、ヌートリアたちの大元は神格によって摂食されるために姿を組み替えられた人間だ、という歴史的背景が重なったのが運の尽きであった。

『ったく、俺は後学のために試してみたかっただけなのによ。ま、試すまでもなくヒトと変わんねえのかもしれんが』

少々気分を害したエドが通りの正面へと視線を戻すと、手前に向けて走ってくる一人の男が目に留まった。こちらは先ほどとは違いヒトの外見、この国でヒュマノと呼ばれるものだ。ヌートリアの興りから十数年が経った今では、スペインではヌートリアとヒュマノの双方が一定以上の居住数を有している。

「お〜い、そこの貴方、もしかしてスティードマンさんじゃないですか?」
『シーッ!静かにしてくれ。今はオフなんだよ』
「やっぱり!ご高名はかねがねお伺いしてました」

エドの下に駆け寄ってきたのは彼と同年代の痩せた男で、赤い短髪と少々気弱そうな顔がエドにとっての彼の第一印象だった。

「僕、ピオ・マルティネスって言うものです。ささやかなものですが、僕もロックバンドをやってるんです」
『なるほど?それでなんか俺に用があったのか。サインが欲しいならちゃんとステージに来な、一応商売なんだからよ』
「それはもちろん喜んで聴きに行きますよ!ただ、今回は他にもお願いしたいことがあって」
『他に"も"って随分強欲なヤツだなオイ。わかってんだろうな?』
「ええ、場所を変えますか。奢りますよ!いい店を知ってるんです」
『奢りだな?それなら、まあ話くらいは聞いてやる。ヒマだし』


『なんだい、いざ口を開いてみれば色恋沙汰かい。そりゃ頼む相手が間違ってるぜ』
「そう言わずに。スティードマンさんだからこそですよ。一生のお願いです」

カフェの天井に据え付けられた大きな白いファンが水平回転する下で、エドはピオの斜向かいの席に腰掛け、彼の恋煩いに関する長々とした陳情を聞かされ続けていた。ヒマだと言ったのは生憎エドの方だったので、途中で席を立つのは流石に憚られた。ヌートリアとヒュマノの双方に対応するために高さを可変にしてある椅子ばかりだったので、長時間座っていると安定性に難が生じるのも気を散らす原因の一つだった。

『てめえの言いたいことを整理するとだな、今晩てめえが自分でライブを開いてお相手のかわい子ちゃんにプロポーズする、そこまではいい。なんでそこに俺が頭突っ込んで演奏しなきゃいけねえんだ?』
「ヒュマノ・エン・カプリョのメンバーは全員ヒュマノです。この国、ヒュマノとヌートリアには互いに敵対意識を持つ人がまだ結構いまして。ほら、この前には毛皮狩り事件カワウソ・ウォーもあったことですし」
『じゃあ、必要なのは奏者じゃなくて護衛じゃねえかよ。荒事は別に好きじゃねえぞ』
「いや逆なんです。ヌートリアの皆さんもロックは好きなんですよ。実際、僕らのライブも決して大きくはありませんけど、カワウソもヒトも同じくらい毎回来てますよ。ですから、ヌートリアが危険なのが問題ってわけじゃないんです」
『だったら何なんだよ』
「はい、非常にお恥ずかしいことなんですが…肝心の僕の相手の方が、筋金入りのヌートリア嫌いの人なんです。普通にライブを開いたら、彼女が他の観客の方々にどんなことを言うかが心配で心配で…」

ピオはそれまでにもまして消え入りそうな声で話を続けている。本当にこんな状態の男がバンドマンなんて務まるのか、エドにはそれも確かなことに思えなくなりそうだった。

『あー、言いたいことはなんとなくわかってきたぞ。要は俺がステージに立ってカワウソ避けになって、恋人は人間の中だけでいるようにしてくれって話だろ』
「有体に言ってしまえば、そうです。さっき初めて貴方に会った時の様子からして、貴方の演奏スタイルはヌートリア相手には少し相性がよくないようでしたので」
『ひっでえ言い草だなオイ。しかし、てめえがなんでそんな女を好きになったのか、気が知れねえぜ。ひょっとして顔で一目惚れか?まさか身体目当てじゃねえだろうな』
「それは違いますよ。彼女の意志の強さには憧れるところあるんですよ、程度ってものはありますけどね」

