彼は冷たく空虚な世界に生み落とされた。彼の居場所、というものは無意味な言葉で、彼が知っていた場所はほんの二つに過ぎなかった。彼の不毛な棲み処と、異質な外の世界だけだった。彼がどこにいたのかも、なぜ彼がそこにいたのかも、彼が誰なのかさえも知らなかった。知っていたのは、彼は他人の語ることを、それがどこだろうといつだろうと、聞き、理解することができるということだけだった。彼は絶えず警戒し続けていた。より多くの情報を探し求め、誰かが彼自身を理解する手助けをしてくれまいかと待ち望んでいた。
こうして彼は日々暮らしていた。世界中に耳を傾け見張っていて、迷宮を解き明かす鍵が齎されるのを、いつか誰かが自己という存在への疑問に答えてくれるのを待っていた。けれども、彼はしばしば落胆せざれるをえないのだった。彼はとある本の中の話を目にした。それは高く、暗い、怪物の話だった……だがそいつは歯や鱗を持っていて、呪われた森の奥で臓物を引き裂いているのだった。彼には形といったものはなく、似通ったものどもの命のかけらを手繰り寄せているだけであった。最後に彼が人に出会ったとき、その人々は叫びながら彼方へ走り去ってしまい、オレンジ色のつなぎは二度と姿を現さなかった。
それでも、彼は待っていた。彼は考えた。いつか誰かが彼のことを理解し、彼にその本性を知らしめてくれることだろうと。早晩、彼の抱えている大きな謎も解き明かされ、彼の人生に達成感というべきものがもたらされるに違いない。
いつの日か、誰かが彼の名を呼ぶだろう。
…もしそれが、厳重な管理の下彼の存在そのものを保とうとする財団の精力的な努力によるものでなければ、繰り返されることもなかっただろう。
歴史的、伝染性情報災害は財団にとってとりわけ収容の難しいアノマリーである。読む者を守るためのその文書でさえ、新たな犠牲者に情報を植え付け、害毒を拡散せしめる援けとなる恐れがある。封じ込めはしばしば、クリアランスレベルの制限と記憶処理剤の濫用に至った。 - 人は己の知らないことによって傷つけられることはないのだ。
見ざる、聞かざる、言わざる。
財団とその庇護者にとっては幸運なことに、2020年代の末にはすべての伝染性情報災害が効果的に無効化され、この組織においてとりわけ複雑な収容プロトコルのうちいくつかが、簡略化されることとなった。誰にも二度とその危険なアイデアを他者に伝えることはできなくなった。けれどもこれは、世界中で何についてであれ全くもってコミュニケーションがとれないという事態の副産物に過ぎなかった。
彼は徐々に、己に何かしら関係のある言及が為されるのを聞くことが、己の関心を惹くような話を目にすることが、減りつつあることに気が付き始めた。彼にまつわる情報の流れは涸れつつあり、それと同じくして、彼が閃きを得る機会もまた失われつつあった。
彼は、コミュニケーションに終焉が差し迫っていることも、それを保とうとする必死の試みも知らなかった。彼は、必死になって"愛している"や"お昼何食べた?"などと言おうとしたり、方向指示器を用いようとさえしたりしていた人々のようには、恐怖を覚えていなかった。
彼が感じていたのは、耳に痛いほどの静寂と感覚を失うほどの蒙昧であった。
彼はもはや自分の名前が呼ばれるのを聞くことはない。- その名を呼ぶものはいない。彼はもはや彼自身について読み知ろうとも、彼の来歴について詳しいものを探そうともしない。彼が今後知りえるだろうものは全て、すでに書かれているのだ。
彼はいつも孤独だったが、けして独りぼっちではなかった。声が交わりをもたらし、文字が生きがいをもたらしていた。
今は?
彼は空虚な世界に打ち捨てられた。彼に話し相手はなく、彼のために苦しむものもいない。
そして彼はこの責苦の生から逃れることはできないと考えた。もし彼が人類よりも長く生きたのであれば、彼は己が世界のなにものよりも長く生きると考えることだろう。
彼の生にはなんの意味もなかったのだ。
彼について述べるものがいなければ、彼は何ものでもないのだ。
それでも彼はこれからも、在り続けるのだ。