蝙蝠であるとはどのようなことか。暗闇の中で反響定位によって物体の位置を知る蝙蝠は、放った超音波の反響を"視ている"のか、それとも"聴いている"のか。蝙蝠でない我々は蝙蝠の主観的経験を知ることができない。我々が蝙蝠にならない限り。
さて、この思考実験を、次のように言い換えても結論は変わらない。
パルプであるとはどのようなことか。
あの時、あの瞬間、私は咄嗟に、自分は死んだのだと思った。異常オブジェクトの暴走によって遺体も残さず死んだ幾千人の研究者達。冷たい慰霊碑に連なる彼らの名前の最後尾に、"神宮寺綴"の四文字が小さく刻まれる様がありありと想像された。あのオブジェクトの能力は、担当研究者たる私が一番よく知っていた。哀れな曝露者を一瞬で植物繊維の塊、すなわちパルプへと変換する。それが死と同義ではないと、そのときの私がどうして想像できただろうか。
だが私は死んでいなかった。何も見えず、何も聞こえなかったが、確かに意識があったし、周囲の様子を明確に把握できていた。繰り返すが、私は視覚も聴覚も、いや、それどころか全ての感覚を失っていた。それなのに自分がさっきと同じ研究室の中にいて、他の研究員が大慌てでオブジェクトを封じ込めている様が手に取るように把握できた。研究員達の悲鳴と怒号がはっきりと認識できた。それは私が今まで持ったことのない感覚だった。惜しむらくは、私はその感覚をうまく言語化することができない。いや、私でなくとも、他の誰にもできやしないだろう。この感覚は、パルプになってみないと解らない。
さて、パルプになった私はしばらくして、どうやら今の自分には知覚する能力はあっても運動する能力は一切ないようだと気付いた。これはとても困った事態だった。これでは、私が決して死んだわけではないということを誰にも伝えることができない。このままいつまでも、誰にも気付かれず朽ち果てるまで一生孤独なままだという可能性に思い至った。気が触れるほどのもどかしい時間が過ぎて、私は参考資料として、容器に詰められて倉庫の奥へ放り込まれた。
その日の夜だ。真家くんが私のいる倉庫にやって来たのは。
真家くんについても話しておいたほうがいいかな。真家摩耶子。フロント企業からの引き抜きで、うちの研究室に配属された研究員だった。私の助手、いや、秘書と言ったほうがいいかもしれないな。彼女はよく働いてくれた。とても優秀な人材だったよ。マニュアル人間過ぎるところが玉に疵ではあるのだけどね。ともあれ、私は彼女を信頼していたし、彼女もきっとそうだっただろう。
事故が起きた夜、彼女は倉庫に現れた。その直前まで私が何を考えていたのかは憶えていない。何も考えないようにしていた気もする。だが扉の開く音と差し込む光、そしてこちらへとゆっくり歩み寄ってくる人影に、私の意識は奪われた。扉が開け放たれた瞬間には、その人影は逆光で誰だか判らなかった。数秒後、それが真家くんの姿だと判った。更に数秒後、彼女が泣いていることが判った。
真家くんは泣いていた。事故の現場に彼女は居合わせていなかったが、他の同僚から経緯を聞かされたのだろう。私の知る彼女は感情を露わにすることの少ない人間だった。些細なミスに慌てるところはよく見かけたが、涙を流している彼女を見るのは、私はそのときが初めてで、そして、今のところ唯一だ。彼女は私の前で、つい半日前まで私であったパルプの前で跪いて、容器ごとパルプを抱いて、泣いていた。彼女は嗚咽を漏らすばかりで、言葉をほとんど発さなかった。何度か「どうして」と呟いていたかもしれない。それでも彼女が流す涙の原因が私の死であることくらいは簡単に理解できた。
上司が一人死んだくらいで泣くんじゃない。財団の職員にとって、個人の死は悲しむべきものではない。そんな風な説教を、彼女もこれまで研修で散々聞いて、理解しているはずなのだ。けれど彼女は、いや、だからこそ彼女は、この誰にも見られない部屋の中で、人知れずこっそりと涙を流したのだろう。きっと業務が終わるまでは他の同僚達と共に、泣き言ひとつ漏らさずに、普段と変わらない態度で私の殉職の後処理をしてくれていたのだろう。この部屋に入ってきたときには、彼女の薄化粧はまだどこも乱れていなかったから。
二時間か、三時間くらいが経っただろうか。彼女はずっとそのままだった。当直の警備員が見回りに来て、彼女は適当な言い訳をしながら倉庫を後にした。私は眠った。瞼は閉じられなかったが、不思議なことに眠ることはできた。夢は見なかった。
翌日から、彼女はときどき私の許を訪れるようになった。だが何時間も居坐ったりはしない。試料の点検と称して、一日ほんの数分間だけ。彼女は私の前に立って、何をするでもなくただ立って、そして帰っていく。私は神社の御神体にでもなった気分だったよ。まあ状況としてはあながち間違っていないのかもしれないが。自我を持ったパルプなんて、それこそまさにアニミズムじゃないか。
概ね三日に一度のペースで、彼女はやってきた。会うたびに彼女の顔からは悲しみが薄れていって、その代わりに何か、決意のようなものを抱いた目をするようになった。私は眠っていることが多くなっていた。何を考えても無駄だったから。そうして日々は過ぎていって、やがてその日が訪れた。
その日、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえて、眠っていた私は目を覚ました。一瞬の間を置いて私は強い違和感を覚えた。何せ自分の名前を呼ばれるというのは、かれこれ一ヶ月ぶりのことだったから。しかし聞き間違いではない。確かに聞こえた、「神宮寺博士」と、聞き憶えのある、彼女の声で。