エドの胸中はとっくの前から決まっていたが、並べ立てる理由の方も滑らかに思いついていった。

『ま、ともかく、奢ってもらっといて悪いが、その誘いには乗れねえな。カネ積んでもダメだ』
「どうしてですか」
『一つ、俺は今ぼっちだ。バンドの残りのメンバーはイギリスに残ってる。ボーカルだけじゃまともな見せ物にならねえ。二つ、俺は世界一のロックスターになる男だ。だから俺の演奏を聞いたやつはヒトだろうがカワウソだろうが俺に心酔するに決まってる、だからてめえの期待してる効果は得られねえ。三つ、てめえの恋路のお膳立てを他人に頼むな、一から十まで全部てめえでやれ。以上だ』
「うーん、そこをなんとか…」
『ダメっつったらダメ!ったく、ヘナチョコなのも顔だけにしてくれって』

ピオの制止も聞かずにエドは席を立ち、店の出口へと向かっていった。しかし、途中で踵を返してピオの元へ戻ってきた。

『つっても、一応は奢ってもらった身だからな。ヒマなのも確かだし。てめえらの演奏は聴いたことなかったから、見にだけは行かせてもらうわ』
「見に来るだけ、ですか…」
『てめえのためにじゃねえよ、俺がてめえらから何か学んで血肉にできると思ったから、ってわけ。それに、へっ、そこいらのカワウソなら、俺の肉を見るまでもなく顔と頭だけで逃げるだろうよ』
「う、うーん…?」
『んじゃ。行けたら行くわ』

支払いをピオに任せ、遠目からでも目立つ白黒の長髪を揺らして店を出ていくエドの後ろ姿を見て、ピオは己の不躾さを悔いつつ、ロッカーとしての在り方についてエドの立ち振るまいを考えていた。

「噂通り、自意識の凄く強い方なんだなあ。人のために演奏してるように見せかけて、その実は全部自分のためなんだ」



「落ちてきそうな空の下で、君の顔だけが見えていた」

ヒュマノ・エン・カプリョ繭の中のヒトが現在立っているバルセロナの路地のライブハウスには、その手狭さの割にはそこそこ多くの聴衆がやってきていた。知名度はさほど高くなく、あくまで一地方止まりのバンドではあるものの、ひ弱そうなメンバーの風貌に反して力強く朴訥で、なおかつ完全に非超常のライブ演奏は、ヴェール崩壊により激変した世界を生き抜く上での一つの清涼剤として、愛好する地元ファンが多かったのだ。

「大団円のガワだけの世に、君の顔だけが見つからない」

リード兼ボーカルとして自分のコンサートの中心に立つピオには、色とりどりのシャツを着た聴衆に、毛皮のあるものとないものが半々程度に入り乱れているのが見えた。いつも通りの、今回に限ってはありがたくない光景だ。そのうえ、例の白黒の髪がどこにも見当たらないことに落胆を覚えていた。ピオの方もピオの方で、たまたま出会ったエドが自分に協力してくれる可能性が低いのは十分に理解していた。さっきの申し出も、ダメでもともとだ。しかし、結局のところ彼が独力で、かつ合法的に自分のライブ会場からヌートリアを除外する適切な方法は他に存在しなかった。全くの非ヒト生物がヒトと同様な人権を持つ世界にあって、元人間であるヌートリアもまた基本的人権を有するのは当然の摂理であり、種族差を理由に彼らを締め出すのは蔑むべき差別であるとみなされるからだ。

「ああ、振り向いてよハニー、君の顔こそが僕の世界」

シンプルな心情をあけすけに綴った詩を熱唱しているように見せかけながら、ピオは予期していた最も悪いものを見ていた。観客席の右奥の隅のほうで、ヒュマノ女性とヌートリアが口論している様子がチラリと映ってしまったのである。ああキャミィだ、やっぱり我慢できなかったか。女性は会場に浸透する毛皮の民から可能な限りの距離をとるべく、観客席を強引に移動しているように見えた。当然、マナー違反。それに不満を持った口論相手のヌートリアは、終いにはキャミィをライブハウスから叩き出そうとし始めている。ああ、このプロポーズ方法には無理があったのか?でも、自分には他に彼女に胸を張って見せられるものがない。こうするしかなかった。

「…ありがとうございました。次のナンバー、いきます」

彼女のことが気が気でないにもかかわらず、ピオはステージを降りることができない。このコンサート自体、恋人へのアピールに留まらず、普段のファンたちの期待にもしっかりと応えなければならないものだからだ。ピオは常識的な人間であった。自分と自分の大事な人だけのために、大勢の他人を犠牲にはできなかった。

