「……何故笑っているんですか?」
雨霧霧香は困惑していた。敢えて光度を抑えられた照明によって仄暗い拷問室の椅子に座らせられている男は、これから拷問が始まるというのにヘラヘラと笑みを浮かべている。彼女にはその様子が酷く不気味に感じられ、同時に強い不快感を抱いた。
「俺はなあ、死なねえんだ」
「……タナトーマを抽出されたのですか」
タナトーマ、正式名称を擬液相性致死的事象というそれは、読んで字の如く擬似的な液体状の”死”という現象そのものだ。専用の器具を用いる事によって対象者における死を液体として具現化し抽出することが可能であり、タナトーマ抽出を生業とする企業の出現によってその概念は世界中に広まっている。そのため、現代では一般的な社会人の収入でも十分に施術費用を賄える。誰でも不死に手が届くようになったのだ。当然、財団と敵対する要注意団体にもそれは知られている。
「そうだ!俺を刺そうが焼こうが煮ようが絶対に死なねえし、痛くもねえ!ありとあらゆる死から解放された俺は不死身だ!」
雨霧はナイフを取り出し男の指にあてがうが、刃は蛆虫のように蠢くそれを切り落とすことは無かった。タナトーマの抽出は死に付随する損傷すら防ぐ。
「効かねえって言ってるだろうが間抜けが!」
男は舌を突き出して雨霧を挑発する。その態度からは恐怖は微塵も感じられない。本心から拷問やそれを行う雨霧を恐れていないようだ。
その後バーナーによる火炙りや爪剥ぎなどのノーマルな拷問を幾つか試していくものの、男には傷一つすらついていない。
「意味ねえんだよ!銃で撃たれたしハンマーで頭をぶん殴られたこともある。でも何ともねえ。この無敵のボディーの前では何もかもが無駄だ!」
啖呵を切る男を横目に雨霧はため息を吐く。そして、パラノーマルな方法の準備を始めた。
布に覆い隠されたキャスター付きの台から覆いを取り払い、隠されていたものが露になる。それは紺色の液体で満たされた何本もの小瓶と空の注射器だった。小瓶のラベルを目にした男が一瞬たじろぐものの、すぐに調子を取り戻す。
「タ、タナトーマか。それがどうした、こっちは高い金払って一流の技術で抜き取りを受けてんだ。殺すってんなら最高級のタナトーマがいるぜ。そんなもん拷問に使いつぶせるかよ!使えねえだろ!」
「……ここにあるのは全て低品質な、何倍にも濃縮しなければネズミすら殺せない代物ですよ」
「あ?そりゃあお笑いだな!そんなもん脅しにすら」
「拷問というのは何も相手を殺す必要は無いんですよ。むしろ死なれては困ります。知っていますか?上質なタナトーマを抽出した動物に、低質なタナトーマを注入するとどうなるのか」
「……お前、俺に何しようってんだよ、おい!」
拘束されたままガタガタと体を揺らす男の額には水滴が浮かびあ上がっている。彼は目の前の女が発する静かな、それでいて燃え盛る業火のような気迫に気圧されていた。
雨霧は注射器でゆっくりと液体を吸い上げると、小瓶から抜いて蓋を閉める。そして男の右腕に針を突き刺し、タナトーマを注入した。小瓶には「焼死」と印刷されたラベルが貼られている。
「ああああっ!ああああっ!」
男の全身が燃え上がる。痛みから逃れるように身を捩るも、拘束されていてはほんの少し動くので精いっぱいのようだ。火が消えるとそこには傷一つない男が座っていた。しかしその表情は驚愕と恐怖に染まっており、目は限界まで見開かれている。
「どういうことだよ、何が起きたんだよ。い、今の何なんだよ!」
雨霧は男が燃えている間に先程使った注射器を台の下段に置き、新品の注射器で別の小瓶からタナトーマを吸い上げていた。
「上質なタナトーマを抽出された動物に下等なタナトーマを注入するとですね、死なない致死的事象が発生するんですよ」
雨霧が近づくと男は喚きだした。
「し、知らない!俺は下っ端で何も知らされてな」
雨霧は注射器を男の左腕に刺し、タナトーマを注入する。男の顔はこれから襲い来る痛みへの恐怖でみるみる青くなっていった。そして、男の全身の皮膚が、爪が、一瞬のうちに剥がれる。悲鳴を上げようとする男の口に、雨霧はいつの間にか取り出したマスク型の器具を装着させる。器具を取り付けられた男は声を出すことが出来ない。それだけではなく、呼吸すらできなくなっていた。その状態で5分程経つと、男の体は元通りになっている。呼吸を封じられたにも関わらず男は生きている。
「……下っ端が幾つもの上質なタナトーマを抽出できるほど稼いでるわけないだろうが」
雨霧は冷淡に言い放つと、先ほどと同じように注射器を取り換え小瓶からタナトーマを吸い上げていく。その小瓶には「窒息死」と印刷されたラベルが貼られていた。
「殺してくれ、という奴もいっぱいいました。特にお前のようなタナトーマを抽出してイキがってるのは哀願することが多かった。まあ、それは無理な相談ですが」
雨霧は男の首に針を突き刺し、タナトーマを注入する。
使用した道具の洗浄やタナトーマの補充要請などを終え、シャワーを浴びて服を着替えた雨霧は後回しにしていた仕事を処理することにした。気だるげな様子で椅子に座り報告書を作成しつつ彼女は考える。
(タナトーマというものが現れてから、私の仕事は随分と容易くなった……みんな死の心配がなくなって、死に纏わる恐怖からすっかり遠ざかっている。その上、誰にでも気軽に死ねない恐怖を味わわせる事が出来るようになった)
ペンを滑らせる手が止まり、彼女は独り言ちる。
「死にたくないからタナトーマを抽出して、そのせいで死にたくなるほどの苦痛を味わうなんて皮肉なものね」