目を覚ますと彼女が立っていた。いつになく力強い表情で、私のほうを真っ直ぐに見て、こう話した。
「神宮寺博士。聞こえていますか。聞こえていませんか。貴方は死んでしまった。こんな姿になってしまった。貴方のあの顔を見ることはもう二度と叶わないのでしょう。ですが、変な話ですが、私にはなぜだか、貴方が死んでしまったとは、貴方の意識が跡形もなく消えてしまったとは思えないのです。かつて貴方だったこのパルプが、まだ貴方として、貴方が行っていた思考をまだ引き継いで行っているかのように思えて仕方がないのです。根拠はありません。百パーセント本気で思っているわけでもありません。だって確かめようがありませんから。でも、神宮寺博士、私は貴方に傍にいてほしい。馬鹿だと思われるかも知れませんけど、研究者として、財団の職員として、私は貴方から多くのことを教わって、そしてまだ教わっていないことが沢山ありました。神も常識も、物理法則すらも信じられないこの職場で、貴方は確実に私の心の支えでした。私は理屈っぽくて、頭が固くて、そういう人間は異常なオブジェクトと付き合っていくには向いていないということも、だから博士が私に事務仕事ばかり回して実験から遠ざけてくれていたことも、私はちゃんと知っていました。だけど、ごめんなさい、神宮寺博士。私は重大な職務違反を犯します。もう一生研究者に戻れなくなるかもしれない。でも、それでもこうするしかないような気がしてならないんです。この先、私が狂ってしまわないために」
彼女は私の入った容器を抱えて、私を倉庫から運び出した。できることなら分別を失ってしまっている彼女を諌めて、財団職員にあるまじき行動を思い留まらせたかった。だがそのときの私には彼女を呼び止める能力すらなかったのだ。幸か不幸か。そう、まさしく幸か不幸か。
私はどこかの工場へと運ばれた。そこが製造部門の製紙製本工場だと知ったのは、私が現在の姿になった後のことだ。彼女は一体どうやったのか、その工場の従業員数人を丸め込んでいて、私は私以外の普通のパルプとは別のラインで加工された。痛みは特に感じなかったが、あの過程は余り気持ちのいいものではなかったな。そうして私は一冊のハードカバーに生まれ変わった。
彼女はその後、本になった私を回収して自分の手許にずっと置いておくつもりだったのだろう。だが本としての私が完成する頃には、とっくに計画は露見していた。彼女はやはり平静さを完全に失っていたのだろうな。内部保安部門の監視の目を逃れるのが並大抵の努力では不可能だということくらい、普段の彼女なら考えるまでもなく理解できていたはずだ。私は駆け付けた監察官達に回収されて、そしてここに送られてきた。ここに来る途中のことだよ、こうして自分の思考を文字として浮かび上がらせることができると気付いたのは。だから君がこうして私を開いてくれたことには本当に感謝している。折角会話能力を取り戻したのに、今度は永遠に本棚の中なんて御免だからね。
それから、彼女にも感謝しないといけないな。彼女の行動自体は厳しく糾弾されて然るべきものだが、それでも彼女のおかげで、私はこうして復活することができた訳だから。真家くんは私の命の恩人だよ。
今後は、できたら研究者に復帰したいと思っているところだ。こんな姿でもできることはあると思うし、やり残したことも山程あるんだ。
さて、こんなところでもういいだろうか。所々掻い摘まんだが、私の経験したことは全て話したつもりだよ。いや、"話した"というより"書いた"と言ったほうが適切なのかな、この場合は。
「なるほど。よくわかりました。詳細な証言をありがとうございます」
なんとか冷静さを保ちながら手許の本に向かって語りかけると、その紙面に〈こちらこそありがとう〉という文字が浮き出た。小さめの明朝体で記されたその一文から、神津捜査員はしばらく目を離すことができなかった。ここは内部保安部門の参考資料保管庫。静かな部屋の中で、驚きのあまり加速した心拍の音だけが聞こえている。出入り口のほうからカードキーの開く音が聞こえて、別の職員が部屋に入ってきた。
「神津くん、久しぶり。どうしたの本なんか読んで」
「ああ、串間さん。ちょっと真家摩耶子事件の捜査の助っ人を頼まれてまして。そしたら、これ」
神津捜査員は手にしていた本を閉じ、串間監察官のほうへ背表紙を掲げる。そこに記されていた題名を、串間監察官は思わず声に出して唱えていた。
「神宮寺綴、って、これは」
「中には神宮寺博士の一人称で、今回の事件の詳細な経緯が書かれていました。内容はこれまでの捜査で判明した事実と一致しています。最初は一種の伝記のようなものかと思いましたが、驚くべきことに、意思の疎通が可能でした」
神津捜査員の推論はもはや確信に変わっていた。目の前の串間監察官も、きっと同じ結論に至っているだろう。俺はこれからどうしたらいい。まずは捜査本部に急いで報告して、それから関係各所に連絡だ。神宮寺博士の研究室と、人事部門と、そして誰よりもまず、真家摩耶子に。
神宮寺博士が生きていた。このことを伝えたら、彼女は一体どんな反応をするのだろう。あの日以来ずっと強張っていた彼女の表情が驚きと喜びでぐちゃぐちゃになっている様子が、神津捜査員の脳裏にありありと想像された。
結構じゃないか。この非情な世界に、たまにはこのくらいの救いがあったって。