こんなときエドワード・スティードマンならどうするだろう?
答えは、ステージに叩きつけられた無数の肉柱によって示された。

『わりィ!このステージは今から俺がワンマンで借り切るぜ』


ピオには眼前の光景が瞬刻には理解できなかった。一度はにべもなく断ったのに、なぜ今さらになって、というかどこからどうやってハウス内に入りこんだのか、全く見当がつかなかった。しかし、そうこうしている間にも自分以外のバンドメンバーは肉柱によって勢いよく、しかし丁重に押し出され、後には血の色に染められた楽器が残されるばかりだった。観客席の方に目をやると、観客の半数弱が我先にと会場から逃げ始めていて、キャミィと口論していたヌートリア、そしてキャミィ自身もそれに含まれていた。一方、残りの人々は自分が目にしているものの希少さを知っていたので、ピオたちに向けたものと同等か、あるいはそれより遥かに激しい声援を肉叢に浴びせかけていた。そして会場の喧騒が僅かに和らいだ時、見知った白と黒の髪が、血液をこびりつかせながら現れた。

『やあやあ、スペインの皆さん、ごきげんよう。初めましての人も多いか?だったら教えてやろう、俺の名を!』
「エドワード・スティードマンさん!どうしてここまで来てくださったんです!」
『オイィ!名乗りくらい自分に言わせろやァ!格好つかねえだろ!』
「す、すいません!」

流れでピオはエドワード・スティードマンに対してステージ上で頭を下げる形になってしまった。まあ、両者の知名度とか格の違い等を考えれば別に不自然ではない。エドは観客の群れに向き直って叫んだ。

『俺の演奏が、カワウソの耳にどう聴こえるのか、俺は知りてえんだ!演奏が終わったらチェックするからな!耳穴かっぽじってよく聴いとけや!』

シャウトが終わらないうちに、ステージ上の肉塊は再び高速で変形を始め、血に塗れた生楽器を取り込み、骨は飛び出し腱と皮膜が張り巡らされ、たちまちのうちに即席のフィルハーモニックを作り上げた。ピオは映像でならインバース・ゼノの演奏の様子を見たことは何度もあったが、実物は初めてであった。しかも、今回は普段と違う…奏者はエドただ一人だけだ。単純計算で、普段の4倍以上の肉を操血術ヘモマンシーしていることになる。今や会場は一帯が赤と白、そして僅かな黒に包まれ、いつの間にか観客席からはピオの様子は見えなくなり、敢えてそちらを見る人もいなくなっていた。ピオがまごついていると、エドはスタンドマイクから少しだけ離れて、彼にしては不釣り合いに優しい声で囁きかけてきた。

『ピオさんや、てめえは今は用済みだぜ。とっととステージから降りな。もう会場はジャックしたからよ』
「えっ、そ、それは」
『いいから行ってこいや。てめえの大事な人が待ってんだろ』
「は、はいっ、ありがとうございます」

結局、ステージの本来の主役は人知れず舞台から降りた。ピオはホールから走って出て、肉のフルコーラスに沸くかつての聴衆の間を縫って進み、ハウスの外に向かった。いざエドの大音量の演奏が始まってみると、最初に逃げた客たちも目の色を変えて(未だに恐々としながらの者もいたが)ステージへと引き返していくのが目に映った。これが格の違いか。確かに彼は世界有数のロックスター、もしかしたら世界一かもしれない男だったんだ。


『O〜o〜o〜o〜ooo〜』

普段よりも若干テンポが遅めなことを除けば、おどろおどろしさを隠さない普段通りのインバース・ゼノ特有のスクリーム・コーラスが、ライブハウスの外まで朧げに響き渡る。それをバックに、ピオ・マルティネスはガールフレンドのキャミィの目前へとたどり着いた。

「キャミィ、…聴きに来てくれてありがとう」
「ピオ君。貴方の演奏は素晴らしかった。前から言ってた通りね。実家を抜け出して来た甲斐はあった」
「そうか…よかったぁ」
「ただ、ちょっとだけ惜しいところがあった。会場にこんなにたくさんの毛むくじゃらがたむろしてなきゃ、ね」

キャミィの目は冷ややかであった。その斜め後ろでは、先ほど会場で論争をしていた一人のヌートリアが彼女の方を睨み続けていた。少しの間のあと、ヌートリアの方がピオに向き直り、ヒトに比べて小さなカワウソの喉から発される黄色っぽい声をかけてきた。

「ピオさん、知り合いかい?この人、僕達を延々避けてるみたいで、会場をすごいペースで歩き回ってたんだよね。人の迷惑を考えられないものなのかね」
『俺はお前を…呑み込む…今や全ては俺の糧だ』
「申し訳ありません、僕から謝ります。彼女には後できつく言っておきますから、どうか」

当人に聞こえないように小さく、かつエドのリードボーカルにかき消されないギリギリの声量でピオはカワウソに囁き、カワウソ側もライブ主催者じきじきの謝罪ならと、ひとまずは矛を収めたようで、ピオとキャミィを置いて会場の中へと一人で入っていった。

『Dudu, Da, Da, Da, Da, Da, Du'du, Da, Da, Da, Da, Da, Da』

熱量のある群衆があらかたハウス内に収まったところで、ハウスの外にはピオとキャミィが残った。本来なら、プロポーズにおける最後の詰めを行うべきところだ。しかし、互いの矢印の強さは、その結束を確実なものにするのには足りそうになかった。おかげでピオは、告白する相手に対して小言から入る羽目になってしまった。

「わかってくれるかい?ハニー、僕には君しかいないんだ、だからヌートリアについてあれこれ文句言うのはそろそろやめにして欲しいんだよ」
「人間は人間の面倒だけ見てりゃいいのよ。なんでカワウソどもの世話をしなきゃいけないわけ」
「これからは誰でもが彼らと一緒に暮らさないといけないんだよ。だいぶ前からそうなんだ。僕だって、彼らが大好きってわけじゃないけど…それにしてもさ」
「もういいわ。私は、毛皮と関わり合いにならなくてもいい人に会いに行きます。ごめんね、改めて言うけど演奏は良かったから」
「そんな、ちょっとくらい待ってくれよ」

『そして…中指を立てる』
「全く、もう…中指立てたいのは僕の方なのに」

エドの歌までも、中途半端に心に刺さる部分ばかりが聞こえてくるようであった。彼に責任はないことはピオには重々承知の上であったが、それでもプロポーズ・ライブが結果として惨憺たるものになったことには不満を表出せずにはいられなかった。ともかく、このあとはまだライブの撤収作業がある。そこまでエドに頼んでしまうわけにはいかない。とぼとぼと独りでステージに戻ろうとしたピオの耳に、甲高くてしかしドスの効いた声が飛び込み、彼の足をすくませた。

「ヒュマノの完璧な身体はいい商売道具になる。引っ捕らえろ!上玉は高くつくぞ」
「独り身の女は狙い目だ」

ピオは振り返る。声の主は既に動き出していた。屈強なヌートリアの群れだ。『カワウソ・ウォー』以降に幅を利かせるようになった、ヌートリアの過激派集団。一番目をつけられてはいけない連中にキャミィが目をつけられてしまった。奴らは彼女が帰っていった方向に走り始めている。野生動物準拠の肉体は、ヒュマノよりも圧倒的に素早い。追いつけるわけがない。

「やめろ!」

無理を承知で、ピオはカワウソたちを追い始めた。いくら聞き分けのない彼女だったとしても、それだけはダメだ。しかし、結果としてピオの身体はそれ以上前に進まなかった。ライブハウスの入口と窓から飛び出した多数の肉塊が、ピオの移動速度よりも遥かに早く彼の頭上を通過したからだ。そして、…それらはピオの少し先で直ちに停止した。肉の触手たちは、ヌートリアたちを捕らえられるほど遠くまでは伸びないようだった。偽りの希望が崩れ去る音が聞こえた。

『…に唾を吐く…新たな世界が…俺を待ってる』
「…」

切れ切れのボーカルソロが、それを聴く一人の男の、決定的に抉れた心を映し出していた。



「いやー、俺らの知らないところで凄いことやってたんだってな?聞いたぞエド」
『ん』

リードギター担当のグレンズはALKONにアップされた大量の動画をエドに見せながらそう呼びかけていた。スペインの単身旅行を終えて英国へ戻ったエドは、ウェンブリーの舞台袖で同僚からの質問攻めに遭っている。

「ほら見てみろ!新聞にもデカデカ出てる」

ドラムのマッカーシーが手に握っていたのは、ネットニュースで印刷してきたスペインの新聞『エル・ムンド』の1記事だ。

…… 10日の23時まで開催されていた「ヒュマノ・エン・カプリョ」によるコンサートライブ中、聴衆のヒュマノ女性1人が行方不明になっていたことが、11日夜に判明した。被害者のカミラ・ロブレス氏(21)は当該コンサート会場を訪れた後、翌日の昼になっても帰宅していないことを家族に通報され、今回の事態が発覚した。同コンサートには数百名の観客が参加しており、この中にいた複数のヌートリア男性の集団が事態に関与しているのではないかと見て、バルセロナ市警は捜査にあたっている。カタルーニャ州の各地では、『カワウソ・ウォー』後に頻発するようになったヌートリア集団によるヒュマノへの報復行為がかねてから問題となっている。

なお、このコンサートライブ中、英国のロックバンド「インバース・ゼノ」のメンバーであるエドワード・スティードマン氏(19)が会場に乱入し、ステージをジャックして演奏した。聴衆らは思いがけないスターの登場を熱烈な歓迎の声で迎え、スティードマン氏は声援に応えてバンド4人分の演奏を独力で再現する妙技を披露した。しかし、この一件と失踪事件の関連性は不明である。 ……

「エドにかかれば、俺たちの仕事も全部一人でできちまうんだもんな?スゲーよ本当」
『ん、ああ、まあな』
「負けてられないっすね、俺もベースだけでなく一度思いっきし歌ってみたいっすよ」
『ヘリングはまずてめえの仕事をしっかり果たすところからやれ、未だに弦の本数たまに間違ってるだろ』
「へへ、気ぃつけます」

インバース・ゼノの所属者は敬虔なネオ-サーカイトであり、各々が自分の力を高めることを第一の信条としている。肉操作魔力にしろ、ミュージシャンとしての名声と権力にしろ、最終的にはそれを手にするのは己の腕一つ。メンバー間の絆は確かだが、その中には常に一歩先に立つボーカリストへの羨望と闘争心が見え隠れしており、それらは互いに周知のことであった。その一方、エドを含む彼らの注意は音楽の技量そのものに向いており、エドの立ち会った事件への関心が示されたようには見えなかった。

「目標!俺たち全員がソロでライブ開けるようになる!」
『悪くねえな。まあ頑張ってくれや』
「おうよ」

リード、ドラム、ベースが楽屋に向かっていくのを尻目に、エドは少しだけ舞台袖に立ち続けていた。同僚をいつになく適当にあしらっていたのは、これらの動画や新聞記事が恐るべき事態を示しているという事実を今の段階で知られることが得策でないと本能的に感じたからだった。

『…クソが。マジで身に覚えねえんだけど。俺はピオの野郎の件は適当に断ってそれっきりだったってのに。全然知らねえ所に俺の真似できるヤツがいるってんのかよ』

エドがふるりと身を震わせた理由は、スペインの地で自分の名を騙って活動する不届き者がいたこと、それ自体ではなかった。その不届き者が、今の自分には到底不可能なソロでのフルコンサートを実演してみせたらしいこと、そちらの方が彼にとっては問題だった。"俺より強いヤツがこの世にいる"、弱冠19歳のオンリーワン・スターが世界の広大さを知った瞬間であった。

『ヤツがどんな人間だろうが、俺はそいつには負けらんねえ。何年かかってでも、ゼッテーに追い越してやる』

エドワードはたった今できた新たな目標を胸に秘め、自らのロックを追求する日々へと身を引き戻すこととした。

 
 
 

夜明けまではまだ遠い。まばらな街灯とそれより目立つネオンの立ち並ぶ街道を、二人の男が走っていた。片方は背の高い金髪で頬に複雑な刺青を入れており、もう一方は白と黒に染め分けた髪に、血のような赤い滲みを迸らせている。彼らの後を追ってくる群衆は、ヒトもカワウソも一緒くたになった雑多な者たちだった。彼らの願いは、シケたライブハウスに突如として現れてオンリーワンの演奏を繰り広げたロックスターからサインを貰うこと、それが無理ならせめてもう少し近くでご尊顔を拝むことだった。

「助けないのか!?何のためにお前をここまで連れてきたと思ってんだ…」
『気が変わった。やっぱ、俺の道から外れるやり口は真っ平ごめんだ』
「こいつめ…」

刺青の男は走りながら自分の胸元をはだけさせ、そこにはっきりとした陥凹を生じさせた。窪みは赤黒く、それはたちまちに男の背中を明らかに貫いている深さまで成長したものの、男に風穴が開く様子はなかった。その間にも男は相方の叱責を続け、"エド"はそれを飄々と受け流していた。

『何者でもない奴になっちまったら自己中を突き詰められなくなるだろ。俺はもっといいやり方を思いついたのさ』
「新しい枝を作ることよりいいやり方を?」
『俺についてきてくれるなら、見せてやるよ。きっと腰抜かすぜ』

"エド"は刺青の男の胸に頭から突っ込み、その姿はたちまち消え失せた。成人一人分の肉体を受け入れた男はすぐさま手近の路地へと飛び込んだ。そういうわけで、ロックスターに一目会いたいという人々の夢は残念ながら叶わなかった。追いついてきた群衆が発見したのは、路面に広がる褐色の有機物でできた泥の溜まりと、そこから仄かに立ち登り、蒼白に歪み揺らめく光条だけであった。その光は、街灯よりもネオンよりも、そして沈み始めた月よりも、明らかに儚く、しかしそれでいて確かな輝きを放っていた。


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